第32話 the day after tomorrow 1

 小樽からフェリーに車ごと乗り込み、新潟で降りた頃には三月になっていた。

 幸運なことに穏やかな航路だったが、珍しいことにタツが船酔いでダウンした。

 散々吐き、死にかけの鮪のようになったタツを後部席に乗せ、コウとダグラスが交替で高速をひた走る。休憩を挟み、目的地までおよそ六時間の道程は快晴で、長袖だと汗ばむような陽気だった。


「やっぱ一ヶ月はずれてるよね」


 ステアリングを握るダグラスが、感心したように呟いた。

 車窓を流れる木々は、黄緑の葉を揺らしている。北海道で言えば四月下旬の風景に近い。雄介は携帯で写真を撮り『やべえ暑い』と言葉を添えて愛美へ送った。

 コウが助手席の窓を少し開けた。風景に似つかわしい草花の匂いではなく、並走するトラックの排ガスの臭いが流れ込んできた。


「もう半袖でいいんじゃね? あちいし、あっちの山に何かの花咲いてるし」

「木蓮だね。他にもピンク色の、梅かな?」

「さあ。桜かもな」

「良いね、桜ならジンギスカンしなきゃ」

「花見でジンギスカン食うの北海道民だけだぞ、って、うちの寺も毎年境内で食ってるけどな」

「ワオ、今年行きたいな」

「来るか? 坊主だらけの花見に」

「濃いねそれ。やっぱいいや」

「だろ?」


 二人の笑い声が響く中、雄介は隣のタツを窺った。相変わらずフードを被り、イヤホンを入れたまま外を向いている。


「そうだ、うちも花見やろうよ。四月に円山公園で」


 ダグラスがバックミラー越しに、雄介へ提案した。


「お、良いねえ」

「でしょ? 皆仲良い人誘って、ダイエンカイ! ねえ、タツやんも良いよね?」


 呼び掛けるが反応はない。雄介が肩をつつくと、タツはやっと振り向いてイヤホンを外した。


「……あ?」

「花見やろうって、四月入ったらバンドで」

「花見……?」


 眠っていたのか、タツはぼんやりしている。少し雄介を眺め、そしてコウとダグラスを見やり、やっと意味を理解したように頷いた。


「良いよ……いつ?」

「GW前くらいじゃね? 毎年そんな頃だろ、円山の桜」

「ふーん……まだまだ、先だな」

「すぐじゃん、二ヶ月もねえし」

「そうか、そうだな……悪りい、もうちょい、寝てて良いか?」

「あ、ああ。まだ調子悪いのか」


 タツは雄介に薄く微笑み、イヤホンを耳に戻した。そしてフードを深くかぶり直し、窓際に身を寄せた。もう話しかけるな、という感じだ。

 会話を失い、手持ちぶさたでつい欠伸が出る。それに気づいたのか、ダグラスが半分振り向いた。


「雄介も少し寝れば? 寝る子が育つよ」

「うっせーよ、余計なお世話だっつうの」


 寝る子は育つ、だと心で突っ込みを入れながら、ダグラスの薦めに従って眠ることにした。車の振動も心地よい。正直、黙っているとすぐに眠くなる。

 賑やかな前列の声とハードロックを遮るため、ポケットから携帯を出し、イヤホンを耳に入れた。選んだ曲は愛美が貸してくれたラフマニノフだ。ピアノとオーケストラの穏やかな旋律は眠るのにちょうど良い。

 いつかチャンスがあったらこの曲を弾いてみたい、憧れなのだと、少し恥ずかしそうに笑った彼女を思い出しながら、雄介は目を閉じた。


  ◆


 夕方前に都内へ入った一行は、先に予約しておいたビジネスホテルへチェックインし、私物だけ降ろしてから今夜の目的地へ向かった。

 吉祥寺にあるMIXJAMはもう開いていて、ライブの準備が進められている。本日の対バンは地元東京から三つ、千葉から一つで、サイレントルームと合わせて全五バンドの予定だ。コウがバンド代表としてスタッフに挨拶し、先に来ていた千葉のバンド「EMASIH」と顔合わせしてから、タツを除く三人で機材を搬入した。


「おっし終了。あー、腹減った。何か買って来っかな」


 雄介が腹を押さえながら、一番近くにいたダグラスへ声を掛けている。コウは二人を呼び、車を駐車場へ入れるついでにコンビニへの買い出しを頼んだ。


「判った。あと、タツは?」

「多分またトイレだろ。とりあえず、あいつの分もテキトーにみつくろってくれ」

「オッケー」


 快く頷く二人へ、車のキーを預けて送り出した。

 リハーサル開始まで小一時間ある。コウはホール入口に作られた受付カウンターでチケット代の清算をし、販売用音源を預けた。

 正直、北海道で本州開催のライブチケットを売り切るのは難しく、一部をライブハウスに委託販売してもらっても、若干の持ち出しが出てしまう。それでもここまで遠征するメリットは大きい。名が売れることを始め、新たなフィールドやファン、そしてチャンスと出会う確率も上がるからだ。

 事務的なことを大体終わらせて、コウはやっと喫煙スペースのベンチでタバコをくわえた。

 体に長距離運転の疲れが残っているが、栄養剤を一本飲めばカバー出来る程度だ。前回来たときより運転距離の短いルートを選んで正解だった。


「ふう……」


 渦を巻いて消えていく紫煙を、腕組みして眺めた。

 コウは実のところ、今年がサイレントルームの正念場だと考えていた。今年、何かしらの手応えを掴むことが出来れば、将来へ繋げることが出来るだろう。逆にもし掴めなければ、ドラマーとして在籍すること自体が難しくなりそうだ。

 病と闘う大住職の姿が浮かんでくる。近いうちに、メンバーと話し合わなければならない。重い気分になりかけたところへ、タツがやってきた。


「あー、やっと抜けたわ。キッツいキッツい」

「吐き気止まったか?」

「ああ。もう大丈夫」

「珍しいよな、お前が船酔いと車酔いって。体調悪いせいか?」

「あ? ああ。多分そうだわ」


 タツは向かいに立ったまま、タバコを吸い出した。顔色はだいぶ良いようだが、よく見れば頬が薄くなったようだ。


「お前、痩せた?」

「あ? いや、昨日吐きまくりだったからじゃね?」

「そうか? つうかお前、今年になってからイマイチが多いだろ。体、大丈夫なのか?」

「ああ。平気」

「ホントかよ?」

「ホントです」


 タツはちらりとコウを見て、すぐに目を伏せた。

 心配されることに照れているような、もしくは何か隠しているような、曖昧な笑みを浮かべている。どちらなのか突き止めたい気持ちになった。


「何か悪さしてねえだろうな」

「してねえって」

「仕事は? ちゃんと行ってんのか」

「まあ、それなりに。つうか肉体労働、冬は少ないし」


 歯切れが悪い。季節柄、あまり稼げていないのかもしれない。


「何なら、うちの寺に戻るか? 規則正しく暮らせば、体調なんてすぐに戻るぞ。飯も三食出るしな」

「遠慮しときます、つうかもうぜってー無理」

「そんな嫌がんなよ。うちはいつでもいいぞ」


 寛大な誘いに、タツが苦笑しながらタバコをもみ消す。火種が砕けて消える寸前、メガネをかけたひげ面の男がやってきた。店長の吉田だ。

 吉田は軽く会釈しながら、コウの隣へ腰掛けた。


「よく来てくれたね」

「いえ、俺らこそありがとうございます。すみません、二月に来れなくて」

「あ、良いよ良いよ。こっちこそごめんね、あんま考えないで誘っちゃって。冬道、大丈夫だった?」

「はい、問題なく。むしろ暑かったです」

「そう? 二十度超えたくらいだけど」

「北海道民は二十度超えたら夏ですよ」

「えー、そうなんだ。そっか、まだ雪あるんだもんね」


 吉田は微笑みながら、タバコを取り出して吸った。今流行りの加熱式タバコだった。


「ところで、ちょっと聞いて良い?」

「なんですか?」

「サイレントルームって、どっか事務所に入るとか、そういう話あるの?」

「いや、特には」


 コウが少し笑いながら否定すると、吉田は眉を上げた。


「そうなの? 良かったあ。実はさ、うち主宰でインディーズレーベル立ち上げたんだ。もし良かったら、サイレントルームも一枚噛まないか?」

「マジすか!」

「マジ。詳しくはライブ終わったらね。資料渡すから、ちょっと皆で考えてみて」

「判りました」


 思ってもみなかった話だ。つい顔が綻び、隣のタツを見やる。タツも応えるように微笑み返して来た。

 吉田も嬉しそうな顔で、スティックから抜いた吸い殻を灰皿へ捨てた。


「いやあ、でもホント良かったよ。いや良かったって言うのも何だけど、てっきりもう他所と話してると思ってたから」

「え、何でですか?」


 聞き返したコウへ、吉田も少し不思議な顔をした。


「あれ? えっと、コウくん、ソニラブの滝本さんって知らない?」

「ソニラブ? いや、知らないです。誰ですか?」

「うーんとね、滝本さんて、ソニラブのチーフやってる人でね。要はスカウトのプロなんだけど……去年のMIX CORE BALLあったじゃん。あれからちょくちょく、サイレントルーム観に行ってるって聞いたから」

「そうなんすか? いや全然知らなかったです」

「そうなの? 何か、去年のUGAの大晦日イベにもいたって、佐倉くんに聞いたんだけど。ライブ後に雄介くんと話してたって」

「雄介と?」


 コウが聞き返したのと同時に、タツも驚いたように吉田を見た。それに若干ひるんだのか、吉田は少し考えてから続けた。


「もしかして、知らなかったんだ」

「はあ……俺、その日ちょっとライブ出れなくて」

「あっ、そうだったんだ。何かあったの?」

「んー、まあ……」


 眉を寄せたコウを見て、吉田はごまかすような笑みを浮かべた。


「いや、聞いた話だからね。あんま気にしないでね」

「はあ……つうか、何で雄介がその、滝本って人と?」

「さあ。雄介くんから聞いてないなら、たまたま話してたってだけかも知れないし。ただ、あの人はかなりのやり手だからね。気をつけたほうが良いよ」

「はあ……」

「さ、俺も仕事しよ。じゃあ今日もよろしくお願いしまーす」


 吉田は軽く右手を上げて去っていった。若干逃げられたようでもあったが、ここから先は雄介に直線聞いたほうがいい部分だ。


「スカウトのプロ、か……なあ、タツ。雄介から何か聞いてないか?」

「……いや、何も」

「ホントか?」

「ホント」


 妙に感情の薄い言葉に紫煙がからむ。つられて、コウも二本目のタバコをくわえた。

 煙を吸い込むたびに、何とも言いがたい、そして認めがたい気持ちがこみ上げて来る。

 自分なりに、必死にやって来たつもりだった。寝る間を惜しんで練習に励み、相応に場数も踏んで来た。人脈もある程度持っているし、バンドマンとしての経験値は雄介よりもかなり上だと自負している。それなのに滝本は、雄介だけに声を掛けた――仮にそれが事実だとすれば、自分は、否、サイレントルームはプロから認められなかったのだ。

 つい溜息が出る。するとタツが小さく笑った。


「何悩んでんの? コウさん」

「いやだってよ、雄介だけに声がかかるってことは、バンドとして認められなかったってことだろ」

「まあそうだけど。別に、その滝本ってオッサンの好みがそうなだけだろ」

「まあ、そう言えばそうだな」


 タツが正論を述べたことに、感心すると共に感謝した。同じ立場の人間にそう言われると救われる思いだ。

 自分はまだまだ修行が足りない、器が小さいと反省しながら、タバコを消した。


「インディーズだけど、レーベルの話もきたしな。俺ら、そんな悪くねえよな」


 同意を願いながらタツを見やると、タツは目を逸らしてタバコをもみ消した。


「アイツは……ずっと歌うんだ」

「ん?」

「いや、何でもない。あー、ダメだ……」

「へ?」

「ちょ、トイレ……」


 口許を押さえ、そそくさとトイレへ向かっていく。途中、受付の脇に置かれたパイプ椅子にぶつかり、転びそうになった。


「おいおい、マジ大丈夫かよ?」


 頼りない背中を見送りながら、コウはもう一度、盛大な溜息を吐いた。

 悩むのは後でいい。今は目の前のステージを演り切るのが最も大切なことだ。

 胸元で不動明王の印を切り、口の中で真言を唱える。自分なりの「ライブ前の儀式」を済ませ、喫煙スペースを後にした。


  ◆


 本番前、ステージ隣の控室で、雄介は緊張していた。

 ここは楽屋とは別に、次の出番のバンドが待機する部屋だ。狭いスペースにベンチとパイプ椅子、機材が置かれていて、ドア一枚隔てた向こうにはステージがある。

 もうすぐ三番目の「ガッシュ」が演奏を終える。彼らはこの店を中心に活動していて、当然集客も多い。盛り上がる演奏とテンションの高い歌、そして大きな歓声が、薄い壁越しにプレッシャーを掛けてくる。


「ワオ、スゴいね盛り上がってて」


 ダグラスの飄々とした一言が、なおプレッシャーを煽ってきた。

 曲のジャンルとバンド編成が同じうえに同世代だから、当然比べられるだろう。今の自分達のコンディションは決してベストとは言えない。果たして、彼らと客達を圧倒するような良いライブが出来るだろうか。


「落ち着け……落ち着け」


 両手で顔を覆い、自分に言い聞かせる。目を閉じて深呼吸するうち、一際大きな音が聴こえてきた。ライブのエンディングだ。それが鳴り終わる前に歓声が上がった。今まで一番大きな声だった。


「次、サイレントルームです。よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」


 挨拶を返すとスタッフは頷いて、ステージへのドアを開けた。途端に湿った熱気が控室へ流れ込んできた。


「お、すげー入ってるわ、今日」


 コウがちらりとホールを覗き、嬉しそうに呟いた。そしてメンバー全員に呼び掛けた。


「楽しくやろうぜ、いつも通りに」

「オケーイ、そうだね。雄介、緊張しないで」

「してねーし全っ然!」


 強めの語気がかえって緊張しているのを晒す格好になり、リズム隊に笑われた。


「笑ってんなムカつく。つうか、アンタは?」


 背後でスタンバイするタツを見やる。タツは静かに頷いた。


「行ける。大丈夫だ」

「マジかよ? 途中で倒れんなよ」

「倒れねーよ、やっと抜いたんだから」

「へ? 何が」


 質問の答えを得る前に、ガッシュのメンバーがステージから戻って来た。全員汗だくだ。労いの言葉を掛けると、満足そうな良い笑顔が返ってきた。

 いよいよ本番だ。静かなSEが流れる中、暗いステージへ進んだ。コウの言った通り、ホールには客がびっしり入っていた。

 スタッフがセッティングを始めた。いつも使っている自分達のアンプが並べられ、マイクが立てられる。コウがドラムセットを調整し、ダグラスがシールドを繋いでアンプの電源を入れる。タツがガムテープでエフェクタボードとボリュームペダルを固定し、その隣にセットリストを貼る。綴られた五曲は歪で、ダグラス作成のミミズ文字だ。

 雄介もギターのセッティングをしたあと、マイクスタンドの足元にセットリストを貼りつけた。

 立ち上がり、ギターを背負い直し、マイクスタンドを調整する。ざわめくホールにはガッシュの余韻がまだ残っていて、それらをすべてを吹き飛ばしたい、と願いながら、ホール全体を見渡した。

 混み合う中で、前列に常連客の顔が見える。中列の左手、つまりタツの前にチサトがビデオカメラを立てている。皆、地元から万障繰り合わせて来てくれたのだ。


「マジか……」


 感激が苦笑を伴い、唇から洩れた。ここまで観に来て貰えるなんてありがたいことだ。緊張が勇気に変わり始める一方で、タツがふとこちらへ寄って来た。


「何かあったか?」

「いや。何かさ、嬉しくて……」


 気持ちを的確に表したくて、雄介が言葉を選ぶうちに、ホールの最後部にあるドアが開いた。刹那、暗いホールへ眩しい光が差し込み、男が入ってくる。滝本だ。つい目で追うと、滝本は右手を上げて挨拶してきた。つられて、雄介も小さな会釈を返した。


「……雄介」

「あ?」

「あいつ、今日も来たんだ」

「へ?」


 それが誰を指しているのか判らず、雄介はタツに問い掛けた。


「あいつって誰?」

「……」


 タツは薄く微笑んだ。それは、居酒屋で揉め事を起こした夜に見た微笑と同じだった。


「タツ?」

「お前は、ずっと歌えよ」

「はあ? いきなり何だよ」

「今夜は最高のギター弾いてやる。だからお前も頑張れ」

「あ、ああ」

「良し、じゃあ……気合い入れてやるぜ!」

「ってええええ!」


 尻にいきなり一発、キツい膝蹴りを食らった。客がどっと笑い、やられた恥ずかしさと痛みが臀部にじんじん響く。雄介はついへっぴり腰で尻をさすった。


「クッソこのバカタツ! 後でシメっぞゴラァ!」

「ハハハハハ、バーカ!」


 あの微笑は消え、憎たらしい大笑いで指差してくる。気づけばコウもダグラスも大笑いしており、ホールからも笑いが聞こえた。雄介は悔しい気持ちを噛みしめながらマイクへ向かった。


「笑いすぎ! 皆笑いすぎ! もう良いから!」

「いいぞ雄介ー!」

「サイコー、サイレントコミックルーム!」

「黙れやるぞ!」


 常連が飛ばす野次を一喝し、さっさと始めてくれと、コウを見やる。コウは頷き、ダグラスへゴーサインを出した。

 ステージが暗転する。同時にホールの笑いも消え、静寂が場を支配した。

 グリッサンドから始まったフレーズが、低い低い声で歌う。今回初めてお目見えした、ダグラス自慢の五弦ベースだ。スポットライトに照らし出された深緑のボディが、光を反射して揺れる。滑らかに奏でられる指が止まった次の瞬間、コウからスネアの一撃が放たれた。

 ステージに、ホールに、サイレントルームの音が氾濫する。コウの華やかなドラミングが歪んだ重低音のバッキングをリードし、タツのギターがその上を疾走する。このところのライブでは得られなかった、完璧な滑り出しだ。

 これを待っていた。雄介は心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じながら、マイクへ向かった。


『もし明後日、ここから出られたら、俺は君に――』


 歪んだ音の中で、自分の歌がちゃんと抜けて聞こえる。ステージ内のモニターバランスがとても良い。さすが老舗のオペレーションだ。オープニング用にアレンジした「the day after tomorrow」を歌いながら、雄介は自分のテンションがどんどん上がるのを感じていた。

 安定したリズム隊に支えられ、タツのギターが踊る。このところの不調など嘘のように、雄介を後押しし、寄り添い、時には良い意味で挑発してくる。まるで、心を読まれているのではないかと思うような、完璧な演奏だ。

 目の前ではすし詰めの客達が踊っている。見える顔のすべてがステージへ向けられ、放たれる音の一つ一つを感じ取ろうとするように、意識のすべてをこちらへ向けてくる。もっと惹き付けたい、もっと近づいて欲しい。そんな思いを込めて叫ぶと、目の前のサークルモッシュは飛び上がって弾け、また新たな渦を作り上げた。

 勢いに乗ったまま二曲目を演奏し終え、息の上がった拙いMCをさっさと終わらせた。ぐだぐだ喋るのは苦手だし、次のステージの告知とチューニング、水分補給が出来れば充分だ。そんな雄介の気持ちを知っているように、雄介がマイクから少し離れた途端、タツがアドリブを弾き始めた。

 三曲目「イルミネーション」の冒頭をアレンジしたフレーズだ。それはクールダウンした客達をまた温め始め、次第に煽り、高めていく。やがて尾を引くフィードバックに変わった時、雄介はギターを抱えて高く飛んだ。

 着地と共に、轟音が地を揺らす。恐ろしく正確なタイミングでイントロが始まった。テンポはいつもより、ほんの少し速い。これはコウが後半への盛り上がりを考慮して、意図的にやる手法だ。打ち合わせはしていないが、ダグラスもタツも、そして雄介も、それを肌で理解している。

 勢いは止まらず、盛り上がりは加速していく。そのまま四曲目へ突入した。

 歌の合間に見回せば、コウもダグラスも笑っている。タツは表情こそ見えないが、全身でギターを奏でていた。

 ブレイクも、ユニゾンも、呼吸までが揃う。今、この瞬間、メンバー全員で同じ感覚を共有している――雄介が実感した矢先、目の前の光景がスローダウンした。

 周囲から、潮が引いていくように音が遠のく。光が回り、時間の流れがずれていく。

「あれ」がやって来た。

 久々の展開に戸惑いながらも、雄介は全身の感覚を尖らせ、飛びかける意識を追った。通常の感覚とは全く異質な世界に放り込まれ、身を焼くエクスタシーに融けかける。

 最高だ。

 一瞬かもしれない。あるいは永遠なのかもしれない。踏みしめているはずの足が浮き、視えている映像に、サブリミナルのように何かが混じった。真夏の海だ。その光景が何度か現れ、やがてそこにタツの姿が加わった。

 こんなことは初めてだ。

 異質な世界のタツと、海辺のタツがだぶって見える。そのうち、二つの影が重なってこちらを向いた。


『雄介……』


 さながら衛星中継のように、唇と言葉がずれている。何かがおかしかったが、何かは判らなかった。


『――俺はただ――だったんだ』


 途中でノイズが入り、タツが何を話しているのか判らない。それを伝えようとするが、雄介は声を出せなかった。

 タツが演奏を止め、ギターをゆっくり下ろした。黒いボディは綺麗に磨かれて、雄介の顔を映し出している。それが急に消えた。

 嫌な予感がした。

 タツがギターのネックを両手で握り、まるでバットを振りかぶるように持ち上げた。引っ張られたシールドがゆっくりうねり、蛇のように上る。ボディが半円を描いてタツの頭の上へ掲げられたとき、タツは雄介を見つめた。


『――』


 何かを喋ったが、やはりノイズで聞き取れない。ただ、タツは優しげに、そして悲しげに微笑んでいた。


(やめろ――)


 タツが顔を背けた。ぐっと腕の筋肉が膨らみ、ギターがゆっくり振り下ろされる。止めようと、雄介は腕を伸ばそうとした。しかし鉛のように重く、背負ったギターに吸いついて動かせない。


(タツ!!)


 ボディがステージに激突し、黒い塗装に稲妻の亀裂が入った。ネックが大きく震えてしなり、真ん中から弾けていく。耐えられず切れた弦が三本、タツの腕に朱線を引きながら千切れた。


(嘘だ……嘘だ!)


 砕けたネックの破片は四方に飛び、スローモーションで散っていく。その一片が雄介の頬をかすめ、熱を伴った痛みを残した。


「タツー!!」


 声が出た。しかも絶叫だ。急激に世界がスピードを上げ、耳鳴りのように音が戻って来ると、ラストの「DIVE」が既にエンディングを迎えていた。

 客達の大歓声が響いて頭が痛い。時の流れが正常になり、タツのギターアンプからひどいノイズが出ていた。それが何もかも終わった合図のように思え、雄介はがくりと膝を落とした。


「すっげえー!」

「タツー!」

「クッソヤベエぞ!」


 驚きと賛辞の中で、タツはしばらく俯いていた。ダグラスがベースを背負ったまま駆け寄り、タツの耳元で何かを叫ぶ。そこでタツはようやく右手を上げ、客達へ応えた。


「タツー!」

「タツー!」


 声が掛かる中、タツがすべてを放置してステージを降りて行く。周囲の照明が落とされ、スタッフやコウ、ダグラスが片付けを始める一方で、雄介はただタツのギターを眺めていた。

 タツが目の前で、大切にしていたメインギターを破壊した。それが何を意味するか、雄介には判っていた。


 タツは、バンドを辞める気だ。

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