第35話 the day after tomorrow 4

 雄介に退院の許可が出たのは、三月も下旬に差し掛かる頃だった。

 投薬はまだ続いているものの、体力は八割がた回復し、目に見える傷や痣もほとんど消えた。警察の聴取も終了し、今後は地元札幌で、山田医師から紹介されたカウンセリングへ通うこととなる。


「雨、か……」


 退院当日の朝、雄介は病室の窓から外を見ていた。

 建造物ばかりで緑の少ない景色は、先ほどから降り始めた霧雨に煙っている。まるで今の気分のようだと思った。

 地元へ帰ると言っても、雄介一人での帰郷は山田医師が許さなかった。それについては自分が段取りすると、三日前に訪れた村田が言っていた。

 一体、誰が来るのだろう。

 未成年だから保護者が来るのが筋だが、勘当されている手前、恭二が来てくれるとは思えない。他に可能性があるのはコウかダグラスだ。

 もしそうなら、どんな顔をすれば良いのだろう。

 あの夜、コウは救急車に同乗していた。ということは、恐らくホテルの部屋に入ったはずだ。ダグラスもそうだろう。あそこで何があったか、知っているかもしれない。

 緊張で心臓が不規則にはねる。落ち着けと自分に言い聞かせながら、雄介は自分の服をベッドの上に並べた。

 ジャンパーもジーンズも、ブーツもきれいになっている。誰かがそうしてくれたようだ。ただ、長袖シャツが見当たらなかった。


「ヤベ……」


 持って来た着替えはどこへ行ったのだろう。これでは素肌にジャンパーで帰らねばならない。

 携帯もない。おまけに財布もない。


「マジかよ……」


 もっと早くチェックすれば良かった。財布に至ってはなくしたことに気づいてすらいなかったのだから、今から探すのは無理だ。

 ベッドに座りがっくり項垂れていると、足音がやって来てドアをノックした。


「深澤くん、おはよう」


 顔を覗かせたのは村田だった。村田はにこやかな笑顔で、病室へ遠慮なく入ってきた。


「良く眠れた?」

「はあ……たぶん?」

「あら、微妙だね。朝御飯食べた?」

「はあ」

「曖昧だなあ。あ、さては嫌いなおかずが出たのかな」

「あ、そうかも」


 適当な返事をすると、村田も愛想笑いした。そして携えていた紙袋をテーブルの上に置き、中に手を入れた。


「そうそう、ほらこれ」

「え……?」


 袋から出て来たのは新品の黒いシャツだ。村田は満面の笑みで、それを雄介へ渡した。


「鑑識から破れたシャツが回って来たから、もしかして着るものないかなって思って。良かったら使って」

「あ、ありがとうございます……」


 意外な気遣いに驚きながら、雄介は薄いビニール袋に入ったそれをしげしげと眺めた。


「バーバラ洋装店、380円……」

「あっ、タグ着いてた? あは、あははは。アメ横で昔買ったやつなんだ。そこの店、特に安くて良いんだよ。僕のスーツもそう」


 村田は少し照れた顔で、よれよれのネズミ色スーツを指差した。

 どこで売っていようと、それが幾らだろうと、今欲しいものを差し入れて貰えるのはありがたい。雄介は頭を下げ、さっそく袋から出した。


「着替えする?」

「あ、はい」


 村田がベッド周りのカーテンを閉めてくれた。

 着なれてしまった病衣を脱ぎ、遠慮なくシャツを着た。丈が少し短いが、身幅は問題ない。ジーンズとブーツをはいてカーテンを開けると、村田はまた紙袋へ手を入れた。


「それから、財布。一応、証拠品で借りてたから」

「マジすか。なくしたと思ってた」

「あっ、ごめんね言ってなくて。あと携帯。ベッドの下にあったよ」

「あ」


 鑑識が見つけてくれたそうだ。雄介はまた頭を下げ、電源を入れた。


「悪いけど、捜査の兼ね合いで中見せてもらったよ」

「あ、はい」

「音楽のデータ量すごいね。クラシックまで入ってて、ロックやってる人なのにこんなのも聴くんだって、鑑識さんびっくりしてた。その人実はクラシックおたくでね、深澤くんってセンスいいって言ってたよ」

「へえ……」


 まともに返事をすると村田の話が長くなるので、相槌で留めた。

 立ち上がったトップ画面は、メッセージとメール、着信の通知だらけだ。とりあえずメッセージを開くと、コウやダグラス、佳澄、その他バンド関係者からの未読通知が連なっていた。

 中でも一番多いのは愛美で、百件以上たまっている。嬉しい反面、複雑な気持ちになった。

 いつ、どんな言葉で返信すれば良いのだろう。

 とりあえず最新のものを見ようとした矢先、病室のドアがノックされた。


「どうぞ」


 村田が勝手に応えると、ドアが開けられ、恭二が顔を出した。


「親父……」

「よーうバカ雄介、久しぶりだな」

「何で……」

「何でって、俺保護者だもん。いやあ東京あったかいねえ、さすが本州だわ」


 恭二は普段と変わらない調子の良さで、病室へ入ってきた。そして村田へ軽く頭を下げた。


「不肖の不良息子がお世話になりました」

「いえいえ。退院手続きは終わりましたか?」

「はい、山田先生ともお話しました」

「そうですか。すぐ帰られるんですか?」

「ええ、ホントは観光したいんですけど、仕事もありますんで」

「そうですか」


 二人は少し世間話をしたあと、互いに頭を下げて挨拶を終えた。


「さ、行くぞ雄介。帰りは新幹線だからな。お前初めてだろ?」

「あ、ああ」


 笑顔で促され、ジャンパーを羽織った。使っていた洗面用具やタオル類は置いていくから、荷物は何もなかった。


「深澤くん、じゃあね、元気でね」

「はい……色々ありがとうございました」

「うん」


 村田から右手を差し出された。別れの握手だ。雄介も手を伸ばそうとしたが、途中で止まった。

 他人の手が、特に大人の男の手が怖かった。頭では何もされないと判っているのに、体が動かないのだ。

 雄介が固まってしまったのに気づき、村田はすぐに手を引っ込めた。


「ご飯ちゃんと食べるんだよ。そしてたまにはお陽さまに当たるようにね」

「あ、はい。つうかオカンかよ」

「おいおい雄介、失礼だぞ。ってかお前、入院しても口の悪さは治らなかったんだな」


 呆れたように笑う恭二を見て、何故だか不思議な安心感が雄介の胸に沸いた。それは喉の奥を震わせ、たちまち塩辛い涙を誘った。


「うっせえよ……」


 村田と歩き出した父親の、自分とそう変わらない高さの背中が潤んで揺れる。こんなところで泣くまいと、雄介はこっそり目頭を押さえた。


  ◆


 病院の玄関で村田と別れたあと、恭二は雄介を伴い、タクシーで東京駅へ向かった。本当は公共交通機関のほうが早くて安く済むが、雄介が人混みで必要以上に刺激を受けるのは避けたかった。

 ベテランドライバーに当たったお陰で、渋滞を上手く避け、余裕を持って東京駅へ到着出来た。構内は札幌駅より遥かに広く、まるで大きな商業施設のようだ。手近な店舗で適当な飲食物と土産を買い、迷いながらプラットホームへ向かった。


「やっぱり人多いなあ。金曜のススキノみたいだ」

「当たり前だろ、北海道と人口密度違うんだから」

「お、なーんか頭良さそうなコト言うじゃん、雄介」

「別に、良くねーし」

「やっぱバカか?」


 返事がない。どうしたかと隣を見やると、雄介は周囲を見回しながら唇を噛んでいた。

 緊張しているようだ。それがやがて発作を呼ばないよう祈りながら、プラットホームの比較的空いた場所へ移動し、新幹線がやって来るのを待った。


「向こう、雨降ってんのかな……」


 呟きながら、雄介がふと屋根の切れ間を仰ぐ。やつれた横顔を見ながら、恭二は山田医師の言葉を思い出した。


『犯人に飲まされた薬は恐らく、LSD入りの合成ドラッグの類いだと思われます。後遺症で数週間から数ヶ月、フラッシュバックが起きる可能性があります』


 水商売という職業柄、薬物使用者を相手にすることもあった。店のスタッフが常習者になったこともある。それがどれだけ簡単に入手出来て、そしてどこまでも人間を壊して行くことも知っている。

 そんなものを、雄介は飲まされてしまったのだ。

 もしも自分が追い出さなかったら、雄介はこんな目に合わなかったのではないか。

 アナウンスが流れ、新幹線がゆっくり入ってくる。親として自責の念に苛まれながら、それを雄介に悟られないように飄々と、到着した車体へ乗り込んだ。

 指定された席を探し、荷物を置いた頃には、車内の席は八割がた埋まっていた。人が多いと感じたが、座席の背もたれが高いお陰で、座ってまえば他人の姿はほとんど遮られた。

 ホームと反対側の、三人掛けの窓側席に座った雄介は、ただじっと外を眺めている。珍しくイヤホンをしていない。音楽を楽しめるほど、心の傷は癒えていないのだろう。

 やがて発車の合図とともに、ドアが閉まる気配がした。ホームの見送りが、乗客の誰かに手を大きく振っている。新幹線は滑らかに発車し、徐々にスピードを上げていった。


「あ……」


 車内アナウンスが響く中、雄介が窓ガラスに手を伸ばし、尾を引いて流れていく雨粒をなぞる。その子どものような仕草を見ながら、恭二は村田の言葉を思い出した。


『息子さんは犯人から、性的暴行を受けた可能性があります』


 これはさすがに衝撃だった。雄介は男らしい子だ。性的な被害を受けるなど、今まで考えたこともなかった。

 聴取の際、雄介はそれを頑なに認めなかったそうだ。例え犯人が自白しても本人が認めなければ、そこに関しての立件は難しいと村田は言っていた。

 被害がなかったと信じたい。しかし雄介があそこで村田と握手出来なかったのを見て、事実なのだろうと感じた。必要以上に他人との接触を怖がるということは、それ相応の理由が必ず存在するものだ。

 犯人が憎い。息子を苦しめた男をこの手で極刑に処してやりたい。だが今は自分が怒りを表すよりも、息子を守るのが最優先だ。息子には何よりも、安心出来る場所が必要だ。必要以上にナーバスになってはいけない。


「やっぱ速いねえ、新幹線。静かだし、椅子も良いし」「ああ……」

「腹減らない? 飲み物は?」


 買ったペットボトルを見せると、雄介は少し迷って指差した。


「じゃあ、コーヒー」

「あ、それは俺の。お前はウーロン茶な」

「はあ? じゃ聞くなっつうの」


 不服そうに口を尖らせる雄介へ、あえてニンマリ笑って見せた。それでも手渡すと素直にキャップを開ける。結局どちらでも良かったようだ。

 一口飲んだあと、雄介はキャップを閉めながら、ちらりと恭二を見た。


「……どのくらいかかんの?」

「函館まで?」

「うん」

「四時間と少し? 函館っても、北斗駅だけどな」

「そうなんだ」

「ま、北海道入っちゃえばレンタカー乗り換えるから、北斗でも問題ないだろ」

「レンタカー? そっから家までどんぐらい?」

「高速飛ばしたら四時間半?」

「ふーん……けっこうあんな。運転大丈夫?」

「任せなさい、眠くなったら瞼にセロテープ貼って運転するから」

「ヤバいだろそれ」


 雄介が笑顔を見せた。少しはリラックスしたようだ。

 いくつか下らないやり取りをしたあと、雄介はふと窓へ目をやった。


「なあ、親父」

「ん?」

「話、どこまで聞いた?」


 努めて軽い声を出したようだが、雄介の拳は彼の膝の上で白くなるほど握られている。緊張し恐れているのが伝わって来た。


「事件の話か」

「……うん」

「全部聞いたよ」


 一瞬、雄介がひくりと固まった。しかしすぐに小さなため息を吐いた。


「そっか……」

「そうよ。だって俺、お前の親父だもん」

「……勘当してたのに?」

「うん」

「血も繋がってねえのに?」

「うん。っていうかお前、血の繋がりとか、まだそんな小っさいことにこだわってんの?」

「え……?」

「そんなのどうてもいいよ。俺が決めたから。勘当しようが何だろうが、お前はうちに来たときから俺の息子なの」


 今まで一度も口に出したことのない決意を突きつけた。

 二人の嫁がそれぞれ出て行ったとき、それぞれの子どもの頭を撫でながら、密かに誓ったことだった。

 雄介は目を見開き、まじまじと恭二を見つめていた。久々に見た息子の、中々のアホ面だった。


「まずはゆっくり休んで、体重戻せよ。お前ペラペラすぎ。俺より痩せてるとか許せない」

「……うっせえよ、自分が腹出て来てるからって。ビール飲み過ぎなんだよ」

「やだ何で知ってるの? 気にしてるのにー」


 笑いながら、最近緩んできた腹を撫でて見せる。すると雄介がクスクス笑った。


「バカじゃねえの」

「お前もな」

「うっせー」


 雄介は笑いながら、顔を両手で隠すように押さえた。洩れてくる笑い声が、少しずつ湿り気を帯びてくる。やがて前屈みになり、顔を伏せてしまった。


「はあ……参った、止まんね……」


 涙声が呟いた。

 肩を震わせ、声を殺して泣く雄介を見て、恭二も胸が痛んだ。

 どれだけ辛いだろう。どれだけ悔しいだろう。代われるものなら代わってやりたい。

 恭二は涙をこらえながら、ポケットを探った。


「あ、ごめん雄介」

「……何?」

「ティッシュ一枚しかないわ」

「……」

「いやあ、車内販売でティッシュ売ってないかなあ」

「たぶん、ねえな……」

「仕方ない、トイレからペーパーくすねてくるか」

「止めてくれ……あれ固くて、鼻とか痛えし」

「だよな。しゃあない、はいコレ。営業用のお高いヤツだから鼻かむなよ?」


 代わりにハンカチを顔の横へ差し出すと、雄介は鼻をすすり上げながら受け取った。そしてそれを顔に当て、再び肩を震わせた。

 こんなに泣いている息子を見るのはいつぶりだろう。確か、母親が出て行った夜以来だ。

 あの時はまだ小さかったのに、こんなに大きくなった。笑ったり叱ったり、反抗期などは衝突して本当に大変だったが、それでもここまで育ってくれた。この命が失われなかったことが、何よりも大切なことだ。


「雄介」

「……何?」

「生きてて良かったよ」

「……」

「ホント、生きてて良かった」


 こみ上げる涙を拭いながら、そっと息子の頭に触れた。昔そうしたように、慈しみをこめて二度、頭を撫でた。雄介は嫌がらず、ただ一層大きく肩を震わせ、嗚咽を洩らした。

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