第14話 TODAY(party 2)
ホールに戻ってみると、愛美の席には他の男が座っていた。
「えー、と……」
男は周囲と真剣な表情で語り合っていて、とても声をかけられる雰囲気ではない。仕方なく雄介について、他のテーブルへ行った。
「ほら」
雄介が開いた席へ適当に座り、テーブルに置かれたチューハイの缶を無造作によこした。
「あ、ありがと。でもこれ……」
「あー、今日もお疲れっ、カンパーイ!」
愛美が困るのも構わず、雄介はさっさと自分のビールを開け、満面の笑みで缶を当てて来た。良く見ると目が座っている。顔色が変わらないので気づかなかったが、すでに酔っているようだ。
「酒……」
「あ、ナニ? もしかして、開けられねえとか?」
「いや、そんなんじゃないけど……」
「じゃ遠慮すんなって」
横から手を伸ばして来て、ごていねいにリングプルを開けてくれる。愛美は仕方なく、缶に口をつけた。パッケージはグレープフルーツが描かれたポップなデザインで、一口飲むと、まるでジュースのように爽やかだった。
「あ、これオイシイ」
「マジ? 甘い酒とかありえねえだろ」
「えっ、勧めた本人がソレ言う?」
「だって、女子って甘いモン好きだろ」
「好きだけど……」
雄介がぐっと身を乗り出し、顔をのぞき込んで来る。距離の近さに汗をかきながら、愛美は慌ててもう一口飲んだ。すると雄介の背後に、顔色の悪いひょろひょろした男が現れた。
「雄介くん。おっつー」
「お、サカイさん。おっつーです」
「飲んでる?」
「もっちろん」
雄介と乾杯してから、サカイは雄介側の空席に腰を下ろした。
「終わっちゃいましたね、ツアー」
「うん、あっという間だった」
「初めてコッチ来たんすよね?」
「うん、良いね北海道。お水美味しくって。あれ、もしかして彼女?」
「あ、いいえ、そんなんじゃないです」
訊かれてとっさに愛美が応えると、サカイはにっこり笑った。
「そうなんだ、じゃ、お邪魔してもイイよね」
言葉とともに缶ビールが掲げられる。愛美も缶を小さく持ち上げて応えた。
それからサカイは雄介に、今日のステージや好きな音楽などについて話し始めた。どうやら東京で活動しているようで、雄介へさかんに再演しようと誘っている。雄介も乗り気らしく、嬉しげに頷いていた。
出演者でない愛美は、二人の話に加われなかった。さらに初めての酒席で、メンツはほとんど知らない連中だ。おまけにサイレントルーム以外のステージを観ていないとくれば、感想すら伝えられない。
時間をもてあまし、チューハイの口当たりが良いのも手伝って、自然とピッチが早くなる。手にした缶が軽くなった頃、雄介がやおら席を立った。
「ちょ、トイレ」
「あ、ああ、いってら」
雄介がいなくなり、サカイも次なる語りを求めて席を立つ。愛美は酔っ払いの喧騒の中、一人になった。
居心地が悪い。顔が熱く、頭が回らない。これが酔いというものなんだろうか。ぼんやりしていると、不意に肩を叩かれた。
「コラお前、飲んでっかよ?」
「うへ?」
慌てて振り向くと、タツが赤い顔で見下ろしていた。
ヤバい、酔ってる――愛美の額に冷や汗がふき出た。危険人物、という警告テロップが頭の中をぐるぐる回る。逃げたくなったが、体の反応が遅く、すぐ席を立てなかった。
「うへ? って何だよ。変なヤツ」
タツは口の片端をイジワル気に上げると、雄介の席へドカッと座りこみ、ふんぞり返って煙草をくわえた。偉そうな、居丈高なふるまいに、愛美は身を縮めた。
「ココ全然つまみ減ってねえな。ほら食えよ……えっと、何だっけ?」
「え、愛美です」
「そうそう、愛美ちゃんだ。ウチの雄介がとっても世話になってる愛美ちゃん!」
タツはおつまみが盛り合わされた皿を乱暴に引っぱり、愛美のまん前まで寄せて来た。愛美は仕方なく手を伸ばし、こぼれ落ちそうになっているあたりめを取った。
「一人なの? 友達は?」
「先、帰りました」
「ふーん、ケンカ?」
「違います。ちょっと調子悪くなったから、先に帰っただけで」
「へー」
タツは愛美をじろじろ見ながら、煙草をふかしている。愛美が対応に困っているのを見て楽しんでいるようだ。早く戻って来て、と心から雄介に願っていると、タツはくすくす笑い出した。
「そーんなキンチョーすんなって。べっつに何もしねえから」
「あ、いえ、そんな……」
「鼻血の件も、もう忘れたし」
「うっ」
(全然忘れてないじゃん!)
思わずタツを見やると、彼はニヤニヤしている。本当はにわとり頭じゃねえぞ、と切れ長の目が告げるのを感じ、愛美はしおらしく頭を下げた。
「そのせつは、ホントすみませんでした」
「良いって。つうか、オンナに頭突きくらって鼻血出したの初めてだぜ。石アタマなんじゃね、お前?」
「はは、ははは……」
何を言われても、もう笑うしかない。気分は大蛇ににらまれたカエルだ。
「それよかほら、打ち上げなんだから乾杯しよーぜ、カンパーイ!」
「か、カンパーイ」
強引にさせられ、飲むように威圧される。残りが一口で良かったと安堵するのもつかの間、タツは愛美が飲み干したと知るや、新しいチューハイを持って来た。
「冷えてんぞ、ほら」
「い、いや、もう良いで……」
「こーゆー時は付き合うもんだって。遠慮すんなっ」
イヤと言えないように、開けてから渡して来るところが厄介だ。愛美は仕方なしに一口飲んだ。今度は桃だ。冷たくて美味く感じるのが悔しい。
「おー、愛美ちゃんケッコウいけるじゃん。普段飲んでんの?」
「いえ」
「まさか、初めて?」
「に、近いです」
「へー、もしかして酒、つえーんじゃね?」
「そんなこと、ないです……」
愛想笑いを見せると気を良くしたのか、タツは屈託ない笑顔になった。
「あ、そうそう。訊いてみたかったんだけどさ、学校でのアイツって、どんな感じ?」
「アイツ……ふかざワンですか?」
「そうそう、ふかざワン!」
タツがふき出しながら頷いた。どうしてここでウケたのか分からないまま、愛美は話を続けた。
「そうですね、えっと……全然喋らない、かな」
「クラスで?」
「はい。何か、学校嫌いみたいで」
「いまだにかよ、やっぱりな」
タツは呆れた顔をして、灰皿に放ってあった煙草をもみ消した。
「アイツ、一年の冬休みに家出してきてよ。そん時もそんなようなこと言ってたから。何だよ、全然ジョーキョー変わってねーのかよ」
「はあ……そうなの、かな」
「あ、でも二年なってから少し変わったかも。ちょっとは色々、楽しくなったんだろ」
「楽しくなった……?」
タツにちらりと探るような視線を送られたが、アルコールの効果なのか、さっぱり思い当たらない。愛美が頭をひねっていると、タツはまたくすくす笑った。
「お前、ホント天然だな」
「え、いや、そんなこと……」
「あの曲、ピアノ弾いたのお前だろ」
「え? どれ、ですか?」
「あれだって、アイツがテスト前に持って来たやつ」
「……は?」
酔った頭でその時期を回想しかけた時、突然タツが愛美の右手をつかんだ。
「わ、ちょっ……!」
「爪、すっげー短いし筋肉スゲーし。この手、毎日二時間は弾いてんな」
愛美が驚いて身を引くが、タツはお構いなしに愛美の手をひっぱり、ぐいぐい触って品定めした。
「女としてはでけーな。握力ナンボ?」
「よ、四十ちょい、です」
「四十越え? スゲー! 楽勝でキンタマにぎり潰せんじゃん」
「潰さないからっ!」
真っ赤になって叫んだ愛美を見て、タツは声を上げて笑った。
意地が悪い男だ。いたいけな女子高生をつかまえて、おちょくって遊んでいる。さすがにムカついた顔をすると、タツはやっと手を放した。
「あーおもしれ! そんな怒んなって。良いこと教えてやるよ。ここのピアノ、中古だけど、スタインウェイのアップライトだぜ」
「スタインウェイ?」
愛美の瞳がキラキラ輝いた。
スタインウェイと言えば、欧米で三本の指に入る有名高級ピアノメーカーだ。その音色は鮮やかで粒が立ち、まるで光をまとうような、華やかな響きを持つ。いつも愛美が弾いている自宅の国産ピアノとは雲泥の差だ。コンクールにでも出なければ、弾く機会など滅多にない。
弾きたい、たとえアップライトでも、絶対に弾きたい。思わず立ち上がった愛美に、タツがニヤリと笑った。
「おーい、横田さーん! 愛美ちゃんがピアノ弾いてくれるってー!」
ホールの喧騒を上回るような大声で、タツが叫んだ。周囲の連中が何事かと振り向く中、タツはステージ横でひっそりたたずんでいるピアノへ向かい、掛けられた黒いカバーをはぎ取った。
「う、うわあ……」
艶めく黒に吸い寄せられるように、愛美がピアノへ近寄った。
「あ、ホントに弾く? 良いよ、どうぞどうぞー」
酔いに赤くなった横田が、ビール片手に勧めて来る。愛美はそれに頭を下げてから、椅子に座った。
「うわあ……ホントにスタインウェイだあ……はあああ」
金のロゴに感嘆しながら蓋を開き、白と黒が連なる鍵盤へ両手を乗せる。そのまま弾くかと思いきや、愛美はうっとりした表情で鍵盤を撫でまわした。
「良い感触……うへへへ」
「うわキモっ。どんだけピアノバカだよ、お前」
タツがかたわらでイヤそうな顔をしたが、愛美はそれに構わず、鍵盤を撫でている。そうして三往復したあと、愛美は椅子の位置を直し、おもむろに目を閉じた。
「寝んなよー、おーい」
タツのヤジに構わず、鍵盤の上に手を軽く乗せる。指先から伝わる感触が、絹か象牙のようだ。パラリと鳴らした高音は、くっきりした形を残して空中へ舞い上がった。
「あー、良い音……」
夢見るように呟いた愛美が、目を開ける。タツが急かす言葉を掛けようとしたその時、愛美の両手がぐっと広がり、鍵盤を捉えた。
喧騒を破り、美しい音が広がる。
変ホ長調の荘厳な和音の連なりが、ゆったりとしたテンポで紡がれて行く。どこかで聴いたことのあるフレーズに、タツが眉を上げた。
組曲「展覧会の絵」の終曲、キエフの大門だ。
クラシックらしい細かな技巧を最小限に抑え、和音の美しさが最大限に引き出されたこの曲は、素朴ながらも煌めきと壮大さを備えている。あっという間にホールはそれに取り込まれ、誰もが愛美を見つめた。
「誰、あれ?」
誰かが呟いたが、愛美にはまったく聞こえないようで、ただ嬉しそうに奏でている。その手はオクターブに広げられたまま、高く低く連なる主旋律を形作った。
讃美歌を思わせる抒情的な中間部に続き、鍵盤の端から端までを駆け降りるフレーズと、渾身の力をこめたような和音の大合唱が、高らかに歌い上げられる。一瞬だったが、タツは煌めく光の粒で造られた巨大な門を見た気がした。
最後の音が途絶えた時、ホールは静寂に包まれていた。その中心で、愛美は思いっきりバンザイして叫んだ。
「うあああー、調律狂ってるーっ!」
「へ?」
「ここ、ここの音が変だよう、どうしてここだけえ?」
嘆きながら左手で「シ」を連打する愛美を、タツは慌てて止めた。
「わ、判ったから落ち着けこの酔っ払い!」
「ふへえー、ちんひゃっけー! なんでちんひゃっけー?」
愛美の言葉に、どっ、と笑いが起こった。素晴らしい演奏とのあまりのギャップに、横田すら腹を抱えている。
「このガキ、もう良いから、ほら!」
ピアノに抱きついて離れようとしない愛美を、タツが抱えて立たせようとした。だが愛美の足はおぼつかず、タツへ全身でしなだれかかってくる。仕方なく抱き抱えるような格好をしていると、背を寒気が奔った。
「テメエ、何してやがるよ……」
「へ?」
地を這うような声に振り向くと、まるで阿修羅のように顔を歪めた雄介が立っていた。
「勝手に触ってんじゃねえぞゴラァ!」
言い訳する間もなく、雄介の拳が飛んで来る。普段なら避けられるのに、あいにく両手は愛美を支えるためにふさがっている。
強い衝撃を右の脇腹に感じながら、タツは自分が悪ノリしたことを、少しだけ後悔した。
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