第5話 WARPED2
待ちわびた土曜がやって来た。
帰りが遅くなるので、愛美は有希の家に泊めてくれるよう頼んだ。
放任主義家庭の有希に対し、愛美の家は厳しい。門限はピアノのレッスン日を除き、夜八時と決められている。外泊もイイ顔をされないので、あらかじめ有希を自宅に招き、母親と面識をつくって信用を得る作戦に出た。有希も判ったもので「快活で良いお嬢さん」を完璧に演じてくれ、そのおかげですんなり許可が出た。
お泊まりセットを持って一旦有希の家へ行き、彼女と一緒にUGAへ向かった。地下鉄を降り、繁華街へ入って南へ二条ほど歩くとお目当てのビルがある。オープンの時間めがけて到着すると、玄関脇に田中がしゃがみ込んでいた。
「あっ、ゆっきぃと愛美ちゃん!」
こちらに気づき、まるで飼い主を見つけた犬よろしく駆け寄って来る。愛美は小さく手を振りながら、彼が有希の言っていた「嫌がらせ」だと直感した。
「うはー良かったあ、俺、一人でここ入るのキンチョ―すんだよねーつうかさっき元クラックのヒトいたよ、俺あのバンド好きだったのになあー何でやめちゃったのかなー」
相変わらずのマシンガンっぷりだ。
田中はにこにこしながら、今日のライブは誰が出るの、とか、雄介に出演記念の花買うの忘れたとか、喉渇いたコーラ飲みたいだとか、どうでも良いことを次々しゃべる。愛美は田中に背をむけて、小声で有希を呼んだ。
「もしかして、ふかざワンに嫌がらせって、これ?」
「ふふふ、そうだよ。こいつマジうざいから、本番前に、楽屋に放り込んでやろっかなって」
背中から噴き上がる黒い雰囲気に、愛美は苦笑いした。
田中は悪い人間ではないが、いかんせんうるさい。何か、黙らせる方法はないだろうか。少し考えてから、ポケットの中からキャンディを取りだし、田中に二粒渡した。
「はい、おすそわけ」
「え、マジ良いの? ありがと愛美ちゃん、うん、ミルク美味っ」
やっと田中のしゃべりが止まった。マシンガンも、口にモノが入ると少しはおとなしくなるようだ。これ幸いと、愛美は有希を引っぱって入り口の階段を下りた。
エントランスには客がたまり、今夜もやはり煙草くさい。ホール入口付近にスキンヘッドの男がいて、数人の男達と話していた。
「あ、コウさんだ」
「田中、知ってんの?」
「うん、あの人だよ元クラック。めっちゃカッコイイドラム叩くんだ……あ、あれムスタングのベースじゃん、それにアンクルヘッド……え、何でこんな大御所ばっかいるの? 今日、ゆーのライブだよね」
田中が焦ってエントランスを見回す。そこへ、雄介が顔を出した。
「よう、チケット……」
「ゆー、会いたかったあああ!」
エントランス中が振り返るほどの大声とともに、田中が雄介へ走り寄って行く。そして飛び付こうとした瞬間、雄介はさっと避けた。
「呼んでねえんだけど、ウザトは」
「そんなこと言わないでえー、イタタタ」
避けられて壁に突っ込んだ田中が、痛みに涙を浮かべて雄介を見やった。
「だって、ゆーのライブに俺が来なきゃどーすんだよっ」
「別に、どーもしねえし。あ、ほらこれチケット」
雄介は田中を無視し、愛美と有希へ手を伸ばした。
「サンキュ。いくら?」
「いらねえ」
「え、良いのホントに?」
「ああ」
「太っぱらだね雄介。って、何この値段?」
ワンドリンク付きとはいえ、チケット代金がアグレッシブアフロの倍近い。有希と愛美が目を丸くした。
「当日、二千八百円って……」
「三バンドだけど、ま、楽しんでけよ」
ぶっきらぼうに言いつつ、雄介は愛美をちらりと見てから踵を返した。そしてジーンズの尻ポケットからもう一枚チケットを出し、田中の額にビタンと貼りつけた。
「イタっ! もう、ゆーったらツンデレ……え?」
田中がチケットをはがし、出演バンドを見て固まった。
「すっげーメンツ……」
「そうなの?」
訝しげな有希に、田中は三回頷いた。
「ムスタングは大御所で、オリジナルのバンドやってる連中で知らないヤツはいないって言われてる。アンクルヘッドはこの間観に行ったばっかだよ、全国ツアーやってたんだ。じゃあこの、サイレントルームってのが、ゆーのバンド?」
田中がビビる。そんなにキャリアのあるバンドと一緒に出るなんて、雄介のバンドも実はすごいのだろうか。愛美と有希がそう思った矢先、階段の方で怒号が上がった。
「ゴラァ、タツ! てめえ何回言ったらリハに来んだよ!」
「イテテテ、ちょ、マテこのガキ、首、首しまっ……」
見れば雄介が、ギターを背負ったタツの頭を抱え込み、ぐいぐい締め上げている。周囲の連中が爆笑している一方で、田中がまた驚いた。
「あれ、あのタツって、元スーサイド・スロウのヒト?」
「スーサイド・スロウ? あのヴィジュアル系の?」
有希も思わず目を見開いた。
スーサイド・スロウは去年末にメジャーデビューした札幌出身のバンドで、デビューシングルおよびアルバムはいまだオリコン上位に入っている。田中の部活でも流行っていて、先輩たちも幾つかコピーバンドを組んでいた。
「俺、中坊んときにゆーとライブ観に行ったもん。ぶっちゃけ今のギターよか、カッコ良かったんだけど……」
田中の目が、雄介に引きずられて楽屋へ連行されるタツへ注がれた。
「違うヒト、かもしんない。噂じゃ、すんごい短気でヤバい人らしいから」
タツは悲鳴を上げながらも、楽しげに笑っている。噂のイメージには程遠い感じだ。
「そんなに、ヤバいの?」
三月のアレを思い出して引きつる愛美へ、有希がにっこり笑った。
「大丈夫だよ、雄介いるし、いざとなったらコイツを身代わりに」
「へ、なにナニ、何の話?」
何も知らない田中が、有希に無防備な笑顔を向けた。
「何でもないよ、とりあえずウザト、頼りにしてるからね」
「え、うん、良く判んないけど、とりあえず俺がんばるね」
「じゃあさ、雄介に会いに、今から楽屋行って来てよ」
「え、ムリムリ、ライブ前とかムリ、他のヒト大御所すぎてコワいもん。終わったあとなら行くーむしろ打ち上げまぜて欲しい」
「……おまホント使えねーウザト」
「うん良く言われる!」
田中は調子良く、有希へ親指を立ててみせた。かくして有希の計画は不発に終わった。
いよいよスタートの時間を迎え、エントランスにいた客達は全員ホールへ入った。三月の時より混んでいるうえ、客の大半は男で、皆ライブに対する期待に浮かれている。三人はこれから起こるであろうモッシュに巻き込まれないよう、ステージに向かって右の壁際に貼りついた。
ステージ上には既に、楽器がセッティングされている。田中は小さくジャンプしながら声を上げた。
「ギターアンプ、王道マーシャルだあ。ベースのは、ヘッド、オレンジじゃんしぶーい」
有希も愛美も無反応だ。だが田中はお構いなしに、一人で喜んでいる。そのうちにBGMがフェードアウトしていった。
「おおっ、コウさん来たあ!」
ホールにコウが現れ、無言でステージ上のドラムへ向かった。明るかった客電がみるみる暗くなり、ステージが青い照明で染められる、ざわついた客席から、期待をこめた野次や口笛がいくつも響いた。
ドン、とバスドラが鳴る。それは断続的に続き、やがてドラム全体でリズムが刻まれた。裏拍を意識したフォービートは、横ノリが心地良い速さだ。そのうちにダグラスが現れ、ベースを背負った。手探りするようになめらかなフレーズが鳴り、それが連なり、ドラムのリズムに乗ってグル―ヴしはじめた。
「やっぱこの二人だよなあーもうサイコーだよっ」
田中が体でリズムを取る。他の客も皆、同じように揺れていくのを見て、愛美も何だか体を揺らしたくなってきた。
今度はそこへ、タツと雄介が現れた。二人とも客席に背を向け、ギターを背負う。先にタツが振り向き、静かにギターのボリュームを上げた。フェードインするノイズは耳に刺さる寸前で、小気味良いリズムに変わる。途端に曲はクラブで流れるハウスミュージックのような雰囲気を帯び、心地よく響いた。
イントロダクションがホールを満たし、客達も心地よく体を揺らしている。しかし突然、雄介が耳を裂くようなノイズをかき鳴らした。
「サイレントルーム、スタート!」
刹那のブレイクから重低音の塊が一気に弾け、ホールへ降り注ぐ。ドン、と一瞬、地面が縦に揺れたような気がした。
イルミネーション――ダンサブルかつ重いリズムに、極彩色を放つギターワークが踊る。ラップとメロディアスなフレーズをミックスした歌のラインは、スラング混じりの英詞だ。まるでクラブミュージックをハードコアでアレンジしたような、気持ちの良い違和感。途端にホールの客達は踊り出し、そのノリに三人も取り込まれた。
気持ち良い。耳も、体も、心まで何かから解放されるようだ。
ホールの熱はどんどん上がる。サビを迎えるたびに雄介が吼え、それを受け止めるように、たくさんの手が突き上げられる。からめ取るようにギターのフレーズが回り、耳を心地良く刺激する。それが突然、途切れた。
「ダイブ!」
雄介の声に続き、ノイジーなギターリフが、今までの心地良さをぶった切った。
ブラストビートが荒れ狂い、ホールではたちまち激しいモッシュが繰り広げられる。それがやがて渦を巻き始めるのを見て、愛美は自分があの渦中にいたのを思い出した。
「うおおお、スゲー! 俺も、俺も行って来るうううっ!」
田中が叫び、渦の中へ飛び込んだ。最高の笑顔を浮かべながら、もみくちゃになってステージへ流れて行く。笑っている、楽しそうだ、とても楽しそう――ふらふらと引き寄せられそうになった腕を、横から掴まれた。
「だめ、愛美はだめ! 危ないっ!」
「えっ?」
「またブチ倒されたいのっ?」
有希が怒った顔で叫んだ。彼女の腕は細く、筋肉などあまりついていないように見えるのに、掴まれた腕が痛い。愛美は仕方なく有希の隣へ戻った。
「もう、マジ危ないんだから!」
またふらふら行かないように、という意味なのか、有希に手をしっかり握られた。まるで捕獲されたみたいだ。そんなに頼りないのか、と自分に少しがっかりしながら、愛美は彼女の横で大人しくステージを見上げた。
二曲めのダイブが終わり、すぐに三曲めが始まった。今度は明るい曲調で、真夏にドライブしながら聴きたくなるような、スピード感溢れるナンバーだ。ギターを弾きながらマイクに向かう雄介は、とても楽しそうな顔をしている。学校では決して見られない、生き生きとした彼を見ていると、何だか胸がドキドキしてきた。
「ヤバい……かも」
彼が動くたびに散る汗がキラキラ光り、消えて行く。瞳には、生きる喜びが溢れている。「ここが自分の居場所だ」と、彼が吠える。あの、スポットライトの中にいることを全身で喜ぶような、強いパワーに圧倒される。
あれが本当の雄介だ――愛美は心からそう感じた。
三曲めが終わり、惜しむ歓声が引いたあと、雄介がマイク越しに話し始めた。
「えっと、俺ら今、二枚目の音源作ってます。たぶん夏休みに……八月に出る、予定」
少し不安そうに、コウを振り返る。コウは水を飲みながら大きく頷いた。
「んで、同じくらいにツアー、あります。詳しくはここの横田さんに、聞いて下さい。あそこに座ってるから」
期待の歓声が上がるなか、雄介が眩しそうに目を細めながら、客席の一番後ろにあるPA席を指差す。すかさずスポットライトが向けられ、ヒゲを生やした温和そうな男が照らし出された。
「あっ、あれっ?」
「イエ―横田アアァ!」
タツが冷やかすように叫び、でたらめなコードでギターをかき鳴らす。それに便乗したダグラスとコウも派手なフィルインを入れ、場を期待で盛り上げた。
「すいません、告知フライヤーとか、急ぎます。えー、関東とか東北とか、あちこちのライブハウスとの合同企画なんで、色んなバンド――今日出てるバンドも全部出ます。皆さん、ぜひ遊びに来て下さい!」
顔を赤くした横田が緊張しながら叫ぶと、客席は歓声でリアクションした。
「うわ、ツアーって、どこ行くんだろ?」
「本州でしょ、今、クマさんが言ってたし」
「あっ、そうかっ」
「もー、可愛い顔してボケてんだから。しっかりしてよね」
有希の呆れ笑いに、ごまかし笑いで返す。そして再びステージの雄介を見やった。
「すごいね、サイレントルーム。そうだよね。こんなにお客さん、いっぱいだし。って言うかふかざワン、学校での姿から想像つかないよ」
「そうだね」
ドキドキが止まらない。雄介が普段よりも数倍格好良く見える。そう感じる一方で、有希が妙に冷めているのに気づいた。
笑っていない。ただ冷静にステージを眺めている。繋いだ手のひらだけが熱く汗ばんでいて、でもそれはもしかしたら有希の熱ではなく、愛美の熱だけかもしれない。
「有希、もしかして、こういう系統の音って、苦手?」
「え? いや、そんなことないよ。別にラウド系嫌いじゃないし、雄介の声も良いと思うし。つうかアイツ、歌もギターもめっちゃ上手くなってるし、観に来て良かったよ」
「それなら良いんだけど……もしかして、今日は誰もアフロかぶってないから、モノ足りない?」
アフロと聞いた途端、有希がプッと吹き出した。
「アフロ! あー、かぶって欲しいねぜひ、特にドラムのヒト、レインボーで!」
おかしそうにクスクス笑っている。愛美も笑いながら安堵した。機嫌が悪いわけではないらしい。もしかしたらたまたま、何か別のことを考えていただけかもしれない。
「じゃあ、あと三曲。ノンストップで行くから……」
「ヨシ来い、ゆー愛してるううう!」
かぶって響いた黄色い声援に、爆笑が起こった。田中だ。いつの間にか目の前まで来て、大きく両手を振り回す彼を、雄介はにらみつけた。
「うぜーぞ田中!」
「うざくってもイイ、雄介あとでサインくれー!」
「いっぺん死ね!」
まるでコントだ。再び笑いが起こるなか、カウントが響き、四曲めが始まった。
――ノンストップで駆け抜けたステージ後半は、モッシュとヘッドバンギングの連続だった。ホールの温度と湿度も、興奮とともにラストへ向かって上がって行った。
最後の爆音が弾け、雄介が叫び、鈍く光る残像とともに消える。まるで夢が終わって行くように感じた愛美の耳に、彼の「じゃあまた」という言葉が響いた。
「……追わっちゃった」
惜しむ気持ちがつい洩れる。照明が落ちたステージで、機材を片づけ始めた彼等をぼんやり眺めていると、有希が手を引っぱった。
「もーあっつい! ちょ、出よ」
「え、あ、うん」
余韻にひたっていたかったが、有希はお構いなしにホールを出て行く。愛美も引っぱられるまま、明るく照らされたエントランスへ出されてしまった。
「あーノド渇いたあ」
有希はポケットの財布から小銭を取り出し、自動販売機でコーラを買った。愛美も飲みものが欲しくなり、財布を出そうとカバンを開き、取り出した。中を見ると小銭がない。それなら千円札で買おうと一枚抜いたとき、誰かが横から手を伸ばし、小銭を投入した。
「ジャマ」
「え? あ、すいません……」
長い金髪に黒革のライダースを着て、濃い化粧を施した女だった。まるで愛美が悪いとでも言うように、イラ立った視線を向けられる。つい引いた愛美に反して、有希が顔をしかめた。
「なにさ横はいりしてきたくせに」
「はあ?」
女は同じコーラのボタンを押しながら、横目で有希を見た。
「何か言った?」
威嚇するように、低い声でゆっくり問い掛けて来る。有希はすずしい顔で女を見返した。
「お姉さん、イイオトナなのに横はいりなんてダサくないですかー?」
「ダレお前?」
「人に名前聞く前に自分が名乗るでしょ、フツー」
「はあ?」
女は取り出し口からボトルをひっぱり出し、有希をぐっと睨んだ。
「ナニお前、あたしにケンカ売ってんの?」
「売ってませんごめんなさい!」
見かねた愛美が叫んだ。怖かったのにくわえて、せっかくライブに来たのにケンカするのは非常にマズいと思った。だが有希は引かなかった。
「ちょ愛美、何であんたが謝るわけっ? 悪いのこのヒトじゃん!」
「良いよ、もう良いから、もう止めようよ!」
「チサトぉ、どーしたの?」
金髪――チサトと同じような格好をした女が二人、彼女の背後から近寄って来た。背の高い方はビデオカメラを、ぽっちゃりの方は赤いヘルメットを持っている。その後頭部には、天使の翼をモチーフにしたようなロゴがペイントされていた。
「なあに、もめてんの?」
「コイツら、あたしが横はいりしたってさ。つうか、トロイ方が悪いんだよ」
「マジか? 最近のガキ生意気ぃ」
三人は愛美と有希を威圧するように立ちはだかった。すると有希は愛美をかばうように立ち、にやりと笑った。
「やだなあ、お姉さん達、ちょっとこわーい!」
かなりの大声に、エントランスにいた連中が振り向いた。それが気に入らなかったのか、チサトは舌打ちして有希の腕を掴んだ。
「ちょっと、外出なよ」
「イヤでーす、つうか腕離してよ」
「オマエむかつくな。ちょっとシメたろうか」
チサトの左に立つぽっちゃりが有希へ一歩近づいたとき、ホールの中からダグラスが出て来た。
「あ、チサトちゃん達、オツカレー」
「あ、お疲れでーす!」
それまでヤンキー丸出しだったくせに、ダグラスに声をかけられた瞬間、三人はすっかり可愛いオンナになった。
「あ、撮ってくれたんだ」
「はい! 今日も格好良かったです、いつもみたいに、よーつべ上げますね」
「サンクス。とっても助かってるよ、ヨロシクね」
「は、はい!」
背の高い方がとびきりの笑顔で頷いた、語尾にハートマークがついている。驚いた愛美と有希があんぐり口を開けていると、スネアとスティックの束を抱えたコウに続き、ギターをぶら下げた上半身裸のタツが現れた。
「コウさんお疲れです、あ、タツさん、お疲れ様でーす!」
コウが頷いて通り過ぎたあと、チサトはとびきりの笑顔で、そしてさっきより一オクターブ高い声でタツへ駆け寄った。
「おー、今日も来てたんだ」
「もちろん! タツさんのこと、どこでも、どこまでも観に行きますから!」
「マジ?」
「ハイ! 今日もすっごく格好良かったですう」
チサトは憧れに目を輝かせ、タツを見つめている。タツは愛想笑いを浮かべながら、ふと愛美達へ目をやった。
「あ、お前……」
「え?」
タツから笑顔が消えた。チサトを押しのけ、こっちへやって来る。愛美は逃げたくなったが、それより早くタツが目の前へ来た。
「……誰だっけ?」
「ええっ?」
本当に覚えていないのだろうか。タツは頭をひねっている。
「あ、あの、三月に……」
「ちょ、愛美!」
自己紹介してわざわざ鼻血の一件を思い出させることはない。有希が焦ったと同時に、タツがあっ、と声を上げた。
「お前ら確か、雄介の友達だろ! 今日来てたのか、全然気づかなかったぜ」
「あ、そ、そうですか……」
気づいてなかったなら、むしろ最後まで気づいてくれなくて良かったのに、と思いつつ、愛美はぎこちない笑顔の下で冷や汗をかいた。それを知らずに、タツはチサト達へ手招きした。
「おいチサトぉ! コイツら雄介の友達だから、仲良くしてやれよな」
「え、雄介くんの友達、なんだ……」
「そ。間違っても外に呼びだして、シメたりとかすんなよ?」
タツに笑顔を向けられた瞬間、ひくりとチサトの眉が上がった。
「もちろん、そんなことする訳ないし。ふふふ、ハハハハ」
微妙な笑い声がチサト達を包んだ。
「じゃーな。あー喉渇いた、ビール飲みてえ、ビール!」
タツはご機嫌なようすで去って行った。チサト達は愛美と有希を無視して、タツの後を追った。
「はあ……」
安堵の溜息をついた愛美の隣で、有希が眉をしかめた。
「ははーん、アイツらあの男の追っかけかあ」
「え?」
「メットに入ってるロゴ、あの男のタトゥーから取ったんだよ。背中にあるやつ」
有希が指差した先には、遠ざかるタツの背があった。確かに、両肩を包むように彫られた翼のタトゥーがある。
「V系とか、良くいるんだよね。ああいう勘違いしたファンの女」
「そ、そうなんだ……」
「つうか、ココにそのノリで来んなっつうの。ババアのくせにマジムカツくわ」
有希が右手を突き出し、高らかに中指を立てたところへ、汗だくの雄介が現れた。
「おつー」
「あ、雄介。ちょムカツく!」
「は?」
「何なの一体、マジムカツく!」
「アァ? 俺が何したよ!」
ステージ直後に理不尽な八つ当たりを受け、雄介もムカついた顔をする。その背後から、雄介のエフェクターを持った田中が現れた。
「ああースッゲー良かった! なんか、好きな人と思いっきりエッチした感じ……」
「コラ田中ぁ! お前が一番悪いんだよっ」
「そうだウザト、テメエが悪い!」
タイミングが悪かった。二人から身に覚えのない怒りをぶつけられた田中は、涙目で愛美を見た。
「え、ええーっ? え、ナニ、何の話っ?」
「あ、あの……まあ、色々あって、ね」
「それ全然判んないよ愛美ちゃーん!」
「うるさい、このウザト!」
「テメエ、今度変なコト叫んだらライブ出禁にすんぞ!」
「あーごめんなさいごめんなさい、ナニか判んないけどごめんなさあああいっ」
田中は身をすくめながら楽屋へ逃げて行く。愛美はそんな彼を不憫に思いつつ、つい笑ってしまった。
そのあと、雄介も楽器を片づけるために楽屋へ行った。愛美と有希、そして戻って来た田中と雄介は、他のバンドを観にホールへ再び入った。
二バンド目のアンクルヘッドはハードコア寄りで、猟奇的なボーカルとコミカルさを取り入れた独特な楽曲が印象的だった。トリを務めたムスタングはツインボーカルで、社会風刺を交えた辛口の歌に、ファンクとメタルを組み合わせたミクスチャー色の強いバンドだ。どちらもその評判に違わない、熱く力強いステージを繰り広げた。
おかげでホールはスチームサウナのような熱気がこもり、ライブが終了したころには、そこにいたすべての人間が汗にまみれ、歓喜の表情を浮かべていた。
「ああー最高だった! ね、ゆー!」
「おう、やっぱすげえよな」
モメていたことも忘れ、田中と雄介が汗の光る笑顔で、ライブで覚えたお気に入りのフレーズを歌う。そこへ出演していたバンドのメンバーが通りかかり、盛大なハイタッチが始まった。すると周囲にいた客達も加わり、ハイタッチの波が一気に広がる。どの顔も満足そうに笑っているなかで、愛美と有希も両手を上げ、知らない客達とタッチを繰り返した。
こんな楽しい体験は初めてだ。そして、何かに熱狂した一体感がこんなに心地良いことを、愛美は初めて知った。
「何だか、みんな仲間になったみたい。全然知り合いじゃないのにね」
「そうだね。ちょっと暑苦しいけどね」
愛美が正直に伝えると、有希は苦笑した。笑っている、楽しそうで良かった。小さなトラブルもあったけれど、最後に笑えるならそれで良い。
「また来ようよ、愛美」
「うん、もちろん!」
「じゃチケット貰っといて、雄介に」
「えー私が?」
「だって隣なんでしょ、席」
「そうだけど……」
「はい、決定。次回はえーっと……ちょ、雄介! 次のライブいつ?」
少し離れたところで知らない客達と談笑する雄介を、遠慮なしに有希が呼ぶ。そのマイペースぶりに苦笑しながら、愛美は湧いて来る楽しさを噛み締めた。
来られて良かった。そして、ステージの雄介をちゃんと観られて良かった。
耳鳴りとともに味わった興奮は、まだ胸を満たしている。サイレントルームの音も、そして雄介の歌声も、鮮やかなまま耳に残っている。
この感動がいつまでも褪せないよう祈りながら、愛美はそっと胸を押さえた。
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