第41話 不完全なソナタ

 タツの部屋が引き払われた日の夕方、茜空に咲き誇る桜を仰ぎながら、愛美は学校からバス停への道を歩いていた。

 去年の今頃は楽しかったのに、今年は憂鬱だ。受験とピアノに追い立てられていることだけが原因ではなかった。


 バス停に着いて帰りのバスを待つ間、制服のポケットから携帯を出して通知をチェックした。今日も雄介からの返信はない。

 返信を求めないと割り切ったのは自分のほうだ。でも最近は、読んでいるならスタンプくらいは欲しいと思うようになった。

 いつまで待てば、雄介は元気になるのだろうか。


「はあ……」


 彼の机のない教室がどんなに寂しいか、それすら彼は知らないだろう。

 いっそ、離れてしまえば楽になれるのかもしれない。でも嫌いになったわけでないから、それも思い切れない。

 やるせない気持ちで立っていると、後ろから声をかけられた。


「樋田さん、いま帰り?」


 振り向くと、カバンと楽器のケースを携えた男子生徒が立っていた。八組の笹井だ。先日の模試で隣の席になり、声をかけられてから何となく話すようになった。

 見上げた笹井の顔は雄介と同じくらいの高さにある。一瞬、制服姿の雄介を思い出したが、すぐにそれをかき消した。彼が制服を着ることはもうないのだ。


「うん。笹井くんは部活ないの?」

「ああ、休んだ。今日は個人レッスンあるから」


 笹井は携えたトランペットのケースへ視線を落とした。


「それに三年は夏で引退だし。僕がいなくても後輩が頑張るだろ」

「夏……吹奏楽コンクールが最後?」

「うん。今年も全国行くって気合い入ってて面倒臭いよ」

「おいおい、副部長がそれ言っちゃう? 全国常連なんでしょ?」


 軽くツッコむと、笹井はやらかしたという表情でペロリと舌を出した。彼は時折こんなキュートな仕草をする。黙っていれば真面目で取っつきにくそうだが、中身はいわゆる「ひょうきん」だ。


「樋田さんもピアノのレッスンしてるんでしょ?」

「うん。今日行くよ」

「何時から?」

「七時」

「惜しい、僕六時から」

「そっか。まっすぐ行くの?」

「うん」


 ちらりと腕時計を覗いたあと、笹井は少し眉を寄せた。


「でもちょっと何か食べたいな。樋田さん、良かったら三十分くらいつき合わない?」

「え?」

「お腹空くと良い音出なくてさ。今ならドーナツとかちょうど良いんだよね。でも一人じゃ入りにくいからさ……」


 遠慮がちに、バス停の近くにある店を指差す。去年の今頃、有希と田中、そして雄介の四人で入った店だ。

 あの日はすでに懐かしい思い出になりかけている。ふと、それをなぞってみたくなった。


「……うん、いいよ。三十分くらいなら」

「ホント?」


 ただドーナツを一緒に食べるだけなのに、笹井がとても嬉しそうに確認してくる。愛美は不思議に感じながらも、誘われるままドーナツショップへ着いていった。


「いらっしゃいませー」


 スタッフの快活な声に出迎えられて入店すると、あちこちに同じ学校の生徒が座っていた。ほとんどが女子グループかカップルだ。確かに、この中に一人で座るのは気後れする。男子なら尚更だろう。

 二人は入口すぐの四人掛けに荷物を置き、ドーナツと飲み物を購入した。


「あれ、一個で足りるの?」


 席に戻ってすぐ、向かいに座った笹井が茶化して来る。恵美は負けじとにっこり笑い返した。


「足りなかったらもう一個、笹井くんが買って来てくれるんでしょ?」

「良いよ。付き合ってくれたお礼におごるよ」

「え?」

「ただし百五十円までのにして。僕、あと二百円しかないから」

「マジかっ、良いから、おごってとか冗談だからね」


 心細い手持ちだ。愛美のフォローに、笹井は少し情けない笑いを浮かべた。


「じゃあ今度何かおごるね。あードーナツ久しぶり、いただきまーす」


 笹井はペーパーを使ってドーナツを持ち、行儀良く食べ始めた。

 ココア生地にたっぷりチョコレートがかかった「ダブルチョコ」は、あの日の雄介も食べていた。ペーパーを使わなかったから、食べ終わる頃には指先に溶けたチョコがついていたのを覚えている。


「樋田さん、食べないの?」

「あ、うん、食べる」


 ぼんやりしていたところを促され、愛美もペーパーを使ってシュガードーナツをかじった。

 甘い。幸せな甘さだ。

 笹井は本当に腹が減っていたようで、愛美が半分も食べないうちに二つ全部平らげた。


「美味しかった! これでレッスン頑張れるよ」

「金管楽器って体力いりそうだよね」

「んー、でもトロンボーンよりましかな。て言うか、ピアノのほうが体力使うじゃん。樋田さんぐらいのレベルだったら、ピアノソナタみたいな長い曲弾くんでしょ?」

「うん、まあね」

「一日何時間弾いてる?」

「平日は二時間かな。ホントはもっと弾きたいんだけどね」

「判るそれ。僕もおんなじ。ペットって音でかくて困るから、僕たまに一人カラオケとかスタジオ入ってる」

「スタジオ?」

「うん。安いとこあってね。あ、ピアノ置いてあるとこもあるよ。良かったら今度一緒に行く?」

「うん、行ってみたい」

「じゃあ連絡先教えて」


 自然な流れでSNSのアカウントを交換した。

 音楽に関わる友人が増えるのは嬉しいことだ。特に笹井はクラシックにも詳しく、自身も幼少時にピアノをかじっていたそうで、恵美は音楽仲間として親近感を持ちつつあった。


「樋田さんはコンクールとか出ないの?」

「出る、夏に」

「マジ? ちょっと観に行きたいな」

「えーやめてよ恥ずかしい。って、笹井くんは?」

「僕? いやあ、今年は受験に集中かな。出来るなら本州の音大行きたいし」

「そうなんだ! 音大なんてすごいね」

「そんなことないって。もっと練習しなきゃなんないし。て言うか、樋田さんもピアノやりたいんでしょ。向こうの音大受ければ良いのに」


 笹井の提案を、愛美は曖昧に笑って受け流した。

 ピアノを本気で専攻するなら、第一志望である地元の国公立大の音楽科よりも本州の音大に進むほうがより専門的だ。しかし愛美は地元を離れたくなかった。もし離れれば、雄介とも終わってしまいそうな気がしていた。

 そんな思いを見透かされたのか、笹井はじっと愛美を見つめた。


「もしかして、本州行けない理由があるの?」

「うーん、まあ、ね」

「学費?」

「それもあるし、一人暮らし無理だし」

「僕、奨学金借りるんだ。それに住むとこなら学生会館や下宿って手もあるし。最悪、四畳半風呂なしでもいい」

「そっか……」

「うん。本気でペットやりたいから、半端にしたくないんだ。可能性が少しでもあるなら、出来る限り頑張りたい……って、何か暑苦しいね、僕ばっか語りすぎ」


 照れたように、笹井は目を伏せた。

 努力して音大に入っても、演奏者として食べていける人間はごく僅かだと、笹井も理解している。それでも挑戦したいという強い想いが伝わって来て、愛美は少し戸惑った。

 自分はただピアノが好きで音楽科へ進もうとしている。でもその先のビジョンはあやふやで、笹井のような決心は固まっていない。

 愛美のドーナツがなかなか減らないのを見て、笹井が身を乗り出した。


「樋田さん、お腹空いてないなら、僕食べてあげるよ?」


 笹井がいたずらな笑みで手を伸ばしてくる。それに掴まれないよう横を向いてから、愛美はドーナツを大きくかじった。


 ゴールデンウィークに遊びがてらスタジオへ入る約束をかわし、二人はドーナツショップを出た。笹井はまたね、という言葉と、少し照れたような笑みを残して国道沿いを歩いて行った。ここから十分ほど歩いたところに市内の南へ向かうバス路線があり、そこから師匠の自宅へ向かうのだという。師匠は道内で一番有名な交響楽団の奏者で、志望先の音大出身だそうだ。

 笹井は着実に、自分の将来を掴むため練習し、経験を重ねている。

 自分はこのままで良いのだろうか。

 半端はしたくない――笹井の簡潔な言葉が、愛美の心に重く残った。


  ◆


 一旦帰宅してピアノを練習し、早めの夕飯を終えてからレッスンへ向かった。週に一時間のお楽しみだ。どんなに気分が優れなくても、グランドピアノに触ればテンションが上がるところがピアノバカである。愛美は抱え込んだ感情を吹き飛ばすように、ショパンの「木枯らしのエチュード」を弾いた。


「……愛美ちゃん」

「はい?」

「これじゃ真冬の爆弾低気圧ですよ」


 隣で聴いていた真由美先生が、苦笑しながら譜面の一節を指した。


「確かに、ここは強くて良いでしょう。でもこちらも同じ調子で弾いてはいけません。風は弱くなることもありますよね?」

「あ、はい……」


「強弱のうねりが渦を巻く感じ、枯葉が舞う感じ、もう少し繊細にイメージしてみてください」

「はい……」


 表記された演奏記号を追いながら説明され、もう一度頭から弾く。しかし愛美の心に吹く風は、どうしても演奏記号を吹き飛ばしてしまう。三度引き直しても改善が見られないと判断した先生は遂に、めったに使わない赤鉛筆で印をつけた。コレが出てくるのはよほどの注意点だけだ。


「コンクールは楽譜を忠実に解釈するのが大前提だから、ここは忘れないでください」

「はい」

「あまり感情的になりすぎないようにね」

「はい……」


 口調はおっとりしていたが、先生の笑顔は少し引きつっていた。

 続けて、バッハの平均律とモーツァルトのピアノソナタを弾いた。どちらも中学生の頃に習ったのでそつなく弾ける。

 コンクールの地区予選ではモーツァルトと木枯らしを弾く予定だ。そして地区本選に残れれば、平均律ともう一曲を弾くことになる。愛美は地区本選での金賞を目標にしていた。それは父の提示した条件でもあった。

 先生はちらりと時計を確認してから、残るベートーベンの楽譜を開いた。ピアノソナタ第十四番「月光」だ。幻想曲風ソナタと副題のつけられたこの曲は全三楽章からなり、それぞれに特徴的な色を持つ名曲でもある。


「では第三楽章から」

「はい」

「テンポを正確にね」

「はい」


 心を落ち着かせるように深く息を吐いたあと、愛美は鍵盤に指を載せた。

 冒頭第一音はピアノ、そこから右手は鍵盤をかけ上がり、やがて叫ぶようなパッセージへ繋がる。全身で鳴らすようなスフォルサンドと囁くようなピアノが交互に、しかも早いテンポで繰り広げられて行く。技術的には弾けるが、曲の意図を汲んで「奏でる」のは難しい。


「ここはペダルを踏まないで、音をクリアに」

「この分散和音はノンレガートで、音の粒を揃えて」

「スフォルサンドの前の三つの音をもっとしっかり弾いて」


 次々にチェックが入り、書き込みが増えていく。


「ロマン派みたいにテンポを揺らさないで」

「鍵盤を叩かない。背中の筋肉を使って」

「装飾音もしっかり弾いて」


 何度か止められ、要注意点を赤鉛筆で記された。

 苦しい曲だ。

 この曲がこんなに表現が難しいなんて思いもしなかった。譜面の音符だけ追って、これなら早くマスター出来ると思った自分が浅はかだった。

 激しさと静けさの落差が激しく、演奏記号も細かい。これらを守りながらプレストのテンポをキープし続けるのに息が切れる。走ったことはないが、イメージとしては八百メートル走のように思えて、愛美は内心頭を抱えた。

 指は回るのに、心が着いていけない。


「予備練習として、ツェルニー40番もいくつか練習してください」

「はい……」


 ツェルニーは嫌いだ。単調で、弾いていても面白くない。しかし必要だと言われればやるしかない。

 先生から曲の番数を指示され、次回までの課題を貰ってレッスンを終えた。


「はあ……」


 正直ぐったりだ。得意の鼻歌学習もする気になれず、疲れた体を引きずってショッピングセンターへ向かった。


 閉店前の閑散とした食品売場では、学生バイトが品出しを行っている。愛美はぶらぶら歩きながら、母に頼まれた野菜ジュースを探した。

 去年はここで雄介と、初めてまともに話をした。憧れと親愛の情をこめて『ふかざワン』とあだ名をつけた。

 学校でメモを投げ合い、他愛ない悪口の応酬をし、音楽室で昼を過ごす――懐かしい思い出が次々に浮かぶ。あの頃はただ毎日が楽しかった。


 ジュースの支払いを済ませ、バス停へ向かった。バスはまだ来ていない。他に乗客もおらず、愛美はベンチに座って携帯を取り出し、イヤホンを耳に入れた。曲を選ぼうと画面をスクロールする。ふと「you-emi」というタイトルが目に入り、無性に聴きたくなった。

 画面をタップすると、自分のピアノのイントロが始まった。ホ長調のゆったりしたアルペジオだ。八小節めでボリュームを上げると、続けて雄介の歌が耳に溢れた。


『こんなことが起きるなんて思っていなかった

 今も信じられないよ、まるでミラクルだ』


 雄介の語りかけるような歌に満たされ、目を閉じるとまるで隣に彼がいるような気がする。彼の匂いや温もりを思い出したくて、愛美は自分を抱きしめた。


『もし遠く離れても、きっと僕らは音楽で繋がっている

 たとえ二度と逢えなくなっても、僕らは音楽で繋がっている

 だからもし君が許してくれなくても

 僕が君を想うことだけは許してくれ』


 切ない英詞だ。これを作ったときはとても幸せだったのに、どうして別離を示唆するような言葉を載せたのだろう。


「雄介……」


 逢いたい。

 雄介の歌に耳が満たされても、心までは一杯にならない。逢って、顔を見て、言葉をかわして触れあいたい。自分を抱く腕に力を込めても、言い様のない寒さから逃れられない。

 堪らず、助けを求めるようにメッセージアプリをタップし、雄介のトーク画面を開いた。そしてコメント欄に『あいたい』と一言打ち込んだ矢先、画面の上部に通知が入った。


『あつかれ! 今日はありがとう』


 笹井からのメッセージだった。


『もうレッスン終わったかな。僕はうちで晩飯食べ終わったところ』

『今日のレッスンきつかったー、けっこうガンガン注意されて凹みつらみ悲しみ』

『樋田さんは上手く行った? コンクール何弾くんだろ。今度休み時間にでも聴かせてよ』


 送られてくる通知が、少しだけ寒さを和らげてくれる。愛美はその場で笹井に返信せず、そして雄介にもメッセージを送らずにアプリを閉じた。

 こんな気持ちではどちらにも返せない。元気を装うほど、心に余裕がない。

 最終バスが姿を現し、ゆっくり目の前へやって来て停まる。沸いてくる涙を瞬きで紛らわしながら、愛美は立ち上がり、開かれたドアへ向かった。

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