第15話 TODAY(is a great day)



「ああ……すたいん……うえ?」


 自分の寝言で目が覚めた時、愛美は柔らかい感触の上に、大の字になっていた。

 見たことのない白い天井に、オレンジ色の間接照明が輝いている。

 何がどうなったのだろう、確か自分は打ち上げの場で、ピアノを弾いていたはずだ。

 まったく回らない頭でのろのろ起き上がり、ふと隣を見る。そこにはうつ伏せになって眠る雄介がいた。


「ひ、ひええええっ!」


 間抜けな声を上げながら、跳ねるように身を離した。すると強い震動が伝わったのか、雄介がうっすら目を開けた。


「……よう」

「お、おおうっ」


 上ずった返事を返すと、雄介は眠そうなようすで、大きなあくびをした。ゆっくり起き上がる姿は、上半身裸だ、愛美は目を見開いたまま、ますます後ずさった。


「あー……だり」

「ここ……どこ?」

「どこって……まさか、わかんねえの?」

「うん……」


 確認されて、ドキドキしてくる。雄介は真面目な顔で、まっすぐ愛美を見つめた。


「ここな……ラブホ」

「え、えええええーっ!」


 愛美は思い切りのけぞった。

 とんでもない場所に来てしまった。

 一気に全身が熱くなるのを感じながら、上掛けをかき集め、胸を隠すように抱え込んだ。記憶のない状態で体をゆるしてしまったのか、と焦る。雄介はそんな愛美から、バツが悪そうに目をそらせた。


「悪い……つい」

「うえ、ええっ?」

「つい……」

「つ、つい?」

「変顔して遊んだ」

「は?」

「こんなふうに」

「え、んぎゅっ!」


 雄介の両手が素早く伸びて来て、愛美の両頬をムニュッと掴んだ。そのまま両側に引き伸ばしたり、手のひらでぎゅっと挟んだり、いいように弄ばれる。


「や、やめふがんがっ」

「あー、ちょー面白れえ! ここまでやっても起きねえんだぜ? お前どんだけぐーぐー寝てんだよ」

「む、むがああっ!」


 雄介の手をやっとふり払い、自分の両頬を押さえた。


「ひどっ、伸びたらどうすんのっ?」

「伸びねえって」

「伸びるっ」

「伸びねえっ」

「伸びるーっ」

「伸びたってそんな変わんねえだろ」

「変わるの、伸びたら困んのっ!」


 顔を赤くして睨むと、雄介は腹を抱えて笑い出した。心底楽しそうな顔を眺めるうちに、愛美も笑いたくなって来た。

 なんてまぬけなんだろう。酔っていたとはいえ、ラブホテルまで来て、変顔で遊ばれるなんて、雄介に女だとすら思われていない証拠だ。

 げらげら笑いながら、涙が出る。目覚めて、驚くようなことなんて何もなかった。何の心配もいらなかったのだ。


「ふふふふ、あーもう、バカみたい。笑いすぎたあ……」


 そっと目尻を指先で拭い、抱えていた上掛けを横へ置いた。こんなものはもういらない。恥じらう必要もない。


「俺も。あー、喉渇いた……」


 雄介は大きな溜息を吐いて、ベッドから降りた。備え付けの冷蔵庫を開け、お茶のペットボトルを取り出す。封を切ってラッパ飲みしたあと、半分残ったそれを持って、またベッドへ戻って来た。


「飲む?」


 差し出されたボトルを受け取り、二口飲んだ。その間に雄介はベッドのふちへ座った。


「一応、説明する?」

「うん」


 素直に頷くと、雄介はコトの経緯を語った。

 キエフの大門を弾き終わったあと、雄介とタツが乱闘になった。周囲が慌てて止めに入る一方で、愛美は再びピアノの前に座り、もう一曲弾き出した。そして弾いている途中で、スイッチが切れたように眠ってしまった。

 雄介は、額で不協和音を奏でる愛美を何とか起こし、打ち上げから引きずり出した。そのまま送ろうかと思ったが、こんな状態の愛美を、具合の悪い有希のところへ帰すわけにもいかない。困ったあげく、近くの手ごろなラブホテルに連れて来たのだった。


「うわ、そうだったんだ……」

「さすがに俺んちにも連れてけねーしよ。親父にマジぶっ殺されるわ、愛美ちゃんこんなにして、お前はなにやってたんだって」

「そうだよね、ごめん、迷惑かけて」

「いや、離れた俺も悪い……つうか、タツが一番悪いんだって。アイツ、面白がってお前に飲ませたんだって?」

「あ、ああ、まあ。はははは」

「つうか、お前も飲むなよ」

「……すいません」


 しおらしく頭を下げると、雄介は笑いながら立ち上がった。


「ちょっとだけ、吸っていい?」

「うん」


 了解を得た雄介は、テーブルに放ってあった煙草と灰皿を持つと、窓際へ行った。窓を開け、こちらへ背を向ける。外はもう夜明けで、僅かにふきこむ外気は涼しかった。


「少し、開けとく?」

「うん、いいよ」

「涼しいな。やっぱ、帰って来たって気がする」

「そうなんだ」

「ああ。向こう、夜でも暑かったから」

「楽しかった?」

「ああ、スッゲー、楽しかった」


 終わってしまった日々を惜しむような呟きに、愛美もつい微笑んだ。

 会話が途切れ、外からバイクのエンジン音が聞こえる。新聞配達のそれによく似たリズムで、発進と停止を繰り返している。

 一服し終えた雄介が悖ってきて、ベッドの端に腰掛けた。


「キモチ悪くねえ?」

「うん。ちょっとぼーっとするけど、大丈夫」

「頭痛は?」

「ないよ」

「そっか、良かった」


 小さくうなづいたあと、雄介は再び黙った。

 無音の時間が、やたら重たい。どうしようか考えたあげく、愛美はテーブルへ向かった。


「ね、テレビでも点けてみる?」

「ん? ああ、どっちでも」


 テーブルからリモコンを取り、スイッチを入れるとニュースが流れた。


「この時間て、何やってんのかな」


 何気なくチャンネルボタンを変えていくと、ほとんどがニュースと通販番組だ。一緒に観ていた雄介が呟いた。


「ホテルによっては、BSとかCS観れるんだけど」

「へえー、って、な、何で知ってんの?」


 まさか通い慣れて、と続ける前に、雄介がクスリと笑った。


「バンドでさ、地方行ったときに、何回か皆で泊まったんだ。車庫とくっついてて、一部屋ナンボのとことかだったら、ビジネスよか安く上がるから」

「へえー、経費削減?」

「そ。色々カネかかるから、バンド」

「そっか……大変なんだね」


 華やかな部分ばかりではないのだと知って、つい労りの気持ちが募る。すると雄介は苦笑いした。


「たまにさ、お札貼ってる部屋とかあんの」

「お札? それもしかして、出る、ってやつ?」

「ああ。前に一回当たってさ、ぶっちゃけビビった」

「うわー、すごいいやー!」


 想像して本当にイヤな気分になる。もしやここにも貼られていないだろうか。内心ドキドキしながらチャンネルボタンを押した瞬間、画面一杯に男女の絡み合う裸体が映った。


「……あ」


 AVチャンネルだ。

 初めて観るそれは愛美にとって、想像出来ないほどのイヤラしさで構成されていた。しかもやたら音声がでかい。


「う、うえ、うわあああ!」


 慌てて変えようとして、手からリモコンを落っことした。転がるそれを追いかけるが、変な方向に跳ねて拾いそこねた。


「ちょ、壊れるって」


 雄介が呆れたようにリモコンを拾い上げ、テレビへ向けた。


「あれ?」


 リモコンが効かない。良く見ると、背面の電池が外れていた。女性のあえぎ声が高まるかたわら、二人で本体へはめ込もうとするが、焦って上手く行かない。


「あ、ごめ、うわ、もーヤダあ!」

「ちょ、これ逆だろ逆!」

「え、どっちがどう?」

「イヤだから、あー、もうムカつく!」


 もうすぐクライマックス、というらしき場面で、雄介はテレビ本体の電源を探し、倒す勢いで切った。


「はー、良かったあ……死ぬかと思ったあ」


 照れて変な汗をかいてしまった。見ると雄介も少し顔が赤い。

 バツの悪さ、マックスレベルだ。

 どうしたらいいか判らずに立ち尽くす愛美の前で、雄介は小さく笑った。


「……ホントは、別のことした」

「……え?」

「お前が爆睡してるとき、ホントは、キスした」

「……」

「なんか、すげー、可愛くて」

「……」


 思わず、愛美は唇を隠した。嬉しいというより、驚きのほうが先に来る。


「でも、今度は謝らねえぞ」


 雄介が、愛美へ向かって一歩踏み出した。近づいて来るにつれ、緊張が高まる。もしかして抱きしめられるかもしれない-―そう覚悟していると、雄介はゆっくりすれ違った。


「好きな女が寝てたら、フツー、キスしたくなるだろ」

「……え?」


 言葉の意味を理解出来ないまま振り返ると、雄介は背を向けている。自分より広く大きく、男らしい。そう感じたとたん、心臓がはね上がるほどバクバクしだした。


「ちょ、風呂入ってくるわ」

「え、ええっ! そそそ、それって、まさかっ」

「勘違いすんなよ、汗かいて気持ち悪りいんだっつうの!」

「……へ?」

「つうか、マジお前って……」 


 呆れたような、焦れたような声とともに雄介が振り向いた。


「うえっ!」


 パチン、と額を弾かれた。まるで子供のいたずらを叱るような、そんな優しい痛みだ。思わず額を押さえると、雄介は小さく笑って、風呂場へ行ってしまった。


「……え、っと……」


 残された愛美は崩れるように、ソファへ座った。

 まだぼんやりした頭で、雄介の言葉を反芻した。そして三度も繰り返して、やっと理解した。


「う、うわああああっ!」


 これはある意味、告白だ。

 思わず押さえた顔が熱くなり、心臓が体の中を走り出した。黙っていられなくて、叫びたくなる。

 すべて繋がった。あの、雄介の部屋で交わした会話の意味も、初めてのキスも、雄介の気持ちの現れだったのだ。


「あは、あははは……」


 本当に、鈍い。そして残念なことに少し悲観的だ。

 自己嫌悪に陥りながら、痛み出した胸を押さえた。痛みは心地よく、そして何とも言えない温かさを持って、嬉しさに代わっていく。この気持ちを今すぐ伝えなければ、きっと消えてしまうに違いない。


「がんばれ……!」


 小さく自分を励ましてから、立ち上がって風呂場へ向かった。何も考えない、今はただ、雄介に伝えたい。


「ふかざワン!」


 ノックもお伺いもなく、風呂場のドアを一気に開けた。


「うわっ!」

「私も好き、ふかざワンが大好きっ!」


 思いのたけを叫んだ。狭くて気密性の高い浴室内に、残響が尾を引いて回る。突然の叫びに驚いた雄介は、頭からシャワーを浴びたまま唖然としていた。


「いま、何て……」

「鈍くてごめん! やっと判ったよ、同類って言ったのも、あのキスの理由も、だから……」


 そこまで言って、愛美ははたと気がついた。

 目の前の雄介は、当然だが全裸だ。しかも、これ以上ないくらい驚いた顔をしている。


「ひ、ひゃあああ!」


 まぬけな悲鳴を上げたとたん、雄介が手を伸ばし、愛美をつかまえた。ぐっと引き寄せられ、強く抱きしめられる。回された腕は強く、そして腕の中は熱かった。


「俺も、お前が好き……」


 雄介が耳元で、安堵したようにため息を吐いた。


「つうかお前、鈍すぎて、ウケるわ」

「うっ、ご、ごめん」

「うん……でも良いや。良かった、何とも思われてないかと、思ってた」


 穏やかな声が、シャワーの落ちるなかで響いた。


「去年の――一年の三学期、俺、初めてお前を見つけたんだ。一人で、音楽室で、寂しそうにピアノ弾いてた。確か、ショパンの雨だれ……あんなキレイなピアノ、初めて聴いた」


 呟くような言葉に、愛美もその当時を回想した。

 転入してまだ数日のころだ。環境になじめず寂しかった想いを乗せて、あの曲を弾いた。それを雄介が見ていたなんて、思いもよらなかった。


「あん時、マジでガッコ辞めたかったけど、もうちょい頑張ろう、って思えた……正直、お前見つけて、何だか嬉しかった」


 嬉しかった、という言葉が心に響いて、何ともいえないものがこみ上げる。目の前がうるんで、出しっぱなしのシャワーがきらきら輝いて見えた。


「……ふかざワン」

「それ、そろそろ止めねえ?」

「じゃあ、ゆう、すけ……?」

「ああ、それが良い」

「雄介……」


 そっと、雄介の背中に手を回す。触れた熱さにドキドキしながら、彼の肩に頬を預けた。


「迷ってた。前に、キスされたとき、謝られたから……きっとただ、魔がさしただけなんだろうって、思いこんでた」

「ああ、あれはお前が、ずっと目開けてたから」

「え?」

「だからきっとお前、嫌だったんだろうな、って、思ってた」

 バツの悪そうな雄介に、愛美はつい笑った。

「だって、ビックリしたもん」

「そっか、悪い」

「ううん」


 回された腕がゆるみ、少しだけ体が離れた。鼻の先が触れあうほど近くで、目を赤くした雄介が見つめてきた、


「も一回、していい?」

「うん」

「つうか、その前に……顔、拭いていい? 目、痛え」

「え、あっ!」


 マヌケな声を上げながら、慌てて離れた。雄介がべちゃ濡れで、しかも全裸という事実をすっかり忘れていた。


「うわあああ、ごめん!」

「だいじょぶ。つうか、服……ごめん」

「え? あっ……」


 指摘されて目をやると、Tシャツの色が濃く変わっていた。胸から腹から、袖までじっとり濡れている。


「うわ、やだもう!」

「いっそ脱いで乾かせば? ついでに……」


 顔を洗い、振り返った雄介がニヤリと笑った。


「一緒に浴びる?」

「ううう、うわー!」


 愛美は真っ赤になりながら、慌てて風呂場を出た。




 雄介が風呂から戻ったあと、愛美はシャワーを浴び、ついでにTシャツを干した。ハンガーにぶら下げたそれを見ながら、二人でひとしきり笑った。


「愛美……」


 名前を呼ぶ声も、濡れた愛美の髪をかき上げる指も優しい。こんな瞬間が来るなんて、今夜は何て素敵なのだろう。

 そっと口づけられ、ベッドへ身を預ける、温かい腕に包まれれば、その先は少しも怖くなかった。


 ◆


 翌朝の十一時近くになって、愛美は有希と連絡を取った。

 それまで彼女からいくつもメッセージが送られて来ていたが、何と返信していいか迷っていて、ずっと無視していた。

 結局、朝までホールで打ち上げしていて、そのまま少し眠ってしまったと苦しい言い訳をした。有希は「本当に心配した、怒ってるんだよ」と繰り返しながらも、いざ会うと笑って許してくれた。

 愛美はそれに笑顔で応えながらも、後ろめたさでいっぱいだった。

 雄介と気持ちを確かめあえたのは嬉しかったが、親友が熱で苦しんでいる一方で、自分が何をしていたのか考えると、どうしても「告白された」ことを言えなかった。


「今度は私も絶対参加するから!」


 額に冷却シートを貼ったまま、有希が悔しそうに言い切るのを、愛美は心の中で謝りながら頷いていた。


 ◆


 二学期が始まる八月下旬までのあいだ、愛美は雄介と頻繁に会っていた。

 雄介のバイトとバンドの練習、さらに愛美のピアノレッスンの隙間をぬっての逢瀬は短く、時には三十分だけ雄介の部屋で、ということもあった。

 それでも二人にとっては貴重な、そして幸せな時間だ。


「いつまでも夏休みだったらいいのにね」


 そんな願いを口にすると、雄介は首を横に振った。


「いつまでも三十度とか、マジ勘弁」

「えー? 暑いの嫌い?」

「だって、汗まみれになるだろ。俺はぜんぜん構わねえけど、お前、あとで髪がちぢれるって気にするじゃん」


 少し照れくさそうに、雄介が明後日の方向へ呟く。その意味を少し考えて、愛美は思わず真っ赤になった。


「照れんな、俺までハズいわ」


 雄介が笑いながら、愛美の下ろした髪を指にそっと絡める。そうされても、もう愛美が怒ることはなくなった。


 北海道の夏は駆け足で去って行く。

 ひと雨ごとに秋が近づいて来るのを感じながら、愛美は心から、このまま夏休みが続くことを願った。


*******


special thanx to Lisa Inumaki

心からの感謝と祈りを。


******


【ここまでの登場音源詳細】


三月

七月

(Bloodthirsty Butchers)


Bloom

tourette's

(Nirvana)


WARPED

(Red Hot Chili Peppers)


ONE LOVE

(Bob Marley)


TODAY

(The Smashing Pumpkins)


Raindrops…Prelude Op.28ー15

「雨だれ」

(F.Chopin)


8つの演奏会用練習曲 Op.40-1 前奏曲

(Nikolai Girshevich Kapustin)


組曲「展覧会の絵」キエフの大門

(Mussorgsky)


道化師の朝の歌

(M.Ravel)


Smells like a teen spirit (cover ver)

When My Devils Rises

Get Off of My Way

Evils Fall

(Man With A Mission)





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