第7話 Deceive 1

 チャンスは、そう日をおかずに訪れた。

 潜入開始、六日目の夜だった。

 今夜は火曜日で雨降りのせいか、客の入りは週末のおよそ六割と言ったところだ。吉見は所用で夜中まで戻らず、マネージャーの浅田はホールをバイトに任せ、受付陰の小部屋で何やら書類をいじっている。


(そろそろか……)


 慎吾が腕時計を覗くと、時刻は午後九時を少し回ったところだ。するとおもむろにフロアのBGMが低くなり、華やかな照明が闇を照らした。

 DJの登場だ。

 フロアに歓声が上がり、流暢なMCと共にプレイが始まる。ヒップホップとVJの鮮やかな映像が溢れ、掛け声がフロアに満ちる中、慎吾は辺りをさりげなく確認してからバックルームへ滑り込んだ。


「気づかれてねえ、今んとこ大丈夫だ」


 タイガがホールの状況を伝えて来た。

 人気のない通路は蒸し暑く、薄い緑色の壁越しに、フロアの盛り上がる様子が伝わって来る。白々とした蛍光灯が照らし出す先を左に曲がると、左右にドアが一つずつある。右の手前はロッカールームで、左の奥が目指す店長室だ。

 薄いシリコンの手袋をはめながら足音を忍ばせ、近づき、ドア越しにしばし窺う。中から何も物音がしないのを確認すると、慎吾はそっと店長室のドアノブに手を掛け、細く開けた隙間から滑り込んだ。

 音を発てないようにドアを閉めると、室内は真っ暗だ。慎吾はポケットからペンライトを取り出すと点灯し、真ん中に置かれた事務机へ近づいて、そこに置かれた電気スタンドを点けた。


「タイガ?」

「おう」

「侵入した。これから始める」

「了解。とっととやりやがれ」


 耳元から聴こえた横柄な返答に舌打ちしつつ、慎吾は電気スタンド横にあるノートパソコンを開き、電源を入れた。そしてポケットから金城特製のUSBメモリを取り出し、パスワード入力画面が表示されたところで挿入する。すると僅かな間の後、画面に黒いウインドウが開き、とぐろを巻いた赤い蛇が映しだされた。


「上手く入り込めよ」


 パソコンのモーターが動き出し、内部で何らかの動作が始まる。十秒経過したところで赤い蛇が消え、新しいウインドウが開き、そこに7セグメントで十分と表示された。これが「スネーク」の活動時間だ。

 再び別のウインドウが幾つか開き、パソコン内の全データが高速でコピーされ始める。慎吾は画面に留意しながら机の引き出しを開け、中身を乱さないように物色し始めた。


「スネーク、侵入完了。動作は順調」

「あと何分で終わるよ?」

「八分……いや、七分半か」

「急げよ」

「それはスネークに言ってくれ」


 笑いを含んだ慎吾の囁きをインカム越しに聞きながら、部屋で待つタイガは眼前に並ぶ三つのモニターをチェックした。

 モニターには店内の映像が複数映っている。玄関、受付、フロアが三つに、厨房とバックルームだ。タイガは受付に浅田が張り付いているのを確認すると、腕時計を見て眉を寄せ、再び慎吾へ問い掛けた。


「まだか?」

「まだだ、あと五分ちょい」


 そう答えた慎吾は、ピッキングで鍵付きの引き出しを開けている最中だ。

 かすかな金属音と共に解錠し、そっと開いて中を覗き込む。するとそこには色とりどりのアメが五個ずつ、チャック付きのビニールに小分けされ、大量に入っていた。


「何だコレ……」


 非常に怪しい。

 慎吾は引き出しを目一杯開けると、一番奥の隅に埋まっている小袋を一つ抜き出し、ポケットへ忍ばせた。それから引き出しを静かに閉め、再び施錠した。

 パソコンの画面を確認すると、作業完了まではあと三分。慎吾は足早にドアの隣へ行き、そこにある書類棚を開け、ファイルを何冊か物色した。


「目ぼしいものはなさそうだな。まあ、本当にヤバいモノは、ここに置かないか」

「オイ、浅田が動き出したぞ」


 左耳のイヤホンから、タイガの声が知らせて来る。慎吾は急いでファイルを戻し、書類棚を閉めてパソコンの傍へ寄った。


「あと二分」

「今、フロアに入った。バイトに声掛けて、そのままバックルームへ近づいてる。榊、もう撤退しろ」

「ここまで来て、諦められるかよ」

「バレたら元も子もねえ、今すぐ引き上げろ!」


 切羽詰まったタイガの声に推され、慎吾の右手がUSBメモリへ掛かった。表示された残り時間は、あと一分と少しだ。早く、早く――そう祈る慎吾の額から、汗が一筋流れた。


「フロアからバックルームに入るとこで、客に捕まってる。今のうちだ、早く出ろ!」

「判ってる、黙れ!」


 歯ぎしりしながら、画面でカウントダウンされる数字を睨む。三十、二十、十──遂に残り時間はゼロを示し、次々にウインドウが畳まれた。


「完了!」


 慎吾が小さく叫びながらスネークを抜き、元のパスワード認証画面に戻ったパソコンの電源を落とす。それから急いで閉じ、電気スタンドを消した途端、左耳にタイガの声が響いた。


「バックに入った、ソッチに近づいてる!」


 大急ぎでドアを開けながら、はめていた手袋を外してポケットへ突っ込んだ。そのまま斜向かいのロッカールームへ行こうとしたところで、浅田が姿を現した。


「お、サトルか。お疲れ」

「お疲れ様でーす」


 朗らかに交わされた挨拶の背後で、店長室のドアが小さな音をたてて閉まった。それに気づき、浅田はみるみるうちに眉を寄せた。


「店長室に、何か用か?」

「あ、いえ、その……店長、いるかなと思って」

「今夜は一時近くまで戻らねえが、どうした?」

「いえ、じゃあ良いっス。ちょっと相談があったんスけど、明日でも改めて」


 慎吾が愛想笑いを浮かべ、軽い会釈と共に脇をすり抜けようとする。だが浅田はその腕を掴み、立ち去るのを阻んだ。


「何だよ、水くせえな。直属のマネージャーである俺に言えない話かよ?」

「いや、そう言う訳じゃないんスけど……」


 お節介な浅田の言葉に口ごもり、時間を稼ぎつつ上手い言い訳を探す。そうしながらも、慎吾は浅田をそっと観察した。

 短く刈った髪を無造作に立て、切れ長の目をした精悍な顔立ちだ。良く見ればその左頬には、薄く斜めに傷痕がある。更にガタイが良く、慎吾よりも十センチほど背が高い。掴まれた手はさして力がこもっていないが、その大きさと固い感触から、何かのスポーツか武道の経験があると思われた。

 戦って負けるとは思わない。だがここで揉めれば、すべてが無駄になる。慎吾は咄嗟にハラを決め、困ったように装った。


「……俺、実は、給料の前借をお願いしたかったんです」

「は? 前借って、お前まだ入ったばっかだろうが。そんなん出来る訳ねえだろ」

「やっぱ、無理ッスよね……ですよねーハハハッ」

「何だお前、金に困ってんのかよ?」


 浅田が呆れた顔をするのに対し、眉を寄せ申し訳なさそうに笑ってみせる。これで「ちょっと訊いてみただけです、忘れて下さい」と続ければ、深くは突っ込んで来ないだろう。

 慎吾がそう持って行こうとした矢先、ばたばたと焦った足音が近づき、顔を青くしたミツルが現れた。


「ま、マネージャー! ちょっと」

「何だ?」

「お客様が外で、サトルくんを出せって騒いでるんですけど……」

「はあ?」

「お、俺?」


 思わず間抜けな声を上げた慎吾を、浅田がちらりと横目で睨んでから背を向ける。そのままミツルと共にフロアへ行くのを見送り、慎吾は額の汗を拭いながらロッカールームへ入った。


「ふう……アブねえ」


 吐息だけで呟くが、イヤホンからタイガの応答はない。嫌な予感が沸くのを感じ、慎吾は左耳に手を当てた。


「……おい、タイガ」

「……」

「おい! まさか……あの、バカヤンキー!」


 気配の消えた向こう側と、タイミング良く現れた迷惑な客。どうやら予感は当たったようだ。慎吾は舌打ちすると、慌ててロッカールームを飛び出した。


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