第2話 Ready 2

 捜査一課特殊捜査班三係は表向き、捜査一課内の一班である。事件の調査や解析を主な業務としているが、内実は潜入捜査を行う京田の直轄組織で、関係者にはモグリと呼ばれている。

 席は捜査一課の隅にあったのだが、全員常に出払っているので、いつの間にか捜査一課の物置スペースと化していた。故にミーティングは署長室か資料室、または今回のように人払いされた取調室が使われている。

 モグリは三名いるが、潜入捜査自体が違法行為のため、その通称や職務内容は捜査一課の一部管理職と署長、副署長、他数名が知るのみで、他の課や警らの下っ端は、係の存在すら知らない。ゆえに私服で署内をウロウロしていると、被疑者や一般人と間違われ、執拗な職質を浴びせられたり、外へ摘まみ出されることもあった。


「あー、つっかれたーっ」


 玄関の外へ出た慎吾は、やっと任務が終了した安堵感に大きく背伸びした。ふと背に刺さる視線を感じて振り向くと、玄関に立つ警らの一人が「お前は何者だ」と疑うように睨んで来る。ほとんどいることがない職場は、居心地がすこぶる良くない。

 久々の、そして束の間の自由だ。さっさと風呂に入って寝てしまいたい。当たり前の日々が無性に恋しくなり、慎吾は帰路を急いだ。



 夏の夕暮れの中、歓楽街の端でバスを降りた。雑踏を交わして五分程歩き、メインストリートの交差点から一本目の細路地を左に曲がる。うらぶれた飲み屋街の、突き当たりにある古臭い喫茶店「スマイル」が慎吾の逗留先だ。

 昭和の面影が残る店のドアを潜ると、爽やかな冷気が頬を撫でる。すぐ左手にある狭いカウンターでは、名目上の店主である荒木が、仏頂面でコーヒーカップを磨いていた。


「ただいまアラッキー。今日も岩石みたいなコワイ顔してるな」

「お帰りなさいませ、榊様。いつも一言余計ですよ」

「金城は?」

「奥におられます」


 慎吾より遥かに大きな背を縮め、荒木がカウンターを抜けて来ようとする。それを制した慎吾は厨房に入り、奥にそびえるアルミ製の厳ついドアへ向かった。

 ドア横に積まれた段ボールをずらすと、ドアホンのような形状をした「眼球虹彩認証システム」が現れる。こんな場に不釣り合いなセキュリティだが、慎吾は臆することなく小さなモニターを覗きこんだ。緑色の光が点灯し、ブラウンの瞳を映す。そして二秒後、軽い電子音と共にドアが解錠されスライドした。


「おっかえんなさい、榊さん!」

「うあっ!」


 ドアが開いた途端、男が飛び出て慎吾に抱き着いた。まるで留守していた飼い主に飛び付く大型犬である。男――金城はぎゅうぎゅう慎吾を抱きしめながら、心底嬉しそうに叫んだ。


「生きててよかった! もう春から全っ然音沙汰ないから、てっきり死んだかと思っ……グエッ!」

「縁起でもないこと言うな、この変態メガネ!」


 酷い悪口と共に、慎吾が金城を殴り付けた。自分より少し大きな体が床へ転がるのを睨み付けてから、慎吾は金城をまたいでドアをくぐった。



 とこぞのホテルのスイートにあるようなジャグジーバスに浸かり、荒木特製の夕食をたらふく食べたあと、慎吾はリビングに置かれた籐の安楽椅子に寝そべってビールを飲んでいた。


「……また買い換えたんだ」


 ぽつりと溢された呟きに、バスローブをまとった金城が顔を上げた。


「何を?」

「インテリア。今度はアジアンかよ」

「ええ、夏ですから。ステキでしょ」


 金城は洗ったばかりの長い黒髪を拭きながら、同じバスローブを纏った慎吾のかたわらに座り込み、嬉しそうに微笑んだ。

 二十畳を超えるリビングの、高い天井にぶら下がる籐製のシャンデリアも、部屋のポイントに置かれたスタンドやテーブルも、すべて繊細な飾りを施されたアジアの民族家具だ。春まではヨーロピアンアンティークに凝っていたのに、と慎吾は呆れながら金城を見つめた。


「良くやるよな、アンタも。季節ごとにインテリア全部取り換えるんだから。一体幾ら掛かってんだか」

「お友達のデザイナーに頼んでるから、たいしたことないですよ。幾ら掛かってるか、気になります?」

「いや、言わなくて良い。多分金額のデカさに腹立つから。それからテレビ、バカみたいにデカくなってないか?」

「ああ、別に大きくないですよ、100型なんて」

「充分大きいぞ。こんなもんで、一体ナニを見てるんだよ?」

「あなたの寝相ムービー」

「……は?」


 一瞬ぽかんとする慎吾に、金城はタオルを床に置き、安楽椅子へもたれかかった。


「だって僕、寂しいんです。あなたがお仕事行っちゃったら、次はいつ会えるか判らないでしょ? 他にもありますよ、食事してるとことか、シャワーシーンとか、それからセック……」

「判った、もう良い。もう何にも言うな」


 うっとりする金城を制して、慎吾は重い溜息を吐いた。

 この金城という男、一見優しそうな、それこそ大学院で文学でも専攻していそうな大人しい青年に見える。だがそれはあくまで見かけだけで、中身はその辺のチンピラよりも恐ろしい。潤沢な資金と明晰な頭脳を駆使し、世の表裏に張り巡らせた糸を使ってあらゆる情報を取り扱っている、非常にヤバい男だ。

 情報屋と言う職業柄か、金城の家にはくまなく監視カメラが配置されている。その数は慎吾が知るだけでも五つ。それもさりげなく目線で探っただけで、本格的に家捜しすれば倍は出てくるだろう。万一の保険にする気なのか知らないが、金城はそれらで慎吾のあらゆる姿を記録していた。

 どんなことをされても、拒否は許されなかった。慎吾は過去に金城と「情報を無償で提供してもらう代わりに、こちらが収集した情報と、傍にいる間は身体の自由を提供する」契約を結んだのだ。つまり慎吾が金城の傍にいる間は、慎吾を煮ようが焼こうが、それこそ裸に剥こうが金城の勝手である。


 金城は慎吾に寄り添うと、その右足を引き寄せてマッサージしはじめた。


「何日、お休み取れるんですか?」

「ああ、五日かな。あ、そこ、スゴい効く、うっ」

「気持ち良いでしょ? ここ、疲労回復のツボなんですよ。それより五日だけなんて、僕と愛を育むには全然足りないじゃないですか……イテッ!」


 慎吾は金城の肩を足蹴にすると、半分身を起こした。


「何が愛だ、バカか。ところで、ちょっと調べて欲しいんだけど」

「何ですか?」

「最近この街に台頭して来た組織で、大きさとナワバリ、人数……分かること全部」

「良いですけど、もしかしてまた潜るんですか?」


 慎吾は答えずに、少しだけ口の端を上げる。金城はメガネを外し、細い眉を寄せた。


「榊さん……本当のところ、僕はもうお仕事辞めてほしいです」

「はあ? またまた冗談を」


 軽く返されたのに、金城はより真剣な顔をした。


「本当に、本当に心配でたまらないんですよ。危ないヤマばかり踏んで、あなたに何か有ったら、僕は、僕は……どうすれば良いんですかあっ!」

「うわっ!」


 金城は思い切り叫んで、慎吾に覆いかぶさった。もがく体を押さえ込んで顔からうなじに口付け、はだけたバスローブの胸元まで舌を滑らせる。


「ちょ、待っ」

「イヤです、もうずっと放置なんですから、もう我慢出来ませんから!」

「お、お前だったら、他に幾らだっているだろっ!」

「僕はもうあなたじゃないとダメなんです、本当にっ!」

「うあっ! や、うっ……」


 熱くぬるついた舌先が、慎吾の胸の一番敏感な部分を舐め上げる。ぴりっと走る甘い刺激に、体が抵抗を忘れて行く。力を失う慎吾へ、なお金城の舌が絡んだ。


「ほら、あなただって……潜った後は、堪らなくなるんでしょ?」

「……金城」

「欲しい? なら、僕を名前で呼んで」


 慎吾の胸を、金城の長い黒髪が撫でる。さわさわした感触が全身へ伝わり、慎吾の内部へ響いた。


(ヤバい……)


 途端に何かのタガが外れたように、欲情が首をもたげ、心臓がとくとく跳ねる。衝動を押さえられず、慎吾は金城の頭を引き寄せて性急にキスした。


「慎吾、さん」

「俊二……もっと、キス、して」


 湿り気を帯びた声に応え、金城も貪るように口付けた。

 舌が絡み合い、何度も唇を食んで吸う。そこから伝わる温度が躯を高鳴らせ、奥底に押し込んでいた欲望を、あっと言う間に膨らませる。体をまさぐる金城の手が、硬度を増し始めた慎吾の下腹へ伸びた。

 金城に言われた通りだ。

 緊張の連続の潜入活動から解放され、やっと素の自分に戻ると反動がやって来る。強烈に誰かが欲しくなるのだ。

 何かが狂っているのか、どこかがイカレているのかもしれない。でも今はこのどうしようもない体を、とことんいさめて欲しかった。全部失くしてしまうほど快楽に沈めて欲しい――慎吾は今、それしか考えられなくなっていた。


「俊二、早く……」

「せかさない、時間はたっぷりあるんだから。僕が、全部、食いつくします」


 明るい照明の下で、金城の瞳が仄暗く輝く。それはまるでこれから獲物に食いつかんとする肉食獣の、歓喜の瞳に似ていた。



   ◆



 部屋に響いていた艶めかしい声もやっと途切れ、金城は汗にまみれた体を横たえた。


「はあ……」


 強い快楽のあとに来る疲労感が半端ない。正直、腰も痛いし足も吊りそうだ。

 ベッドの下には開けられたコンドームのパッケージが、汚れて丸められたティッシュとともに散らばっている。今回も良く頑張った、と自分をほめながら、金城はサイドテーブルに置いてある煙草へ手を伸ばした。一服し、ついでにペットボトルのミネラルウォーターを飲む。それから隣でうつ伏せのまま眠りこんだ慎吾の、乱れた金髪を優しく撫でた。


「やっと、眠ったみたいですね。もう、慎吾さんたら、ほんっとタフなんだから」


 慎吾は深い眠りに落ちて、まったく無反応だ。規則正しい寝息を立てる顔は、満たされて微笑んでいるようにも見える。

 金城はこの一時が堪らなく幸せだった。

 普段の彼が決して他人に見せることのない、子供のように無防備な寝顔。この寝顔を見つめられる今この時間だけ、彼が自分の手の中にあると感じる。

 ―ーきっかけは、ほんの出来心からだった。

 一作年の初冬、慎吾は満身創痍で、とある倉庫街のゴミ置き場に埋もれていた。それを拾い、気まぐれに手当てした。その時は慎吾をどこかのチンピラだと思っていたが、フタを開ければ警察官で、しかも一番付き合いたくないモグリだった。

 モグリは鼻が利いてずるい。そんな相手と取引するのだから、こちらを脅かすことのないよう厳しい条件を飲ませ、相手の最大の弱みを握ったはずだった。それが、いつの間にか逆転していた。

 すべてを晒して服従したように見せかけ、相手の懐に入り込む――実は、それが慎吾の狙いだった。そう気付いたのは契約が成立したあとで、金城はすでに心を奪われていた。

 本当に、厄介な相手である。それでも金城は契約を破棄出来なかった。今まで他人に執着したことなどなかったのに、初めて繋ぎ止めて置きたいと思ってしまったからだった。


(あなたが望むなら、僕はすべて手に入れます)


 慎吾にとっては、契約がすべてだ。でも、こうして傍にいられるなら、今はそれでいい。


「さて、もう一仕事、しなきゃね」


 泥のように眠る慎吾の頬に口づけ、もう一度優しく金髪を梳く。それから金城は頼まれたことを調べるため、ベッドから離れた。

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