第43話 不完全なソナタ 3
有希が帰ったあと、雄介は眠れずに夜明けを迎えた。
カラス達の鳴き声に導かれて朝陽が顔を出し、透明な光を注ぐ。それが空やビルに沁みていくのをベッドから眺めたあと、握っていた携帯をそっと手放した。
愛美からのメッセージは来ていない。
三月に帰宅して以来、毎日あったものが初めて途切れた。きっと、有希から真実を聞いたからだと思った。
「やっぱ、終わったかな……」
まだ陽光の届かない、暗く静かな部屋の中に、独り言がやたら大きく響いた。
有希に打ち明けなければ良かった。そうすれば、愛美からのメッセージはまだ続いていただろう。
急に拠り所を失ってしまった悲しみと、約束を破られた悔しさが沸いてくる。その一方で、小さな安堵も感じていた。
もう、愛美を待たせなくていい。彼女のほうから離れてくれれば、自分も頑張らなければならないというプレッシャーから解放される。
――もしかして自分は、彼女と離れたかったのだろうか。
答えを探り、思考を巡らせる。それは容易に見つからず、ようやく出来た心のかさぶたの下にあるような気がした。
それを剥がすことを考えると、いつも不安が押し寄せてくる。でも今はなぜか、薬に逃げようとは思わなかった。
再び携帯を手に取り、メッセージの受信画面を開いた。色とりどりの小さなアイコンをなぞり、コウのそれをタップした。
『迷ったら寺に来い。三食寝床付で仏の教えが学べて、上手く行けば悟りも開ける(かも)』
「かも、って何だよこのハゲ」
昨日送られて来たコメントだ。ケチをつけたあと、次にその下にあるダグラスのアイコンをタップした。
『I am afraid to PK!!』
「いや、知らねえしそんなん」
PK、つまりパンツ食い込むの略だ。一体何をやっていたのだろう。メッセージを寄越したのは仕事中と思われる時間なのに、ダグラスもふざけている。
三つめの、田中のコメントも酷かった。
『いまゆっきいのおうち。俺すっごい腹減っててさーもう倒れそーなのに、ゆっきいってばマヨネーズ切れたからおつかい行ってこいって言うんだよーもーなにこのドエス惚れるーカルボナーラウマすー』
「……バーカ」
どうでもいいコメントだ。きっとこの男の日常は有希を中心に回っているのだろう。
呆れて笑いながら、漠然と感じた。
独りではない。
こんな自分を気にかけてくれる友人たちがいる。少しでも支えようとしてくれている。とてもありがたいことだ。
最後に、愛美の最新コメントを読んだ。
「月光、難しい。まだ掴めないよ。こんな風に弾けたら良いのに」
言葉の下にリンクが貼られ、バレンボイムというピアニストのページへ続いている。それを開かずに、雄介は携帯を置いた。
彼女は今、将来を掴むために頑張っている。掴んで欲しいと願っているが、彼女への助言や励ましは、今の自分には出来ない。否、寄り添うことすら出来ないのだ。
やはり、これで良かったのかもしれない。
「いや、きっと、良かったんだ……」
滲んだ涙を拳で拭ったあと、雄介は改めて自分の狭い世界を見回した。世界は暗く、過去だけが堆積している。
今日は中途半端にしていた片付けを終わらせよう。シャワーを浴びて、出来たら外にも出よう。遠くに行かなくてもいい。ほんの十分でもいいから光を浴び、風に吹かれよう。
久々に沸いた前向きな思考を握りしめながら、雄介はゆっくり立ち上がった。
洗いたての髪を拭きつつリビングに戻ると、恭二が帰宅してテレビを観ていた。部屋着でだらしなくソファに寝そべっている。着替えてもまとわりつく酒とフレグランスの匂いが、仕事の余韻を残していた。
恭二は雄介に気づいて体を起こした。
「おはよう」
「……はよ」
「眠れなかったのか?」
「ああ」
恭二は雄介へ手招きし、大きな封筒を差し出した。それを受け取り、雄介もソファへ座った。
「お役所から来てたから、中身ちらっと見た。先に開けちゃって悪いな」
「いや……何?」
「譲渡関係の書類だわ、バイクの」
「……まじか」
中身の書類は専門用語ばかりで判りにくい。雄介がしかめ面になるのを見て、恭二が小さく笑った。
「バイク預けてる店に問い合わせたら良いよ。色々やってくれるぞ、多分」
「そうだな、そうするわ」
「手続きに税金やら何やらかかるけど、カネ大丈夫か?」
「たぶん。用意は少しあるから」
タツが残した金は手つかずである。それで足りなければその時はその時だ。
それにしても、バイクを貰ったとしても免許がない。
「免許……取ろうかな」
ふと口にして戸惑った。
今の自分に出来るだろうか。こんな状態で教習所などに通えるのだろうか。
雄介が悩む一方で、恭二はあっけらかんと応えた。
「ああ、バイクならすぐ取れんじゃね? お前、頭悪くないし、若いんだし。運動神経だって悪くないし」
「そうかな」
「車体起こすくらい出来るだろ。大丈夫、やってみろよ。そんでバイク来たら俺にも貸して」
「え、オヤジ、バイク乗れんの?」
「おう、十五んときブイブイ言わせてたからな」
初耳だ。しかもそれは中学生の年齢だ。
「は? 何だよそれ、無免じゃん」
「あっははは、そうとも言う。あれよ、クロレキシってやつよ。あの頃はバカばっかやってたなあ」
まさか、暴走族にでも入っていたのだろうか。
昔を懐かしむように、恭二は「男の勲章」を口づさみながら立ち上がった。
「まあ、考えとけ。あ、譲渡手続きは早めにやれよ。もし何かあったら手伝ってやるから」
「ああ、でも貸さねえからな」
「えーなんで?」
「いいトシこいて無免とかで捕まったら恥ずかしいっつうの」
「それもそうだな。あー俺も取ろうかな、いいなーバイク!」
喋りながら洗面所へ向かう。そんな父親を見送ったあと、雄介はため息とともにソファへ身を預けた。
自分が免許を取り、バイクを運転する。想像するだけで高い壁だ。譲渡手続きも難しそうだし、教習所へ通い続ける自信もない。
だが挑戦しなければ今のままだ。死んだように、いつまでも引きこもってはいられない。
洗面所から歯磨きの音が聞こえ、やがて水を流す気配に変わる。雄介は意を決して立ち上がった。
「オヤジ、俺……免許取りに行くわ」
洗面所で顔を洗う恭二へ決意を告げると、恭二は濡れた顔を上げて息子を見つめ、一つ頷いた。
「おう。ま、テキトーに頑張れよ、雄介」
滅多に見せない、優しい微笑みだ。ここにも自分を見守ってくれる存在がある。
事件以来初めて聞いた励ましを噛みしめながら、雄介は深く頷いた。
◆
「あ、ホントに送ってくれたんだ」
昨日、スタジオで録音した音源を笹井から受け取り、愛美は思わず笑った。
音源は三本で、どれも上手く編集されている。音もきれいに入っていて、一番良いアレンジを選んでくれたようだ。
二人で入った初めてのスタジオはとても楽しかった。
借りたのは小さな部屋で、ピアノもアップライトだったが、愛美は時間の許す限り弾いた。それに笹井とも適当にセッションして楽しんだ。
笹井はクラシックだけでなく、ジャズやポップスも幅広く知っていて、トランペットで次々にフレーズを出してくる。それに驚きながらもちゃんと着いていく愛美に感激したようで、彼もテンションが上がっていた。
笹井のことを深く知っているわけではない。けれど彼の音色は様々なことを雄弁に伝えてくる。まるで音楽で会話しているような感覚もあり、こういうのを音楽的に相性が良いと言うのかもしれない。
「あ、これこれ」
音源のなかで一番面白かった「ゴッドファーザーのテーマ」をタップした。
笹井も愛美もこの曲をほとんど知らなかったが、かの有名な冒頭のフレーズだけアレンジして繰り返し、無理やり演奏した。後半などはぐちゃぐちゃで、途中「笑点のテーマ」や「サザエさん」が紛れこんで聴くに耐えないが、何よりお互いの音が生き生きしているのが良い。
これを聴いたらきっと雄介も「お前らバカじゃねえの?」と笑ってくれるだろう。
さっそく携帯を操作し「トランペットとセッションしてきたよ、もうアホ丸出しだー」とコメントをつけて送信した。今は昼下がりだから、もしかしたら起きていて、すぐ聴いてくれるかもしれない。
笑って貰えるのを期待しつつ携帯を置いて、愛美はピアノを弾き始めた。
集中していると時間の経つのは早いものだ。気づけば陽は沈みかけ、部屋の中は暗くなっていた。
相変わらず月光は上手く行かない。譜面上に書かれている記号はほとんど頭に入ったのに、その通り弾いてもなぜか上滑りしている気がする。
何が足りないのだろう。
もやもやする気持ちを切り替えようと、携帯へ手を伸ばした。
「あ!」
通知が来ている。もしや雄介から、と急いでチェックするが、残念ながら笹井からだった。
『ゆうつべにアレ上げちゃった。すげーイイねついてる!』
「アレ……どれ?」
表示されたサムネイルは、例のゴッドファーザーだ。知らない誰かに聴かれて笑われていると思うと恥ずかしいが、どうせこちらの顔も見えない。
苦笑いしながらコメントを追うと、最後に気になることが書かれていた。
『そうそう、月光だけど。ネット漁ったらこんなのあったよ。この曲、身分違いの恋がテーマだったんだね。知らなかったよ……何かの参考になれば良いな』
「身分違いの、恋?」
知らなかった。月光というタイトルだから、夜や風や海ばかりイメージしていた。勉強不足だ。
彼のコメントに添えられたURLは音楽系のサイトやブログで、他にも書籍や映画の情報が上げられていた。
「え、もしかして調べてくれた……?」
嬉しくなる一方で、心苦しくなった。
彼も忙しいだろうに、こちらの手伝いをさせて、貴重な時間を無駄にさせてしまった。でも、具体的な相談をしたわけではないのに、悩みを察してくれた優しさが嬉しい。
『ありがとう! すごい助かる。全部読んで参考にするよ』
感謝の返信を送ると、すぐに既読のマークがついた。
『ううん、気にしないで。むしろ僕も勉強になったから』
『前向きだね。そういうとこすごいな』
『すごくないよ、てか僕、それくらいしか取り柄ないからさー』
『最高の取り柄じゃん』
そうコメントすると、照れたクマのスタンプが返ってきた。
もう一度お礼を述べて会話を終わらせたあと、愛美は早速送られたリンクを開き、すべてに目を通した。
「そっか……」
ベートーベンはこの曲を、自分より一回り以上年下の伯爵令嬢へ捧げていた。彼女もベートーベンに好意を持っていたが、時代と制度に引き裂かれ、違う男と結ばれてしまった。
ベートーベンはきっと、彼女への想いすべてをこの曲に注ぎ込んだのだ。悪くなり始めた耳で、激情に身を焼きながらの創作はきっと苦しかったに違いない。
感じていた「上滑り」の正体が何となく判った気がする。足りない、何もかも足りないのだ。
もっと「月光」を知りたい。時代や背景、歴史、そしてベートーベン自身を知りたい。そうすることで、もしかしたら自分なりの「月光」が弾けるかもしれない。
ふと、雄介のことを想った。
彼と過ごした日々を、彼を想う気持ちを、そしてこの苦しく切ない感情を、すべて注いでみよう。
「弾かなきゃ……ピアノ、弾かなきゃ」
携帯の画面を閉じると、点滅していた通知の光も消えた。昼間送ったメッセージを雄介が見たかは判らない。でも今はそれを確かめるより、自分の中に沸いてくる啓示のような何かを形にしたい。
再びピアノの前に座り、赤で彩られた分厚い楽譜に対峙した。
最初から見直そう。
ベートーベンは第一楽章に何を込めたのだろう。アルペジオから浮き出てくるこの切ない主旋律は、誰へ何を伝えたかったのだろう。
(私なら、誰に何を伝える?)
目を閉じると学校の寒々しい音楽室が浮かんだ。一年の三学期、窓の外は氷点下だった。寒い室内に佇んでいたグランドピアノは孤独に見えて、触れた鍵盤はとても冷たかった。
自分と同じだと思った。
「……弾ける、きっと、弾ける」
黒鍵に両手を置き、深く息を吐く。ゆっくり息を吸い込んで、冒頭第一音を静かに鳴らした。
◆
この日から、愛美は雄介へ連絡するのを止めた。
心が離れてしまったわけではない。時々、寂しさをこらえきれず泣いた夜もある。それでも自分の「月光」を創ることに集中した。
『もし遠く離れても、きっと僕らは音楽で繋がっている』
辛くて挫折しそうなとき、彼が創った言葉を信じた。それが彼にとってはただの歌詞だったとしても、今の愛美にとってはただ一つの真実だった。
五月が終わり、勉学とピアノに明け暮れるうち、有希や田中との交流も減った。代わりに笹井と過ごす時間が少しだけ増えた。
『ちょ、最近笹井と仲良いじゃんムカつく! たまには私とも遊んでよー、ってね(笑)忙しいの判ってるよ。だから、コンクール終わったらうちのお店で打ち上げしようよ、皆呼んで、チョーささやかに!』
「……ありがとう、有希」
有希から送られたメッセージに申し訳なく思いつつ、愛美は今日もレッスンへ向かった。
七月に入ると、夕暮れを迎えても暑い。時の流れは早く、コンクールは来月に迫っている。「月光」は先日やっとまとまった。あとはひたすら弾きこむだけだ。
本当は雄介にも、想いのたけを聴いて欲しいと思う。もちろん金賞を獲れるよう最大の努力をするけれど、もし彼が聴きに来てくれたら、それ以上に嬉しいことはない。
「雄介……」
今、何をしているだろう。
愛美は夕空に残る蒼を見上げながら、大好きな名前を呼んだ。
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