第42話 不完全なソナタ 2
「雄介から返信が来ないの」
四月最後の土曜日、夕暮れのオレンジに染まった愛美からそんな言葉が出てきたのは、講習後に立ち寄った音楽室でだった。
「え、なんで?」
思わず有希が聞き返すと、愛美はピアノの前で取り繕うように笑った。
「あ、ううん。別に良いんだ。一応読まれてるみたいだし」
「は? ナニそれ、アイツ既読無視してるってこと?」
「ああ、まあ、世間ではそうとも言う、かも」
「なんで。もしかして、ケンカしたの?」
愛美は僅かに頷いたあと、小さなため息を吐いた。
「……タツさん亡くなったでしょ」
「うん」
「その日、雄介と会ってたの。雄介なんか変で、会うの止めようとか言い出して、私がブチ切れて……そのすぐあとにタツさんのこと知って……それからなんだ」
「え、ちょ待って。雄介、会わないってなんで?」
「私がやりたいことを優先出来るように、だって」
有希の眉がぴくりと跳ねた。
「はあ? そんなの会ってたって何とかなるじゃん。別に毎日会うわけじゃないでしょ」
「うん……私もそう思ってたから、受験やコンクールがあっても、今まで通りだと思ってたんだ」
「愛美がそうなら、会ってたって問題ないじゃん。別にあいつ受験もバンドもないし。逆に自由利くよね。就職するわけでもないんでしょ?」
「うん。それはしないと思う……」
「じゃあ、何で会わないなんて」
「判んない。別れたいの? って聞いたら違うとは言ってたけど、ホントにそう思ってるのかも、もう……」
判らない、とこぼした笑顔が切ない。愛美が半分諦めているようにも見えて、有希の中にふつふつと怒りが沸いた。
「ムカつく……何なの一体。アイツ何やってんだ、まったく」
愛美を守ってくれると信じて託したのに、雄介はなぜ彼女をほうっているのだろう。怒りを噛み締めながら、有希は携帯をタップして耳に当てた。
すぐに無機質な呼び出し音が繰り返し催促するのに、雄介は一向に出ない。一旦切って掛け直そうとしたとき、愛美が待ったをかけた。
「大丈夫、もう少し待てばきっと……」
「はあ? ナニ悠長なこと言ってんの。タツさん亡くなって一ヶ月も経ってんだよ。ここまで待っててどうにもなってないんじゃん」
「それは、そうだけど……」
「愛美さあ、我慢しすぎ。あのバカ甘やかしすぎ。って言うか、隠してないでもっと早く言ってよ」
「ごめん。迷惑かけたくなかったんだ」
「迷惑? ってか、黙っていられるほうが迷惑だって。何でも言ってよ、私は親友なんだから!」
強い調子で迫ると、愛美は薄く微笑みながら目を逸らした。
任せておけない。
有希はカバンを掴むと立ち上がり、ドアへ向かった。
「どこ行くの?」
「行ってくる、あのバカのとこ」
「待って、私も」
「愛美はこのあとレッスンでしょ。練習しないと時間なくなるよ?」
「でも」
「ほら、早く弾く。グランド弾きたいんでしょ?」
グランドピアノを指差すと、愛美は泣きそうな顔をしながら鍵盤の蓋を開けた。それを見届けてから、有希はそっとドアを閉めた。
雄介に会いに行かねばならない。会って喝を入れてやると意気込みながら、夕暮れの長い廊下を急ぎ足で歩く。少しして遠くから悲しげな月光の旋律が聴こえ、つい足を止めた。
あの子にあんな音を出させるなんて許せない。
封印した想いが疼く。唇を噛んでやり過ごしながら、生徒玄関へ向かった。
◆
雄介の自宅前に着いたとき、街には既にネオンが輝いていた。夜が訪れ、そこかしこに怪しげな活気が満ちている。いつもの「風景」だ。
南五条のビルを外から見上げると、雄介の部屋に灯りが点いている。きっと居るはずだ。有希は階段を上って自宅前まで行き、躊躇なくドアチャイムを押した。
反応はない。
もう一度押し、急いで開けろといわんばかりにボタンを連打した。雄介の家族がいたら迷惑かもしれないが、それは雄介が悪いからだ。
「雄介! いるんでしょ!」
ついにドアを叩きながら叫ぶと、さすがに根負けしたのかドアが解錠され、軋みと共に細く開けられた。
「……うっせえよ、何だよ」
「話がある、愛美のこと。帰れって言ったって帰んないよ」
不機嫌極まりない声を出してみせると、雄介は束の間迷ったあと、諦めたようにドアを大きく開けた。勝手に入ってこいと言わんばかりだ。その無愛想さがまた憎たらしい。有希は挨拶もせずに、ローファーを脱ぎ放して上がった。
リビングは静かだった。恭二は仕事で、佳澄もいないようだ。雄介は有希をソファへ誘った。
「……話、何よ?」
「雄介、あんた……」
しばらく見ないうちに、雄介はかなりやつれていた。伸び放題の髪に、今までなかったはずの白いものが混じっている。こんな生気のない様子を見たのは初めてで、有希は内心動揺した。
タツの死が、そしてバンドを失ったことが、そんなにも辛かったのだろうか。
「……ずっと愛美に返信してないんだって?」
動揺を隠しながら低く聞くと、雄介は目を逸らせた。
「アイツ、何か言ってた?」
「寂しがってたよ。あんた何で、会うの止めようって言ったの?」
「……お前に関係ないだろ」
「あるよ。私はあんただから、あの子を託したんだもの」
「……」
「どうして。まさか別れる気?」
「そうじゃない……ただ、もう少し、時間が欲しいんだ」
「何で?」
理由が聞きたくて、つい前のめりになる。雄介は逃れるように立ち上がり、キッチンへ向かった。
「何か飲むか?」
「いらない。良いから戻ってきて、ここ座ってよ」
顎でソファを示すと、雄介は深いため息を吐いて戻って来た。
「何で、時間が欲しいの?」
「気持ちを……整理したい」
「それは、タツさんが亡くなったから?」
タツの名を聞いたとたん、雄介は俯いて額を押さえた。やはりタツの死にひどく落胆していたようだ。バンドも解散してしまったし、心の拠り所も失なっているに違いない。
けれどそれなら尚更、愛美に少しでも助けてもらえばいいのだ。辛い気持ちを明かし、悲しみを共有するだけでもきっと救われる。
「言えばいいじゃん、今の気持ちを。大丈夫だよ、あの子、あんたのこと大好きだから」
「……」
「あんたは弱ってるとこ見せたくないのかもしんないけど、そんなのもうバレバレだし。マジ昔から強がりなんだから」
「……お前に言われたくねえな」
「ふん、ムカつく。余計だよそれ」
横目で睨みつけると、雄介は少しだけ笑い、額から手を離して顔を上げた。
何かを迷うように、目線がふらふら泳いでいる。雄介らしくないと思った。
「……タツさんのことは、すごく残念だったよ」
「……ああ。昨日、アイツの家を引き払ってきた」
「そうなんだ」
「アイツが生きてた場所が消えたら、何だか気が抜けたっつうか……何にもやる気が起きねえっつうか」
「そっか……」
細いため息が雄介から洩れた。それは悲しみのようであり、諦めのようにも思えた。
雄介は今、何を考えているのだろう。ゆっくり伏せられた目は目の前ではなく、遠くを見ているようだった。
「大変だったね、家のことまでやったんだ……でもさ、いつまでもこうしてるワケ行かないじゃん。愛美ね、ずっと我慢して待ってるんだよ。寂しいの我慢して、雄介のこと待ってるんだよ」
「……判ってる」
「なら、そろそろ前向いてよ。バカはバカなりにさあ」
「バカって……つうかお前、俺を叩きのめしに来たのかよ?」
「そう。こんなフヌケに、あの子はもったいないからね」
「ひでえ女だな」
呆れたように笑ったあと、雄介は頭を抱えた。
深いため息が洩れて来る。まだ癒えない傷口に、塩を思い切り塗り込んでしまったかもしれない。
確かに叩きのめしてやろうと思っていた。でも正直、励ましたい気持ちもある。
お互い長い付き合いなのだ。上っ面だけの労りを並べたところで、雄介は見抜いてしまうだろう。それなら例え怒らせても、言いたいことを言ったほうが良い。
雄介がため息を吐き、そっと洟をすすり上げた。泣いているのかもしれない。
いつも生意気で憎たらしい顔をしている、けけど本当は優しいこの男の、こんな姿を見たくなかった。
胸が、痛い。
部屋の静けさが、そして窓の外に満ちる街の騒がしさが辛い。有希がかける言葉を見つけられずにいると、雄介がやっと顔を上げた。
「なあ、有希」
「なによ」
「もしも……もしもお前が愛美と付き合ってて」
「うん」
「お前が……俺にレイプされたら、お前、どうする?」
「……はあ?」
「それでもお前、愛美と今まで通り付き合えるか? あいつと、何にもなかったふりして手繋げるか?」
「え、なにそのひどい例え」
何をバカな質問を、と突っぱねようとして、有希ははっとした。
雄介は真剣な眼差しで自分の膝に置いた手を見つめている。その指は膝に食い込むほど力んでいた。
「雄介……何があった?」
「もう誰にも言わないつもりだったんだけど……お前なら、判ってくれるかもしれない……」
まばらに無精髭の生えた青白い顔がこちらを向く。そこにはある種の決意が浮かんていた。
「誰にも、愛美にも絶対言わないでくれ。約束してくれ」
「……判った」
嫌な胸騒ぎを抱えながら頷くと、雄介は一つ唾を飲み込んで重い口を開いた。
帰り道、酔っぱらい始めた雑踏の中で、有希は何とも言えない息苦しさを抱えながら歩いていた。
雄介から知らされた「あの夜」のことは、有希にとっても大きな衝撃だった。
人生を変えられてしまった悪夢に、雄介はずっと一人で苦しんでいたのだ。話したくなかっただろう。しかし話さざるを得ない状況に追い込んでしまった。
「ごめん……」
涙を滲ませながら語った横顔が、瞼に焼きついて離れない。知らなかったとは言え、雄介の深い傷口を更にえぐってしまった気がした。
もしも自分が同じ目にあったら、きっと今まで通りなんて出来ない。汚れてしまった自分が触れたら、あの子まで穢してしまう。
それだけは絶対にしたくない。そんなことをするくらいなら何も言わずに別れを選ぶ。例え泣かせても、傷つけても、真実を知れば愛美はもっと傷つくことになる。
「マジ、キツイわ……」
果たして自分に出来ることがあるのだろうか。
救いを探すように見上げた夜空は、ネオンの明るさに隠されて星も見えなかった。
◆
翌朝、両親の店のモーニングタイムを手伝ったあと、有希は重い気持ちで携帯をチェックした。すると案の定、愛美からメッセージが来ていた。
『おはよ。起きてるかな。昨日、どうだった?』
「どうって、どうもこうもないよ」
やるせなさがつい溢れる。額に手を当てて少し考えたあと、携帯画面をタップした。
『おはよ。やっと店の手伝い終わったよ』
ふだんの調子で送信すると、十秒も経たないうちに既読のマークがついた。返事を待ちわびていたらしく、すぐに愛美からメッセージが送られてきた。
『おつかれさまー!』
『うん、つかれた。日曜なのに何で朝っぱらから働かなきゃなんないかなー』
軽くぼやくと、残念な表情のペンギンのスタンプが返って来た。そしてすぐに言葉が続いた。
『雄介に会えた?』
会えたことは会えたが、その内容を伝えるわけには行かない。
『ううん、いなかった。出掛けてたみたい』
『そっか……ごめんね』
やむを得ずついた嘘を、愛美は疑いもしない。心のなかで謝りながら、有希は会話を続けた。
『謝らないの、私が行きたかったから行ったんだし』
『でも、私のこと考えてくれたから。ごめんね、今度何かおごるね』
『いいよ、気にしないで』
『するよぅ。しっかし雄介、どこ出掛けてたんだろ。少しは元気になったのかな』
『……もう止めちゃいなよ』
『え、どういう意味?』
会話の向こうで愛美が驚いた気がした。
別れをすすめるなんて、自分でもどうしようもない親友だと思う。愛美を傷つけたくない、でもこのままにしておけない。
『私だったらさっさと見切りつけて次行くね。こんな中途半端でなんて我慢できない。会うの止めようって言われた時点で引く』
『……だよね』
『そうだよ。相手を好きな気持ちは、すぐには切り替えられないけど、自分のことも大切だからさ』
『……うん』
『まあ、これは私の意見だから。愛美にそうしなって言ってる訳じゃないからね』
『うん、判ってるよ。ありがと、心配かけてるね』
『全然。気にすんなっ』
早く雄介の話題から離れたい。長々話していたら、本当のことを隠しておけなくなりそうだ。
少し考え、思いついた言い訳を書いた。
『さ、朝飯食べる。お腹すいたー!』
『うん、ごめんね。私も出掛ける準備するわ』
『お出かけ? ピアノ?』
『ううん、今日は笹井くんとスタジオ入るの』
『笹井? もしかして八組の ?』
『うん』
『え、友達だったの?』
『と言うか、なったばっか。一回めの模試のときに初めて話して、音楽のことで盛り上がってね』
そこからスタジオの件に至った経緯を、愛美が簡単に教えてくれた。
『そっか、そういや笹井って吹部だったもんね。でもなんで愛美までわざわざスタジオ?』
『思いっきり弾けるから。ほら、ピアノって音でかいでしょ。あんまり弾きまくると、ご近所気になるし』
『あー、そっか』
『それに別の楽器の人と演るのってなかなかないから、単純に面白そうだなって』
独奏が多いピアノだから、愛美も時には誰かと合奏してみたいのかもしれない。有希は楽器をやらないけれど、漠然とそう感じた。
『良いじゃん、楽しんでおいでよ』
『うん! 張り切って弾き倒して来るよ』
また後で、と互いに挨拶してやり取りを終わらせた。
「はあ……」
ため息とともに携帯を置いて、有希はベッドへ倒れ込んだ。
嘘も方便と言うが、何とも割り切れない思いが胸を重苦しく覆っていく。
それにしても、笹井の名が出てきたのは意外だった。
彼とは一応顔見知りだ。吹奏楽部の副部長で頭がそこそこ良くて、俗にいう「良いヒト」で、雄介のような強い個性はない。
けれどもしかしたら、愛美にはそういう「普通の男」のほうが良いのかもしれない。
「……それがいいかもね、愛美」
雄介との世界はもう戻らない、と知る時が来る前に、あの子の隣に誰かがいてくれたら良いと思う。それが笹井だとはまだ思えないが、恐らく自分ではないことは確信している。
どんな時も自分はあの子の親友だ。けれど決して恋人にはなれない。
自分が男だったら隣へ行けるのに――こみ上げる切ない気持ちから逃げるように、有希は起き上がって部屋を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます