第24話 Are you experienced?

 十二月の初旬、タツはようやく清称寺から自宅へ戻れることになった。寺で大人しくしていたのが評価され、やっと帰宅を許されたのだ。今後は定期的に、保護司と直接連絡を取りながら暮らす形になる。


 乗り心地の悪いハイエースのカーステレオから、ジミ・ヘンドリックスが流れてくる。逆回転のギターフレーズはいつ聴いても新鮮だ。つい指でスケールを追っていると、隣で運転するコウがクスリと笑った。


「やっとご帰宅だな」

「ああ、ホントだな」

「帰ったからバレねえと思って、悪さすんなよ? もし何かやらかしたら、寺にソッコー強制送還な」

「判ってるって。出戻らねえようガンバリマス」


 タツは笑いながら、ネオン輝くホームグラウンドへ目をやった。


 タツの住処は繁華街の端にある、二階建の木造アパートだ。狭い路地の奥で、雄介の自宅とは徒歩で十五分ほど離れている。

 清称寺へ身を寄せてから、何度か物を取りには来ていたが、三ヶ月以上も空けていた。ほこりもたまっているだろうから、掃除しなければならないだろう。そして今夜じゅうに、機材の奥に埋もれているストーブを引っ張り出さねばならない。

 面倒だ。それでも、ようやく本来の気ままな生活に戻ると思うと、巻かれていた重い鎖から解放されたようで気持ちが軽い。

 繁華街を抜け、アパートとラブホテルが立ち並ぶ路地を曲がると、タツの部屋が見えてくる。この辺は路が狭い上に、路上駐車も多い。コウは車道にはみ出して停まっていた黒い車を器用に避け、アパートの手前の歩道脇に車を停めた。


「さ、着いた着いた。あとはテメエで頑張れや」

「へーへー。大変お世話になりました、若和尚どの」

「うっせーよ、とっとと降りろ」


 コウに急かされ、助手席から下りて荷物とギターを出した。そして狭い路地で、ハイエースが器用にUターンして去るのを見送ったあと、自室へ向かった。


「……あれ?」


 玄関へ近づくと、窓から明かりが漏れている。もしや点けっぱなしだったのかと焦りながらドアの鍵を開けると、自分のものではないブーツがあった。


「あ、おかえり」


 中から雄介が顔を出した。


「え、なんでお前?」

「いま住んでるから」

「は?」

「は? じゃねえよ。早く入れよ、寒いから」


 雄介が荷物をよこせと手を出してくる。タツは戸惑いながらギターを渡した。


「何でいんのよ?」

「だから住んでるからだって」

「いやそれ聞いてねーし」

「空き家にしとくのもったいねーだろ。良いじゃん、掃除もしといたし、食いもんも灯油も買っといし」

「それはありがてーけどよ、勝手に人んち……」

「はいこれ」


 部屋へ上がると、雄介がボトルが入ったスーパーのポリ袋を押し付けてくる。受け取って覗くと、ラベルに赤いトカゲが描かれたテキーラが入っていた。

 タツの好きな酒だ。


「おおっ、二本もか!」

「帰宅祝いと部屋代」

「え、部屋代やっす」

「黙れバカ。あるだけありがたいと思えよ。つうか色々他にも買ってんだから充分だろ」

「へーへー、ありがたくいただきやす」

「おう」


 雄介はドヤ顔で頷き、ソファへ陣取った。まるで彼が家主のようだ。少し不服を感じつつ、タツは抱えてきたバッグを下ろし、ライダースを脱いだ。


「つうか、いつからいたのよ?」

「んーっと、ライブ一週間前、くれえから?」

「そんなに? ちょ、誰も教えてくんねーし」

「だろうな。口止めしといたもん」

「まじかよ、俺だけハブかよ?」

「驚かしてやろーと思って」


 雄介がしてやったりと笑う。それを憎たらしく思いながら、タツは様子の変わった自分の部屋を見回した。

 自分のギタースタンドに、雄介のレスポールがある。あちこちに見慣れない物が置かれ、自分と、雄介の服がならんで干してある。その中に制服がないのに気づき、タツは首を傾げた。


「つうかお前、学校は?」

「さあ?」

「さあって、何だそれ?」

「良いだろ別にそんなの。あ、飯は?」

「いや、まだ」

「昨日作ったカレーあんだけど、食う?」

「あ? ああ」

「じゃ、温めるわ」


 雄介はそそくさと台所へ立った。

 無理に聞き出す気はないが、いまだ雄介が帰宅していないことを考えると、単純な家出ではないようだ。学校にも行っていないようだし、もしかしたら、このままここで暮らそうというハラなのだろうか。

 さてどうしたものかと考えているうち、目の前に、スプーンがつっこまれたカレーライスが出された。


「ほら」

「わ、本物だ。すげーじゃん、お前作ったの?」

「ああ。つうかカレーなんて、箱の裏見りゃ誰でも作れるっちゅうの」

「へえー」


 スパイシーな香りと湯気が食欲を刺激する。タツはソファへ座ると、膝の上に皿を載せ、一口すくって口へ放り込んだ。


「うえ、辛っ!」


 タツが驚いた一方、雄介はニヤニヤしている。苦手なのを知っていて辛口を選んだようだ。


「イエーイお子さまァ」

「黙れクソガキ!」


 威嚇するように睨むと、雄介は笑いながらトイレへ逃げた。


「あー、クッソ辛! 何で甘口じゃねーんだよっ」


 舌と喉が痺れ、鼻の奥がツンと痛む。あわててコップに水を用意し、我慢しながらかきこんだ。

 せっかく作った物を残すのはもったいない。例えそれが苦手なものでも、手作りの食事は温かい。

 とは言え味わうと辛いので、吸い込むように食べた。そして四分で皿を空にし、乱暴にローテーブルへ置いた。


「食い終わったら下げろよな」


 トイレから出てきた雄介が口を尖らせる。ウザい、と眉を寄せながら、タツは言われたように食器を下げた。


「へえ……」


 台所の、汚れで曇っていたシンクがきれいになっている。炊飯器には久々にスイッチが入っており、なかったはずの調味料や洗剤、インスタントの袋麺なども並べられていて、独りで暮らしていた頃とは違う様子だ。料理をしないタツにとって、それはとても新鮮だった。


「これも、お前が?」

「ああ。つうか、ホント何にもねえんだもん。ったく、一人んとき何食ってんだよ?」

「あー、何だっけ?」

「はあ? 覚えてねーのかよ。ったく」


 呆れ顔の雄介をスルーして、タツはソファへ戻り、煙草に火を点けた。

 どうやら、気ままな独り暮らしには当分戻れないようだ。きっと妙な寂しさすら、感じる暇がないに違いない。

 雄介が、自分の食器は自分で洗え、と文句を言っている。

 本当に面倒だ。タツは紫煙を吐き、のろのろ立ち上がった。


 ◆


 唐突に始まったクソガキとの生活は、音楽と笑いと小競り合いに満ちていた。

 意気投合すれば朝まで語り、曲を作り、そして時々罵り合い、喧嘩になる。騒がしくしていたが不思議と苦情が来ないのは、周囲の住人がほとんど夜の仕事であるお陰だ。


 日々楽しく過ごす一方、タツは真面目に仕事を探し、一週間で工場作業員の職を得た。こんなに急いで仕事を決めたのは始めてだった。

 実のところ、雄介が居酒屋に加え、単発のバイトを入れ始めたのに影響されたのだ。稼げるときに稼いでおかなきゃ、と笑った雄介が少し大人びて見え、何故だか悔しかったのである。


 寺の生活に慣れた体は、働くことをいとわなかった。出所してから身についた習慣は、仕事でも、そして雄介との共同生活においても役立った。

 そして雄介と暮らすことで、遊びに出ることもほとんどなくなった。酒を飲んで誰かと行きずりの関係を持つより、二人で音楽を創造するほうが楽しかったからだ。


 ◆


 クリスマスが近くなった夕方、タツが仕事から帰宅すると、ちょうと雄介が居酒屋へ出勤するところだった。


「今日の晩飯は?」


 仕事用のジャンパーを脱ぎなから毎度の調子で訊くと、雄介が咳をしながら睨んだ。


「カレー」

「えーまたあ?」

「ウッセエよ。つうか、文句あんだったらたまにはテメエがやれよ」


 声ががさついている。また咳をする雄介のポケットで着信音が鳴った。


「もしもし。ああ……うん」


 少し話して、嬉しそうに笑う。それだけで、タツは電話の相手が誰なのか直感した。

 短い会話のあとで、雄介がため息を吐きながら携帯をしまう。そのまま玄関へ向かった背へ、カマをかけた。


「なによ、女が?」

「へ?」

「当たりだな。わっかりやすー、お前」

「うっせー」


 振り向いた顔が赤い。良い知らせでも来たようだ。タツはニヤニヤしながら煙草をくわえた。


「最近、会ってんのか?」

「いや……アイツ今、外出禁止だから」

「何で?」

「色々あって、親父さん怒らしちまって。ケータイ取り上げられたって」

「ふーん。じゃ、公衆電話?」

「ん」

「そっか、不便だな。年末のUGAは?」

「無理って。でも初詣は多分どうにか……ってテメエに関係ねーだろ!」


 照れ隠しに叫んだせいで、雄介がひときわ大きな咳をした。


「まー、お前らの付き合いとかどーでもいいけど。ヤるときはちゃんとヒニンしろよ」

「うっせ!」


 雄介は赤い顔で吠え、そそくさと出掛けていった。


「くくくく、ガキだなまったく」


 タツは煙草を吸いながら、玄関の鍵をかけた。


 一人飯を済ませ、しばらくギターを弾いたあと、風呂に入った。カラスの行水よろしくさっさと出て、テキーラを少しだけ飲み、テレビの深夜番組をぼんやり眺めた。

 最近、一人の時間が妙に長く感じる。


「ヒマ……」


 テレビの中ではお笑い芸人が賑やかに笑っている。そこは明るいのに、部屋の中は妙に暗い。ぼんやりしているうちに、昼間の疲れが睡魔を連れて来た。

 雄介の帰宅は真夜中だ。そのまま次のバイトへ向かうこともあるので、いつものように先に眠った。


 二時間ほど経ったあたりで、物音に目が覚めた。雄介が帰ってきたのだ。暗い室内へ入り、重苦しい咳とともに、ソファへ倒れこんだ気配がした。

 いつもはまず手を洗うのに、今夜はそうしない。くぐもった咳が聞こえて来るのも、少しおかしい。


「……雄介?」


 返事はなく、代わりにまた咳が聞こえる。タツは起き上がり、明かりを灯してソファを覗きこんだ。


「どうした?」

「風邪、かも……」

「マジか、熱は?」

「判んねえ……アタマと喉、痛くて」


 声は既に掠れ、頬が赤い。額に手を当てると案の定、熱が出ていた。


「ふん、バカのくせに風邪引いたか?」

「うっせ……っ」


 喋るとなお咳が出る。

 タツは雄介を着替えさせると、自分のベッドへ寝かせ、額をタオルと保冷枕で冷やしてやった。


「明日、練習……」

「はあ? こんなんじゃ歌えねえし、他のヤツにうつるって」


 横柄に応える一方、慌てて体温計やら風邪薬やらを探すが、どこに紛れ込んだのかさっぱり見つからない。時刻は午前一時を回っている。タツは少し考え、スウェットの上にライダースを着て、財布をポケットへ突っ込んだ。


「何か、食えるか?」

「……いらねえ」

「じゃあ、飲みたいモンとかは?」

「……」


 雄介は応えず、布団に埋まるように身を縮めた。どうやら寒いようだ。タツは上から毛布をかけてやり、急いで外出した。


「あー、クッソ寒」


 頬に吹く風が冷たく刺さるようだ。この、気温零度前後が体感として一番寒く感じる。

 近くにある終夜営業の薬局で、体温計やら風邪薬を調達した。そして少し迷ったあと、誰かに電話を掛け、コンビニを経由して戻った。

 黙って部屋へ入ると、雄介は変わらずベッドで丸くなっている。タツは雄介のタオルを冷却シートに代え、体温を計らせた。それから買ってきた物を冷蔵庫へ放り込んでいると、小さなデジタル音が鳴った。雄介がのろのろ取り出した体温計を横からさらって見ると、表示された数字は三十九度に近かった。


「とりあえず、水分」

「ん……」


 持っていたスポーツドリンクを渡すと、雄介は緩慢な動きでキャップを開け、少しだけ口に含んだ。


「夜、何か食ったか?」

「……いや」

「そうか。とりあえず、熱下げた方が良いな。じゃ、ケツ出せ」

「……え?」

「ピッてしてやる、ピッて」

「はあっ?」


 雄介が驚くのをよそに、タツは解熱剤のパッケージを開けた。そして布団をはいだかと思うと、躊躇なく雄介のスウェットパンツに手を掛けてくる。さすがに雄介も腹を抑え、必死に抵抗した。


「なっ、何し、ゲホゲホッ」

「坐薬入れんだよ、食ってねえならケツから下げる、これ高熱の時の常識」

「いや、それ、ちょ……」

「文句言うな、手伝ってやるから」

「や、いい、自分でや……」


 ニヤニヤして見せると、雄介が力なく睨んで来る。こんなキツいときに冗談は止せ、と言いたげだ。薬を差し出すと乱暴にひったくり、再び布団にくるまった。

 ちょっとからかっただけで、本気で慌てふためく辺りが面白い。タツはくつくつ笑いながら、雄介の側を離れ、やっとライダースを脱いだ。

 雄介は布団を被ったままもぞもぞ動いていたが、そのうち起き出して手を洗い、再びベッドへ潜って行った。それを見ながらソファへ座ったタツは、テレビを点けた。

 ボリュームを絞り、深夜番組を流しながら煙草をくわえる。二、三服するうちに雄介が咳込み始めたので、タツは吸いかけの煙草をくわえ、またライダースを着た。

 今夜は外で吸った方が良いだろう。寒いが、バンドの要であるボーカルの喉が優先だ。


 朝方起きて水分を摂ったほかは、雄介はずっと眠っていた。タツは時折彼の様子を見ながら、外へ出て一服したり、ギターを弾いたり、ソファでうとうとした。


 迎えた翌朝、携帯のアラームで目覚めたタツは、身繕いを済ませてからベッドを覗いた。雄介は良く眠っており、顔色も良い。触れた額は昨夜よりもぬるかった。


「下がったか……」


 安堵のため息が洩れた。

 解熱剤が効かなければ、病院へ連れて行かなければならないと考えていた。雄介はおそらく保険証を持っていないから、それは出来るだけ避けたかったのだ。

 とりあえずコウへ現状報告を入れ、今日の練習は休みにした。次回の練習は年末だ。その頃には雄介も回復しているだろう。


「ほんと、クソガキ」


 柄にもなく心配してしまった。照れるような、悔しいような気分だ。

 乾いた冷却シートを雄介から剥がし、汗で束を作った前髪を撫で上げる。そこで思わず手が止まった。

 いつもと違う、子供のような寝顔だと思った。


「ちっ……」


 小さな舌打ちは、静かな部屋の中で思ったよりも大きく響いた。

 雄介の髪は硬く、指を離すと、こめかみや額へぱらぱらと戻ってくる。立ち上る汗の匂いに、大人の男のような野性味はない。

 熱が高かったせいか、唇が乾いている。それがあまりに無防備で、つい触れたくなった。

 目覚めるだろうか。もし目覚めたら、雄介はどんな反応をするだろう。

 吐息が掛かるほど近くに唇を寄せても、雄介はまったく目覚めない。本当に無防備だ。

 触れるか触れないか――束の間迷ったあと、タツはため息と共に離れた。

 雄介相手にこんな感情を覚えるなんて、自分でも不思議だ。彼は親友で、バンドのメンバーでもある。それ以上にはならないし、なれない。

 一番距離の近い他人だから、たまたまクソガキが弱っているから、しばらく誰とも寝ていないから、と、色々な理由を探してみる。それは全部正解で、全部不正解に思えた。


「バカだろ……」


 沸いた感情を嘲りながら、ベッドから離れた。それから冷蔵庫の冷却シートを持ってきて、雄介の額へ勢い良く貼り付けた。


「うあっ」


 冷たい衝撃に、雄介が身動ぎして瞼を開ける。タツは声を上げて笑いながら、雄介に体温を計らせた。


「微熱だな。一晩で下がって良かった。っつうか体力あるなお前、さすがバカ」

「ウルセエよ、この……」


 掠れた声に続いて、重く湿った咳が響く。タツがティッシュの箱を雄介の枕元に放った直後、玄関のチャイムが鳴った。


「はーい、誰?」

「あ、あの……朝早く、ごめんなさい」


 ドアの向こうからおずおずと顔を出したのは、黒髪を一つに髪をひっつめて眼鏡を掛けた、真面目なイメージの女性だった。

 彼女は律義におじぎすると、玄関に立ったまま、大きな紙袋を差し出した。


「サンキュー和美ちゃん! 助かるぜ、遅い時間だったのにゴメンな」

「そんな、私で良かったらいつでも言って。あの、タツさん、熱とか大丈夫?」

「ヘーキ。もう治ったから」

「本当に? あの、その人は?」

「居候。まあ、気にすんなよ」


 タツは和美を玄関に立たせたまま、彼女が持ってきた紙袋を受け取り、ローテーブルの上に置いた。中身はおにぎりやサンドイッチ、おかずや汁物などの食料である。昨夜の電話の相手は彼女だったのだ。


「食えたらテキトーに食って、風邪薬飲んどけ。七時くらいには戻るから」


 タツはジャンパーをはおりながら、雄介へ声をかけた。


「……へ? どこ、行く……」

「仕事」


 答えながら、顎でテレビを指し示す。画面には朝の情報番組が流れ、もうすぐ八時だとアナウンスが告げていた。


「あ……」

「ちゃんと寝てろよ?」


 雄介が起きようとするのを制し、タツは和美と共に部屋を出た。


 朝陽の輝く外へ出ると、地面に雪がうっすら積もっている。どうやら朝方降ったようだ。タツは後ろから着いてくる和美へ手を伸ばし、肩を抱いた。


「助かった。悪かったなァ、ほんと。お礼は体で返すから」

「あ、そ、そんな、つもりじゃ」

「帰ったら腹一杯食わしてもらうわ。また連絡するからさ、そん時は、シャワー浴びて、裸で待ってろよ」

「そんな、恥ずかしいよ」

「じゃ、エプロンだけ着てても良いぜ。ただし、白いヤツな」


 赤く染まった耳朶に軽くキスを落とすと、和美がきゃっ、と声を上げた。


「ハハハ、ビンカンだな相変わらず」

「もう、やだ恥ずかしい……」

「そこが可愛いんだよ、和美ちゃーん」


 じゃあな、と軽く残して、あっけなく離れた。

 具体的な約束はしない。タツにとって、特に女との約束はアクセサリーのようなものだ。守るのも破るのも気分次第である。

 呼び止める和美に手を振り、タツはさっさと職場へ向かった。


 夜になり、タツが部屋に戻ると、雄介はまだ微熱があるものの、だいぶ元気になっていた。

 テーブルの上には空の紙袋と、食べ残した果物の皮が入った容器が置いてある。どうやら残りは雄介がしまってくれたようだ。タツは冷蔵庫を覗くと、それらを取り出してレンジへ突っ込んだ。


「なあ、アンタってカノジョいたんだ」

「へ?」

「だってほら、飯とか頼んでるし。でも、ずいぶん真面目そうな感じだな。ちょっと意外」


 雄介は起き上がると、鈍い動きでローテーブルの横へ座った。そして並べてもらった礼も言わずに、箸を持ち、タッパから大根の煮物を口へ放り込んだ。


「美味い……やっぱ料理上手い女の方が、付き合ってて良い?」

「別に。料理上手かろうが、真面目そうだろうが、ヤる分には関係ねえし。それに俺は、あのオンナと付き合ってねえぜ。飲み屋でナンパして、三回くらい泊めてもらった程度」


 タツは雄介の向かいに胡座をかき、良い匂いのする唐揚げにかじりついた。予想に反した応えだったのか、雄介は眉を寄せた。


「はあ? 何だそれ。っつうかよ、いつまでもふらふらしてないで、アンタもそろそろ、ちゃんとした彼女作れば?」

「あ?」

「知り合ってから三年くらい経つけど、アンタ、実はずっと彼女っていねえだろ。ヤる女はたくさんいるのに、何で?」


 タツは目を伏せたまま咀嚼していたが、思い付いたように立ち上がると冷蔵庫へ向かい、ビールを持って来た。そしてプルタブを開けて一気に呷り、一つゲップを洩らした。


「別に、メンドクセエから」

「それだけ?」

「ああ」

「好きな女とか、いねえの?」

「ああ」


 再びビールに口を付け、今度は厚焼玉子を頬張る。雄介はそんなタツを判らないといった顔で見ると、箸を置いてベッドへ戻った。


「もう食わねえのかよ?」

「ああ。果物とか食わせて貰ったし、もう腹一杯」


 雄介は横になると、枕元の体温計を脇の下へ挟んだ。計測の間、怠そうに眼をつぶる。そのうち、荷物の上に放ってあった雄介の携帯が鳴り出した。


「お、誰よ?」


 雄介が起きるより早く、タツが携帯へ手を伸ばした。そして止める間もなく通話ボタンをタップした。


「もしもーし、誰?」

『え? あの、雄介、なの?』


 聞こえて来たのは愛美の声だ。タツは伸びてきた雄介の手を防ぎながら、ニヤリと微笑んだ。


「なーんだ、お前かよ。雄介と別れたんじゃなかったのか?」

『え、もしかして、タツさん?』

「おう、久しぶり愛美チャン。雄介な、今シャワー浴びてんの。つうか俺ら出来てっから、もう掛けてくん……痛ってええ!」

「この野郎、返せバカッ!」


 本気の蹴りを大腿の裏に食らい、思わずタツがへたり込む。その隙に携帯を奪い返すと、雄介は一目散にトイレへ逃げ込んだ。


「バッカ野郎、この……」


 悪態を吐きながらも、タツは笑い出した。

 受話器の向こうで思い切り戸惑った愛美や、キツい冗談に本気で怒る雄介が面白かった。そして二人を相手に、こんな子供じみた悪戯をする自分は本当にバカだと思った。

 何故こんなことをしたのだろう。自分が大人げない。

 こんな時には逃げるに限る。何か別の、夢中になれるものに没頭したい。

 タツはライダースを着て財布を持つと、トイレから出て来ない雄介を放って部屋を出た。

 階段を降り、白い息を吐きながらぶらぶらと歩く。蹴られた太腿が鈍く疼いてわずらわしい。見上げた夜空は厚い雲に覆われ、月はどこかに隠れてしまっていた。

 誰に連絡を取ろう。

 携帯を見ると、いつの間にか伝言メモが二件残されている。一つは和美で、もう一つは知らない番号だ。タツは何気なくそれを再生して、急に足を止めた。


『よお、タツ。元気か?』


 その声がヨウジだと判った途端、タツは耳から携帯を外した。

 彼には金輪際関わらないと決めた。特に今関わってはいけない。振り切るように伝言を消し、ヨウジの番号を着信拒否した。そしてすぐに別の番号へ掛けた。


「……ああ、横田さん? 俺、久しぶり。忙しい?」

『大丈夫だ。お前、家に戻ったんだって?』

「ああ、やっとな」

『そうか。元気にしてたか?』

「生きてる」

『そりゃそうだ、今話してるんだから』


 横田の穏やかな笑い声が、妙に懐かしい。

 ぽつぽつと言葉を交わした後に、通話を切る。タツは一つ大きな溜息を吐いて、繁華街へと歩き出した。


 この夜、タツは部屋へ帰らなかった。そしてこの日を境に、タツはまた出歩くようになった。





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