第19話 BEAUTIFUL PEOPLE

「ゆうすけ……」


 洩らした自分の言葉で、愛美は目覚めた。

 今まで見ていた夢はぼんやりと歪み、白い天井に消えて行った。目覚めてしまった事を後悔しながら枕元の目覚まし時計を見ると、アラームが鳴るまでにはまだ早かった。

 薄暗いフローリングの床には、カーテンの向こうから差す朝陽が一筋輝いている。愛美はベッドから起き上がると、それをたどるように窓へ近づき、のろのろとカーテンを開けた。窓の外にはくすんだ緑の葉を付ける木蓮が揺れ、触れたガラスから伝わる秋の気配が、ガラスに触れる指先を冷やす。ずっと触れていると、体の中まで冷えて来るように思えた。


 雄介がいなくなってから、これで何度目の朝だろうか。

 彼が早退した翌日、担任の佐々木からは、彼が無期停学になったと聞いた。その後彼の自宅へ連絡を取ると、恭二は彼を勘当したと答えた。夜にUGAへ問い合わせると、サイレントルームのライブがすべてキャンセルになった事実を知らされた。田中も心配していてあちこち調べてくれたり、バイト先へ行ってくれたが、早退してからずっと無断欠勤しているらしかった。

 何度電話を掛けても、メッセージを送っても、彼からの連絡はない。でもいつか来ると必死に彼を信じ、不安と悲しみに耐えた。

 そうして十二日目の朝、彼に電話を掛けると、携帯から聞こえて来たのは呼び出し音ではなく、この番号が使われていないと言う機械的な音声だった。何も知らされないまま解約されてしまったのだ。

 雄介と自分を繋ぐ糸は、切れてしまった。

 最後にあんな気まずい形で離れてしまったから、彼はもう自分を嫌いになったのかも知れない。

 連絡の手段を失ったことで、もう諦めようとも思った。だがついさっきまで見ていた夢のように、眠りの中に現れる雄介はいつも笑っていて、優しく自分を抱き締めてくれる。そうして幸せな気分で目覚めれば、待っているのは彼のいない現実だった。


 制服を着て身支度を整え、二階の自室から居間へ降りる。こんな状況でも、愛美は学校へ行かねばならなかった。両親が成績や出席日数を気にしているからだ。


「おはよう、お父さん」

「おはよう」


 ダイニングテーブルで、既に新聞を読みながら朝食を摂っていた父の修一は、いつものように仏頂面だ。下手なことを喋ると、すぐ学校の成績や進路で説教を食らう。愛美は黙って朝食の席に着いた。

 朝食はいつもの、トーストに目玉焼き、野菜のスープだ。何もつけずにかじったトーストは味気ない。もう一口かじり、スープとジュースを少し飲んでから、小さくごちそうさま、と残して席を立った。そのまま居間を出ようとすると、珍しく父に声を掛けられた。


「随分食べないな、愛美」

「……ちょっと食欲なくて」

「そうか。朝飯食べないと、勉強に差し支えるぞ」


 修一は新聞から顔を上げると、少し眉を寄せて愛美を見つめた。


「体調でも悪いのか?」

「なあに? 調子悪いの?」


 横から母が割って入る。愛美は思わず、素直に応えた。


「ちょっと……学校、休みたい」

「まあ、熱は? 風邪でも引いたの?」

「熱はないけど……少し、だるい。吐き気もちょっと」

「熱がないなら頑張って行きなさい。休むと、授業についていけなくなるぞ」


 再び新聞を読み始めた父が、無情に応えた。


「そうね。どうしてもダメなら、保健室に行きなさいね」


 休むことを悪と考える父に、母も同調する。これはいつものことだ。


「ピアノのレッスン、しばらくお休みする?」

「ううん……大丈夫」

「そう。ピアノに行けるんだったら、学校も大丈夫ね。頑張ってね」

「……うん」


 頷いて見せると、母は踵を返し、手にしたコーヒーを父へ出した。

 頑張れ、と言われても、心がすっかり空っぽになってしまったような状態で、何をどう頑張れば良いのか判らない。

 愛美が良く勉強し、薦める大学へ合格するのが第一と考える両親に、今の自分の心情は理解してもらえないだろう。それどころか、雄介の存在を話せば、勉強に恋愛はいらないと怒られるに違いない。

 苦しさを増して行く心を抱えたまま、愛美はそっと家を出た。


 バスに乗り、いつも通り学校へと向かう。繰り返されるのはルーティンワークと言うに相応しい、勉強の日々だ。そして教室もやはり、居心地が悪かった。安田へのいじめは相変わらず続き、さらに自分も好奇の的になっていたからだ。


「ねえねえ、樋田さん」


 席に着いて鞄から教科書類を出していると、赤眼鏡とキノコ頭が寄って来た。

 この二人は雄介がいなくなってから、毎日のようにこうして探って来た。


「深澤から連絡来た?」

「ううん」


 応えると、キノコ頭が笑った。


「噂だと、児童相談所に入ったって聞いたよ」

「ええ、そうなのお! もしかしてここも、退学してたりしてえ」


 赤眼鏡がわざとらしく驚いて見せる。そして二人して、愛美の反応を窺う。目を合わさないようにして平静を装うのが、今の愛美に出来る精一杯の対抗手段だった。


「樋田さん、何か聞いてる?」

「ううん」

「そうなんだあ。ねえ、判ったら教えてね。ほら、やっぱりクラスメイトだから、私達も心配してるんだよねー」

「うんうん、樋田さんも寂しいよね、頑張ってね。何かあったら相談しろよ、クラスメイトじゃん」


 赤眼鏡達は心にもない言葉を残して、愛美の元を離れて行った。

 もし何かあったとしても、二人に告げるようなことはしない。二人の言葉をうのみにするほど、愛美は子供ではない。もちろん腹は立っている。そんな質問をするな、と怒鳴りつけてやりたいとも思う。ただ、それを実行出来るだけの気力がなかった。

 こんな時、有希にすべてを吐露出来たらどんなに楽になれるだろう。だが今、愛美の傍に有希はいなかった。

 雄介と付き合い始めたことが露見してから、有希とまともに話していない。あれからすぐにメッセージを送ったが、返答はそっけないものだった。電話は出てくれなくなったし、廊下で会っても目を合わせてくれなくなった。

 避けられているのは明白だ。

 きっと、有希はまだ雄介のことが好きだったのだ。だから付き合う前に相談して欲しかったし、愛美が雄介を想う気持ちを先に知らせて欲しかったのだ。

 自分が悪かったのだと、後悔ばかりが募る。それを伝えたいと思うけれど、有希を捕まえて弁明するチャンスもなかった。


「……っ」


 有希のことを考えていると、腹が痛んだ。キリキリ締めつけて来るような感じだ。制服の上から押さえていると、安田が登校して来た。


「あ、おはよう。安田さーん」


 赤眼鏡のやたら明るい声が響く。安田は小さく「おはよう」と応え、身を縮めるようにして自席へ座った。今日は落書きされていないようで、彼女は少し表情をゆるめ、机に乗せた鞄を開いた。だが、教科書を移そうとして机の中に手を入れたとたん、表情が固まった。

 何か入っている。

 おそるおそる引っ張り出したのは、スーパーの白い袋だった。


「……!」


 安田が声にならない悲鳴を上げ、慌てて立ち上がった。スカートの部分には何かが零れたと思われる、白い染みが広がっている。きっとスーパーの袋に仕掛けられていたのだ。

 染みはドロドロしているようで、くっきりとした痕を残して床へしたたり落ちた。


「やだあ、安田さんきったなーい」

「何だよソレ、何かの菌だろ」


 安田菌、と声が響き、赤眼鏡とキノコ頭が笑う。周囲の生徒も、まるで安田が粗相をしたように、彼女を呆れた目で見る。そのうちに誰かが、何か臭うと言い始めた。


「早く拭いたら? 教室中臭くなっちゃうよ」


 キノコ頭が安田に、雑巾を投げ付けた。雑巾は安田に当たり、床へぽとりと落ちる。それを拾うことも出来ず、安田は立ったまま泣きだした。

 本当に、何かが腐った臭いがしてくる。吐き気がこみ上げて来て、愛美は席を立ち、廊下へ出た。


「はあ……」


 最悪だ。小学生レベルの嫌がらせだ。

 こんなに辛い時に、なぜこんな思いをしなきゃならないのだろう。

 赤眼鏡とキノコ頭に対して怒りが沸いた。良いようにやられている安田にも苛々する。ふと、雄介が以前に花を捨てたことが思い出された。

 彼なら、こんな時にどうするだろう。

 きっと一言、くせえ、と吐き捨てて、安田を染めたスーパーの袋を捨てるだろう。そしてまた、小学生じゃあるまいし、と呆れ顔で言うのだろう。

 めざわりだ。そして何とかしなければ、自分も臭いという迷惑をこうむったままで悔しい。


「……よし」


 一つ深呼吸すると、教室へ戻った。安田はまだ立ちつくしたままだ。愛美は彼女のところへ行き、下に落ちている袋をつまみ上げた。


「くっさ、もう最悪。安田さん、ビニール袋かなんか、持ってない?」

「え……?」

「このまま捨てたら臭うよね」

「……あ」


 安田は慌てて鞄を開き、青いビニール袋を引っ張り出した。中に入っていた小物や手帳を抜いて、口を大きく広げる。愛美はその中にスーパーの袋を突っ込んだあと、足で雑巾を踏みつけ、床の滴を拭いた。


「小学生並みだね、こういうの」


 誰に言うでもなく呟いて、雑巾も袋へ放りこみ、固く口を縛る。それを教室の隅にあるゴミ箱へ捨ててから、安田を廊下へ連れ出した。


「トイレ行って、洗ってきたら?」

「……」

「早く。これたぶん、牛乳だよね。乾いちゃうよ?」

「うん……」


 一緒に洗面所へ行き、手を洗いながら促すと、安田は涙を拭いてトイレへ入って行った。


「ふう……」


 やってしまった。でも、あの臭いは我慢出来なかった。あのまま黙っていたら、こっちが吐いてしまいそうだった。

 教室へ戻ると、赤眼鏡にじろり、と強く睨まれた。まるで、余計な手だしはするなと脅すような、そんな強い視線だ。愛美は知らん顔をして自席へ戻った。少しだけ膝が震えていた。そして少しだけ、ほんの少しだけ気分が軽くなった。

 彼ならきっと、こうするだろう。

 そう思うと、彼とまだ繋がっているような気がした。


  ◆


 愛美が安田を助けた日から、安田へのいじめは収まった。

 赤眼鏡とキノコ頭が寄って来ることもなくなり、ほっとしていた矢先、愛美の持ち物がなくなり始めた。

 最初は消しゴムやシャープペンなどの小さなものだった。それがノートやプリントになり、そこで愛美ははたと気づいた。

 今度は自分が、いじめの対象になっていたのだ。

 二冊目のノートを隠された日、ついに愛美は行動に出た。教室で赤眼鏡とキノコ頭に、大声でノートのありかを聞いたのだ。もちろん二人はニヤニヤしながら、自分で失くしたのだろうとシラを切って来た。


「そうなんだ、じゃあ、ノート見せてよ。休み時間のうちに写すから。クラスメイトでしょ、困った時は助けてくれるんだよね?」


 教室中に聞こえるような声で言うと、二人はしばし顔を見合わせたあと、クスクス笑って愛美に背を向けた。まったく胸くそが悪い。おまけに脅しでも掛けてあるのか、安田を始め、他の生徒も愛美を助けてくれない。

 孤立無援になってしまったのを、肌身で感じた。

 安田を助けなければ良かった、と心から後悔した。傍観していたら、こんな目に合うこともなかったのだ。あの時の、自分の判断や行動は間違っていたのだろうか――そう悩んでも、答えは見つからない。

 毎日腹が痛んだ。朝は吐き気や立ちくらみもした。それでも両親の手前、学校は休めなかった。いっそさぼってしまおうかと悩みながら数日経った今朝、今度は上履きが水浸しになっていた。


「……うわあ」


 靴箱の下には水のペットボトルが転がっていた。恐らく犯人は、これを使って注いだのだ。愛美は上靴をそっと靴箱から抜き、外へ持って行って水を捨てた。


「もう……無理」


 こんなびしょ濡れの上履きに、足を入れられるわけがない。

 地面に水跡が広がって行くのを見ながら、愛美はしゃがみ込んだ。思い浮かべた雄介の顔が、涙でゆがんで行く。逃げてしまいたい。このまま帰って、布団にもぐり込んでいられたらどんなに幸せだろう。でも、それを許してくれるような家ではない。

 登校してくる知らない生徒が、不思議そうな顔をして愛美の傍を通り過ぎて行く。その中に見知った顔が混じっていた。

 有希だった。


「……あ」


 目が合い、助けて、と手を伸ばした。だが有希はふっと目を逸らし、通り過ぎて行った。

 完全に嫌われているのだ。


「……もう、やだ……」


 立ち上がり、上履きを放ったまま、歩く生徒の間を走り抜けた。校門を出てバス停へ向かい、タイミング良く入って来たバスに飛び乗った。

 ガラガラの車内の、一番奥の窓際に座った。鞄を縦に抱え、周囲に顔が見えないようにして泣いた。

 どうして、こんな思いをしなければならないのだろう。

 どこからおかしくなったのか、何が間違っていたのか、考えるのに疲れてしまった。それでも感情が沸き出て涙になり、なかなか止まらない。こんな時に雄介がいてくれたら、どんなに心強いだろう。でも、彼はずっと連絡が取れないままだ。

 彼のいなくなった世界で、自分は一人でずっと戦って行くのだろうか。そんな強さなど、持っていない。いっそこのまま遠くに行って、楽になりたい。

 自分が消えたあとの教室を、学校を、そして家を想像する。誰が悲しんでくれるだろう。母親くらいは泣いてくれるかもしれない。父親は迷惑がるかもしれない。出来の悪い娘が不始末をしでかし、恥かしいと思うのかもしれない。有希はどうだろう。自分がいなくなったら、少しは悲しんでくれるだろうか。そして、雄介は――


「ふふ……バカだ、私」


 こんなところで泣いていても、何も解決などしないのだ。

 無機質なアナウンスが、次は西岡だと告げる。使ったことのない路線に乗ってしまったことに気づいたが、このまま終点まで行ってみるのも良いかもしれない。きっと何も変わらないだろう。それでも、自分のテリトリーから物理的に離れるだけで、少しだけ自由になった気がする。

 窓から見上げた空は高い。愛美は一つ深呼吸すると、涙を拭いて洟をかんだ。そしてサボりの隠ぺい工作をすべく、学校へ電話を掛けた。


  ◆


 愛美が学校をさぼり、バスに揺られていたころ、雄介は目を覚ました。

 2DKの、ごく一般的なアパートの一室は、何本かのベースと機材やアンプ、そして大量の本が並べられている。雄介はその隙間に、布団をはめ込むように敷いて寝起きしていた。

 家主のダグラスは既に仕事へ出ていて、帰宅は大体夜九時前後だ。そして雄介は家主が帰宅する前に、新しく始めた居酒屋のバイトへ向かう。それがダグラスの部屋へ転がりこんで来てから始まった、彼の生活だった。

 学校へ行かなくなっただけ、以前ほど忙しくはない。だがその分、余計な事を考える暇が出来てしまった。どうしてこんなことになってしまったのか、その答えを探してしまうのだ。

 事の発端はタツの一件だが、家を出たのは自分の意志だった。しかしこうして他人の部屋に一人でいると、もう実家には戻れないのだと言う孤独感が襲ってくる。実家は面倒もあったが、温かくて、とても安心できる場所だった。だが、今さら後悔しても遅いのだ。

 幸いにしてダグラスは、快く居候を認めてくれた。そして時々訪ねて来る彼女も良くしてくれたが、いつまでもここに置いてもらう訳には行かない。

 雄介は泊めてくれそうな相手を思い返しつつ、新しい携帯を手に取った。以前使っていたものは居酒屋の洗い場で水没させてしまい、壊れてしまった。それでダグラスに頼み、名義を借りて手に入れたのだ。

 黒いボディから呼び出した住所録には、記憶に残っていた電話番号と名前、SNSのアカウントが十数件記録されている。雄介は五十音順にスクロールさせ、はたと指を止めた。そこには「愛美」とだけ書かれた携帯番号が表示されている。しばらく眺めていると、ついため息が出た。

 怒っているだろうか、心配しているだろうか。彼女が毎日、何度も連絡をよこしてくれたのに全部無視してしまったから、もうとっくに嫌われているかもしれない。

 あの日、感情に任せて彼女を怒鳴りつけてしまった。彼女は心配してくれていたのに、蓄積した怒りと苛つきを、彼女にぶつけてしまった。

 今の自分は家まで失くし、不安定な状態だ。唯一拠り所にしているバンドも、まともに動ける状態ではない。そんな中途半端な男に、これ以上付き合わせる訳には行かないと思う。

 携帯が代わったのを機に、離れた方が良いのかもしれない。少なくとも彼女にとっては、そのほうが良いだろう――最近の雄介は会いたいと願うことよりも、そんな後ろ向きの考えに支配されつつあった。


 このまま錆びて行くような錯覚と戦いながら、雄介が日々を送っていた矢先、待ちわびていた一報がコウからもたらされた。

 タツの裁判日程が決まったのだ。

 予想している内容で審判が下れば、おそらく執行猶予がつく。そうすれば、結果はどうなるにしろ、今後の予定が見えて来る。この、どん底のような状況も、少しは光が見えるだろう。

 雄介としては、バンドを存続したい。そのために、コウへ訴えかけてもいる。ダグラスも協力してくれている。

 あとはタツの様子次第だ。

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