第33話 the day after tomorrow 2

 ライブ終了後、打ち上げの誘いを丁重に断り、サイレントルームの面々はホテル近くの居酒屋に入った。

 滝本の件、吉田から来たレーベルの件、そして最大の問題である、タツの件を早急に話し合う必要があった。そんな焦りが背中に滲んでいたのか、妙齢の店員が個室席に案内してくれた。

 四人掛けの堀炬燵に並んで着いたコウとダグラス、そしてダグラスの向かいに座ったタツは平静だ。その隣で雄介だけが険しい顔をしていたものの、三人の雰囲気に押されて黙っている。とりあえず飲み物を頼み、店員が退出してから、コウが一つ咳払いした。


「色んな意味で、今日はすげえライブだったな」

「そうだね。ねえタツやん」

「あ?」

「ギター、壊しちゃって良かったの?」


 いきなりダグラスが直球を投げ、コウと雄介の眉が跳ね上がった。しかしダグラスは気づいていないのか、飄々と続けた。


「あのストラト、すごく大事にしてたのに。ちらっと見たけど、たぶんネック交換だけじゃ済まないよ?」

「ああ」

「リペア、早く出してあげなよ。何なら、僕の知り合いショーカイするから。すごくナイスな人いるんだ」


 ダグラスの提案に、タツは曖昧に笑って応えた。

 会話が途切れ、気まずい雰囲気が満ちる。壁の向こうは賑やかな酔客ばかりなのに、この部屋だけ重苦しい。そのうちタツがタバコを吸い出すと、他の三人もつられるように吸い出した。

 煙が満ちたころ、店員が飲み物を持って現れ、食べ物のオーダーを聞いてくる。揚げ物を三品と枝豆を頼んだ。


「おにぎりとか頼まなかったけど、雄介、お腹空いてない?」

「いや……つうか、呑気に食ってる気分じゃねえし」

「そう? じゃあもう、割腹して話そうよ。皆、言いたいことあるよね?」

「ハハハハハ、割腹じゃねえよダグ、腹を割って、だから」

「あっ、そっか!」


 タツのツッコミに、ダグラスは照れながら笑った。つられてコウも笑う。和みかけた雰囲気の中で、タツはまるで天気の話でもするように、軽く告げた。


「俺、サイレントルーム辞めるわ」


 一番恐れていた言葉だ。

 雄介が俯いた。ダグラスは目を伏せ、コウはじっとタツを見ていた。


「理由は?」


 コウが訊くと、タツはタバコを消しながら目を伏せた。


「んー、何かさ、やる気が薄れてきたっつうか。皆はバンドで飯食いてえみたいだけど、俺そういうんじゃねえんだよな。もっと気楽に、楽しくテキトーにやりてえんだよ」

「ふーん……それが、お前の本心かよ?」

「ああ。正直、ここ何ヵ月か思っててさ。ライブやればそれなりに楽しいからどうしようか迷ってたんだけど、そろそろ、もう良いかなーって、よ」

「そうか」


 相当に腹の立つ理由だ。さすがに雄介が拳を震わせながら、タツを睨んだ。


「テメエ、本気で言ってんのか?」

「ああ、クッソ本気」

「んだとコラ? どこまで自分勝手なんだよ。ふざけんな、まだ途中なんだぞ!」

「雄介、落ち着け!」


 コウの一喝に一瞬ひるみ、雄介は次の言葉を飲み込んだ。一方でタツは表情を変えずに、汗をかきはじめたジョッキに口をつけた。


「ホントに抜けるの? まだ大阪あるんだけど」

「そこは出ても良いかな。サブギター持ってきてるし、ホントの最後ってことで」

「そっか……とりあえずタツやん、大阪演って、札幌帰って、それからもう一度話し合わない? ここで決めないで」


 ダグラスの出した妥協案にコウも頷いた。


「お前の考えは判った。お前なりに色々考えてたんだな。俺もダグの案に賛成だ。こういうことは焦らないほうが良い」


 大人の提案だ。しかしタツは頷かなかった。


「先延ばしして引き留められてもムリ。つうかさ、いっそ大阪で解散でいいんじゃね? どうせ俺抜けたら、曲作りとかアレンジとか、すぐ出来ねえだろ」

「はあ? ナニ偉そうに言ってんだよ? つうかテメエが解散決めんな!」


 雄介が怒鳴り、拳でテーブルを叩いた。置かれたジョッキが揺れて波を立てた。


「テメエが出てくるのを何のために待ったんだよ、サイレントルーム作ったのテメエなんだぞ、そんな理由で簡単に終わらせんなよ!」

「うっせーよガキ。つうかお前、さっさと滝本とかいうオッサンとこ行けよ」

「はあ?」

「スカウトされてんだろ? 良いじゃん、ソニラブなんてすげー大手、上手く行きゃあ超売れるぜ? バンドだって、バックにすげー奴等揃えてもらえるだろ」

「黙れ!」


 ひどい言い種に耐えきれず、雄介はタツの肩を殴った。かなり本気だったようで、鈍い音が響いた。


「いって! つうか図星かよ?」

「ちげーよ!」

「え? 雄介、ナニそれ。僕聞いてないんだけど」


 ダグラスがにわかに眉を寄せる。雄介が慌てて説明しようとした矢先、タツが笑い出した。


「こんな状態でやれるかよ。バカじゃねえ? なあ、コウさん。あんただってそう思うだろ」

「……あ?」

「レーベルの話、俺は抜けるから、勝手にやってくれよ。大丈夫、いまのサイレントルームに入りたいギターなんて、掃いて捨てるほどいるぜ? 札幌帰って速攻オーディションすれば間に合うって、多分」

「何だとコラ、テメエもういっぺん言ってみろ!」

「コウさん、ノー!」


 額に青筋を立て、鬼のような形相のコウをダグラスが止める。しかし、コウはダグラスを押しやり、立ち上がってタツの胸ぐらを掴んだ。


「この野郎、何のためにここまで頑張ったんだ!」

「知るか、俺は抜ける!」

「このクッソ野郎!!」


 怒り爆発、雄介がタツの頬を殴り付けた。すぐ隣からのパンチはクリーンヒットし、タツは床へ倒れ込んだ。


「ってえ……クソが」

「抜けるなんて許さねえぞ、このクッソバカ!」

「うっせーよ、すぐ殴んのやめろ、頭悪りいな……」

「頭悪りいのはテメエだ、良いか、二度と言うなよ――」

「ムリ。つうか大阪もムリ。このクソガキが既にムリ、もうやってられっかよ!」

「ハアッ!? ちょ待てコラ!」


 やっと起き上がったタツへ、再び雄介が殴りかかろうとする。拳を上げた瞬間、コウがそれを掴んだ。


「止めろゴラァ! いい加減にしろっ」

「離……痛ってえ!」


 コウの拳骨が雄介の頭に炸裂した。スナップの効いた打撃は相当なものだったらしく、さすがに雄介も頭を抱えた。


「ハハハハハ、バーカ」

「黙れタツ、テメエもだ! 辞めるなら俺は止めねえが、タイミングを考えろ。大阪は出てもらう。それが最低限の義務だからな」

「義務、ねえ……」


 タツはコウから目を反らし、のろのろ立ち上がった。


「そういうの、一番面倒くせえよ……」

「おい、どこ行くよ?」

「疲れた。ホテル帰って寝る」

「ちょっと待てや、まだ話終わってねえぞコラ!」


 雄介が引き留めるのも構わず、タツは部屋の引き戸を開けた。すると、すぐ目の前に男性店員が立っていて、今まさに引き戸へ手を掛けようとしていたところだった。


「い、いらっしゃいませえ」


 取って付けたような営業スマイルで、店員が口元をひきつらせる。タツは彼を一瞥したあと、黙って出て行った。


「あのー、お客様、お水をお持ちしましょうか?」

「あ、いえ、大丈夫です」


 咄嗟にコウが応えると、店員はぎこちない会釈を残して引き戸を閉めた。恐らく、ここで何か揉めていると危ぶまれ、様子を見に来たのだろう。


「クッソ、あのバカ野郎……」


 雄介は歯噛みした。

 こんな中途半端ではたまらない。後を追おうと立ち上がると、コウが待ったをかけた。


「ほっとけよ。今は何言っても無駄だ」

「でも――」

「それより雄介、お前に聞きたいことがある。滝本とかいうオッサンの件だ」

「……」

「お前、ホントにスカウトされてんのか?」


 コウが真剣な顔をしている。隣のダグラスも不安げだ。雄介は一つ息を吐いた。


「去年のMIX CORE BALLんときに……でも断ったんだ。俺にとっては、皆で行かなきゃ意味ねえから。だから、断ったから、皆には話さなくても良いと思ったんだ」

「そうか」

「ごめん、コウさん、ダグ」

「謝らなくて良いよ、雄介、気を使ってたんだね。けっこう優しいとこあるんだ」

「それ、ほめてんの?」

「そう、ほめてるよ」


 ダグラスが笑い、コウも表情を緩めた。もしかしたら、隠した自分が悪かったのだろうか。大切なメンバーに疑念を持たせてしまったことを、雄介は少し悔やんだ。


「……あいつにも、ちゃんと話さなきゃ」

「タツか?」

「うん」

「今はあいつも気が立ってる。明日、全員揃ってから改めて話せば良いだろ」

「いや、今話してくる。あいつも大事なメンバーだから……あいつがアーケードで声かけてくれなかったら、俺はここにいないし、コウさんやダグに会うことも なかったんだ。あいつがいてくれたから、俺はサイレントルームで歌えてる。だから……」


 これ以上話すのはもどかしく、気恥ずかしくもある。雄介は引き留める声がかかる前に、そそくさと部屋から出ていった。


「……雄介、ホントにタツやんのこと尊敬してるんだね」

「ああ、そうだな」

「でも良かった、スカウトの話、ちゃんと聞けて。僕、ジェラシー感じちゃったよ」

「確かに。ぶっちゃけ俺もだ」

「だよね、バンドマンなら、誰だってそうだよね」

「まあな」


 二人はニヤリと笑った。そしてどちらともなくジョッキを持ち、軽く合わせた。


「あ、僕ご飯食べて良い? 何か急にお腹空いてきちゃったよ」

「俺も焼き鳥食いてえな。あと茶碗蒸し」

「良いねえ、腹が減っては戦えないもんね」


 ダグラスがメニューを取り、コウにも見えるように広げる。二人はあれこれ選びながら、今夜の疲れを食事で癒した。


  ◆


 コンビニに寄ってホテルへ戻った雄介は、フロントでカードキーを受け取り、部屋へ向かった。

 ぶら下げた袋には、缶ビール二本とつまみが入っている。機嫌を取るには足りないかもしれないが、ドアを叩く理由には足りると思われた。


「悪かった、な……」


 何と切り出そうか。

 きっとタツも、コウやダグラスと同じく、不安だったに違いない。だからあんな酷いことを言ったのだ。それを理解せず殴ってしまったことを悔やみながら、エレベーターで六階へ上がった。

 ドアが開き、突き当たりを右に曲がった。リネン室の隣、角部屋の613号室がタツで、その向かいの612号室が雄介だ。

 雄介は613号室の前で少しだけ躊躇してから、ドアをノックした。

 返答はない。

 もう一度ノックしたが、ドアを開ける気配すらなかった。


「マジに寝たのか?」


 タツが三十分ほど前に部屋へ戻ったことは、フロントで確認してあった。その時間で眠り込むのは、寝付きの悪いタツには考えられない。きっと居留守を使っているのだと思うと、何だかムカついて来た。


「くっそ……」


 タツの携帯を鳴らしてみた。ドア越しに、微かに呼び出し音が聞こえる。やはりいるのだ。意地になって何度かかけ続けると、やっと繋がった。


「タツ? やっぱいるんだろ。話があるんだ、開けてくれ……」


 そこまで話したとき、突然ガタガタと崩れるような音が響いた。続けてうめき声のようなものが聞こえ、鋭い衝撃音がして通話が切れた。


「え、おい、ちょっと!」


 不穏な音に焦ってドアを叩くが、ロックされたままだ。もしかして中で倒れているのかと心配になり、雄介は急いで一階に降りた。

 フロントへとって返し、連れが酔って具合が悪いようだと説明してカードキーを借りた。応対した男性が一緒に向かうと言ってくれたが、自分の兄だから自分で何とかすると嘘を吐いて断った。

 いや、満更嘘でもない。雄介は心の片隅で、ほんの少しだけそう感じていた。だから放っておけないし、バンド脱退もさせたくなかったのだ。

 足音が響かないように、小走りで613号室へ着き、一応またノックした。やはり出てこない。もしやの事態を想像しながら、焦りで震えるカードをドアノブの差し込み口へ入れた。

 小さな電子音とともに、解錠の音が聞こえる。カードキーを抜いてドアノブを回すと、あっさり開いた。


「タツ……大丈夫か?」


 顔だけ突っ込んで声をかけたが、返事はなかった。


「タツ?」


 一歩入ると、短い廊下の右側に狭いクローゼットが設置され、そのすぐ横にバスルームの扉がある。雄介の612号室とは逆の造りだった。


「大丈夫か? 入るぞ」


 一応断りを入れてから、玄関で靴を脱ぎ、奥へ進んだ。

 室内は暗く、足元には荷物やベッドの上掛けと思われるものが散乱しているようだ。雄介はタツの名を呼びながら、照明を点けた。


「うわ、ひで……」


 予想通りである。泥棒でも入ったのかと思うような散らかりようだ。自棄になってやったのか、それとも本当に泥棒なのか、と緊張しながら見回すと、ベッドの周りに、錠剤のようなものが数粒落ちていた。


「なんだこれ?」


 ラムネ菓子のような淡い着色で、色々な模様が型押しされている。菓子に見えなくもないが、薬のようにも思える。


「タツ、どこよ……風呂場か?」


 胸騒ぎがする。バスルームにきっとタツがいる――妙な確信を持って、雄介はドアへ向かった。

 ドアノブにそっと手を掛け、ゆっくりひねった。鍵はかかっておらず、ドアは小さな軋みとともに開いた。


「……タツ!」


 狭いバスルームにタツが立っていた。上半身裸で、真っ赤に染まった両手を壁について、洗面台の鏡を覗き込んでいる。鏡は血の手形だらけだった。


「おい、何やってんだよ!」


 ゆっくり首が回り、タツがこちらを見た。


「蛇が、消えねえんだ」

「はあっ?」

「コイツ、俺のこと笑って、すげえうぜえんだ……黙れよ、この野郎……」


 穏やかな口調で、タツは左腕に刺されたガラガラ蛇を眺めた。それは削り取ろうとしたかのように何本も切り裂かれ、血を滴らせていた。


「止めろって、このバカ!」


 言葉で制止しようとしたが、タツは右手にT字カミソリを握り、なお左腕の蛇をガリガリと削る。とにかく止めさせようと、雄介はバスルームの棚にあったタオルを掴んだ。


「判った、判ったからもう止めろって!」

「いや、まだ笑ってる、クソ、消えろ、消えろよ」

「ダメだって、ほら、カミソリ置けよ!」


 タオルを左腕に巻きつけると、タツが嫌がり引き剥がそうとする。狭いバスルームでしばらく揉み合ったあと、雄介はやっとカミソリを取り上げ、タツを引っ張り出した。


「まず座れ、くそっ、酷え傷……」


 ベッドに座らせてからタオルを開くと、無惨な蛇が現れた。多数の直線の切り傷のほか、まるで皮むき器で薄く削ぎとったような傷もあちこちにある。滲み出る血は止まる気配がなく、何度拭いてもじわじわと湧き、大きな斑点となって滴を生む。

 これはさすがに自分ではどうしようもない。コウを呼ぼうと携帯を手にした途端、タツが気づいたように顔を上げた。


「雄、介?」

「は?」

「何で、ここに?」

「何でって、今気づいたのか?」


 タツは応えずに、まじまじと見て来る。その瞳は妙に暗く、まるでガラス玉のようだ。

 こんな目は見たことがない――そう感じた途端、雄介の背を冷たいものが流れた。

 タツがおかしい。

 腕を自傷する行為といい、この表情といい、尋常ではない。一体何が起こっているのか。


「タツ、何でこんな」

「ごめん、雄介ごめ……」

「何が?」

「もうダメだ……死ぬ気で、抜いたのに、また、もう……」


 言葉が苦鳴に変わり、空虚な瞳が涙をまとう。まるで子供のように泣き始めたタツを見て、雄介は思わず彼の背を撫でた。


「行かなきゃ、良かった……俺、バカだ……判ってたの、に」

「落ち着けよ、何があったんだよ、何でこんなんなってんだよ?」

「止められない、判ってんのに、苦しくて……」

「何の話だよ、何が止められないんだよ?」

「……」


 タツの嗚咽が急に止まった。そしてやおら頭を上げ、部屋の中をぐるりと見回した。何かを探しているようだ。

 さまよう視線はやがて、ベッドの周りへ注がれた。


「……タツ?」


 呼ばれた声に打たれたように、タツは急に床へ這いつくばった。そして落ちていた粒を拾い、あっという間に口へ放り込んだ。


「おい、何飲んだんだ、それ何なんだよ!」

「 ……」

「タツ、なあ、タツ! どうしちまったんだよ一体!」


 得体の知れない不安に、タツの両肩を掴んで揺さぶった。だがタツは応えず、更にそれを探し回る。何かに憑かれたような行動に恐怖がこみ上げ、雄介は力づくで止めようとした。しかしタツは信じられないような強い力で、雄介をはね除けた。


「うあっ!」


 バランスを崩し、ひっくり返る勢いで吹っ飛ばされた。天地が回り、頭に強い衝撃を受ける。作り付けのサイトボードに頭からぶつかったのだ。


「痛って……」


 ガンガン痛む頭を抱え、何とか回復しようとさすっていると、タツの動きが鈍くなり、やがて止まった。

 どうやら、探すのを諦めてくれたようだ。


「タツ……」

「……」

「おい……生きてるか?」

「……ああ……ヤベえ……」

「……はあ?」


 タツが、ゆらりと体を起こした。背を向けているので顔は見えないが、肩が細かく震えている。痙攣しているのかと思ったが、そうではなかった。

 タツは笑っていた。

 喉の奥でくつくつ揺れていたものが、やがて腹を抱えるまでになる。さっきは泣いていたのに、なぜ今は笑っているのか、雄介にはまったく理解できなかった。


「ハハハハハ、何らこれぇ?」


 呂律が回っていなかった。

 血まみれの左腕に気づき、それを顔の前に掲げてまじまじと眺めている。ボロボロだ、と指さしてまた笑う。その様子を見て、雄介はやっと気づいた。

 あの粒は、クスリだ。


「タツ……テメエ……ナニやってんだよ」

「んー?」

「やらねえって、約束しただろ……」

「テメエが悪いんらお」

「ああ?」

「俺をハメた、テメエが悪いって言ってんらお……ヨウジ」


 タツはゆっくり振り向いた。笑っている。だがそれは、雄介の知る笑顔ではなく、黒く毒々しいものだった。


「なあヨウジ、俺、辞めてきらぁ。良かったな、これれ、お前の思いどおりられ」

「ちょ、待てよ……俺はヨウジじゃねえ、雄介だ」


 クスリにやられて勘違いしている。雄介は、ヨウジが誰だったか記憶を手繰りながら、ゆっくり近づいてくるタツをにらんだ。

 狭いシングルルームだ。タツとの距離はそれほど離れていないが、今ならまだ逃げ出せる。しかし、それは出来なかった。

 自分が逃げ出せば、タツを止める人間がいなくなる。もしもこんなタツをコウやダグラスが知ってしまったら、そしてまた逮捕されたら、バンドは本当に終わりだ。クスリが犯罪だという常識よりも、それが先に立った。


「タツ、俺だ、雄介だって。判んねえのかよ!」

「おれは、いない方がいいんら……おれがいらら、あいつにめいわくかかるから」


 ふと、タツが真顔に戻ったように見えた。


「あいつは、ずっとうたうんだ……じゃましちゃ、いけないんだ。だから……」


 言葉が途切れ、ついに目の前へひざまづいた。

 空虚な瞳が閉じられる。まるで何かに祈りを捧げるようだ。しばらくそうしたあと、タツはゆっくり目を開けた。現れた瞳はやはり、ガラス玉のようだった。


「タツ……?」


 雄介の頬を包むように、タツが両手を伸ばした。慈しむような優しい感触は血の匂いと共に、雄介の首へかかった。


「しんでくれよ、ヨウジ」

「え?」


 雄介が言葉の意味を理解する前に、タツの両手がぐっと絞まった。


「う、ぐっ……」

「おれも、いっしょにしんでやる、さみしくねえらろ? いっしょに、じごくいってやるお……」

「やめ……ろっ」


 床へ押し付けられる体勢で、ギリギリ絞められた。酸素を絶たれ、血流を阻まれて、頭がガンガンする。

 本気で殺す気だ。


「ぐ、う、うおおおっ!」


 渾身の力で手を引き離し、タツの腹を蹴り飛ばした。背からベッドへぶつかるのを視界の端で見ながら、必死に酸素を吸い込む。絞められていた首は軋んで、咳き込むとミシミシ音がした。


「クッソ、人違いで、殺すなバカっ」


 苦しみながらも、タツをにらみつける。タツは応えずに立ち上がり、床に転がったままの雄介を蹴りつけた。


「うっ!」


 一発目は腕で防いだが、二発目は肩に食らった。息が詰まるほどの痛みに反応が出来ず、三発目は脇腹をえぐられた。その先はもう、体を丸めてなされるままになった。

 痛みが体のあちこちに突き刺さり、そのたびに恐怖が膨らむ。何発蹴られたのか判らないが、タツの笑い声が響いて蹴りが止まった。


「あー、あちいな……おまえも脱げばぁ?」


 襟首を捕まれ、着ていたジャンパーを剥ぎ取られた。外ポケットに入れていた携帯が吹っ飛び、ベッドの下へ滑り込んでいくのがちらりと見えた。


「うっ……クッソ」

「まだ動けるんら……ああ、おまえも、最後にヤるか?」

「ちが……」

「遠慮すんなお、どうせお前のらお」


 タツは雄介を放り出し、クスリを探し始めた。その隙に雄介は這いずりながら、ベッドの下の携帯を何とか取ろうとした。

 もう、自分だけではどうしようもない。助けを呼ばなければ、本当に殺されるかもしれない。しかし携帯に指先が触れたとき、タツにまたシャツの襟首を掴まれた。


「ほら、見っけたお。これ、おまえの好きなやつら」


 つまんで見せられたクスリは、淡いピンク色だ。そのまま口へ入れられそうになり、雄介はもがいた。


「え、なんれ? ほら、のんれぇ、そのほうが痛くないらお」


 後ろから雄介の首をホールドし、頸動脈を締め上げてくる。腕に思い切り噛みついたが、クスリの効果なのか、タツは痛がりもしない。外せないままじたばたしていたが、そのうち目の前が暗くなり、意識が落ちていった。


 それから、雄介が覚えているのは辻褄の合わない記憶だった。

 それは途切れ途切れで、現実の合間に悪夢を見ているようだった。

 のしかかってくるタツの金髪が、やけに輝いて見えた。音は酷い耳鳴りで聞こえず、天井の照明が尾を引いて揺れていた。回る視界や、脳を焼くようなエクスタシーは、ライブの時に体験する「あれ」に似ている。時間の流れも狂っているようで、あの、海の映像が繰り返し見える。タツが何か話していたが、意味が判らなかった。

 不意に、ベッドの上にいるような、ふわふわした感触がした。タツがまたのしかかって来て、重みでそのまま埋まっていくように感じた。

 目の前でタツが口を開くと、蛇のような長い舌が現れて、体を舐められる。そのうちタツの肩や胸に、あのガラガラ蛇の模様が浮き出て来た。蛇男だ。いつの間にそんなバケモノになったのだろうと思いつき、笑いたくなった。

 途中、何度か蛇に首を絞められて苦しくなった。目の前が真っ赤になり、やがて暗闇に変わり始めると、蛇が離れていく。遠くですすり泣きが聞こえる。このまま死ぬのか、と頭の隅で感じたが、その予感を吹き飛ばすようなエクスタシーが何度もやって来た。目を開けても瞑っても、それは変わらなかった。

 蛇は笑ったり、泣いたりしていた。たまに生温い水滴が落ちてきて、頬を濡らすのが不快だった。また闇がやってくる。今度こそ最後かと思った矢先、肩を強く揺さぶられた気がした。


「雄介、雄介!」


 誰かの名前を、誰かが呼んでいる。

 知っている声だと思った。その声は不思議な安堵をもたらし、僅かな意識を遠くに持っていこうとする。抗わずに目を閉じると、やっと本当の闇がやって来た。

 解放された――最後に感じたのは、ただそれだけだった。

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