第2話 BLOOM 1
積雪ゼロ宣言が出された四月八日の朝、新年度を迎えた私立洸陵第一高校には、生徒が次々と登校していた。愛美もほかの生徒と同じように、生徒玄関で上履きに履き替え、中央階段へ向かった。
この学校の普通科では、二年生になると進路別に学級編成が行われる。
中央階段前に設置された掲示板には新学級の名簿が張り出され、生徒たちが次々そこに立ち止まり、自分の氏名を確認して離れて行く。羅列された氏名をざっとなぞると、有希の名は文系私立大学を目指す二年五組にあった。それだけ確認して、愛美はその場を離れた。
「いいなあ、クラス替え」
国公立大学を狙う特進は一クラスしかないので、三年間同じメンバーである。自分でよく調べずに入ってしまったことを、愛美は時々後悔していた。
「はあ……」
またつまらない日常が始まるのかと思うと溜息が出た。
一生に一度しかない青春の大部分が、一生のうちに一体どれほど使うのかと疑われるような学習に費やされて行くのだ。そして彼女の進路はアタマの固い父親によって既にレールが敷かれていて、それをはね返すだけの理由も覚悟も、残念ながら今の彼女にはなかった。
憂鬱な気分で階段を上り二階の教室へ入ると、既に勉強熱心な生徒が数人、席でワークを開いていた。
何だか、いたたまれない。
一年の冬休み明けに編入して、二カ月もしないうちに春休みを迎えてしまったから、クラスメイトの顔がいまだに覚えられない。それでなくてもクラスの雰囲気は堅苦しく、大声で笑うことすらはばかられるような、イヤな圧迫感があった。
静かに近づき、黒板に示された席順を確認する。それから一番後ろの席へ向かった。
(良かった、窓際で)
着席して左の窓を望めば、校庭とグラウンド、そして真っ直ぐ伸びる正門までの道が見える。朝陽に照らされた柔らかな風景の中、群れるグレーと黒の生徒たちが、何故か色褪せて映った。
教室にはクラスメイト達がぱらぱらと現れ、空席を徐々に埋めて行く。そしてホームルームの予鈴が鳴り教師が現れたあたりで、愛美は右隣の生徒がまだ来ていないことに気づいた。
「おはよう皆さん! えー、今日は日直を決めてないので、暫定でやります」
快活な声で教壇に立ったのは、新しい担任の佐々木だ。短髪で背が低く、ネズミ色のスーツに眼鏡と言う地味な出で立ちだが、さばけた性格で生徒の人気は高い。
佐々木は前列の生徒に号令をかけさせてから、早速出席簿を開いた。
「まず、出席を取ります。阿部くん――」
五十音順に、男女混合で次々呼ばれる。その段階になっても、隣席の生徒は姿を現さなかった。
最後列の端席のせいか、隣に人がいないだけで何だか疎外感を感じる。そして静かに背を向けて座るクラスメイトは皆頭が良さそうで、休み時間もずっと勉強していそうなタイプばかりだ。
この先このクラスで、仲の良い友達なんて出来るだろうか。不安がますます膨らんだ矢先、いきなり自分の名が呼ばれた。
「樋田さん……えー、そこでぼーっとしてる、樋田愛美!」
「うあ、はいっ!」
慌てて答えた瞬間、声が無様に裏返った。クラスのあちこちから失笑がもれ、知らない顔が幾つも振り向く。やらかしてしまった恥かしさで顔が真っ赤に染まって行く愛美へ、佐々木は柔らかく微笑んだ。
「新学期早々、魂飛ばさないようにね。ちゃんと朝ご飯、食べて来たかい?」
「は、はい」
「そう、それは良かった。朝ご飯は大切です。食べた方が、頭も良く回るからね。皆さんもちゃんと食べて下さい。それが結果的に、受験突破にもつながります」
佐々木は小さく咳払いをし、再び真面目な顔で出席を取り始めた。
受験――結局この教師もそのために教壇に立ち、生徒を指導するのだ。
当たり前の事実だが、愛美はまたさびしくなり、隣の空席を見やった。せめてここに誰かが座っていたら、少しは違う気持ちになれるだろうか。
「深澤くん――三十八番の、深澤」
佐々木が静かな声で呼んだ。教室内で唯一空席である愛美の隣を見やるが、当然返事はない。皆がきょろきょろし始めた矢先、廊下からバタバタと足音が近づき、勢い良く後ろのドアが開いた。
「ちっ……アウトかよ」
飛び込んで来た男子は脱力したように小さく呟いた。
――雄介だった。
すらりとした姿に黒い学生服が良く似合っていて、眼鏡をかけているのもあって、一見真面目そうに見える。だが目つきが悪く、左右の耳にはピアスが幾つかされたままだ。
就職希望者ばかりの一組ならまだしも、この特進にピアスをつけている生徒はいない。あちこちから訝しげな視線が向けられる中、彼はゆっくり教室のドアを閉めた。
「深澤、どうした?」
「すいません。バス、乗り遅れました」
バツが悪そうに答えた彼へ、佐々木がさり気なく自分の両耳を指し示す。そのサインに気付いた彼は、慌ててピアスを外しながら席に着いた。
(深澤って……本人って!)
愛美は目を丸くして深澤を見たが、彼はまったく知らん顔で前を向き、鞄の中身を机の中に突っ込んだ。
こんな偶然があるだろうか。
息苦しいこのクラスで、見知った顔に会えた。しかもそれが雄介だったとは。愛美は上の空でホームルームを過ごし、佐々木が退出した後、まっさきに雄介へ問い掛けた。
「何で、何でここにいるの?」
「何でって、同じクラスだからだろ。悪いかよ?」
低く答える彼の目は冷たい。何だか、あの夜の彼と違う感じがした。
「そんな……聞いてないよ」
「言ってねえし」
「うっ……」
腹立たしいが、確かに間違っていない。一瞬詰まった愛美へ、雄介は更に続けた。
「つうか、気づいてなかったとか、注意力ねえんじゃねーの?」
「……何それ」
ケンカ腰の返答に、愛美が更にむっとした途端、雄介がわざとらしい溜息を吐いて立ち上がった。
「ちょ、ドコ行くの?」
「便所。着いて来んなよ」
「だっ、誰が!」
つい大声で叫んだ愛美を構わず、雄介はそのまま教室を出て行った。
「うそ……」
あの夜の彼もぶっきらぼうだったが、もっと優しさがあった。なのに、今日はむしろ意地悪なとげを持っている。
単純に仲良くなりたかっただけなのに――随分な態度であしらわれた悔しさに拳を握っていると、愛美の前に座る赤い眼鏡の女子が振り向いた。
「樋田さん。アイツにあんまり関わらない方が良いよ」
「どうして?」
「深澤って、中学時代にすごくグレてたんだって。どうりでカンジ悪いよね」
そんな赤眼鏡の言葉に便乗し、彼女の隣に座るキノコヘアの男が口を挟んで来た。
「ホントだよねー、何でこの特進にアイツがいるのか判らないよ。男のくせにピアスなんかしてるし、よく退学になんないよな」
「あ、もしかしてアレじゃない? ホラ、ウラで寄付金たくさん、とか」
「ああ、そうかもな。アイツん家、けっこう金持ちらしいし。ありがちだよな、金持ちの息子が不良っていう、ドラマとかマンガの設定」
「水商売らしいよ、アイツんち。うちのママが、危ないから絶対付き合うなって言ってたもん」
「それマジぃ? 水商売って、まさかホストクラブとか?」
「わかんないけど。つうかそれだったら、深澤も店に出てたりして?」
「えー? あんなんでホストとか出来るかよ」
「判んないよ? よくススキノ徘徊してるってウワサだもん」
意味深にクスクス笑う二人を、愛美は唖然として見つめた。
あまり親しくないクラスメイトに、他人の良くない噂を、しかも真偽の判らない噂を笑いながら話している。相当カンジが悪く、しかも本人たちはそう思われていることに気づいていないようだ。
「もしかして、ここの学校に入ったのもカネなんじゃないの?」
「えー裏口? そりゃないでしょお、ここ、セレブ学校じゃないもん」
愛美がほとんど相槌すら打たないのに、二人は変に盛り上がって話を広げている。まるで主婦の井戸端会議だ。それは迷惑なことに、チャイムが鳴り、雄介が席に戻って来るまで続いた。
この後も、愛美は何度か雄介に話し掛けようとした。しかし彼は休み時間になると寝たふりをしたり、教室からさっさと出て行ってしまう。そうして愛美がきっかけを掴めないうちに、今日のカリキュラムが終了してしまった。
帰りのホームルームが終わると共に、雄介が鞄を手に教室を出て行った。愛美は慌てて教科書を鞄につめ、また振り向いて何かを言わんとしていた赤眼鏡とキノコヘアを無視して、彼を追い掛けた。そして彼が中央階段を降りて行くところで、ようやく声を掛けた。
「ふ、深澤、くんっ!」
「……何?」
短い答えと共に、踊り場まで降りた雄介が振り向く。愛美はやっと反応した彼を見ながら、はたと言葉につまった。
どう切り出せば良いのだろう。
ただ彼と、バンドや音楽について話したかった。それを望むには距離があり過ぎる。でもここで何か繋がなければ、彼はすぐに行ってしまいそうだった。
「ええと、あの……もう帰るの?」
「ああ」
「時間とか、ない?」
「時間?」
周囲の生徒が玄関へと流れる中、雄介は眉を寄せこちらを見上げている。その表情が迷惑そうに見えて愛美が気後れしていると、背後から有希の声が聞こえた。
「あ、いたいた。愛美ぃ!」
振り向けば少し離れたところから、有希が足早に近づいて来る。雄介はその隙に階段を降り始めた。
「あ、ちょ、待って……」
今を逃したら、もう話せないかもしれない。そんな強烈な焦りに、愛美は有希を待たず、階段を駆け降りた。そして踊り場を回り、更に階下へ降り立とうとした時、雄介に誰かが走り寄って来た。
「ゆー、つかまえったあ!」
「ぐえ!」
「おま、帰宅部なら軽音入れって、散々言ってるだろっつーの!」
長めの茶髪に制服を着崩したチャラい生徒が、雄介の背後からチョークスリーパーをかましている。雄介は苦しがりながらも、相手の腹へ右肘を打ち込んだ。
「離せバカ!」
「ぐえ!」
たまらず茶髪は雄介から離れ、腹を抱えてうずくまった。雄介は喉をさすりながら振り返り、茶髪を睨んだ。
「くっそ田中、本気で締めやがって」
「うう、ご、ごめんなさっ」
田中は苦しい声で謝ったあと、すがるように雄介を見上げた。
「だってゆー、せっかく同じガッコ入ったのに全然かまってくんないし」
「忙しんだって」
「バンドもやってくんないし」
「だから忙しんだって」
「軽音にも入ってくんないし。ゆー、俺のこと嫌いなの?」
「……」
「無言、無言止めてっ、お願いだからあー!」
「うっせー黙れ、つうかウゼエ!」
さっさと玄関へ向かおうとする雄介へ、田中が眉をハの字に下げた情けない顔ですがりついた。雄介の足が止まったおかげで愛美は彼に追いつけたが、揉み合う二人へ声を掛けられない。おろおろしていると、背後から有希がやって来た。
「ちょ、おまいら何もめてんの」
「ああ、ゆっきぃ!」
友達なのか、有希の姿を見つけるなり、田中が情けない声を上げる。有希はとたんに眉を寄せた。
「うざい田中! ゆっきぃとかマジキモっ」
「うざくってもいい、人間だものっ……いてっ!」
パカーン、と甲高い打音が響く。有希が田中の頭を平手で叩いたのだ。それでも田中は雄介を離さず、じりじり引っぱり始めた。
「ちょ、どこ行くんだよっ」
「とりあえず部室行って、入部しよっ」
「ムリムリぜってー無理! つうかこのあと俺、樋田と予定あるし!」
「え?」
「は?」
「マジ?」
同時に驚いた声が上がった。中でも一番驚いたのは愛美だ。雄介はその隙に田中から逃れ、愛美に指し示した。
「行くぞ、早く!」
「え? は、ハイ!」
「えー、じゃ私も行くーイイよね、愛美?」
返事を待たずに、有希が愛美に腕を絡めた。急な展開に着いて行けない愛美があいまいに頷くと、田中も手を挙げた。
「俺もゆっきぃに着いてくー!」
「来んなボケっ!」
「ええーっ?」
雄介に拒まれた田中は涙目になりながらも、玄関へ向かう三人の後を追いかけた。
◆
「でさー先輩にギター貸したの良いんだけどさー結局ステージ終わるまでに1弦切られてさー」
「へー」
「俺その次に出るのに笑顔で弦切れたままのギター返して来てさーもーすっげムカツくっつうの」
「ほー」
「判ってくれるゆっきぃ? もー鬼オコだよ鬼オコ、おかげで俺メンバーに怒られるし演奏押すし、押したから一曲削れとか先輩だからってエラソーに命令すんのー信じらんねー」
高校から五分ほどのドーナツショップで、田中は席に着いてからひたすらしゃべっていた。
彼の隣に座る雄介はドーナツを二つ完食し、まったく知らん顔をしてウーロン茶を飲んでいる。雄介の向かいにいる愛美も目を泳がせながらカルピスをすすっている。彼女の隣、つまり田中の向かいに座ってしまった有希は、話に生返事をしながら愛美をつついた。
「ちょ、雄介と予定って、ナニ?」
「え? あ、ああ、いや何となく」
「はあ? 何となくって、ナニ?」
「え、と、しゃべってみたくって」
「じゃあしゃべりゃあ良いじゃん」
「まあ、そうだけど、さあ……」
愛美は困った笑いを洩らした。田中の話が途切れるタイミングを、すでに十分近く窺っていたのだ。
「やっぱさーブリッジがフローティングってヤバいよねー。弦切れたら最悪だよねーでもアームギュンギュンすんの好きなんだよなーねえ聞いてる、みんな俺の話聞いてる?」
「聞いてねえよ、つうか黙れ田中ウザト」
「うっわー懐かしい! それ中学入ってすぐゆーに着けられたんだよねー。テメー将人じゃなくってウザトだって一発殴られたんだーあれマジ痛かったー惚れるかと思ったー」
田中が満面の笑みを浮かべて、ツッコミを求めるように愛美を見やった。
「そ、そうなんだ。あ、もしかして、三人とも同じ中学、とかなの?」
ツッコミをスル―してまともに返すと、田中が悲しそうな顔をした。その横で雄介が頷いた。
「中の森中。知ってる?」
「ううん、ゴメン、私、転校してきたからあんまり札幌の中学とか知らなくて」
「ああ、そうだったよな……」
「えー引っ越しして来たの、どこから?」
雄介の言葉が途切れたと見るや、また田中が喋り出した。
「旭川。田舎でしょ」
「全然―あの動物園のあるトコでしょ、メジャーじゃん。で、今日はゆーと何の密会?」
「い、イヤ別にそういうのじゃないけど、この前ライブ見たから……」
「ライブ―? ちょ、どういうことゆー、俺以外のヤツとやってたのっ?」
驚く田中へ、有希が頷いた。
「そうなの、コイツ私にも内緒でちゃっかりやってやがったの!」
「マジ? それ浮気、裏切りだよゆー!」
「何だ浮気って。つうか俺、タイムリミットだわ」
「え?」
「帰る」
「何で?」
「バイト」
「休んじゃえ」
「無理」
「えー?」
腕を掴もうとする田中を押しやり、雄介が席を立った。愛想もなく出て行こうとする背中へ有希が訊いた。
「まだココ入って二十分も経ってないよ、何しに来たの、雄介?」
「ドーナツ食いに」
「はあ? 何それ、テキト―すぎ。つうか、愛美に用事あったんじゃないの?」
怪訝な表情の有希を尻目に、雄介は背を向けたまま軽く左手を上げ、店を出て行った。
「なあにアイツ、ワケ判んない」
名残惜しくドアを見つめる愛美の隣で、有希が呆れたように溜息を吐いた。するとそれを合図に、また田中がしゃべり出した。
「ホントゆーってツンデレなんだからあ! 昔っからああだよね。だから別れちゃったの、ゆっきぃ?」
「えっ?」
「中三の始めだったよね、付き合ったと思ったらすぐ別れてさー。でも未だに仲良いし、あ、もしかしてまた付き合っちゃったとか?」
田中が悲しそうに眉を寄せた。
予想してなかった過去を知り、愛美も思わず有希を見やる。彼女は慌てて顔を横にぶんぶん振った。
「ばっ、誰があんなヤツと! バッカじゃないの田中、つうか、どうでも良いじゃん昔のことなんて。さ、愛美、そろそろ帰ろっ」
「え?」
「もう雄介も帰っちゃったし。ほら、バス来るし」
「え、あ、うん。じゃあ、またね」
「ええーっ! ちょ待って俺も帰るし、つうか部室戻るしっ」
有希と愛美がそそくさと店を出て行くのに、田中も慌てて立ち上がった。バタバタうるさく去って行く背を、店員の呆れた笑顔が見送った。
ドーナツショップを出た後、田中はあっさり学校へ向かい、有希と愛美はバス停へ向かった。その途中で、有希は愛美に訊かれてもいないのに、雄介とのことを話し始めた。
「ほーんと、何かの気の迷いでさ。つうかアイツ、今も昔もただの友達だから。だから愛美もアイツに色々……訊かないでね?」
「うん。っていうか、私が訊くようなことじゃないし。でも意外、有希と深澤くんが付き合ってたのって……いや、意外でもないか」
「え?」
「だって仲良いもん、今も。良いなあ、私も深澤くんとフツーに、音楽の話とかしてみたいよ」
羨ましい、と愛美が笑う。すると有希はイヤそうに眉を寄せた。
「もしかして、あんなのがイイわけ? 愛美、ちょっと男のシュミ悪くない?」
「は? 違うから、全っ然そんなんじゃないから! ただほら、うちのクラス最悪だし、深澤くんのバンドすごく格好良いし、少しでも話とか出来たら良いなって思っただけで」
「あーそうなんだ。判った、今度アイツに言っとくから。愛美と仲良くしてやってって」
「え、ちょ、それ止めてっ、マジ止めて!」
「なんで?」
恥ずかしいから、と答えられずに、愛美が頬を染め、口をぱくぱくさせる。有希は意地悪そうにニヤニヤしながら手を振った。
この交差点から、二人は南北に別れる。愛美は南側にある本通線で、有希は北側にある中央線だった。ちなみに雄介と田中もこちらの路線を使っている。
「また、明日ね!」
ブラウンの長い髪を夕日に輝かせながら有希が去って行く。愛美は少しだけそれを見送り、自分のバス停へ足を向けた。
ほんの少し、雄介と話せた。田中がいなければもっと話せたが、彼がいたから判ったこともあった。
「元カレ、なんだ……」
有希と雄介が仲良しなのは察していたが、そこまで親密な過去は想像していなかった。二人は何を見て、何を話し、何を共有してきたのだろう。それを思うと、胸にもやもやしたものが残った。
◆
愛美が望んでいた機会は、それから一週間ほどして訪れた。
連休前の金曜の夜だった。愛美はピアノのレッスン後に、教室の近くにある大型ショッピングセンターへ寄った。
バスの時刻の関係もあって、この曜日のこの時間はだいたい来ている。今日は母からおつかいを頼まれているのもあり、一階奥のスーパーマーケットへ向かった。
もう八時半近いせいか、冷蔵ケースに置かれた魚や肉には半額シールが貼られている。その前を通り過ぎ、惣菜コーナーを抜け、レジの手前にある飲料コーナーへ行った。
通路を挟んで両棚に並べられたペットボトルは、いつ来ても壁のような圧迫感がある。向こう端では赤いキャップとエプロンを着けた男性店員が、台車に山と積まれた段ボールの中身を棚入れしていた。
「えっと、野菜……」
種類がたくさんあり、ぱっと見ただけではすぐ見つけられない。顔を近づけて端から丹念に、いつも飲んでいるパッケージを探した。だが、あいにく棚は空っぽだった。
どこかにないか、それとも代わりのものを選ぼうかと辺りを見回す。すると台車に積まれた段ボールに、見慣れたジュースのパッケージを見つけた。
「あの、すいません」
迷わず店員に声をかけると、彼はこちらを向いた。すらっとした印象に黒い眼鏡をかけていて、雄介に良く似ている――いや、似ているどころか本人だった。
「……いらっしゃいませ」
「え、まさか、何で?」
驚いた愛美へ、雄介は少しバツが悪そうに目を逸らした。
「バイト。俺、ここで働いてんの」
「え、いつから?」
「もう一年くらい。つうか金曜日、けっこう来るだろ」
「へ?」
何故知っているのか、と驚いた愛美へ、雄介はにやりと笑った。
「うろうろしてんじゃん、お菓子とかアイスとか、パンのコーナーとかで」
「うえ、見、見てたのっ?」
「見てたっつうか……いつも何か歌ってるから、お前」
「うっ、それは……」
愛美は思わず口元を手で隠した。
レッスンの後、学んだことを忘れないために、愛美はいつもハミングでピアノのフレーズを追っている。限られた練習時間しか取れないゆえの、彼女なりの工夫だ。手軽なわりに効果はなかなかで、これを始めてから曲を覚えるスピードが倍近く上がった。
この時間、つまり閉店三十分前の店内は客もまばらで、ハミングしながらうろうろしていても人目を気にせずに済んだ。ここは絶好の復習場所なのだ。それを見られていたなんて、とても恥ずかしい。すっかり固まってしまった愛美を見て、雄介は困ったように頭を掻いた。
「別に良いじゃん、歌ってたって。ただ、メロディーきれいだったからナニ歌ってんのかなって、気になっただけ」
「メロディー?」
「ああ」
眼鏡の奥にある雄介の瞳は真っ直ぐに、ただ自分の知らないものを知りたいだけだと伝えて来る。もしかしたら、音楽に対する好奇心は同じなのかもしれない。
「えっと……この辺で歌ってるのは大体、ピアノの曲のメロディーばっか、かな」
「クラシック?」
「うん。ショパン、バッハ、それからリスト、とか」
「……音楽室に飾ってある、髪クルクルのオッサンの絵?」
「うーん、半分くらいあってる」
「半分かよ」
雄介が小さく笑った。それに嬉しくなり、愛美も笑った。
「深澤くん、クラシック、聴く?」
「興味はある。ただ、どこから入ったら良いか判んなくって。なあ、何かオススメとかある?」
「オススメ? うん、あるある。たくさんあるよ、多分うんざりするくらい。良かったら、貸す?」
「マジ? じゃあ、俺も何か漁っとく。好きなバンドとかある?」
「そこまで詳しくないんだ。でも、音楽は何でも聴くよ」
「洋楽も、邦楽も?」
「うん。あ、でもアイドル系は苦手かな」
「俺も。何つーか、造られてる感が苦手」
その表現に愛美も頷いた。どうやら苦手なものは同じようだ。
それからしばらく、音楽に関する話をした。何が好きだとか、今聴いているものは何かなどの他愛ない内容だが、愛美は雄介との距離が一気に近くなったように感じた。
好きなことについて気兼ねなく話せるのはとても楽しい。雄介もそのようで、学校での彼に比べて言葉も表情も豊かだった。
「ねえ、深澤くんて、学校だと全然しゃべんないよね。私、実は嫌われてるのかと思ってた」
「は? 違うし。つうか、学校とかクラスとか、面倒くせえし嫌いだからしゃべんないだけ」
「そうなんだ。良かったあ、嫌われてるんじゃなくて。あのクラス、ちょっと居心地悪いよね。何て言うか、性格悪いのもいるし」
「ああ、キノコと眼鏡とか? いろいろ好き放題言ってんだろ」
「……知ってたんだ」
愛美の言葉に、雄介は小さく頷いた。
「別にあいつらにナニ言われようが、痛くも痒くもねえし。俺の人生にあいつら必要ねえから、マジどうでもいい。ただ……あそこで俺と話してると、迷惑かかるかも知れねえから」
「え、誰に?」
「誰って、判んねえのかよ? 俺に熱心に話し掛けてくんの、お前しかいねえだろ」
鈍いんじゃねえの、と余計なひと言を添えて、雄介は愛美を見た。
「う、ごめん。そういうことか。実は気、使ってくれてたんだ」
「別に、そういうんじゃねえけど」
バツが悪そうに、雄介はそっぽを向いた。
迷惑がかかる――そんなところまで気を回していたなんて考えなかった。実は細やかな優しさを持っているのかもしれない。
「大丈夫だよ、私、気にしないし。むしろあの二人嫌いだし、深澤くんと話してるほうが絶対楽しいし」
「そうか?」
「そうだよ。だから返事とか、ちゃんとしてよね」
少し強い口調で伝えると、雄介は柔らかく微笑んだ。
「くん、とか、いらねえし」
「え?」
「名字でも名前でも何でも良いけど、呼び捨てで」
「判った、ふかざワン」
「ワン止めろ、犬か俺は」
ふざけたやり取りに、お互い笑い合う。そのうち店内に閉店の案内が流れ始めた。
「あ、もう帰らなきゃ。バス来ちゃう」
「おう、気ィつけて帰れよ」
「うん。じゃあまたね、ふかざワン」
「うるせー」
雄介がしかめ面して見せるのに、愛美は軽く手を振り返した。楽しいひとときは過ぎるのが早い。愛美は別れを惜しみつつ、バス停へ向かった。
ショッピングセンターから出ると、目の前にあるバス停には既にバスが停まっていた。愛美が乗りこみ着席すると、待っていたかのように発車した。すぐに大きな交差点に差し掛かり、車体を揺らしながら左へ曲がって行く。愛美は窓から、煌々とライトアップされたショッピングセンターを眺めた。
雄介と話せて良かった。
彼が好む作曲家は誰だろう。まずはクラシックを代表するメジャーな交響曲にしようか、それともシンプルなピアノ曲が聴きやすいだろうか。バンドをやっているから、現代曲がなじみやすいかもしれない。でも、らせんのような美しさを持つバロックや古典も捨てがたい――こんなふうに悩むのはとても楽しいことだ。愛美はこみ上げて来る気持ちが笑顔に変わるのを感じながら、バッグの中から楽譜を取り出した。
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