第21話 THE AUTUMN SONG 2
愛美が保健室で応急処置を受けたあと、母が迎えに来た。それから整形外科へ行き、検査と診察を受けた。結果は落下による各所の打撲と、右腕の捻挫だった。
体はいい。しかし右腕を痛めてしまったことで、一時的にピアノが弾けなくなった。これは愛美にとってとても辛いことだった。
ピアノを弾くということは、愛美にとって、心を開放する唯一の手段だ。嬉しい時も悲しい時も、ピアノはつねに自分に寄り添い、味方だった。
出来るなら、今すぐ弾きたい。汗が滲み、体が疲労するまで没頭したい。しかしこの腕では白鍵を押し下げるのすら辛く、医師にも演奏しないように言われてしまった。
治すためには仕方ないだろう。治癒まで何とか、気力で乗り切るしかない。
診察のあと自宅へ戻り、夕食を食べている最中に父親が帰宅した。そこで、母が階段の一件を報告した。
「どうして、お前はそんなことに首をつっこんだんだ」
顛末を聞いた父親は、慣れない左手でフォークを使う愛美へ言った。まるで、安田を助けたお前が悪い、と怒られたように感じて、愛美は腹が立った。
「お父さん、ちゃんと話聞いてた? 私はただ、安田さんを助けただけだよ。悪いことなんてしてない」
「悪い、とは言っていない。ただ、その子は単なるクラスメイトだろう。なんで関係のないお前が、それに関わるんだ」
「だって、気分悪いじゃん。お父さんだったらどうするの? 目の前でそういうことがあったら、嫌な気分にならない?」
自分のやったことを判って欲しくて問い掛けたが、父は目を逸らした。
「その結果、ケガしてるじゃないか。とにかく、お前に関係ないことに、もう関わるな。そんな暇があったら勉強しなさい。もうすぐ学力テストだろう。右手、それまでに治るのか?」
「……そんなの知らないよ。テスト? 何それ、バカみたい」
「バカみたいだと?」
生意気だと取られたのか、父親の表情に怒りが混ざった。
いつもは父親を怒らせるのが怖いから、顔色を窺って歯向かわないようにしていた。でも今回は違った。今まで働かせていた「自制」のスイッチが入らなかった。
愛美はフォークを放り出し、立ち上がった。そして父親と真正面から対峙した。
「ちょっと愛美ちゃん、落ち着いて……」
「お母さんは黙ってて!」
娘の、今までにない強気な態度に気圧され、母は娘と夫の間でおろおろした。
「お父さん。娘のケガより成績が心配なんだよね。帰って来てから、大丈夫か、の一言もないしね」
「それは聞いたから知っている」
さらりと言い放たれたのが、なお悔しい。自分の頭に血がのぼるのが判った。
「フツーは聞くでしょ。お父さん、私が大人しく勉強だけしてたら満足なんだよね? お父さんの言いなりになって、良い大学入れば満足なんでしょ。でもそれは、私がしたいことじゃない!」
愛美は食事を中途に、リビングを出ようとした。
「待ちなさい! じゃあお前は何がしたいんだ!」
「ピアノやりたい」
「ピアノ? そんなもので生活なんか出来ないぞ。むしろ、いつまでだらだら習う気だ。そろそろ辞めろ!」
「やだっ、絶対辞めないから!」
「愛美、こらっ!」
怒鳴られたが、振り切って部屋へ駆け込んだ。当然、父親は追いかけてきてドアをこじ開けようとしたが、愛美はドアノブを必死に押さえ、抵抗した。
「あなた、止めて! あの子、ちょっとショック受けてるのよ」
「うるさい、そうやってお前が甘やかすからつけ上がるんだ!」
「ケガもしてるの! お願い、そっとしておいてやって」
ドアの向こうで両親がもめている。それでも立て込もっていると、父親が怒鳴った。
「いいか愛美、ピアノは辞めろ!」
ドン、とドアが揺れ、二人はもめながら離れていった。
「はあ……はあ……つうっ……うっ」
泣けてきた。体が痛い。腕も脈打つほど痛い。
心が、一番痛い。
「辞めない……絶対、辞めないから……」
ピアノまで無くしたら、自分は本当に空っぽになってしまう。父親の言うことに従い、都合の良い人形のようになんて、もう絶対に嫌だ。
もっと強くなりたい。強くなって、自分の道を歩みたい。愛美の脳裏に雄介の面影が揺れた。
父親への怒りを抱えたまま、布団の中で音楽を聴きながら過ごした。不思議なことに、音楽を聴いていると心が凪いでくる。愛美にとっては最高の薬だ。
大好きなラフマニノフの「鐘」のオーケストラ版とピアノ版をじっくり聴き比べたり、ベートーベンの交響曲第七番を頭の中でアレンジして遊んだ。
朝方に腹が減ると、こっそり台所へ行ってお菓子をつまんだ。そのあと少し眠り、朝食の席には着かなかった。
「愛美ちゃん、寝てる?」
朝の八時半を回った頃、母がドアの向こうから、そっと声をかけて来た。
「学校、お休みの電話入れといたからね。あとお父さん、もう出掛けたわよ。そろそろ朝ご飯、食べたら?」
機嫌を窺うような猫撫で声だ。愛美は応えず、狸寝入りを決め込んだ。
今は母とも余計な口を聞きたくない。彼女はどうせ父親側だ。
「お母さん、これからお出かけしてくるから。買い物もするから、何か欲しいものあったら連絡してね」
優しい響きを残して、母の足音が去っていった。
良かった、今日はしばらくのびのび出来る。しばらくして母が出掛けたのを確認すると、愛美はやっと起き出してパンをかじった。
腹を満たし、再び布団へ潜る。ゴロゴロしているうちに睡魔に魅せられ、気持ちよく眠りに落ちた。また雄介の夢を見て目覚めると、悲しくて涙が出た。
「どこにいるの……」
携帯を開き、夏のツアーの時に皆で映った記念画像を眺めた。自分と並んで写った雄介は、変わらずに微笑んでいる。この日は本当に最高の日だった。ここに戻れるなら、今すぐ戻りたい。
楽しかった夏を惜しんでいると、しばらくぶりに携帯の通知音が響いた。誰かからのメッセージだ。
もしや、と期待して画面をチェックすると、有希からだった。
『久しぶり。昨日大変だったね。体、だいじょぶ?』
「うそ……有希だ……」
驚きと嬉しさが同時にこみ上げ、思わず飛び起きる。体に走る痛みに呻きながら返信しようとすると、続けて文が並んだ。
『いま家にいる?』
『お見舞い行きたいんだけど、会える?』
「会えるよ、もちろん!」
震える指で、何度も間違えながら返信する。すぐに既読がついた。
『良かった。実はいま、すぐ近くに来てるんだ。じゃあ、これから行くね』
「え、近く? 近くってどこらへん……」
愛美は部屋を見回した。
汚い。掃除はしているが散らかっている。そして寝起きでパジャマ、頭は寝癖だらけだ。
「や、ヤバい……」
慌てて着替えを探してるうちに、玄関チャイムが鳴った。もしや家の前でメッセージをくれたのか、というタイミングだ。
「はーやーすーぎーっ!」
もう、ジタバタしても遅い。
女同士、しかも自分はケガ人だから仕方ないと諦めて、玄関へ行き、ドアを開けた。
「あ……あの、久しぶり」
有希が少し気まずそうに、そして少しはにかむように笑う。そんな彼女を見て――胸が震えた。
有希と離れていた間に起こった辛いことが、走馬灯のように思い出される。一呼吸置く間に、涙が溢れて来た。
「う、うええええん、有希いいいー!」
「は? え、ちょ、何、どしたのっ」
「ふええええん、うわあああ!」
号泣である。
ダムが決壊するごとく、愛美の目から涙が落ちるのを見て、有希は慌てふためいた。
「わ、ちょ落ち着いて……」
「腕、どうしよう、捻挫しちゃったよ、一生ピアノ弾けなくなったらどうしようー!」
「いや、ちょ、待って判ったから、まず入れてよっ」
泣き続ける愛美を押し戻し、有希はやっと玄関へ入った。
◆
「――で? あとはもうない?」
「うん、もう大丈夫、だいたい話した。あーすっきりした! ありがとう有希、おかげで元気になれそうだよっ」
自室のベッドで枕を抱きながら、愛美は晴れ渡る夏空のような笑顔を見せた。
まず、雄介を怒らせてしまったことを話した。続いて学校でのイジメ関連から、昨夜の父親との喧嘩まで延々と、まるで田中が乗り移ったようにしゃべり続けた。
有希は頷きながら、話し続ける愛美を部屋まで連れていき、ベッドに座らせ、持ってきた差し入れのクッキーと飲み物を広げた。そしてそれらが残り少なくなった頃、やっと話が終わった。
「色々、あったんだね」
「うん」
「体、まだかなり痛む?」
「大丈夫、腕以外は」
「もー。捻挫は必ず治るからね。大丈夫だからね」
有希に慰められて、愛美は恥ずかしげに笑った。
「判ってる。ごめん、騒いじゃって……あのね有希、最後に一つ、大切なことがある」
愛美はベッドの上でかしこまり、深く頭を下げた。
「ごめんなさい! 雄介とのこと、ちゃんと言わないで。ほんと、ごめん!」
「愛美……」
「話したかったんだけど、迷ってたの。有希、元カノだし、きっとまだ、雄介のこと好きなんじゃないかなって……だから、言えなかった」
「そっか……」
「バンドのCDも、ホントは先に貰ってた。ツアーのおみやげ代わりだって、内緒で。たまたま夏休みに雄介んち行って、カスミンと友達になったりした。言わないで、ホントにごめんなさい!」
愛美が更に、膝頭にくっつくくらい頭を下げた。
「もういい、もう謝らなくて良いよ。私が勝手に怒ってたんだ。ゴメンね愛美、キツかったのに、無視して突き放して……」
「ううん、有希は謝らなくて良いんだよ、私が悪いんだもん」
「そんなことない、悪いのは私」
「違うよ、私が悪いよ」
謝罪の応酬が延々と続く。そのうちに、ついに有希が手を伸ばし、愛美の口を塞いだ。
「あーもういい! 愛美、これ以上謝ったら、絶交だからね!」
「うぐへえっ!」
「この話はこれでおしまい! ここからは元通りだよっ」
「んぐぐ」
口を塞がれた愛美がこくこく頷くのを見て、有希はにっこり笑った。
「よろしい。ね、体治ったら、遊びに行こうよ。スッゴい美味しそうなスイーツやさん見つけたんだ」
「マジ? 行くー! どこにあるの?」
「えーとね、チカホの奥なんだけど……」
今までの仲違いなどまるで嘘のように、会話が弾む。有希とまた女子の話が出来るなんて、本当に幸せだ。
そのうちふと、有希が髪に手を伸ばして来た。
「ねえ、やっぱ髪下ろすと感じ変わるね。何か、大人っぽいよ?」
「そう?」
「たまに下ろしといでよ」
「うん、そうする」
「えー、なんか素直じゃん。今まで嫌がってたのに。もしかして、あいつの影響?」
有希がおどけると、愛美が寂しげに笑った。
「……雄介、どこ行っちゃったんだろ」
「もしかして、ホントにまったく連絡ないの?」
「うん、携帯も代えたみたい」
「まじ?」
「いなくなって、二週間くらい経った頃かな。急に、繋がらなくなったんだ」
「そっか……少しは連絡とってるんだと思ってた。なんか、ゴメン」
「ううん、大丈夫」
笑おうと思ったのに、うまく笑顔にならなかった。
いけない、また泣きそうだ。
必死に我慢していると、有希がティッシュの箱を放って来た。
「きっと壊れたか、電話代払ってないかだよ。あいつ、基本アホだからさあ」
「うん……だといいな」
「もー、泣かないでよ。こっちももらい泣きしちゃうじゃん」
有希がそっと、目尻を拭った。
愛美もティッシュを引き出して、滲んだ視界の端に当てた。
泣いても現状は変わらない。
現状が変わらないなら、自分を変えて行くしかない。諦めた方が楽なのだと、最近時々思う。
「あいつ、多分メンバーの誰かんとこにいると思うよ」
「え、もしかして知ってるの?」
「ううん。ただ、他のメンバーって全員社会人じゃん。だから、転がり込むならそこかなって」
「そっか……そうだよね、そうかもしれない」
何となく、応えが見つかった気がした。雄介はたぶん、夢を追い掛けることを諦めていないのだ。そして自分より夢を選んだから、連絡を断ったのかも知れない。
妙に納得した一方で、胸が焼けるように痛くなる。もうあの日々は戻らないのだろうと思うと、涙が止まらない。
そんな愛美を見ていた有希が、制服のポケットから携帯を取り出した。素早く画面をタップし、何かを打ち込んだ。
「……うーん、相変わらずサイトも休止かあ」
「いなくなった直後からね……そのまんな」
「そうなんだ」
「田中くんが毎日チェックしてくれてて、何かあったら連絡くれるってことになってる」
「そっか。ウザト、そういうのマメだからね」
「うん、ほんと、助かる……うっ、うう、うわああああ、有希いいいいい!」
「あーもう! 判った、思う存分泣け、全部絞り出せ、このクリスが全部受け止めたるわっ」
「くっ、クリスーっ!」
有希がしかめ面をして、大げさに両手を広げる。それがおかしくて、愛美は笑い泣きしながらその中へ飛び込んだ。
雄介がいない事実は変わらない。でも、有希がこうして親身になって話を聞いてくれるだけで、心に溜まった澱のようなものが、少しずつ減っていくのが判る。
今日だけ思い切り泣こう。そうして涙が涸れたら、また始めれば良い。たとえどんなに長い夜でも、朝陽は必ず上って来るのだ。
号泣が収まったころ、愛美の母親が帰宅した。それを機に、有希は愛美の家を辞した。
「私も、探してみるよ。UGAとかたまに行くし、ライブで知り合った人とかにも聞いてみる。あんま期待しないで、待ってて」
玄関ドアの向こうで、有希が薄く微笑む。その気持ちだけでもありがたい。
「ありがとう、もう大丈夫だよ。何か、ちょっとスッキリした。クリスにも優しくしてもらったしね」
「ははは、あれな。いっそ執事喫茶行っちゃう?」
「行っちゃう? クリスの道極める?」
「執事になっちゃう? つうか、やんねーし!」
二人でげらげら笑ってから、手を振り合った。帰路についた有希を見送り、ドアをしめて振り返ると、母がエプロンを手にして立っていた。
「有希ちゃん来てたのね」
「うん」
「わざわざお見舞いに?」
「うん」
「そう、良いお友達がいて良かったわね。学校の話とかしてたの?」
「うん……」
「そう。ねえ、愛美ちゃん、何か他に、悩みがあるの?」
まるで腫れ物に触るような、優しい様子で聞かれた。
母はこうして相手の顔色を窺うクセがある。今までそれは、一家の大黒柱である父を立てるためだとか、妻として当たり前のことなんだろうと思っていた。
でも、もしかしたらそうじゃないのかもしれない。揉め事か嫌いだったり、日和見だったり、あるいは主体性がないから、自分より強い他人に着いていきたいのかもしれない。
それも生き方の一つだ。でも、母のような大人になりたいとは思わない。
「別にないよ。ねえ、お母さん」
「ん?」
「私、しばらくお父さんとは一緒に食事しない」
「え?」
「仲直りもしないよ。今までみたいに我慢しない。ピアノも辞めない。思ったことも言う。自分で考えて、間違ってるかもしれないけど、色々やっていきたい」
「ちょっと愛美ちゃん、待っ……」
「だからお母さんも、お父さんの顔色ばっか見てるの、止めたら?」
母は、とても驚いた顔をした。鳩が豆鉄砲食らったというのは、こういうのを言うのかもしれない。
母の返事を待たずに、自室へ戻ろうと隣をすり抜ける。少し歩いたところで、母が声を掛けた。
「たくさん泣いて目が腫れたときにはね、冷たいおしぼりと、熱いおしぼりを交互に当てると、早く収まるのよ」
「え……」
「今日は作って、お部屋に持ってってあげる。手が治ったら、自分でやりなさいね」
振り向くと、母は穏やかに微笑んでいた。
「……うん。ありがとう、お母さん」
愛美は微笑み返し、自室へ戻った。
判ってくれたかどうかは判らない。ただ、頭ごなしに否定されなかったことが、嬉しかった。
一人早めに夕食をとり、部屋に戻ったあとで父親が帰宅した。
帰宅を労う声を掛けなかったし、向こうも挨拶はなかった。どうやらまだ怒っているようだ。
父親にもいつか判って欲しい。でもそれは、まだまだ先になりそうだ。愛美はベッドへ潜り、イヤホンを耳にさした。
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