第37話 世界の終わり 2
修学旅行から戻った翌朝、愛美は目的のドアの前で緊張していた。
ここへ来たのは三度目だ。今回はメッセージで申し出たものの、了解は貰っていない。でも我慢出来なかった。
帰宅したと聞けば顔が見たくなるのは当然で、しかもかなり落ち込んでいると知ってしまったら、少しでも励みになりたいと思う。
携帯を確認すると、メッセージはまだ未読のままだったが、時刻は午前十時を過ぎたところだから、きっと誰かいるはずだ。
ためらいを吹き飛ばすように大きな深呼吸をしたあと、愛美は右手の人差し指でチャイムを押した。
「はーい、え、愛美ちゃん?」
返答に続いて開けられたドアの向こうで、恭二が目を丸くした。
「おはようございます、朝っぱらからすみません」
「あ、いやいや。起きてたから大丈夫。久しぶりだねえ、元気だった?」
「はい。あの、雄介は?」
「まだ寝てるよ。約束してたの?」
「いえ……ただ、昨日メッセで帰って来たって言ってたから、顔見に来ました」
「そっか、ちょっと待っててね」
「はい」
中へ入れてくれるのかと思いきや、ドアをあっさり閉められた。困惑させてしまったように感じたが、単純に部屋を片付けているだけかもしれないと思い直した。
待つ間に携帯を開き、数度タップする。開いたのはサイレントルームのwebサイトだ。
黒いトップにはバンド名のロゴがあり、スクロールすると解散に関するコメントが載せられている。昨夜遅くに更新されたものだ。
一番下に設置されたコメント欄には、解散を惜しむ声が既に百件以上寄せられていた。最新コメントから見ていく合間にも、新着が一つ、二つと増えていく。
雄介はもう、これを見ただろうか。これほどの人達が惜しんでいるのを知っているだろうか。
「はあ……」
すべてはタツのせいだ。やはり去年逮捕された時にメンバーチェンジすれば良かったのだ。
でもそれを指摘すれば、また雄介を怒らせるだろう。せっかく会いに来てケンカはしたくない。
せめて少しでも明るい気分になってもらいたい。愛美は少し考えたあと、メッセージ画面を開いた。
『おはよ。寝起きドッキリでーす!!』
ボケたメッセージを送ってみた。すぐに既読がついたが、雄介からの返信はなかった。完全なスルーだ。
もしかして、起こされて気を悪くしただろうか。
『ごめん…気分悪くした?』
『嫌だったら、今日は帰るよ』
続いてメッセージすると既読になり、少しして返信が来た。
『いや、大丈夫。ただ今起きたとこだからボーッとしてて。もうちょい待ってて』
『うん。ごめんね』
最後の言葉に既読はつかなかった。
ややあって、再び恭二がドアを開けてくれた。愛美は頭を下げてから、そっと玄関へ上がった。
恭二は茶の間へ進むよう身ぶりで表し、そのまま玄関すぐのドアへ消えた。示されたように廊下を抜けて茶の間に入ると、雄介はスウェット姿でソファの横に立っていた。
「……えっと、久しぶり」
彼が振り向き、バツが悪そうに頭をかいた。
生きていた――既に知っていたものの、本人を目の前にして嬉しさと安堵がこみ上げる。愛美は飛びついて強く抱きしめたいのをこらえながら、彼へ近づいた。
「雄介……おかえり」
「うん、ただいま」
何だか、彼の微笑がぎこちない。
ソファへ案内され、なぜ部屋へ行かないのか不思議に思いつつ、勧められるまま座った。
L字に置かれたソファの角を挟むと、少しだけ距離がある。手を伸ばせばすぐに届くが、なぜかこれ以上近づけないように感じた。
「ごめんな、ホント心配かけて」
「ううん。て言うか、ホントびっくりした」
「だよな」
雄介が申し訳なさそうに目を伏せた。何かが変だ――漠然とした不安を感じながら、愛美は手土産のチョコムースを袋から取り出した。
「これお見舞い、っていったら安すぎだけど」
「あ、ありがとう。あとで飯食ってからイタダキマス。お前、食べる?」
「んー、いい。残ったらカスミンにあげて」
「うん、あいつ喜ぶわ」
雄介は立ち上がり、冷蔵庫へチョコムースをしまった。ついでに何か飲むかと訊かれ、持ってきたからと断った。
チョコムースを選んだのは、お互いにチョコレートが好きだからだ。部屋で一緒に食べることを想定して選んだものを茶の間で、しかも一人で食べるのは気が引けた。
「なんかろくなもんねーわ」
右手に麦茶のコップを持ち、左手にせんべいの袋をぶら下げて戻ってきた。
「メッセくれてたのにごめんな。俺、途中で寝落ちしたんだわ」
「そうなんだ。もしかして、実はまだ調子悪い?」
「うーん……」
雄介はリモコンを取り、正面に置かれたテレビを点けた。映ったローカル番組では地元のラーメン屋を特集していた。
「……悪いっつうか、すげえ眠い。あれだ多分、春眠暁を覚えずってやつ? 色々あって、気が抜けたのかも」
「そっか。そういう時はたくさん寝てよ。きっと大きくなるよ」
「二メートルなれるかな?」
「なるかもね。もしかしたらジャイアントだね」
「ヤベエなそれ、頭ぶつけまくりじゃん」
クスクス笑いながらも、視線はテレビに向けられている。久しぶりに会ったのに、こちらをあまり見ない。
漠然とした不安がじわじわと形を持っていく。それを何とか消したくて、愛美は手を伸ばして雄介のそれを掴んだ。すると雄介は驚いたように肩を震わせた。
「な、ナニ?」
「ねえ雄介、また痩せてない?」
「ん? そうかな」
「ちゃんと食べてた?」
「ああ」
筋の浮いた手の甲をなぞると、雄介はくすぐったいと笑って愛美の手から逃げた。普段ならそのまま手を繋いでくれるのに、もしかして触られるのが嫌なのだろうか。
「……ホントに元気になったの?」
「ああ。それよりさ、修学旅行どうだった?」
「うん、まあまあかな」
「京都と奈良だっけ?」
「そう。それに大阪。雨ばっか降っててさ、移動とか現地学習とかすごいめんどかった」
「へえ」
「でもね、京都でナマ舞妓さん見たよ。なんかこう、襟足がすごい色っぽかった」
「ふうん」
「あとね、お土産買ってきた」
「マジか」
「うん」
「お、サンキュ」
定番の京都土産である八ツ橋と、大阪の雑貨屋で見つけたキーホルダーを渡すと、雄介はとたんに吹き出した。
「うっわなにコレ?」
「ネギ塩たこ焼き」
「何でネギ塩たこ焼き?」
「え、大阪だから。私はタルタルたこ焼き。お揃いだよ」
「いやコレどうよ?」
「えー可愛いじゃん。ネギぴよぴよしてて」
「可愛いか? 判んねえそういう女子のセンス。つうかちょっと美味そう」
「でしょー!」
リアルな質感と色合いをしたキーホルダーは精巧に作られていて、本物と見紛うほどだ。愛美のものと並べてひとしきり笑ったあと、雄介はそれらを目の前のローテーブルへ置いた。そしてソファへもたれ、だるそうに一息ついた。
「そういや新学期、何日から始まんの?」
「四月六日。その前に、二日から講習始まるけどね」
「そっか」
「うん。しかも五日は模試。そんで四月の真ん中も模試」
「続くなあ。塾は?」
「行かない。て言うか行けないね。土曜も放課後もほぼ講習で、毎月二回ずつ模試、長期休みも講習。来年の入試前日まで、ガチで講習と模試三昧。塾行かなくても良いくらい、いっぱいお勉強させてくれるんだって」
「さすが特進、ハードだな。頑張れよ」
「うん、他に八月にコンクールも出るから、ピアノと両立させなきゃね」
「どんどん忙しくなるな」
「まあね」
「なあ、愛美」
「ん?」
「会うの、止めよう」
「え?」
思わず身を乗り出すと、雄介は穏やかに続けた。
「お前、やりたいことあるんだから、俺なんかに構ってねえでそっちに集中しろよ」
「でも……」
「俺、やっと退学届出したんだ。新学期にはいなくなるし、ニートだし、全然ダメ男……お前の邪魔したくねえんだよ」
「邪魔じゃないよ、何でそんなこと言うの!」
つい声が大きくなった。
忙しくなるから会わない、という選択肢は最初からなかったのに、雄介がそれを勧めて来るなんて信じられなかった。
「会わないなんて言わないでよ。私、雄介がいるから頑張れるんだよ。前も言ったじゃん、なのに何で判ってくれないの?」
「判ってるって」
「判ってないよ!」
膨れ上がった怒りと悲しみを、声に出してぶつけた。
「ニートだから何? 私そんなの全然気にしないよ。それに雄介はダメ男じゃない。今はバンドないかもしれないけど……って言うか、雄介は平気なの? 会えなくなっていいの?」
良いはずがないと応えてくれると思った。しかし雄介はいとも簡単に頷いた。
「……つうかさ、ぶっちゃけ今、会うの辛いんだわ」
「……え、なんで……?」
「判んねえ? お前にはマジに、やりたいようにやって欲しいと思ってる。ただ、そんなお前見てると、自分があまりにバカで何もなくて……最悪だって思い知らされて、正直キツいんだ」
深いため息を吐いて、雄介は顔を伏せた。
これはもしかして、別れたいという意味だろうか。
何故、どうして、と疑問符ばかりがぐるぐる回る。一つだけ判るのは、雄介は今、自分に会いたくないと思っていることだ。
胸が痛い。痛みが涙を呼び起こす。待ちわびた再会なのに、どうしてこんなに辛いのだろう。
「……私のこと、嫌いになったの?」
「そうじゃない。ごめん、違うんだ。泣かすつもりじゃないんだ、ただお前のために……ああ、くそっ」
言葉に悩むように、雄介は頭を抱えた。
何が違うのか。
会わないことと、嫌いになったことは同義ではないのか。
今まで付き合った相手は「君のために」と気遣う建前を並べて、いつの間にか離れていった。気がつけば独りで取り残されていた。
雄介もそうなのか。
悲しみに苛立ちが絡まり、気持ちが暴れる。溢れた涙を手の甲で拭いながら、愛美は心のまま叫んだ。
「もういい、はっきり言えば良いじゃん、別れようって!」
びくり、と雄介の肩が揺れた。恐れたようにも見えたが、もう止まらなかった。
「嫌いになったならそう言えば良いじゃん! ごまかさないではっきり言ってよ!」
「違う……待ってくれ」
「何が違うの? 会わないなんて言って、自然消滅狙ってるなら止めて。そういうの、もううんざりだから!」
「違うって! 何で判んねえんだよ!」
「判らないよ、だって雄介おかしいもん! 前はそんなじゃなかった!」
「だから違うって!」
「じゃあ何よ? はっきり言ってよ!」
声が裏返る勢いで怒鳴ると、雄介は頭を抱えてしまった。これ以上話したくないという意思表示のようだ。
一体どうしたら良いのだろう。もっと問い詰めれば良いのだろうか。でもそうしたら、本当に別れることになりそうだ。
別れたくない。きっと何があっても、雄介を嫌いになんてなれない。荒れ狂う胸の内を何とか収めたくて、愛美は唇をきつく噛んだ。
重苦しい雰囲気のなか、テレビから発された笑い声や軽快な音が白々しく流れていく。それに混じって携帯が鳴り出し、雄介が緩慢にスウェットのポケットへ手を入れた。
「……ちょ、ごめん」
誰からだろう。
雄介は画面を確認し、半分背を向けて応答した。
「もしもし」
「俺だ」
一瞬聞こえた声は男だった。やり取りから察するに、元メンバーの誰かのようだ。
雄介はしばらくぶっきらぼうに頷いていたが、突然表情を変えた。
「……嘘だろ?」
驚愕し、そのまま無言になる。相手は何か話しているようだが、相槌を打つのも忘れてしまったようだ。にわかに指先が震え出し、携帯が手からソファへ抜け落ちた。
「嘘だ……だって、何で……」
「……雄介?」
「あり得ねえ、そんなん、ふざけんなよ……」
「どうしたの? 何かあったの?」
「アイツが……死んだって」
「え?」
「アイツ」が誰なのか、愛美には判らなかった。
ソファに落ちた携帯から、雄介を呼ぶ声が聞こえる。しかし雄介はまったく動かない。
「雄介、ちょっとどうしたの、しっかりしてよ!」
大声で呼ぶと、雄介がやっと気づいたように携帯を拾い上げた。
「悪い……うん、大丈夫だ。ああ、判った」
通話を再開したものの、とこか上の空だ。そのうち話が終わり、雄介は携帯を両手で握りしめた。
「何があったの?」
「……悪い。用事出来たから、今日は帰ってくんねえか?」
「え?」
「ごめんな。ホントに、ごめん」
心のこもらない謝罪とともに、雄介は立ち上がって自室へ戻っていった。
「雄介、待って雄介、ねえ何があったの?」
追いかけて、閉められたドアへ呼び掛けた。ノックしても返答はない。
本当に拒絶された気がした。
ただの木製のドアが、今は分厚い鉄の扉のように拒む。開けるための鍵は、愛美の手にはなかった。
「来なきゃ、良かった、な……」
後悔が涙とともに溢れた。この言葉もきっと、雄介には届かない。
強い無力感を噛み締めながら、愛美はのろのろと玄関へ向かい、そっと外へ出た。
◆
水谷達也の死は、夕方の全国ニュースで報道された。ただその内容は死に至った経緯と「拘置所という管理された環境でなぜ自殺(または未遂)者が出るのか」という観点から構成され、数十秒の尺だったこともあって、当人のプロフィールや事件の詳細は省略されていた。
夕食前、愛美は自宅のテレビでそれを見ていた。
親しいわけではなかったが、知人に類する人間の死は初めてで、さすがに衝撃を受けた。そして、雄介に掛かってきた電話の用件がこのことだったと気づき、たまらない気持ちになった。
雄介は大丈夫だろうか。
「どうしたの、顔色悪いわよ?」
「ううん、何でもない」
テーブルへ料理を持って来た母に問われ、愛美は慌てて笑顔を作った。母は愛美とタツが知り合いだという事実を知らない。
出された夕食の味は良く判らなかったが、とりあえず急いで食べた。そして勉強を理由に部屋へこもり、有希へ電話した。すると有希も驚いて、すぐにネットニュースを調べた。
「ホントだ……何で、タツさんが……」
「雄介も知らなかったみたい。話聞いて、すごいビックリしてた」
「マジか……アイツ大丈夫かな。何か話した?」
「ううん、実は……」
「どしたの?」
「ちょっとケンカしちやって。でも大丈夫、メッセしてみる」
「そう。じゃあ私はウザトにするよ」
「うん、お願い」
「早く仲直りしなよ?」
「うん」
有希とのやり取りを終えてから、雄介へメッセージを書こうとして手が止まった。
会いたくないと言われ、言い争いの途中で帰って来た。とても気まずい。気まずいがやっぱり心配だ。
「メッセもやめよう、とは言わなかったよね……?」
返事がなくてもいい。最悪、読まれなくてもいい。ただ、雄介を想い案じる人間がここにもいるということを忘れないで欲しい。
どうか、この気持ちが彼へ届くように――愛美は縁結びの御守と携帯を握りしめ、目を閉じて束の間祈った。
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