第29話 一月 3

 家を出たことで、愛美はつかの間の解放を得た。

 深澤家は自分のそれとまったく反対に、大雑把で適当で、それでいて優しかった。

 雄介と会うことだけは叶わなかったが、彼の部屋を使わせてもらい、彼のベッドで眠るだけで、まるでそばに彼がいるような気持ちになる。本当に大切な物は持ち出されていても、ここには彼の育った時間が残っていると思うと、寂しさも癒された。


 滞在二日目の夕方、佳澄がアルバイトへ行くというので、愛美も暇潰しに同行した。

 アルバイトとは、隣に住む三木が営む店の開店準備だ。店内を掃除し、酒屋の入荷があれば受け入れ、蒸したおしぼりを作るという、一時間ほどで終わる簡単な雑務だ。

 三木の店「ミッキー」は、すすきのの通称「六本木通」に建つS6ビルの地下一階だ。この界隈は古びた雰囲気があり、夕闇を迎えるとなお怪しげに感じられる。まだ正月気分の抜けない雑踏のなか、愛美は緊張しながら佳澄に着いていった。

 佳澄は古びた地下フロアの一番奥まで行くと、鍵を取り出してシャッターを開けた。現れたダークレッドのドアには、白で大きく「MICKEY」と描かれていた。


「さ、入って。んで、てきとーにしてて」

「う、うん」


 佳澄は慣れた様子で店内へ入り、早速掃除に取り掛かる。愛美も手伝おうと、ホコリ取りモップを手にした。

 カウンター五席にボックス席二つの、小さな店だ。それでもボトル棚には名前の書かれた酒瓶がずらりと並んでいるから、案外常連客が多いようだ。

 壁には古い洋楽ロックやジャズ、シャンソンのアナログ盤が飾られ、店の奥には小さなステージとフォークギター、そしてアップライトのピアノがあった。


「あ……」


 ピアノを目にしたとたん、愛美の胸が高鳴った。

 弾きたい。二日もピアノに触れていない。指が勝手に疼き、たまらない衝動にかられた。


「ねえ、カスミン」

「ん?」

「ピアノ、弾いていい?」

「うん。つうか佳澄も聴きたい」

「ほんと? あんま上手くないけど……」

「えー、そんなことないでしょ。お兄ちゃん絶賛してたよ?」

「マジかっ」


 雄介が佳澄にそんなことまで話していたなんて意外だ。少し恥ずかしくなりながらも、愛美はピアノの前に座った。

 蓋を開けると、白と黒の鍵盤が並んでいる。たった二日触れていないだけなのに、なぜだか感慨がこみ上げてきた。

 鍵盤に手を乗せた。

 弾き慣れたそれとは違う、硬質な、象牙に似せた手触りだ。そっと押し下げた鍵盤は軽く、沈みは浅い。ドミソの和音が弱々しく響く。

 感情の赴くまま、思いきり弾きたい――体の中にくすぶるものが、重厚でまがまがしいスフォルツァンドとなって発露した。


「ひっ!」


 一打に驚いた佳澄が、小さく飛び上がった。続けて低音の駆け足が束になり、切迫した声を上げる。溢れ出すピアノの音が荒ぶり、店の中で反響しながら回った。

 腹の底に、駆け足の振動が伝わるようだ。


「うっそぉ……」


 一心不乱に奏でる愛美を見て、佳澄は唖然とした。

 普段の愛美からは想像も出来ない迫力だ。ともすれば、背後に黒い何かが立ち上るように見える。

 佳澄はしばらく口を開けたまま眺めていたが、急に雑巾を放り出し、カウンターの隅に置かれていたメモと鉛筆へ手を伸ばした。

 さらさらと描き、次に渾身の力で塗り潰す。

 渦、うねり、そして更に大きな渦。指でこすりつけ、その上からまた塗り広げる。

 混沌としたそれが形をなす頃に、轟音がぶつり、と途切れた。


「はあ、はあ……あー、弾いたあ……」


 愛美は荒い息を吐きながら、全力で走り終えたあとのような、晴れやかな顔で微笑んだ。そして佳澄を見やると、彼女の手元からポキリと音が鳴り、鉛芯の欠片が跳ねた。


「……何これ」

「え……?」

「なんか、すごい沸いてきたあっ!」

「……か、カスミン?」


 突然万歳した佳澄を見て、今度は愛美があんぐり口を開けた。


「え、へ、変だった?」

「つうかすげー! 何これ何の曲?」

「アレグロバルバロだよ」

「へえーこんな曲もあるんだ、何かすげーや、ピアノワッショイだあ!」


 佳澄が目を輝かせた矢先、ドアが軋みながら開いた。


「おはよー。ちょっとお誰よ、ガトリング砲みたいなバルトーク弾いてたの」


 がっしりした背の高い男が入って来て、いきなり文句をたれた。愛美は驚きに硬直したまま、男の顔をじっと見つめた。

 メイクしている。それもハリウッド女優が施すような、グラマラスなイメージだ。ぼってり塗られたワインレッドの唇と、ワックスでぴったり固められたチェリーブラウンのショートヘアが、美しくも毒々しい。


「あ、あの……すみません」

「え、アンタなの? えー! ちょっと何よ、あの爆音タッチ。うちのピアノ壊す気? おまけにミスタッチ多すぎ!」

「す、すみません!」


 愛美が慌ててピアノから離れた一方で、佳澄が手をひらひら振った。


「ミッキーおはよー」

「おはよーじゃないわよ佳澄。あーまたお絵かきしてえ、仕事はどうしたのよ?」

「今やろうと思ってたよ」

「思っててもやってなかったらやってないのよ、もー早くしてよ。つか誰なの、このガトリング女子?」

「お兄ちゃんのカノジョの愛美ちゃん。いまウチにいるんだ」

「はあ? 」


 ミッキーのくっきり描かれた柳眉がはね上がった。


「ゆーちゃんカノジョ作っちゃったの? え? 私、何にも聞いてないわよ?」

「ミッキーには内緒って言ってたもん、お兄ちゃん」

「まあ、何ですってえ! ちょっとおムカつくわあのクソガキぃ。って言うか笑ってんじゃないわよアンタ」

「あ、いえ、すみません!」


 つい笑ってしまったのをとがめられ、愛美が慌てて頭を下げた。クスクス笑う佳澄のかたわらで、ミッキーは唇をへの字に曲げたまま、愛美を値踏みするように眺めた。


「ねえアンタ」

「は、はい」

「何か……そうね、プーランク弾ける?」

「プーランク……?」


 名前は知っているが、習ったことはない。黙りこんだ愛美へ、ミッキーはふん、と鼻を鳴らした。


「弾けない?」

「はい……」

「へー、そう」


 嫌み臭く応えると、ミッキーは棚から一冊の楽譜を取り出して愛美へ渡した。そして腕と手のストレッチをしながらピアノの前に座った。


「39ページ」

「え?」

「開くのよ、弾いてあげるから譜読みして」

「あっ、は、はい!」

「おおっ、ミッキー先生お手本弾くの?」

「うっさいわねえ、お子様は黙ってなさいよ」


 茶化す佳澄を睨みつけてから、ミッキーは鍵盤に指を乗せ、小さく息を吐いた。

 震えるような、ビアニッシモの音色が切なく流れ出す。ワイン色のシルクを広げるような、ゆったりしたアンダンテの主旋律は、有名なシャンソンの歌を彷彿とさせた。

 ミッキーの派手な出で立ちからは想像し難い、繊細で情感溢れるタッチが、艶めいて歌い上げる。その内側から、情熱が滴のようにこぼれ落ち、音の連なりに彩を添えた。

 なんと言う多彩な音、なんと言う表現力。まるで室内楽を聴いているようで、鳥肌が立つ。

 愛美はこの曲に関して詳しくない。でも誰かを愛し敬うあまり生み出された――そんな気がした。

 切なく悩ましい、最後の音が消えていく。その余韻の中で、ミッキーが愛美を見やった。


「三日あげる」

「……へ?」

「これ覚えなさいよ」

「え?」

「アンタ、色気が足りないのよ。いくら若さと技術があったって、色気がなきゃダメよ。どーせ暇なんでしょ? タダで教えてあげるから、そのくらいやんなさいよ」

「で、でも……」

「なによー文句あんの?」

「あっ、い、いえ……」


 予定では明日、帰ることになっている。しかしそれを言い出せる雰囲気ではない。結局、愛美は流されるままうなづき、その後佳澄が仕事を終わらせるまで練習させられた。


「色気……かあ」


 帰宅し、佳澄が夜遊びに出掛けたあと、愛美は雄介の部屋でミッキーの言葉を反芻した。

 佳澄によると、彼は本州の音大を出てピアニストを目指していたが、五年前に戻ってきて夜の街に店を構えたそうだ。挫折した理由を、佳澄は知らないと笑った。

 あれだけの演奏が出来ても、ピアニストにはなれなかったのだろう。それへの門は狭く、道は険しいということだ。

 そんな彼が要求した「色気」について、普段習っている先生から要求されたことはない。先生のスタイルは、教則に乗っ取った「指導者」らしい、譜面に忠実なものだ。

 このまま先生のスタイルで良いのか、それともミッキーの言うことも必要なのか、愛美は判断がつかない。ただ、彼の演奏は素晴らしく、確かに感動があった。


「はあ……」


 ため息とともにベッドへ転がると、雄介の匂いがした。


「会いたいな……雄介」


 話したい。頭を撫でて欲しい。そして、抱き締めて欲しい。

 ベッドへ横になり、布団の端を抱き締めて、そっと目を閉じる。深く息を吸うと、肺から彼に満たされるような気がして、心が少しずつ凪いで行った。


  ◆


 翌日、愛美の父は迎えに来なかった。朝に恭二の携帯へ『事情により、あと三日、愛美の迎えを延ばしたい』と連絡が入ったのだ。しかしそれは守られることなく、結局迎えに来たのは一月の十五日、冬休みの最終日だった。


「ありがとうございました」


 夕方、仕事帰りにやって来た父は、玄関で恭二に頭を下げ、銀行名の入った封筒を差し出した。恭二はそれを仕草で断った。


「いえいえ、にぎやかで楽しかったです。愛美ちゃん、良かったらまた遊びにおいで」

「はい。ありがとうございます、お世話になりました」

「バイバイ、またミッキーんとこ行こーね!」


 恭二の後ろで佳澄が手を振る。それに笑顔で応えたあと、愛美は父のあとに着いて深澤家を出た。

 父はビルを出て、騒がしさを増すすすきのを歩いて行く。家出を責めることも、こんなことをして勉強が遅れる、と叱ることもしない。ただ氷点下の夜の中で、雪を踏み鳴らして行く。凍れる気温のせいか、その背中が少ししょぼくれて見えた。


「お父さん」

「ん?」

「……怒らないの?」


 父はしばらく黙って歩いていたが、ふと振り返った。


「せっかく街中に出て来たんだから、飯でも食って帰るか」

「え? でも、お母さんが……」

「ラーメンでいいか? 近くに、賀州ってウマイ中華屋があるんだ」

「……うん」


 曖昧に頷くと、父はちらりと愛美を見て、再び歩みを進めた。


 狸小路の近くにある中華屋「賀州」は、古くて小さな店だった。テレビの音と客の歓談の中、父は愛美とカウンターへ座り、中国訛りの店員へ五目塩ラーメンを二つ頼んだ。


「ここのラーメン、けっこうウマイぞ。どっちかと言うと、中華そばだけどな」

「そうなんだ。美味しいなら全然いいよ」


 当たり障りのないやり取りのあと、お互い無言になった。

 父はふと、傍らに置かれていたスポーツ新聞に手を伸ばした。普段、父は大手新聞社のものを愛読していて、エンタメ要素の強いそれを読むことは滅多にない。違和感を覚えながらも、愛美は携帯に繋ぎっぱなしのイヤホンを耳に着け、画面を操作した。

 流れてきたのは、昨日ミッキーの店で録音したあの曲だった。

 三日どころか、習得するのに十日以上かかり、昨日やっと及第点を貰った。

 厳しいミッキーのおかげで、色気の正体がほんの少しだけ見えた気がする。心のひだの奥深いところにあるそれは儚くて、言葉にするには遠く、思い通りに表現するには、まだ自分は拙い。

 鍵を押し下げた時に伝わってくる感覚を思い出すように、テーブルの下の膝を鍵盤に見立てて指を動かす。すると、隣の父に肩をつつかれた。


「お前は本当に、ピアノが好きなんだな」

「え?」

「何の曲を弾いてるんだ?」


 見ると、父は穏やかに微笑んでいた。


「……プーランクの、エディット・ピアフを讃えて」

「ふーん、プーランクは知らないが、エディット・ピアフなら聞いたことがある」

「そうなんだ」

「どんな曲だ?」


 珍しく訊かれたので、イヤホンを父に渡した。父はそれを耳に入れ、しばらく黙って聴いていた。

 こんなふうに、父が自分のピアノに関わって来るのは小学生以来だ。

 一年生の発表会で「エリーゼのために」を弾いたとき、良くやったと頭を撫でてくれた。その後も発表会や、六年生で卒業式に伴奏した時には、上手だったとほめてくれた。

 父がピアノを疎むようになったのは、中学に上がってからだ。勉強の邪魔になるから辞めろと言われた。そして高校に上がってからは、少しでも成績が下がればピアノが原因だと怒るようになった。

 そんな父が今、愛美のピアノに関心を向けてくる。何かあったのか、と愛美がいぶかしく思っていると、ラーメンが運ばれて来た。

 イヤホンを愛美へ戻し、父は割り箸をよこした。


「愛美、ピアノを続けたいか?」

「うん、続けたい」

「いつまで?」

「出来る限り。可能なら、一生弾きたい」

「そうか……ほら、伸びないうちに食べなさい」


 父は自分も割り箸を取り、湯気の上がる丼を引き寄せた。


 ラーメンで温まったおかげで、駐車場ですっかり冷えていた車に乗っても、寒さは苦にならなかった。

 父がエンジンをかける。愛美が後部席で再びイヤホンを取り出した時、携帯を差し出してきた。


「これ、返すぞ」

「……え?」

「こっちがお前のだ」

「え、どういう、こと?」

「お前に渡したのは、新しく契約したものだ。悪かったな、偽物渡して」


 父が手を揺らして催促する、愛美は急いで受け取り、ロックを解除した。

 中を確認すると、すべてそのままだ。


「あ、ありがとう……消さないでくれて」

「うん。いや、電話番号で気づくと思ったんだが、気づかなかったか?」

「うん……見なかった、そこ」

「おいおい。まったく、お前って子は」


 父は笑いながら、車を発進させた。


「実は、処分しようかと思った。お前に悪い虫がついたら困るからな。でも、しなくて良かった」

「……」

「お母さんに怒られたよ、子供と言えど、自分の物じゃないのよ、って」


 前を向いたまま、穏やかに続けた。


「深澤さんにも世話になったな。正直、あんなにまともな人だと思ってなかったよ」

「まともだよ、おじさんもカスミンも」

「そうだな……」


 車が料金所に差し掛かり、父は窓を開けて駐車カードを機械に飲み込ませた。停止バーが上がり、ゆっくり街道へ出る。少し走り、赤信号で停まったとき、言いづらそうに頼んで来た。


「愛美、良かったらお母さんに、電話してくれないか?」

「うん」

「実は今、お母さんは実家にいるんだ」

「え、どうして?」

「お前が出て行ったあと、お母さんと大喧嘩してな。それで……」

「ええっ?」

「初めて実家に帰られたよ。お前が帰るまで、私も帰らないって。時間が経てば落ち着くだろうと、三日放っておいたら、判をついた離婚届まで送って来られた」


 父は前を向いたまま、小さく苦笑した。

 独裁者だった父にとって、妻と子供が同時に反抗するなど、晴天の霹靂だっただろう。しょぼくれていた原因はこれだったのだ。


「お母さん、やるね」

「本当だ。女は怖いな」

「私も女だよ、お父さん」

「ああ、そうだな」


 二人で少し笑ったあと、愛美は携帯を開き、母へ電話を掛けた。母はすぐに出て、落ち着いた声で、今すぐ迎えに来るよう応えた。

 通話を終え、会話の内容を父に伝えると、父は頷いて車を母の実家の方角へ走らせた。


「……愛美」

「なに?」

「お前が本当にピアノをやりたいなら、その熱意を見せてみろ」

「え?」

「大学で音楽を学びたいなら、何かしらのコンクールで入賞してみせなさい。それだけの実力と情熱があると、お父さんに証明しなさい」


 ついに父が折れた。その事実に、驚きと感動が同時に沸き上がり、涙に代わってまぶたへ溜まっていく。


「はい……!」


 小さく、だがしっかり応えると、父がバックミラー越しに微笑んだ気がした。


  ◆


「うわー、マジかよ……」


 携帯をポケットに戻しながら、ソファに座っていた雄介が呻いた。

 長々続いたメッセージの相手は、恐らく愛美だ。タツはベッドに座ってタバコを吸いながら、つい問いかけた。


「何があったのよ?」

「いやあ……アイツ、家出してウチにいたらしいわ」

「マジか! やるなあ愛美チャン」

「つうか、何で誰も連絡くれねーんだっつうの!」

「嫌われてんじゃね? お前」


 手を叩いてゲラゲラ笑ってやると、雄介が悔しそうに睨んで来た。


「ちげーよ! 俺と会うなって、アイツの親父と約束してたからだっつうの」

「へえー。律儀に守ってんだ、皆。会ったって言わなきゃ判んねえのになあ」

「うっせえ黙ってろバカ!」


 怒鳴られたが、まったく怖くない。むしろおかしくなり、タツはまた笑った。


「くっそー、何かムカつくな」


 ぶつぶつ文句を言いながら、雄介は立ち上がり、上着を着た。

 次に泊めてくれるのは、中学からの友人だそうだ。かれこれ一ヶ月に及んだ同居生活も終わりである。


「とりあえず、そろそろ行くわ。次の練習、二十日だったよな」

「んー、つうか、マジに行くのか?」

「ああ。あ、まだカレー残ってるから、ちゃんと食えよ」

「へーへー」

「米もちゃんと炊けよな」

「ういーす。つうかお前、俺のオカンかよ?」

「テメエみたいなバカ息子生んだ覚えねえし」

「だよな」


 くだらない。冗談にもならないほど、どうでもいい会話だ。その最中も、雄介は荷物を持って玄関へ向かっている。止めるにはまだ間に合うが、止める理由を探しても見当たらなかった。


「じゃ、世話になりました。これで女も自由に連れ込めるし、良かっただろ」

「まあ、そうだな。これからはヤり放題だ」

「それは良いけど、練習ちゃんと来いよ。あと飲み過ぎんなよ」


 雄介がブーツをはき、ドアを開ける。室内へ冷気がなだれ込んできた。


「さっむ! くっそ早く閉めろって」

「言われなくても閉めるっつうの! じゃあな」


 催促されたと取った雄介は、別れを惜しむこともせずに、急いで外へ出てドアを閉めた。


「あー冷えてんなあ、今夜」


 急に部屋が静かになり、耳鳴りがする。タツは舌打ちしてテレビを点けた。

 画面には洋画が映し出された。宇宙的なセットの中で、光る剣を振り回して戦っている。まったく興味のないジャンルだと思いながら、チャンネルを変えた。しかしどのチャンネルも興味を引く内容ではない。タツはギターを抱え、適当に弾き始めた。

 テレビの雑音とギターの生音が混じり、新しいフレーズが聴こえて来る。それを捕まえて形を作ってみると、意外に面白いものが生まれた。


「あ、これどうよ雄……」


 話しかけて、はたと気づいた。そうだ、彼はもういないのだ。


「ははは、バカだな……」


 自嘲しながら携帯を取り、生まれたばかりのフレーズを録音する。そして再生してみると新鮮味は消え失せ、つまらないものに変わっていた。

 今日はダメだ。このまま続けても大したものは出てこないだろう。こんな時は寝てしまうに限る。明日も朝から労働が待っているのだ。

 ギターをスタンドに戻し、ベッドへ潜り込んだ。テレビは相変わらずくだらないものを垂れ流している。時折沸く大笑いが、少しだけ広くなった部屋に寒々しく響いていた。


  ◆


 雄介がいなくなった実感は、日を追うごとに大きくなった。

 曲に関しての連絡は、頻繁にやり取りしている。それなのに何故か、心に生まれた空虚が少しずつ広がり、特に夜、部屋で一人になると、その存在を主張して来た。

 タツは部屋で一人、酒を飲みながら理由を探した。

 出所してから雄介が出ていくまで、常に誰かと暮らして来た。それはたった数ヶ月だ。留守がちな母親と暮らしていた子供の頃、そして就職し家を出てからの長い年月を振り返れば、一人暮らしのほうが遥かに長い。

 思えば、この部屋に一番長くいたのは雄介だった。そしてもしかしたら、このままずっと居るのかも知れないと期待していた。


「は……はははは……」


 空虚の正体を見たような気がして、つい笑いが洩れた。

 元々一人だった。そこへ戻っただけだ。

 グラスの酒を飲み干し、それでも足りずにボトルをラッパ飲みした。残り少なかったテキーラは、喉を焼いてすぐになくなった。

 最悪だ。そのうち空虚に飲まれて死んでしまいそうだ。

 逃げ出したくなり、上着を着た。そして携帯を握った矢先、見計らったように着信が響いた。反射的に出ると、忌まわしくも懐かしい男の声がした。


「やっと出てくれたな、タツ」

「……ヨウジ」


 しまった。

 すぐに切らなければ、と頭では判っていても、体が反応しない。タツはせめてもの抵抗に、唇を噛んだ。


「明けましておめでとう。って、もうとうに正月終わってたな。元気か?」

「……」

「去年は悪かったな。お前に迷惑かけちまった。でも俺、お前のおかげで出世したんだぜ」

「……」

「今じゃちょっとしたシマの頭はってんだ。お前が庇ってくれたお陰だ。本当にありがとうな」


 見え透いた言葉に怒鳴りたくなるのを抑えながらも、やはり電話を切ることが出来ない。それを知っているかのように、ヨウジは優しい声で続けた。


「でもよ。これ以上、カタギのお前に迷惑かけられねえから、もう関わらねえようにする。連絡もしない」


 離れることを示唆され、ほんの少しだけ心が疼く。どうして皆、自分の周りから去っていくのだろう。なおきつく唇を噛んでいると、ヨウジは小さく笑った。


「なあ、何か言ってくれよ」

「……うるせえ、この野郎」

「ハハハ、いつものセリフだな。なあタツ、俺、お前にお礼がしたいんだ。一度だけで良いから会おうぜ」

「誰が、会うかよ」

「そう言わずによ。今、お前んちの前に、車回してあるんだ。黒いアストロだ。見えるだろ?」


 促されてカーテンの隙間から外を覗くと、確かに黒いアストロが停まっている。部屋へ戻ってきてから何度か見た車だ。ということは、ヨウジはずっとこちらの様子を窺っていたのだ。


「あのガキも出てったらしいし、夜なら時間あるだろ?」

「行くわけねえだろ、バカ」

「そんな事言うなよ。たった一度だけだって。一度だけで良いから、俺に恩返しのチャンスくれよ」

「……」

「なあ、タツ」

「……」

「待ってるから、いつまでも一晩中でも、お前が来てくれるまで……」


 まるで恋人を誘い出すような響きを残して、通話が切られた。

 柔らかさと哀願のこもった言葉が耳に残って煩わしい。相手になどしてはいけない。バンドの皆に、そして自分に誓ったのだ。


「もう、テメエに、関わるもんかよ……」


 心が疼く。空虚が深まる。横田へ助けを求めようと電話したが、繋がらなかった。ついていない。運や幸福から、もう見放されたのかもしれない。

 舌打ちしながら再び窓を覗くと、相変わらずアストロが待っている。タツはそれをしばらく睨んだあと、のろのろと上着のファスナーを上げた。

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