第46話 GIFT
九月も終わりに近づくと秋風がやって来て、夏の名残を空高く吹き飛ばしていく。そんな風が吹いた木曜の夜、雄介はひとりアーケードを訪れていた。
三度目の挑戦だ。一回目は入口で引き返し、二度目は三歩入って諦めた。
怖かった。新しいことを始める不安が大きかった。それでも歌いたい気持ちは消えず、毎日自己暗示をかけて、やっと今夜、再々挑戦しに来たのだ。
(大丈夫だ)
人の行き交う入口で、まず一歩踏み出した。二歩、三歩と進みながら深呼吸する。アーケード内の空気が肺から体へ染み込み「慣れていく」のを味わいながら歩いた。
落ち着いて来た。今夜は出来る。周りの誰も、自分を気にする者はいない。何も怖いことはない。
人の流れに沿ってゆっくり歩きながら、アーケード内をぐるりと見回した。
ここは中学生のころ、タツと初めて会った場所だ。
入口近くにパチンコ店が増えて幾分明るくなったが、そこを過ぎると寂れた印象は変わらない。だがシャッターの前にはストリートミュージシャンの姿が幾つもあり、あちこちから歌声とギターの音色が賑やかに聴こえて来る。
何だか出戻った気分だ。
新鮮で怖いような、それでいて懐かしいような、不思議な感情を味わいながら、雄介は座れそうな場所を探してアーケードの奥へ歩いた。
当時いつも座っていた場所には同年代らしき女子のデュオがいて、やたら高音のメロディが乗った流行りのJポップをやっている。友達らしき男女数人が周りに佇み、笑顔で演奏を聴いていた。
(楽しそうだな……)
伴奏するギターは拙く、歌も上手いわけではない。ただ彼女たちとその仲間は文字通り、純粋に音を楽しんでいるように見えた。
自分もまた、あんな風に歌えるだろうか。
雄介は邪魔をしないよう彼女たちから離れ、アーケードの奥近くに腰を下ろした。彼女たちが歌う場所よりさらに薄暗く、通行人もまばらだが、今の自分にはふさわしい気がした。
不安はもうない。
携えてきたハードケースを開け、ハミングバードを抱き上げる。良く磨かれたボディは暗い中でも艶やかで、構えるとまるであつらえたように脇下へ収まった。
このギターが自分のものになる日が来るなんて思いもしなかった。こうして触れることすら許されなかったからだ。
(やっぱアイツ、ガチバカだ)
小さく苦笑したあとに軽くチューニングし、いくつか簡単なコードを鳴らす。ギブソンらしく乾いた、それでいて深い音が生まれていくのを楽しんだあと、雄介はDメジャーのアルペジオを弾いた。
Lone Train Running――ハイエイタスの、エイトビートの疾走感溢れるナンバーだ。それを弾き語り風にアレンジし、少しテンポを落としてAメロから弾いてみた。鈍った指先に弦が食い込み、その痛みが何だか嬉しい。やっと自分のフィールドに帰って来たような気がした。
ボディに響く音を感じて気分が乗ってくる。アコースティックのいいところだ。続けて、昔ここで演ったことのあるニルヴァーナの「リチウム」を歌った。
当時はまだまだ下手くそで、タツは会った途端に鼻で笑ってくれた。何て失礼な野郎だと腹が立ったが、今考えれば、よくもあんな初心者をスカウトしたものだと思う。やっぱりタツは昔から相当イカれていたのだ。
『俺はハッピーだ、今日は友達を見つけたんだ……』
当時のタツも、この言葉のように感じてくれたのだろうか。生きていたら確かめられるのに、既にその手段はない。いや、例え訊けたとしても、あの男は冗談ではぐらかすに違いない。タツはそういう男だ。
(……あっ)
気配を感じて顔を上げると、サラリーマンが一人、少し離れたところに立っている。一瞬、雄介に緊張が走った。
(いや、大丈夫だ)
ニルヴァーナが彼の青春時代だったのか、どこか懐かしむような表情を浮かべてこちらを見ている。サビを歌うと彼も僅かに頭を揺らし、まるでコーラスしてくれているように感じた。
(嬉しい……)
歌いながら、胸が温かくなった。歌で他人に何らかの思いを持ってもらえることが、こんなにも嬉しいということを忘れていた。
ふと頭の隅に、ステージから見える観客の興奮した顔が、揺れる拳と歓声が過った。
あの、目の眩む、熱気溢れる場所にもう一度戻りたい。
そんな思いを抱えながら演り終えると、サラリーマンが拍手しながら近寄ってきた。
「すみません、あの、もし良かったら……リクエストしてもいいかな?」
彼の笑顔から、断られてダメもと、という雰囲気が漂ってくる。初めて足を止めてくれたお礼として、雄介は頷いた。
「……歌えるやつなら」
「ホント? じゃあ、えっと、オールアポロジーズって判る? 同じニルヴァーナの」
それは昔、ここで初めてタツと歌った曲だ。雄介は小さく頷き、チューニングを変えないままイントロを弾き始めた。
当時、満足に弾けなかったこの曲だが、今は難なく演れる。たどたどしかったポジションチェンジも滑らかに出来る。
『どんなふうになればいいんだ、心から謝るよ
あとは何て言えばいいんだ、みんなゲイだろ』
歌い出すと、サラリーマンが目を輝かせた。きっとこの曲がとても好きなのだ。
当時の自分も、とても好きだった。だからタツに「好きな曲を弾いてやる」と言われてリクエストしたのに、王道が好きなガキと笑われた。本当にイヤなヤツだと思った。
『太陽のもと
日射しの中で一つになった気分
太陽のもと
晒された場所で
結ばれて、葬られる』
歌いながら、いつしか詞がタツに重なった。
あの時も、そしてあの海辺でも、タツは謝っていた。許す許さないに関わらず、あれが本心だったと信じたい。鉄格子のはまった暗く狭い部屋で命を絶ったバカの、一握りの良心だと思いたい。
(あれを開けたら、判るだろうか)
最後のサビを歌い終わると観客が増えていた。遠慮がちな拍手とサラリーマンの満ち足りた笑顔から、次の曲への期待が伝わってくる。
応えたいが、雄介はそれより強い思いに駆られてギターをしまった。
「え、もう止めるの?」
サラリーマンが慌てて引き留めるのに、立ち上がって軽く頭を下げる。すると彼は持っていた缶コーヒーを差し出した。
「ありがとう、すごく良い歌だった!」
「……いえ、こっちこそ……」
率直な気持ちが嬉しい。雄介はもう一度頭を下げて缶コーヒーを受け取り、アーケードを後にした。
頑張って、来て良かった。
あの段ボールは確か、一番奥へ押しやったはずだ。あのアパートを引き払ってから一度も開けなかった。むしろ二度と開けることはないと思っていた。一時は捨てるか迷ったくらいだ。
いくつか交差点を渡り、時々小走りで急いだ。そして約十分の道程を経て、自宅のビルの階段を駆け上がり、玄関を開けた。
もどかしくバスケットシューズを脱いで自室へ入り、ギターをベッドへ投げ出して、その下から小さな段ボールを引きずり出した。
「はあ……」
ため息を吐いて落ち着き、がっちり貼られたガムテープをはがす。半年ぶりにフタを開けると、中にはCD音源がびっちり詰められていた。
懐かしい、あの部屋の匂いがする。
白く薄いケースを一枚ずつ手に取り、貼られたメモを読んだ。サイレントルーム時代の曲や、そのアレンジバージョン数パターン、やりかけの新曲、練習でも披露されなかった新曲など、文字通り山ほどある。他にも「風」や「光」などのテーマ別に纏められたフレーズ集や、エフェクターによるサンプリング音源集まである。どの種類のギターに何のエフェクターをどの順番で、どういう割合で設定して音を作っていたかが一目瞭然だ。
各CDのメモの日付を追っていくと、最後は今年の二月二十七日だった。ラストツアーの二日前まで、タツは何を考えながら作業していたのだろう。
「……クッソバカめ」
何とも言えない思いを噛みしめながら、雄介は二月二十七日のCDを眺めた。
それのメモには「雄介・ピアノ」と書かれ、更に赤いボールペンで「GIFT」と追記されている。まさか、という閃きに急かされてディスクをデッキに挿入した。
「これ……」
録音されたテイクは二つある。一つめを流すと、スピーカーから聴こえて来たのはピアノの音だった。
愛美と合作したあの曲――いや違う、アコースティックギターも入っている。そしてもう一本、ピアノのアルペジオの陰からギターの細いフィードバックが現れ、まるで歌を迎え入れるコーラスのように、アルペジオに寄り添う。
タツがアレンジを施した、あの曲だった。
「却下、したくせに」
あれだけ否定したくせに、タツは最後にこの曲を創ったのだ。
歌が乗ってくる。愛美と二人で充分練ったはずなのに、タツのギターは歌とピアノの隙間に上手くはまり込み、叙情的なピアノ曲にポストロックの要素を加えた、より複雑で繊細な響きを作り出している。まるで、最初から三人で作ったのではないかと錯覚するほどだ。
『たとえ二度と逢えなくなっても、僕らは音楽で繋がっている
だからもし君が許してくれなくても、僕が君を想うことだけは許してくれ』
このメロディは自分が作ったはずなのに、それはもう手を離れて、これ以上ない形で曲の「一部」になりきっている。それにしても酷い歌詞だ。 今の状況に重なり過ぎて、辛さを通り越して笑いしか出ない。
そしてこの歌詞を書いたとき、音楽で繋がっている相手は愛美だった。なのに今は、タツの影が脳裏から離れない。
「ふざけんなよ……」
間奏で、優しく囁くようなギターソロが入ってくる。それはピアノのメロディラインと寄り添い、交差し、混じるように絡んで行く。ほんの八小節のフレーズなのに、見事に心を揺さぶった。
完敗だ。
今さらながら、タツの才能とセンス、技術にしてやられる。死した後でなお、これだけの感動をぶつけてくる。
「何がギフトだよ……」
気づけば涙が流れていた。
タツの音は今も確かに、この薄っぺらい記憶媒体の中で息づいている。何て嬉しくて、何て切ないのだろう。
二つ目の、ギターだけが入ったテイクを聴きながら、雄介はしばらくデッキを見つめていた。
◆
長い冬の到来で、街はあっという間に白く変わった。
賑やかなクリスマスも、華やかな正月も縁遠く、雄介はひたすら曲を作り、歌い、録り貯めた。そして年明けからバイトを始め、忙しい日常を取り戻しつつあった。
薬はほとんど飲んでいない。どうしようもなく辛い夜もまだあるが、そんな時はギターを弾いて切り抜けた。
また、恭二に薦められて高校認定試験を受けることにした。正直、学歴などなくてもいいのだが、恭二には色々迷惑を掛けている。少しでも親孝行になればと思い、独学することに決めた。
二月になり、音楽創作とバイト、時々勉強の日々を送っていた雄介へ、有希から嬉しい知らせが入った。
「受かったー! 遊び行こっ」
「おう、おめでとう! でもパス」
「何で?」
「今日真冬日だから」
「却下。強制参加。着ぐるみ着込んででも来い。そして私の努力の賜物を祝え!」
無茶苦茶な要求を、さも当然だと突きつけてくる。雄介は苦笑いしながら、有希の受験突破を祝おうと出掛けた。
待ち合わせ場所である「ブルックリン72」というカフェは、倉庫をアレンジしたような内装でなかなかオシャレだ。雄介が若干気後れしながら入口のドアを開けると、既に奥の席へ座っていた有希が小さく手を上げた。
「久しぶり。顔色良くなったんじゃない?」
「ああ、ちょい太った」
「ふーん、アンタなんてもっと太ればいいのに」
有希は憎まれ口を叩きながらも、安堵の滲む笑顔を見せた。
雄介が座るのを待って、有希がメニューを見せてくれた。先に来た彼女は既に決めているようだ。水を持ってきた店員に、雄介はコーヒー、有希は焼きリンゴパフェを頼んだ。
「え、パフェ食うの?」
「うん、悪い?」
「……いいえ」
この寒いのにパフェ、しかも焼きリンゴ。冷たいか熱いかどっちかにしろとツッコみたくなるのを堪え、雄介はさっそく質問した。
「で、どこ入るのよ、大学?」
「うん、秀英女子短大の総合栄養科」
「へえ。管理栄養士になんの?」
「それだけじゃないけど、そっち関係の勉強して、他にも色々資格取りたいからさ」
「ふうん。実家は?」
「潰れなきゃ、たぶん継ぐ」
「つうか、潰れなきゃって、お前んちけっこう流行ってるだろ」
「そりゃ必死だもん、SNSやったり色々工夫してるんだよ」
ネットに関することは特に有希がしているようだ。この不況下、ネットのクチコミは大切なのだ、と彼女は力説した。
「ふうん。で、ウザトは?」
「あいつは札幌学園大の経済行って公務員になるって。そんで万一のときに私を養うんだってさ」
「へえー、いいとこあるな。さすが奴隷」
「でしょ? おかげで私の人生安泰だよ」
「まさかお前、ウザトと結婚すんの?」
「それはない。でもあいつがジジイになって孤独死しそうだったら、ホネ拾ってあげようとは思ってる。その前に、ウザトが他の女を好きになってくれたら良いんだけど、ね……」
有希は笑顔のまま視線を逸らせた。
有希の友情と田中の愛情は近いところにあるが、交わることはないのだろう。しかしその境界線は曖昧だと、今の雄介は思う。いつか二人がそれを越えるかもしれないし、越えないかもしれない。どちらにしても根本の「情」が二人を長く繋ぐだろう。
自分はどうなのだろう。今は離れてしまったが、またいつか再会出来るときが来るのだろうか。
そんな雄介の想いを汲んだのか、有希は運ばれて来た可愛らしいパフェを撮影しながら話し出した。
「東芸大、受けるんだって」
「え?」
「東京総合芸術大。名門だよね。何か、新しいピアノの先生がそこの出身で、その先生の師匠が東芸大のお偉いさんなんだって。で、あの子、コンクール終わってから先生と、師匠のとこに何度か通って、お父さんのオッケーも取れたから、それで受験することにしたって」
「マジか」
「うん。あそこ、教授と繋がりあれば合格しやすいみたいだし。そもそも学力と実力は充分あるから、たぶんイケると思う」
「そっか……」
「安心した?」
有希がスプーンですくい上げた焼きリンゴの陰から訊いてくる。雄介は少し笑ったあと、小さく頷いた。
一緒に過ごした日々や苦しんだ時間を、彼女は見事に月光へ昇華させた。彼女は自分の力で夢への鍵を掴んだのだ。
「良かった、結果オーライで」
「そうだね、色々あったけどね」
「ああ……俺も、少しは役に立ったってことだな」
苦笑まじりに呟くと、有希は紙ナプキンをクシャリと丸めて雄介へ投げつけた。
「そんな言い方すんな。アンタと出逢ったから、愛美は頑張れたんだよ。判ってるでしょ?」
少し苛つきながらも、有希は焼きリンゴとアイスをスプーンに盛りつけ、雄介の目の前へ差し出した。
「え?」
「おすそわけ。はい、早く」
口を開けろと睨まれ、雄介は恐る恐る「あーん」した。
「美味っ!」
「でしょ? アイスのバランス絶妙だよね」
「ああ。これ、バニラと何だ?」
「洋梨ペーストとシナモンカスタード」
「へえー、凝ってるな」
「うん。盛りつけも高さがあって可愛い。たまによその店来ると勉強なるわ」
有希はまた焼きリンゴとアイスをすくい、今度は自分の口へ入れた。
「あー美味っ。で、アンタは?」
「別に、今まで通り。バイトして、歌うだけ」
「ふーん、高認は?」
「それも取る」
「だよね。頑張れよ、元特進。学力あるんだからさ」
「まあな、歴史以外楽勝よ」
雄介がドヤ顔を作ると、有希は眉をしかめたあと、小さく笑って頷いた。そしてもう一口雄介に食べさせ、ふとため息を吐いた。
「……もし合格したら、三月の下旬に向こう行くって」
「ふーん……」
「寂しくなるなあ。アンタは会わなくていいの?」
有希がパフェのグラスを掘りながら訊いて来る。そんなことを訊かれても、今さら会いたいと言えるわけがない。
「もう、終わったから」
「ああ、それもそうだね」
あっさり肯定した有希は、パフェグラスの底に残ったアイスをかき集めた。それはだいぶ溶けて形を失い、すくい上げるスプーンから滴り落ちていた。
パフェを食べ終わり、会計を済ませて店を出ると、氷点下の街には粉砂糖のような雪が降っていた。
「あー寒っ! ごちそうさま。今度三人でカラオケ行こうね」
「ああ、次は割り勘でな」
おごらされた雄介が不満気につけ加えると、有希はフリンジマフラーに顔を埋めて笑った。そして軽く手を振り去って行った。
合格を祝えと言いながらも、実は愛美の様子を知らせに来てくれた気がする。そんな有希の気遣いに感謝しつつ、雄介は舞う雪の向こうで鈍く輝く西日を見上げた。
「良かったな……」
寂しさと悲しみの後ろから、嬉しさが広がってそれらを包みこんで行く。
心が震えるのを感じつつ、雄介は自分の日常へ踵を返した。
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