第34話 the day after tomorrow 3

 三月三日のひな祭り、愛美は目覚めてすぐ携帯を確認した。

 雄介からのメッセージはまだない。予定なら、そろそろ大阪から帰ってくる頃だ。


「忙しいのかな……」


 最後のメッセージは三月一日、移動中の画像と「ヤベえ暑い」だ。まさか暑すぎてミイラにでもなったのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、いつも通り制服に着替えた。

 朝食を済ませ、家を出て、定刻通りのバスに乗った。混みあった車内で英単語を覚えながら、ふと窓に目をやれば汚れた残雪の塊が見える。雄介のいる地はもう花が咲いていた。少し羨みながら、目的のバス停で降りた。


「樋田、おはよー!」

「あ、おはよ!」


 クラスメイトと通学路で行き逢い、雑談しながら学校へ向かう。余裕を持って到着し、教室に入った途端、ポケットの携帯が震えた。もしやと期待して画面を覗くと、有希からのメッセージだった。


『おはよ。あのさ、雄介から何か連絡入ってない?』

『おはよ。入ってないよ~』

『そうなんだ…』

『え、なんかあった?』

『実はさ、こんなニュースあったんだけど』


 メッセージの下にリンクが貼られている。もしや移動中に事故でもあったのかと心配になりながら、愛美はそこをタップした。


「え……」


 開いたリンク先のトップには、濁った青空とホテルらしきビルの画像が載せられている。その下に続く記事の見出しには「人気インディーズバンドのギタリストが薬物で逮捕」と書かれていた。


「え、誰?」


 昨夜遅くにアップされた記事の詳細には、一日未明、東京都武蔵野市のビジネスホテルで水谷達也容疑者が薬物を所持・使用、さらにバンドのメンバーである少年Aを暴行した疑いで逮捕、とあった。

 容疑者の名を見て、愛美は緊張した。


『まさか、まさかタツさん!?』

『わかんない、本名知らないから。でも、すごい気になるよね』

『うん……少年Aって、まさか……』


 メッセージを書きながら、目の前が暗くなっていくように感じた。

 本当に、容疑者はタツなのか。雄介は事件に巻きこまれてしまったのだろうか。信じられない。信じたくない。


『待って、カスミン……いや、おじさんに聞いてみる』


 急いで送信し、画面を通話に切り替えた。住所録から恭二へ発信する。かけるのには朝早すぎる、と気づいたのは、呼び出し音が鳴り始めてからだった。

 案の定、留守番電話だ。

 すぐに切り、今度はカスミンへメッセージを送った。幸いにして、返信はそれほど待たずに来た。


『え? お兄ちゃん? いやあ、なにも聞いてないけど』

『そっか。ところでおじさん、まだ寝てる?』

『オヤジ? なんか、昨日の夜からトラブルあったって、どっか行ったよ』

『りょ。ありがとね~カスミン!』

『うえーい』


 可愛いスタンプが添えられてくる。愛美も適当なスタンプを返した。

 佳澄が何も知らないということは、雄介に何事もなかったと言うことだろうか。しかし、容疑者の名前や立場、状況が引っかかりすぎる。恭二が留守なのもタイミングが良すぎる。


「雄介……」


 本人の携帯にかけると呼び出し音は鳴るものの、繋がらない。そのうち予鈴がなり、不安な気持ちを抱えたまま教室へ戻った。


(雄介……どこにいるの?)


 不安が時間を追うごとに膨み、悪い結末ばかりを想像させる。愛美は鞄の中から縁結びの御守を出し、両手でぐっと握りしめた。


(神様、どうか、雄介を守って)


 縁結びにこんな願いをするべきではないのかもしれない。それでも今は、願わずにはいられなかった。互いを繋ぐ細い細い糸を信じるしかなかった。


 昼休みになり、有希と田中が愛美の教室へやって来た。

 三人で音楽室へ移動し、昼食を摂りながら、考えうる手段で事件の詳細と雄介の安否を調べた。

 雄介も恭二も、まだ連絡が取れない。ネットニュースも真新しい情報は出て来ない。思い余ってUGAへ問い合わせたが、横田はまだ出勤していなかった。


「サイレントルームのサイトも、何にも更新してないね」


 携帯を見ていた田中が、ため息混じりに呟いた。


「せめて、ゆー以外のメンバーさんの連絡先持ってたらなー」

「ウザト、師匠の携帯とか知らないの?」


 有希が尋ねると、田中は頭をかいた。


「やー、お名刺くださいってお願いしたんだけどさあ、持ってないとか車に置いてきたからあとでーなんて言われてそのまんまなんだよねえー」


 それはつまり、はぐらかされたということだ。コウにとっても田中はウザかったらしい。

 他に出来ることはないか愛美が考えていると、ふと有希がこちらを見た。


「愛美、全然食べてないじゃん」

「え?  ああ、うん」

「ダメじゃん、ほら、食べて!」


 食欲などまったく沸いてこない。だが食べなければ有希が怒る。仕方なく、持たされた弁当箱を開けた。

 一口大のトンカツに、ミニトマト、カボチャの煮物など、偶然にも雄介に初めて弁当を渡した時と同じラインナップだ。

 あの日は隣に彼がいた。少し歪な玉子焼を美味しいと褒めてくれた。


「いただきます……」


 黄色いそれを口にする。形はきれいになったものの、いつもより塩辛い。味付けを間違えたわけではなく、こみ上げる涙のせいだ。

 悔しい。

 本当はすぐにでも探しに行きたいのに、ここで待つしかないのが歯痒い。

 何も出来ない自分をもて余しながら、収穫のない昼休みを終えた。


 上の空のまま午後を過ごし、放課後に有希と少し話してから帰宅した。夕飯は華やかなちらし寿司だったが食べる気になれず、母へ適当に言い訳して自室へこもった。

 雄介は今、どうなっているのだろう。何度かけても、メッセージも繋がらない。机で携帯と縁結びを握りしめていると、恭二から着信した。


「も、もしもし!」

「あ、愛美ちゃん? 久しぶりだね、元気にやってる?」


 いつも通りの恭二だ。これはもしかしたら、何もなかったのかもしれない。あの記事は雄介と関係ないのかもしれない。そんな淡い期待を抱いて恭二へ問い掛けた。


「あの、雄介、なんですけど……」

「あ、もうニュース見ちゃった? バカ息子でごめんねえ、心配したよね、きっと」

「……本当、なんですか?」

「うん、残念ながら」


 なんて事だ。

 頭が真っ白になり、動揺で震えた。嘘だと言って欲しかった。


「でも、心配しないで。本人ピンピンしてるから。ただ、事件になっちゃったから、ほら、警察に色々聞かれたりしてるから、コッチ戻ってくるの時間かかるみたい」

「そうですか……」

「うん……愛美ちゃん、大丈夫?」

「はい、大丈夫です……あの、怪我、とかは?」

「打撲と打ち身くらいかなあ。あ、あとたんこぶ? 事情聴取の兼ね合いで、一応あちこち検査するみたい」


ということは、一週間以上もかかるのだろうか。

会いたい。飛行機で日帰りしてでも会いたい。


「お見舞いとか、行っても良いですか?」

「それはまだ無理かな。警察のほうで、しばらく面会はさせないでって。しかも東京だしさ。まーったく人騒がせだよね、ホントごめんね」

「いえ……ありがとうございます」


 生きていた、良かった。しかも恭二の口ぶりだと、怪我も大したことはなさそうだ。

 ほっと気が弛んだとたんに涙が零れ、止まらなくなった。


「あっ、泣かなくて良いんだよ。むしろあんなバカ、帰ってきたらガッツリ怒ってやって」

「はい……そうします」

「三発くらい殴っても良いからね、ハハハハ!」


 恭二の冗談に泣きながら笑い、最後にもう一度お礼を言って話を終えた。


「良かった……」


 再び縁結びを握りしめ、神様に頭を下げた。

 帰宅は先になりそうだが、帰ってきてくれるならそれでいい。安堵の涙を拭いながら、きっと情報を待っているであろう有希と田中へ連絡を入れた。


  ◆


 雄介が闇から目覚めると、真っ先に見えたのは、カーテンレールに囲まれた白い天井だった。

 見覚えのない天井だ。楕円のレールには薄いグリーンのカーテンがかけられ、右側だけ閉められている。そこがぼんやり明るいのは窓があるからかもしれない。雄介は何の根拠もなくそう思った。

 静かだ。

 左側に点滴がぶら下がっている。それでやっと、ここが病院だと推測出来た。


「うっ……」


 頭を少し動かすと鈍く痛んだ。首も、体もあちこち痛い。吐き気もする。寝返りしようと腕を動かすと、点滴チューブが引っかかりわずらわしい。

 どうなって、今ここにいるのだろう。

 記憶を手繰ろうと試みるが、頭の中は真っ白で、脳自体が働かない。そもそも今、何日の何時なのかも判らない。

 ベッドの回りに時計やカレンダーはなく、テレビも消えている。誰かに聞こうにも、部屋には誰もいない。雄介は仕方なく、枕元に置かれたナースコールを鳴らした。するとすぐに看護師が現れた。


「気がついた? お名前言えますか?」


 穏やかな微笑に問われ、応えようとした。しかし喉から出たのは枯れたノイズのような声で、喋ろうとすると咳が出て酷く痛む。

 看護師は頷いて、医師を呼んでくると言い残し去って行った。

 どうしてこんなに声が枯れているのだろう。

 喉に手をやると包帯が巻かれていた。大きな湿布も貼られているようだ。痛みを抱えながら理由を考えているうち、足音が部屋へやって来た。


「こんにちは深澤さん、気分どうかな?」


 白衣に眼鏡の医師が、カートを押した看護師を従えて現れた。

 聞かれたことに応えたかったが、声を出そうとすると咳込んでしまう。医師は雄介の様子を見て、後ろに控えている看護師へ指示を出した。


「お話、まだきついね。無理に喋らなくていいよ。ちょっとごめんね」


 医師は柔和な顔で雄介の横に立ち、聴診器を手にした。反対側に看護師が回り、雄介の上掛けをずらした。


「胸の音、聞かせて下さいね」


 着ていた病衣が緩められ、痣と傷のある肌が晒された。聴診器のチェストピースをつまんだ手が近づいてくる。肌にそっと当てられ、ひんやりした感触がした。


「え……」


 医師の手が突然、蛇に見えた。先割れた舌が肌を舐め、黄色い目が光っている。


「う、うあ、うわああああ!」


 まるでスクリーンに次々映し出されるように、あの夜が戻ってくる。蛇男がすぐ近くで嗤っている。たちまち雄介の全身に恐怖が沸いた。


「来るなあっ!」

「深澤さん!」

「うわああああっ、ああああっ!」

「落ち着いて、大丈夫だから!」

「嫌だ、止めてくれ!」


 医師と看護師が慌てて雄介を抑えた。しかし雄介は我を失ったように暴れ、あげくにベッドから落ちかける。騒ぎに気づいた別の看護師が数人駆けつけ、そのうちの一人がカートの上に用意してあった薬を投与した。


「うう、ううううっ」

「深澤さん、もう大丈夫だよ、大丈夫!」

「落ち着いて、深澤さんっ」

「放せ、放してくれっ……」


 必死に抵抗するも、やがて脱力感に襲われた。周囲が色褪せ、ぼやけていく。意識を沈められていくような感覚を覚えながら、雄介は瞼を閉じた。


 次に目覚めた時、部屋は暗かった。夜のようだが、遠くから人の足音や声が聞こえた。

 体は相変わらず点滴に繋がれているが、頭や体の痛みは幾分良くなっていた。

 喉が渇いてたまらない。ゆっくり体を起こすと目眩がする。まるで病人だと自嘲しながらナースコールした。


「深澤さん、気分はどう? 明かりつけてもいいかな?」


 背の高い看護師がすぐにやってきて、照明を点けた。一瞬眩しく感じたが、すぐに明度が調節され、柔らかな明るさへ変わった。

 看護師は雄介の様子を確認し、また医師を呼んだ。すると先日と同じ医師がやって来て、体調の確認を始めた。


「申し遅れました。担当の山田です。よろしくね、深澤さん」


 山田医師は背の低い、凡庸な印象の男だ。色白で少しふっくらした手は前回のように、蛇へ変わることはなかった。


「今日は喋れるかな?」

「……たぶん」


 咳払いしながらだが、何とか応えられた。ただ、喋ると喉に違和感があった。

 いくつか問診に応え、水が飲みたいと訴えると、看護師がすぐ手配してくれた。


「一口ずつ、ゆっくり飲んでくださいね」


 渡されたマグカップの中は白湯だ。

 そっと口に含もうとして、唇に鈍い痛みが走った。舌で探るとやはり傷があった。

 唇だけではない。腕も、そしてまだ喉にも包帯が巻かれていてあちこち痛む。まるでミイラだと思うと、少し笑いたくなった。


「深澤さん、ここに運ばれてくる前のことを覚えてますか?」


 山田医師に穏やかな声で訊かれ、雄介は記憶を手繰った。

 これだけ傷だらけなのは、恐らく喧嘩などが原因だろう。ただ、誰とそうなったのかがはっきり思い出せない。


「良く、判らないです……ライブやって……」

「そのライブが終わってからは?」

「ええと、確か飯食いに……でも、何かがあって店でもめて、それから……何だ?」


 そこまでの記憶は断片的に繋がっていた。しかしその先は崩れてしまったジズゾーパズルのように、バラバラのピースと化している。繋ぎ合わせるための見本画もない。

 考えているうちに頭が痛み出し、思考がまとまらなくなった。


「深澤さん、頭痛い?」

「少し……つうか今日、何日ですか?」

「三月七日だよ」

「七日……」

「君がここに運ばれて来たのが、二日の午前二時、いや三時だったかな。僕、当直だったんだよ」


 今夜も当直なのだ、と山田医師は笑った。

 ここに運ばれてから五日も経っていた。その間、ほとんど眠っていたのが信じられない。何故、どうして、と疑問ばかりが回り、雄介は頭を抱えた。


「深澤さん、まだ体もきついだろうし、ゆっくりでいいよ。ただ、明日から少し検査を受けて欲しいんだ」

「検査……?」

「頭ぶつけてるみたいだから、念のためだよ。ついでに血液もチェックしとこうね」

「はあ……」

「食事も明日から始めよう。食べられる分だけで良いからね」


 山田医師は喋りながら、手元のカルテにさらさら記入していく。ちらりと見えた内容はミミズののたくったような筆記体で、何を意味しているのか雄介には判らなかった。


「じゃあ、また明日来るね。お大事に」


 気遣いを残し、山田医師が退出した。残った看護師二人は、雄介の身の回りを整えたり、血圧や点滴を確認した。


「深澤さん、痛み止めと化膿止めのお薬入れますね」


 痩せたほうの看護師が、小さな注射器で点滴に投薬する。それをぼんやり眺めているうち、ふと二人のことを思い出した。


「あの、二人は……?」

「ん? 誰かな」

「バンドのメンバーの、ハゲとダグ……」

「ハゲ? ああ、救急車に乗ってたあの人ね!」


 ハゲという例えにウケたようだ。看護師は少し笑ったあと、すでに帰郷したようだと教えてくれた。


「お仕事もあるし、仕方なく戻ったみたいよ。深澤さんのこと、くれぐれもよろしくって。もう少し元気になったらお電話下さいって言ってましたよ」

「そっか……」


 二人が先に帰ってしまった事実を知り、一気に心細くなった。

 生活や仕事があるから仕方ないのだと頭では判っているのに、感情が言うことを聞いてくれない。情けなくも涙が出て来るのを抑えられなかった。


「深澤さん、大丈夫よ。ここのお部屋はナースセンターのすぐ近くだから、何かあったら遠慮なく呼んでね」

「はい……」


 微笑みとともに、箱のティッシュペーパーが差し出される。雄介は鼻をすすり上げながら、それを受け取った。


「消灯前にまた来ますね」


 優しい微笑を残し、看護師達も去っていった。

 鈍く疼く痛みと、切れ切れの記憶と、そして東京の病院にたった一人残された事実が不安となって押し寄せてくる。ともすれば潰されてしまいそうで、雄介は上掛けを握りしめ、必死に泣き声を押し殺した。


 しばらく泣いているうちに眠ってしまったようで、気づいた時には朝が来ていた。とても深く眠ったように感じた一方、夢を幾つか見た気もするが、何も思い出せなかった。

 朝の検温と血圧測定のあと、運ばれてきた食事は五分粥と梅干し、味噌汁だった。あまり味がせず、半分も食べなかった。

 午前中に車椅子で案内され、頭の検査をしにいった。CTは何事もなく受けたが、MRIでは途中でパニックになった。機器のベッドへ横になり、固定用ベルトをされた途端、蛇男が現れたのだ。

 あの姿を見てしまうと恐怖に駆られ、逃げ出したくてたまらなくなる。それなのに、看護師たちが無理やり抑えつけて来て、いつも何かの注射を強引に打たれた。注射は嫌だったが、それを打てば深い眠りに引きずりこまれ、蛇男から逃げられる。雄介はそうやって眠ることが唯一の逃亡手段だと、直に理解した。それが良かったのか、翌日からしばらく蛇男は現れなかった。


 三日後にはMRIの再検査を受けることが出来た。頭部打撲による異常はなしと判明し、あとは後頭部のたんこぶが治るのを待つだけになった。

 そして、首の痛みも日を追うごとに薄らいで行った。嚥下の際に痛んでいたのが収まると、声もある程度回復した。

 入浴も許可され、数日ぶりにシャワーを浴びた。鏡は出来るだけ見ないようにした。上半身のあちこちに残る歯形や小さな鬱血痕を見たくなかったし、何より首に残る大痣が手の形に似ていて、それを見るだけで頭痛と吐き気が襲ってくるからだった。

 食事が普通食に移行すると体力も戻り始め、病室内を歩き回れるようになった。ただ、部屋から一人で出歩くこととテレビの視聴は制限された。

 携帯も制限対象だったが、それ以前になくしてしまったようで、気づいた時には手元になかった。

 きっと愛美は心配している。だが、少しずつ思い出されるあの夜の記憶が、頭痛と猛烈な吐き気を伴って雄介を苦しめる。そして、蛇男とともに彼女を拒絶した。

 もう、彼女に会えない。

 時々苦しむ雄介を見て、山田医師はカウンセリングを受けるよう薦めてきた。雄介も従ったが、カウンセラーとの相性が悪く、上手く行かなかった。

 何が悪いのか、どうしたら元に戻れるのか、自分でも判らない。身のやり場のない苦しみを投薬で紛らわしながら過ごしていたある日、初めて面会客が現れた。

 知らない男二人だった。


「初めまして深澤さん。武蔵野第二署の村田と言います」

「小原です」


 刑事だ。

 彼らが来た意味が一瞬判らず、雄介は見せられた身分証をぼんやり眺めた。


「あ、寝たままでいいよ。楽にしててね。深澤さん、今日の気分はどうかな」

「……別に」

「悪くない感じかな。朝ご飯は食べた? 最近の病院食って美味しいらしいね。僕も若い頃入院したことあるんだけど、当時は粗食だったなあ。今朝のメニューは何だったの?」


 年配の村田は人好きする笑顔で話し掛けて来る。一方で若く体格の良い小原は固い表情で、まるで何一つ見落とさないとでも言うようにじっと見つめて来る。感じが悪い。いらいらさせる目付きだ。


「今回は大変な目にあったね。深澤さん、いま幾つなの?」

「……もうすぐ十八です」

「若いね。うちの娘と三つ違いだなあ。いやね、娘は今年二十歳になったんだけどね」


 どうでも良い情報だ。


「村田さん、そろそろ」


 隣の小原が痺れを切らしたように、腕時計を指差した。面会時間が限られているようで、村田は苦笑いしながら頭をかき、改めて雄介を見つめた。


「深澤くん、今日は三月一日の話を聞きに来たんだ」

「はあ……」

「水谷達也、知ってるね」


 村田からその名を告げられた途端、雄介の背に怖気が走った。聞きたくない名前だ。忘れていた、否、思い出すのを拒否していた名前だった。


「彼と君は、どういう関係なのかな」

「……別に、バンドのメンバー、だけど」


 声が震えた。あの男の話は出来るだけしたくない。そして、そんな本音を刑事達にも悟られたくない。

 雄介は上掛けの下で拳を握り、奥歯を噛みしめた。力を入れていなければ、心が折れてしまいそうだった。


「なるほど。ええとじゃあ、一日に何をしてたか、朝から順を追って教えてくれる?」

「……」

「深澤くん、どうかな」

「……忘れた」

「おい、ふざけるな!」

「小原!」


 横から小原が威嚇するのを、村田が鋭く制した。

 小原の態度に、去年受けた屈辱的な事情徴収が思い出された。あれは自分を疑っている態度だ。途端に雄介の中に強い反抗心が生まれた。


「別に。微塵もふざけてねえよ」

「まあまあ。ごめんね深澤くん、小原まだ若くて。気を悪くしないでね」

「……」

「忘れてるところは応えなくて良いよ。覚えてることだけ教えてくれるかな?」


 柔らかい物腰なのに、有無を言わせない響きがある。これは話さないと帰ってくれなさそうだ。

 雄介は少し目を閉じてから、ため息を吐いた。


「一日は、新潟からコッチまで来て、ホテルにチェックインして、そんで、MIXJAMに着いて」

「何時ごろ?」

「昼の三時、くらい。皆で機材下ろして、ダグと車を駐車場入れて、コンビニ行って……」

「水谷はどんな感じだった?」

「船酔いと車酔い。ずっとぐったりしてた」

「いつもと変わった様子は?」

「別に。特には……珍しく乗り物酔いがひどかったくらい」


 頷く村田の隣で、小原が手帳にメモを取っていく。せわしなく動くボールペンを見ていると、村田に続きを促された。


「ライブの直前になって、あいつ、やっと落ち着いたみたいで」

「そうか。それからは?」

「出番来て、ステージ出て、そしてあいつが……」

「あいつが?」

「最後に、ギターを折ったんだ……」


 ギターが壊れていく映像が、スローモーションで思い出された。なぜあの男はあそこで、あんな形で、バンド脱退を表明したのだろう。


「それは、パフォーマンス? それとも何か意図があって?」

「俺が知るかよ」


 吐き捨てると、小原の眉がひくりと震えた。


「ちゃんと応えろ!」

「応えてるだろ」

「何だと?」

「小原、止めなさい。取り調べじゃないんだぞ」

「……すみません」


 諭された小原は悔しそうに顔をしかめ、雄介をにらんだ。

 あの目は断罪の目だ。

 雄介の心に怒りが沸き上がり、やがて悔し涙を誘う。こんなところで泣きたくない。必死に瞬きして涙をまぎらわせた。


「……いつもそうだよな、警察って」

「アァ?」

「あの男が何かやらかすと必ず、俺も同罪だって思うんだろ。同じバンドのメンバーだから、同じことやってるって、テメエら最初から決めてやがるんだろ」

「違うのか? 実際、一緒にヤってたんだろ?」

「違う!」

「嘘言うな! 検査で判って――」

「黙れ小原ァ!」


 凄んだ一喝が響き、小原はびくりと肩を震わせた。見れば村田は鬼の形相で小原をにらんでいた。


「もういい、お前は外出てろ」

「でも……」

「出ろ、この馬鹿者が!」

「は、はい!」


 小原は回れ右し、急いで退出していった。


「うっ……」


 感情が昂ったせいなのか、急に吐き気と動悸が雄介を襲った。閉められた部屋のドアの向こうで、蛇男が嗤っているような気がする。身を守るように上掛けを固く握りしめていると、小原が顔の前で拝むように手を合わせた。


「申し訳ない、深澤くん。小原は悪い奴じゃないんだ。あとで良く言っておくから、今日は許してやってくれ」


 刑事に詫びられたのは初めてだ。もしかしたら、村田は今まで出会った連中とは違うのかもしれない。ふとそう思ったが、素直に信じることも出来なかった。


「あのね、あと少しだけ聞いていいかな」

「……何?」

「一つ確認したいんだけど、君はあの男と、何か特別な関係ではなかったかい?」

「どういう意味だよ?」

「例えば、友達以上に親しい、とか……一緒に暮らしていた時期もあったようだね」

「意味、わかんねえんだけど」

「そうか。じゃあはっきり聞くね。深澤くん、君は水谷と恋愛関係はあった?」


 雄介は村田を強くにらみつけた。


「あるわけねえだろ!」


 はっきり否定すると、村田は一つ大きく頷いた。そしてゆっくり近づき、真っ直ぐ雄介を見つめて来た。


「深澤くん」

「……ああ?」

「あの夜、あのホテルで、水谷と何があったんだい?」


 村田の言葉に、雄介の心臓は早鐘を打ち始めた。

 言えない。言えるはずがない。言ってしまったら、自分自身で認めることになってしまう。

 口をつぐんでしまった雄介へ、村田は更に近づいた。もう、手を伸ばせば横たわる肩に触れられるほどだ。


「辛いことを聞いて済まない。でもね、深澤くん。君の証言があれば、更に量刑を重くするとも出来るんだよ」

「……」

「憎んでいるんじゃないのか? あの男を」

「……」


 村田が少し屈み、雄介へ顔を近づけて来た。一瞬蛇男の姿がだぶって見え、雄介は慌てて目を瞑った。


(消えろ、消えろ――消えろ!)


 必死に祈り、恐る恐る目を開く。そこには村田しかいなかった。

 良かった。つい胸を押さえると、村田が少し眉を寄せた。


「大丈夫かい?」

「あ、ああ」

「話してて良いかい?」


 曖昧に頷くと、村田は小さな咳払いをした。


「……君も知っているとは思うが、麻薬というものは、人を人で無しにするものだ」

「……」

「一度それに染まった人間は、一生涯その誘惑から逃れられない。体が忘れても、脳があの快楽を忘れられないんだ。まさに魔の薬だよ」

「……」


 魔の薬――本当にそうだと思った。

 あの時、正にあの男は狂っていた。あの男も蛇男を見たのだろうか。否、あの男から見た自分も蛇男だったのか。

 そして、自分も同じように狂っていたのか。

 頭の中に、あの夜の断片がいくつも浮かんでは消え、消えては浮かぶ。手が震え、冷や汗が滲む。逃げ出したいと思い始めた時、村田の目が雄介を捉えた。


「水谷はある意味、魔薬の犠牲者だ。そして君にとっては、憎むべき加害者だ。僕は今まで、深澤くんと同じように、辛い目にあった人を何人も知ってる。その人達が本当に苦しんでいるのも知ってるよ。僕は、罪を憎んで人を憎まずなんて綺麗事を言うつもりはない。君は、君を苦しめたあの男を断罪する権利がある」

「……」

「話して欲しい、あの夜のことを」

「……」

「深澤くん、君自身のためにも」


 村田の言葉が、雄介の心に刺さった。

 自分自身のために真実を話せば、この苦しみから逃れられるのだろうか。


「……あいつがおかしくなってて、それで、俺が止めようとして、喧嘩になって……」

「喧嘩になって、それから?」

「それから……」


 唐突に、あの海の光景が脳裡に浮かんだ。波打ち際で、あの男がこちらに背を向け、波に裸足を洗われていた。陽射しは焼けつくように強く、穏やかな波の音だけが繰り返す。ふと金髪が揺れて、こちらへゆっくり振り返った。

 男は微笑んでいた。穏やかな、それでいてどことなく悲しそうな笑みだった。


『雄介、俺は――』


 すべては聞こえなかったが、確かに名前を呼ばれた。


(思い、出した……)


 尊敬していた。音楽を通じて魂を分かち合えるような、そんな大切な存在だった。


「怖いよね、口に出すのは」


 村田の低い声が雄介を現実に戻した。海は霧散し、見慣れてしまった病室が目の前にあった。

 どのくらい見ていたのだろう。あれは何なのだろう。

 今、何をしていた最中だったのだろう。


「深澤くん、悔しいだろう。あの男を、憎んでいるんだろ?」


 確かに悔しい。だが、自分は村田の言うとおり、あの男を心から憎んでいるのだろうか。


「一人で抱えなくて良いんだよ」


 ではこの、村田という男が助けてくれるのだろうか。

 本当に、助けてくれるのだろうか――


「……ねえよ」

「ん?」

「喧嘩になって、それ以上、何もねえよ」

「本当に? 深澤くん、もう一度、落ち着いて考えてみよう」

「ねえ! 本当にねえって!」

「そうか。本当にないんだね?」


 村田の念押しが低く響いた。

 判らない。

 あの男が憎いのに、憎みきれない自分が判らない。

 頭痛と吐き気が襲ってくる。心臓が痛いほど拍動し、呼吸が上手く出来ない。苦しくて目の前が霞み、暗くなっていく。

 蛇男の手が伸びてきて、首をじわじわ締め上げた。


「……う、ひうっ、ひっ」

「深澤くん? おい、深澤くん!」


 異変に、村田が素早くナースコールを押して看護師を呼んだ。十秒もしないうちに複数が駆けつけ、急いで雄介を看護した。


「村田さん」


 後から遅れてやってきた山田医師が、何か言いたそうに顔をしかめる。村田は一つ頭を下げ、雄介の病室を辞した。


「どうでしたか?」


 病室を出た村田へ、待っていた小原が駆け寄って来た。二人は無言でしばらく歩き、エレベーターへ乗り込んだ。幸運にも他に乗り合わせた者はいない。村田は深いため息を吐いた。


「言わなかったよ、あの子」

「村田さんでも落とせなかったんですか?」

「ああ」

「この手を使うと大概の素人はゲロするんですけどね……やっぱり共犯なんじゃ?」

「いや、それはないな」


 村田はじっと、階数表示が順調に下がっていくのを見つめた。

 小原を敵に想定させることで、自分が雄介の味方だということを強調し彼の懐に入るという策略は、ある程度上手く行ったはずだった。実際、他のケースでは高い確率で証言を得られているし、雄介も話してくれた。しかし、肝心の部分は語られなかったのだ。


「あの子は完全にシロだ。恐らくクスリも無理やり飲まされたんだろう」

「それならなおのこと、話して欲しいですね」

「今は無理だな。かなりのPTSDだし、フラッシュバックもあるみたいだからな」

「そうですか……京田管理官どの、クスリ絡みは気合い入るからな……納得してくれますかね?」

「させるさ。今あの子に必要なのは僕らじゃなくて、病院とカウンセラーだもの」


 階数表示が一階を示し、エレベーターが停まる。二人は何事もない顔で、患者の群れるエントランスへ歩き出した。

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