第44話 moonlight 1
八月初め、愛美はパトナコンクールの石狩地区予選を無事通過し、十二日の北海道本選へ臨んだ。
本コンクールはアマチュア向けで、毎年全国規模で開催され、エントリーは千人近くにものぼる。そのほとんどが初級から中級グレードの小学生で、愛美がエントリーしている上級グレードは全体の八分の一にも満たない。だが上級だけあって音大生やその卒業者が多く、ただのピアノ好きな愛美にとってはなかなか高いハードルである。
今回の上級グレード予選通過者は八名おり、愛美を含む二名の高校生と、他に音大生、社会人が北海道本選に挑む。リハーサルなしのぶっつけ本番のせいか、広い楽屋はピリピリした緊張感に包まれ、静かなのにいまいち落ち着けない。周りが皆、自分よりずっと上手く見える。愛美は黙って座っていられず、カバンを携えてエントランスへ逃げた。
怖い。もし失敗したら、と考えると指先が震えてくる。果たして、このプレッシャーの中で最高の演奏が出来るだろうか。
「落ち着け、出場者とお客さんはじゃがいも、審査員はニンジン、じゃがいもニンジン、じゃがニンニン……野菜スナック美味い」
緊張のあまり変な呪文を口走りながら、エントランスの隅のベンチに座って両手のストレッチをし、耳栓がわりにイヤホンをした。これで場内の音は半分になり、少し落ち着ける。それからカバンの中を探り、内ポケットに入れてある縁結びの御守りを握りしめた。
「……よし」
気持ちを決め、携帯を取り出し、久しぶりに雄介へメッセージを送った。
『もし良かったら今日、月光聴きに来て』
短い誘いに、ここの住所とイベント名、出演予定時間を添えた。彼がこれを見てくれるかは分からないが、もし気づいて、そして来てくれるならぜひ聴いて欲しい。そして失ってしまったと思っている恋を思い出して欲しい。
今も貴方が好きなのだと、感じて欲しい。
「……お願いします」
携帯を胸に当てて祈り、それから電源を切った。途中の確認はしない。今から本番までは、ただ演奏に全力を尽くすことだけを考える。
そっと息を吐いてから、愛美は携帯をバッグへしまい、楽譜を取り出した。
◆
雄介が愛美からのメッセージを読んだのは、午前十一時を過ぎたころだった。久しぶりに見た悪夢をシャワーで流し、自室に戻って来て気づいたのだ。
手にした携帯の通知に愛美の名があるのを見て、心臓が音をたてて跳ねたのを感じた。
『もし良かったら今日、月光聴きに来て』
出演予定は十四時だ。当日の本番前に、愛美はどんな気持ちでこのメッセージをくれたのだろう。
彼女に会いたい気持ちはあるし「月光」を聴きたいとも思う。しかし雄介はすぐに返信出来なかった。
確かに、心身ともに回復してはいる。バイクの免許も無事取れたし、薬も五分の一に減り、もうすぐ止められそうだ。だからと言って、やはり彼女とは以前のような付き合いは出来ない。傷は塞がっても痕は消えないのだ。
ベッドに倒れ、濡れた髪をかき混ぜて悩んでいると、足音がやって来てドアをノックした。
「お兄ちゃん、ちょ良い?」
「……あ?」
「今日送って欲しいんだけど」
ドアを開けながら佳澄が頼んで来た。見ればもう外出の用意を整えていて、夏だと言うのに、黒いノースリーブブラウスに黒のミニスカート、おまけに黒の網タイツだ。季節らしいのは肌の露出面積だけである。
「葬式?」
「は?」
「いや、黒一色だし」
「アホ。コンクール観に行くからちょっと落ち着いたのにしたの。お兄ちゃんも行くんでしょ? 早く支度してよね」
有無を言わせない強さで迫る佳澄に、雄介は大きなため息を吐いて渋々立ち上がった。
「アタマ金髪でドコが落ち着いてんだ。つうかそのカッコでバイク乗る気かよ。俺初心者だぞ、コケたら死ぬぞ」
「お兄ちゃんもね。だからコケないでよ」
「……ハイハイ。何時に出るのよ?」
「一時四十五分までに行きたいからお兄ちゃん決めて」
「ハァ?」
人任せにするなと言う前に、佳澄はさっさと自室へ行ってしまった。
とことんマイペースな妹だ。でもこれで、会場へ行く口実は出来てしまった。
「しゃあねえな……」
今更悩んでも仕方ない。行ってどうなるかは神のみぞ知る。そんな楽観的な考え方が出来るようになったのも最近だ。雄介は一つため息を吐き、髪を乾かしに洗面所へ向かった。
コンクール会場である札幌中央ホールへ着いたのは、午後一時半を過ぎた頃だった。真夏日ではなかったが曇り空て蒸し暑く、じっとしていても汗が滲んでくる。
後部席から降りてヘルメットを脱いだ佳澄は、髪型とメイクの乱れを気にして、そそくさと先に行った。待ち合わせしているミッキーに見られる前に、トイレで直したいようだ。
佳澄は判るが、なぜミッキーまでここに来るのか不思議に思いつつ、雄介はバイクを会場の駐車場へ入れた。
軽く吹かしてからエンジンを切り、スタンドを蹴り出して車体を預ける。タツの形見のドラッグスターは運転しやすく、免許を取ってから頻繁に乗っているのもあって、まるで手足のように扱えるようになった。
タツのことを思い出さない訳ではなかったが、それ以上に、バイクから与えられる解放感が素晴らしい。言うなれば、すべてを失ってから初めて手に入れた「自由」だ。今の生活のなかで唯一、生きていると実感させてくれるものでもある。
ヘルメットをホルダーに止め、盗まれないようにタイヤをロックしていると、遠くからマヌケな叫び声が響いた。
「あああああ! ゆーだゆーがいるまじゆーだあああああ!」
叫びとともに足音が駆け寄る。殺気めいた気配に雄介が慌てて振り向くと、田中が両手を振り回しながら走ってくるところだった。
「ゆーううううぅ会いたかったあああッガハア!」
「止めろ離せバカッ!」
飛びついてくる田中を払おうとするが、なかなかしつこくて離れない。揉み合ううちに、有希がヒールを鳴らしながら到着した。
「ふーあっつい。つうか何やってんのおまいら」
「だってさゆっきぃ、俺ゆーと全然会ってなかったしゆー連絡くれないし、俺寂しかったんだよおおぉ!」
「あーハイハイ、ほら離れる、ウザト、ハウス!」
「えー?」
田中は口を尖らせながら、渋々有希の右後ろへ下がった。どうやらこの位置が田中の「ハウス」のようだ。すっかり飼い慣らされている様子に、雄介は苦笑いしか出なかった。
「ったく、犬かよお前」
「だって俺ゆっきぃのナイトだもん。つうかゆー今までなにしてたの、怪我したってだいぞぶなの、何でバイク乗れんのそれ買ったの何ccなの、そんであとでカラオケ行きたい」
「うっさい黙れウザト。そんなに一気にしゃべんなっ」
有希は田中をたしなめると、改めて雄介へ向いた。
「バイク乗って来たの?」
「ああ、うん」
「へえーすごいじゃん雄介、良いなあ私も取ろうかな」
「じゃ俺も取る、むしろゆっきぃ俺の後ろに乗っけて四人でダブルデートむがっ」
マシンガンを炸裂させる飼い犬へ、有希がくるりと振り向いて口を押さえた。何度もやっているようで、素早く鮮やかに右手の「チョキ」で田中の唇を挟みこんでいる。マシンガンを封じられた田中は、紙袋を被された鶏のように固まった。
「ね、喉渇いたからコーラ買ってきてよ」
「ぐむむむ……」
「カロリーゼロね。よし、ゴー!」
スポン、と引き抜くようにチョキを放すと、田中は名残惜しそうな顔をしながら自動販売機を探しに行った。
「……いつの間に奴隷になったんだ、ウザト」
「さあ。最初からじゃない? それより雄介、調子どうなの?」
有希が田中の背を見つめたまま問いかけて来た。
「まあまあ、かな」
「そっか。まあ、バイク乗れるくらいだもんね。で、愛美とは仲直りしたの?」
「は?」
「え、だから今日、観に来たんだよね?」
有希が意外そうに眉を上げ、雄介を見やった。
そんな顔をされる理由が判らない。有希は愛美と親友だから、色々な話を互いにしている筈なのに、とぼけているのだろうか。
「仲良くも何も、今朝まで全然連絡取ってなかったし」
「え、そうなの?」
「お前が五月に俺んち来ただろ。あれから、あいつからの連絡も止まったから。つうかお前、あいつに話したんだろ?」
こんな確認など今更何の意味もないが、自分はもしかしたら愛美が連絡しなくなった理由を探しているのかもしれない。
ところが意外にも、有希は頭を横に振った、
「あの話? するわけないじゃん、むしろ私が話すことじゃないし。というか愛美、レッスンすごい入れてたから、私もあんまり話してないんだ」
「そっか……」
「すっごい頑張ってたんだ、あの子。それに良い友達にも恵まれたしね……」
有希がふと、会場へ入っていく人波へ目をやった。知った顔を見つけたようだ。追いかける有希の目線の先を雄介も見つめる。そこには笹井の姿があったが、雄介にはそれが誰なのか判らなかった。
「さ、行こう。そろそろ始まるんじゃない?」
有希が入口へ向かって一歩踏み出した。
「ウザト、良いのか?」
「いいよ、ほっといても来るから」
それもそうだと思いながら、雄介は有希に続いて中央ホールへ入った。
ホールのエントランスには一般客と思われる連中のほか、似たような紺のスーツを来たスタッフや関係者、少しおしゃれした出演者らしき子供たちで混んでいた。掲示されたプログラムによると、中級グレードの審査が終わったばかりのようだ。
プログラムの上に設置されたモニターにはステージが映し出されていて、グランドピアノの周りで作業する音響スタッフが見えた。
「あった、愛美、四番目だ」
有希が小さな声で呟き、そのままホールへ入ろうとする。だが雄介は動かなかった。
「どしたの?」
「あー、ちょ、トイレ行ってくるわ」
「そ、じゃ先行ってるね」
「おう。ウザトの席取っといてやれよ」
「ハイハイ」
頷くと、有希は微笑みを残して分厚い防音ドアをくぐって行った。
――ついにここへ来てしまった。
休憩終了のブザーが鳴り、人々が足早にホールへ流れていく。雄介はそこから離れてエントランスの隅へ移動した。
「……あ」
スタッフによってドアが閉められようとした寸前、田中が走りこんでくる。間一髪間に合ったようだ。
田中がドアの向こうへ消えたのを見届けてから、雄介はモニターを見上げた。
ステージはより明るくなり、グランドピアノが艶々と輝いている。そこに凛と座る愛美の姿を想像した。
ここでも聴こえるなら、このままでもいい。直接姿を見られなくても、恵美の近くにいるだけでもいい。
やっぱり会わないで帰ろうと決め、審査開始のブザーを聞いた。
一番目の女性奏者が演奏を開始した。明るく軽やかな曲調は聴いたことがある。愛美が貸してくれた、確かモーツァルトのソナタの一曲だ。続く二曲目も聞き覚えがあった。変わった音階の、まるで印象派の絵画のような響きはドビュッシーだ。
二番目の奏者の曲は判らなかったが、これも愛美から借りたCDに入っていた気がする。思えば愛美からは、実にたくさんのクラシックを聴かせて貰った。
「懐かしいな……」
ふと、愛美を初めて見かけた日のことを思い出した。
愛美の演奏について、実は少ししか聴いたことがない。曲調が優しく切ないものばかりだったせいか、雄介にとっての愛美の音はそういうイメージだ。今回弾く予定の月光も冒頭の二分ほどしか知らず、暗く重たい、漆黒のような曲だと思った。
どうして愛美は月光を選んだのだろう。先生に薦められたのか、それとも陰鬱なあの曲に何らかの意味を見出だしたのか――とりとめなく思考を巡らせているうち、三番目の男性奏者が演奏を終えた。
細波のような拍手のあと、モニターに愛美が現れた。
表情などの細かいところまでは見えないが、静かに歩いてきて、ピアノの横に立ってお辞儀する。しばし客席を眺めたあと、彼女は椅子の位置を直して、そっと腰かけた。
今日は髪を下ろして、紺色のノースリーブのワンピースを着ている。彼女は両手を一旦膝の上において、真っ直ぐピアノを見つめたあと、不意に斜め上を向いた。
視線の先には何があるのだろう。誰かがいるのか、それとも一心に成功を願っているのかは判らない。雄介は彼女が失敗しないよう祈りながら、そっと両手を組むように握った。
(頑張れ、愛美)
愛美が視線をピアノに下ろし、鍵盤にそっと手を乗せた。そして一呼吸のあと、流れるように弾き始めた。バロックの階段のようなバッハの調べだ。
早いテンポで、軽やかなフレーズがらせんのように紡がれる。それは例えるなら、生まれたピアノの音が丸い粒になり、ふわふわ浮いて行くようだった。
(これは、何だ?)
らせんは二重になり、交互に歌い出す。高く低く響き、愛美も楽しそうに弾いている。その様子に「幸福」という言葉が浮かんできて、いても立ってもいられなくなった。
(愛美……!)
直に観たい。彼女と同じ空間へ行きたい。
ベンチから立ち上がり、ホールのドアへ向かった。重い取っ手を引くと、中にスタッフがいて止められた。
「すみませんが、曲間にお願いします」
もっともだ。演奏者の気が散るようなことをしてはいけない。
やがて、内ドア越しに聴こえていたらせんが途切れ、スタッフが素早くドアを開けてくれる。隙間から薄暗いホールへ滑り込み、そのままドアの脇に立った。
なだらかな客席の斜面の先に、愛美が座っている。場内で動いた気配に気づいたのか、ふとこちらに顔を向けた。
一瞬、ひくりと肩を動かしたのが判った。見つけられてしまったのだ。
愛美がじっと見つめて来た。雄介も彼女から目が離せなかった。視線という一本の細い糸で結ばれたような気がした矢先、彼女が薄く微笑み、鍵盤へ向き直った。
『そのまま、聴いて』
彼女かそう言った気がした。
眩しいライトの中、彼女の両手が鍵盤に乗せられる。そして淀みない動きで「月光」が始まった。
厳かな光景だった。
長く鳴らされる低音の上で三連符のアルペジオが流れる。続いて讃美歌にも似たメロディが厳粛に浮かび上がった。
打ち寄せる音に心が洗われ、ゆっくり凪いでいく。今までは陰鬱な印象だったが、愛美が弾くとまったく違って聴こえるのが不思議だ。軽い。しかし軽薄ではなく、しっかりした土台に支えられた軽やかさだ。
やがて厳かな光景が終わり、一転して温かな情景に変わった。第二楽章だ。
真夜中に一筋の温かな光が差したような気がして、穏やかな気持ちを誘う。この楽章は長いピアノソナタの中での休息なのだと思った。
そしてその予感は当たった。
第三楽章が始まった瞬間、空気はがらりと変わった。
早いパッセージが鍵盤を駆ける。それまで抑えていた感情が爆発するように、ピアノが叫んだ。
愛美の手が跳ね、高速でスライドする。体重を乗せて鍵を押し下げるたび、鬼気迫る迫力が吹き出す。
初めて、こんな情熱的な愛美を観た。
(すごい……)
彼女がこれほどの情熱を持っていたなんて知らなかった。
荒々しさに続く主旋律が、彼女の中にある切なさや苦しさ、思いや願いを伝えてくる。その一つ一つが鋭く真っ直ぐに飛んで来て、体のあちこちに突き刺さるような気がした。
背筋が粟立つ。心臓が速くなる。冷や汗がうなじを濡らす頃、自分の奥底に沈めた何かが呼応し、意識の中で蠢いた。
『雄介、歌って』
愛美の声が遠くで告げる。
そうだ、彼女もピアノという楽器を通して歌っているのだ。
負けたくない。過去に、今の自分に、そして彼女に――生来の反骨精神が息を吹き返し、肚の底に熱を持って渦巻き出すのを、雄介は震えとともに感じた。
愛美はこのために、自分を呼んだのかもしれない。
『私たちは、音楽で繋がっている』
以前の自分が歌った言葉が、彼女から返ってくる。
ふと、隣に彼女の気配を感じた。
『雄介、歌って』
右手に温もりが触れた。そこには誰も、何もないはずなのに、確かに感じる。まるで彼女の奏でる音が彼女の分身になり、隣に佇んでいる気がした。
温かい。手のひらからじわりと染み込んでくる。
彼女と手を繋いだときの感覚が甦る。それを逃さないようにしっかり握った。温もりも束の間留まっていたが、曲のラストが近づくにつれ引いていった。
ステージの愛美が体を僅かに持ち上げ、渾身の一音を放つ。濁りのない重厚な和音がホールへ響き、雄介だけでなく聴衆すべてを打った。
見事な演奏だった。
最後の音が消え、耳鳴りとともに静寂が訪れた。愛美は両手をだらりと下げたまま、糸が切れた人形のように俯いている。すべてを出し切ったのが見て取れた。
「ブラボー!」
誰かの声が響き、それを皮切りに大きな拍手が沸く。そこで初めて愛美は顔を上げ、ピアノに掴まってやっと立ち上がり、客席へ深々と頭を下げた。
「お前、やっぱすげえ奴……」
叩きのめされた。だが、想いは貰った。
彼女が顔を上げる前に、雄介はそっと踵を返し、まだ拍手の鳴り止まないホールを後にした。
(歌いたい。それ以外、俺に何があるんだ)
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