第31話 二月

『昨日のライブ、クソすぎ』


 そんなメッセージが愛美に届いたのは、二月十五日の夕方だった。

 ライブに関して、雄介がこんな発言をするのは珍しい。よほど腹に据えかねた何かがあったのだろうか。愛美は帰宅のバスでドキドキしつつ、少しおちゃらけた返信をした。


『クソすぎって、もしかしてチョコ全然貰えなかったって意味?』

『へ? チョコは、まあ、ほんの少し?』

『マジですか! いくつ?』

『えーと……十個ちょい』


 予想していたより多い。隠しもせず教えてくる雄介に、つい嫉妬した。


『少しじゃないじゃん。さすがおモテになりますねえボーカリストは』

『義理だって、全部義理』

『嬉しいんじゃない? チョコ好きだし』

『好きだけど、義理! つうか本命からまだ貰ってねーんですけど』


 少ししょんぼりしたスタンプが添えられてくる。自分のチョコを本命と言って貰えて、ついニヤニヤしてしまった。


『あはは。ライブ行けなくてごめんね』

『良いって。テスト前だし、クソライブだったし。つうかちゃんと勉強してる?』

『してるよ、だってテストもう明後日だもん』

『だよな。お前頭良いから大丈夫だろ』

『うーん、ぶっちゃけ数ⅡB難しい。山野に教えて貰ってる』

『山野? 誰それ男?』

『隣のクラスの子、理系の』

『はあ? まさかチョコやってねーだろうな?』

『んふふふふ』

『俺にくれる前に、他の奴にやるとかナシだろ……』

『あげてないよ』

『マジ?』

『うん、マジ』

『良かった。それなら良いけど』


 雄介がほっとしているのを感じて、つい顔がにやけてしまった。山野は女子だが、雄介の反応が見たくて、わざとぼかしてみたのだ。

 雄介以外になびくことなどない。でも離れていることが多いから、ほんの少しだけ心配してほしい。いつも彼の心のどこかに留めて欲しいと思う。


『で、ライブ。何かあったの?』


 話題を戻すと、少しの間のあとに返信が来た。


『ああ、うん、まあ……もういいや。終わったことだから』

『えー気になる』

『気にすんな、大した話じゃねーし。とりあえず、テスト頑張れよ』

『うん。雄介もバンド頑張ってね』

『おう。またな』

『またね』


 やり取りを終えて、携帯をコートのポケットへ戻した。

 何があったのだろう。

 会って、顔を見て話したいが、何せ年度末考査の寸前だ。今の最大の課題は受験のために、それなりの成績を取ることである。

 次のライブは月末で、それに参戦するためにも、今回は気合いを入れてやらなければならない。雄介も応援してくれている。


「……頑張ろ」


 愛美は小声で自分を励ましてから、膝の上に伏せてあった赤い問題集を手にした。


  ◆


 二月も末になると、日射しも暖かみを増して行く。道に出来た轍の底からアスファルトが顔を出し、足元も少しずつ良くなって来る。


「関東はもう桜が咲きそうなんだって」


 二月二十七日、リハーサルを終え、UGAのステージから下りたダグラスが羨んだ。


「もう春なんだね、あったかいんだ」

「でもよ、やっぱスタッドレスじゃねえとマズイよな」


 後からスネアを抱えて下りてきたコウが、眉を寄せた。


「36号線と新道は路面出てるにしても、帰り夜中だろ。雪降ったら、夏タイヤじゃアウトだ」

「そうだね。でもスタッドレスで向こう走ったら結構減っちゃうね、千キロ以上あるじゃん」

「仕方ねえだろ、夏タイヤ積んで走るわけ行かねえし」

「と言うか積めないよね、機材だらけで」

「いっそ天井に積むか」

「じゃあ僕、上に乗って押さえとくよ」

「絶対やれよ?」

「やれよ?」

「やれよ?」

「やれよ?」


 互いを指差しあって、ダグラスとコウが笑っている。それを横で眺めながら、雄介は眉を寄せた。

 またもやタツがリハーサルをすっぽかしたのに、この二人は平気なようだ。

 タツは前回のライブもリハーサルに来なかった。しかも体調が悪くてテンションが上がらず、本番はほぼ棒立ちで、ただ「音を鳴らしている」ような状態だった。

 雄介にとっては過去最低の「クソライブ」である。それでもライブの体裁が保てたのは、タツ以外の三人が頑張ったからだ。


「つうか今日、プチツアー初日なのに」


 低く呟くと、コウが振り向いた。


「ん?」

「アイツ、何考えてんだよ。明日、向こう行くんだぞ。ふざけんなだろマジに」

「雄介、どしたよ?」

「二人とも、なんでそんな和んでんだよ。タイヤよか、あのバカがちゃんと来るか心配じゃねえの?」


 イライラをぶつけると、コウの目が厳しくなった。


「来なかったらどうなるか、ヤツが一番知ってるだろ。俺らが心配する義理はねえ」

「それは……そうだけど」

「来なきゃ、即クビ。大丈夫、タツやん判ってるよ。だから僕も心配してないよ」


 ダグラスが軽く言い切ったのを、雄介は何とも言えない気持ちで聞いた。

 来なければ即クビ、と言うことは、タツが自分の意思で来なければ、バンドを脱退する表明にもなる、と言うことだ。

 ちゃんと来るだろうか。

 一月に吐き捨てられた言葉が思い浮かぶ。彼がメンバー交替を匂わせたのはあれが初めてだ。酔っ払った上での戯れ言なら良いが、これだけ遅刻と体調不良が続いているし、もしかして、本気でバンド脱退を考えているのではないだろうか。


「……初日だってのに、クッソ重いな」

「そんな顔しない、雄介。あ、本番前にチューニングしてね。四弦狂ってるよ」


 ダグラスはさらりと指摘したあと、笑顔を残してホールを出て行った。

 次のバンドのリハーサルが始まり、ドラムのストロークに促されたように、コウもホールを出て行く。

 タツの考えが判らない以上、何を推測しても解決しない。雄介は懸念を散らすように頭を振り、楽屋へ向かった。


 タツが現れたのは、ライブがスタートして四十分ほど経った頃だった。


「ヒャッハー、俺サマ登場ー! 皆待たせたなあ」


 楽屋のドアをはね飛ばすようなハイテンションだ。他の出演者がびっくりする中をすり抜けて、一人ソファでチューニングする雄介へ近付いてくる。雄介は立ち上がり、タツを正面から睨み付けた。


「テメエ何時だと思ってやがる!」


 額に血管を浮かせて怒鳴りつけると、タツはジーンズの尻ポケットから携帯を取り出して確認した。


「あら? えーっと、今八時十三分」

「知ってるわボケ! つうか、何でリハ来ねえんだよ」

「いやあ、オネーチャンが離してくれなくってよお、もーいやねえ三十路って底なし」


 タツが唇を尖らせ、まるでキスでもするような変顔を作る。それを見た雄介の頭のどこかから、ブツリ、と音がした。


「このクッソ野郎、テメエなんかもげちまえ! 判ってんのかコラ、あと三十分で本番なんだぞっ」

「余裕で間に合ったから良いだろ」

「そういう問題じゃねえ!」

「ハイハイ、ごめんねえ雄介くん。俺がいなくて寂しかったのねえ」


 タツが雄介の頭に手を伸ばしてくる。雄介はそれを乱暴に払った。


「ちげーっつうの。つうか判ってんのかよ? もし本番間に合わなかったら……」

「判ってる判ってる、心配すんなってバカだなホントに」


 凄む雄介に笑顔で頷くと、タツは背負っていたギターを下ろした。


「じゃーすとらいくぁーでぃくてぃーたー、あいへーっゆーあいへーっゆー」


 でたらめな歌を唄いながら、ギターを取り出してソファに座り、チューニングを始める。悪びれる様子が微塵もないのを見て、雄介は額を押さえた。

 一人で焦り、一人でムカついて、自分がバカに思えてくる。


「……タツ」

「あ?」

「今日は調子どうよ?」

「クッソ最高。ちょっとヤり過ぎたけどなアッハハハハ!」


 何が面白いのか、一人で手を叩いて笑っている。気持ちが悪いほどテンションが高い。


「ヤり過ぎとかバカじゃね? つうか本番ちゃんとやれよ」

「任しとけ俺上手いから!」


 タツがまた笑い出す。殴り倒したい衝動をこらえながら、雄介は楽屋を出た。

 エントランスへ行き、自販機でスポーツドリンクを二本買った。途中で客に声をかけられ、期待と励ましを貰った。ありがたく思う反面、それを裏切らないかと不安になった。

 こんな時、愛美の顔が見たくなる。今夜は来ているはずだ。ホール内を探そうかと考えて、止めた。


「なっさけねえな……」


 バンド内の事は、彼女には関係ない。ましてやタツの話をすれば、また心配をかけてしまう。

 深く溜息を吐き、楽屋へ引き返した。歩きながら、いつものように集中しようと試みるが、心に絡みついた一抹の不安は拭い去れなかった。


  ◆


 久しぶりの熱気を感じながら、愛美は暗いステージを見つめていた。

 いよいよ三番め、サイレントルームのライブが始まる。

 手慣れた様子でセッティングを進める彼らへ向けて、観客の期待が高まっていくのが判る。その中で、ふと前の男性客の会話が聞こえて来た。


「今日、タツさん大丈夫かな?」

「ああ、この間ヤバそうだったよな」


 不安をあおる内容だ。つい、並んで立つ田中へ問い掛けた。


「ねえ、前のライブ、何かあったの?」

「ん? あーなんかね、ちょっと具合悪かったみたいなー? でもフツーにライブしてたよ」

「そっか……」

「えーなんかあった?」

「ううん、何でもない」


 愛想笑いで濁すと、隣の有希がイヤな顔をした。


「ウザトさあ、もうちょい頭の良い説明出来ないの?」

「えー判りづらかった? じゃあねーえーとえーと」

「もういいライブ始まる……」


 有希の文句を掻き消すように、ギターがかき鳴らされた。はっとステージを見ると、タツが前に出てモニターに足をかけ、激しいリフを繰り出していた。

 引きずられるようにドラムが入る。コウからダグラスと雄介へ、アイコンタクトが飛ぶのが判った。


「あれ……?」


 いつものスタートと違和感がある。しかし雄介が歌い出すと、それは消えていった。

 観客が跳ねる。拳が一斉に上がる。熱気が増していき、汗がじわじわと滲む。響き渡る激しいビートに打たれて、日常を忘れていく。

 だが心地よいはずの音の濁流は、ステージが進むにつれ、何故だか妙な切迫感を伴っていった。

 絶好調で吠えるタツに対し、三人の表情が固い。歌もフェイクが多い。

 何かが違う。余裕がないような、焦っているような、そんなふうに見える。


「あっ!」


 四曲目「ダーシー」のサビで、歌にかぶるように、本来ないはずのギターソロが始まった。雄介が一瞬タツを睨んで、歌うのを止めた。

 一方でタツはとても楽しそうに弾きまくっている。曲は止まらず、タツのリードで進んで行く。


「うおおおおーっタツさんかっけえーっ!!」


 田中は気づいていないようで、跳び上がって叫んだ。周囲の客のほとんども、同じように盛り上がっている。

 新しいアレンジのようにも取れるが、そうでないことは雄介の表情で判った。

 ラストの「DIVE」はとにかく速く、息を吸うのも忘れるほどだった。コウが鬼の形相で叩き、珍しいことにスティックを飛ばした。気づいた雄介が何かを叫び、ステージ最前で弾きまくるタツへ近寄った。そして後ろから、彼の尻を思い切り蹴飛ばした。


「うひゃあっ!」


 間抜けな悲鳴を上げながら、タツがギターを背負ったまま、大きく傾いだ。あわや転落、と思いきや、伸ばされた客達の手に支えられ、すし詰めの客の頭上を流れて行く。


「ハハハハハ、サイコーっ!」


 笑いこけるタツをよそに、メンバーはそのまま演奏を続け、さっさとエンディングを迎えた。


「The next gig is MIXJAM at Tokyo!!」


 残響のなか、雄介が叫ぶ。励ましの歓声が沸くホールに、タツのギターアンプから野太いノイズが響いた。ギターからシールドが抜け落ちたのだ。耳障りなそれが、愛美にはまるで終了の合図のように聞こえた。


 全バンドの演奏が終わったあと、愛美と有希、そして田中は、エントランスで雄介を待っていた。

 ホールの熱をまとったまま、客達がゆっくりハケていく。挨拶に出ていた出演者たちも次第に減り、各バンドの機材の搬出が始まった。


「雄介来ないね」


 有希がきれいに塗ったネイルを眺めながら、溜息まじりに呟いた。

 いつもなら、雄介は搬出の前に顔を出してくれるのだが、今回はまだ現れていない。ステージを振り返り、愛美の心に不安が過った。


「メンバーさんも来ないしね。何かあったのかな……」

「メッセする? つうかお腹すいたし」

「俺も腹減ったあーゆっきぃんちのナポリタン食いたーい!」


 田中が胸の前で組んだ両手をくねくねする。ムカついた舌打ちとともに、有希が彼をにらみつけた矢先、騒がしい足音が響いた。


「よっげぬーん、よっげふらーいごー!」


 怪しい鼻唄を歌いながら、タツが急ぎ足で外への階段を上っていく。追い掛けるように雄介も走って来た。


「待てコラ、話終わってねーぞこの野郎!」

「判った判った、明日八時集合だろ!」

「絶対ェ遅れんなよ!」

「はいはーい、遅れましぇーん」


 気の抜けた返答が階段の上から降ってくる。それを階下で聞いた雄介は、憎々しげに舌打ちした。


「つうか、テメエの機材くれえ積んでけっつうの……」


 どうやら機材搬出を放棄して帰ったようだ。小声で悪態を吐く雄介へ、有希が声をかけた。


「お疲れ、雄介!」

「あ?」


 振り向いた顔が険しい。しかし有希の隣に愛美を見つけ、表情がゆるんだ。


「待っててくれたのか、ごめん」

「いや良いけど。なんかもめてんの?」

「あ? ああ、いや、別に」


 歯切れが悪い。ごまかしが下手な男だと思う有希の横から、田中がしゃしゃり出た。


「ゆーまだかかるの? 俺もうハラヘリまくりで倒れそー」

「テメエは倒れてろ」

「えーひどーいゆーひどーいいつも通りすぎー!」


 田中がわめくのをよそに、雄介は愛美を見つめた。


「あと積み込みしたら終わりだから。遅くなったけど飯行こう」

「うん、待ってる」


 愛美が微笑んで、雄介が頷いた。視線が繋がり、束の間優しい雰囲気が生まれる。それを壊すように、有希が大きな咳払いした。


「五分ね。それ過ぎたら先に行くから」

「まじかよ、急ぐわ」

「あ、じゃあ俺もお手伝いするーんで師匠にご挨拶しなきゃー!」


 雄介が慌てて引き返すのに、田中も着いていく。残された女子二人は、どこへ何を食べに行くか相談を始めた。


 大人っぽい私服を着ていても高校生だ。さすがに居酒屋へは行けず、少し離れた二十四時間営業のファミレスを選んだ。

 そろそろ深夜の入り口にも関わらず、店内は大学生やサラリーマンらしき大人で七割ほど埋まっている。四人は運良く窓際の席を得て、遅い夕食を摂った。


「でさー俺のバンドいまオリジナル作っててさーやっと三曲出来たんだけど難しいよね曲作るのってー」


 いつものように田中がしゃべる一方、三人は黙々と食べている。雄介は全く無視で、有希は今忙しいとアピールするように携帯から目を離さない。必然的に愛美が相槌係になっていた。


「うんうん」

「なんかさー色々やってくとどこまで練れば良いのか分かんなくなっちゃうっていうかー。オリジナルって当たり前だけどバンスコないじゃん」

「うんうん」

「思ってる方向が違うとそこで止まっちゃうしさー、そのアレンジださいとかなかなか言えないしー」

「うんうん」

「これが生みの苦しみみたいなー?」

「うんうん」

「愛美ちゃん、俺の話聞いてる?」

「うんうん」


 もぐもぐしながら頷く愛美を見て、田中は嬉しそうな笑顔を見せた。


「ホント、どうやったら上手く作れるんだろー? ねー、ゆーんとこどーやってんの?」


 田中が振ると、雄介は食べながら応えた。


「ひぎょーしむつ」

「卑怯私物?」

「ちげって、企業秘密」

「えーずるーい教えてよーもーゆーの意地悪惚れるーってかさあ、今日のライブ、タツさんすげかったね」

「……」


 雄介の眉間に深いしわが寄った。


「あれなに、新しいアレンジ?」

「ああ」

「そーなんだ! いやテンションまっくすーって感じだったよねーいいなあ、あんだけ弾きまくれんのすげーよ俺もあのくらい弾けるようになりたーい」


 能天気な田中の発言に怒ったのか、雄介がいきなりテーブルを叩いた。反動でコップの水が大きく揺れ、田中が慌てた。


「え、ゆーもしかしてオコなの? えー俺何か悪いこといった?」

「……いや、別に。ハエ飛んでたから」

「へ? そうなの? まじオコってない?」

「ああ」

「ホントに? ねえホントに」

「ああ」

「やったー良かったーもーいつパンチ飛んでくるかドキドキしたあタイムショック並みにー」


 田中の安心した笑顔を見て、雄介が小さな舌打ちをした。苛ついているのが判る。それは田中にではなく、恐らくタツにだと、愛美は直感した。


「そうそう、明日はMIXJAMだっけ?」


愛美がさりげなく話題を逸らせると、雄介は表情を緩めた。


「うん。そんで大阪回ってグロッキーバー」

「大阪かあ、初進出じゃない?」

「そう」

「お土産買ってきてね、ご当地饅頭」

「だからねえって。つうかたこ焼きも無理だからな」


 雄介が笑ったのを見て、愛美も安堵した。

 今日のライブで感じたことが、明日には消えてくれそうだ。雄介には、そしてサイレントルームには、いつも全力で良いライブをしてほしい。彼らが頑張っているから、自分も頑張れるように思う。


「グロッキーバーも有名だよね。あそこ、いっぺん行ってみたいな」


 有希が携帯を置いて話に参加すると、すかさず田中が声を上げた。


「俺ゆっきぃのお供するー」

「いやおまいはまったく誘ってない。行くなら愛美と行くから。つうか雄介、明日何時?」

「朝八時、UGA前に集合」

「まじか!」


 有希は携帯で時間を確認し、慌てて皿を平らげた。そして財布から千円札を二枚出して、上着を羽織った。


「ほらウザト、帰るよっ」

「えーなになんでー?」

「バカ、察しろって!」

「痛っ!」


 田中の頭を一発叩いて襟首を掴み、強引に立ち上がらせる。急いで去ろうとする背へ、愛美が声をかけた。


「あの、有希っ」

「判ってるよ、だいぞぶ。おつり後でちょうだい」


 愛美に爽やかな笑顔で頷いたあと、有希はもがく田中を引きずって去っていった。


「あは、あははは、有希強引だね」

「ホントだな」

「田中くんがちょっと不憫」

「あいつは良いんだって、ゆっきぃマニアだから」

「あー確かに!」


 笑いあったあと、雄介が残された二千円と伝票を手にした。


「俺らも出る?」

「そうだね」

「とりあえず俺、風呂入りてえ」

「……」


 愛美はさらっと告げられた言葉の意味を少し考え、思いついたと言わんばかりに眉を上げた。


「銭湯か!」

「ちげーよバカ」


 雄介の右手が伸びてきて、額をパチンと弾かれた。優しい痛みを押さえながら雄介を見ると、照れたような、そして少しふてくされたような表情をしている。


「やっと会えたんじゃん」

「……うん」

「……やだ?」


 自分と同じ思いでいることを願うように問い掛けてくる、少し弱気で優しげな表情が愛しい。


「ううん。私も……すごく会いたかった」


 素直に応えると恥ずかしい。つい顔を伏せると、雄介がテーブルの陰でガッツポースしたのが目に入った。


「よし、じゃあ出るか」


 残っていたコーラを吸引する勢いで飲み干し、上着を持って立ち上がる。愛美も慌てて紅茶を飲み干した。


 風呂に入りたいと言ったくせに、あっという間にベッドへ連れて行かれた。それだけ雄介が待ちわびていたのだと思うと、愛美の胸に何とも言えない嬉しさがこみ上げた。

 求められるということは、なんて幸せなのだろう。

 雄介の温もりと感触を体でしっかり味わいながら、この幸せな夜が長く続くことを願う。それは彼も同じだったようで、ベッドの後のバスルームにも連れて行かれた。


「熱くない?」

「ううん、ちょうど良い」


 脚を伸ばせる広い浴槽で、雄介の脚の間に座り、彼の胸に背を預けた。クリーム色の浴槽に浅く張られた湯が、身動ぎするたびに揺れて照明を反射する。湯気が立ち込めているから、まるでソフトなフィルターをかけたように淡い。ぼうっと眺めているうちに腕が伸びてきて、柔らかく守るように回された。


「あー、今日もクソだった」


 左のうなじに吐息が当たる。

 くすぐったさを我慢しながら、次の言葉を待った。


「今年入ってから、全然調子上がんねえ……」

「バンド?」

「ん。つうか、原因ははっきりしてんだけど」

「……タツさん?」

「……」


 細く長いため息が、肯定を伝えてきた。

 何と言えば良いのだろう。以前バンドのことに口出しして怒らせた経緯が甦る。ましてや明日から旅立つのに、下手を打って余計なもめ事を起こしたくない。

 愛美の気持ちを読んだように、雄介が話題を変えた。


「そういや来月、修学旅行だよな」

「うん。春休みね」

「休み潰れるな。どこ行くんだっけ?」

「奈良京都、あと帰りに大阪かな」

「そっか。向こうでも会えたら良かったのに」

「ホントだよね。一緒に道頓堀とか歩きたいな」

「たこ焼き食いながら?」

「そうそう。すっごい熱いの。あーんてしてあげる」

「罰ゲームだろそれ」


 いい加減な話に笑いながら、並べて伸ばした足先を眺めた。

 大きくて、筋肉と筋の浮いた男の足だ。人差し指が親指より長い。そっと爪先を伸ばして指をなぞると、雄介も同じように返してきた。


「……修学旅行終わったら、いよいよ本格的に受験勉強するよ」

「そうだな。親父さんと話ついたんだから、頑張らなきゃな」

「うん。夏のコンクールもあるし、今より予定ツメツメになる」

「そっか……お前が頑張ってんだから、俺も頑張るわ。オチてる場合じゃねえよな」


 雄介がそっと頭を上げた。

 彼の心の整理が、少しだけついたようだ。


「お互いやりたいこと、精一杯やろうよ。でも、やっぱり雄介と色々話したいし、時間がある限り会いたいし……それは変わらないし、変えたくない」

「ああ、そうだな。夜中とか、メッセしていい?」

「うん、もちろん。私もするよ」

「ん」


 雄介が左のうなじに顔をくっ付けて来た。回した腕がそっと締まり、抱きしめられる。

 こんな話で、少しは彼を励ますことが出来ただろうか。

 のぼせる前にバスルームから出て、ベッドでごろごろしながら寛いだ。時刻はとうに日付を越え、普段ならもう眠っている頃だ。でも今夜は眠るのがもったいない。こうして雄介と過ごす夜はとても貴重だ。


「そういや、アレ」


 点けていたテレビでチョコレートのCMが流れた瞬間、雄介が愛美を見やった。


「あれ?」

「アレ」

「何だっけ?」

「……」


 雄介の眉が、見る見るうちに情けないハの字になる。愛美は笑いながら、ソファに置いてあったバッグを開けた。


「はい。遅くなってごめんね」


 両手で包めるほどの小さな箱を、雄介へ差し出す。すると途端に嬉しそうな顔をして受け取った。


「ありがとう。開けていい?」

「うん」


 雄介はさっそく金の細いリボンをほどき、箱を開けた。中身はストロベリーとミルクチョコのトリュフが二つずつ入っている。愛美の手作りだ。


「すげえじゃん。売りもんみてえ」

「いやあ、ぶっちゃけ頑張った」

「そうなんだ」

「うん、三十個は作ったね」

「まじか。あ、うまい」


 一つ口に入れ、幸せそうに味わう雄介を見ていると、こちらまで嬉しい。母に不器用を笑われながらも、諦めないで作って良かった。

 雄介は最後の一つを半分こしてくれた。甘く香るストロベリーはフリーズドライの果肉入りで、噛むと一層風味が広がる。


「これ、メチャクチャ美味いな」

「ほんと?」

「ん。甘酸っぱくて、いくらでも食えるわ」


 褒めてくれた。チョコレート好きな彼には、四つでは足りなかっただろうか。

 来年はもう少し多く、と考えているうちに、雄介は愛美の右手を取り、その細い手首に金のリボンを結んだ。


「え、なに?」

「えーと、バレンタインのメイン」

「え? いや、もうチョコ食べたじゃん」

「一回じゃ足りないし」

「……えー?」


 意味を理解して、頬が熱くなる。雄介はニヤニヤしながら、赤くなった愛美をベッドへ押し倒した。


「いただきまーす」


 唇に降ってきたキスが甘い。ストロベリーに包まれて目を閉じると、あとはまた幸せな時間がやって来た。


 長く続くことを願った夜も、いつの間にか朝陽に追いやられて、地平の向こうへ去ってしまった。

 楽しい時間は終わり、また離れて送る日々が始まる。何とも言えない寂しさを隠し、愛美は雄介を送った。

 八時少し前にUGAへ到着すると、既に機材車が来ており、メンバー三人とも乗り込んで待っている。コウとダグラスが冷やかしの言葉を連発して雄介を怒らせる一方、タツはブラウンのスモークの向こうで、上着のフードを被ったまま静かだ。もしかしたら昨日の疲れで眠っているのかもしれない。雄介は遠慮なくスライドドアを開け、隣へ乗り込んだ。


「行ってくるわ」


 寝不足で目を赤くしながら、後部の窓を開けて挨拶してくる。愛美は出来る限り明るい顔をした。


「お土産待ってるね」

「おう」

「気をつけてね! 皆さんも!」


 エンジンの音にかき消されないよう声を張り上げると、コウとダグラスも片手を挙げて応えてくれた。

 車がゆっくり発進する。雄介が手を振りながら遠ざかり、角を曲がって行った。


「気をつけて……」


 言葉は既に届かない。

 彼らが目指す南を見上げれば、ビルの向こうは目に染みるような青だ。旅立つには最適の快晴に、愛美はこみ上げる気持ちを飲み込んだ。


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