第39話 innocent in a silent room 2
清称寺で騒ぎが起こっていた頃、雄介は部屋でベッドに転がっていた。
今夜はあの男の葬儀だ。
行けば必ず後悔すると思ったから行かなかった。だが、行かなかったからといって楽になれるわけでもなかった。様々な記憶や思いが悶々と渦巻き、薬を飲んでも眠りにつけない。
「どうすりゃ、良いんだ……」
寝返りを打ち、うつ伏せになり、頭から布団をかぶってみても落ち着かない。
いっそこれから行くかと考えたが、すぐに打ち消した。
時刻は八時半になろうとしている。既に葬儀は終わっているはずだし、清称寺へ向かうには一時間半かけて地下鉄とバスを乗り継がなければならない。しかも帰りは最終バスに間に合わないから、誰かに送ってもらうか、タクシーを手配するか、コウに泊めてもらうしかない。
そもそも事件以来、一人で長く外出していない。さっき飲んだ薬が中途半端に効いてきて、もっと具合が悪くなるかもしれない。途中でパニックを起こす可能性もある。その時に一人だと怖い。
「くそ……」
足枷を付けられているようで歯痒い。以前はあんなに自由だったのに、今はほぼ引きこもりに近いのだ。
果たして、自分はちゃんと回復しているのだろうか。悪い思考のループに頭を抱えていると、携帯の通知音が鳴った。愛美からのメッセージだった。
『ゆうつべで変な曲見つけたよ。かなりウケた(笑)』
短い言葉にリンクが添えられている。表示されたサムネイルでは白人の男性二人が楽しげにピアノ連弾していた。
最近の愛美はこのような、特にクラシックに関する様々な話題を送ってくる。きっと彼女なりに楽しませようと気を遣ってくれているのだ。
普段なら視聴するが、今は出来ない。むしろ苛々を刺激され、そのまま画面を閉じてしまった。
――ダメだ、自制を失いそうだ。
もう少し、薬を飲んでみようかと思いついた。
一番手軽な逃避だ。そして多分、もう少し飲めば効いてくるはずだ。効けば眠りに落ち、目覚めたころには今よりましな気分になれる。
起き出して茶の間へ行き、何の気なしに薬の袋を部屋へ持ち込んだ。とりあえず一回分飲んで三十分ほど待ってみるが、どうしてか眠気が来ない。
おかしいと思いつつ、もう少し足してみる。効果を待つのも不安で、ついまた手が伸びる。飲み過ぎた、と気づいたときには既に、強い倦怠感に見舞われていた。
手足が鉛のようだ。体が思うように動かせず、ベッドへどんどんめり込んで行くような気がする。天井が回り、目を閉じると瞼さえ開けられなくなった。
ざわざわと風の音が聞こえる。誰かの話し声がする。現実と夢の間にいるのか、或いはもう眠りの中なのか、意識がぼやけて判らなくなった。
どのくらい経ったのだろう。
眩しさに目を開けると抜けるような青空があった。
カモメの鳴き声と、風の音と、そして波の打ち寄せる音が聞こえる。照りつける陽光と潮の匂い、焼けた砂の熱い感触があった。
夏の海だ。
「あっちい……」
どうせ海に来るなら、積丹の岩場で海の生き物探しでもしたほうが楽しいのに、何であのバカはコッチに連れて来たのだろう。
しかも海浜浴場の間にある、遊泳禁止の小さな砂浜だ。当然海の家もなく、もちろん他に人もいない。
「冷てっ!」
あのバカはご機嫌で、さっさと靴を脱いでジーンズをまくり上げ、波打ち際ではしゃいでいた。
「あーマジ冷てえ、でも気持ちいいわ、お前も来いよ」
ムカつくほど良い笑顔だ。
「つうかよ、積丹行こうって言ったのに、何でこんなとこ来んだよ?」
「ア? 良いじゃん砂浜。岩場キライなんだよ、足切るし」
「靴はけば良いだろ」
「海なのに靴はいたまんまとかナシだろ。海は裸足、むしろマッパ!」
「おい、泳ぐなよ!」
タツは笑いながらTシャツを脱ぎ、丸めて投げる仕草をする。雄介は仕方なく靴を脱いで波打ち際へ行った。
投げられたシャツは大きな放物線を描き、受け止めようと掲げた両手へ上手く飛んできた。それを砂浜へ放った時、ふと女物の甘いフレグランスが香った。
「つうか、ウチのガッコの先生とヤってんじゃねーよ」
「知らねーもん、サユリの仕事なんて」
「とりあえずガッコでヤんの止めてくれって」
「へーへー。つうか盛ってたのはあのオンナだぜ? 俺は誘われただけ。ほら、据え膳食わぬは男の恥って言うだろ?」
「選べよ据え膳!」
大声で苛立ちをぶつけてやる。タツはへらへら笑って、足で波をかき回した。
このバカが来なければ愛美ともっと学祭を楽しめたはずなのに、おかげで野郎二人で海へタンデムさせられる羽目になった。
一人ではしゃぐタツが本当に腹立たしい。そして暑い。クソ暑い。黙って立っているとジリジリ焼かれるようだ。
「あークッソ!」
この腹立たしさをぶつけてやる。
ジーンズを膝までまくり上げ、海に足を入れた。本当に冷たい。北海道の夏の海は沖縄の冬の海と同じくらい、と言ったのは誰だっただろう。そんなことを考えていると、横から波飛沫が飛んできた。
「うわっ、止めろ濡れるって!」
「ダイジョブ乾くから!」
タツが波を蹴って来る。離れるとわざわざ近づき、まだ飛沫を散らす。ひときわ大きくかけられ、ムカついて、タツめがけ思いきり蹴った。
「うわ!」
予想以上に大きな飛沫が立ち、タツが頭から浴びた。目にも入ったようで、タツは顔を押さえて何度も目を擦った。
チャンスである。
「この野郎、くっそムカつく!」
「うわ、ちょ、もうかけんな!」
愛美とのデートを邪魔された恨みをこめて、何度も思いきりかけてやった。あっという間にタツは全身ずぶ濡れになり、両手を上げた。
「判った、判ったって、悪かった!」
「テメエ、口だけだろ。笑ってんじゃねえよっ」
「ハハハハ、バレた?」
やっぱりだ。憎たらしい。
タツが笑いながら砂浜へ上がっていく。雄介もその後を追った。
「あーやっぱ良いな海。風が気持ち良いわ」
ポケットから、辛うじて浸水を免れたタバコを取り出し、美味そうに吸い始める。よこせと言わんばかりに手を出すと、タツは渋い顔で一本分けてくれた。ちらりと見えた小さな箱の中は、残りあと一本だった。
二人並んでタバコを吸いながら、しばらく海を眺めた。陽射しに輝く波は途切れることなく打ち寄せ、じっと聴いていると心地よい。海で穏やかな気持ちになるのは、遺伝子の奥深くに刻まれた「母なる海」の記憶のせいだ――夏休み前にそんなことを、生物の教師が話していた。
先に吸い終わったタツが、砂に吸殻を押しつけてため息を吐いた。
「……なあ、雄介」
「あ?」
「お前、バイクの免許取らねえの?」
「うーん……取りたいけど、今は無理だな」
「何でよ、カネか?」
「それもあるけど、うちのガッコ、免許取得は三年の三学期以降じゃねえとダメだから」
「ふーん。何だ、せっかくタダでやろうと思ったのに」
「え、マジか! つうか何で、お気に入りのバイクだろ?」
「まあな、つうかバイクだけじゃなくてアレもやるよ、ハミングバード」
「はあっ? 何でよ、すげえ大事にしてたじゃん」
「え、いらねえの? お前すげえ弾きたがってただろ」
「そうだけど……」
ハミングバード――ギブソン社の有名なアコースティックギターだ。タツも大切にしていて、今までほとんど触らせてもらったことがない。そんなものを譲ろうなんて、急にどうしたのだろう。何か悪いものでも食ったか、ひどく頭でもぶつけたか、それともこの陽射しに脳ミソがヤられたのだろうか。
しかし正直、くれるなら是非貰いたい。タツとセッションしたときに感動した、あの深く鮮やかな音色を手に入れるチャンスは、もしかしたら今しかないかもしれない。
「……マジいいのか?」
「おう」
「後悔しねえ?」
「おう」
「返せったって、二度と返さねえぞ?」
「返さなくて良いって」
「売るかもしんねえぞ?」
「売んのかよ! まあ、それでも良いけどよ」
タツは少し困ったように笑った。
「あと、俺の持ってる音楽……全部やるわ。だから、あとはお前の好きにしろよ」
「……は?」
「ただ、お前は歌えよ。何があっても歌え。それだけ頼む」
意味が判らない。
理由を訊く前に、タツは立ち上がってTシャツを拾い上げ、砂を落とすように軽く振りさばいた。動きに合わせて背中のタトゥーが、まるで羽ばたくように動く。陽射しに照らされる金髪がより明るく輝いたように見えた。
「……タツ」
「ん?」
「どうしたんだよ、何かアンタ、変だぞ?」
タツはTシャツを広げ、ゆっくり身につけて振り向いた。
「なあ、雄介」
「何だよ?」
「ごめんな……本当に、すまない」
微笑んでいた。
それは優しく、そしてどこか悲しそうで、初めて見る表情だった。
「タツ……?」
「ここでサヨナラだ。俺、行かなきゃならねえとこあるから」
「へ? ちょ待てよ、俺こっから自力?」
こんなところで置き去りにされたら、どうやって帰れば良いのだろう。そもそもここの正確な地名が判らない。それが既にアウトだ。
「いやいや、せめて石狩とか銭函とか、交通機関あるとこまで乗せてけよ。ここでってナシだろ鬼だろ」
「大丈夫、帰りたいって思えば帰れるって」
「はあ? 何だそのファンタジー。出来るわけねえだろ、つうかテメエが連れてきたんだろ、責任持って帰りも送れよ!」
「それはムリ。ここでお別れだ」
「はあっ?」
「じゃあな、元気で」
慌てて立ち上がった雄介へ、タツが軽く左手を振る。その手首から肘まで、あっという間に蛇のタトゥーが現れた。
「あ……」
途端に、背を怖気が走った。
えも言われぬ恐怖が全身に、そして心に絡みつく。脳裏にあの夜が蘇った。
「……タツ、テメエ……」
思い出した。
コイツが、すべてを壊した。
恐怖が怒りに変わり、一気に腸が煮えくり返った。すまない、などという言葉で済まされるものではない。
「待てゴラァ!」
タツは既に背を向け、濡れるのも構わずに再び海へ入っていく。雄介は波打ち際へ走った。
「テメエ、待てコラ、逃げんのかよ!」
呼び掛けに応えず、タツはどんどん進んだ。波が膝から腰を濡らし、すぐに胸元まで沈んでいく。追い掛ける雄介も構わず海へ飛び込んだ。
「タツ! 待てって!」
叫ぶ間にも金色の頭が波につかり、すぐに見えなくなった。
まさか、このまま死ぬつもりだろうか。
確かに殺してやりたいほどの仕打ちを受けたが、だからといって目の前で自殺されてはたまらない。
「このバカタツ!」
腹まで波につかったあたりで、雄介は海へ潜った。
手足を精一杯掻き、タツの姿を探した。早く見つけないと死んでしまう。
(死んで、しまう?)
焦る一方で、雄介はふと、忘れていた事実を思い出した。
(いや、アイツはもう――死んだんだ)
今夜、葬儀だったのだ。
もう二度と、タツには会えない。
泳ぐ気力を失い、雄介は水中でぼんやり前を眺めた。
(タツ……)
不思議な感情が溢れた。
怒りも憎しみも越え、それが膨らんで行く。喉を、気管を締めつけられて痛い。
胸が一番、痛い。
出口を求めてそれがせり上がり、熱を持って瞼を焼く。じきに冷たい水の中へ流れ出て初めて、自分が泣いているのだと悟った。
苦しい。これは悲しみだ。母親がいなくなったときとも、恭二に勘当されたときとも違う悲しみだ。
完全な喪失感。まさに胸に穴が空いてしまうような、そんな底知れない感覚だった。
(……何で、死んだんだよ?)
溢れる涙が止まらない。この夢から、この悲しみから早く抜け出したい。
探るように右手を伸ばすと、急に温かい感触に手を取られた。それは小さく、しかし強く伝わって来た。
「雄介!」
佳澄の声だ。
気づくと、佳澄が雄介の右手を抱き込むように、力一杯握っていた。
「起きた、やっと起きたあ! このくっそバカぁ」
佳澄は泣きながら怒っていた。制服を着たままだ。
何がどうなったのだろう。見慣れない、病室のような味気ない室内は、窓から射す柔らかな夕陽に染まっていた。
「何やってんの雄介、死んじゃうつもりだったの? バカじゃないの!」
「……はあ?」
「はあ? じゃないよ!」
怒鳴りながらも、佳澄は急いでナースコールを押し、恭二へ知らせるべく雄介から離れた。
気分が悪い。吐き気がする。頭も痛い。
何より心が痛い。
「……タツ」
涙が止まらない。
鼻腔に残る潮の匂いを感じながら、雄介はあの夜以来口に出せなかった名を、やっと呼んだ。
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