第3話IONシリーズ外伝 『INTEGRATION 亡国の離別』

 ――これは、亡国の物語である。


【ACT〇】 クリスタニアンで出会った、二人


 世界屈指の大国、クリスタニア王国が首都クリスタニアン。

今、この王都を震撼させて大騒ぎになっている、むごたらしい連続殺人事件が起きていた。

被害者は誰もが若く美しい女性であった。彼女達は、散々に暴行されて、挙句の果てに分解された死体となって発見されたのだ。

第一発見者がぱっと見て、それが人間だったものの死体だとは即座に分からなかったほどであった。

その殺人並びに死体損壊事件が、もう五件も起きているのである。

 「狂ってやがる」クリスタニア王国国家捜査官の一人が忌々しそうに言った。彼の視線の先には、まるで装飾のように被害者の部屋中に飾られた『部品パーツ』の数々があった。警察の中でもエリートである彼らが総動員されて捜査しているのだが、容疑者の目星すら付いていない。「クソ、犯人は一体どいつなんだ!?」

「……」モニカはぎりりと歯を食いしばって、それから言った。彼女は優秀な国家捜査官であった。「必ず逮捕してやるわ!」

 だが、その日も仕事は成果が出ず、モニカは不機嫌と苛立ちを抱えて帰宅する事となった。駅まで煙草をくわえて歩いていく。夜のクリスタニアンに銃声が響いた。モニカは血相を変えてその音源を探す。近くの路地からだった。モニカは拳銃を抜いて、構えつつそこに飛び込んだ。漂うのは凄まじい血臭。

拳銃を持った男が、女の死体の側でしゃがみこんでいた。

「国家捜査官だ!」モニカは怒鳴った。「銃を捨てて両手を頭の後ろで組め! さもなくば撃つ!」

「うわ!」男は拳銃を捨てて両手を上げて立ち上がる。街灯の光がわずかに差し染める暗さの中でもはっきりと分かる、青い目と青い髪をしていた。手を振り回して弁明しようとしたので、モニカは狙い定めて撃鉄を上げた。男は慌てて両手を頭の後ろで組んだ。「俺じゃない、俺じゃないんだ! 食ってたヤツがいたんでビビって撃ったんだ!」

「動くな。 言い訳は署で聞かせてもらう」モニカは冷徹に言った。

 名前は、チャーリー・レインズ。軍人だったがメルトリア戦役で退役、それ以降は軍人の恩給と便利屋のような事をやって暮らしているらしい。所持していた拳銃は、軍人だった時に購入したものだと言う。

怪しい。モニカは直感でそう思った。何かが、常人とは違う。

「バーで気分よくやって、帰ろうって歩いていたら、何かくちゃくちゃと食っている音がしてさ、何やってんだろうって路地をのぞき込んだら、男がマジで食っていたんだ、女の体を! それに仰天して撃ったんだ! あれは俺じゃない、俺じゃないんだ! え、顔? すんません、仰天していてそこまでは……でもとにかく、あれは男だった!」

取調室の隣の部屋で、彼の供述を聞いていた捜査官達がつぶやいた。

「シロだな、コイツは。 引っ張ろうと思えば銃刀法規定違反で引っ張れるが、服に血痕が全く付いていない上に、歯型も違うからな……」

「そうだな。 コイツの胃の内容物を調べれば完全にそれが証明されるが、そこまでしなくても良いな、これは」

「……そうかしら」だがモニカだけは、鋭い視線でチャーリー・レインズを見ていた。

モニカは夜明け前に釈放されたチャーリー・レインズを尾行した。チャーリー・レインズはとことこと歩いていく。途中で早起きな酒屋に寄ってビール瓶を一つ買う。自宅に帰ってそのビールを飲むのだろうか、と彼女は煙草の煙を吸いつつ思った。

その彼が、モニカの目の前で、運河にかかる高い橋の上から飛び降りて姿を消す。

「!?」

水音が聞こえて、モニカは思わず煙草を捨てて駆け寄り、下を覗き込んだ。

「こんばんはー、あ、もうおはようか」

チャーリー・レインズが橋の欄干の端に捕まっていた。彼は彼女を見上げて、にこっと笑った。不思議な笑みだった。それを目にした誰もが毒気を抜かれて素直になってしまうような、独特の。

「誰かと思えば、さっきの美人なお姉さんじゃん。 俺に何の用?」

「ッ!」モニカはしてやられたと思った。落としたのはビール瓶だったのか!「貴様は――!」

「よっこらせ」とチャーリーは橋の上に戻る。「うん、そう。 まあお姉さんが疑うのも無理は無いけれどさ、俺は健全な小市民だから、女の人を暴行した挙句にバラバラにして殺すなんて酷い事はしないぜ」

「……」

モニカが黙っていると、チャーリーは、

「んじゃ、さようなら」とまたとことこと歩いて去っていくのだった。

ただチャーリーが行ってしまうのを見ていたモニカの所に、緊急通信が入った。

 『モニカ! また誘拐されたぞ!』


 捜査官達は誘拐現場に急行したが、言葉を失う。地上一〇階のマンションのドアが、力任せで壊されていたのだ。マンションの住民がその破壊音と女の悲鳴を聞きつけて通報したのだ。この連続殺人事件でただでさえ過敏になっている警察は即座に駆けつけたのが、間に合わなかった。このわずかな時の間に、犯人は女を連れて逃げた事になる。

「複数犯なのか……? いくら何でもこんなにドアを壊して、しかも被害者を連れて一人で逃げられるとは思えん」

「でも、どの死体も、残っていた歯型は一つだけだったぞ……一体何者なんだ、犯人は」

「これは……まるで警察組織を恐れていない、そんなヤツの仕業に見える」

誰もが言葉を失った。非力な女を狙い、散々に暴行して、挙句の果てに分解する。正気の沙汰では無かった。

彼女は誘拐されて二日後の朝、公園を囲む鉄柵に、串刺しにされて発見された。臓器は分解されてその辺り一帯にばら撒かれていた。それをマスメディアの報道で知ったクリスタニアンの民は震え上がった。ここまで恐ろしい思いをしたのは、列強諸国の一つ、アルビオン王国にクリスタニアンが陥落させられかけた時以来だ、と老人達は言い合い、年ごろの美しい女性を家族に持つ者の中には、事件が解決するまで警察でどうか保護してほしいと泣きながら頼みに来る者さえ出た。

もはや警察の威信プライドのためのみではなく市民の恐慌状態パニックをどうにかするために、モニカ達は必死に事件を追ったが、死体や状況を調べ直した結果、犯人は間違いなく男で、単独犯だと言う事しか分からなかった。

 駄目だ。モニカは最初から事件を調べ直そうとした。

一件目。被害者は仕事の帰路、夜中に誘拐された。そして朝には分解された状態で、貴族の庭園で見つかった。二件目。三件目。調べ直していく内に、モニカはある共通点に気付く。それは彼女の経験と勘が気づかせたものだった。

犯人は全く人目をも警察をも恐れていない。なのに、犯行は必ず夜に行われている。つまり犯人は夜にしか犯行のために動けない何らかの理由があるのだ。モニカは誘拐・死体遺棄の現場を全て見て回った結果、それを確信した。

そうやって見て回った最後の現場で、モニカはあのチャーリー・レインズと再会した。チャーリー・レインズは現場に花を供えていた。

「あ」とチャーリーは振り返って言った。「この前の警察のお姉さんじゃん。 どうしたの?」

「どうもこうも、現場検証よ」と煙草を消しつつモニカは言う。

「そっか、お疲れ様です。 俺も仕事なんだ」

「何の?」

「俺の友達がさ、警察だと多分解決できないから、俺にやれって」

「……ああ、そう。 そうなの」

モニカの顔に浮かんだ、明らかに怒っている表情に、チャーリーはひえっとすくみ上って、

「怒らないでくれよ、友達もこれ以上被害者が増えるのが嫌で俺に頼んだんだ。 それに友達は頭が良いから、犯人の正体ってか、犯人の目星をもう付けたんだ」

「何よ? 警察が総出で探しているのに、それすら分からないのよ?」

「夜にしか動けない、言い換えれば昼間は絶対に犯行が出来ない。 となるともう簡単に俺でも特定できるぜ」モニカは顔をこわばらせた。何故それを知っているのだ!?「あ、でも、お姉さん達だと逆に分かりにくいかな。 ヒントは、『人間じゃない』だからさ」

「……は?」

「まあ、犯人捕まえたらちゃんとお姉さん達に引き渡すからさ。 じゃーねー」

とチャーリーは、あっと言う間に去って行った。


 『お前と俺の予想は的中した。 今しがた、やっと万魔殿パンテオンが白状した』

「そっか、名前は? 顔写真とかある?」

『写真はもう処分してしまったからと断られたが、名前は分かった。 パウエル・ジョンストーン』

「あれ? 多分だけれど俺、ソイツ知っているかも。 万魔殿じゃ割と有名な芸術家だったぞ、確か? 女のマネキンをバラバラに解体して、それに色々工夫を凝らして展示して、結構評価されていたはずじゃなかったかな。 なかなかの前衛芸術だなって、意味分からんけれど悪くはないじゃんって、俺も思っていたんだけれど。 ……おい、別人だよな?」

『いや、その前衛芸術家だったパウエル張本人だ』

「マジかよ!? 何であれがこうなっちゃったわけ!? 確かヤツには元売れっ子モデルの超美人な婚約者がいて、仕事も順調で、前途洋々の人生だったと俺は思うんだけれど、芸術家魂がついにマネキン破壊じゃ満足できなくなっちゃったの!? 物騒だなー、怖いなー、芸術家魂ってのは……」

『いや、こうなった理由はそれじゃないんだ。 同情は出来ないが、本当に哀れな理由だ。 この前も、聖教機構ヴァルハルラ十八番おはこの無差別爆撃があったんだ。 今回、一番被害を受けたのはヤツらが暮らしていたドルキアナ地方だ。 たまたまヤツは婚約者に何かプレゼントでも買うために宝石店に行っていて、爆撃の際には地下金庫に他の客や店員と共に隠れたので無事だったそうだ。 爆撃が終わったので慌てて婚約者の無事を確かめようとしたら、婚約者が避難していた先の地下シェルターが、酷い話だが欠陥工事だったせいで、その時の爆撃に耐えられず、そこに避難していた民間人の全員が、空爆のほぼ直撃を受けていたらしい……。 ……それから段々とヤツはおかしくなって、ついに先日、万魔殿は全支配圏からパウエルの身柄を永久追放したんだそうだ』

「……あー、そう言う事か」

『とにかく、頼む』

「OK、任せとけ」


 「なるほど、そう言う事だったか……」官憲の頂点に立つ男、『大判官』クロードは頷いた。クリスタニア王国を実質的に支配している『一二勇将』の円卓会議の一席に彼は座っている。彼はちょっと不自然な、違和感のある髪形をしていた。「道理で警察では犯人が捕まらなかった訳だ、何せ人間では無いのだからな」

「ではどうします? 政治の素人の私が言うのも変ですが、この事態の解決を聖教機構もしくは万魔殿に頼んで、と言うのは極力避けたい……」同じ円卓の一人である『殺人博士』Dr.シザーハンドが言った。穏やかな物腰の、お手本のような紳士である。「この事態のそもそもの原因が聖教機構と万魔殿の終わらぬ戦争の所為でもありますし……」

「……俺が出るか?」『殺し屋』イヴァンが口を開けたが、「いや……俺では無いな。 俺の仕事は逮捕で無くて殺害だからな」

「では軍隊を出すか!?」いつも大声なのは『常勝将軍』オリエル元帥である。「相手が人間であろうと無かろうと、遠距離から一方的に砲撃しちまえば関係無いぞ!」

「……冗談ですよね?」Dr.シザーハンドがやや引いた様子で言った。「いくら素人の私だって、自国のそれも自国民の住む首都を砲撃するなんて事をしたら、その結果は容易に想像できます……」

「だったら代替案を出せ!」オリエルは大声で言う。

「ギー坊やに何か考えがあるようだ」とこの円卓会議を統括する『鉄血宰相』グレゴワールが言った。とても知性的で冷酷な印象を与える、老いていても毅然としている男だった。事実、この男は政治と言う修羅場を常に最前線で戦い抜いてきた歴戦練磨の強者であった。「だが、坊やが失敗した時にも備えておかねばなるまい。 この非常事態なのだ、逮捕だろうと殺害だろうともはや構わない。 イヴァン、頼む」

「分かった」イヴァンは頷く。彼は地味すぎてどこにいても目立たない、そんな風貌をしていたが、職業は殺し屋であった。「ギー坊やが失敗したら、俺が出よう」


 ……遠くから、声が聞こえる……。


 「ねえミリー、どうして返事をしてくれないんだい?」

 「私の事を嫌いになったのかい?」

 「ごめんね、私は完璧な人じゃないから、君をよく怒らせてしまうんだ」

 「でもどうか捨てないで、私は君がいないと生きていけないんだ」

 「ねえ、お願いだから返事を……」

 「……どうして一言も返事をしてくれないんだい?」

 「私の方を見ようともしてくれない」

 「私がいくら謝っても、詫びても、まだ怒っているのかい?」

 「あの日私が君だけ一人にして、出かけた事を恨んでいるのかい?」

 「ごめんね、ごめんね、でも、あの日私は君にプレゼントをあげたくて」

 「それで君の誕生日だったのに、君を一人にしてしまった」

 「そんな私がどうしても許せないのなら、私は殴られても良いよ」

 「どうして、どうして?」

 「なのに、どうして無視するのかい?」

 「せめて嫌いだと言ってくれたら、私は……」

 「君の服を買って、アクセサリーを買って、花束を買って、ケーキを買って」

 「君の荷物持ちをして、買い物に付き合って、食事に行って」

 「でも君はいつも言ってくれるんだ、『ありがとう』って」

 「だから私は、ちっとも辛くなんか無くって、君といると幸せで」

 「頼むよ、せめて私を嫌いになったのなら、そう言ってくれれば、私は、身を引くから」

 「……あれ?」

 「ミリー?」

 「何で君、私の製作途中の作品みたいに壊れてしまっているんだい?」

 「ああ、そうか」

 「そうだった……」

 「あの日、君はバラバラにされてしまったから」

 「元通り組み立てなきゃ、涙を流す事さえ出来ないんだ」


 「壊して、直さなきゃ……」


 ――覚醒した。

 モニカは咄嗟に拳銃に手を伸ばそうとして、出来なかった。彼女は全裸で、しかも縄で縛られていた。彼女は即座に状況を把握する。どこかの古い倉庫の中に彼女はいた。消えかけた電灯が点滅している。

 そのおぼろな光の中で、まるで獣のような男が見えた。彼女が目覚めたと気付いた途端に、もはや正気では無い有様で、酷く血で錆びついたナイフを手に近寄ってくる。

「直さなきゃ」

男はつぶやいた。男の体臭と血臭とが混じって、吐き気がするような臭いが近付いてきたので、モニカはえずきたくなった。

「貴様は誰だ!」恐怖をこらえて、彼女は威圧的に言った。

「あれ」男ははっとした顔をして、モニカをまじまじと見つめた。「……ミリーじゃない? じゃあミリーはどこにいるんだ!? あの爆撃されたドルキアナにたった一人でいるのか!?」

「質問に答えろ! 貴様は誰だ!」モニカは何とか拘束を解こうとしたが、無駄な足掻きであった。

「それはこっちの質問だ!」男は怒鳴った。「ミリーはどこだ、どこにいるんだ!?」

 モニカはようやく思い出した。

 夜更けに、自分一人で暮らすマンションに帰ったら、ドアを開けた瞬間に彼女は背後から襲われたのだ。悲鳴を上げるいとまも無かった。記憶が、背後の気配に対応しようとしたそこで飛んでいるからだ。

ならば、とにかく、今は時間を稼がねば。彼女が行方不明になったと国家捜査官達が知って、ここにやって来るまでの、時間を。だがそれはあまりにも希薄な望みであった。恐らくまだ夜は明けてすらいないし、ここがどこなのかも分からない。それでも、絶望だけはしたくない!

「ミリーなら」彼女は必死に優しい声を出して言った。「きっと病院にいるんじゃないかしら」

「病院……」男はうつろな目で繰り返す。「病院……か」

「そうよ、そこで貴方を待っているんじゃないかしら」

「……」男は彼女に背を向けた。何かをじっと考えているようだった。

今の内にと、モニカは必死に、せめて縄だけでもほどこうと努力する。

「あのね」と男がゆっくりと振り返った。その目が充血していたので、モニカは血の気が引いた。「あのね、あの日、私とミリーの暮らしていたドルキアナの街は、聖教機構軍により徹底的に空爆されて、何にも、病院ですら原型を留めていなかったんだよ。 ミリーも、ぐちゃぐちゃにされた残骸しか見つからなかったんだよ。 だから、私は――」男はナイフを振り上げた。「ミリーを作り直すんだ!」

銃声がした。振り下ろされたナイフが砕け散る。

「パウエル・ジョンストーン」何とチャーリーが、倉庫の割れた窓から身軽に入ってきた。「俺、アンタの事も、アンタの作る芸術作品も、嫌いじゃなかったんだぜ。 破壊は一種の創造である、その信念が所々に現れていてさ。 マネキンはバラバラにしても、人は絶対に殺さなかったしさ。 でも、もう、今のアンタは駄目だな。 もうアンタは、この国で死刑になって殺されるしか、救いようが無い」

「貴様、貴様ァ!」パウエルが凄まじい形相で言う。「私の邪魔をするのか! ミリーを作り直させないつもりだな!」

「うん、そうだよ。 そうしなきゃならん。 だってさ、今のアンタは本当に気の毒だからな……」チャーリーは、痛ましげに言った。

パウエルが牙を向いた。鋭い犬歯がのぞく。モニカははっとした。それは、『魔族』と呼ばれる、特殊能力を持った人間では無い種族の一種、吸血鬼ヴァンパイアの特徴だったからだ。日光に極端に弱いので、大体の吸血鬼は夜行性である。その爪が長く伸びて、まるでナイフのようになる。それでパウエルはチャーリーに恐ろしい速さで襲いかかった。

けれどチャーリーは、どこか悲しそうな顔をして、拳銃の引き金を引いただけだった。

銃弾が命中した。パウエルの体が倒れながら滑った。

「……う、ご、が……」まだ生きている。だが動けない。「何を……した!?」

「『拘束制御術式』の詰まった弾だよ」チャーリーは淡々と言った。「古い手段だけれど、動けないだろう?」

それから彼はモニカを解放して、自分のジャケットを貸した。

「災難だったなあ、警察のお姉さん」

「ど、どうしてここが分かったの!?」

「鼻」とチャーリーは己の鼻を指差して言った。「俺ね、ちょっと人より嗅覚が良いんだ。 ほら、あの路地では女の人が食われていたじゃん? でもってコイツは凄く臭いじゃん。 この独特の臭いを俺覚えていてさ、後を付けてみたんだ。 そうしたらここに着いた」

「警察犬よりも感度が良いの……?」

少なくとも、人間離れしている事だけは確かだ。

「まあな」とチャーリーはあの毒のない、無邪気とも言いうる笑みを浮かべる。「んじゃ、警察呼ぼうぜ」


 吸血鬼は逮捕された。いずれは処刑されるだろう。クリスタニアンにはやっと平和が戻った。その功労者であるチャーリーは、だが、褒賞を受けようともしなかったし、名前を表に出そうともしなかった。

「俺ね」とチャーリーは安いアパートの一室で、言う。男の一人住まいだと言うのに、とても部屋は綺麗で清潔で、窓にはレースの白いカーテン、キルトのタペストリーが壁にはかかり、ベッドの上にはちょこんと手編みのウサギのぬいぐるみまで置いてあった。「友達の依頼を引き受けただけだから、ご褒美とかそう言うの要らないんだ」

TVは今、正に警察が吸血鬼をやっとの事で逮捕したと言うニュースを大々的に報道している。

それを見つつ、チャーリーはもしゃもしゃと大盛りの野菜サラダと自分で焼いたピザを食べていた。見ていて爽快なくらいによく食べる。

「そう言えば友達って誰なの?」

モニカが訊ねると、チャーリーは少し考えて、TVの画面を指差した。次のニュースは、クリスタニア王国の政治問題についてのもので、そこには『クリスタニア王国の女で彼に恋い焦がれない女は真正のレズだ』とまで言われるうら若き政治家、ギー・ド・クロワズノワが映っていた。と言っても本人が何かスピーチをしているのを、隠し撮りしたと思われる映像だった。ギー当人はマスメディアに騒がれるのを非常に嫌がっており、だからこそ余計にその人気は白熱するのだった。

 まず、男に生まれたのが勿体ないくらいの天使のような美貌。身長と学歴と収入には文句の付けどころが無く、片眼がやや不自由で眼鏡をかけているが、陸軍にいた事もある、そして何よりも政治家として非常に優秀であった。この国を実質的に動かしている『一二勇将』からは酷いくらいに溺愛されていて、だが実際それに応えるだけの才覚と実力を持っていた。

「……え?」モニカは思わずチャーリーを見た。くわえていた煙草を落しかける。

「うん、コイツ。 ひっでえ女ったらしでありえん車キチガイなのを除けば良いヤツ」

そう言ってチャーリーは食後のハーブティーを飲むのだった。


【ACT一】 クリスタニアンで出会った、彼ら


 「「うわあ」」と彼女達は揃って目を真ん丸にした。

「カーテンが白い!」

「壁が茶色じゃない!」

「絨毯に煙草の灰が飛び散っていない!」

「ヤニでべとべとしない!」


 「「ちょっとモニカ、アンタの彼氏を紹介してよ!」」


 「彼氏じゃないわよ」とモニカはイライラしたので煙草を吸った。「私のヒモだから」

「何を目を開けて寝言言ってんのよ! 汚部屋で魔窟でゴキブリとハエの根城だったモニカの部屋をここまで綺麗に出来るなんて、そんなヒモならこっちが飼いたいわ!」

 モニカの友達が、連れ立って彼女のマンションにやって来たのである。

「そうそう!」とその中の一人が頷いた。彼女らはモニカの同僚でもあった。「おまけに料理上手なんだっけ! そんなヒモならこっちが喜んで買うわよ! ねえ、いくらなの?」

「え、そうなの!? 知らなかった!」

「ああそっか、貴方は部署が違ったわね。 あのね、モニカが職場にお弁当を持って来るようになったんだけれど、それがもう見た目も可愛い上に美味しいのよ!」

「でもヒモはヒモよ」とモニカはまだイライラしている。「ある日突然私の部屋に転がり込んできたんだから!」

「その結果がこれなんでしょ? ど・こ・に!不満があるのよ!」

家はピカピカ、飯はウマウマ、しいて欠点を上げるならば外では稼いで来ない。

「……」モニカは二本目の煙草に火を点ける。「無職の男なんてクズよ」

「無職で良いじゃん、専業主夫やらせていると思えば。 ……あの黒ずんで、と言うか混沌カオスのような暗黒色のカーテンがかかっていて、ヤニのつららが出来ていて、気持ち悪いくらい汚い上にゴキブリがうごめいていて、冷蔵庫の中の食べ物は全滅だったじゃん、モニカの家は! それがここまで快適になるなんて……真面目にヒモで良いし、養ってあげるからウチに来てって言いたくなる……ってか、本気でモニカから買うから! だからさ、いくらなの?」

「……」モニカはイライラがついに不愉快の塊に凝縮されてくるのを感じた。

 そこに、ちょうど、

「ただいまー」とチャーリーが買い物袋をぶら下げて帰ってきた。近所のスーパーに行っていたのである。「あれー、お客さん?」


 これが例のハイスペックなヒモか!

モニカの友人達はチャーリーを値踏みした。

 うん、顔はギリギリの及第点だけれど家事のハイスペックっぷりならきっと満点だわ。


「……見て分からないの?」モニカはそっけなく言う。狂暴なモニカには既に慣れているのだろう、チャーリーは機嫌を害する事も無く、

「ごめんごめん、今お昼時だからさ、腹減って思考力が落ちているんだ。 あ、そうだ、お客さん達、もうお昼は済ませましたか?」

「「まだです!」」

モニカの友人達は目をきらめかせて異口同音に言った。これは、この『ヒモ』がどれだけハイスペックなのかの、絶好の検証の機会だわ!

「んじゃ、冷蔵庫にあるものですみませんが、何か作りますよ」

チャーリーはキッチンの中へと姿を消した。


 それで出てきたものが、ゴルゴンゾーラ風味のパスタとマリネ、デザートにパンナコッタであった。


 「モニカ!」それを一口食べた友人が叫んだ。「冷蔵庫にあるものでこれだけ美味しいのが作れるのよ! これは絶対に逃しちゃいけない物件よ!」

「「そうよそうよ!」」

これは満点どころか花丸に勲章付けての褒賞ものだわ、とモニカとチャーリー以外の全員が思っている。

「どうせモニカは仕事が趣味の人間だから、バリバリ外で働けば生活も成り立つじゃない! ウチの馬鹿彼氏なんか、この前私が酷い風邪を引いた時に、焦げ焦げのカレーを作ったのよ!」

「病人にカレーはちょっと無いわ……あ、でもウチの彼氏は脱いだものは脱ぎっぱなし、洗濯機に入れた事なんて一度も無いし、掃除だってあからさまに嫌そうな顔をしてやっているのよ! 何が『男らしくない』よ、タマ蹴っ飛ばしたくなるわ! そんな男らしさなんか不要よ!」

「俺」とチャーリーはやや内気そうに言う。「ねーちゃんとかーちゃんとばーちゃんに徹底的に料理とか掃除とか手芸とか仕込まれましたから……あんまり、その、男らしい趣味は持っていないんですよ」

委縮しているチャーリーに、きっぱりとモニカの友人達は口を揃えて言った。

「大丈夫。 まともな女なら貴方を手放すなんて愚行はやらかさないわ」

「そうそう! 最初は恋愛と結婚を勘違いするのが多いんだけれど、最終的には同居していてイラつかないのが一番だって結論に至るのよ!」

「だよねー!」

「これからは絶対に専業主夫が流行るわよ!」

「いくらなら家に来てくれる?」

「もう家事代行で良いから来てよー!」

「家政夫やって! お小遣いならはずむから!」

「そうだ、アルバイトで良いから家事やってくれない!?」

「私達、みーんな激務で家事がどうしても疎かになっちゃうのよねー」

「何よモニカ、こんなに優秀な家政夫君見つけといて独り占めなんてずるいわ!」

「何がヒモよ、これだけやれるなら立派な仕事人よ!」

「でも無職なのよ」と、モニカだけがまだ言っている。


 「ごめん、大家が交代したら家賃値上げされて払えずに追い出されました。 養って下さい」

「は?」

「趣味は裁縫と料理と掃除です。 ……頼むから何か食わして下さい」

「何でウチに?」

「友達の所に行ったら女とデートしていて不在だったんです。 ……頼むから何か食べ物を……」

「金が欲しいのなら恵んでやるけれど」

「……………………………………」

「ああもう! うっとうしいわね! 勝手にすれば!?」

「……お言葉に甘えて、お邪魔しまーす」


 「ほう」とギーは感心したように言った。彼は新聞を読んでいたが、それをいったんテーブルに置いて、「お前が女の部屋に転がり込むなんて、やるじゃあないか。 俺があの日、家にいなくて良かったな」

「お前が女といつもの『朝までデート』をしてなきゃ良かったんだ!」逆切れしているチャーリーはわめく、わめく。わめきながらトマトを包丁できざんでいる。「入ってから入った事にマジで後悔したくらい、仮にもレディーの部屋なのにヘヴィーに汚かったんだぞ! ハエとゴキブリがわんさかいた、ヤニでカーテンが暗黒色! 冷蔵庫の中には醗酵じゃねえ、腐敗した食品がどっさり! でも酒と煙草だけは確保していたんだぞ! 俺はあんな環境じゃ生きられない!」

「だったらお前が掃除すれば良いじゃないか」

ギーは優雅にそう言ってティーカップを手にして紅茶を飲んだ。そうした行動の一々が、まるで美しい絵画か映画のワンシーンになってしまいそうなほど、彼は美形であった。

「したさ! 丸々一週間泣きながら掃除した! でもまだ汚いんだ……」

チャーリーは刻んだトマトを鍋に入れて、ふたをした。鍋の中のミネストローネは、実に美味しそうにぐつぐつと煮えている。

「お前は潔癖症なのか?」ギーはティーカップを置くと、再び新聞を手に取った。

「……潔癖症で良いさ。 あんな部屋の中であのまま住み続けるなんて、それに比べたら潔癖症で良いよ、もう……」

「で」とギーは何気なく紙面に目を落とし、「その女は美人か?」

「あー、見てくれは。 でも性格はどっちかって言うと、凶暴だと思う。 俺、初対面の時に、ほら、この前の吸血鬼連続殺人事件の容疑者に間違われて拳銃を突きつけられたもん。 俺、一瞬、マジで誤解されたまま殺されると思った」

「ほう、警察官なのか?」

「うん、それもバリバリのエリート。 本物の国家捜査官」

「貴方になら逮捕されても構いません、とでも言うべきかな?」

「……………………………………お前以外の男ならそのセリフを吐いた瞬間に銃殺されちゃうだろうけれど……お前なら確実に陥落するわ」

くさくてキザな、通常ならば殺意すら女性に抱かせるセリフすら、ギーにかかれば女にとっては心臓ハートを射抜く致命的な美辞麗句に変貌してしまう。それほどの美男子なのだ。

「今度紹介してくれ」

「安いアパートが見つかったらな!」

「そうか。 で、俺の晩飯の具合はどうだ?」

「後、五分、煮れば完成する!」

と、チャーリーは妙にイライラしつつ答えるのだった。

「何だかんだと言っているが」ギーは全てを見通しているように、「嫌いじゃないんだろう? イライラするな。 俺はもう人の女に手を出すのは懲りている。 文字通り痛い目に遭ったからな」

「おい、お前何やったんだ!?」

「寝取りかけた」と、とてもあっさりと答えられたので、チャーリーは反射的に罵声を浴びせた。

「死ね馬鹿クソ阿呆クズ!」

なのにギーと来たら涼しい顔で、

「言われた、散々言われたよ、その罵詈雑言。 俺が先にも後にも『あの人達』からそう罵られて殴られたのはあれが最初で最後だろうよ」

「おい、お前は一体どこの誰を寝取ったんだ!」

「ジュリア・ノースだ」

ギーの発言にチャーリーは殺意をもって、洗おうとしていた包丁の切っ先を向けた。包丁にはトマトのきれっぱしが赤くこびり付いていた。

「死ね! 俺はジュリア様のファンなんだ!」

ジュリア・ノース。クリスタニア王国屈指の美女で、女優である。ファンからは『ジュリア様』と呼ばれている。若くしていくつもの賞を総なめにした大女優であった。現在交際中の相手は、大貴族の御曹司らしい。包丁を向けられているのに、ギーはそちらを見ようともせずに新聞の文字を目で追いつつ、

「落ち着け。 もう昔の話だ。 今じゃ笑い話だ」

「何がどうなったら笑い話になるんだ、寝取られ話が!」

「あの人達に怒られて、俺が頭を丸刈りにして土下座した、その姿がどうも相当惨めだったらしくてな、相手が怒りよりも哀れみを抱いてくれたんだ。 俺が当時未成年だったのも助かった。 以来俺は手を出す相手は見極めてからにしている。 もう寝取るのは嫌だ」

チャーリーはどしどしと足踏みしつつ怒鳴った。

「『嫌だ』じゃなくて『絶対しない』と言え! お前の女ったらしはガキの頃からかよ!」

ここでようやくギーはチャーリーの方を見て、

「分かった分かった、絶対しない」

「……」ようやく包丁をチャーリーはしまった。「でも政治家ってもれなく嘘吐きなんだよな」

「ついでに腐敗もしているぞ。 綺麗な政治家と言うのは極めつけの暴君になるだけだからな」えぐい言葉を、さらりさらりと美しい唇から言う。

「生ゴミ袋に放り込んで捨ててやりてえ……」チャーリーはむかむかしている。

「後にしてくれ、今、俺は腹が減っている」ギーはそう言って、新聞をたたんだ。

「お前な」チャーリーは脳みそを絞って、「『心の中の姦淫』って言葉を知らないのか! おいゴラァ! お前は心の中だけで済まずに片っ端から現実でも姦淫しやがって!」

「落ち着け。 その言葉は知ってはいるが、性別が雄の全人間に絶滅しろとお前は言うつもりか? 独身の若い男に美女を見ても心は微動だにするなとでも言うつもりか? いや、性別など関係なく、誰だって心に魔が差した事は一度はあるだろう、お前だって、欲しいと思ったものは全てその場で盗むのか?」

ギギギギギギギとチャーリーは歯ぎしりした。

流石は政治家、弁明・釈明・誤魔化しの言葉なら無尽蔵に出てくる!

「……政治家は全員嘘吐きで腐敗していて無駄に弁舌に長けていやがる……!」

「そう言う事だ」ギーは椅子から立ち上がる。美の女神ですら一目ぼれするような、均整の取れた長身が動いた。新聞は丁寧にたたまれてテーブルの上にある。「だから政治家は全員悪者だ。 悪者の方がやりやすい」

「……何か丸め込まれた感じがする……」チャーリーはむっつりとして言った。

「丸め込んだんだ。 政治とはそう言うものだと俺は習った」

女性がこの場にいたならば、むしろギーによって徹底的に丸め込まれたいとさえ思っただろう。

「あっそ」チャーリーはぶすくれた顔で手を洗うと、キッチンから出て行った。「んじゃ、また明日な」

「ああ」とギーは鍋の蓋を開けてみて、チャーリーは調理師免許と栄養士の資格を是非持つべきだな、後で試験勉強を勧めよう、と考えた。


 モニカは小型の拳銃を構えて、己に背中を向けてキッチンに立っている男の背中を狙う。撃ってやろうか、どうしようか。撃てばこのイライラが治まる気がする。彼女はまるでギャンブルをしているような気分であった。それも大金を手にするか、奈落の底に突き落とされるかの二極のギャンブル。正に乾坤一擲。〇か一か。裏か表かコイントス。命がけのロシアンルーレット。狙いを定めて撃鉄を上げ、引き金に指をかける。かちりと引き金を引いて、彼女は男を射殺してみようとする。手元にある銃弾は、まだ装填されていない。だがいつでもそれは出来る。

さて、そうすれば彼女は殺人犯になる、だが、このイライラは治まるかも知れない。

 チャーリーは考えている。この料理に毒を入れたらどうなるだろうと考えている。そうすればこれを食べた女は死ぬ。そして彼の不愉快は治まるような気がする。毒なら彼はいつでも調達できる。

でも、そうすれば彼はマンションから追い出される、もしくは逮捕される。なのに、とチャーリーは思わず側にあった調味料の容器を見つめて思うのだ。

この不愉快は本当に初めてのもので、そうする以外に彼にはどうしたら良いのか全く分からないのだ。

 モニカが拳銃を隠した瞬間、チャーリーは振り返った。

「なあ、ワイン煮とトマト煮、どっちが食べたい?」彼は言った。

「ワイン」

「分かった」

彼らはとても奇妙で歪で、それゆえに今は安定している謎の関係に陥ろうとしていた。


「ああ、また今日も愛が分からなかった」


 「魔界化?」と、チャーリーは訊ねた。静かなバーでの事である。「何それ?」

「現在クリスタニア王国で発生している、謎の人間失踪現象・怪死事件だ」

ギーは写真を一枚テーブルに並べた。チャーリーは覗き込む。

「何だこれ」と彼は思わず言った。「悪魔の口に呑み込まれている……のか?」

そこには、足元から謎の黒い穴に呑み込まれて、だがその有様に唖然としている男性が写っていた。恐怖の表情すらそこには無い。あっと言う間、だったのだろう。

「偶然、この瞬間に、写真家が現場を捉えて撮影してくれた。 で、これを見ろ」

次の写真には、その男性の死体が写っていた。だが通常の死体には無い、青紫色の小さな斑点が無数に皮膚を覆っている。

「解剖した結果、これは特殊なガスによる中毒死の一種である事が判明した。 全く前例の無い、成分不明の特殊な毒ガスだ。 ……今は一二勇将がもみ消しているが、これがメディアで報道されれば国内がまたパニックに陥るだろう。 そうなる前にお前に頼みたい」

「でもどうやってこの穴に落ちれば良いのさ?」

「場所は一つだけだが突き止めてある。 クリスタニアン新市街と旧市街を繋ぐ、あのクレル橋の近くの歩道橋だ。 そこで、雨上がりに必ず行方不明者が出る」

「……ちなみに、『魔界化』のネーミングは誰が?」

「俺だ。 まるで異世界に引きずり込まれて、そこで殺されたかのような印象を受けたからな」

「……受けても良いが、お前も付き合えよ? 俺あんまり頭良くないから、脱出方法を思いつきそうに無いんだ」

「怖いのか?」

「怖いに決まっているだろうが!」

「どのくらい怖いんだ?」

「ねーちゃんとかーちゃんとばーちゃんに隠していたエロ本見つかって、それが目の前で公開された時くらいだ……」

「それは酷いな。 何も焼かなくても良いだろうに」

慰めの言葉を聞いた瞬間、チャーリーのひがみが爆発した。男の嫉妬は醜いのである。

「どうせお前は! 女に不自由した事なんて! 一度も無い癖に! 大事な秘蔵のエロ本焼かれた俺の悲しみを分かるはずが無いだろうが!」

「俺の経歴を忘れたのか。 俺の通った高等学院は男子校だったんだ」

よくある事なので、ギーは友達を落ち着かせようとしたが、

「それが何だ! どうせ学外じゃ、ずっと、ずううううううううううううううーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと女を食い散らかしてきた癖に! お前の女癖の悪さをマスメディアにチクってやる!」

けれど、ギーは軽く鼻で笑った。何故なら、

「ありがたい事だ、俺は最近どうも女に飽きてきた」

からである。

「………………………………………………死ねバーカ」

事実上のチャーリーの敗北宣言であった。


 土砂降りの雨が、クレル橋のたもとに停車している高級車に降り注いでいる。高級も高級、大金持ちしか乗り回せない重力車グラヴィティ・カーであった。

クリスタニアンでは、本日、大雨警報が出されていて、出歩く人や車もほとんど無い。たまに、ずぶ濡れの車がライトを光らせて通り過ぎるくらいであった。運河は濁った水を激しくうねらせている。かかっている橋が押し流されそうであった。

「いつになったら止むんだろうな」重力車の助手席で、チャーリーはつぶやいた。「何か、こう言う天気、俺はあんまり好きじゃないよ。 雨上がりの虹は好きだけれどさ」

「必要悪だ」ギーは運転席で神経質にハンドルをタオルで拭いている。彼は、車と女に対してだけは異常性と偏執性を見せるのだった。「雨は必要悪だ。 誰からも好まれないが、降らなければ災いになる。 虹だって雨が降らなければ出てこないんだ」

「だよなー」チャーリーはフロントガラスを乱打する雨粒を見た。そして、ふとつぶやいた。「戦争もそうなのかな。 この世界を維持していくには、欠かせないもの、なのかな……?」

「それは違う」とギーは断言した。「それは他の方法を模索する事を諦めた連中が仕方なく取る手段だ。 現に今のクリスタニア王国は戦争行為をしていない。 それは他の方法でこの国を維持していく事を発見したからだ。 ……常勝する秘訣は何だと思う?」

「強い事?」

「違う。 戦わない事、だ。 オリエル元帥の信念だ」

「へへー」チャーリーは素直に感心している。オリエル元帥とは、一二勇将の一員で、恐らく世界最強の軍人であった。何せ、何度も戦争を指揮させても負けた事が無いのである。「そうか、戦わなかったら勝ち負けも何も無いもんなー」

「そうだ。 手段を問え。 価値を反転させろ。 当たり前の事を当たり前と思うな。 逆光の視点を持て。 それでやっと、疑うと言う事が俺達に可能になる。 それが、それこそが人間の持つ最小にして最大の力だ」

「ふむふむ。 言われてみればそうだよな、確かにそうだ。 人間は不完全だけれど、同時に偉大な生き物だ。 それは、自由に思考する力を持ったから、なんだよな」

「俺はそうだと思っている」

「でもさ」とチャーリーは一度区切ってから言った。「そうじゃない人間って、どうなのかな……?」

「馬鹿みたいに幸せだろうよ」とギーはハンドルを拭く手を止めて言う。「何の疑いも無く神や組織を信じ込んで、そう言うものに裏切られる事などありはしないと思っている。 さぞや幸せだろう」

「聖教機構の幹部なんて、正にそれだろうなあ」チャーリーは言った。


 ――この世界には四つの巨大勢力が存在し、それらの均衡パワーバランスの元、現在の世界秩序は保たれている。

 一つ目、聖教機構。魔族を人間が支配する世界組織であり、『神』を御旗に掲げては万魔殿と激突している。

 二つ目、万魔殿。こちらは初期から魔族が人間を支配する体制を確立させて、体制が真逆の聖教機構ともはや数百年の間戦争を続けている。

 三つ目、『帝国セントラル』。魔族が人間を支配する所までは万魔殿と同じだが、政治的には己の支配している巨大な大陸の中に鎖国気味であり、聖教機構と万魔殿の争いには基本的には関与しようとしない。だがその軍事力も経済力も、恐らくは世界一である。

 四つ目、クリスタニア王国。元々は聖教機構の支配下にある列強諸国の一国に過ぎなかったが、この数十年で聖教機構も万魔殿も退けて、列強諸国に君臨する一大新興勢力となった。その発展を支え、主導してきたのが『一二勇将』と言う英雄達である。


 「いや、連中は意外と神に対しては疑い深いぞ」とギーは言った。「自分達が神の名を借りてどんな『罪深い事』をしてきたのか、していたのか、知っているからな。 むしろ幹部直属の特務員辺りが危険だ。 狂信者がいるそうだから」

「特務員ってあの、超エリートの……ああ、確かにそうかもなあ」

特務員とは、聖教機構の上級構成員であった。魔族や人間の中でも特に優れた者のみがなれる。

「さてと」とギーは天気予報を流すカー・ラジオも磨いていたが、「そろそろ、だな」と言った。

『……増水……河川の近くには…………夕方には……霧が……恐れ……視界不良…………』ラジオは切れ切れに鳴っている。

穏やかな暗闇が足音を立てずに忍び寄ってきた。

雨に激しさが無くなり、代わりに緩やかに夕霧が辺りに立ち込める。

「ん?」チャーリーが目を凝らす、その視線の先には雨上がりの夕暮れにしては、どす黒い闇が丸く浮かんでいた。それも車道のど真ん中で、まるでそこにブラックホールが開いたかのように。「あれか?」

「だろうな」とギーは頷き、彼らは車から降りた。

「何だこれ」チャーリーは拳銃を取り出し、その丸い暗黒に試しに銃弾を撃ち込んでみた。だが、反応は無い。「……生き物、じゃないな、これは……」

「ああ。 さて、行くぞ」とギーは言い、彼らは念のために手錠で互いの手を繋いで、闇の中に飛び込んだ。


 それは、クリスタニア王国が世界勢力となるために犠牲にした者の断末魔


 「どこだここ」チャーリーは目を丸くする。「戦火でもあったのか?」

彼らは、黒くくすぶっている市街の焼け跡の中にいた。まるでそこに転送テレポートされたかのようだった。

「ここは……クリスタニアン旧市街だ」ギーは手錠を外して、言った。「あの塔は、クリスタニアン大聖堂の鐘楼だ。 見覚えがあるだろう、お前も」

「旧市街がどうして燃え果てた後の跡になっているんだ?」

「……数十年前のアルビオン軍によるクリスタニアン侵攻……」ギーは何かを考えつつ言う。「その時、オリエル大佐が取った迎撃手段が、クリスタニアンの市街地ごと、誘引したアルビオン軍を焼き殺し、その残党にオリエル大佐率いる本隊が突撃して蹴散らすと言うものだった……その時以外に旧市街がこうなったと言う話を俺は聞いた事が無い」

「え」チャーリーは目を丸くして、「じゃ、じゃあここは……!?」

「当時のクリスタニアンの世界、もしくはそれを模倣して作られた仮想世界、だな」

「誰が何の目的で作ったんだよ……」

「それを調べるために俺達はここに来たんだ」

ギーがそう言った時、絶叫が聞こえた。それは聞いただけで身の毛がよだつような、断末魔の叫びであった。

まるで生きたまま焼かれているような、まさに阿鼻叫喚の。

「「………………」」

二人は同時に目配せをして、歩き出した。


 かつて、このクリスタニア王国は滅亡の危機に陥った。先王からの対外戦争にことごとく敗北し、ついに首都クリスタニアンまで、当時、列強諸国内では最強と呼ばれていたアルビオン王国軍が、圧倒的な大軍で攻め上って来たのだ。

だが一人の戦争の天才により、アルビオン軍は未曾有の大打撃を受けて撤退する。彼の名前をオリエルと言う。当時の階級は大佐であった。何の事は無い、一時交戦したものの、敗退したふりをしてクリスタニアン市街地にアルビオン軍をあえて招き入れ、なれぬ道に進撃が遅くなったところを、地の利があるクリスタニア軍に命令し、市街地を火の海に変えてアルビオン軍を蒸し焼きにしたのである。既に市街地の住民は逃げていた。こうなると兵数の大小は関係ない。そこにオリエル大佐率いる本隊が突っ込んできて、パニックに陥ったアルビオン軍は逆に大軍だった事が災いし、命令系統はずたずたになり、甚大な被害を出して撤退するしか無かった。

「うわあ……」チャーリーは心底怯えた様子で言う。「これは……」

その戦場地獄の真っさなかを、彼らは鐘楼から見下ろしていた。

「あの人らしいな」とギーはこの戦場地獄を見ても、割と平気そうな顔をしていた。「敵にも味方にも容赦が無いんだ」

「味方にも?」チャーリーは不思議そうな顔をする。

「あの人は軍規違反者は例外なくその場で処刑している。 軍規を守らぬ兵士はただのテロリストだと信じているからな。 俺も、軍役の時も、相当酷くしごかれた」

「おい、『軍役の時も』って、お前、いつもは何をされていたんだ」

「例えば俺が反抗期になった時の話だ。 何の連絡も無く夜中の一二時過ぎまで遊んでいて家に戻らなかったら、翌朝何をされたと思う?」

「そりゃーお前」チャーリーは真顔で、「生意気なクソガキにはげん骨の一発や二発……たたき上げの軍人だったらお見舞いしてやっても変じゃあないってものだぜ?」

「甘いな」ギーは言ってから、うつむいて、「いきなり下着ごとズボンを下ろされて、あの馬鹿デカい声でこう言われた、『もう大人だと粋がって生意気な面をしているが、こっちはまだまだ子供だな!』」

「……」チャーリーは目が点になっている。

やや感傷気味にギーは、「あの瞬間に俺の全反抗期は終わった」と、首を左右に振った。

「そりゃ……終わるわ……俺でも……終わる……うわ……お前……ごめん……凄く可哀想だったな……」

友人のあまりのショッキングな過去に、チャーリーは口ごもりつつ言った。

「慰めるな。 余計に惨めになる。 それで、だ」ギーは目下の光景をもう一度観察してから、「どうやら俺達に気付いた様子だぞ」と目線を上に向けた。

その視線の先には、天使がいた。黄金の翼を背中に生やした、神々しい青年の天使がいた。

天使は口を重々しく開く――、

「貴様らは神を崇め信じる者か?」

「そりゃーモチロン信じていますよ」チャーリーは愛想よく答えた。「ところで天使様、貴方は一体……?」

中々良い役者じゃないか。ギーは内心で嬉々とした。

「俺は大天使ミカエルだ。 天国の番人にして、今は地獄の門番をも務めている」

「それはそれはお疲れ様です。 あのう、すみませんが、この光景は一体……?」

そうだ、もっとやれ。媚びておもねってごまをすって、相手を調子に乗せるのだ。土下座して這いつくばって靴の裏まで舐めつくせ。だがその懐には拳銃を。

「俺は地獄の門番を務めているとは言ったが、俺は何よりもまず神の下僕であり、天国の番人である。 だから天国を守るために、時々地獄の門が口を開くのを止められんのだ。 溢れだした地獄が地上を時々浸食する、それがこの現象だ」

「ひえー」チャーリーは目をパチパチとさせて、「怖いですねえ。 でもそれが何でこのクリスタニアンで起きているんでしょうか?」

良いぞ、もっとだ!ギーはこっそりとご機嫌である。

「地獄の亡者共の怨念の矛先、とでも言えば簡単だな」大天使もチャーリーが従順な上に敬服している(ふりをしている)のでご機嫌である。「この国は急速に成長し、だがその代償に多大な犠牲を払ってきた。 だから、犠牲者から恨まれるのも仕方が無い、と言うべきだろう」

「ははー、そりゃそうですね……。 あのう、大天使様、どうすれば俺達はこの恐ろしい地獄の穴から逃げられますか……?」

もっとだ、もっと。やれやれやれやれ、もっとやってしまえ。

ミカエルは笑みを浮かべて、

「俺を呼ぶか、あるいは亡者の怨念をどうにかすれば良い。 人間の非力な身の上でどうにか出来るのならばな。 第一俺を呼んだ方がお前の信仰心もいや増すと言うものだ。 それに、長居をした人間は地獄の瘴気にむしばまれて中毒死してしまう。 俺を呼べ、唯一絶対の神を褒めたたえて、な!」

「は、はい大天使様! ……でも、おっしゃっている事からうかがうに、このクリスタニアンで起きている地獄の穴事件、ずーっと続くんですか? それじゃ俺、安心して神様にお祈りする事さえ出来なくなります!」

そうだそれも言ってしまえ。おだてられて調子に乗る方が悪い。

「安心しろ、何故クリスタニアンで今、地獄の門が開き亡者があふれ出したか、それはな」大天使は心底憎そうな顔をして、「『魔王サタン』の所為だ」

「魔王!? だ、大天使様、冗談じゃない、助けて下さい! 魔王は何を目論んでいるんですか!?」

見直したぞ、チャーリー。お前にも政治家の素質がある。ギーは心の中で、突き上げた両手の拳を握る。そうだ!踊れ踊れ、舞台の上で。観客の目はそこに釘付けになるが、舞台裏ではもう準備が出来ている。

「今はヤツは何も目論んではいないが……ヤツの強大な存在性……まあ、力の強大さとでも言えば良いのか……それがわずかに世界の歪曲を招いている。 魔王は今クリスタニアンに滞在し、その歪曲に地獄の門が惹かれて、クリスタニアンで今このような地獄の穴の事件が頻発しているのだ」

チャーリーはいよいよ這いつくばり、何度も何度も大天使を仰ぎ見てはぺこぺこと頭を下げる。

「なるほど……流石は大天使様だ、本当に良くご存じで……ところで、どうやったら魔王をクリスタニアから地獄の底へ叩き戻せるんでしょうか? 何度も大天使様をお呼びしたら、流石に本来のお仕事に差し障りもあるでしょうし……」

「……ヤツを殺す方法は、現時点では存在していない」

大天使が急に不機嫌になるのを感じたギーは、自分も膝を折って座り込みながら、

「何と言う! 大天使様ですら魔王には手を焼くのですか!? でしたら非力な我々の身では、敵うはずがどこにも無い……!」

思いっきり衝撃を受けた人間のように、そう叫んだ。

「お助け下さいまし大天使様! どうか我々をお救い下さい!」

「貴方様のご加護におすがりするしか我々にはもう――!」

「魔王をどうかクリスタニア王国から追い出して下さい! お願いします、お願い申し上げます!」

演技派二人の迫真の陳情演技に、

「そうか……」大天使の顔に、再び、笑みが浮かぶ。「ヤツを追い払う事くらいならば俺でも出来る。 俺や我らが唯一絶対神を崇め奉るお前達を、救ってやろう」

やった。チャーリー達は内心で互いに親指を突き出した拳を握り交わした。馬鹿と何とやらは使いようだ。嘘八百を並べ立てただけで、クリスタニアンに平和が戻る。何とまあ、崇高な嘘八百だろうか。

 

 ――その時、だった。


 「ミッキー、お前って頭がクルクルクルクルイカレポンチになったのか、うん?」

ぽっ、とまるで黒い雨粒が降るように、幼女が上空から出てきた。まるで暗闇の様な黒い髪をしていて、夜のしずくが凝集したような黒い目をしていた。背中にはためくは、六対の漆黒翼。

「世界がひっくり返ろうと、滅亡しようと、お前が俺に勝てる訳が無いじゃん、馬鹿じゃねえの?」

「貴様ァ! 魔王!」

ミカエルが怯えた顔をする。

おい大天使が怯えているぞ、とチャーリーとギーは顔を見合わせた。

(ギー、どーする?)

(しばらくは成り行きを見守ろう)

「我らが唯一絶対神に反逆し弑逆したこの裏切り者が! 何故ここに!?」

「地獄に戻ると俺はちょっぴり退屈するんだ。 ここが地獄か、これ以上酷い光景はもう世界中のどこにも無いのか、そう思ってな。 地獄の中で俺は眠る。 阿鼻叫喚は子守唄、地獄は俺の揺籃ゆりかごだ。 大体ミッキー、お前こそどうしてここに……ああそうか、ウリ坊が馬鹿やらかして死んじゃったからお前が地獄の門番の代役なのか。 ご苦労、ミッキー。 ぶち殺されたかったらずっとそこにいるんだな」

「く、クソ、クソッ! 魔王、その目で見ていろ、最後の審判を! 正義が勝ち、悪が滅ぶ、その日を! その時を!」

ミカエルは捨て台詞を吐くと、飛んで逃げて行ってしまった。

「……アイツって何気に逃げ足は俊足だなあ……」と幼女はしみじみと呟いた。

そこで幼女はギー達を何気なく見て、「おい人間共……うわ! いやはや物凄いイケメンがいるなあ。 俺は数千年は軽く生きているがここまでのイケメンは初めて見た」と驚いた顔をした。

「俺!? 俺俺!? 俺の事!?」

馬鹿のチャーリーが有頂天になった瞬間、

「お前ってさ、自分の顔を鏡で見た事が無いのか? 顔だけじゃなくて頭まで可哀想なヤツだな……」

精神的致命傷を与えられた。傍らのギーの方が驚くほど致命傷であった。

「おいしっかりしろ、泣くな、泣くな! 体を丸めてまで泣くんじゃない! 落ち込むな! しっかりしろ!」と思わず全力で励ますくらいだった。

「……死にたいシクシク死にたいシクシク……俺生きていても意味無いじゃんシクシク……」

励まされても致命傷はどうにもならない。

「おいそこのイケメン人間」チャーリーの受けた致命傷などどうでも良いとばかりに、幼女は言う。「名前は何だ? 俺は魔王だ」

「ギーだ。 ギー・ド・クロワズノワ」

「ああ、なるほど、お前が噂のギー様か。 うわー、噂以上にイケメンじゃん。 こりゃあ股の間をぐしょぐしょにする女が続出するのも分かるなあ、無理も無い。 数千年生きているこの俺がびっくりするくらいのイケメンだ」

しかしギーは自分がイケメンと呼ばれるのに完全に慣れてしまっていたので、何とも思わなかった。彼にとってはイケメンと言う言葉の類は全て自分の名字みたいなものなのである。

「魔王……と言ったな。 どうしてクリスタニアンにいる?」

「何となく」と幼女は答える。「あえて言うなら運命に導かれて……だな」

「だったら即刻出て行ってくれないか。 これ以上魔界化の犠牲者が増えて欲しくないんだ」

「やだ」と魔王はあっさりと断った。「『愛』が見つかったら出て行ってやるが、見つからなければずっと俺はここにいる」

ギーは真面目な顔をして、考え込んだ。

「……すまない、俺は生憎幼女には……流石に……いや……でも不可能では……」

奇声をあげてチャーリーが、そう言いかけたギーに殴りかかった。

「お前は! お前は! 幼女も射程に入れるつもりなのか!? ふざけんな女に飽きたからって!!!! 殺す殺す殺す! 今度こそ殺す!」

「おいチャーリー、お前は魔界化の被害者がこれ以上出て欲しいのか? 俺には不可能じゃないんだ。 俺に何とか出来る事なら俺は何だってやるぞ」

「そう言う問題じゃねええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!」

「……お前ら、何か勘違いしているようだが、俺は雌でも雄でもなく人間ですら無い」魔王は呆れた顔をして、「幼女の姿をしているのだって、単に面倒臭えからだよ。 俺の本性は化物モンスターだ。 美女の姿をしていようが色男の格好をしていようが、俺は化物だ。 つーか、そっちの方の愛なら数千年前に追求しまくった。 俺が知りたいのはエロス性愛でもフィリア親愛でもなくてアガペー神愛だ。 己の頬をぶった連中に反対側の頬を差し出すキチガイの愛だ。 俺にはこれが全然分からん。 おい、お前らは知っているか?」

「それはただの選民思想の一種だと俺は思う」ギーはきっぱりと言う。「頬をぶった相手を自分より精神的に見下さなければそう言う行動は取れない。 キチガイとお前は言ったが正にそれだ。 コイツは可哀想だ、と相手を思わなければそれは出てこない反応だ。 殴り返してこそ相手を対等な関係だと認める。 ぶたれてもなお頬を差し出す自分は偉い、素晴らしい、常人には到底出来ない事をやった、だから神様はこんな自分を天国に連れて行って下さる。 ……だから少なくとも俺は選民思想の一種だと思っている。 俺の理解が及ばないと言うより、俺はそんなものの理解をしたくない」

「うん、確かに気持ち悪いよな。 拳で殴りあってこそ男ってものだ」チャーリーも賛同する。「だから俺にも分からん」

魔王はため息をついた、「……お前らさー、数千年に及ぶ俺の悩みを理解したくないだの分からんだの、ボロクソに言うな。 酷い連中だ。 悪魔かよ。 いや、悪魔にだってもう少し情け容赦があるぜ?」

「魔王がクリスタニアンから出て行くか、死人を出さないようにしてくれれば、俺だってもう少しはまともにアガペーとやらを考察しよう」

ギーが言ってみた。勿論、彼の本音は『この事件を早々に解決したいんだ』、である。

「ああ、要は地獄の穴を開けなきゃ良いんだろう?」魔王は言って、次の瞬間、黒い子ヤギに変身した。『ほれ。 これで地獄への穴は開かなくなるぜ。 あれは俺の本来の姿、まあさっきの「第一次統合体」に過剰反応しちまうからなあ』

「どうして?」とチャーリーが訊ねると、

『だって地獄を創造したのは俺だからな』と魔王は言った。『唯一神の命令でえっさほいさと作ったんだ。 だから創造主である俺の本体に地獄は過剰反応する。 俺の感情の起伏と俺の姿なんぞに右往左往されて口を開ける。 にしても』魔王は地獄の光景を見て、『正にこれは地獄に相応しい有様だなあ。 生きたまま焼き殺される人間共、か。 中々素敵じゃねえか。 ……クリスタニアンに攻め込んだアルビオンの連中、余裕ぶっこいて寡勢に多勢で襲いかかったのに、逆転されちまったからなあ。 そりゃあまあ恨みもするってものさ。 いやはやオリエルって男の面を一度見てみたいぜ。 さぞや冷血漢なんだろうなあ』

「いやいや、あの人はむしろ熱血漢だぞ」とギーが即座に訂正した。「一月に三回は最低でもユースタスさんと殴り合いの喧嘩をするくらいだ」

『うん? ユースタスって言うと、「金融王」か。 何でだ?』

二人とも一二勇将の一員である。だが事情をそこまで詳しく知らなかった魔王には、仲間同士で何で殴り合いになるのか理由が皆目見当が付かないのだった。

「借金問題だ。 オリエルさんの頭には経済観念が無いからな……既に自己破産もしているし……」

「えっ」チャーリーが目を丸くして、「金遣いが荒いのか!?」

ギーは少し考えてから、

「正確には『金を使った後の事を考えた事が無い』だな。 兵士に平気で大金を渡す癖がある。 戦費を計算するのをとても嫌がる。 軍事費をもっと寄こせと毎年のように一二勇将の中で内紛を起こす。 あれは酷いぞ、椅子は飛ぶ、円卓はひっくり返る、怒鳴り合いの大喧嘩、大体最後は殴り合いに発展する。 あの人は自分でもそれを分かっていて、『ワシには政治家は向かん』と言っているが……」

「それ、政治家うんぬん以前に人間としてどうかと思うんだけど」

チャーリーが思わず突っ込んだ。

「今更言うな。 周知の事だ」ギーは嘆息した。

『……やっぱり人間は人間臭くて面白いな』と魔王はにやっと笑う。『ところで、不細工君』と言った瞬間、魔王はギーに全力で蹴られた。

『何しやがるテメエ!』と魔王が怒った時、

「それはこっちの台詞だ!」魔王よりも遥かに激怒しているギーが、ナメクジに塩をかけたよりもいじけているチャーリーを指差して、「これの責任をどう取ってくれるんだ!」

「……良いんだ」チャーリーはこれから死刑台に上らされる死刑囚の様であった。「俺はどうせ女にモテない不細工だから、事実なんだ……」

『あー……』魔王はちょっときまりが悪そうな顔をする。『美人な悪魔を紹介してやろうか?』

「良いです別にどうせ俺はどうしようもない不細工ですから」

『落ち込むな。 たまたま隣の男がイケメンすぎるから比較して不細工と言ったのであって……』

「シクシクシクシクシクシクシクシク」チャーリーはさめざめと泣いている。

『……いや、うん、悪かった』

魔王がついに謝ったが、舌禍ほど取り戻しの付かないものは無い。

「シクシクシクシクシクシクシクシク」チャーリーは惨めさを涙に表わしている。

『…………………………おいイケメン君、俺はどうすれば良いんだ?』

困り果てた魔王がギーを見上げた。

魔王は完全にお手上げであった。しかしギーだってそれは同じなのだ。

「俺に聞くな。 俺にも分からないんだ。 なあチャーリー、落ち着け、お前は確かに俺よりも不細工だが性格は俺より良いじゃないか」

思わず、魔王の方が目を逸らし顔を背けて、

『うっわー俺久しぶりに見た、見たくなかったけど見ちゃったぜ、人の傷口に硫酸ぶちまけるヤツ……』

「シクシクシクシクシクシクシクシクどうせ俺はどうせ俺はシクシクシクシクシクシクシクシクどうせ俺は性格云々じゃないと駄目なんだよ」

効果はてきめんを通り越して致命的であった。

「心配するな、性格が命だと人は年老いて手遅れになってから気付く」

凄まじい一撃をチャーリーに与えた。反射的に自殺を志願させたのである。

「シクシクシクシクシクシクシクシク俺ももう手遅れシクシクシクシクシクシクシクシク死にたい死にたいそれかイケメンになりたい」

「整形手術を受けるか? 名医を紹介できる」

いっそ殺してくれとチャーリーはついに思った。見事に生殺しであった。もう彼は本気で自殺を考えていた。

『人の傷口に硫酸ぶちまけた後にぐしゃぐしゃに踏みにじるヤツも久しぶりに見たぜ……』あまりの苛烈な攻撃の有り様に、魔王の方が思わずそう呟いた。

「シクシクシクシクシクシクシクシクどうせ俺は整形でもしないと駄目な顔をしているんですよシクシクシクシクシクシクシクシク」

「落ち着け、」とギーが何ら悪意なく、泣きじゃくるチャーリーにとどめを刺そうとした時だった。「……う、ぐ!?」

急に呼吸が苦しくなり、彼は両手を地につけた。

「ど、どうしたギー!?」泣いていたチャーリーが我に返る。

「い、息が……!」

『ああ、そろそろ地獄の瘴気がむしばみ始めたか』魔王があっさりと告げる。『そろそろここから脱出しないと中毒でお前ら死ぬぞ?』

「脱出……経路は……魔王なら知っているのだろう?」ギーが訊ねると、

『何で俺がここから出してやるみたいな話になっているんだ。 何、簡単だ、目の前の地獄の亡者達を全滅させれば自動的にこの地獄は消失する。 じゃ、頑張れよ。 俺はお前らが生き残るにふさわしいか上から見ている』

そう言って黒ヤギは地獄の空へと昇って行った。

「あー……」チャーリーは拳銃を右手に、そして左手にはどこから取り出したのか、とても巨大な、とても『人間』では扱えないほどの大剣を握っている。「んじゃ、やるか。 ちょっと我慢していろよ、ギー?」

「……ああ」とギーは頷いた。そして激しくせき込んだ。


 熱い。

 熱い。

 熱い。熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いあついィいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!


 亡者の絶叫が聞く者の鼓膜を殴る。


 何でこんな事に。

 たった一万のクリスタニアン守備兵に、その十倍の兵力で襲いかかったのに。

 誰もが勝てると思っていた戦だったのに。

 何でこんな事になっているんだ!

 大混乱。

 まるで地獄が口を開けたような光景。

 死んでいく戦友、言う事を聞かない体、銃弾ではどうにもならない炎。

 まるで死神が大喜びしそうな有様。

 助けて、助けて、助けて、助けてェええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!

 息が出来ない。

 苦しい。

 あつい。

 めが、めがみえない。

 くるしい、けむりが、のどのおくまで、ああ。

 通信端末が撤退だと叫んでいる。

 だがどうやったらこの炎の中を、この大混乱の中を撤退できるのだ。

 おうちにかえりたい。

 むすめ、つま、おふくろ、おやじ、

 おれがかえるとかならずかえるとしんじているかぞくに、

 あいたい、かえりたい、くるしい、たすけて。

 通信端末が何か叫んでいる。

 てきほんたいがつっこんできた!?

 銃弾が降り注ぐ、砲弾が降り注ぐ、

 まるで雨の様だ、

 死の雨。

 死、の。


 「うーん」とチャーリー・レインズは呟いた。「俺こう言うの好きじゃないんだよなー、どうやっても好きになれない」

彼の持つ大剣により両断された戦車が、爆発する。既に十八回目の爆発であった。亡者の波は、だが、全く尽きる様子を見せていない。

 てきだ。

 てきだ、あれをころせば、

 おれたちは、たすかる。

 あるびおんに、かえれる!

亡者達に共通意志があるかのようにチャーリー・レインズを包囲した。そして、雪崩のように一斉に襲いかかる。

「……」チャーリーは亡者の津波が己に襲いかかってくる、と言うのに、剣も拳銃も手放した。そしてやや悲しそうな顔をして、「来いよ。 終わらせてやる」

『?』上空で見ていた魔王の方が、妙な顔をした。『あの比較的不細工君、自殺したいのか? うわー、俺やイケメン君が、そこまで追いつめすぎたか。 いくら何でも気の毒な……』

魔王は目を覆って、三秒後、ゆっくりと手を離した。


 魔王が目を見開く。


 あれほどいた亡者が、完全に消え失せていたのだ。

『まさか』と魔王が言いかけた時、地獄が終わった。


 『私に触れるのは止しなさいノリ・メ・タンゲレ。 まだ父の御元へ上っていないのだから』


 なるほどなあと魔王は思う。我に触れる事なかれノリ・メ・タンゲレ、そう言う事だったのか、と。黒い子ヤギの姿の魔王は、爆睡しているチャーリー・レインズを車に乗せようと苦闘しているギーを見つめて、言った。

『ソイツ魔族だな? それもかなりの上位種だ。 もしくは突然変異系。 大昔だったら魔神扱いだったろうな。 どうしてそんな稀有な存在が人間の国クリスタニアにいる?』

「コイツは戦争が嫌いなんだ」最終的には尻を蹴り込んでチャーリー・レインズを車内に入れたギーは、言った。

『それだけの能力を持ちながら?』

「だからこそさ」

『ふーん……そう言う事もあるのか』

実に自然な動作でチャーリー・レインズの後に続いてギーの車に乗り込もうとした魔王は、また足蹴にされて吹っ飛んだ。

『何をしやがるこのクソ野郎!?』

「誰がこの車に薄汚い獣を乗せるか馬鹿」

冷たい発言と見下すような視線に、当然ながら魔王は激高した。

『薄汚い獣だと!? 俺が魔王だと知っての事だろうな、ああ!?』

「魔王だろうがクリスタニア国王だろうが一二勇将だろうが俺の許可なしに俺の車には乗せん!」

『テメエぶっ殺す!』

魔王が殺意を固めた瞬間だった。

「こんにゃちはパスタさん……トマトさん、ボンジュール……」チャーリーが寝言を言いつつ、よだれを、だらーりと車の座席に垂らしたのは。

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」ギーはヒステリックに絶叫して、チャーリー・レインズを車から引きずりおろし、彼が魔王にぶつかって魔王を下敷きにしたのも見ようとはせず、「俺の車ー!!!!!!!!! 畜生すぐに帰って洗わなければ!」

『え、おい、ちょっと』

いきなりすぎて固まっている魔王とチャーリー・レインズを置き去りにして、彼は車ごと猛スピードで行ってしまった。

『……』魔王はしばし唖然としていたが、己を枕にして熟睡しているチャーリー・レインズを見て、『おい、起きろよ、おい!』


 ……しかし、チャーリーが目覚めたのは、それから六時間後であった。


「あ、おはようございます」

『御託は良いからさっさと退け馬鹿野郎!』魔王は喚いた。

「あれ今って真夜中!? こんばんはですー」

『そう言う問題じゃねえよこのタコ! 良いから退け、俺の上から退け!!!!』

「??? あ、すんません枕にしちゃって……」

『世界広しと言えど俺を枕に六時間爆睡したのはお前だけだ』

「うわー褒められた、やった!」

『……』魔王は沈黙させられた。その原因に全く気付かずにチャーリーは、

「ところでギーは? 何で俺達だけここに置いてけぼりな訳?」

魔王は事情を話した。するとチャーリーは、

「ああ、アイツありえんくらいの車キチガイだから。 最悪、子供に車に触られただけで逆上するんだよ。 『指紋があああああ手垢がああああ!!!!!』ってこの前吼えていた。 そうかー、俺よだれを……そりゃ置き去りにもしたくなるわ。 しょうがない」

『……お前、良くもまああれを「しょうがない」の一言で片づけられるな……』

「他はまともなんだアイツ。 女と車に関してだけキチガイになるんだよ。 慣れだよ慣れ、要は慣れさ」

慣れたって耐えられる事では無いだろうと魔王は思った。だが、この二人は、その辺の折り合いがちゃんと付いているらしい。ある意味すげえな、と魔王は思った。

『…………………………。 お前、そういや何の夢を見ていたんだ?』

「トマトパスタの夢だったかなあ。 美味かった事だけ覚えている。 とにかく腹減った。 あー、腹減ったー」

六時間もぐうぐう寝れば、それは減りもするであろう。

『……お前らは大物だな……』魔王は少し考えて、『どうせ俺は死ねないんだし、飽きるまでお前らを観察するとしようか』

「観察日記付けるの? アサガオのヤツみたいに? 俺三日で枯らしちゃったんだよなー。 それでねーちゃんに殴られたのが今でも痛い……」

魔王はこっそりと呟いた。

『…………………………大物だぜ、間違いねえ』


 『ようイケメン君』と魔王は黒い子ヤギの姿で出現する。『すっげーイケメンだけあって女には事欠かないなあ』

「当然だ」とベッドの中、上半身裸で、枕元には美酒、朝の涼やかな空気に流れる小鳥のさえずり、隣には眠る美女がいると言う男の贅沢の極みにいるような有様のギーは平然と言った。「何なら三人で楽しむか?」

『……何が悲しくてお前と穴兄弟にならなきゃいけないんだ』

魔王はイラっとした。

「だがお前はずっと、それこそ事の始まりから見ていただろう? 相当餓えているんじゃないのか? 思春期の男のように」

『気付いていたのかよ』魔王は舌打ちして、『セックスにはもう飽きたんだよ。 そもそも俺が何歳だと思っているんだ。 俺はもう数千年は生きているんだ。 第一次統合体に俺がいる限り俺はもう犯りたいとも思わん。 何しろ上は淑女から下は売春婦まで寝まくったからな』

「淑女も売春婦もベッドの上ではほぼ同じだぞ」

『……お前、一々反論するな。 不愉快だ。 俺の爽やかな朝の気分を台無しにしやがって』魔王はイライラした。

「それはすまなかった」とギーはベッドから降りてシャワールームに行く。トコトコとその隣を歩きつつ、魔王は恨めしそうに、

『今まで一体何人の女と寝たんだ?』

「三ケタは余裕で突破するな。 すまない、正確な人数は覚えていないんだ」

『お前をホモの巣窟に置き去りにしたら、さ・ぞ・や!楽しいだろうなあ!』

「何故だ。 お前の女を俺が寝取った訳でもあるまいに」

『寝取ったらお前なんか虫けらみたいに殺してやれたのに。 つーか、お前、この魔王が出てきたと言うのに、そもそも初見でも大して動揺しなかったな。 何でだ?』

普通の人間ならば、魔王が出た、それだけで驚天動地するだろう。

だが、この男は『でも不可能では……』とまで考えたのだ。

「俺の家族みたいな人に悪魔がいるんだ。 悪魔の癖に涙もろくてついでに臆病ですぐに大小漏らす悪癖があるが良い人だ。 その人から俺もある程度は魔王だの神だのについて教えてもらった」そう言って、ギーはシャワーのスイッチをひねる。「だからだ」

『ああ、悪魔のマルバスか』と魔王は納得した。『つーかアイツ未だに事あるごとに体液を漏らす癖が治っていないのか……可哀想だな……』

温かいシャワーを浴びつつギーは、

「癖がどうにもならなかったから、あの人は仕方なく下半身の着替えを沢山持ち歩いている。 でも良い人だ。 あの人が悪魔で無かったら、俺は悪魔に対してお定まりの偏見を抱いているだろう」

『ふーん。 ところでろくにモテないお前の友達はどうなんだ? アイツも大天使だの色々超常的なものに出会った癖に、別に驚きもしなかった。 どうしてだ?』

「アイツの生育環境にも悪魔がいたらしい。 詳しくは俺も知らんがな」

『ふーん……悪魔が知り合いの男が二人、か。 コイツは中々凄いな』

「凄いのか?」

ギーは、悪魔と知り合いだと言うのは、確かに珍しいは珍しいが『完全に不可能』の部類では無いと思っていた。

『悪魔との契約者が二人もお前らの近くにいると言う事だ。 これは凄いと言っても過言じゃない。 悪魔との契約者の中にはたまに凄いのがいるんだ。 大天使とその下僕をもぶち殺した魔女とかな』

「そうか」とギーは適当に相づちを打ってから、「大天使については色々聞いている。 天使なのは見てくれだけで、中身は悪魔よりも恐ろしいそうじゃないか。 実際そうなのか?」

『まあなー、唯一神のためならばこの世界をも嬉々として滅ぼすのが連中だからな。 素敵だぜ、聖典に出てくる一夜で滅んだ都市ソドムとゴモラは知っているか? あれもオカマが唯一神の命令でやりやがったんだ』

「オカマ?」

『ああ、大天使ガブリエルさ。 俺はオカマって呼んでいる。 ヤツがただの一夜で滅ぼしたんだぜ』

「それは凄いな。 流石は大天使だ。 ところで」とギーは子ヤギを見て、不審そうに、「魔王が俺に何の用だ?」

『俺、暇だし、お前らを観察する事にしたんだ。 ペットだと思ってくれ。 可愛いだろう、ほれ、首の所にはベルも付けてやったんだ』

と子ヤギが喉元を見せれば、銀色の小さな鈴がちりんと付いている。

「へえ、ステーキにしたら美味そうだな」とギーはあっさりと言った。

魔王が後ずさった。『お前は屠殺屋か!?』

「おい屠殺屋を差別するな、彼らがいなかったら俺達は肉を喰えないんだ。 肉を喰わなくても生きてはいけるがな。 その人が何であるよりもその人が何をしてきたかで判断しろ」

『俺に説教ぶちかますな! そんな事は分かり切っている! 俺をペーペーの若造だとでも思っているのかよ!』

「なら良いんだ。 分かっているのなら別に良い」

『……』魔王は思った。コイツもやはり大物だな、と。そして妙に、不愉快になった。それは、この青年と魔王の精神的な上下関係に由来するものだった。

コイツに俺が、見下されていないか?

魔王はその体感を覆したかったが、何故か出来なかった。


 ちくちくちくちく。ちくちくちくちく。

チャーリーは無言でパンツに空いた穴を針と糸で塞いでいる。自分のパンツでは無い。モニカのものだ。

 「ちょっとこれ、直しておいて」

そう言ってモニカが彼に穴の開いたパンツを山ほど押し付けたのだ。

 『よう比較的不細工君、女のパンツの穴を修繕していて楽しいか?』

そこに魔王が登場した。チャーリーは黙々と縫っていたが、

「……あのさ、俺は変態じゃない訳だよ。 穴あきパンツを見てさ、『うげえ』とは思っても『わあい』とは思わない訳だよ。 だから、」

『女のヒモは悲しいなあ!』魔王が嬉しそうに遮った。『お前のお友達は夜を共にした雌の数が三ケタを余裕で突破したそうだ。 ちなみにお前は?』

「……見りゃ分かるだろ」チャーリーは、必死に自虐するしかなかった……。

『ぎゃはははははははは!』魔王はのた打ち回って笑っている。『モテない男は悲しいなあ! お手手が夜のお友達かい? 泣けるなこれは! 違う、笑いが止まらねー!!!!』

「……今の俺ならきっと動物虐待に走ったって情状酌量されるよな」

『ひー、ひー、ひー!』黒ヤギの魔王はまだ笑っている。『動物虐待も何も無い、殺す気だな、俺を笑い死にさせるつもりだな、こんなに笑えるのって久しぶりだぜ! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、不老不死の俺が笑いすぎで死ぬぅ!』

「……」もうチャーリーは何も考えない事にした。

すると魔王は面白くなくなったのか、

『そういや、お前魔族なんだろ? どうして魔族が人間の国クリスタニアにいるんだ? お前ほどの強大な力を持つ魔族が、何でクリスタニア王国で大人しく女のヒモなんぞやっているんだ? お前なら万魔殿でも「帝国」でも相当な地位に就けるだろうによ』

「……」

チャーリーは答えない。無表情でパンツをひたすら縫っている。

『秘密と言うヤツか』魔王はつまらなさそうに言った。だが、こう宣告した。『だがな、ありとあらゆる隠しておいた秘密は白日の下に引き出されて晒されるぜ、いつか、必ず、な』

「……」

『ところで』魔王は邪悪に笑って、『お前はあのおっかねえ煙草女の事が好きなのか?』

「……好きじゃないって言ったらどうする」チャーリーは無感情に言った。

『勿論犯らせてもらう。 ああ言う気が強いのが泣き叫ぶのが楽しいんだぜ』

と言った途端に、魔王はぴょんと飛びすさった。眼球に針が刺さろうとしたからである。チャーリーが刺そうとしたのだ。魔王はしたり顔で、

『好きなのか? 好きなんだな。 だったら素直に花束とケーキを買ってきて言えば良いじゃないか。 何をお前はうじうじとしているんだ』

「好きだと言ったら、負ける気がするんだよ」とチャーリーはぼそぼそと言う。「負けたら、俺は奴隷になってしまうような気がするんだ」

『おいおい、人間が楽園エデンを追放されてからと言うもの、とっくの昔から男は女の奴隷なんだぜ。 デートに連れて行け、指輪を買え、給料持って来い、家事をしろ、子供と遊べ、生命保険に入ってから死ね。 女ってのは世界一恐ろしい生き物だ。 優しい腕で男を抱きしめて耳元で囁くんだ、「私のために死んでちょうだい」ってな。 男がいくらあがこうが、無駄だ無駄だ、勝ったも負けたもあるか。 女は娘で妻で老婆、満ち欠けて移り変わりゆく月と同じだ。 月は男を狂わせる。 男は女の股から産まれたが最後、女の所為で死んでいくんだ。 もはや宿命だ、諦めちまえ』

「うん、諦めているけれど諦めきれない一線があるんだよ……」

『それを男の意地と言うんだろうな。 ま、精々気張れ、比較的不細工君』

「その比較的不細工君って言い方、止めてくんない?」

『じゃあお前、自分がギー並みのイケメンだって堂々と言えるのか?』

「……」とてもじゃないけれど、言えません。

その時、だった。魔王が急に姿を消した。同時に玄関のドアが開いて、誰かが乱暴に入ってくる音がした。

 「畜生が!」

モニカがイライラ全開でドアを蹴り開けたのだ。

チャーリーは怯えた様子で、

「な、何があったの……?」

「明日の朝刊を見な。 本当に腹が立つ、クソ野郎め……同性愛者の巣窟にぶち込んでケツ穴ガンガン掘らせたら被害者の痛みが分かるかっての」

何となくチャーリーでも察しがついた。性犯罪者が捕まったのだろう。

「同性愛者だってそんな犯罪者のケツ穴なんか掘りたくないさ。 良い迷惑さ。 お仕事お疲れ様でした」

「ああムカつく。 クソムカつく!」モニカは荒れている。「あんな腐れピ――なんざ焼いて切断して犬に食わせろ!」

けれどチャーリーはモニカの凶暴さにはもう慣れていたので、

「そんなばっちいものを食わされた犬が可哀想だよ。 シチューが出来ているから、とにかく食べようぜ」


 翌日の朝刊には、強姦殺人魔がやっと捕まったと言う記事が出ていた。

 チャーリーは食器を洗いつつ、爽やかな朝に何て憂鬱なニュースを新聞の第一面に載せるんだと思った。もっとも、そう思ったは思ったものの、彼は犯罪者を憎んでも新聞記者は憎んでいない。

モニカは朝の一服をしていたが、

「何で強姦魔っていつも男なのかしら」と吐き捨てた。

「……俺は心の中でしか姦淫した事が無いから分からない」

「下種野郎が」モニカに容赦と言う言葉は無い。

「そんな、そんな……おっぱいが大きくてナイスバディの美人なお姉さんを見たら、そりゃあ男は一斉に心の中の姦淫を始めるぜ」

以前ギーの前では『心の中の姦淫』を使って説教しようとしたのに、今度は言い訳に使っている。聖句はいつでも誰にでも利用されるのである。

「男なんて全員去勢すれば良いのに。 ってか、ちょん切りたい」

チャーリーは咄嗟に大事な所を両手でガードした。

「止めてくれ、それならいっそ普通に死刑にしてくれ! 女が子宮で考える生き物なら、男はピ――で行動しちゃう生き物なんだよ! エロ本がどうして需要があるかって話さ! 良いじゃん別に、思想犯は犯罪者じゃないだろう!?」

そう言った彼を、モニカがギロリと睨みつけて、

「じゃあアンタはその発言を被害者の前で堂々と言えるのね」

「……」言えないチャーリーは黙るしか無かった。

「ったく男なんて全員家畜になれば良いのに」

「……」滅茶苦茶だと思ったがチャーリーはまだ黙っている。皿を全て洗って、手をタオルでふく。朝食の片づけはこれでお終いだ。

「あーあ」モニカはさりげなく、けれど注意して言った。「アンタも家畜になる?」


 この瞬間、あの乾坤一擲のギャンブルが再び始まった。


 「良いよ、家畜になる」チャーリーはあっさりと言った。「家畜になったらモニカは俺の事を好きだって必ず言ってくれるから」

「……厚かましい家畜ね」モニカはしまったと思った。隙を、付け込まれた。「どうせ家畜なんだから、私の言う事を全部聞くのよ?」

「んー、OK」ひょうひょうと答えるチャーリー。「好きの反対は無関心、だろう?」

モニカはますます追いつめられる。焦った彼女は言った。

「家畜だから、私が死ねって言ったらアンタは死ぬのよ。 良い?」

チャーリーが焦るターンだった。焦った彼は、素早く思考して言う、

「……女って怖いなー。 そんなに俺の全生殺与奪を握りたい?」

モニカは考える、これはもう勝負なのか?と。この泥仕合、決着させるには、どうやら花を取るか実を取るか、今、ここで、彼女が選択しなければならないようだ。

「……」モニカは決めた。「女ほど支配欲の強い者はいないのよ」

「……そっか、分かった」

チャーリーは、そう答えた。


 『やるなあ、おい』とモニカが仕事に出かけてから、黒い子ヤギがまた出現して言った。『見ていてこっちが歯がゆくなってきたぜ、途中までは』

「出歯亀行為も止めてくんない? 覗かれるの俺はあんまり好きじゃない」

チャーリーは部屋の掃除をしている。彼は、褒め称えたくなるくらいに、掃除のプロであった。

『分かっているって、これ以上はもう覗かねえよ、女とアレする現場を覗くんだったらイケメン君の方が楽しいしなあ』

それはそうだな、とチャーリーも思った。

「女に関してはよりどりみどりだろ、アイツ」

『正にそれだ。 あれだけ女とやりまくっていて、子供出来ちゃったらどうするんだろうな、イケメン君』

魔王が、また失言をした。

「……」チャーリーが不自然に黙ったので、魔王は、はっとした。

『マジか。 うわー、ごめん、悪かった! イケメン君、そうなのか……』

「女孕ませるだけが男じゃないだろ」とチャーリーは窓を拭いている。「それにアイツは自分のやった事の責任くらい背負える男だよ」

『「美しきかな、友情」……だな。 ま、頑張れよ、お前ら』魔王は姿を消した。ふと思い出したかのように声だけが、『友情フィリア、か。 友情って何だ?』

「互いの踏み込まれたくない領域に土足で踏み込まない配慮と、他の連中にもそこに踏み込ませないよう努力する事、だよ」

『ふーん……』

気配が消えた。

 チャーリーは窓から街を見て、

「俺はこの平穏な暮らしが、安穏と続けば、それだけで充分なんだ……ギーと馬鹿やって、モニカのヒモやって、それで、俺はもう充分なんだ」

そう、つぶやいた。


【ACT二】クリスタニアンの画家


 トニー・エルフガンと言う男がいる。職業は画家である。若き天才画家としてもう十代の頃から有名であった。絵に命を宿している、とその作品を見た者は褒めたたえる。絵に命を与えている、と噂し合う。美大に入学した事もあるのだが、教授陣が彼の絵を見た直後に次々と辞表を出したと言う伝説があるほど、彼の絵は素晴らしかった。クリスタニア国王が特に彼の絵を愛好しており、そのために彼の絵を所有する事はクリスタニア王国の貴族や富豪達のステータスとなっていた。否、国内外を問わずに、彼の作品は非常な高値で取引されている。彼の元に肖像画を描いてくれと言う依頼も沢山来ていた。トニーが描くのは、生き生きとした絵、ではないのだ。絵が生きているのだ。だが一方でこんな評価もある、あんな凄まじい絵をいつもいつも描いていたら、絵の具よりも寿命の方が先に途切れてしまうだろう、と。


 「僕はね、絵を描いていないと死んでしまうんだ」と真顔でトニーは言った事がある。「絵を描いている間だけ僕は生きているんだ」

「そうなのか」とギーはその時は素直に返した。彼らが同じ高等学院の同じ学級クラスにいた時の事である。「だからお前は絵を描くのを邪魔されると逆上するんだな」

相手が誰であれ、絵を描くのを邪魔されるとトニーはかんしゃくもしくはヒステリーを起こすのだ。そうなるともう怒鳴り散らすわ泣きわめくわ暴れるわ、とにかく攻撃的で手が付けられない。画家としては優秀でも、人間として優秀なのでは無いのだ。こう言う奇矯気味な性格や行動の所為で、トニーにはギーしか友達がいなかった。他の友達はトニーに愛想を尽かして、友達では無くなった。しかしギーとだけは妙に気が合って、トニーは彼とだけは友達を続けていた。

「逆上すると言うか……キレると頭の中が真っ白になって目の前が真っ赤になって、実はよく覚えていないんだよ」とトニーは申し訳なさそうに言う。「邪魔された、って所でぷちんとキレる所までは分かっているんだけれど……」

「良いさ良いさ。 お前はきっと絵を描くために生まれてきたんだ。 生存理由を阻害されたら誰だって気分を害する。 好きなだけ絵を描けば良い。 俺はお前の描く絵が好きだしな」

学園祭に彼目当ての女の子が我先に大挙して押し寄せるほどの美少年であるギーは、その女の子達が聞いたら嫉妬のあまりに発狂しそうな事をさらりと言った。ギーに他意は無いのであるが、気付かないと言うのは残酷である。

「ありがとう!」屈託のない笑顔でトニーは言った。言った途端に彼は真面目な顔をし、スケッチブックを開いて、凄まじい速さでそこに何かをコンテでスケッチし始める。これを邪魔されるとトニーはおかしくなるので、ギーは黙って見守っていた。

窓から高等学院の放課後を知らせる鐘の音が、優しく聞こえて来ていた。


 ――それから何年が過ぎたか。


 「おはよう、トニー」ギーは花束を手に病室の扉を開けた。

「ああ、おはよう、ギー」トニーは、全身をチューブで拘束されて、弱々しくベッドに横たわりながら、微笑んだ。個室なので他に人はいない。「今日は気分が良くてね。 絵を描きたいんだけれど、『起き上がるな』ってドクターストップがかかっちゃってさー」

「それはつまらないだろうな」花束を花瓶に突っ込んで、ギーは苦笑した。「好きな事を出来ないと言う事ほど、つまらない事は無いだろうな」

「本当、そうだよ!」そこでトニーは満面の笑みを浮かべて、「……あのね、昨日国王陛下がお見舞いに来て下さったんだ。 おまけに、僕の絵のファンだからって、肖像画の依頼もして下さったんだ!」

「クレーマンス七世がか! 凄いじゃないか!」ギーは目を細めた。

国王が絶対的な権力を持つクリスタニア王国では、それは画家としての最高名誉であった。絶大な権力を持ち、国民から敬愛されている絶対君主から肖像画を描く事を頼まれる、これ以上の名誉は無いだろう。

「あのねえ」とトニーは不思議そうな顔をした。「変な事を言うけれどさ、僕、陛下に妙に親しみを感じてね。 あの人は好色な猿だったけれど、凄く懐かしい印象を受けたんだ。 まるでママンに会ったみたいに……」

トニーには身寄りが無い。唯一の肉親であった母親は先年死んだ。彼はどうやら、貴族の妾の子、らしかった。

「そうか。 あの人は王妃がご存命の間はとんでもない浮気者だったそうだからな。 ところで俺は何に見える? ドブネズミとかは止めてくれよ?」

「秘密」とトニーは少し意地悪そうに言う。「うん、もうしばらくは秘密だよ」

「酷いな」とギーは笑って言った。トニーの少しひねくれた性格を彼はよく知っていた。「俺が、俺はドブネズミなのかと怯えているのを面白がるなんて」

「良いじゃないか、僕の自由さ」

 トニーはA.D.アドバンストと呼ばれる、いわゆる超能力者であった。彼は人の本性を動物の形で見抜けるのだ。

でも、とギーは思う。それは画家としての観察眼が鋭すぎるトニーにとっては、所有しても何ら不自然でない、当然の力なのだろう、と。

「分かった分かった。 じゃあ、少しでも早く元気になって、陛下の肖像画を描かねばな。 さもないといくら温厚な陛下だってしびれを切らすぞ」

「分かっているさ。 ああ、一秒でも早く元気になりたいなー」

透明な目をして、トニーはギーを見上げるのだった。


 ――ギーは病室を出るなり、血相を変えて医局にいた医者に詰め寄った。

「アイツの余命がたったの三か月だと!? どう言う事だ!」

「……」医者は沈痛な顔をして、「持って三か月、です。 現在では治療法が一切ない病気なんです」

「アイツは今が一番大事な時なんだ! 頼む、どうかせめて絵筆を握れるように――!」

「ギー坊や」ギーの肩に背後から手を置いた男性医師が、なだめるように言った。「今の医療技術では、この病気は痛みを緩和する事しか出来ないんだ。 あの患者は本当に良く耐えている。 常人ならば末期症状の激痛に発狂している所だ。 我々は最善を尽くす。 けれど、本当にどうしようもないと言う病気もあるのだよ」

「Dr.シザーハンド」ギーは振り返って、まるで泣き出しそうな子供のような顔をする。「俺の友達はただ死ぬしか無いのですか。 一番輝くはずだった時に、無念の内に死ぬしかないのですか!」

「……」医師は、ギーの頭を撫でた。「坊や。 この世界は本当に残酷で、でも坊やは優しい。 どうかその優しさを忘れないでやってくれ。 あの患者にも、そして他の者へも」

Dr.シザーハンド。一二勇将の一員で、クリスタニア王国を代表する名医であった。その彼が、治せない、治す手段が無い、と断言したのだ。

 ギーは唇を噛んで、うなだれた。


 「そりゃあ俺でも知っているよ、『聖母の嘆きピエタ』のトニー・エルフガンだろう?」とチャーリーは言った。ギーと彼がいるバーは、静かなジャズを流している。客はいつものように、彼ら二人きりであった。「あれでエルフガン氏がクリスタニア美術大賞を総なめにして、新聞にもでかでかと出たんで、俺も美術館に興味本位で見に行ったさ。 ……でも、背筋がぞっとしたぜ、感動で。 確かエルフガン氏が母親を亡くした直後に描いたんだっけ? 何つうか、悲しい、悲しいと言う叫びが絵から聞こえてくるみたいだった。 血の涙を絵の具にして絵を書いたらあんな絵になるんだろうなー。 あんな凄まじい絵をいつも描いていたら俺じゃ神経が持たないぜ。 俺の神経いかれちまう。 んで、そのエルフガン氏がどうかしたの?」

「……アイツと俺は友達なんだ。 高等学院が一緒でな。 アイツは昔から絵描きが大好きで、気が狂ったように毎日毎晩描いていた」

「へー」と適当に流してチャーリーは酒を飲んだ。だがそこで彼はとがめるように隣のギーに、「おい、お前飲み過ぎだぞ。 いくらタクシーを頼むからって、そんなに飲んだら体に悪い、どうしたんだよ?」

「……これが飲まずにいられるか。 放っておいてくれ!」

ほとんど喚くようにして、ギーは浴びるように酒を飲んでいる。酔えない。飲んでも酔えないのだ。だから狂ったように飲んでいる。

「仕事か? 仕事を私事プライベートに持ち込むなよ、何があったんだ?」

否。これが仕事であればどれだけ幸せだっただろう。どれだけ仕事だからと割り切る事が出来ただろう。これがギーの仕事であれば、トニーに画家としての最高名誉を手にする事が出来るように、また、それを誉めて冷やかしてやろうと、ギーががむしゃらに働くだけだろう。

だが、違う。トニーはもうすぐ無念の内に死ぬし、ギーにはトニーをその内に死なせないためには何も出来ない。何をやっても無意味なのだ。

「うるさい!」

ほとんど怒鳴るようにして、ギーはチャーリーを黙らせた。


 国王より直々に呼び出しがあって、何事だろうと、二日酔いでぐらぐらする頭を抱えているギーは不思議に思いつつ、謁見の間へ向かった。謁見の間にはクリスタニア国王クレーマンス七世とギーの他は、誰もいなかった。

クレーマンス七世。クリスタニア王国を世界的大国にのし上げた一二勇将が、最も敬愛し崇拝する絶対君主である。クリスタニア王国では全ての権力を国王が握っているのだ。温厚な老人であったが、妃のアンリエッタが存命の間は、とんでもない浮気者であったらしい。趣味はジグソーパズルで、何千ピースもの大作を仕上げては自慢して悦に入る。

ちょこんと玉座に腰かけていつもにこにことしているこの老人を、勿論ギーも敬愛していた。

だが、その日、クレーマンス七世は、玉座の上で重苦しい顔をしていた。

「ギー坊や」と、ややはげかけた頭を撫でて、国王は言った。「坊やはあのトニー・エルフガンと友達だとか。 それは、本当ですか?」

「はい」ギーは答えた。「私の、大事な友達です」

「……そう、ですか」クレーマンス七世は黙り込んだ。散々黙った挙句に、言った。「あの子は、私の隠し子なんですよ」

「えっ」とギーは目を丸くした。二日酔いが根幹から吹っ飛んだ。

「……アンリエッタがまだ生きていて、私が浮気を繰り返していた時、その時に出来たのがあの子なんです」クレーマンス七世は目に涙を浮かべて言う。「私は父親としてあの子に何もしてやれなかった。 だからせめて、あの子に最期に最高の名誉を与えてやりたい。 幸せなほまれの内に死なせてやりたい。 でもDr.シザーハンドの話では、あの子はもう絵筆を握る事すら出来ないそうじゃありませんか! この世界に神がましますなら、残酷な神だ!」

「……」ギーは、沈黙している。言葉が出なかった。己がどうしたら良いのか全く分からなかった。思考が停止して、泥ねいの中に沈んでいくような気がした。誰もがトニーを死なせたくない、無念の中に死なせたくないと思っている。だが、運命はその思いを残酷にも踏みにじるのだ。


 「お前どうしたの!?」ギーに呼び出されて、バーで出会ったチャーリーは思わず叫んだ。「何があった、何でそんなやつれた顔をしているんだ!? 女に振られでもしたのか!?」

「……」ギーはチャーリーを無視して、酒を頼む。頼んでから、言った。「俺は無力だ」

「――お前がお前を無力って……何があったんだよ」

「万病に効く薬があればな。 伝説に出てくる柔らかい石やエリクシル、アムリタやソーマ、マドラなどがあれば、な……」

「お前が病気なのか……?」

「病気なのは俺の友達だ」ギーは血を吐くように言った。「もはや一切の治療方法は無く、ただ苦痛と絶望の中に死ぬしか無いんだ。 せめてアイツに国王陛下の肖像画を描かせてから――描く事が出来れば……! しかしもう、それすらアイツには出来ないんだ!」

「肖像画……そうか、トニー・エルフガン、死んじゃうのかよ……!」

チャーリーは絶句した。天才は夭逝するとは良く聞いていたが、目の当たりにするととても慣れる事など出来ない。ギーは涙声で言う。

「せめて! せめて俺は! アイツに幸せの中で死んでほしい! そう願う事すら許されないのか!? それだけですらこの残酷な世界では駄目なのか!?」

「……血」とチャーリーがぽつりと言った。「俺の血を飲めば、どんな病もすぐに治る」

「!」弾かれたようにギーが彼を見つめた。

「だが……」チャーリーは申し訳なさそうに、「人間じゃ、反動が来て死ぬんだ。 魔族なら耐えられる。 でも、人間じゃいずれ反動が来て、必ず死んでしまうんだ。 トニー・エルフガンの健康状態が何日持つか分からない。 どうしてもって言うなら俺の血を渡すけれど、でも、あんまりそうしたくは無い。 だって……」

結局トニーを死なせる事に変わりは無いのだから。

 ギーは沈黙している。


 「ねえ、医者が寄ってたかって僕を殺すつもりだよ! 絵が描けないなんて、もう拷問だよ! 描いては駄目ですって、寝ていなければなりませんって、そんなの僕は嫌だ! ストレスで死ぬ! こうなったら病院から脱走してでも絵を描いてやる! 描かなきゃ死んじゃうよ!」

半分おどけた調子でトニーは言ってから、真顔で、

「それでギー、僕の余命は後何日なのかな?」

ギーは、表情を変えそうになるのを寸前で抑えた。彼は政治家で、政治家とは俳優よりもパフォーマンスが上手なのだと思っていた。

「何を言っているんだ、お前はちゃんと治療を受ければ――」

だがその言葉に彼は内心で自家撞着する。彼は本当にこの友達が好きだったから、嘘と真実を、友情の天秤にかけた時、どうしてもそれに陥るしかなかったのだ。

「でも僕、顔に死相が浮かんでいるんだよ?」ふっとトニーは微笑んだ。「あのねえギー、君の気持ちは本当に嬉しい。 でもね、君は今苦しんでいるね。 とても苦しんでいる。 それ、僕の所為だろう? 顔を見れば分かるよ。 いくら政治家が嘘が上手でも、画家は真実を見抜いて描くものだからね」

「……」言うものか。ギーは必死に嘘で言いくるめようと思った。彼は優しい嘘を信じていたかった。無慈悲な真実など見たくも無かった。まだ自分が身代わりで死ぬ、その方がどれほど気楽か。彼はあえて困った顔をして、「いや、トニー、そんな事は無い。 確かに難病だが、治る病だ」

「ギー」鋭い、初めて聞く友達の鋭い声がして、ギーは思わずトニーの目を見た。そこにある特殊な感情にギーは気付きかけて、はっとする。「教えてよ。 全部教えて。 僕はどうせ死ぬのならば君に殺されたいんだ」

それは、告白だった。ギーは愕然とした。決して叶わぬ思慕の、なれの果て。淫らな情欲でも無く卑俗な愛欲でも無く、それらを理性が蒸留して誕生した、ただただ純粋な、愛。

「……トニー」

彼は、気付いた時には全てを打ち明けていた。トニーの父親の正体、治らぬ病、ただし一つだけ命を捨てて名誉を得る手段があると言う事。

全てを聞いた後、トニーは微笑んで言った。

「……僕はね、パパの似顔絵を描いた事が無かったんだ。 他の子供達は教育施設でクレヨンでパパの似顔絵をよく描かされるじゃないか、でも僕は一度も書いた事が無かったんだよ。 最後にそれを描けるなんて、嬉しいなあ。

 芸術家にとって何が一番ありがたいかって、それは己の作品が相応の評価を受ける事なんだ。 僕と僕の作品はちゃんと評価された。 パパが評価してくれた。 芸術家として、これ以上の幸せは無いよ。 パパは僕に大事なものをくれた。 だから僕も、パパに大事なものをあげる。 ――ね、最期のワガママだ、頼むよ、ギー」


 『愛かー』病室を出た途端に、あの黒い子ヤギの魔王が登場して、呟いた。『どうしてあの小僧はお前に露骨に告白しなかったんだ? 同性愛だからと身を引いたのか? よく分からん』

ギーはかすかにわなないていた。

「……そんな単純な理由じゃない。 本当に俺の事を好きだったからだ。 だから、今まで言わなかった。 ……だから、俺も、それに応える」

『おいおい、あんな病人とセックスしたら殺しちまうぜ?』と言った魔王は踏みつけられた。どうもこの魔王、失言が得意であるようだ。『ギャア! 何しやがるんだ!』

真顔で踏みつけているギーは言う。「お前が代わりに死ねば良かったのに」

『もう数千年生きてきて、これからも死にそうにない俺に言うなよバカ!』

「……」ギーは病院の電話機からチャーリーに連絡を取った。

チャーリーはすぐにやって来た。

「……ほい、これ。 ……なあ、他に道は無かったのか?」

チャーリーは青い液体の入ったアンプルを手渡して、訊ねた。

ギーは悲しみもやるせなさも、全てのみ込んで、答える。

「……無かったんだ。 どうか有ってほしかった、だが、何一つ、どこにも、無かったんだ!」


  トニー・エルフガンの遺作となるクレーマンス七世の肖像画は、後にクレーマンス七世の墓廟に大事に飾られる事になる。その絵は見る者にクレーマンス七世の人柄を伝え、過ごしてきた年月を伝え、成してきた偉業も伝え、そして、描いた者がクレーマンス七世へ愛情を抱いていた事も、伝えていた。


 ……遺品整理をしていたギーは、スケッチブックの一冊をふと手に取ってめくってみた。最後のページにギーの横顔が描かれていて、その下には、小さく、『僕の愛した賢い鷲』と書いてあった。ギーは、そうか、と呟いて、静かにスケッチブックを閉じて抱きしめた。


 どこか遠くで、高等学院の鐘が鳴る音が聞こえた気がした。


【ACT三】 彼は結婚を決意する


 恋に落ちる瞬間だったわ、とアナベラは何度あの時を振り返っても思うのだ。同性愛者の彼女が、異性相手に恋に落ちたのは、後にも先にもあの瞬間だけだっただろうと思うのだ。

 「えへへへへ」ちょっと恥ずかしそうに、眼鏡の少年は一本の赤いカーネーションをアナベラに差し出した。「はい、あげる! あのね、今日はお母さんの日だから」

アナベラは頭を殴られたような衝撃を受けた。そして喜びのあまりにおかしくなりそうになるのを必死にこらえて、

「……このカーネーション、誰から貰ったの?」

「お花屋さんでね、お仕事したの! そうしたらくれたの! お母さんにあげなさいって。 だから、はい!」

アナベラはそれを受け取った。同時に彼女は死んでも良いわと思った。今から一分後に斬首刑に処されたとしても、間違いなく彼女は笑顔で死ねる。『月が綺麗だね』の返答は、正答は、間違いなく、『死んでも良いわ』なのだ。いや、アナベラの場合は『今すぐに死ねますわ!』だ。

「……ありがとうね、ギー坊や」

彼女が優しく頭を撫でると、少年は照れくさそうに、逃げてしまった。

 彼女はそのカーネーションを絶対に枯れないように特殊な処理をして、自室の金庫にしまった。そして時々、金庫の扉を開けては、絶対に人前では出さないメロメロの顔をするのだった。

「アナベラ」彼女の恋人であるリサが苦笑して、言う。「そんなにやけた顔の貴方を見たら、一二勇将の方々はびっくりして不気味がるでしょうね」

「それが何? 私はあの瞬間に恋に落ちたのよ! もう死んでも良いわ! いいえ、喜んで死ぬのよ!」

「ぷっ! お、落ち着いて!」リサはついに吹き出した。彼女の恋人の浮気と来たら、実に純情で愛くるしくて、浮気されている側がどうしても吹き出さずにはいられないほどのものであった。「貴方が死んだりしたらギー坊やは泣くじゃないの。 だから駄目よ!」

「……そうだったわね」とアナベラはいつもの『カミソリ』と呼ばれる切れ者の顔に戻る。「私はまだまだ死ねないわね!」

「じゃ、お仕事行ってらっしゃい」リサはそう言って、アナベラを送り出した。


 一二勇将の一人、アナベラ。

異名を『カミソリ』。クリスタニア王国の外交官であり、あまりにも切れ者であったがためにそのあだ名が付いた。実際、あだ名のようにカミソリのごとく、きわどく鋭い外交戦を無数に繰り広げ、クリスタニア王国を大国にのし上げた功労者の一人であった。

 「デバン公国が独立二五周年の記念祭典に国王陛下をお招きしたいと申し出てきた。 デバン公直々に、だ。 どうするべきだと思う?」

グレゴワールが、言った。アナベラは少し考えて、

「……アルバイシンが国王陛下を暗殺する可能性があります。 私が代理で行きましょう。 国王陛下よりの祝賀の品を携えて行けば、デバンの顔を汚す事にはならないかと。 デバン公の気持ちは分かりますが、まだまだアルバイシンと、デバンや我らがクリスタニアは対立関係にあります。 国王陛下にとって完全な安全地帯ではありません」

「やはり……そうだな」グレゴワールは頷いた。

 デバン公国は、元々はアルバイシン王国の属領であった。長い事独立運動が続いていたが、全てアルバイシンが力で抑圧してきた。だが、クリスタニア王国とアルバイシン王国の間で戦争が発生した時、クリスタニア王国はとんでもない手段を取った。アルバイシン王国の国力を削ぐために、デバン地方をデバン公国として支援し、ついに独立させたのである。独立に飢えていたデバンの民は歓喜した。支配していたアルバイシンの民は青ざめた。アルバイシンはデバンとクリスタニアの挟撃に遭い、戦争に敗れた。以来デバン公国はクリスタニア王国に恭順を誓い、独立国家として存続してきた。アルバイシンにしてみればクリスタニアもデバンも怨敵である。デバンにやって来たクレーマンス七世を殺害しても、何ら不思議では無い。

「賛成です」『法大家』ランディーが言った。法律の専門家で、頭の中にはクリスタニアの法律と国際法の全てが詰まっている男であった。「アルベール王太子も陛下も、あの場所へ行かせる事は危険です。 それに比べてアナベラなら暗殺しようとしても死なないでしょうし」

「こら、本当の事を言うもんじゃない!」クロードが口を滑らせて、あっと口を押さえた。「ち、違う、失礼な事を言うもんじゃないと言いたくて……」

「まあ良いです、事実ですから」アナベラはてきぱきと会議を進めた。「ところで、メルトリアの残党狩りの進捗はどうですか、オリエル」

二年前に起きたメルトリア戦役の戦後処理が、今でもクリスタニアでは続いていた。

「軍の諜報部を総動員してやっておるのだが、メルトリアの連中、どうも万魔殿に亡命したらしい!」どんと拳を円卓に叩きつけてオリエルは怒り出した。「あの裏切り者共を銃殺してやらねばワシの気は済まんぞ!」

「万魔殿に亡命か……それは厄介だ」『金融王』ユースタスが顔をしかめた。「最悪、また万魔殿との戦争になりかねんしなあ」

「それは困るな」と苦々しく言ったのは『名内相』アンデルセンだった。「あれと正面激突した場合、必ずや聖教機構が付け込んでくるだろうし……」

「ところで」無理やりに話題を変えたのは『発明狂』のアルトゥールであった。「ユースタス、金をくれ」と手を差し出す。

「断る!」ユースタスは愛用のソロバンをぶんぶん振り回して派手に拒絶した。「お前の発明は、国家財政をぶっ壊しかねんほど金を使いすぎるのだ!」

「この吝嗇漢ドケチめ!」アルトゥールが怒った。「お前は新技術の進展を妨げたいのか!」

「そうだそうだ!」オリエルが加勢した。「もっと軍事費も寄こせ!」

「ふざけるな! 大体どいつもこいつも経済観念がどうして欠落しておるのだ! 金は何よりも恐ろしいものだと言うのに、何でそれを分かっておらんのだ!」

ユースタスが怒鳴り散らした。

彼の名誉のために言うが、彼は普段はとても温和な、むしろ人情派の男である。

「うるさい寄こせ!」とアルトゥールがユースタスに掴みかかって、ユースタスはソロバンで応戦する。一二勇将円卓会議は大騒ぎになった。

「……止めろ」それを、イヴァンが引っぺがした。「……お前達はいつも最後はこう言う大喧嘩になる。 ギー坊やがまた泣きながら止めに入ったらどうするんだ。 坊やの教育に悪影響だぞ」

「「……」」途端に、水を打ったように静まり返る一二勇将の面々。

「あのう……」遠慮がちに言い出したのは、そのギー坊や張本人であった。円卓の隅できまり悪そうに、「私の役割は貴方がたの喧嘩の仲裁役なのでしょうか?」

そもそも、もう彼は成人しているのに『教育』だの『坊や』だのと言われて、恥ずかしいやら情けないやら……。

「認めたくは無いが、実際はそうだ」クロードがちょっと情けなさそうに言った。「ギー坊やは何しろ可愛いからなあ!」

「……」可愛いと言われて無邪気に喜ぶ年齢では無い。ギーは立派な成人男子である。

「そうよ、本当に可愛いわぁ! 食べちゃいたいくらい!」『毒殺貴婦人』マダム・マクレーンが扇で口元を隠して言ったが、直後にアナベラに本気でビンタされた。「まあッ、何をするのぅ!? このメスブタがぁ!」

「貴方の『食べちゃいたい』は洒落にならないんですよ! ギー坊やに毒を盛ったら許しませんからね!」アナベラは目の色を変えて言った。

マダム・マクレーン。年齢不詳の諜報活動の美しき悪魔だが、趣味は愛している男を毒殺する事である。

「そうです、貴方が言うと洒落に聞こえません」Dr.シザーハンドが賛同した。ぎらりと眼鏡の奥の目が光り、「もしも盛ったら……生きたまま解剖してやりましょう!」とてもクリスタニアを代表する医者とは思えない発言であった。

「んまぁ酷いわぁ! マルバス、マルバス、出てきなさい!」

ヒステリックに叫ぶマダム・マクレーンの影から、もそもそと黄金の肌のたくましい男が出てきた。見てくれはたくましいが、性格は弱気なところが見え見えである。彼は出てくるなり、こう言った。

『嫌ですよ。 貴方なら本当に本気でギー坊やに毒を盛りかねないじゃないですか。 そんな貴方の身代りに私がなれって言われても嫌ですからね!』

「んまぁ! マルバス、貴方後でお仕置きよぅ!」毒殺貴婦人はついにヒステリーを起こした。ハンケチを噛みしめて、「キィー!」

「おおマルバス」オリエルが丁度良いと声をかけた。「あの裏切り者のメルトリアの連中の動向はどうだ?」

メルトリア戦役でクリスタニア王国はメルトリア王国に裏切られ、甚大な被害を受けた。戦争には勝った、だが、それは痛い勝利であった。メルトリアが裏切りさえしなければ無傷で帰れた兵士達が、数多く犠牲になったのだ。

『……先ほど貴方がおっしゃったように、どうも万魔殿に亡命したようです……が』諜報活動しか能の無いマルバスは、そう言いかける。

「が?」オリエルは不思議そうな顔をする。

『ああ見えて、万魔殿は裏切り者に対して非常に厳しいですから。 幸せになっていない事だけは保証します』

「そうか……」オリエルが黙った。

一二勇将の会議は何とか終わり、グレゴワールが結果を国王に報告に行った、その後ろ姿を見送ってから、

「……」ここまで一言も発言をしなかった男、『沈黙の聖人』ゲッタがギー坊やの肩を叩いた。

「ゲッタさん?」振り返ったギーに、ゲッタは紙箱を突きつける。ケーキの入った紙箱であった。「あ。 ありがとうございます」

「ゲッタ!」怒鳴ったのはDr.シザーハンドである。「またギー坊やを虫歯にしたいのですか!」

「……」ゲッタは喋らない。彼が最後に人前で喋ったのは三年前である。

彼は恐ろしいまでの演算能力の持ち主で、元々は数学者であったが、今は暗号開発・解読を主に行っていた。

そのゲッタは無言で、歯磨きブラシと歯磨き粉をギーに差し出した。

「いえ、その、あの」ギーは困っている。

「論点をずらすな!」ユースタスが参戦した。「お前はいつもギー坊やを物で買収しようとする! ふざけるな!」

ちなみにこのユースタス、ギーを金で買収しようとした事がある。

「そうだそうだ!」クロードが更に加わったため、状況は混乱の極みに入った。「逮捕だ逮捕だ! ゲッタ、貴様は一度臭い飯を食ってこい!」

「冷静に!」アナベラが過熱する男達に水をかけた。「良い年のジジイ共が、今更何の権力を濫用するような事を言っているのです! ……ギー坊や、ケーキはみんなで食べましょう、ね?」

「では私が紅茶を淹れてくるわぁ」と言ったマダム・マクレーンをイヴァンが素早く食い止めた。

「……待て。 安全のために俺が淹れてくる」


 「クリスタニア王国の最大の弱点があるとしたら、それは国王が絶対的全権力を掌握している所だ」と密かに言われている。


 実際、そうであった。グレゴワール達『一二勇将』は国王クレーマンス七世の権力に依存していて、貴族達のように独自の権力基盤を持っていないのだ。一二勇将と国王を繋げているのは、ただ一つ、信頼関係のみであった。ここが最大の美点であったが、最大の弱点でもあった。

 クリスタニア王国の貴族達は悪名高かった。私利私欲のためにしか動かず、自らの財産、自らの領地を肥え太らせるためならば何でもする。中には警察権力ですら介入できないほどの大貴族がいる。そのため、一二勇将と貴族は犬猿の仲であった。貴族出身であった王妃アンリエッタが生きていた時は彼女が貴族達の不満をなだめてくれていたが、もう彼女はこの世にいない。貴族達はどんどんと一二勇将への不満を膨らませて行き、それはいつ爆発してもおかしくないほどのものであった。だがマダム・マクレーンがマルバスを使役して情報を集めていて、事前に対策を取っている所為で、今は敵対行動をあからさまに取る事が出来ないでいるだけであった。

 一二勇将の懸念は、クリスタニア王国王太子アルベールが貴族と大変に親しい事である。王位が交代した場合に、政権交代も起きるかも知れない。一二勇将は権力にしがみつくつもりも無かったが、無能な貴族に牛耳られるクリスタニア王国を黙って見ていたくも無かった。アルベール王太子ははっきり言って無能である。無能でも別に良いのだ、優れた者を側近とするならば。しかし王太子の周りにいる貴族は、誰も彼もが金の亡者で権力欲の塊で、国家の将来よりも自分のぜい沢な夕食を優先させる者ばかりであった。


 「『国家のダニ』、『クリスタニアの癌』、『金と権力の亡者』……俺達市民にしてみれば、貴族なんてぶっちゃけいない方がありがたいくらいだぜ」とチャーリーはあっさりと言った。いつものように、客が彼ら二人きりのバーで、である。「ところで、何があったんだ?」

「……その貴族の娘が俺に惚れた」ギーは全く嬉しくなさそうに、いや、嬉しくないどころでは無く、やや怯えつつ言った。「貴族も貴族、大貴族だ、ほら、ド・カロール家の令嬢ベル。 お前も知っているだろう?」

「うわあ……」チャーリーは気持ち悪そうに言った。「あの男好き、いや男狂いで貞操観念の欠片も無い『売女ビッチのベル』だろう? 知っているよ、あれは大根でも満足できないってもっぱらの噂じゃないか。 俺、今、真面目にイケメンでなくて良かったと思った……あんな女に付きまとわれたら、俺は精神病院に脱兎の勢いで逃げ込むぞ」

「……俺も精神病院に逃げ込みたい」ギーはぼそりと言った。「実はな、俺には今、結婚を考えている女性がいる」

「マ・ジ・で!?」チャーリーが飛び上がった。すぐに着席したが、「一体誰だどこのどんな美女なんだお前の心を射止めるなんて! うわあこりゃクリスタニアで女の自殺が相次ぐぜ! クリスタニアの独身の女は全滅するかも! うわーうわーうわー!!!!」

「俺の恩人の妹だ」ギーはちょっと微笑んで、「俺は彼女の奴隷として一生を過ごした方が幸せだと判断した」

「おめでとう!」チャーリーは心から祝福した。

「ありがとう。 それで、だ」ギーは少し酒を飲んで、「彼女との婚姻届を出すまで、あのベルの注意を俺から逸らして欲しい。 妨害されたくないんだ。 既に今日もストーキングされてな、必死で撒いてきた……」

「いつ出すの?」

「今月末の国王誕生記念日に、だ。 二年前の丁度あの日に俺と彼女は出会ったんだ」

「期間にして約二週間か……」チャーリーは勢いよく頷いた。「分かった、ベルの注意を何が何でも逸らしてやる! 任せておけ!」


 ベル・ド・カロールは探偵を一〇人雇って、ギーの一日をストーキングさせている。朝、自宅から出勤する所から、夕方仕事を終えてバーに行き、一杯飲んでから自宅に帰るところまで、徹底的に見張らせている。

 それで得られた結果は、彼女の支配欲と権力欲、そして独占欲を満たすどころか、余計にあおるものであった。

ギーと結婚すれば、と彼女は考える。何もかもが思いのままだ。クリスタニア屈指の美男を夫にしたと言う社会的地位と名誉を得られ、ギーと付き合った女がほぼ全員彼は素晴らしかったと証言している事から夜の生活でも彼女は満たされ、そしていずれはギーが一二勇将の後を継いで絶大な権力を握った時、彼女はそれをも操れる。完璧だ。何もかもが完璧だ。

今まではギーをたかが平民の癖にと忌々しく思っていたが、それでさえ逆に彼女が支配してしまえば何と言う事も無いのだ。

 欲しい。彼女は思う。ギーを愛しているから欲しいのでは無い。欲しいからギーが必要なのだ。愛よりも彼女は欲の方が大事なのであった。

「それに私も美しいし」彼女は鏡を見つめて呟いた。「あんな卑しい平民風情の男が高貴な私になびかないなんて事、ありえないわ」

潰れた鼻とねじまがった口と細すぎて糸のような目、まるで鈍器で殴打されたかのようにえらの張ったでこぼこの顔が鏡に映っている。けれど彼女は美しくないなんて他人から言われた事が無かった。皆が皆、彼女を美しいと言ってきた。ベルを不細工だと言ったが最後、ド・カロール家に抹殺されるからだった。

 それを知らずに自分を美女だと思い込んでいるベルは、にやあっと微笑んだ。汚い笑顔であった。それは顔の造形が云々と言うよりも、性格の醜さが顔に出てしまっているからであった。愛嬌が無い。華が無い。優しさも高貴さも気高さも誠実さも何も無い、本当に直視するに耐えない顔であった。まだ、ただ顔が不美人である女性の方が、圧倒的に理性と品性があって、素敵に見えるだろう。

 「ベル様」愛人の男性貴族、コーディが彼女の足元にかしずいて、彼女の手を取りキスを落とした。そうすると後で貰える小遣いが倍増するからだった。「ギーなどの事を考えるのはお止め下さい。 どうか、どうか私の事をお忘れなきよう……」

「あら、嫉妬深いのね、お前は」ベルは満足そうに言う。「でも許すわ。 お前は可愛いし、何より上手だもの」

ベルの手がコーディの顔に触れた。コーディは内心では、

(ただの肉欲狂いのメスブタが、何を調子に乗っていやがるんだか。 まあ良いさ、金はいくらあっても足りないからな)

そう思ってはいても、全く顔にも態度にも彼は出さない。

「ああ、ベル様……」

ベルはコーディの手を引いて、ベッドになだれ込んだ。

 もう誰も止める者はいないまま、二人は官能の世界に奥底まで沈んでしまう。


 「うおげええええええええええええええええ!!!!!!」

『げろおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!』

夜、路地裏で盛大に嘔吐している一人と一匹がいた。

「……俺もう死ぬかも。 あんな気持ち悪いものを見ていた所為で気がおかしくなりそう……」チャーリーは涙目であった。調査のためにベルの館に潜入して、例の現場をもろに見てしまったのである。

『おえっぷ。 げろおおおおおおおおおおおおおお』黒い子ヤギはまだ吐いている。『お、俺様、ぐ、グロには耐性が完璧にあると思っていたんだが、あれは無い、あれは無い!!!! エロシーンであんなにキモグロいなんてあれは無い!!!!』

「なあ魔王さんよ」チャーリーは持っていた水筒から水を飲んで、ぜえぜえと荒く呼吸し、残りの水を魔王に差し出した。「俺はともかく、野次馬根性で見に行った魔王さんは酷い目に遭ったなあ……」

『……お前優しいな』子ヤギは水を飲んで、『あれ以上見ていたら、永遠に男性不能インポになりそうだったな、あれは……』

「不能で済めばまだ良いさ。 俺は本気でトラウマになりそうだった」

『あのイケメン君の場合はのぞき見も中々良かったんだが……あの醜女しこめの場合はホラーだな、最恐のホラーだ。 この俺をゲロらせるとは……』

「あんな化物に付きまとわれたギーが本当に気の毒だ。 俺が何とかしないと」

ここで魔王が猛抗議した。

『化物に謝れ! 化物だってあそこまではキモグロくは無いぜ!』

「あ、すんません」素直にチャーリーは謝り、「でも、あれは……」

『分かっている、分かっている。 だがお前、どうするんだ? どうやってあの醜女からイケメン君への注意を逸らすんだ?』

「……どうしたものかなあ……」

チャーリーは座り込んで考えたが、きっちり六〇秒後、彼は立ち上がる。

「よし、取りあえず殴ってくる。 二週間入院する程度に殴ってくる。 女の人を殴るなんて最低だけれど、あんなありえないくらい気持ち悪いのを見せられたからにはなあ……」

『やっちまえ! 水を貰った礼だ、俺も加勢してやる!』


 「うふふふ」ベルはギーの写真を見つめてにたにたと笑っている。「本当にこの男が欲しいわあ。 自慢できるもの。 誰も彼もが羨望の目で私を仰ぎ見るでしょうし……」

 要はベルにとってギーは素晴らしいアクセサリーであるだけ、有用なだけなのだ。愛してもいなければ、恋してもいないのだ。

「ベル様……ああ、どうか私を捨てないで下さい」金づるが無くなってしまうから、コーディはそう言った。「お願い申し上げます」

「もう、しつこいわね! でも良いわ、お前は上手だもの、うふふふ」


 その直後、であった。轟音と共に、ベルの館に激震が走った。


 「何事なの!?」ベルは驚いた。

「ひ、ひいいいいい!」コーディは臆病で腰抜けな性根をのぞかせた。

『襲撃でございます』二人の背後から変声器によってしわがれた声がした。二人は咄嗟に振り返ろうとし、それが出来なかった。『いっせーの、それ!』


 殴打。


 マスメディアが大騒ぎした。大貴族のベル・ド・カロールが愛人共々、強盗によって全治二週間の怪我を負い、入院したのだ。強盗は金品を奪って逃げた。その金品はほとんどゴミ処理場で見つかった。どうやら強盗は金品を売りさばけばそこで足が付くと判断したので、金品を諦めたらしい。しかも強盗はベルの館の玄関を爆破していたので、これはもしかすればテロの可能性もある、と。

「物騒だなー」とチャーリーはTVのニュース番組を見て言う。「モニカ、強盗傷害って結構重い刑罰だよな?」

「当然よ。 知らないとは言わせないわ」モニカはチャーリーの焼いたチョコチップクッキーをかじっている。「それにしてもド・カロール家の玄関を爆破したその隙に強盗に入るなんて、一体どこのイカレ野郎よ。 イカレたその顔を見たいわ。 でも、貴族相手によくやったわと少し褒めてやりたい気もするわね。 ま、警察として公言する訳には絶対に行かないけれど」

「そうだなあ」とチャーリーは従順に頷くのだった。


【ACT四】 彼の特性


 クリスタニア、いや、世界中の女が一度は絶望した。


 『ギー様、平民の女性と婚姻届を提出!』


 ある意味では世界の終焉に等しい大事件であった。河に身を投げる女が続出し、この世には神などいないと嘆き叫ぶ女の数もあまりにも多かったので、クリスタニア王国のみならず世界的社会現象になりかけた。クリスタニア王国ではショックで精神を患った女性があまりにも多かったために医療関係者が過労寸前になり、警察官とボランティアで結成された身投げ女性救助隊が常に河の側を行き来しなければならないほどであった。

「どこの馬の骨女よ!」モニカとて例外では無い。だが気性の激しい彼女の場合は、「射殺してやるわ!」になるのだった。

「落ち着け!」チャーリーはびくびく怯えつつ説得する。「素直に祝ってやれよ、すっごくおめでたい事じゃないか!」

「何がすっごくおめでたいのよ、ああアンタの頭が馬鹿みたいにおめでたいのね!」モニカはキレられるだけキレまくっている。「脳天に風穴を空けてやったら少しはおめでたくなくなるかしら!」

「落ち着けったら! 何で祝い事なのに血なまぐさい事になっているんだよ!」

「あのね」モニカはチャーリーの胸ぐらを掴み、般若の顔で、「ギー様は『特別』なのよ。 分・か・る?」

「……」チャーリーは恐ろしさのあまりに震えている。モニカに角が生えて女夜叉になったかのように見えたのだ。トイレに行っていなければ、失禁していたかも知れない。ギーは国民的アイドルなのだと思い知った。アイドルは崇拝され信仰され、そして当然ながら狂信者をも排出する。

「畜生めが」モニカは恨みつらみをチャーリーに八つ当たりする。「ギー様がクソ女に飽きて浮気して離婚する日を、楽しみにしているわ」

「酷ぇよ……」辛うじて呟かれたチャーリーの声は、糸よりもか細いものだった。


 「初めまして、こんにちは」とおっとりとした家庭的な美女は挨拶した。彼女が側にいると安心できると言うのか、ほっとすると言うのか、とにかくまとう雰囲気が穏やかで、心地良いのだ。「私はイズーと申します。 どうぞよろしくお願いしますわね」

「初めまして、俺はチャーリー・レインズです、よろしくお願いします」

ギー、やるじゃん!チャーリーは思った。愛人にするならば危険な女、でも正妻にするならばイズーの様な安心できる女が一番じゃないか。

「コイツは信頼できる男だ」ギーは案の定くつろいだ顔をしている。「後、便利屋の仕事もやっているから、大体の事は出来る」

「それは凄いですわね」イズーはにこにこしている。「これから、もしかしたら私からもお願いする事が出てくるかも知れませんけれど、どうかよろしくお願いしますね」

「はい!」

と元気よくチャーリーは答えて、それから小声でギーに言った。

「おい。 お前の後ろで黄昏れている爺さんは、もしかして……」

その『爺さん』は影が薄く、瞳が虚ろで、まるで消えかけている煙草の火の様だ。顔はチャーリーも知っている。だが普段のその顔は、威厳とゆるぎない信念を抱えた毅然としたものであるのに……。

「そうだ、グレゴワールさんだ」ギーは困った顔をして、「実はグレゴワールさんだけじゃない、一二勇将のどなたもが放心状態だったり泣きわめいて話が通じなかったり酷く落ち込んでいるんだ」

「それ、空の巣症候群」チャーリーは言った。「お前が巣立っちゃったから、寂しくておかしくなっているんだぜ?」

「おい。 良い年こいた男が巣立っていない方が問題だろうが」

「そりゃそうだけれどさ。 でも寂しいんだろうなー」

 王宮近くの庶民向けのレストラン『デカルト』は、昼時とあって混雑している。

「……とにかく、だ。 俺は人を大勢呼んでの結婚式はやらない方が良いだろうと思う。 妨害者が大勢いるだろうからな。 だがイズーにドレスを着せてやりたい。 だから、本当に二人きりの式を挙げた後、披露宴を兼ねた食事会を開こうと思う」とギーは微笑んで言った。

「ふむふむ」チャーリーは乗り気である。

「だがここで問題が発生した」ギーはイズーを見て、むすっとした顔で、「イズーが食事会に子供と犬を出席させると言って聞かないんだ」

「えっ、お前、種無しじゃなかったのか!?」チャーリーがひっくり返りかけた。少なくとも、のけ反って危うくじたばたするところまでは行った。「でででででででで『出来たから結婚』なのか!?」

「……彼女の連れ子だ」ギーはついに苦い顔をして、「ものの見事に俺を嫌っている。 犬の方も俺を見ると襲いかかろうとする始末だ」

「……」チャーリーが色々と仰天して言葉を出せないでいると、

「だってギー、貴方はテッドを見下した視線で見るじゃないの。 それは嫌いにもなるわよ? 後、アドルノは賢いから、本当に優しい人にしか懐かないの」イズーが言って、振り向いた。隣のテーブルでお子様ランチをスプーンでつついている少年が、ギーを睨んでいた。彼女はたしなめる。「こらテッド、そんな目で人を見てはいけません」

「……だって、ぼく、そのおっさん嫌いなんだもん」少年はぼそりと言って、お子様ランチをまたつつき始めた。

「えーと、テッド君、だっけ?」チャーリーが席を立って、身をかがめて少年と視線を合わせる。「よろしくな、俺はチャーリーって言うんだ」

チャーリーの、あの毒のない笑顔に、

「……」テッドは少し驚いた顔をして、それから、お子様ランチに付属していたオモチャの車を差し出した。「はい、あげる!」

「おお、ありがとうな! よし、じゃあ……」とチャーリーは紙ナプキンで器用に犬を折って、テッドに差し出した。「俺もこれをやるぜ!」

「!」テッドは目を丸くして、「おにいさん上手だね!」

何で俺がおっさんでチャーリーがおにいさんなんだとギーは憤慨したが、イズーが嬉しそうに、

「まあ、テッドが懐くなんて、チャーリーさんはお優しい方なのね!」

「あー……」チャーリーはちょっと考えて、「俺、動物と子供には嫌われた事が無いんですよ」と言った。


 「チャーリーさーん!」

「ワウワウワウワウ!」

玄関から大型犬とテッドが飛び出してきて、チャーリーに体当たりした。チャーリーは笑顔でそれを受け止めて、

「おはよう、テッド! 仕度が済んだら、アドルノの散歩に行くぞ!」

「分かった!」テッドは家の中に走って引き返す。その背中にチャーリーは、

「こら走るな! 転んだら痛いんだぞ!」と言ったのだが、

「はーい!」テッドはぴょんぴょんとまるでウサギのようにはねながら姿を消す。

「ワウワウワウ!」

「よーし良い子だ、テッドが来たら散歩に行くぜ!」

甘えてくる大型犬アドルノの首輪にリードを付けて、スコップと袋を持った後、チャーリーはふと視線を玄関に向けた。

「………………………………」

凄まじい嫉妬の視線で彼を睨むギーが顔を出していた。

「おい何だよその目は」チャーリーは呆れた。

「どうしてお前は……!」こんなに懐かれるんだ。ギーはとても理不尽な理由で腹を立てていた。

「どうしても何も、俺は生まれつき動物と子供に嫌われた事が無いんだよ。 『虎が懐いたからペットにしたい』ってごねて姉貴にぶっ飛ばされた事もあるし。 俺が公園で昼寝しているといつの間にか鳩や猫や犬にたかられているしさあ」

「……」ギーにはそんな経験が一度も無い。

「チャーリーさーん!」支度の済んだテッドが玄関から駆け出してきた。「散歩、アドルノの散歩っ!」

「よし、じゃあ行くか!」

「ワウワウワウワウ!」

二人と一匹は、実に仲良く出かけて行った。


 テッドのベビーシッターはある意味ではチャーリーの天職であった。テッド本人が目をキラキラさせて言うのだ、

「ママンと結婚したおっさんはどうでも良いけれど、チャーリーさんが来てくれたのはすごくうれしい!」

確かこの子供は、とギーは思う。いつも暗い顔をして暗い性格で無口で子供らしくなくてちっとも可愛くないガキだと思っていた。

 だが、それがこれだ。

 「チャーリーさん、空中戦艦、ぶーん!」

オモチャの空中戦艦を振り回してテッドは言う。

「おい、空中戦艦はぶーんなんて言わないんだぜ、スイーと行くんだ、あれは」

「空中戦艦、スイー!」

「そうだ、スイー!」

「ワウワウ!」ギーに隙あらば噛みつこうとしている犬風情が、構ってくれとひっくり返って腹を晒している。チャーリーはアドルノの腹をもふもふとしてから、

「お手!」

お手をした。

「わんわん!」

わんわんをした。

「よーし良い子だ、ほら骨だぞ!」

「ワウワウ!」

骨に大歓喜するアドルノ。

おまけにイズーは、この光景を本当に嬉しそうに見つめている。そしてギーはイズーに何があっても逆らえないのだ。

「あらあらテッド、もうチャーリーさんとお友達になったのね!」

「うん、チャーリーさん、ぼく大好き!」テッドは満面の笑顔で言って、「空中戦艦、行けえ、スイー!」

オモチャを振り回す。チャーリーはテッドの空中戦艦ごっこに合わせて、

「ドカーン! うわあやられたー!」

「かったー! ぼくのかちー!」

畜生。ギーは何故かそう思った。畜生、畜生、畜生!

 男の嫉妬は醜かった。


 「……まだギー坊やの結婚相手が男で無くて良かったと思うしかない」

ユースタスが完全に思いつめた顔で言った。

一二勇将の円卓会議は、通夜の様な、葬送行進曲がどんよりと流れているかのような、あるいは死体が会議をしているような雰囲気である。

「……それは同性婚を法律で認可した私や、アナベラへの宣戦布告ですね?」ランディーがぼそぼそと、まるで戦う気の無い声で言った。

「違う……そう言う意味じゃなくてだな、ギー坊やがウェディングドレスを着る羽目になったらと思うと、流石に私でも……」とユースタスははらはらと涙をこぼした。

「不気味な妄想を練り上げおって、この変態ケチめ!」オリエルはそこまでは大声で言ったものの、すぐに消えそうな小声になって、「気持ちは分からんでも無いが、あの子が女好きでどうしようもないのは昔からだっただろうが……」

「……そうですね。 ですが、まだ私達は軽症です。 御覧なさい、グレゴワールを……」Dr.シザーハンドがそう言って視線を動かした。

 「……」

死にかけていると言っても過言では無い老境の男が、焦点の合わない目でどこかを見ている。空ろに開かれた口からは魂が抜けかけていた。

「鉄血宰相があれじゃ、政務に差し障りがあるぞ……」アンデルセンが嘆息した。「抜け殻状態の反動で、鬼舅にならなければ良いが」

「……」アルトウールが何かをごそごそと円卓の下で作っている。

「おい、何を作っているんだ?」メソメソと泣いていた隣のクロードが、何だと思ってひょいと覗き込み、「うわあ!」と思わず叫んだ。

大人のオモチャを作成していたのである。

「……何が『うわあ』だ、これがせめてものこの天才アルトゥール様からギー坊への餞別だ」この狂人は真顔で言った。

「そんなものを送り付けられたら、ギー坊やは貴方と絶縁しますよ! はっきり言って気持ち悪いです!」

アナベラがそれを奪い取り、ゴミ箱に叩き込んだ。

「何をする!」アルトゥールが叫んだ。だがクロードの鉄拳で無理やり黙らされた。「ぐえッ!」

「マルバス! マルバス!」マダム・マクレーンがヒステリックに叫んだ。するとハンケチを目に当てた悪魔マルバスが出てきて、

『何ですか、私は泣くのに今忙しいんです! ああ、あんなに小さかった坊やが……!』

しくしくと泣いている。しかしこの年齢不明の美女はヒステリー気味に、

「ギー坊やをたぶらかしたメスブタはどんな女なのか説明なさいィ!」

『しくしく……ええと、職業は弁護士で、小さい子供が一人、他に家族はいません。 どうしてギー坊やと知り合ったかと言うと、その……』悪魔は言いにくそうに、『メルトリア戦役の際に、ギー坊やを庇って死んだ軍人の、いわば坊やの命の恩人の妹だから、です』

「「……」」

一二勇将の間に、沈黙が流れた。

「……どうやら我々はもはやギー坊やの家庭事情に、余程の事が無い限り、ああだこうだと口を挟む訳には行かんな」やっと正気に戻ったグレゴワールが言った。「では、会議を始めるぞ」


 メルトリア戦役について語る時、オリエルは心底怒っていつも語る。

「あれはワシらの過ちだ。 ワシらがほんのわずかでも油断した、そこを付け込まれたのだ!」

 きっかけは、万魔殿支配下にあった小国、メルトリア王国が、どうせ帰順するならば同じ人間の国クリスタニア王国にしたいと言い出した事であった。クリスタニア王国にとって、領土が増えるのは悪い話では無い。だが、当然メルトリア王国の覇権を巡って、万魔殿との激突は避けられない事態となった。

 クリスタニア王国は勝利こそしたものの、それは痛い勝利であった。

 メルトリア王国が激戦の真っさなかに裏切った所為で、戦況が危うく逆転しかけたのである。結果的に勝利こそしたものの――特に陸軍に甚大な被害が出たのだ。


 ずしんずしんと城塞が震動している。敵からの砲撃を受けているのだ。既にそこは前線であった。それも、負けている。通常なら撤退していただろう。だが――味方だった者の裏切りによって、退路を断たれていた。

最初は前線で、そして前線兵らの背後で、味方だったはずのメルトリア王国軍が突如裏切ってクリスタニア王国軍と交戦を始めたのだ。そこに万魔殿が一気に攻め込んできた。

 メルトリア王国が裏切るなど、誰が予想したであろうか。そもそもこの戦争はメルトリア王国がクリスタニア王国に泣き付いて来たから発生したものであった。それが裏切られた。最悪の時期に最悪のやり方で裏切られた。現在、下手をすればクリスタニア王国軍全軍が壊滅する可能性が、生じていた。

 しかし一人の男の采配と、その部下の行動が、それを瀬戸際で食い止めた。

ギーとその部下達は良くやった、本当に良くやった。彼らは元々は補給部隊であったのに万魔殿とメルトリア王国軍の攻撃を真正面から受けて立ち、おまけに血路を開いて、前線兵が無事帰還できるまで耐えたのである。本来ならば全滅していたであろう前線兵らは彼らのおかげでオリエルの率いる本隊と合流できたのだ。

 だが、代償も大きかった。ギー達は敵中に取り残されたのだ。

四方八方が敵の中で孤立した。これは、彼らの死を意味していた。

 「すまないな」震える城塞の中で、ギーは部下達に謝った。彼らの立てこもっている前線要塞が、砲撃を受けて激しく震動しているのだ。彼は拳銃を手にして、言った。「逃げていれば全員無事に戻れただろうに、俺が『踏みとどまれ』と言い出したばかりに……」

「大佐、何の事はありません」中佐トリスタンが笑った。「本当に逃げたかったら、誰もが命令が下った時に逃げていたでしょうよ」

「全くそうですよ」

他の軍人達も穏やかに笑っている。

死の迫る戦場であるのに。

「これは我々の総意です」

「……そうか」ギーは、笑んで頷いた。俺は全く良い部下に恵まれたものだ、としみじみと思った。そして、「もしかすれば誰か生き残れるかも知れない。 遺言がある者は、今の内に言っておけ」

それを聞いて、最初にトリスタンがぽつりぽつりと語り出した。

「自分には妹がいましてね――可哀想に一四の時に誰かに暴行されて父親の知れない子を胎んだのですよ。 あれから七年経った今でこそ幸せでしたが――あの頃は辛かった。 誰か生き残ったら、妹によろしくと伝えてくれませんか」

それに触発されて、誰も彼もが、自分の家族や恋人のことを話し出す。懐かしい歌を歌う者もいた。戦場に、郷愁が漂う。

ははは、とギーは既に定まった覚悟を腹にくくり、快活に笑った。

「命令だ、もし生き残った者がいたならば、俺達全員の遺言を遺族へ届けろ!」

「「了解であります!」」と、彼らは答えて、同じように笑った。

 その時である。部屋が巨大な透明な刃に切られたかのように切断され――天井が落ちてきた。その透明な刃は無数に襲ってきた。それは彼らを切り刻み、ただの物言わぬ肉塊にした。

 ギーは落ちてきた建物に潰される寸前で、誰かに庇われた。それが誰だとも分からぬ間に、彼は瓦礫に埋もれた。


 「俺は戦争が嫌いだ」

はっきりとした声が聞こえて、彼は意識をすぐ取り戻す。そして、自らを庇うように覆いかぶさって死んでいるトリスタン、切り裂かれて、あるいは瓦礫に埋もれて死んでいる部下達を見つけた。

惨劇を包む空が、酷く透明で、どこまでも青かった。

「この戦場で、何を言っている。 カール、お前は甘ちゃんだ」

心底嘲るような別の声が聞こえた。ほんの少し顔を動かすと、対峙する二人が見えた。

二人?!いくら敵軍の尖兵とは言え、数が少なすぎる。まさか――。

彼が息を飲み込んで見守る前で、男二人――スマートで筋肉質な、巨大な両手剣を背負った男と、対照的な優男だった――は会話を続けた。

「分かってる。 分かっているよ、アントワーヌ。 それでも俺は、戦争は嫌いだ。 こんなの、いくらやったって不毛だろ。 俺は戦争のない世界に行きたいよ。 本当に行きたいよ。 もう戦争は嫌なんだよ」

そう言って振り返った男が、いきなり衝撃波にはじき飛ばされて青い血をぶちまけた。吹っ飛び、瓦礫に衝突する。

青い血!?ギーは聞いたことがあった。それは数多の魔族が集う万魔殿の中でも特に稀少な種族で――。

「カール・フォン・ホーエンフルト! 『高貴なる血ブルーブラッド』の男! 俺はお前がずっと前から嫌いだった……弟のアルセナールや盟友シラノ達はお前のことを気に入っているようだが、俺は大嫌いだった!」

優男の背中からは羽根が生えていた。ぴきん、ぴきんと空気が鋭い刃となっていく。噂に聞いた、魔族の特殊能力らしかった。

彼の口上は続く。

「『彼女達』から一心に寵愛を受け! 俺達万魔殿の幹部の中で誰より愛され! 戦争は嫌だなどと馬鹿げた甘言を吐き! ――ずっとずっと憎かった! 何故お前だけが特別なのだ! 何故お前だけ! 何故俺ではないのだ!」

――カールは血を吐きながら、驚愕に目を見開く。

「あ、アントワーヌ、お前、ま、まさか――」

「戦争で死ぬなら、戦場で死ぬのならば別に不審死でもあるまい。 お前の『我に触れる事無かれ』ですら防げぬ『妖精騎士ディナ・シー』の衝撃波で切り裂いてくれる!」

衝撃波のうねりが、アントワーヌめがけて集結していく。最大級の攻撃をしようと言うのだ。

「止めてくれ!」カールが絶叫した。「俺は死にたくない! 戦争が嫌なだけで――!」

「死ね!」

銃声が響いた。

アントワーヌが、背後から心臓を撃ち抜かれて絶命した。

「おい、貴様――」傲慢に、白い硝煙をくゆらせる拳銃を手にしたギーは言った。「戦争のない世界に行きたいか」

「――な、何故助けた!?」カールは驚いている。

「俺を助けろ。 そうすれば、クリスタニア王国への亡命を許可してやる。 ――戦争はもう嫌なんだろう?」

 ほぼ同時に、オリエル率いるクリスタニア王国軍主力部隊が進軍してきた。それは軽々とメルトリア王国軍と万魔殿軍を蹴散らした。

オリエルが直々に鍛えた参謀達は一度は進軍に総反対したのだ。

今の状況が、主力部隊が進軍するにはとても危険すぎるからである。

だが、オリエルの言葉で全員が意見を反転させた。

「俺がいつどこで軍紀を守っていた兵を見捨てた事があるか言ってみろ! 俺は軍紀違反者以外は絶対に見捨てはしない! 大体だ、こんな死にかけの老いぼれが生き延びて未来ある若者を殺すような真似など、それこそ生き恥をさらすのと同然だ、絶対に断る! ワシ一人で敵軍に突入する。 死にたい奴だけ付いて来い!」

がけ下へ落ちかけていたクリスタニア王国軍の士気が、一気に天へと跳ね上がった。

「「イエス、サー!」」

ほぼ全軍が呼応して、クリスタニア王国軍はまっしぐらに戦場の中へ突撃したのだ。

そして、血まみれの勝利を掴んだ。


 「――兄は、そうですか、最期に私のことを……」

そう言って、ギーの目の前の美女は、静かに涙を流した。

彼は約束通り、遺族らに部下達の最期を伝えて回っていた。

「ええ――イズーさん、貴方のことをおっしゃっていました」

「伝えていただき――ありがとうございました」

そう言って、彼女は頭を下げた。


 それから彼は間近の軍人墓地に向かった。今は亡き戦友達に祈りを捧げるために。

そこの出口には一台の車が停めてあって、その運転席から男が顔を出す。

 「これで、最後?」と男は言った。

「ああ」と、ギーは頷いて車に乗る。

「……沢山、殺しちまったなあ、俺は」

心底後悔している声だった。

もう取り返しの付かないことだと自覚している声でもあった。

密かに亡命が認められたこの男は、チャーリー・レインズと名乗り、何故かギーと気が合って今ここにいる。

「戦争とはそう言うものだ。 殺せば殺すほど、英雄になれる」

「俺は英雄になんかなりたくないよ。 それにしても、さ――」と彼は本当に不思議そうに訊ねた。「どうして俺を助けたの?」

 その時のことを思い出すと、ギーは我ながら不思議な気分になるのだった。あのまま隠れていても良かったのに、どうして助けたのだろうか。……あの時に自分を動かしたのは、ある種の運命的な何かであったのかも知れない。

「……何となく、見殺しにしたくなかっただけだ」

彼は少し黙って、そう答えた。

「そっか。 ありがとうな」

と言って、チャーリーは車を発進させた。


 『結婚おめでとう、で、離婚はいつだ?』

黒い子ヤギが登場して、ギーを見上げて、にまッと笑った。

「……お前はイズーの職業を知らないんだな。 イズーは弁護士だ。 それも離婚問題専門の」タキシード姿のギーは頭を抱えた。「だから俺は結婚を決意した時、彼女の奴隷として一生を生きようと思ったんだ」

『感心な決心だなあ。 まああの女、不倫とかするタイプじゃねえしなー。 浮気相手があの女だったら最悪だが、結婚相手なら実に良いタイプだ。 妻ならば貞淑に誠実に、しかも夫を立てて行動する。 浮気相手なら生き地獄へお前を連れて行くがな。 まー奴隷根性で行けば上手く行くんじゃねえの? 個人的にはお前が不倫して発生する泥沼を滅茶苦茶見たいんだが』

花婿の控室には、今、この一人と一匹しかいない。

「新婚の男にそれが言うセリフか」

『俺様は魔王だ。 魔王は邪悪な生き物だと決まっている』

「そうか。 どうも俺には美味そうな肉の塊に見えていた」

『鬼畜め。 ところでお前さ、不安にはならないのか?』

「マリッジブルーならもう十分になっている」

『それじゃねえよ。 お前は完璧だ。 生まれこそ平民だが、能力も外面も最高だ。 将来だって洋々たるものだ。 だからこそだ、不安にならないのか? 「いつかこの幸せは全て崩壊するんじゃないか」、ってな』

「……」ギーは誰も近くにいない事を確かめてから、言った。「一二勇将の皆様がご健在の内は、良いだろう。 クレーマンス七世がご在位の内も、心配は無いだろう。 だが……」

『あの「チビデブハゲワキガであるだけならマシだった」、のアルベールか』魔王はぶーっと吹き出した。『俺、数千年生きているが、奴ほどの不細工面はそうそう知らないぞ!? アルベールに比べたら、あの比較的不細工君チャーリーがまるで神々しい美形に見える』魔王は顔を改めた。『……まあ顔や体型や体臭はどうしようもないとしよう。 チビデブハゲワキガだがとても親切な男もいただろうしなあ。 現に比較的不細工君は実に良い男だ。 だがアルベールは性格が、はっきり言って「最悪」じゃないか。 あの男は人間の、否、人類のクズだ。 己が今王太子として威張っていられるのがどこの誰のおかげかちっとも理解していない。 全部親父と一二勇将のおかげじゃねえか、なのに野郎は自分のおかげだって勘違いしてやがる。 ついでに、あのクソ野郎が無能で阿呆でゴマすりだけお上手なオッペケペーの貴族連中とつるんで何をしていやがるかは、超有名じゃねえか』

「……知っているか、やはり……」ギーは嫌な思いになった。それは魔王が知っている事に対してでは無い。『魔王が知っている事』の『真相』を彼も知っているからだ。

『魔王舐めんなよ、地獄耳なんだぜ』魔王は愉快そうに、『まだ女にもなってないガキを輪姦するのが趣味だなんざ、笑えるなあ! ああ、そうだ、その後にガキを自殺するまで追い詰めるんだっけ? クズもクズ、いや、「クズに謝れ!」レベルのクズだなあ、ぎゃははははは!』 

「……」

『あの硬骨漢のグレゴワール氏がもう何百回と怒鳴りつけたんだっけ? 駄目だ駄目、それじゃ駄目だ、国王が代わったらグレゴワール氏は馘首クビ決定だ。 まあ、あのグレゴワール氏は馘首なんぞ恐れるほど腑抜けじゃねえらしいが、な! ――お前はそれが怖いんだろう?』

「怖くない訳が無いだろう。 俺はあの人達の子供だから」

愛されて愛し、育まれて育った。もはや、彼にとっては家族なのだ。

『もっともだ。 特別に俺が良いアドバイスをしてやる。 結婚祝い代わりだ』黒い子ヤギは言った。『「革命」を起こせ』

「……」

『何だ、妙に悟った面をしやがって。 簡単だろう? 一二勇将が実権を握っている今こそが最後の好機ラストチャンスだ。 オリエルが軍事蜂起、ユースタスが金融停止、クロードはそれらを看過、アンデルセンはそれらの支援、ランディーは新憲法をこしらえて、アナベラは対外諸国に説明に飛んでまわる、後の連中は国王に退位か斬首か迫れば良いんだ。 いや、マジで、本当の本当に簡単だろう? 何でさっさと朝飯前にやらないのか、俺には理解出来んくらいだ』

ギーは答えた、「クレーマンス七世に、あのお優しい陛下にそんな事が出来るか」

『……馬鹿じゃねえの?』

自らの命より、主君を優先する。綺麗事もほどほどにしろ、と魔王は思った。

「これは一二勇将の総意だ。 そんな事をするくらいならば、死んだ方がまだ落ちぶれずに済む、それがあの人達の意志だ」

『じゃあ全員ぶっ殺されるぞ? あのアルベールの事だ、権限の一切をはく奪して、お前らを銃殺しやがるだろう』

「……」ギーは、答えない。

『ったく、この俺様が善意で言ってやったのに。 賢い馬鹿はこれだから。 じゃ、俺は気が向いたらまた来てやるぜー』子ヤギは消えた。

「二度と来るな」ギーは呟いた。

そのすぐ後に、何も知らないチャーリーがドアの向こうから三回ノックして、

「おーいギー、食事会のお客がそろそろいらっしゃったぞー」

「ああ、すぐ行く」ギーは返事した。


 「もうこの世界に希望も何も無いわ」モニカはいつになく感傷的に言った。TVで『ギー様の結婚式と食事会』のニュースが流れたのを見て、である。「私も今流行りの運河への投身自殺をしようかしら」

「モニカ、お前その前に病院に行った方が良いぞ。 お前が弱気になるなんて気持ち悪いもん……」

ソファに並んで座っているチャーリーは、うっかりそう言ってしまった。最悪のタイミングで放たれた、大失言であった。

「気持ち悪い!?」モニカは逆上した。ただでさえ感情的な所にそう言われては、たまらなかったのだ。「この! クソ野郎!」

「あ」股間をわしづかみにされたチャーリーは、青くなった。「お、落ち着こうモニカ! れ、れれれれ、冷静になろうモニカ! お願いだから手を離して――!」

「処刑の時間よ」


 ――この二人は、まだちょっと幼稚な関係である。


【ACT五】 崩壊の前奏曲プレリュード


 不機嫌そのものの態度でヴィラモヴィッツ・レーは窓――壁全面が強化ガラスによる窓であった――からクリスタニアンのまばゆい夜景を見下ろしていた。

たかが人間の分際で、と彼は思う。ワイングラスを片手に、彼は血のように赤いワインの匂いに包まれていたが、酔ってはいなかった。我らが『帝国』と対等に渡り合おうとは、身の程知らずにも程度がある、と。

クリスタニアンを見下ろす摩天楼スカイスクレーパー、通称『クリスタニアン・タワー』。そこの最上階の王室御用達レストラン『ハイデッガー』にて、彼は今、盛大な饗応を受けていた。

「ヴィラモヴィッツ殿」きちんとしたスーツで武装したアナベラが言う。「お味はいかがでしょうか」

「良くも悪くも珍しい味だ、とだけお答えしましょう」彼はやや高慢にそう言った。「我らが『帝国』ではこのような料理は出てこないので」

「そうですか……」アナベラはその『珍味ではあるが美味では無い』と言う嫌味に気づいていたが、あえてそ知らぬふりをして、「ところで、そちらのおっしゃる条約の更新内容は、こちらからお支払する通行料を年率〇、二%値上げ、で間違いないのですね?」

「全て書類通りです。 それともクセルクセス様の書いた書類に不備や文句がありますかな?」

「いいえ。 一切ありません」きびきびと彼女は答える。「予想通りの変更内容で安心しただけです。 これが〇、五%を超えたならば再びハルトリャス海戦となったでしょうが、〇、二%ならばそのような事態は一切発生いたしません」

「……たかが新興国クリスタニアが、我らが『帝国』に勝つおつもりか? ジュナイナ・ガルダイア海軍提督のクセルクセス様が腹を抱えて笑うでしょうね」

不快感を丸出しに、ヴィラモヴィッツは嘲るように言った。

「ええ、勝つ事は不可能でしょう、ですがそのクセルクセス殿を捕虜にする事は不可能では無いでしょう」とアナベラは言い切った。


 実際オリエルは言っていた、『ワシが指揮するならばクセルクセスを捕虜には出来るぞ、ただ、その分、こちらの代償もな……。 何も戦争をおっ始めずとも金で何とかなる問題なんだろう、アナベラ? と言う事で、頼んだ』

そしてその金を司っているユースタスも、

『戦争!? 冗談じゃないぞ! 勝ったとしても、戦争でドンパチやらかしている間の貿易の損失の方がとんでもない額になる! そもそも帝国にちょっとの金さえ払っていればこんなに(と具体的なグラフまで引っ張り出し)儲かるんだ。 戦争はしないでくれ、絶対に。 むしろこちらから払う金を吊り上げられても年率〇、五%までならこうだから(とまた別のグラフを引っ張り出し)両手を挙げて大歓迎だ。 だから、頼んだ!』

『そのグラフは一体何で作ったんだ?』何気なくクロードが聞いてみると、

『グラート(ユースタスの娘婿の一人である)が教えてくれたんだぞ! 金額を聞いても良く分からん大馬鹿な連中が多いと私が嘆いたら、「それでは金額を視覚的にしてみては?」と教えてくれたんだ。 ウチの娘の男を見る目は確かだぞ! おい、何だオリエルにアルトゥール! こっちのグラフから目を背けるな! まぶたをこじ開けて見ろ! これが貴様らの年間浪費額だッ!』

『ユースタス、落ち着け。 今はハルトリャス条約の更新問題について話し合っている』グレゴワールがそう言って、アナベラに目で合図した。

『ええ、お任せを』と彼女は不敵に微笑んだ。


 「……」ヴィラモヴィッツは黙りこむ。鋭い刃物でこちらの手を素早く切られたような感触がしたからである。噂通りの外交戦の鬼、なるほど、この女は確かに『カミソリ』、一二勇将の一員アナベラなのだろう。

 その時、レストランの入り口が何やら騒がしくなった、直後オリエル、マダム・マクレーン、そしてゲッタとイヴァンが血相を変えて駆け込んできた。

「何が起きたのです!?」アナベラが席を立った。

「貴族連中がこの帝国からの使者の暗殺を、よりにもよって『デュナミス』に依頼したのよぅ!」毒殺貴婦人が叫んだ。

「『デュナミス』……とは?」ヴィラモヴィッツが首を傾げた時、ゲッタが持ち歩きのホワイトボードに書いた文字を見せた、

『世界最悪の暗殺組織。 ほとんどテロに近いやり方で、一人殺すのに百人殺す手口を取る』

「何だと……!?」ヴィラモヴィッツも血相を変えた。

「軍の精鋭で貴殿を護衛する! だが、帝国に要請してただちに空中戦艦で貴殿の迎えに来ていただくようにお願いしたい! さもなくば、通常の陸路海路を取ったが最後――」それ以上オリエルが言わずとも、ここにいる誰にも分かっていた。

使者のヴィラモヴィッツが暗殺される。それは、『帝国』とクリスタニア王国の、現在は安定しているこの関係が破たんする事に直結していた。

「……すまないが、直ちに王宮の迎賓館に来ていただけないか。 ここでは、危険すぎる」イヴァンが、告げた。


 「ん? 分かった、すぐ行く」

チャーリーはそう言って電話を切った。

「どうしたの?」とモニカが大好物の愛欲どろどろの修羅場ドラマを見つつ、言った。

「ギーから仕事。 すぐに来てくれって滅茶苦茶焦っていた。 不倫でもしたのかなあ? だとしたらチョーの付く馬鹿だなあ。 でも、何であんなに泡を食っていたんだろう?」

「!」モニカの目が猫のように輝いた。「ギー様が離婚する日をクリスタニア中の女が待ち望んでいるのよ!」

「縁起でも無い事を言うなよ!」チャーリーは怒った。「全くこれだからモニカは鬼女なんだぞ!」

鬼女であるモニカは、もう待ちきれずに小躍りしつつ、彼女のヒモに命令する。

「うるさいわね! ほらアンタさっさと行って、ギー様が離婚したってニュースを持ち帰りなさい!」


 ……モニカは性格がマジな鬼女だ、と今更ながらぼやきつつ、王宮に着いたチャーリーは、あまりにも物々しい警備状況に驚いた。何と軍の特殊部隊、それもチャーリーの見た所、最精兵が銃を手に手に護衛しているのだ。

「チャーリー、やっと来てくれたか!」ギーが詰め寄せる兵士の間から駆け出してきた。「事情は中で説明する、こっちだ!」

王宮の中まで厳重警備状態だったので、チャーリーは、これはてっきり国王か王太子を狙ったテロが予告されたのだ、と思った。

 しかし、

「ハルトリャス海戦は知っているか」とギーは廊下を大股で歩きつつ言った。

「知っているよ。 貿易の要衝ハルトリャス海峡を巡って、帝国とクリスタニアが戦って、えーと、帝国が勝ったんだろう? 確か一二勇将は開戦に大反対したんだけれど、貴族におだてられたクレーマンス七世の一声で始まっちゃったんだっけ?」

「そうだ。 そして講和条約が締結されて、それはこちらが帝国に毎年通行料を支払う代わりにハルトリャス海峡の自由な貿易艦船の往来を認めさせる、と言うものだった。 その条約の期限がつい先日来た。 条約の更新自体は無事に終わったんだが……」

「その後に何があったのさ?」

「こちらが毎年通行料を帝国に支払う、と言うのは表向きはこちらが帝国に屈従しているようなものだろう? 実際はハルトリャス関連で上がる貿易の利潤たるや、通行料とは比べものにならないほど莫大なもので、屈従している事がどうでも良くなるくらいなんだが……。 その『クリスタニアこちらが屈従している』と言う姿勢に、貴族が例のごとく大反対でな。 だが今度は悪質すぎる。 よりにもよって、『デュナミス』に帝国の使者の暗殺を依頼してくれたんだ」

「なッ!」とチャーリーが一瞬絶句したのは、彼も『デュナミス』の悪名高さを知っていたからだった。クリスタニアでも第一級反社会的危険組織に指定され、ほとんどテロリストと同じ扱いを受けており、その正体こそ不明だが、やる事なす事がとにかく悪い意味で凄まじいのだ。

「それでこの騒ぎだ。 帝国からの迎えの空中戦艦が、もうこちらへと飛んできている。 それが到着するまでの間、お前にも使者を守ってもらいたい」

「……分かった、分かった。 下手すりゃこれは帝国とクリスタニアの戦争を起こしかねないもんな……」

帝国はあまり外には出ない国である。だが、使者が殺されたとあってはクリスタニアをただでは済まさないだろう。そして歴史上、帝国を激怒させて無事だった国は皆無なのである。

「ああ、それだけは絶対に回避したい」ギーはそう言って足を止め、廊下の壁に並ぶ歴代国王の巨大な肖像画の一つの額縁を、特殊なリズムでノックした。

「……坊やか、入れ」

肖像画が霧のように消えて、壁の向こうには地味そのものの男が立っていた。ギー達が中に入った事を確認してから、その男は壁の模様の一点を指で押し、肖像画の質量を持つ幻影で壁を塞いで、歩き出す。狭い廊下の燭台を倒すと突き当りの壁が開いて更なる隠し通路が生まれる。その隠し通路を通って、彼らは王宮の秘密の部屋に到着した。

 そこでは、黒髪の若い魔族が、不快感丸出しの顔をして、椅子に腰かけていた。

魔族はチャーリーを見て、

「何だそこの男は」と不機嫌そのものに言った。

「俺はチャーリー・レイ……」とチャーリーが自己紹介しようとするのを遮って、

「貴様らはこんな馬の骨に私の警護をさせるつもりか!」と魔族は難癖を付けた。

「馬の骨……」チャーリーがいじけた。「俺は馬の骨……」

「この男はとても頼りになる男だ。 馬の骨では無い!」ギーが食ってかかった。「大体貴方はいくら帝国の使者だとは言え、クリスタニアに来てからと言うもの、態度が酷すぎるぞ!」

「何だと、たかが人間の分際で!」

「……落ち着け」地味そのものの男が、にらみ合う二人の間に割って入った。「あまり大声を出すと、この部屋の存在が露呈する」

「「……」」敵対心を丸出しに、彼らは互いに視線を逸らした。

「シクシクシクシク……」べそをかいていたチャーリーが、はっとした。魔族のマントに何気なく目が行ったのだ。「あっ! 何て素敵な刺繍が施されたマントなんだ! ……ああ、この紋章は帝国貴族のレー家の……そうか、アンタも吸血鬼なのか」

「どうして貴様ごときが我がレー家の家紋を知っているのだ?」魔族は怪訝そうな顔をした。

チャーリーはちょっと自慢そうに、

「ちょっとね、俺詳しいの。 確かレー家は帝国最大の商都ジュナイナ・ガルダイアにある中じゃかなりの吸血鬼の名門じゃないか。 ジュナイナ・ガルダイアと言えばあのクセルクセス氏がまず目に浮かぶなあ。 ハルトリャス海戦で帝国最強のジュナイナ・ガルダイア海軍を指揮したのも、クリスタニアとの講和の調印現場に実際に顔を出したのもクセルクセス氏だったっけ。 クセルクセス氏はジュナイナ・ガルダイアの事実上の『王』だもんなあ。 あ、もしかして、アンタもあのクセルクセス氏の部下だったりするの?」

「そうだ。 だがもうすぐ姻戚関係になる。 あの御方の姪のラシェルと結婚できるのだ」

外交官にあるまじき失言であった。発言の内容は今は関係ない。だが問題は、外交官であるはずのヴィラモヴィッツが、言った後の事を何も考えず、無意識にそうペラペラと喋っていた事である。

「おめでとう!」チャーリーは素直に祝福した。

「ありがとう」

とまで言ってからヴィラモヴィッツは我に返り、色々な意味で顔を赤くして、

「貴様は何様のつもりだ!」

「だから俺はチャーリー・レインズだけど……?」

一切の演技無しに、チャーリーはきょとんとした顔で答えた。

ギーの方が嘆息して言った。

「下手に仮面をかぶるとな、コイツの前では調子が狂うんだよ」

「ちなみに恋愛結婚?」チャーリーはギーの発言を聞いてもいない。

「当然だ。 外交官が女の一人くらい口説き落とせなくてどうする」

「おお、流石じゃん! ちなみにどんな女性?」

「この私が結婚したいと心底思う素晴らしい女性だ」とまで言ってからヴィラモヴィッツは、顔をまた真っ赤にしてチャーリーを蹴った。「貴様は一体何なんだ!」

何だこの男は。外交官にありえない発言ばかりさせる、恐ろしい男だ。

ヴィラモヴィッツはそう思っていたのだが……、

「鬼女のケツに敷かれるしがないヒモだけれど」と言われて固まった。

「ひ、ヒモなのか」

「ヒモだよ、うん……女の穴あきパンツをつくろわされる惨めさって分かる?」

「そんな女を選んだのは貴様だろうに」

「だからってさ、悲しいじゃん、ヒモだとさ……」

「だったら結婚してしまえば良いじゃないか」と口を突っ込んだのはギーである。「幸せな地獄に堕ちられるぞ」

「何、新婚なのに、もう地獄なのお前?」チャーリーは呆れた顔をした。

「愛が重いんだ」とギーは訴える。「一々俺に尽くしてくれるのは良いのだが、怖いんだ、もしも俺が裏切った場合に彼女がどんな報復行動ヴェンデッタに出るか――あの微笑みが般若の形相に変貌した瞬間を想像すると!」

「裏切らなきゃ良いだけじゃん。 ところでそこのおっさんはどうなの?」

チャーリーは『そこのおっさん』によって己が、何故か最初からやけに監視されている事に気付いていた。

「おっさんじゃない!」ギーが今度はチャーリーに食ってかかった。本日のギーはやたらと熱血漢である。「この御方は、一二勇将の、イヴァンさんだぞ!」

「……そう熱くなるな」イヴァンがギーを制した。「俺か。 俺が殺し屋になったきっかけが、女だった」イヴァンは遠い目をして言う。「好きだったのかどうか今となっては分からない。 だが彼女が殺されて、俺は彼女を殺したヤツを殺した。 殺す者は殺される。 それが俺の絶対的な掟だからな」

 「「……」」

 沈黙が訪れる。

「……すまないな」とイヴァンは呟いた。

「いや」とチャーリーが言った。「殺し屋でもアンタには信念があるんだな」

「……そんな大層なものじゃない。 覚悟しているだけだ」

「そっか」とチャーリーは素直に頷いて、それから拳銃を取り出すと、いきなり天井めがけて撃った。断末魔の悲鳴が上がって、ぽたぽたと血が垂れてきた。「で、ドブネズミならぬ王宮ネズミがもう来たみたいだぜ?」


 次の瞬間だった。天井を破って黒ずくめの男達がなだれ落ちてきた。

「ッ! いつの間に、どうやって!?」ヴィラモヴィッツが叫ぶ。

「きっと貴族が手引きしたんじゃねーの?」チャーリーは彼を突き飛ばした。彼がいた空間を無数の銃弾が貫く。

チャーリーはヴィラモヴィッツを引き起こすと、まるで防御壁シールドになったかのようにその前に立ちはだかった。そのチャーリーに無数の銃弾が浴びせられる。なのに――チャーリーは傷一つ負っていない。確かに弾道の先にいるのに、である。その事実に気付いたイヴァンははっとした。

この男は、本当に人間なのか!?

次々と暗殺者達をほふりながら、イヴァンはそれを見極めようとした。

銃弾をいくら浴びせてもらちが明かないと判断した『デュナミス』の連中は、ナイフを手に襲いかかった。

そして、彼らはこの世から文字通り『抹消』されるのである。


 「『我に触れる事無かれ』!」


何が起きたのか、イヴァンは最初分からなかった。消えたのである。彼に襲いかかった暗殺者が、まとめて。

「お、お前は!」ヴィラモヴィッツが叫んだ。「我らが同胞だな!? お前も魔族なのだな!?」

「……」曖昧に笑うきりで、チャーリーは答えない。

「……そうか、そう言う事か」イヴァンは誰にも聞こえないように呟いた。「だから俺は少し違和感を覚えたのか」

暗殺者達の間に動揺が走った。仲間を消されて、動揺しないはずが無い。

そこに、チャーリーがまるで猛獣のように襲いかかった。一人、また一人、と消されていく。彼が触れた相手が次々といなくなっていく。

「――うわ、ああああああ!」

恐慌状態に陥った最後の一人が、逃げだそうとした。その前にイヴァンが立ちはだかる。

「……逃げられるとでも思ったのか?」

そう言って、イヴァンは一気に間合いを詰めると、最後の一人の首を、ナイフで切り裂いた。

 

 「どうしてだ!?」ヴィラモヴィッツは驚いている。「何故魔族が、人間の国クリスタニアにいる!?」

「それは聞いてやるな」ギーが言った。「この男はチャーリー・レインズだ。 人間のチャーリー・レインズだ」

「うん、俺はただの人だよ」とチャーリーは苦笑いした。「ギーのただの悪友さ」

「悪友だな」ギーも、笑って賛同した。

「結構、俺達って腐れ縁だよな?」とチャーリーは白い歯をちょっと見せて、ギーの方を向いて親指をぐっと立てた。

「腐って消えるはずがミイラ化して、思いもよらず長持ちするようになってしまった縁だな」ギーはにやりと笑って返す。

「まあ、そうかも。 人間って何よりもこう言う『縁』で結ばれているじゃん。 血とか運命とか、そう言うのをいつの間にか超えてさ」

「……」ヴィラモヴィッツは何とも言えない顔をしていた。「人間、か。 人の間にも、そう言うものがあるのだな……」

「ひでえ」チャーリーは落ち込んだ。「ちゃんとあるんだよー、否定されると悲しいぜ」

「いや、認めているのだが」とヴィラモヴィッツは、この男が馬鹿なのか馬鹿では無いのか、分からなくなってしまった。

ただ、一つ、断言できる事がある。己は今、とても大事なものと、真正面から向き合っている。

「おお、ありがとう!」チャーリーは毒気の無い、あの無邪気な笑みを浮かべた。この男には、その笑い方が酷く良く似合っている。


 帝国からの迎えの空中戦艦が到着して、使者ヴィラモヴィッツは無事帰還する事が出来た。

帝国に帰還したヴィラモヴィッツは、上司クセルクセスに条約の更新内容が記された機密文書を手渡し、それから言った。

「クセルクセス様。 貴方が何故人間を好いているのか、ようやく分かったような気がします」

「?」クセルクセスはブロンドの髪を揺らして、不思議そうな顔をした。彼は名物貴族だった。何をやらせても天才的な成果を出すのだが、性格が奇矯すぎて地平線の果てまでぶっ飛んでいるのだ。「人嫌いのヴィラモが珍しい事を言う。 天変地異の前触れか? それとも明日、この世界が終わるのか?」

「いえ」とヴィラモヴィッツは困ったような笑顔を浮かべて、「人の間にも、踏みにじってはならないものがあると知ったのです」


 「チャーリーさんママと結婚してー!」テッドはワガママを言う。「結婚して結婚して結婚してー!」

「無理だよ、そればっかりは」チャーリーは困った顔をする。

「やだー! ママとチャーリーさんが結婚したら、ぼく毎日遊んでもらえる!」

「じゃあ俺毎日遊びに来るからさ、イズーさんを困らせるようなワガママを言うなよな」

「ちぇー」テッドはむくれた。「おっさんじゃなくてチャーリーさんがパパなら良かった!」

「あのなー、それ絶対にイズーさんやギーの前で言うなよ」

「わかってるー。 でも、つまんないんだもん……」テッドは悲しそうに言った。「ぼくのおじさんが死んじゃってから、ぼく、ずーっとつまんなかった。 ママもずーっと悲しかった。 でも、おっさんが来て、そしたらチャーリーさんが遊んでくれたの」

「そっか。 じゃあ、これからもずっと遊ぼうぜ! よーし、『バイク・オン・ザ・ロード』をやるか!」

それは最近発売されたTVゲームと言う玩具の一種で、子供向けのものであった。TVの画面の中で、それこそ路上から荒れ地まで場所を問わずに様々なバイクを自由自在に乗りこなすのだ。テッドは目を輝かせて、

「ぼく、ファスト・イーグルに乗る!」

「よし、じゃあ、俺はビースト・ビートルだ!」

二人は和気あいあいと遊んでいて、アドルノはその近くで寝そべってご機嫌そうに尻尾をのたりのたりと動かしている。

「あ」としばらくTVゲームに夢中になっていたチャーリー達だったが、「やべえ、そろそろ晩飯を作らないとだ」とチャーリーが時計を見て言った。

「ぼくお手伝いするー!」テッドは元気よく言った。

「よっしゃ! しっかり手伝わせるぜー!」

「チャーリーさん、今日の夕ご飯はなに?」

「野菜尽くしのヘルシーご飯だ! 隠し味で玉ねぎ切るから泣くんじゃねーぞ」

「ねーねー、何で玉ねぎ切ると目がいたくなるの?」

「それはだな、」とチャーリーが説明しようとした時、

「ワウワウ!」アドルノがエプロンをくわえてきた。

チャーリーはアドルノを撫でて、「ありがとうな!」

「そう言えば、ママがぜったいにアドルノには玉ねぎやっちゃダメって言っていたけれど、どーしてなの? 好き嫌いはいけないんでしょ?」

テッドに訊かれてチャーリーは答える。

「アドルノはな、好き嫌いで玉ねぎを食べられないんじゃないんだ。 犬はな、生まれつき玉ねぎを食べるとお腹をうんと痛める性質なんだぜ。 人間は玉ねぎを食べてもどうって事ない。 でも、犬の体には玉ねぎは毒なんだ。 テッドだって、確かサバのアレルギーだろ? 犬は全部、玉ねぎのアレルギーみたいなモンなんだ。 テッドはサバが嫌いか?」

「……ううん、美味しかったけど、でも、体がかゆくなったの」

「それと同じだ。 だからな、好き嫌いじゃねえんだよ」

「はーい。 他にアドルノのアレルギーってある?」

「えーと。 確か犬はチョコレートもダメだったはずだぜ」

「……チョコレート美味しいのに。 でも、ぼく分かった!」

 テッド達の晩飯に、ロールキャベツとベジタブルトーストを作って、チャーリーは帰宅した。


 モニカが泣いていた。非番の日、彼女は録りためたTV番組、それも愛欲どろどろ修羅場ドラマをずーっと見て過ごしていた。

「ロメオ……! ああ、愛よ、これは愛よ!」

愛する女を守って死ぬ男がTVにでかでかと映っている。

「そう言うの本当に好きだなあ、お前……」チャーリーは呆れている。

「何よ! 悪い!?」モニカは怒るが、すぐに「ああロメオ……!」と泣く。

「……」チャーリーは黙々と夜食を作る。低カロリーだけれど美味しいものばかりだ。カラフルな寒天のゼリーがデザートだ。

「アンタもロメオみたいなイケメンだったらドラマになったのに」

モニカが食事の匂いを嗅ぎつけてやって来た。チャーリーは、

「はいはい、妄想の世界を現実の世界に混ぜ込まないでね」

流石にあしらい方にも慣れてきたようである。

「だってロメオがイケメンすぎるのよ……!」

「イケメンが正義なのか?」

「当たり前じゃない!」

その時、であった。TVに緊急速報と言うテロップが出て、そこには、

『二時間後、本チャンネルでギー様がTV生出演します!!!!』

「「!!?」」

モニカとチャーリーが、TVの前で二時間をワクワクしつつ待つ事になった。とは言え二時間も待ってはいられないので、チャーリーは先にトイレに行ってからシャワーを浴びる。

そこに、

『おーい』黒い子ヤギが登場した。『ギー様、TVに出たくないってのに大学時代の友達に泣きつかれて渋々一五分だけ出る事になったみたいだぜ』

「ああ、道理で。 アイツ、いよいよTVカメラや記者や報道陣から逃げるのが上手くなりすぎて、ニンジャみたいになっている時があったりするんだぜ」

『ニンジャか……』

「うん、ニンジャ」

『ま、俺様は生番組の現場を見てくるわ。 そんじゃーねー』と魔王は消える。

チャーリーは頭を洗いつつ、(教育に良い番組でありますように)と祈っていた。


 視聴率は五〇%を軽く超えた。ギーがスタジオに登場してくる瞬間、ギャラリーの女性陣からの悲鳴は、音響効果抜きでも黄色い悲鳴そのものであった。それはスタジオに流れる音楽を突き破り、マイクをおかしくさせたが、誰も気にしていない。

ギーは笑顔で手を振りつつ、スタジオの席に座った。そこで観衆は、あれ?と思う。ギーの向かいにもう一つ席があったのである。ギーも少し不思議そうな顔をしている。

その相手が登場した瞬間のギーの困惑の顔たるや、見物であった。

サー・ヒュー・アワバック。ベル・ド・カロールの従兄で、やはり同じ大貴族の男であった。ぎらぎらとした脂ぎった顔と、やや肥満気味の体、何より野心的で獰猛な目は、己より上の男など一切認めないと言った光で溢れていた。男としては全く敵わないのにギーと一方的に張り合い、ギーにしてみれば本当に良い迷惑だと言う事態を何度か起こしていた。

テロップが流れる。


 『激突! ~あのライバルが今~ ――ギー様とサー・ヒュー・アワバック氏!――』


 そんな事を言われてもギーは彼をライバルだとすら思った事が無いのだ。

困る。物凄く困る。

だが着席するなり、この男は唾を飛ばしてギーに対しての口撃を始めた。

しかし、頭の回転の速さではギーには彼は絶対に敵わないのである。

ギーは冷静に己への口撃の矛盾点を指摘し、すぐに黙らせる事に成功した。ギーの顔には『すぐに我が家に帰りたい』と言う悲痛な感情がありありと浮かんでいた。早く番組終了予定の一五分が過ぎないかと願っているのが見え見えであった。

アワバックは、それをさせまいと、うなり声を上げて椅子を振りかざしてギーに襲いかかった。この男は貴族だと言うのに、野蛮なのである。

スタジオは混乱の極みに陥った。カメラが激しく揺れ、マイクは悲鳴を拾い、逃げ惑うスタッフや人々が映った。

ギーも逃げている、だが、彼の逃げ方は巧妙であった。柱の側に逃げて、そこで一瞬立ち止まった。すかさずアワバックが椅子で殴りかかった時、ギーはひょいと避けた。椅子が殴打したのは柱であった。反動でアワバックはひっくり返って悶絶する。ギーは、その瞬間を逃さず、すたすたとスタジオから出て行った。

スタジオ裏から、ディレクターの友達を怒鳴りつけるギーの声がした。

「どう言う事だ、俺はお前が土下座する上に政治討論番組だからと聞いて出たんだぞ、それがどうして貴族が出てくる!」

「そうか、俺を謀ったな!」

「言い訳はもう良い、貴様とは絶縁だ!」

 平民の大半が、見ていて実にスカッとしたと言った。

常々、貴族に対してはありとあらゆる不満のある彼らである、ギーの行動はその不満を晴らすものであった。

『お前も不運だったなー』ギーが激怒したままTV局から出て、車に乗り込もうとした時、黒い子ヤギが出てきた。『友達に裏切られちまった。 あの友達、と言うか友達の上司も全員、金でアワバックに買われたみたいだぜ』

「だろうと思った。 俺はもう二度とTVには出ない」

『しかしアワバックって馬鹿なのか? ものの見事に自滅しやがって……』

「馬鹿でもどうでも良い。 俺は、家に帰ってチャーリーの晩飯を食べる。 それからイズーとワインで一杯やって、寝る!」

ギーは言い切って、車に乗って、発進させた。子ヤギはそれを見送って一言、

『これが後で何かの因縁にならなきゃ良いんだがな……』と呟いた。


 ジュリア・ノースが恋人と破局した。恋人は貴族の御曹司だったのだが、ジュリアが平民だからと親の強硬な反対に遭い、ほとんど引き裂かれるように二人は別れさせられた。

そのニュース速報を見たチャーリーは半泣きで、

「ジュリア様が何てお気の毒な……!」

「別にこんな女、どうでも良いじゃないの」モニカはそう言ってチャンネルを変えた。チャーリーは猛然と抗議する、

「あのな、お前はだから鬼女なんだよ! 可愛げが無いんだよ!」

「それが何よ。 文句あんの!?」

「男が道理で近付かない訳だぜ……」

「うるさいわね! この!」とモニカはチャーリーの股間を狙う。チャーリーはまな板でガードしつつ、

「止めろ馬鹿! 男に対してこの攻撃だけはするな!」

 ――この二人の関係は、まだまだ未熟であった。


 王宮ではありとあらゆる噂が流れる。何事も、余程注意しなければ隠し通す事は出来ない。

その王宮の中のギーの執務室を、夜、訪れた人物がいた。王宮は騒ぎになった、その人物がつい先日恋人との破局を報じられたジュリア・ノース本人だったからである。

彼女は頼みごとがあって来たと言った。ギーは、秘密に出来ないが良いのかと念のために訊ねたが、彼女は良いと言った。それでギーは、その場で頼みを聞いた。


 「え、マジ!? 行く行く行く行く!」

連絡を受けたチャーリーは満面の笑顔で、モニカに伝えた。

「ちょっとしばらく出かけてくる!」

「どこに行くの? 帰るのはいつ?」

「ヒ・ミ・ツ。 ってかいつ帰るかは分からない。 でも一番愛しているのはお前だから許してちょうだいな!」

そう言って親指をぐっと突き出すと、彼は仕度をいやにしっかり整えて、疾風のごとく家を出て行ってしまった。

 数十分後、彼はジュリア・ノースの屋敷にいた。この時の彼ときたら、ヒーローに出会えると知った子供のような有り様であった。目はきらきら、鼓動はばくばくであった。

 そこにはギーがいた。

こそこそと二人はソファに並んで話し合う。

「何で元寝取った相手の家にお前がいるんだよ!」

「頼まれたからだ。 詳しくはこれから話す」

「イズーさんに不倫を黙っていて欲しいとかだったら、俺絶対に手伝わないからな!」

「違うに決まっているだろうが!」

二人のいる部屋は、有名女優に相応しい応接室だった。

部屋の隅に最新式の小型オーディオ・セットまである。

 そこにジュリア自身が紅茶とお菓子を運んできて、彼らの目の前に腰かけた。映画館で見るより、知的で、数倍美人であった。あと数年で三十路になろうとしているのに、まだ二十歳そこそこにしか見えない。ただ、悩み事があるらしく、そのために疲れ果てているように見えた。

「本当にいらしてくれてありがとう」

「この男は信用できる男だ。 ――悩みを話してくれても大丈夫だ」ギーがそう言った。

「ええ――どうか、お願いします」

ジュリアはそれでもためらって、目に涙を溜めてから言った。

「実は――数日前からストーカーらしき男につけ狙われているんです」

 チャーリーは、そのストーカーを捕まえるために、その日からジュリアの屋敷に泊まることになった。

「ハイ、絶対にお守りします!」

テンションは最高で、チャーリーは言った。何しろ今度の仕事は憧れの有名女優のSPである、張り切って当然だった。

「俺が付いているからにはご安心下さい!」

と彼は言って、屋敷の一階の部屋でスタンバイした。

 深更。彼の鋭敏な聴覚が、何者かが屋敷に近付いてくるのを察知した。来たな、と彼は身を起こし――その足音の聞こえる方に近付いた。そして曲者が窓から侵入してきた途端に、彼は襲いかかって、部屋中の物をひっくり返す大乱闘の末に取り押さえた。相手は何か武術を習得しているらしくて、時間がかかったのだ。

「捕まえたぞ、このストーカーめ!」

照明を点けると、いかにも貴族風の美青年であった。この顔なら普通に彼女にアプローチすればいいじゃねえか、とチャーリーが呆れた時である。

「なッ、き、貴様こそがストーカーじゃないのか?!」

「え」予想外の発言にチャーリーは目を丸くした。

「僕はモーリス・ド・ミュルヴィル。 ジュリアの元……恋人だ! 彼女がストーカーに悩まされていると聞いて、駆けつけたんだ!」

女の悲鳴が響いたのは、その時であった。

「ジュリアああああああああああ!」

「マジかあああああああああああ!」

チャーリー達は血相を変えて彼女の寝室――一階の、ちょうど館の反対側であった――に駆けつけた。鍵がかかっていたが、チャーリーの強靱な足のひと蹴りで扉を開けた。

彼女は割れて飛び散ったガラスの上に倒れていた。

足音が、割れた窓ガラスの向こうへ遠ざかっていく。チャーリーは急いで後を追ったが、庭の途中で突然足音が消えて、見失った。

「ジュリア、しっかりするんだ! 僕だ、僕だよ!」

青年は彼女を抱き起こし、揺さぶった。

彼女はううーんと呻って、目を覚ました。

「モーリス……」

万感の思いを込めて、名を呼ぶ。青年は、血を吐くように叫んだ。

「僕が悪かった! 親の反対に遭っただけで君を捨てようとして! ――一緒にモンマルトルへ逃げよう! 貴族の地位も名誉も要らない! 君だけが必要だ! 幸い僕には貿易商という職がある、モンマルトルでもきっとやっていけるさ!」

「モーリス!」

二人は、固く抱き合った。

 そこにチャーリーは戻ってきて、空気を読み、自分が場違いなことを悟って、さっさと退散した。


 ――「なるほど、な」

全てを聞いたギーは、頷いた。ただ今王宮では、ド・ミュルヴィル家の御曹司がジュリア・ノースと、列強諸国の一つ、モンマルトル王国へ駆け落ちしたと言うニュースでごった返している。とんでもない大スキャンダルだった。間もなくマスコミにも取り上げられ、凄い事になるだろう。

「あの女、やるじゃないか」

「へ?」チャーリーはきょとんとした。

「自分がストーカーに襲われているという情報を宮中に流し、自分の恋人に駆け落ちの決断をさせ、護衛の者まで雇い、恋人がやって来た時にガラスを割って絶叫し、そしてオーディオ・セットから駆け去りゆく足音を流した。 ――大女優だろう?」

「へ?」まだ、何の事やら彼には理解できないでいる。

「つまり、このストーカー事件は彼女の狂言だったと言うことさ」とギーは言ってしまった。

「!?」

信じられない発言に、チャーリーはただただ、あ然とした。

「おそらく俺が狂言だと気付くことも分かっていたんだろう。 そして昔の因縁から彼女を庇って、誰にも――お前くらいにしか話さないことも」

「え、じゃ、俺は――」

「彼女の映画の役者の一人だったと言うわけさ」

ギーはそう言って、にやにやと笑った。

「彼女の迫真の演技を間近で見られただけでも、良かっただろう?」

「――よ、良くねーよおおおおおおお!!!!!!」

 悲しい絶叫が響いた。


 列強諸国の一つ、モンマルトル王国の王女、ライラ姫が夕暮れに行方不明になった。彼女はクリスタニア王国の王太子アルベールとの見合いと婚約のために来訪していたのだった。

ただちに一二勇将によって捜索隊が結成され、それを聞いた貴族達は噂話で盛り上がった。

彼女は今回の婚約を心底嫌がっていたという。

その所為で逃げ出したのであろうか?

それとも王家を恨む誰かが誘拐したのでは?

彼らの噂話の種は尽きることが無かった。


 チャーリーはその日もバーで一杯やって、御機嫌であった。

夜中に、彼は鼻歌を歌いながら裏道を通り――そこで、一人の少女が倒れているのを見つけた。

「おい嬢ちゃん、大丈夫か?」

「……うぅん」か弱い返事が返ってくる。

こりゃ大変だ、と彼は彼女を抱きあげた。

 真夜中も過ぎた時刻に疲れた顔のモニカが帰ってくると、玄関でチャーリーが待っていた。何か物言いたげな表情で。

「どうしたの?」

「――怒らないでくれるか?」

もじもじと、上目づかいで言う。

「何? まさか――浮気でもしたの?」

彼女は鉄拳制裁の構えを取った。

YESと答えたらたこ殴りにするつもりであった。

「NONO! そうじゃないんだが、ちょっと事情があって――」

「説明しなさいよ!」彼女は血の気が非常に多かった。

「おう。 実は――」

とチャーリーが言いかけた所で背後の扉が開いて、とても愛らしい少女が顔を覗かせた。年は、一〇代の初め頃であろう。将来はすこぶる美人になりそうであった。

「!?」

驚愕を顔に浮かべたモニカに、慌ててチャーリーは言った。

「実は……この子を拾ったんだ! 売春とかじゃなくて本当に拾ったんだ!」

モニカは仰天していたので、思わず叫んだ。

「こ、この子は……ライラ姫よ! ただ今行方不明で大騒ぎになっている張本人よ! 警察官が総動員されて探しているのよ!」

「え」チャーリーがぽかんとする。

きゃあ、と小さな悲鳴を少女はあげた。

「も、もう見つかってしまいましたの!?」


 リビングのテーブルに三人は着いて、話し合いを始めた。

「わ、私、一度も話したこともない上に性格が最悪だと評判の不細工な一回りも二回りも年上の男と政略結婚なんてしたくありませんのよ! それで王宮を逃げ出しましたの。 でも――もう見つかってしまうだなんて」

彼女はしくしくと泣き始めた。

「お姫さん不幸だなあ……他に好きな相手でもいるのかい?」チャーリーは同情した。

「いませんわ。 でも、どうせこの国の方と結婚するならクロワズノワ様の方が余程――」

ギー・ド・クロワズノワは他国でも有名なのだ。才色兼備の佳人として。

「それは無理だぜ、悪い事は言わんから諦めな……」チャーリーはそう言うしか無かった。ギーはイズーに絶対に逆らえないし、逆らうつもりもゼロである。

わっと泣き出した少女に向けて、モニカが言い捨てる。

「普段から贅沢な暮らしをさせてもらっているのは、こう言うことのためじゃないの。 王族の自覚があるのなら諦めて婚約しなさいよ」

「嫌です!」少女は断言した。「私は私の人生を生きたいんです! 普通に恋をして、好きな人と結婚したいんです!」

「全く頑固ね――」

モニカはため息をついた。

「結婚、親御さんに取り消してもらうことは出来ないのかい」

チャーリーが何とかしてやりたくなって、身を乗り出した。すると少女は、

「私の事を聞きつけたクリスタニア王国から請われてですので――私達の方からはとても断ることなど出来ません。 断ったら、最悪、国が滅ぼされます」

いくらモンマルトル王国が列強諸国の一つであろうと、クリスタニア王国には敵わない。

「そいつは惨いなあ……」チャーリーは顔をしかめる。

「王女の自覚が足りないだけの小娘じゃない。 同情する程のことでもないわ」モニカはとことん冷酷だった。

「お前、それ、いい加減に酷すぎるぞ! ――ん?」

そこで彼ははっと閃いた。

「モニカみたいに酷い女になればいいんだ!」

「「は?」」

女性二人はきょとんとした顔になる。

「向こうから結婚を断らせりゃいいんだよ!」

「ど、どうやって?」王女がすかさず食いついた。

「罵詈雑言を吐きまくるヘビースモーカーの上に、DVばっかしやがる冷血女を誰が嫁さんにしたがると思うか?」

「ちょっと! それ私のこと!?」

モニカがキレてチャーリーに掴みかかった。それをかわして、

「だって実際そうだろ? ――おいお姫さん、結婚したくなかったら、これからアンタは罵詈雑言とヘビースモーカーとDVの花嫁修業をするんだ!」

「ど、どうすればよろしくて?」

王女はぱっと顔を輝かせて言う。チャーリーはモニカを見た。

「幸い、生ける見本がアンタの目の前にいる」


 「この屑男! 能なしの間抜けの出来そこない! ピ――ピ――ピ――の粗チン野郎!」

「この屑男! 能なしの間抜けの出来そこない! ピ――ピ――ピ――の粗チン野郎!」

悪口が輪唱される。最初は乗り気でなかったモニカも、徐々に熱が入ってきた。彼女は罵詈雑言のプロだったのである。真似する王女が最初から必死だったのも、彼女を調子づかせた。

傍で聞いているチャーリーの方が、何だか顔色が悪くなってきた。罵詈雑言を聞いていて気持ちが良くなるほど彼はマゾヒストでは無い。

「テメエのあばら骨をガタガタ言わせてやろうか、あぁ?!」

「テメエのあばら骨をガタガタ言わせてやろうか、あぁ?!」

 声が枯れ果てる寸前まで練習した後は、煙草。煙を肺には入れないでスパスパと口から煙を吐き出す。王女はむせていたが、必死に練習した。

「甘い! 咥え方は斜め六〇度よ! そして相手を視線で見下げる! そして馬鹿にしたように煙を吐く! 煙を相手に吹き付けるとなおよし!」

「はい、お姉様!」

何のスパルタ式特訓だろうか。

そしていい加減に一酸化炭素中毒で王女の顔色が青くなってきたので、今度はDVの練習をすることになった。哀れなサンドバッグは勿論言い出しっぺのチャーリーであった。

「男の急所を蹴る! 前屈みになった所で顔に膝をぶち込む! そして背中に肘を入れる! はい実践よ!」

「はいお姉様!」

「あぎゃ! いて、ぐえ、ひい!」

モニカはチャーリーが必死に逃げだそうとしたえり首を捕まえて、足をなぎ払って転ばせた。

「こうやってのしかかって殴る! 殴る! 拳がある限り殴り抜くのよ!」

「分かりましたわお姉様!」

 チャーリーの悲鳴が哀れに響いた……。


 翌朝、王女は街を歩いていた所を捜索隊によって保護された。彼女は彼らの予想を裏切って、見合いに非常に意欲的だった。

 アルベールはうきうきしていた。写真で見たお見合い相手ライラ姫は、年こそかなり離れているものの、将来が期待できるほど可愛らしい少女であったのである。ロリコンと言われようが彼は美しい可愛い少女が大好きだった。その少女を虐待するのはもっと好きであったが。

 周りは厳重に警戒こそされているが、二人がお見合いする場には邪魔者がいないように手配されてあった。

彼は湧き立つ心を抑えて、扉を開けた。

――途端に、つんと鼻をつく謎の刺激臭。

不思議に思いながらも中に入り――そして彼は絶句した。

可愛らしいドレスこそ着ているものの、テーブルの上で足を組み、煙草をスパスパと吸っている少女がいたのである。置かれたワイングラスを灰皿代わりにしていた。

「え、あ――」

噂を聞く限り蝶よ花よと箱入りで育てられたお姫様だと思っていた。そ、それがこれだ。何という真実だ。残酷すぎる。

ただでさえ愕然としていた彼を、汚らしい下町の言葉が襲った。

「あ、テメエがアルベール? アタシはライラ。 テメエみてえなデクノボウの間抜け面のクソ野郎の見合い相手だよ」

「あ、あ――」

声も無く立ちつくす彼に近寄るなり、少女は煙を彼に吹き付け、胸倉を掴み、前後に揺さぶりながら怒鳴った。

「聞いてんのかゴラァ! ぐずぐずしてっとテメエのドタマをかち割っぞ、ああ!? 返事しねえかこのアンポンタン!」


 婚約は、アルベール王太子たっての強い希望で、無しとなった。


 その一連の報道をTVのニュースで聞きながら、ソファの上でチャーリーはぼそりと呟いた。

「そりゃ、誰だって嫌だろうさ。 純真無垢で可愛い女の子が好きだろうさ。 鬼女なんてゴメンだろうさ。 年がら年中ケツに敷かれたくは無いさ。 でも、俺は――」と、そこで言いよどむ。

「うん? 何よ――?」隣のモニカが訊ねた。

「それでも好きになっちまったんだから、しょうがないよな」

何のてらいも気障ったらしさもなく、彼はそう言った。

「……ったく、馬鹿なんだから」

わずかに頬を赤らめて、モニカは言い返すのだった。


 ――今でもその光景は忘れられない。親の大反対を押し切って、彼氏の家に泊まりに行った。父親は警察官だった。平の警察官でありながら、マフィア『天使も踏むを恐れる所』の悪事を取り締まろうとして――だから、身の程知らずだったのかも知れない。だから、当然と言えば当然だったのかも知れない。モニカが彼氏の家に泊まりに行ったその日に、家族中が皆殺しにされたのは。

帰ってみれば家中が血の海の有様に、モニカは卒倒しそうになった。いつも喧嘩ばかりしていた両親と、まだ高等学院に通い始めたばかりの馬鹿で可愛い弟が、無惨に殺されていた。触れれば冷たかった。息をしていなかった。彼女は絶叫して、でも、その声は届かなかった。誰も応えてはくれなかった。この時の絶望を、怒りを、悔しさを、モニカは一生忘れないだろう。

 それ以来だ。モニカはタバコを吸うようになって、国家捜査官になるべく今まで怠けていた大学での勉強に必死になった。そして成れた今、彼女は、ようやく復讐が果たせそうだと言う事に、内心で嬉々としている。身支度をしながらも、つい表情にそれが出ている。

「何怖い顔してんの、モニカ」チャーリーがソファの上でびくびくしながら言った。俺はまた俺の股間に攻撃されるような事でもしたのか?

「復讐できるのよ、ようやく。 私の家族を殺した連中に」

「え!?」

「『天使も踏むを恐れる所』。 あれに私の家族は殺されたの」

「……」チャーリーは沈痛な顔をして、「復讐は止めろよ、終わった後何も残らないぞ」と言った。

「うるさいわね。 アンタなんかに私の気持ちは分からない」

「分からないさ、確かに分からない。 でも……」とチャーリーは口ごもった。

「何よ」

「お前が辛そうだってのは分かる」

「人生辛い事だらけよ。 甘えてなんかいられない。 ヒモのアンタとは違うのよ」

「ヒモ言うな! 俺は便利屋」と少し生意気になって反論しようとしたところに、

「黙れ」モニカはチャーリーの脳天に拳を振り下ろすのだった。


「『天使も踏むを恐れる所』か……」移動中、国家捜査官の一人が呟いた。「嫌な噂を聞いたんだが、それが本当にならない事を祈るのみだ」

「何だ?」ともう一人が訊ねる。

「いや、な……あくまでも噂なんだが、連中、『遺物レリック』を持っているとか何とか……」

「そ、それは本当なのか!?」

『遺物』とは『先代文明ロスト・タイム』と言う、古代に栄えていた謎の文明の遺物である。主に『遺跡』から発見されるが、そのどれもが素晴らしく高度な技術の結晶であり、とんでもない力を持つ兵器にもなりうる場合すらある。代表的なのは聖教機構、この人間が魔族を従える巨大組織の切り札『グングニル・ロンギヌス』だ。この『聖』遺物は、今までに使用された回数こそごくわずかだが、その度にとんでもない結果を引き起こしており、その噂と威力は世界中に広まっている。

「いや、でも、たかがマフィアの一組織が持っているとは考えにくい。 噂は噂だろう」

「それより、例の命令は勿論出ているわよね?」モニカは気になって言った。例の命令とは、激しい抵抗があった場合のものだった。『過度の抵抗があり、こちらの身の危険があると判断された場合には射殺せよ』――モニカは殺したかったのだ。愛していた家族を殺した連中を殺したかったのだ。

この手が。この手が連中の返り血にまみれるのをこの数年間待ちわびていた!

「ああ。 勿論だ。 珍しいな、お前が再確認するなんて」と捜査官の一人が不思議そうな顔をした。

「私も年をくったのよ」

捜査官達を詰め込んだ、ガソリン・カーは順調に道を移動している。

「!」だが、いきなりガソリン・カーが道を曲がった。いきなりなので中の捜査官達はよろめいた。

「どうしたんだ!?」

「付けられた!」運転手が叫んだ。「バイクの男が俺達を付けていた!」

車内に緊張が走る。

「『天使も踏むを恐れる所』の密偵イヌか!?」

「いや……それにしては目立つバイクだった。 何だったんだ、あれは?」

目立つバイク?男?モニカは一瞬頭にチャーリーの姿がよぎった。確かチャーリーはバイクの免許も持っていた。だが、まさか。ありえない。そんな事はありえない。すぐに彼女は否定する。大体今日はチャーリーはテッドとか言う子供のベビーシッターに出かけているはずだ。こんな暇な事をやっている時間は無いはずだ。

それきり特に異変も無く、捜査官達は『天使も踏むを恐れる所』のアジトのビルに到着した。表口と裏口をふさぎ、そして一斉に突入する。

「な、何だテメエらは!?」と中にいた『天使も踏むを恐れる所』の一員が怒鳴った。

「国家捜査官だ!」モニカは怒鳴った。「動くなフリーズ!」

だが、それで動きを止めないのがマフィアである。拳銃を取りだして、撃ってきた。当然、国家捜査官達も応戦する。モニカは身の危険もかえりみずに活躍し、何人も仕留めた。

各階を制圧し、いよいよ国家捜査官達はマフィアのドンのいる部屋に踏み込もうとした。

その時だった。扉が自動的に開いて、そこから、荊がずるずると溢れ出した。

「な」誰かが叫んだ。「何だこれは!?」

だが、すぐに彼らは拳銃で応戦する羽目になる。荊が彼らに襲いかかってきたからである。

「何だこれは。 教えて差し上げましょうか」荊冠をかぶった男が姿を見せて、言った。全ての荊はそこを源として伸びている。

「貴様! 『天使も踏むを恐れる所』のドン・ボリスだな!?」また、誰かが怒鳴った。

「その通り。 さてと国家捜査官の皆さん、死んでいただく前に教えて差し上げます。 これが何か。 これは『遺物』の『荊冠』の復元品レプリカです。 かの救世主が死ぬ前にかぶせられた死の冠。 どうです、凄いでしょう?」男は嬉々としている。

「貴様! 死ね!」モニカは狙い定めて拳銃を撃った。なのに――。

荊が伸びて、銃弾をはたき落とす。荊はあっと言う間に爆発的に伸び、国家捜査官を一網打尽に絡め取った。

「ぐ、ぐうう! 畜生が!」

「放せ、放しやがれ、この野郎!」

彼らは悪態をついたが、事態は何も解決しない。

「嫌ですよ。 貴様ら国家のイヌ共は私達を捕まえに来た。 冗談じゃない。 イヌ共には死んでもらいます。 それではさようなら!」

荊が、国家捜査官達の首に絡みついた。見る見る彼らの顔が充血して、苦しみ悶え始めた。

 ――その時である。


 銀行強盗がかぶるようなマスクをかぶった男が、のそのそと姿を見せた。

「だ、誰だ貴様は!」ドン・ボリスが怒鳴って、荊がその男目がけて伸びた。だが――消えた。まるで空に溶けるかのように荊が消えた。

「……え」

ドン・ボリスの顔が一瞬何が何だか分からないと言うものに変わる。その顔に、拳が深々とめり込んだ。鼻血をまき散らして吹っ飛ぶドン・ボリスを男は追撃した。追撃して、床に倒れた所をたこ殴りにした。何だか見ている方が痛くなってくるくらいにマフィアのドンを殴りに殴って、失神した所でようやく止めた。荊冠をもぎ取ると、それを荊と同じく消してしまう。国家捜査官達は荊が消えて解放され、ぜいぜいと荒い息をついた。

「き、貴様、貴様は誰だ!?」とモニカが苦しい息の下で言う。

すると男は彼女達に向かって親指をぐっと立てて、それから窓から飛び降りた。

モニカははっとした。チャーリーの癖の一つに、親指をぐっと立てるものがあったからである。


 「な、何だったんだあれは?」

「正義のヒーローか?」

「ヒーローがあんな銀行強盗みたいな格好しているかよ、馬鹿」

何はともかく『天使も踏むを恐れる所』を無事拿捕した彼らは、クロードからねぎらいの言葉をかけられ、その後で打ち上げ祝賀会に行っていた。

「いやはや、本当に何だったのかなあ、あれは……?」

「おかげさまで助かったんだが、気になるなあ……」

祝賀会の話題は、勿論あの謎の男であった。あれは誰だ、と言う事で大論争が起きていた。

「……」モニカは、だが確信していた。あれはチャーリーだと。間違いなくチャーリーだと。女の勘がもう間違いないと大声で言っていた。


 彼女が家に帰ったのは、もう深夜を過ぎた頃だった。チャーリーは起きていて、深夜テレビの低俗なコメディー番組を見てげらげらと笑っていた。

「おいモニカ、すげえギャグだぞ、『お手々がいてて!』『太陽にあいたいよう!』だってさ! くだらねえ!」

「……アンタなのよね」とモニカはタバコをくわえて言った。

「へ?」

「今日の一件、アンタなのよね」

「へ??」

だがチャーリーはきょとんとした顔で、

「それよりさあモニカ、夜食食う? ピザ焼いたんだけれど余っちゃってさ」


【ACT六】 崩壊の終曲フィナーレ


 「おいマクレーン!」と例のごとく馬鹿でかい声でオリエル元帥は言う。「お前、魔族じゃあるまいな?」

年齢不明の美女マダム・マクレーンは豪華な扇で口元を覆い、

「いやねぇ、オリエルってばデリカシィが無いんですものぅ。 勿論違いますわよぅ? それよりも娘さんのご機嫌はいかがぁ?」

途端に、青菜に塩、ならぬナメクジに塩のようにオリエル元帥は委縮した。

「ワシの顔も見たくないと言って面会拒絶中だ……」

「だって貴方、デリカシィが致命的に無いんですもの。 そりゃ初潮を迎えたからってそれをお披露目するための大宴会を開くような変態には二度と会いたくは無いでしょうねぇ」

「……」オリエル元帥は可哀想になっている。

「そ、それは引きます。 どん引きします。 それは離婚もされますね……」

Dr.シザーハンドが顔をしかめた。しかし、マダム・マクレーンは首を横に振り、

「それだけなら良かったのよぅ、それだけならぁ」と言った。

えっ、とDr.シザーハンドらが目を丸くした。それだけなら、とは、まさか!

「何と、娘さん達に彼氏が出来たら出来たで、そのデートの時に特殊部隊使って尾行・包囲したのよぅ。 お手々繋いで遊園地に行っただけなのに、その遊園地が軍隊で埋め尽くされる地獄の戦場と化したのよぅ……。 当然彼氏は逃げたわぁ。 私だって逃げますものぅ。 それが繰り返される事五回。 ついに娘さんの一人が自殺未遂で、奥様大激怒。 それでついに離婚されたのよぅ」

「これほど同情の余地が無いのも珍しい……」アンデルセンが呆れ果てた声で言った。

「許せん変態だ。 とんでもない変態だ。 凄まじく変態だ。 大事な事なので三回言った」ユースタスが呟いた。

このユースタスはオリエルとは対照的に、妻娘や娘婿とは大変に仲が良い。

「……」元帥はもの凄く可哀想になっている。

「そう言えば貴方は士官学校を最底辺の成績で卒業されたそうですが、それはそのデリカシーの欠如が原因なのでは……?」ランディーが言う。

「……そこはな、ランディー」消え入りそうな小声でオリエルは言った。「ワシが軍の指揮官としては非凡すぎたから、あの士官学校の教官共には理解できなかったと言ってくれ……」

「そう言いたいのですけれど、貴方は人間性が……」ランディーがそこで口をつぐんだ。オリエルは完全に可哀想になっていた。

「軍人としては優秀だが人間としては大失格だな」グレゴワールがきっちりとトドメを刺してから、「では会議を始めるとしよう」

 一二勇将は円卓を囲んで現状の問題を話し合い、対策を練り、ああでもないこうでもないと討論した。白熱した場合、取っ組み合いの大ゲンカになる事もあるのだが、今日は幸いそこまでは行かずに終わり、その結果を報告するべくグレゴワールが国王クレーマンス七世の所へ向かう。


 クレーマンス七世は、グレゴワールからの報告を聞いてから、言い出した。

「実は、私は、この国の体制を変えたいと思っているのですよ」

「体制を、変える……とおっしゃいますと?」

「今この国の絶対的支配者は私、すなわち国王です。 絶対王権です。 ですがね……」国王は苦々しい顔をして、「私の馬鹿息子のアルベールが後を継いだが最後、あの子はあなた方を迫害するでしょう、王の権力を使って。 貴族と仲良しですからね、あの子は。 それを避けるために、体制を移行したいのです。 立憲君主制にしたいのです。 立憲君主制にして、この国の繁栄を少しでも長引かせたいのです」

「それが陛下のご意志ならば、私は反対しません」

「おや」と国王ははげかかった頭を撫でて、「てっきりハルトリャス海戦のように大反対されると思ったのですが……」

その時は一二勇将が猛反対したのだが、国王は彼らを疎んじて貴族の言うがままに戦争をし、そしてものの見事に敗北した。

「あれは、一〇〇の確率で勝てる戦争ではなかったからです。 戦争とは確実に勝てるものしかやってはならないのです」

「なるほど」クレーマンス七世は納得した。「では、新体制樹立のためにあなた方に勅令を下します。 立憲君主制のための新しい憲法を作って下さい。 私がそれに承認を下せば、グレゴワール、後は貴方達一二勇将がこの国を進むべき方へ導いてくれる。 私がいなくなっても、安心です」とクレーマンス七世は穏やかに笑った。

「陛下」グレゴワールはきっぱりと、「まだまだ陛下にはしぶとく生きていただかねばなりません。 とても死んでいる暇などございません。 それをどうぞお忘れなく」

「ほっほっほっほっほっ」とクレーマンス七世は笑って、それからしっかりと頷いた。


 この二人の間には史上最強の信頼関係があった。その信頼こそが礎となり、一二勇将が形成され、クリスタニアを一列強諸国から世界的大国までのし上げたのだ。世界最強の主従であり、史上最高の親友であり、唯一無二の最大の理解者。二人は互いにお互いをそう認識していて、その認識もぴったりと、一切のずれなく合致していた。この二人が出会った瞬間は、まるで一生涯の伴侶を得た瞬間に匹敵しただろう。何しろ、今やお互いが相手なくしては生きてはいけないのだ。


 「へえ」とチャーリーは朝のコーヒーを飲みながら新聞をめくって、声を上げた。「立憲君主制か。 事実上の民主制だな。 まあ聖教機構も万魔殿も似たようなモンだ。 ようやくそれに追いつくのか……」

「ふうん。 でも、そんな事をしたら、貴族から大反対が起きるんじゃない?」モニカは朝の一服をしながら言う。「だって、貴族やアルベール王太子は、いずれ自分達こそが権力を握ったら、って考えているそうじゃない」

「アルベール王太子に貴族か。 アイツらの良い噂を聞いた事が無いなあ。 そんな連中にこの国の権力を委ねてたまるかってクレーマンス七世は思ったんじゃないかな」

「自分の息子より国を選ぶなんて、名君ねえ……」

「だからこそこの国は発展したんだろうよ。 一二勇将の力と、クレーマンス七世の庇護があったから」


 その頃、一二勇将やギー達は大忙しであった。特にマルバスとランディーが血眼になっていた。マルバスは諜報活動が得意な(正確にはそれの他に特技が無い)悪魔であったので、必ずや反対してくるであろう貴族達の動向を見張っていたし、ランディーは新憲法に何を盛り込むかでてんてこまいだった。だが、彼らは己の職務に誇りを持っていたし、何よりやりがいがあって楽しかった。

ランディーにギーはこき使われたが、彼も同時にこの国の新しい夜明けを迎えられると言う確信があって、やはり嬉しかった。


 だが、この国の滅亡の始まりは、この時からであった。


 『うーん』と週末にギーとチャーリーがバーで酒を飲んでいる所に登場した黒い子ヤギの魔王が、言った。『飽きた。 俺、お前さん達を観察するのにも飽きちゃった。 俺様、また世界を放浪するわ。 んじゃーなー』

「そうか、元気でな」ギーはちょっとつまらなさそうに言った。

『元気もクソも俺様は死ねないんだよ』

「そっかー、魔王にも悩みはあるんだな。 まあ、頑張れよ」

そう言ったチャーリーに、魔王はぱたぱたと耳を動かし、

『善処するさ、じゃあな、お前らも精々生き延びろよー』

消えた。


 ――最初悪魔なんて空想上の生き物だとギーは思っていたが、実在した。この悪魔マルバスは必死に諜報活動を行い、どのくらい必死かと言うと過労で倒れた事もあるくらいだった、主に『反一二勇将派』の動向をつぶさに彼らに報告していた。悪魔と言うからには性格も悪魔的なのだろうかとギーは思ったが、『この世を謳歌したい』と言う目的がある以外は案外普通の男だった。話してみると、相当長い悪魔生を送っているらしく、話題が豊富で面白かった。

異界ゲヘナと言うものがあるのですよ』

「へえ」

『帝国の支配者女帝が生み出した世界なのですが、地獄とは違って死人がのんびり喋っているのですよ。 まったりまったりと』

「行ってみたいですね」

『行きますか、人間は戻れないですけど』

「……止めておきます。 ところで地獄も本当にあるのですか?」

『……あった、と言う方が正しいですね。 何せ門番の大天使ラブ・マラキムウリエルが死んだので大混乱、秩序もへったくれも無くなった状態らしいんです。 まあでも大天使達がいる限り維持されては行くでしょうが……』

「大天使――?」

『聖典にこそ書かれてはいませんが、と言うかあれは改ざんされまくっていてあんまりあてにはならないのですが、かつてこの世を支配しようとした悪の化身みたいな機械仕掛けの神ヤルダバオト。 その手下です。 残忍で鬼畜で超怖かったのです、そりゃあマダム・マクレーンをしのぐほど』

「ええええッ!?」

『一番恐ろしかったのはサタナエルと言う大天使でしてね。 あれがあのままだったら、世界は無慈悲な機械仕掛けの神のものに成り果てていたでしょうよ……』

と、マルバスは遠い目をして言うのだった。

とにかく、悪魔の癖に思っていたより悪魔らしくないマルバスと、ギーはそれなりに仲が良かった。

 しょっちゅうマダム・マクレーンに騙されて毒を飲まされて悶え苦しんでいるマルバスを、ギーは慰めたりしてやったが、マルバスはめそめそと泣くかあるいはしくしくと嘆くかを繰り返していて何も事態を解決も改善もしようとはせず、まるでマダム・マクレーンとマルバスのこの二人は共依存関係のようだった。

(実際共依存関係なのだろうな)とギーは思う。(何でも悪魔は取り憑いた人間の魂を得るまで離れられないそうじゃないか)

だが、その依存関係のおかげでギー達は利益を得ている。

 不思議なものだな、とギーは思った。


 クレーマンス七世が、グレゴワールに一度だけこぼした事があった。

「もしも馬鹿息子が、ギー坊やのように賢かったら」と。「せめてギー坊やのように優しさを持っていたら」と。

だが、それは夢のまた夢であった。哀しい現実をクレーマンス七世は見つめなければならなかった。彼の一人息子は人間のゴミ屑である、と言う現実を。

「……」

クレーマンス七世は寝台の上で趣味のジグソーパズルに没頭している。国王の権限が制限される事となる新体制樹立まで、彼はそうやって時間を潰していた。

グレゴワール達に権力を与えたのは彼である。だから、その責任を取るのも彼である。グレゴワール達は本当に良くやってくれた。この国を世界的大国にしてくれた。新体制が樹立したら、と彼は続けて思う。もう、自分は死んでも良い。これで心残りはもう無い。若くして亡くなった王妃アンリエッタも自分を待っているだろうし……。

「ふう……」

彼は不意に強烈な眠気を感じた。彼はジグソーパズルの最後の一ピースを握りしめて、寝台に横たわった。彼はゆっくりと目を閉じた。早く新体制樹立の瞬間を迎えたいなあと思いつつ。

 ――二度と目覚めないとも、知らないで。


 『うぴゃああああああああああああああああああああ』

マルバスがけったいな悲鳴を上げながら、寝ているマダム・マクレーンに飛びついて、揺さぶり起こした。

「何!? 何事なの!?」マダム・マクレーンは飛び起きる。

マルバスはもう天地がひっくり返ったくらいに動転していた。

『くくくくくくクレーマンス七世が! 国王が! あばばばばばばばばばばば! 息! 息していないんです! 完成間近のジグソーパズルほったらかして寝てて、変だなーと思ったら、息が!』

すぐさまDr.シザーハンドが駆けつけた。だが、もう、手遅れだった。

 ――稀代の名君、クレーマンス七世、崩御。


 マルバスは諜報活動にいそしんでいた。新体制樹立の話を聞いて貴族が暗躍しないはずが無いのだ。下手をすれば暗殺組織に一二勇将の暗殺を依頼する事くらいはやらかすだろう。

彼は夜中に大貴族、サー・ヒュー・アワバックの館に潜入しようとした。

その彼の目の前に、にゅうっと美青年が現れたものだから、彼はびっくりした。

『あ、アスモデウス殿じゃないですか!』

『こんばんはマルバス殿。 ご機嫌はいかがかな?』と美青年は優雅に言った。

『ええ、びっくりして心臓がばくばく言っています。 じゃなくて! 何故、何故貴方がここにいるのですか!?』

確かこの悪魔アスモデウスは、万魔殿に味方している悪魔である。それがここに、いる、と言う事は――。

『――まさか』マルバスは青ざめた。とんでもない事態が思い浮かんだのだ。『貴族連中、国を裏切って、万魔殿と組んだのですか!?』

『知らんぞそんな事は。 我はただ散歩のついでにここにふらりと立ち寄ったに過ぎん』

『でしたら』マルバスはビビリたいのを必死に我慢して言った。『そこを退いては頂けませんか』

『断る。 どうだ、酒の一杯でも――?』

『今は仕事中なんです。 飲んでいたらぶっ殺されます。 ……そこを退いて下さい』

『断る。 どうしても通りたいのならば――』

アスモデウスの全身に殺気が満ちた。マルバスはびくっと震えてしまった。彼はあまり戦闘が得意ではない。おまけにアスモデウスの方が長く生きている、手練れである。良くて相打ち、悪ければマルバスが殺されるだろう。だとしたら、彼は、すぐにこの情報をマダム・マクレーン達に生きて告げなければならない。貴族が万魔殿と組んだかも知れない、と。

『アスモデウス殿』彼は捨て台詞をはいて逃げた。『裏切り者共と手を組ませるのはお止めさせなさい! 裏切り者はいつだって何度でも裏切る! 何らあなた方のためにはなりません!』

『だから、我はただ散歩のついでにここにふらりと立ち寄ったに過ぎんよ』

アスモデウスは、マルバスの姿が見えなくなった途端に、ふう、とため息をついた。

『噂には聞いていたものの、まさかマルバスが来るとはな。 だが――』

ぎらり、と彼の目が輝いた。

『カールがこの国にいるならば、よしんば裏切り者とでも手を組む利が我らにはあると言うものだ』


 チャーリーはご機嫌であった。テッドのベビーシッターとアドルノの面倒を見るバイトは、実に楽しい仕事であった。テッドは年の割には賢いし、アドルノは彼に懐いている。一緒にふざけたり遊んだりして、怪我をさせないように注意していればよかった。

その帰路、彼は市民バスに乗りながら、窓から外の景色を見ていた。バスは交差点の信号が赤に変わったので停まる。その時、彼は誰かからの視線を感じた。

「?」

周囲を見ても、バスの乗客は彼をじろじろと見てなどいない。気の所為か、と彼は思い、すぐに忘れてしまった。


 ――バスが去った後、その進路と交錯する側の道路の信号機の上に謎の美青年が現れて、その顔は驚愕に歪んでいた。

『か、カール! 生きていたのか! この国にいたのか! こ、これは大変だ!』


 チャーリーはマンションに帰って、人の気配がするものだから、てっきりモニカがいつもより早く帰ってきたのだと思った。

「モニカー? 珍しいな、お前が先に帰ってくるなんてよ」

そう言いながらリビングの扉を開けた彼は、硬直した。

『我だ』

さっきの美青年が、いたのである。

「アスモ、デウス……!」

つい、言ってしまった。

『生きていたのだなカールよ』美青年は、呟いた。

「違う! 俺はチャーリーだ! チャーリー・レインズだ!」

『そんなに戦争が嫌だったのか。 クリスタニアに亡命していたとはまさか思わなかった。 国の体制が変わると言うので様子見に来てみたら……』

「止めてくれ!」チャーリーは激しく頭を横に振った。「俺はチャーリー・レインズだ!」

『オディールがお前を待っている。 まだ待っている。 それより、どうやって亡命したのだ?』

「どうだって良いだろ! 関係ない! もう関係ない! 俺はチャーリー・レインズだ! オディールなんか知らない!」

『お前が心底戦争を嫌がっていたのは知っておる。 だからか? だから全てを捨てて平穏な生活を望んだのか?』美青年は部屋を見回して、『……気性の荒い女のようだな、だが愛しているのか』

「そうだ! だから、だからもう――」

『そうは行かん、と言っておるだろう。 我は帰ってこの事を「彼女達」に伝えよう。 お前をどうするかは「彼女達」次第だ』

「止めろ」ぞっとするほどの殺意が、チャーリー・レインズの目に浮かんだ。「止めろ。 さもなくば俺はお前を、お前であろうと殺す!」

『出来んさ』だが、美青年は鼻で笑っただけだった。『お前は優しすぎる男だ。 我を殺す事など不可能だ』

「『彼女達』は、まさか――」チャーリー・レインズは青ざめる。

『まさかも起こりうるかも知れんな。 お前が、寵児ゆえに』

「止めてくれ! 俺は、俺は――」

『万魔殿に戻ってくるのだ、カール。 これが最後通牒だ。 我とてお前を悪いようにはしない。 誰もがお前が帰還すれば、喜ぶだろう』

「俺は!」彼は悪魔の誘惑に、絶叫した。「チャーリー・レインズだ!」

『……そうか。 残念だ、カール』

美青年は姿を消した。チャーリーは、その場にうずくまった。


 ……モニカが帰ってきた時、基本的にタバコ臭いはずの家中が酒臭かった。

「ちょっと、何ぐでんぐでんになっているのよ!?」

リビングのソファに、チャーリーがひっくり返っていて、その片手には酒瓶があった。モニカがやって来るのを見ると、起き上がって、ぼろぼろと泣き出した。幼い子供のようにわんわんと泣き出した。

「えッ!? ど、どうしたのよ!?」

「モニカ、モニカ、モニカ、うう、俺、俺――もうお終いだあ、もうお終いだあ!」泣き喚いて話にならない。

「何、アンタ、殺人でもやらかしたの!?」

「違うー! でも、俺もうお終いなんだ! アスモデウスなら俺とギーの関係にもすぐにたどり着く、そうしたら――俺は、うわああああああああああああん……」

「何があったのか知らないけれど」モニカはこつんとチャーリーの額を小突いて言った。「アンタが法律違反を犯していない限り、この国は、いいえ私がアンタを守るわよ」

「……!」チャーリーは、モニカにしがみついた。「モニカ、俺、俺――愛してる! 世界で一番お前を愛している!」

その脳天にモニカはひじを落として、「うるさいから泣くんじゃねえ」


 「ごめんマジごめん、アスモデウスに俺の居場所がばれた……」

『確か、お前の知り合いの悪魔、だったな』

「うん……ごめん……もしかしたら万魔殿が動くかも……」

『気にするな。 お前はクリスタニアに亡命した。 亡命者を引き渡すなんて事は、絶対にありえない事だ』

「でも、ごめん、先に謝らせてくれ。 俺、整形手術しておけば良かったよ……」

『分かった分かった。 気にしなくて良い』

「ありがとうな……」


 王太子アルベールは、ギーの事が大嫌いだった。

まず、身分出自が卑しいのに、『一二勇将』の誰彼からも可愛がられている。

次に、見た目。アルベールの外見は、はっきり言って不細工だった。なのにギーと来たら男でも惚れそうな美青年である。しかも美女と結婚した。

その次に、学歴。アルベールは運悪く馬鹿に生まれついた。その馬鹿は高慢ちきな馬鹿だった。自分はクリスタニア王国で二番目に偉いのに、どうして勉強が出来ないのだ、と言う努力もしなかった癖に甘ったれた馬鹿であった。その点ギーは最難関大学クリスタニア国立大学を……。

最後に、性格。アルベールは臆病で妬み深く疑い深い性格をしていた。こんな性格をしていて女に受けるはずが無いのに、いや、受け入れてくれた女もいたのに、疑い深いアルベールは残忍にも捨てていた。そして自分より弱い者を虐待するのが大好きであった。その点ギーは勇敢で、ウィットとジョークを使い分けられる男だった。当然、女受けも男受けも良い。と言うかギーに欠点があるとすれば身分と目で、そのコンプレックスすら逆にギーを魅力的にしているのだから敵うはずが無かった。でもギーは一度もアルベールを馬鹿にした事は一度も無く、むしろ殿下殿下と敬意を持って接していた。それがかえってアルベールの自尊心を害していたとは、全く知らないで。

だったら別の所で――例えば父王クレーマンス七世の後を継いで名君になるとか――これは実は難しくなかった。『一二勇将』を重用すれば、彼らはその恩義に成果を持って報いるだろう。

だが、アルベールは己の素行、いや悪行を厳しく怒鳴りつけてくるグレゴワールや、ああだこうだといちいちとつべこべ進言してくる『一二勇将』の面々が大嫌いであった。それよりも彼は彼を王太子だからとちやほやしてくれる貴族の方が大好きだった。

 「立憲君主制だと……!?」

女を抱きながら、アルベールは顔を歪めた。彼は薬で眠らせた女を抱くのが大好きで、その女は主にサー・ヒュー・アワバックが斡旋してくれていた。女と言っても、まだ児童と表現した方が適切な年齢の女である。

「ええ。 もっぱらの噂です。 王太子殿下、お伺いしたいのですが、賛成ですか反対ですか?」

そのサー・ヒュー・アワバックと仲良く女を分かち合いながら、彼らは密談している。

「反対に決まっている! 何だ、何で国王の権限が制限されなければならんのだ!」

「全ては『一二勇将』がこの国を我が物にせんがため。 殿下が反対されると聞いて安心しました」

「今度ばかりは我が父と言えどその臣下と言えど、もはや許せん……! 何か、何か良い方法は無いものか! ……そうだ」

にんまりと、アルベールは顔を歪めた。そして、サー・ヒュー・アワバックの耳元で何か囁いた。彼も笑う。とても、とても醜い笑顔で。

「それは大変よろしゅうございます」


 万魔殿からクリスタニア王国のアルベール王太子に、内密に連絡が入った。それはある男を差し出させる代わりに彼らにありとあらゆる協力を惜しまない、と言うとんでもないものだった。

 万魔殿の大使を招いた――青髪の美しい女と美青年だった――会合がサー・ヒュー・アワバックの館で開かれた。主な大貴族が集合し、現国王への不満と『一二勇将』への怨嗟と呪詛の声で満ちあふれた。『一二勇将』の活躍とは裏腹に冷遇されてきた貴族達である。彼らを見渡して、アルベール王太子は言った。

「最大にして最悪の邪魔者は殺してしまえば良い、そうでは無いか?」

しん、と辺りが静まりかえった。

それは、つまり――。

「もしも」と万魔殿の大使が言う。「誰もがそのおつもりでしたら、私達が手を下しましょう、直ちに」

「その後はどうなる……?」誰かが言った。

「決まった事です」サー・ヒュー・アワバックが言った。「アルベール王太子が後を継がれ、我らが栄華の時代が訪れる! この肥沃で偉大な国を、我らの意のままに出来るのですよ!」

「素晴らしいわ!」ベル・ド・カロールが叫んだ。誰もの顔に笑みが浮かぶ。それを見渡して、万魔殿の大使はぱちりと指を鳴らした。

「アスモデウス。 お願いするわ」

『オディール。 では行ってくるとしよう……』

 美青年は姿を消した。


 ――偉大であった主君の死を知って、グレゴワールは、言った。

「皆。 今すぐ大事な人を亡命させるのだ」

「「!」」一二勇将の間に動揺が走る。

「新体制が樹立せずに陛下がお亡くなりあそばされた今。 アルベール王太子殿下が後を継げば、我々は間違いなく迫害されるだろう。 そうなる前に、大事な人を亡命させるのだ。 ギー」と彼は、いつになく優しい目でギーを見つめた。「お前も逃げなさい」

「嫌です!」ギーは叫んだ、「俺は貴方の息子だ! どこまでもご一緒します!」

「……そうか。 ではお前の大事な人は、逃げさせてやれ」

「……はい」

だが、そのイズーも逃げる事を拒んだ。

 「私は貴方と一緒にいる。 最期までいる」

「イズー、駄目だ、頼むから逃げてくれ!」ギーは土下座せんばかりに言った。「モンマルトルのジュリア・ノースと連絡を取ってある! あそこに行けば大丈夫だ、安全だ、だから――」

「私は」イズーは穏やかに、だが絶対的に決定的に言った。「貴方と一緒にいる。 そう決めたの。 テッドだけ逃げさせてやって」

「僕もママンと一緒にいる!」とテッドは叫んだ。

「あのね、テッド」とイズーは優しい声で言った。「貴方は生きなきゃいけないの。 貴方はこれから幸せにならなきゃいけないの。 それがママとの最期の約束。 良い?」

「やだ! やだ、やだ、やだやだやだやだ!」

テッドは泣きじゃくって、話にならない。ギーは言った、

「……じゃあせめてチャーリーの所にいろ。 アイツならお前達を守れる」


 クリスタニア王国首都クリスタニアンが喪の黒一色に包まれる、

 「なあモニカ」

その暗い街並みの中を歩きながら、チャーリーは言った。

「お前は、何があっても死ぬんじゃないぜ」

「当たり前よ。 石にかじりついてだって、生きてやるわ」

例のごとく周囲に毒煙を吐き出しながら、モニカは宣言した。本当に石にかじりつきそうな気配であった。

「そうそう、そう来なくちゃ。 ――お前さんのそういう所、俺は好きだぜ」

「……この、馬鹿が」彼女が赤くなって呟いた時である、

 「カール!」

呼び止められた声を聞いた途端、チャーリーは真っ青になった。振り返って、呼び止めた人を見るなり、悲鳴のような声で言う。

「オディール! 何でお前がここに!?」

彼を呼び止めた女は、磨き抜かれた刃のように鋭い印象の美女であった。

「やっぱりアスモデウスの言う通りに生きていたのね――死んだものだとばかり、この数年、思っていたわ」

「何の話?」モニカが口を挟んだが、無視された。

「そうだ、カール・フォン・ホーエンフルトは死んだんだ! だから――もう関わるな! 俺はチャーリー・レインズだ!」

「何故? 婚約までしたのに――私は貴方を愛している」

「俺は――平和な今の暮らしを維持したいだけの、ちっぽけな男なんだ、お前達とはもう無関係なんだ! それに俺はお前なんか愛していない! だから、だからもう止めてくれ!」

「嫌よ。 何が何でも――連れ帰ってみせるわ」

女はそう言うと――くるりと背を翻して、去っていった。

 「一体何があったの、貴方の正体は一体何なの!? あの女は?!」

同棲しているマンションに戻った途端、モニカは問い詰めた。

チャーリーは泣きそうな顔をして、

「俺の本名はカール・フォン・ホーエンフルト。 魔族の『高貴なる血』さ。 万魔殿の幹部をやっていた。 でもメルトリア戦役の時に、ここクリスタニア王国にこっそり亡命したんだ。 チャーリー・レインズって男になったんだ。 あの女は俺の元婚約者で、オディール・フォン・ホーエンフルト。 同じ万魔殿の幹部なんだよ」

信じられない告白に、彼女は目を剥いた。何かが人と違っていて、どこか変な、でも馬鹿な男だと思っていた。それが――これだ。

「――貴方は私を騙していたのね!?」

彼は俯く。

「ごめん。 でも――こればっかりは知られたく無かった。 だって俺は戦争が嫌いで、逃げ出した裏切り者の臆病者で、平和な今の暮らしを、ずっと続けていきたくて――」

彼女は黙って煙草を吸った。その脳裏には、あのわんわん泣いていた馬鹿な男の姿がある。吸い終わると、言った。

「これだけ聞くわ。 ――貴方、私を愛してる?」

「愛しているから……言えなかった」

彼はとうとうぼろぼろと泣き出した。

「……そう」彼女は、じっとカールを見つめながら言った。「じゃあ、私は貴方をどこまでも信じてあげる」


 今しかない。今が最後だ。

オリエル元帥は、己が手塩にかけてたたき上げて育てた参謀達を集めて、言った。

「亡命しろ」

「「えっ」」

「もうじきワシは政治犯収容所にぶち込まれるだろう。 お前達も連座される可能性がある。 家族を連れて亡命しろ」

「で、ですが――」と参謀の一人が言いかけたのを、

「これは命令だ!」と威圧的に怒鳴ってから、元帥は珍しく優しい顔をした。「最初で最後の軍規違反をしろ」

「どうして元帥も、」と言いかけた別の一人に、彼はまた険しいいつもの顔に戻り、

「ワシはこの国で生まれてこの国のために生きてきた。 ワシにはもう、他の生き方が無いのだ。 それに……」

「それに……?」

「これがワシの、アルベールに対する最小で最大の反撃だ」元帥はにやりと笑い、「それにな、お前達ほどの参謀を失うなんぞ、重大な国損、いや、世界損だ。 亡命費用に困ったらユースタスの所へ行け。 話はもうしてある。 異存は受け付けんぞ、急げ!」


 クレーマンス七世の葬儀は国民の涙の中、粛々と、盛大に行われた。教会の鐘が悲しく打ち鳴らされた。

それから、対照的に華々しくアルベール王太子の戴冠式が行われた。国民のほぼ誰もが、『いくら貴族と親しくても、きっと父王の遺志は継ぐだろう』とアルベール二世の戴冠を祝福した。

そして、事態はグレゴワール達の想像を超えて、最悪の方向へと進行していく。

王位に就いて早々、アルベール二世は『一二勇将』の解散を命じた。『一二勇将』が務めていた地位には、それまで冷遇されていた大貴族達が収まった。

国民は顔色を変えた。これは、政変交代というレベルではない、革命に近しい大事件であった。そして、すぐさま国王を殺害しようとした大罪と、国家反逆罪で、殺し屋イヴァンとオリエル元帥が逮捕され、政治犯収容所の虜となった。国民は震かんした。これはどう見ても無実の罪、えん罪だったからだ。

そんな中、帝国から使者が送られてきた。亡王の弔問と新王の祝福に、ヴィラモヴィッツが送られてきた。

これをアルベール二世は捕らえて、処刑しようとした。残る一二勇将の面々は血相を変えてそれを止めようとし、全員が国家反逆罪で投獄された。アルベール二世は、初めから、これ――一二勇将への濡れ衣こそが目的だったのだ。勿論ギーもだ。

この国王は残酷にも、その目的を遂げたのに、使者を処刑してしまった。


「はあ?」

使者ヴィラモヴィッツ処刑の話を聞いたクセルクセスは一瞬ぽかんとして、それから激怒した。心底激怒した。結婚式で、可愛い姪を奪われた嫌味を散々に言ってやったばかりの相手が、異国で殺されたのである。

「一二勇将は何をやっていたのだ!? 条約を更新したばかりの国の、しかも平和目的で派遣したヴィラモを殺すなど! 気が狂ったのか!」

「それが」部下も怒りで震えている。「一二勇将はそれを止めようとして全員投獄されたそうです」

「よろしい! ならばもうためらう必要は無い!」クセルクセスは拳を机に叩きつけた。「戦争だ! 善意を仇で返した裏切り者共を! 赦してなどやれるものか!」


 イズーはこの時に恐らくベル・ド・カロールの指示を受けたと思しき手先によって殺されていた。チャーリーが宅配の荷物を受け取りに玄関に出た、その一瞬の隙に殺されたのだ。その傍には、頭を撃ちぬかれたアドルノが転がっていた。宅配の荷物にはこう書かれた紙切れが入っていた。『泥棒猫に天誅を』。

テッドはチャーリーの元に引き取られたのだが、その後数日して姿をどこかに消した。チャーリーは行方を捜したが、見つからなかった。

 それを聞いたギーは、牢獄の中で血が出るほど唇を噛みしめた。


 クリスタニア国立大学法学部名誉教授、サミュエル・グラッジは牢獄のギーへ会いに行った。この男はグレゴワールの友人であり、かつ、ギーの恩師でもあった。世界中から、『クリスタニアの知性』と尊敬を集めていた人間であった。

「ギー」この老人は、ぽろぽろと涙をこぼした。「私が貴族だったならば、ギーをここから出してやれたかも知れないのに」

だが現実はただの平民なのであった。

「教授」ギーは、まるで廃人の様な有様であった。いつも知的な光をたたえていた目は死んでいて、発する声も痛々しく、まとう雰囲気は死人のそれであった。「そのお気持ちだけで十分です」

「ギーは、絶対に今ここで、この国で死んではならない。 お願いだ、生きてくれ」

それはこのサミュエルだけの思いでは無かった。一二勇将の総意であった。

「……教授、俺にはもう何も無いんです」ギーは呆然としつつ言った。「もう、何も……」

愛した女は殺された。最も守りたかったものを、殺された。

「未来がある!」この老人は血相を変えて言った。「ギー、お前には未来があるのだ! それがどんなに過酷であろうと残酷であろうと、お前には進まねばならぬ道があり、やらねばならぬ事がある!」

「……」しかし、今のギーには、未来と言われても何も具体像が浮かばない。精神が歪みそうな、悪夢じみたものしか見えてこないのだ。

「ギーや」サミュエルは感情を抑えて言った。「お前は、絶対に、今、ここで死んではならないのだよ」

そう言った途端に彼はどうしようもなく泣けてきた。その涙の源はアルベール二世に対する激しい怒りよりも、強い無力感と悲しみであった。


 「……お前が私に会いに来るとは意外だな」とグレゴワールは言った。強化ガラスの向こうには、サミュエルがいる。

サミュエルはクリスタニアの政治に政治家として関与しようとした事は一度も無かった。ただ、一二勇将のやり方ややった事について論評したり、批評したり、分析したりと、むしろ学者的な切り口でグレゴワールの対極に立っていた。誰も気付かなかったが、二人はクリスタニア国立大学法学部の同窓生であった。ただ、サミュエルは教授からも将来を嘱望され可愛がられる優等生であったが、グレゴワールはいつも単位ぎりぎりの劣等生であった。二人は全く別の道を歩んだかのように見えていたが、実は近しい所にいた。

「ギーについてだ。 私もどうしてもあの子を死なせたくないのだ。 グレゴワール、お前達が何らかの手立てを取っていないとは思えん。 もしも私にも手伝える事ならば、何でも助力しよう」

「……聖教機構」と黙りに黙った末、グレゴワールは言った。「我らの最期の望みは、もはや聖教機構しか無いのだ」

「分かった」サミュエルは言葉少ない中に、グレゴワールらの真意を悟って、頷いた。「私も努力する。 ……では、な。 さようならだグレゴワール」

「ああ。 さらばだ」

サミュエルはふと、面会室を出る間際に振り返った。


 老いた男の痩せた後姿が、収容所のドアの向こうに消えて行った。


 この男がかつてはクリスタニア王国を大国にのし上げた英雄達の筆頭に立っていたのだ。そして、己の主君と何よりも強い絆で結ばれていた。

ああ。サミュエルのしなびた頬を涙が伝った。クレーマンス七世よ、貴方はもう少し、もう少しの間、死んではならなかったのだ!


 ……悲劇的であったのはユースタス・メディチ夫妻であった。

 ユースタスは今でこそ名だたるメディチ財閥の当主であったが、元々は親の借金のかたに富豪メディチ家に売られてきた召使の子供であった。当時の当主ファビオ・メディチは成金富豪として貴族に馬鹿にされていた。

ユースタスの才能を開花させたのが、メディチ家の令嬢カロリーナだった。何の事は無い、ユースタスと恋仲になってしまったのだ。だがファビオは彼女をいずれは貴族に嫁がせようと考えていた。

 ファビオは考えて、ユースタスに口止め料を与えて、二人の関係を終わらせようとした。だがユースタスは金を三倍にして返してきて、どうかカロリーナを下さいと言った。ファビオは更なる金で黙らせたが、五倍の金が戻ってきた。ここで彼はふと思うのである、これはもしかしたら金の卵を産む鶏かも知れないと。それで、彼は大金を与えて、様子を見た。ユースタスは金を一〇倍にし、土下座して、カロリーナをと必死に頼んだ。

 ファビオは考えた。そして、カロリーナを与えた。クリスタニア一の富豪と言う地位がまずやって来たが、何より可愛らしい女孫が二人と、仲睦まじい娘夫婦の姿が彼の目に映った。

 ファビオの没後もそれは変わらなかった。ユースタス夫妻は週末にはデートに出かけ、観劇し、サロンを開いて文化人や教養人との交流を楽しみにした。だから彼らは財界のみならず芸能界や学界においても非常に影響があった。彼らの娘はいずれも母親に似て美人になり、父親に似た賢い男を捕まえて結婚した。ついに孫の顔を見たユースタスは有頂天になりすぎておかしくなり、真夜中にカメラ屋にカメラを売れと怒鳴り込み、妻に引っぱたかれた事もあった。

 ……今、女婿のグラートは、泣きじゃくって、見るも哀れを誘う義理の母親と、それを強化ガラスの向こうから必死に慰める義理の父親を見る。

 幸せ、だった。この夫婦が喧嘩をしたところを見た事は滅多に無かった。いつも二人はより添っていた。それを素直に羨ましいと思ったし、こんな夫婦になりたくて生きてきた。グラート自身は孤児だったから、余計にこの幸せが欲しかった。それがこの手に得られたと思った、だから次は維持したいと必死に、何よりも思っていた。

そうやって目指していた『家族』の仲が、今、引き裂かれるのだ。

「あのう、面会時間が……」と言ってきた看守にカロリーナは金貨を嫌味なくらいに投げつけてから、強化ガラスにほとんどすがりつくように、

「どうしてユースタス、どうしてよ! お願いだから一緒に逃げましょう!」

「……ごめんな、ごめんな、ごめんな、カロリーナ。 だが私はアイツらを見捨てられん」

「――!」声も無く泣きじゃくるカロリーナから、ユースタスはグラートに目を移し、

「すまんな、連れて行ってやってくれないか。 どうか頼んだよ」

孤児だからと差別された事は一度も無い。才能や実績を何度も誉めてくれた。認められて、愛されて、幸せ、だった。グラートは同じ女婿、義理の弟のグエルリーノが、ユースタスが逮捕されると言う事への憤まんのあまり、アルベールと刺し違えるとまで言っていた時、初めて彼を殴ったユースタスの姿を思い出す。悲しそうな、何よりも悲しそうな顔をして殴ったのだ。彼の義理の父親は、本当に優しい人間であった。

「……」グラートは、歯を食いしばってから、精一杯微笑んで、一礼した。「今までありがとうございました、お父さん」


 それに比べてアナベラとその恋人リサはあっさりとしていた。

「ゲルマニクス王国に逃げるわね。 今までありがとう」とリサは淡々と言った。「勿論、あの花も持って逃げるわ。 落ち着いたら、貴方の墓に供えてあげる」

「そうね、そうしてちょうだい。 ありがとう」

アナベラはにこっと微笑んでから、ちょっと遠い目をして、

「貴方と結婚なんかしなくて正解だったわね」と言った。

結婚をしなかったのは、アナベラが外での仕事は恐ろしく出来るが、家では怠け者そのもので掃除も洗濯も何もしようとせず、それでしょっちゅう二人は喧嘩をしていたからである。最悪、家では下着のみでだらしなく寝そべっている事もあるアナベラに対して、リサはしっかり者で綺麗好きで、そう言う所を心底嫌っていた。

なので、二人は恋人のままでいよう、とお互いに話し合って決めていたのだ。

「そうね。 結婚していたら悲しくて後追い自殺していたものね」

「自殺だなんて恐ろしいわね。 全く貴方は」アナベラはもう一度、微笑んだ。「……でも、これで良かったのよ」

「そうね。 そうよ。 じゃあ、さようなら」と、リサは席を立った。

 彼女達は泣かなかった。泣いても、それは自己満足に過ぎないと分かっていたからだ。


 『ギー坊や』

マルバスの方がもらい泣きしてしまって、顔が大変な事になっていた。

『何でギー坊や達がこんな目に遭わなければならないんですか、あんまりだ、あんまりだ!』と号泣する。

悪魔なのに慰める言葉も無いほど哀しくて、悔しかった。

「……この国の未来はどうなりそうですか」

ギーは、分かり切っている事だが、訊ねてみた。

『使者を殺された帝国は激怒、おまけにクリスタニア王国軍と万魔殿軍はハルトリャス海峡を軍事占拠するつもりです! あのクセルクセスが怒髪天。 いえ、ほとんど全ての帝国貴族が激怒しています。 第二次ハルトリャス海戦は確実に起こるでしょう。 ジュナイナ・ガルダイア太守にして帝国海軍提督のクセルクセス。 その姉にして帝国枢密司主席のエリシャ。 彼が、彼女らが激怒してこの国が無事で済むとは到底思えません。 ……万魔殿がいるとは言え、敗戦は必至でしょう』

「『一二勇将』の皆様は?」

『幸い、遺書を書く事は許されていますから……ああ、死後は心配なく、私が確実に異界へとお連れします。 だから、ですから――』とぼろぼろと涙をこぼす。悪魔の癖に人間よりも泣く。『国のため国のためと骨身を必死に削ってきた人達の末路がこれとは、この世界は残酷すぎる!』

「そんな有様だと死んでもマダム・マクレーンの言いなりですよ、マルバス」ギーは苦笑した。「――うん?」

そこに、足音が近付いてきた。マルバスは姿を隠す。

「サー・ヒュー・アワバック……!」現れた人影に、ギーは低い声で言った。「今更何の用だ?」

「口の利き方には気を付けてもらいたいものだな、ギー・ド・クロワズノワ?」アワバックは見下した目でギーを見た。「貴様らの生殺与奪は今や私の手中にあるのだから。 そうそう、陸軍出の貴様だが第二次ハルトリャス海戦に出る気は無いか? 今志願兵を募っているのだ」

「俺が出ようと誰が出ようと、負けるものは負ける。 無意味な戦争をやるな、サー・ヒュー・アワバック! 今ならまだ間に合う!」

「前回は負けたが今度は違う、万魔殿が付いている! 勝てる、勝つとも。 それに――」と、この大貴族の男はいやらしい目でギーを見た。「貴様が出れば、『一二勇将』は特別に恩赦してやろうとの陛下のお達しだ」

「!」ギーの表情が変わる。

『いけません、ヤツは嘘を吐いている!』マルバスが悲しく囁いた。

引き受ける事しかもうギーには選べない――それを知っての囁きだった。

「……良いだろう、出よう」

 彼は――とうとう自分の死を覚悟した。

 だが、彼が所属することとなった前線部隊にチャーリーが紛れ込んでいることを知った時、彼は驚いた。心底驚いた。

「どうしてお前が?! あれほど戦争は嫌だと言っていただろう!?」

「お前一人を行かせられるかよ。 モニカに土下座して出てきた」

ギーは絶句した。

そして、すまない、としぼり出すような声で言った。


 約束通り、『一二勇将』は解放された。

彼らは、騙されている事を悟っていて、だから、死に瀕しても見苦しい行動は取らなかった。

釈放された彼らを囲んでいたものは、無数の銃口であった。

「約束通り、この世から解放してやるわ!」

彼らにはそう言って笑う王の――一匹の暴君と化した男の姿が見えるようであった。

 『一二勇将』処刑の話を聞いたギーは、もう耐えられず、男泣きに泣いた。

彼らの誰一人として、クリスタニアを思わない人間はいなかった。人生を国のために捧げない人間はいなかった。彼らの結束はその忠誠心と同じくらい堅かった。それなのに――それなのに!


 帝国軍の中でも最強と呼ばれている、ジュナイナ・ガルダイア海軍に向けてクセルクセスは演説をした。彼は一度感情的になると、とことん感情で突っ走る男だった。特にそれが『怒り』になると、もはや誰にも止められなかった。

 「――ヴィラモヴィッツはジュナイナ・ガルダイア屈指の外交官だった。 彼はジュナイナ・ガルダイアのために、帝国のために働いた。 彼がどれだけ職務に忠実だったかは、貴方達の方が良く知っているだろう。 だが彼は殺された! 暴君のために……! あの男は帝国の善意を、好意を、信頼を、裏切った! 恩を仇で返した! 否、あの男は一二勇将が築き上げてきた信義と忠義を踏みにじり、一二勇将を処刑したに治まらず、ついにはこの戦争をも起こした! 貴方達にはそれが許せるか! あの男が壊したものは、世界で最も壊してはならないものだったのだ! 地道に築き上げてきたそれを、それを、あの男は一瞬のためらいもなく土足で踏みにじった! 許してはならない! 裏切り者には絶対応報を下さねばならない! ヴィラモヴィッツの仇を取れ! ヴィラモヴィッツが何をしたか! 彼はただ平和目的の、親善交流のために派遣された! 帝国の善意を、帝国とクリスタニア王国の友好を信じて代表して征った。 それを殺したのだあの男共は! 貴方達は許せるか? 帝国の御支配者たる女帝陛下の元に集う同胞を無惨に殺されて許せるか? 貴方達の記憶には、ボールを追いかけて共に遊んだクリスタニアの捕虜の海兵の姿もあるだろう。 だがその姿は偽りにされた。 あの男共の所為で! 全てあの男共の所為で、クリスタニア王国は滅びるだろう! いいや違う! 滅ぼすのだ! 絶対応報の運命が!」


 モニカはじっと唇を噛んで堪えていた。

彼の恋人が、戦地に行ってしまったのである。戦争を何よりも嫌がっていた、馬鹿な男であった。それでも、彼女の何より愛しい男であった。

どうか無事に帰ってくるように――祈る。あれほど中毒になっていた煙草も止めた。一本も吸わないでいたら、無事に帰ってくる気がして。

不意に玄関に気配がして、彼女ははっとして拳銃を構えた。

そこには――どうやってここを見つけたのだろうか、オディールが立っていた。

「カール・フォン・ホーエンフルトは?」

冷たい声で、そう言った。

「チャーリーなら、ハルトリャスの戦場に行ったわ」

「――そう。 では邪魔者の貴方を殺すだけね」

ぴしり、と女達の間に殺気が走った。

「ただで殺される私じゃないわよ!」

モニカは拳銃を素早く抜いて、撃った。だが――全て、オディールの影がまるで生き物のように動いて、銃弾を食い止めた。

「!?」

「ただの人間が『影操者ナハツェーラー』に勝てるものか!」

 次の瞬間、影は一本の鋭い槍になり、モニカの胸を貫いた。


 万魔殿の海軍は、クリスタニア王国海軍を裏切った。

彼らは最初から、同じ魔族が支配する国である帝国の海軍と戦うつもりはなかったのである。そして彼らは裏切った所で何ら良心の呵責に襲われなかった。何故なら、彼らが裏切ったのは、裏切り者だからである。

『カール・フォン・ホーエンフルトを渡さなければ、攻撃する』

そう言われたものの上からの通達が無かったため何の事やら分からず、クリスタニア海軍は戸惑った。

万魔殿との矢面に立たされているのは、ギー達の部隊であった。

「俺をそんなに連れもどしたいのか!」

チャーリーは駆逐艦の甲板で怒鳴った。その時、対峙する万魔殿海軍の中から一機の小さな軍事ヘリが近付いてきたのである。

「カール、迎えに参りましたわ」

そこから身を乗り出したのは、オディールであった。

「俺は行かない、ここで戦う!」

「――もう、帰っても、貴方を待っている人は、おりませんのよ」

そう言うと、オディールは一房にまとめられた髪の毛を放った。

チャーリーはそれを手に取って、真っ青になった。


 かすかに煙草臭い、それは。


 「チャーリー、どうしたんだ? ――!」

ギーが甲板へと姿を見せた。そして自らを狙うヘリの機関銃と、わななきつつ真っ青な顔をして立っているチャーリーを見つけたのである。

オディールは苛立たしげに言った。

「こちらにいらして頂けないと言うのでしたら、貴方の戦友も殺しますよ」

それを聞いた時、チャーリーが動いた。ヘリの方へと。

「ギー、俺は……」

言いかけたのを遮って、ギーは咄嗟に叫んだ。

「馬鹿、俺の命なんか気にするな! お前は――お前の意志に従え!」

「――なあ、ギー」

彼は振り返って弱々しく笑った。ひどく痛々しい笑みであった。最愛の女を永遠の虚無に奪われた男の絶望の笑みだった。

「きっと、生きていれば、俺達、また会えるよな? 満ちない月は無い、そうだろう?」

その瞬間、二人の間に小さな稲妻が落ちたかのようだった。

沈黙と、了解が二人を支配した。運命的な瞬間であった。

「チャーリー……約束だ。 月は必ず満ちる。 必ず、生きて、また会おう」

「おう。 ――必ず、だぞ」


 遠ざかっていく軍事ヘリと万魔殿の海軍を見送りながら、すまない、とギーは呟いた。

「お前との約束、守りたいが、守れそうにない」

もうじき、帝国海軍がやって来る。そうすれば激戦となり――前線に立たされる彼が生きている確率は、途方もなく低くなるだろう。限りなく〇に近くなる。そしてギーには、自分だけが生き残るために卑怯な真似をする、と言う事がこの段階に至っても出来ないのだった。

「本当に、すまない――」


 帝国海軍の勇姿が、海の果てに見え始めた時だった。レーダーが何かを感知した。

そして、すぐさま雲を割って、巨大な空中戦艦の群れが姿を現した。

 『――こちらは聖教機構の最新空中艦隊の旗艦アニケトゥス。 クリスタニア王国海軍の皆様への敵意ならびに戦闘意志はございませんのでご安心を。 ギー・ド・クロワズノワ様をお迎えに参上いたしました――ただし、大人しく引き渡して頂けない場合に備えまして、こちらの艦隊は戦術核ミサイルを一〇発ほど搭載しております』

 空中戦艦の一つに迎え入れられて、ギーは叫んだ。

空中戦艦の群れは、戦場から悠然と立ち去っていく。

「何故――俺を迎えに来た?!」

スーツを着た年配の女が、答えた。

彼女がどうやらこの艦隊で一番立場が高い人物らしかった。

「グレゴワール殿達の遺志でございます。 正確に申しますと、一二勇将の最後の依願をこちらで数週間かけて吟味した結果、貴方様は我々聖教機構に迎え入れるに相応しい方だと、決議が一致いたしました」

ギーは泣きたくなった。彼は、最後まで、最期まで、一二勇将に愛されていたのだ!

「俺は、だが、国を守ると忠誠を――」

「ですが、その国の王はあなた方を裏切った。 あなた方の忠誠をも裏切った。 今や貴方は国からも王からも必要とされていない。 もはや忠誠を誓わずとも、貴方を悪く言う者は誰もいないでしょう。 それに――」

と女はにこりともせずに言ったのである。

「帝国を完璧に怒らせたのです、地道に築き上げてきた人々の信念・忠義をも裏切ったのです、滅ぼしてはならないものを一瞬で滅ぼしたのです、滅ぶべくしてクリスタニア王国は滅びます」


 第二次ハルトリャス海戦は、クリスタニア王国の惨敗に終わった。

振り下ろされた鉄槌が、粉々に石を砕くかのようであった。


 だが、帝国軍の勢いはそれでも止まらなかった。

 怒濤の勢いでクリスタニア王国の領地に進軍し、早くも二月後には首都クリスタニアンを陥落させたのである。

万魔殿も、聖教機構も、絶対に助けようとはしなかった。そして自己保身にばかり走る貴族達は、何の役にも立たないどころか、むしろ事態を悪化させる行動ばかりを取った。慌てて国王が救援を求めた先の周辺諸国、特に列強諸国は帝国軍の恐ろしさを知って、助けようなどとは誰も絶対にしなかった。アルベール二世の亡命すらも受け入れなかった。

 その全ての陣頭指揮を執ったクセルクセスは、王宮から逃げだそうとしたアルベール二世の残り少ない髪を掴んで引きずり倒し、最高に屈辱的な内容の敗戦条約に調印させた。クセルクセスは、これ以来『ハルトリャスの魔王』として恐れられるようになる。

 帝国との戦争が終わるや否や、その力を失ったクリスタニア王国は、まるで膨らんでいた風船がしぼむように、クリスタニア王国のちょう落を今か今かと待ち構えて狙っていた周囲の列強諸国の牙にかかって、次々に領土を分割され、わずか十数年後には地図上から消失した。アナベラを無くしたこの国は、外交戦で敗北し続けた。オリエルのいない軍隊はもはやただの武装した烏合の集団であった。ユースタスを殺したため経済界は新国王にそっぽを向いた。アンデルセンを殺したために内政はまともに機能しなかった。クロードがいないために官憲は腐り果てた。そしてグレゴワールを失ったクリスタニア王国は、ただの放置された丸々と肥え太った豚と同じであった。一二勇将が生きていれば、生かしておけば、このような最悪の事態は避けられただろう。だがもう遅かった。遅すぎた。


空前の繁栄を遂げたクリスタニア王国は、こうして夢幻のごとく滅びた。


 後の人々は、かつてのクリスタニア王国について語る時、こう冒頭に付けたすようになったのである――『これは亡国の物語である』と。


 ――この亡国の運命に引き裂かれた二人の若者が、後にそれぞれ『大帝』『聖王』と呼ばれ、いずれ世界の運命をも動かす存在になろうとは、この時は彼ら自身も思ってはいない。



                                  END










【一二人の円卓の騎士達】


 ――「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。 草は枯れ、花は散る。 しかし、主の御言葉はとこしえに残る」――


 これは亡国の物語である。

……いつからこのような名称が付いたのか、誰にも分からない。

『一二勇将』――クリスタニア王国を大国に成り上がらせた一二人の英雄ヒーロー達の総称だ。


 「この男を殺してもらいたい」

差し出された写真の人物を見て、イヴァンは依頼された事に素直に納得した。

人物の名前をグレゴワール・モントバン。別名を『鉄血宰相』。ここ数十年急速的に成長を遂げている列強諸国最強の国、クリスタニア王国の宰相だったからだ。この男は庶民の出で、貴族とは対立している上に、クリスタニア王国を列強諸国最強にのし上げるために辣腕を振るっていたから、別に暗殺が依頼されるのはおかしくはない、むしろ敵が多い分、当然だ。

貧民街の安いパブは、壊れかけたスピーカーから調子外れの音楽を流している。

「代金は先払いだが良いか?」イヴァンは訊ねた。

「勿論だとも」と依頼人は言った。「お前の腕は聞いている。 だが、この話は内密に願う。 絶対にだ」

「分かっている」イヴァンは安い酒をあおった。「万が一失敗した場合には自殺するから心配するな」

「それは頼もしい」依頼人はご機嫌である。「あの生意気な卑しい男が死ぬ日を、心待ちにしているぞ」

依頼人の素性は下手くそな変装で隠していたが殺し屋のイヴァンには一目で分かっていた。サー・バーナード・ウィクリフ。クリスタニア王国屈指の大貴族で、世界的な大富豪だったから。恐らく暗殺を依頼した動機は、グレゴワールがこの前貴族に対する徴税の額を上げたから、もしくは日頃の不満が溜まっていたから、だろう。クリスタニア王国の貴族は国家をむしばむガンのような存在で、私利私欲でしか動かない、と言うのは有名だった。国家のダニ、寄生虫とまで庶民にはこっぴどく言われていた。だが、イヴァンにはそんな事は関係無かった。ただ依頼通りに殺す、それだけだ。機械的にそうしていくだけだ。

イヴァンは依頼人をパブの外まで送った。依頼人は車に乗り込む、その間際に不安そうに言った。

「くれぐれも頼んだぞ? 『殺し屋』イヴァン・アセンの腕を信用していない訳ではないが……何でもあの男達には得体の知れない何かが憑いているらしいのだ。 それに惑わされぬように、な」

「人を殺すのなんて作業だ、銃に弾を込めて狙って引き金を引けば良い」

イヴァンは淡々と答える。その態度も言動も、殺し屋としてぴったりだった。

「そうか、ならば良い。 ならば、な……」依頼人は取りあえず安心したようだ。

バーナード・ウィクリフが乗り込んだ車が発進する。遠ざかっていく車を見つめながらイヴァンは呟いた。

「そう、作業だ……ただの作業だ。 殺した者は殺される、それだってただの結末だ」


 グレゴワールの予定スケジュールをイヴァンは調べ上げた。探偵を使ったのだ。そして、毎日一二時きっかりに王宮近くの小さな庶民向けレストラン『デカルト』の窓際の席で食事を摂る事が分かった。グレゴワールは権力者の癖に贅沢とはほとんど無縁の生活を送っていて、平民に混ざってはレストランの安い日替わり定食をいつも食べていた。着ている服は宮中に相応しいきちんとしたものだが衣装道楽では無かったし、権力を振りかざして女をたからせる事も無かった。むしろかつての聖職者のように、よく耐えられるなと感心するほど禁欲的な生活を送っていた。速やかに暗殺するならこの機会しか無さそうだ。彼は自ら現地調査に踏み切って、レストランの周りの地理を頭に叩きこんだ。幸い近くに空きビルがあって、そこの屋上からレストランの窓際がよく見えた。

彼は遠距離狙撃用のライフル銃をこっそりその屋上まで運んで、時を待った。レストランにいつものように一二時きっかりにグレゴワールがやって来て、いつものようにいつもの席に着くと、日替わり定食を頼む。その様子を双眼鏡で観察して、それから双眼鏡を置いてイヴァンは狙撃銃のスコープをのぞき込む。一発で頭を撃ち抜くのだ。

「――」

イヴァンは引き金に指をかけた。すう、と息を吸って、溜めると、引き金を引く――、

『わああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!』

その瞬間だった、背後からいきなり絶叫が上がって仰天したイヴァンが振り返った、その頭にハンマーが振り下ろされた。気絶する寸前にイヴァンが見た光景は、黄金の肌のたくましい男が震えつつもぜえはあぜえはあと荒い息をしている、何とも奇妙なものだった。


 ……目が覚めると、イヴァンは縛られて猿ぐつわまでされて、牢獄の床に転がされていた。彼はしくじったのだ。とすると、もうじき尋問・拷問の時間がやって来るだろう、それまでに彼は死ななければならない。依頼人の情報を垂れ流すなど殺し屋として失格だからだ。だが、手足を拘束され、口も舌を噛み切れないように猿ぐつわが噛まされていては、それもままならない。こうなったら拷問の最中に隙を突いて死ななければ。近付いてくる足音が遠くから響いてきた時、彼はその決意を固めた。

だが、現れた人間を見て、彼はぎょっとした。それは彼が殺すよう依頼された人物――『鉄血宰相』と呼ばれる、稀代の政治家、グレゴワール・モントバン張本人だったからである。

 クリスタニア王国。現在、発展と隆盛を極めており、列強諸国の中でも最強と呼ばれているこの国の、王に最も近しい権力者。それがグレゴワールであった。血まで鉄で出来ていると噂されるほどの堅物で、また『優秀すぎる』政治家であった。出身が貴族ではなく平民であり、クリスタニア王国を列強諸国最強にまで導いたため、敵は数多い。

「……ふむ」とグレゴワールは彼をじっと見た。「良い目だ。 良い目をしている」

「?」イヴァンは不思議に思った。どうせ殺す相手に、何を言っているのだろう?

だが、その直後の爆弾発言に、イヴァンは人生最大の混乱パニックに陥るのである。

「我々の仲間にならないか」


 天地がひっくり返っても、イヴァンはこれほど混乱しなかっただろう。殺そうとした相手に、何を言っているのだ!?正気か!?だがグレゴワールは淡々と言う、

「お前は、殺し屋で人生を終わらせるつもりか。 ただのただの殺し屋で人生を終えたいか。 そんなつまらない人生で本当に満足しているか?」

「……」

つまらない人生。グレゴワールの言葉には、馬鹿にするような響きは無くて、むしろずばりと核心を突かれた気がした。心臓のど真ん中を射抜かれた気がした。混乱している頭の中で、今までの彼の人生が思い出された。

 ――彼は貧しさのあまりに親に売られた子供だった。売られた先は大富豪だったのだが、彼はそこでありとあらゆる虐待を受けて育った。彼はなすがままにされるオモチャだったのだ。しかし、ある日、彼は震えつつカミソリを手にして、隣で寝ていた大富豪のでっぷりと肥えた首筋に、切りつけた。

どうしてそうしたのか。

それは、一緒に虐待を受けていた仲間の少女が、ついに大富豪によって惨く殺されたからだった。大富豪には殺すつもりは無くて、首を絞めて遊んでいたら死んでしまった、くらいの認識だった。だが、それが彼には許せなかった。殺した者は殺されるのだ。その絶対的な、神でも覆せない認識が彼を支配していた。だから、彼は殺した。殺して、逃げた。……それから彼は殺し屋になって、そう生きてきた。

「……」

「人は満足を求める。 満足のために生きている。 渇きを潤したいと願う。 私もそうだ。 それが何のための満足であるか。 私の場合はただ国王陛下のためだ。 愛国心のようなご大層な理由では、無い」

グレゴワールの言葉には、まるで敬虔な信者のような堅実さがあった。まるで家を建てるために一つずつレンガを地道に積み重ねて行くような着実さと確実さがあった。それは恐らく彼の実体験から来ているのだろう。経験は人を鍛錬させ、過去を学ばせる。開眼した者にだけ知りうる真実を伝える。

じゃあ俺は、とイヴァンは思った。何のためだった?

「……」

何のためでも無かった。彼はまるで機械のように生きてきた。目的も満足も無かった。彼は、突然苦しさを感じた。どうしようもない苦しさを感じた。彼には無かった。何も無かったのだ!彼は機械のように生きてきたが人間だった。熱い血の通う人間だった。その隠そうとしていた、隠してきていた真実をえぐり出されて、それは猛烈な苦しさとなってイヴァンを襲った。人として生存する確固たる理由が欲しかった。彼は今渇いて、渇ききっていて、それを潤す冷たい水が欲しかった。

 ……数人の足音が慌ただしく近付いてきて、見れば男女の混ざった集団がやって来たのだった。

「おいグレゴワール! 貴様何をやっている!」

馬鹿でかい声の男――クリスタニア、いや、恐らくは世界最強の戦略家にして軍人、『常勝将軍』オリエル大将だ――が怒鳴った。

「相手は殺し屋ですわよ! 貴方まさか――!」短髪の女が叫ぶ。異名を『カミソリ』、外交戦略の鬼と呼ばれるアナベラだ。文字通りカミソリのように鋭くきわどい外交戦を繰り広げるためにそう呼ばれている。

「貴方、馬鹿なのぅ、それとも無謀なのぅ?」毒舌なのは『毒殺貴婦人』マダム・マクレーンだ。美女だが諜報活動の悪魔である。ついでに愛した男を次から次へと毒殺すると言うとんでもない趣味の持ち主である。「死にたいならせめて他人に迷惑をかけずにお死になさい。 貴方が今死ぬと凄い迷惑が私達にかかるのよぅ?」

他の面々も、いずれもクリスタニア王国の近年の発展と強大化を支え、主導してきた人間達だ。

「分かっている。 だが、この男、見所がある」とグレゴワールは言った。

「見所も何もグレゴワール、コイツはお前を殺そうとしたんだぞ!?」

オリエル大将はただでさえ馬鹿でかい声をいっそう張り上げた。

「暗殺が恐ろしくて政治家をやっていられるか」

グレゴワールはそう言うなり、イヴァンを見つめて、言った。

「お前も『何か』が欲しいだろう? 『何か』のために人生を費やして、満足を得たいだろう? 大義名分のような建前では無く、性癖のようなどうしようもないものでも無く、もっと中身のある、それのためには命を捨てても良い『何か』のために」

「……」混乱も静まり、冷静になったイヴァンは、頷いた。今まで生きてきた時に、感じた事の無いものを感じたい。心底彼はそう思った。目的が無くても人生は送れる。食べて眠って排泄してそれで一生を終える事も出来る。だが、それでは何のための人生だ!彼は機械では無かった。殺し屋だったが、人間だった。人間とは何かのために生きたがるものだった。何かのために死にたがるものだった。『何か』。自分よりも素晴らしい『何か』のために。まるで火が燃え上がる時のように、己を焼かせて火がいっそう輝くのを感じるために。己の身を燃やしたい、と心底彼は思った。燃やして、鮮やかな炎を感じたい。それは火に飛び込む虫のような儚い自己犠牲的なものでは無く、誰に知られずに終わったとしても、永遠の彼方にあり続けるような美しくも素晴らしいものだった。

「……」

グレゴワールへの殺意はもう無かった。そもそも彼は殺意で動いていたのでは無い。ただ金のために、何となく殺してきただけだった。殺されるのを覚悟の上で。拳銃の引き金を引くように、持っていたナイフを機械的に突き刺す事は可能だったが、そのスイッチがもう入らなかった。

「鍵を開けて拘束をほどいてやれ」と、グレゴワールは言った。

「「グレゴワール!!!」」

周りの総反対の中、グレゴワールは牢番に命令して、イヴァンを解放した。

「名乗っていなかったな。 私はグレゴワール。 グレゴワール・モントバンだ」

「……イヴァン・アセンだ」

「ではイヴァン、我々の仲間になるかどうか、明日の夜一二時まで私は待とう。 私を殺すかどうか、それまでに決めておくが良い。 良い返事を期待している。 さあ、行くが良い」

イヴァンは黙って歩き出した。どうしようもない苦しさと、それをどうしたら良いのかさっぱり分からない困惑を抱えて。


 イヴァンは考えた。こんなに悩むのは初めてだと言うくらい悩んだ。考えすぎて熱が出たくらいだった。彼は安い酒をパブであおりながら苦しんだ。苦しみに潰されそうになった。人間として生きたい。機械のようには、もう戻れない。だが、彼は依頼を受けている。殺し屋としての義務と人間としての熱情が、彼を両ばさみにして天使と悪魔の囁きをした。

彼は迷った。心底迷った。けれど、彼は――もう人間の血の熱さを知ってしまっていた。渇きを満たされたい人間の、ごく自然な摂理に体が向いていた。もう、戻れない。知ってしまったらもう戻れない。知ってしまって気付いてしまったが最後、彼はもう――。

それに気付いた途端、彼ははっとした。悩みの雲がすっきりと晴れて、青空になった。彼はパブから出て、安宿に行った。そこでたらふく飯をかっ込んだ後に六時間眠ると、酔いも醒めて冷静になった。

 真夜中に彼はサー・バーナード・ウィクリフの邸宅に向かった。彼は邸宅内に召使いのふりをしてするりと侵入すると、バーナードの寝室に向かった。寝ているバーナードとその愛人を一べつすると、そっとバーナードの唇のすき間に一滴の毒薬を垂らした。眠りながら死んだバーナードに向けて、彼は心中で呟いた。裏切ってすまない、と。だが彼には裏切ってでも満たされたい『何か』を切実に求めていたのだ。名声ではない。名誉でもない。権力でもない。力でもない。金でもない。命でもない。もっと鮮やかで輝かしい『何か』を。命がけでのみ得られる、『何か』を。それをグレゴワールなら与えてくれる、否、己の手で勝ち取る方法を教えてくれそうな気がしたのだ。

 彼は邸宅から抜け出すと、そのままグレゴワールの執務室に向かった。


 ――グレゴワールは起きていた。机に向かって書類に何か書いていた。

彼が気配を出すと、グレゴワールは顔を上げる。

「来たか。 ……ふむ、どうやら私を殺しに来たようでは無さそうだな」

「……どうすれば満足できる」とイヴァンは言った。

「やりたい事をやった時に人は満足できる。 成し遂げる事に潤される。 一つお前に頼みたい仕事があるのだが、やってみないか。 これをやる事で、お前はただの殺し屋から脱するだろう」とグレゴワールは一枚の書類を取りだして、言った。

「……何だ?」

「紳士的な脅迫だ」グレゴワールは書類を差し出す。「お前にしか出来ない仕事だ」

 書類には、国家的機密が書かれていた――資源豊かなレマニア鉱山の支配権を巡っての、クリスタニア王国とカルバリア共和国との緊迫した関係に、聖教機構ヴァルハルラがついに軍事介入しようとしていた。

この世界には魔族と言う特殊能力を持った存在がいる。聖教機構はそれを人間の支配下に組み込んでいる世界的巨大勢力だ。クリスタニア王国は強大化を続けていて、このままでは己に牙を剥く存在になると聖教機構は恐れていた。強大な力を持つ聖教機構に軍事介入されれば、クリスタニア王国は引き下がるしかない。まだ戦力ではクリスタニア王国は列強諸国最強とは言え、聖教機構には敵わないのだ。カルバリア大統領はそれを見越して非常に強硬な態度を取っている。

イヴァンの役目は、聖教機構に介入させずにレマニア鉱山の支配権をスムーズに移譲するように大統領を脅して、そうし向けさせる事だった。

イヴァンは何だか子供のようにワクワクしてくるのを感じた。頭はこれ以上なく冷静で澄み渡っているのに、静かな興奮が彼を包んでいた。面白そうだ。凄く面白そうだ。

「……良いだろう。 やってやろうじゃないか」

書類を返して、イヴァンはにやりと笑った。


 カルバリア共和国大統領夫妻はその日も普通にベッドの上で目が覚めて、起き上がって、そして何気なく枕の方を見て、悲鳴を上げてベッドから転がり落ちた。

枕元に紙切れが鋭いナイフで突き刺されていて、その紙切れには「レマニア鉱山から手を引け、二度目は無い」と書かれていたのだ。慌てて警備の者に確認したが誰も不審者など通していないと言った。大統領は恐怖に震え上がった。わざと、だ。わざと殺さなかったのだ。いつでも殺せるから殺さなかったのだ。二度目は無い。確かに人は魂を一つしか持っていない!

 大統領は全閣僚の大反対を押し切って、その日の内にレマニア鉱山の支配権をクリスタニア王国に移譲する事を決めてしまった。これが原因で彼は議会により罷免されるが、その顔には何故か安どの表情が浮かんでいたと言う。


 「よくやってくれた」グレゴワールはそう言って、イヴァンの手を強く握った。「これでこの国はもっと強くなれる。 国王陛下が喜んで下さる。 ありがとう」

だが、イヴァンはしかめっ面をした。

「……どうしたのだ?」手を強く握りすぎたか?グレゴワールは戸惑った。

「……いや。 今まで仕事をやってありがとうだなんて言われた事が無いから、どんな顔をすれば良いのか分からない」

仏頂面で言うものだから、グレゴワールは苦笑して、

「素直に喜べ。 お前はそれだけの事をやってくれた」

「……」イヴァンは内心では凄く嬉しいのに、それを顔に出す方法がまだ分からなかった。何だかむずがゆくさえなってきて、イヴァンは嬉しい癖に困ったのだった。


 ……イヴァンは円卓の一席で縮こまっている。彼を含めて合計一二人が座っている円卓の席で、彼はらしくもなく委縮していた。居並ぶ面々が面々だったのだ。鉄血宰相グレゴワール、常勝将軍オリエル、金融王ユースタス……などなど、クリスタニア王国を支える屋台骨のような権力者達が集っていたのだ。

「ワシは反対だ」とオリエルが相変わらずの大声で言う。「こんな殺し屋上がりを仲間だとは認めんぞ!」

「まあまあ」と『大判官』クロードがなだめる。彼は官憲のトップに立っている男である。誰も公言こそしないが、彼のかつらの不自然さは自然と本人から目を逸らさせるくらいであった。「綺麗事だけで国は動かしてはいけない。 汚れ仕事を担当するヤツだって必要なのさ」

「だが――」

「グレゴワール、彼は信頼できるのかね?」発明家のアルトゥールがオリエルの反対をさえぎって問うた。「仲間云々以前に、それが問題だ」

「出来る」断言である。鋼の一言である。「現にイヴァンは行動してくれた。 レマニア鉱山の件はイヴァンのおかげで解決したようなものだ」

「貴方がそう言うのなら……」『殺人博士』Dr.シザーハンド、もはや人間離れした手術の天才だが、恋人を殺して食べてしまったと言う経歴を持つ男が、渋々と言った感じで引き下がる。

「それよりも、聖教機構との軋轢が問題です」アナベラが話題を変えた。「このままですと五年以内には必ず戦争になります」

「五年か。 どうしてだ?」『名内相』アンデルセンが訊ねた。担当分野が違うため、事情がよく分からないのである。内政と外交と。

「現在クリスタニア王国は急速に発展しています。 強大化しています。 我々を支配したがる聖教機構にしてみれば、それはとても見過ごせないものでしょう。 ですが聖教機構の精神的支配下から私達は脱しなければならない。 そうしなければこの国は所詮列強諸国止まりです。 間違いなく戦争は起こります。 この国が世界的勢力になれるか否かの戦争です。 私は戦争は嫌いです。 わざわざ戦争を起こすくらいなら別の手段を探します。 しかしこれだけは避けられない。 いかなる手段を以てしてもこれだけは戦うしか無いのです。 五年と言ったのは、現在のクリスタニア王国の国力が辛うじて聖教機構に匹敵しうるのが、およそ五年後だからです」

「……なるほど、な」アンデルセンは難しい顔をして、黙り込んだ。

「マルバス!」とマダム・マクレーンが呼んだ。のそのそと彼女の背後から、イヴァンを殴って気絶させたあの黄金の肌の男が現れて、イヴァンはぎょっとして思わず叫んだ。

「……な、何だその男は! どこから入ってきた!?」

『ヒャア!』と男はイヴァンの叫びにびっくりして飛び上がった。『私ですか!? 私は悪魔ですよ』

「……悪魔?」

それは、伝説上の生き物では無いのか……?

『そうです、異界に住んでいる悪魔です、エッヘン!』と男は無駄に胸を張った。『諜報活動が得意なんですよ! 凄いでしょう?』

「貴方の得意なのはお漏らしと泣きべそでなくってぇ?」

マダム・マクレーンの毒舌に男は風船がしぼむようにしぼんだ。

『いえ、その……シクシク』しおれてから、泣き出した。

 イヴァンはもう色々と訳が判らなくなってきた。悪魔がまず実在した事。その悪魔により自分は捕らわれた事。悪魔の特技が諜報活動であると言う事。だとしたら己が捕まった事にも、マダム・マクレーンが諜報活動の悪魔と呼ばれている事にも納得が行く。何しろ悪魔と手を組んでいるのだから。納得が行くのだが、それでも混乱してしまう。何しろ、初めて知ったのだから。

「それでマルバス、聖教機構の方針はどうなのぅ?」

『シクシク……ほとんどアナベラさんの言っている事と一致していますよ。 出来るだけ早く叩き潰しちゃおうって、雑草はまだ幼いうちに引っこ抜こうって、着々と準備をしています。 聖教機構十八番の無差別絨毯爆撃を今にも実行しかねない雰囲気でしたよ』

「噂のあれか。 対万魔殿パンテオンにやるならともかく、同じ人間の上にも爆弾の雨を降らせるとは……!」オリエルが渋い顔をしている。

万魔殿とは、人が魔族を支配する聖教機構と正面激突している、魔族が人を支配する巨大組織だ。この両者はもう何百年も世界戦争を繰り広げている。だが、戦争状況は一進一退で、そのパワーバランスはどうしようも無いくらいにかちこちに固まっている。局地戦での勝った負けたはあるのだが、どちらも決め手に欠けているのだ。

「五年……いいや、後二年くれないか」アルトゥールがいきなり言い出した。「後二年あれば、その十八番を封じる手だてが完成する」

「それは何だ?」ユースタスが訊ねると、アルトゥールはにやりと笑って、

「――最新兵器『空中戦艦』だ」

「「!」」グレゴワール達の間に驚きが走った。

「こちらで作れるものは向こうでも作れるだろう。 だが、最初の一歩を踏み出したのが誰かと言うのが一番の肝心だ。 向こうの出鼻をくじくくらいの役目は出来るだろう」アルトゥールはそう言った。

「出鼻をくじく? とんでもないぞ。 それが出来れば一気にたたみ掛ける事が出来る!」オリエルがどんと拳で円卓を叩いた。「勝てるぞ! 否、勝ってみせる!」

「待て! 更なる研究費を何とかして捻出するから、その完成を一秒でも良いから早めろ!」

ユースタスが慌ててソロバンを取りだして何か計算を始めた。

「おお、ケチなお前が大盤振る舞いとは!」アルトゥールは万歳をした。その目つきたるや、マッドサイエンティストのそれだった。正気の目つきでは無かった。「研究、研究だ! 研究と開発が出来るぞ、ヒャッハハハハハハー!」

「馬鹿。 大馬鹿。 大馬鹿野郎。 大事な事だから三回言ったが、私が普段ケチなのはこう言う時のためだ!」ユースタスはソロバンから顔を上げずに言った。

「二年か。 それまで何としても開戦は引き延ばさなければならんな。 アナベラ、出来るか?」

グレゴワールの問いに、彼女はしっかりと頷いた。

「『空中戦艦』が実用に耐えうるようになるまで、聖教機構の動きを止めるべくワイロをまき散らします。 出来ればもっと激しい混乱を起こしたいのですが……」とアナベラはイヴァンの方をちらりと見たが、すぐに首を左右に振った。「……いえ、ワイロで充分でしょう、現時点では」

「……充分でなくなったら」イヴァンは、自ら口を開いて、ゆっくりと言った。「俺が聖教機構幹部を暗殺するから心配するな」

「「ッ!」」分かってはいたものの、動揺に包まれる一一人の仲間達に、イヴァンは言った。

「……汚れ仕事は任せてくれ。 罪悪感を覚える必要は無い。 俺はそう言う男だし、何よりお前達が『絶対的正義』のような偽善的なものを持っていなくて、これが正しいのだろうかと常に迷っている、その姿勢である限り、俺はお前達の味方をする」

「……すまない」とグレゴワールはぽつりと言った。


 ――聖教機構がクリスタニア王国に宣戦布告したのは、それから三年目の事だった。第一次ベタニア戦争と呼ばれるこの戦争は、クリスタニア王国にとって今後の命運の全てがかかっていると言っても良いくらいの重大なものだった。ただの列強諸国であり続けるか、そこから一歩高みへと昇るか。

 聖教機構は空軍の大編隊を組織してクリスタニア王国の街に爆弾を降らせるべく進軍した。彼らは勝利を確信していた。だって相手はたかが列強諸国の一つだ。いくら彼らが万魔殿と現在激しく戦っていても、勝てる、と。

 だが、その指揮系統がいきなり混乱する。総指揮官であった聖教機構幹部が、いきなり暗殺されたのである。イヴァンの仕業であった。その直後に、クリスタニア王国空軍は見た事も無い新兵器を戦場に投入した。

 ――その白く優美な空飛ぶ船を、誰が空中戦艦だと思うだろうか。だが、その白い戦艦の群れは瞬く間にその射程圏内まで聖教機構空軍と距離を詰めた。その射程距離は、わずかに聖教機構空軍の攻撃が届かぬ距離だった。そこから、ほぼ一方的に砲弾が放たれた。聖教機構空軍は驚愕して、勢いを失った。出鼻をくじかれた聖教機構空軍のその混乱を突いて、いつの間にか現れたクリスタニア王国軍の戦闘機の群れが、横から猛禽のごとくなだれ込んだ。

『撤退を!』悲鳴のような通信が次々と聖教機構幹部らの元に届いた。『撤退を! 敵は新兵器を導入しました! こちらの勝ち目はありません! ぐ、ぐああああああ!……ザ、ザー、ザー、ザー……』

聖教機構幹部らは屈辱感のあまり顔が真っ青に染まった。世界的勢力である彼らが、たかが列強諸国の一つに、局地戦でとは言え『負けた』のだ。しかも丁度彼らは万魔殿と激しく激突していて、これ以上の戦争継続は不利になる一方だった。そこに、すかさずクリスタニア王国から停戦条約の締結の打診があって、彼らは自分達がとことんクリスタニア王国の手の平の上で踊らされていた事を知る。停戦条約は、勿論クリスタニア王国にとって圧倒的有利になるようなものであり、しかもそれを呑まなければ聖教機構は万魔殿との戦争で劣勢になってしまう、そんな内容だった。

 ……第一次ベタニア戦争はかくして終わった。誰がどう見てもクリスタニア王国の勝ちであった。


 「だが、油断は出来ない」グレゴワールは執務室でひとりごちる。「これからこそが茨の道なのだ」

「……どうしてだ?」

気配を感じさせずに登場したイヴァンに、グレゴワールは背中を向けて言った。

「列強諸国と聖教機構が連携して、また我々に戦争を吹っかけてくるやも知れんからだ」

「……」

「だが我々は勝たねばならん。 勝って、大国に成らねばならん。 それが国王陛下との約束だ」

「……約束? 何の約束だ?」

「……」グレゴワールは少し黙った後、ぽつぽつと言った。「もう昔の事だ。 私は生意気な木っ端役人だった。 上と激突して馘首にされかけた。 だがそんな私を見いだして今の地位に就けて下さったのが陛下だった。 陛下は、おっしゃった。 『この国を大国にしてくれませんか?』と。 『豊かな、素晴らしい国にしてくれませんか。 貴方ならそれが出来るような気がするのです』……陛下は私を信じて下さった。 私の可能性を信じて下さった。 だから私はその信頼に応えたい。 約束を果たしたい。 それだけだ」

「……」イヴァンは、『俺もそうしたい』と強く思った。この汚い世の中で、それはとても美しく、尊いものに思えた。仲間のためにそうしたい。そうする事で、彼は満足を得られる気がする。否、満たされる。

だが、グレゴワールは、乾坤一擲の戦争に見事に勝ったと言うのに、意外な事を言った。

「『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。 草は枯れ、花は散る。 しかし、主の御言葉はとこしえに残る』――この国もそうだ。 いずれは滅ぶ。 いずれは終わる。 この国がいくら繁栄しようと、滅びの要因はあちこちにある」

イヴァンはぎょっとした。国は繁栄する。そしていつかは滅びる。その現実を眼前に突きつけられた気がした。

「グレゴワール! お前はそんな空しいもののために骨身を削って――!」

グレゴワールは首を左右に振った。

「空しい? とんでもない。 私はただ、今、国王陛下が喜んで下さる事が楽しいのだ。 確かに空しい努力だろう。 確かに意味の無い行いだろう。 だが、それでも私はやるのだ。 人の営みはおしなべてみな空しい。 だが、それでも人は営んでいく。 私もその一人だ。 諦めたいなら諦めるが良い。 私は諦めない。 世界が滅びる最後の日の前日になっても、私はリンゴの木を植えるだろう」

「……グレゴワール。 では俺はそのリンゴの木に水をやろう」

イヴァンがそう答えると、グレゴワールが穏やかに笑ったのが気配で感じられた。


 第一次ベタニア戦争から幾星霜が経ったか。誰が言い始めたとも知れないのに、瞬く間にその名称は世界に広まった。

 『一二勇将』

クリスタニア王国を支え、成り上げさせている一二人の英雄達の事を。貴族と平民の垣根を越えて生み出された、王宮の円卓を囲む一二人の仲間達の事を。クリスタニア王国を世界的勢力にまでした、漢達の事を。

「何だかケツがむずがゆくなるような名称だな」とオリエルはぼやく。「ワシは出来れば智将と呼ばれたいぞ、勇将はいかん、ああ言う熱血漢は兵を無駄死にさせるだけだ。 戦場に熱血漢は要るだけ邪魔だ。 必要なのは怠け者で狡猾な、ただし軍紀を守る兵士だ」

「あらぁ」とマダム・マクレーンが扇で口元を隠しながら、「じゃあ私は美将が良いわぁ」

『貴方の場合は毒将でしょう』余計な事を言ったマルバスが彼女に睨まれて、ひゃあっと飛び上がった。『じょ、冗談ですよ、冗談!』

「人を不愉快にさせて何が冗談なのかしらぁ? マルバス、貴方は後でお仕置きよぅ?」

『助けてえええええ!』マルバスはマダム・マクレーンから飛び退いてDr.シザーハンドの背後に隠れた。『殺される!』

「……そう言えば私は悪魔を解剖した事が無いんですよねえ」そのDr.シザーハンドは鬼畜のような発言をした。満面の笑顔で。「悪魔の場合どんな臓器があるので」と言いかけた所でマルバスは這いずるようにしてグレゴワールの背後に隠れた。

『助けて下さい殺される!!!』

「……お前達」とグレゴワールはため息をついて言った。「本気で言うな」

「ううむ」と『法大家』ランディーが首をひねって、「確かクリスタニア王国の憲法では悪魔には人権が無かったな。 そもそも悪魔なぞいないと言う定義になっている。 と言う事は別に何をしてもとがめる法律も無いと言う事だ」

「そうだな」クロードも言う。「別に殺『人』未遂でもない。 逮捕する事も出来んな」

『うわあああああああああああああん……』マルバスはついに泣き出した。『何で私はこんな恐ろしい人に憑いてしまったのだろう……主よお助け!』

「……悪魔が主とか言うのか?」イヴァンは疑問を感じた。「悪魔なのにか?」

『救世主は別に悪魔を差別したりしていませんでしたからね。 あの人滅茶苦茶良い人でしたよ。 魔族ですら赦したんですから。 可哀想に弟子に裏切られて殺されちゃったけれど、私あの人嫌いじゃないです』

マルバスは、悪魔の癖に信じられない事を言い出した。

「マルバスは救世主に会った事があるのですか!?」びっくりした顔のアナベラに誇らしげに、

『そりゃあもう! 一時期は真剣に私も教徒になろうかと思ったくらいですよ。 でもあの人、崇められるのは苦手だとかおっしゃっていたっけ……』

「何だか聖典に書いてある事と矛盾が多すぎるのだが」オリエルがぼそりと言った。

『だって聖典は滅茶苦茶改ざんされていますからね! 言っちゃ悪いですがあれはパチモンです。 聖教機構や、その前身だった教国ヴァティカンによって、かなり書き換えられていますから。 教えを直に、生身で聞いた身としては、何だかなあって感じですよ』

「五〇〇年前ならばマルバス、そんな事を言ったが最後、お前は焚刑だったぞ」ランディーがぶるぶるとわざとらしく震えた。「まあ、悪魔と付き合っている我々も同罪だがな」


 そのマルバスがある日、王宮の片隅で血反吐を吐いて悶え苦しんでいた。発見したイヴァンは一体何がどうしたんだと思って、介抱してやりながら質問した。

「……何がどうして悪魔が血反吐を吐いて悶えているんだ」

『げ、げぼぁ……マダム・マクレーンに毒を……ゲホッゲホッ、これで三七回目です……』

「……」

流石は毒殺貴婦人、やる事がえげつない。可哀想になってイヴァンはマルバスが落ち着くまで世話してやった。落ち着くなりマルバスは泣き出した。全然落ち着いていない。

『シクシク私が毒程度では死なないからってあの人いつも非道い事をシクシク……』

イヴァンは、あの、最初に出会った時、いきなり殴られた恨みも忘れて励ました。

「……頑張れ。 明日にはきっと良い事があるから」

『シクシク励ましありがとうございますシクシク……』

涙もろい悪魔だなとイヴァンは思った。悪魔と言えば『悪魔』をイメージするのだが、マルバスはその点全然悪魔らしくない。むしろマダム・マクレーンの方が悪魔的である。そう言えば救世主の信徒になりたいとか言っていたな、とイヴァンは思い出した。悪魔にも色々な種類がいるようだ。

「……悪魔にも色々といるようだな」

『そりゃあ魔王から私のような木っ端悪魔まで色々いますよ!』とマルバスは胸を張った。何のために胸を張るんだ?とイヴァンは思ったが、突っ込まないでおいた。

「……魔王……と言うと?」

『サタン様ですね』マルバスは遠い目をして語る。『もう凄まじいの何の。 あれは、あの力は、正に魔王のそれですよ。 あの御方が本気を出せば、ありとあらゆる国もこの星も根こそぎ滅ぶでしょう』

「……それは怖いな」と言ったもののイヴァンは想像が出来なくて、漠然とそう感じた。この星が滅ぶと言われてもどうもそれは具体性に欠けるような気がした。ただ、曖昧に怖いと感じただけだ。マルバスは思い出しつつ語る、

『でもあの御方は哀れです。 「アガペーが分からない、愛を認識できない」、そのために異界で安らぐ事も出来ずにずうっとこの世を彷徨っているそうなので……』

「……愛か」

『救世主が一番伝えようとしたものです。 哀しいこの世界のたった一つの救い。 私はあの御言葉にぞくぞくしましたよ。 愛だけがこの世界を救う、と断言されたのですから。 このどうしようもない残酷な世界を』

「……神が救うのでは無いのか?」

神と言う単語を耳にした途端に、マルバスは目を見開いた。

『神! 神なんか! あんな残酷な神なんか冗談じゃありませんよ! あんな神が生きていたら、この世界は今頃とんでもない世界になっています!』

イヴァンは混乱した。「……神と救世主は同じ存在では無いのか?」

『全然違います。 それ聖典の書き方が悪いんです。 えーと』と頭をひねって、『神は二種類いるんですよ、真なる神と残酷な神と。 真なる神が救世主を遣わした方で、残酷な神はこの世界を創造した方です。 だからこの世界は不完全でろくでもない。 おまけに残酷な神が支配しようとしていたものですから、酷かった。 無慈悲だった。 それを見るに見かねた真なる神が救世主を派遣されたんです。 これ聖教機構のトップシークレットですよ? でも通説です。 真実です。 私も見てきたんですから、間違いない』

悪魔に聖典を語らせるとは、とイヴァンは思った。だが、マルバスは嘘をついているようには見えなかった。救世主について語る時にとても懐かしそうに目を細めている姿は、悪魔の癖に酷く人間らしかった。

「……そうか。 ちなみにお前は悪魔の中ではどんな悪魔なんだ?」

『……』マルバスは落ち込んだ。いじいじと床にのの字を描いている。『悪魔一もろい男と呼ばれています……』

「……何がもろいんだ」

『涙腺と……膀胱です』

「……漏らすのか」いい年こいた、と言うか、もう数百年と生きているだろうに漏らすのか。イヴァンは呆れた。

『漏らしますよ、ええ!』やけくそ気味にマルバスは叫んだ。『怖すぎると漏らしますよ! ですのでいつも着替えを引っさげているんです! 悪いですか!』

「……いや、別に」とイヴァンは目を逸らして言った。それが彼に出来る精一杯の気遣いだった。


 オリエルに自分は嫌われているようだとイヴァンは感じていた。オリエルは良くも悪くも軍人の武人であり、殺し屋の事を嫌っているらしい。同じ人殺しでも、戦争で人を殺すのと金で人を殺す違いがある、と言う事だ。実際は『殺人』は『殺人』で、そこにどんな理由が付こうと変わらないのだが。それにイヴァンは元々はグレゴワールを暗殺しようとしていた。信用が置けない、と言う敵意のこもった視線にも、イヴァンはすぐに慣れてしまい受け流すのだった。オリエルの性格上、陰湿な嫌がらせなどは無かったし、特にイヴァンは傷付いたりもしなかった。まあ無理も無いだろうな、くらいに思っていた。

 ある日イヴァンはちょっと変装して、ちょっと遠くまで散策に出かけようとクリスタニア王国首都クリスタニアンの地下鉄に乗った。運悪く地下鉄は満員に近い状態で、人がすし詰めされていた。イヴァンは、そこで、痴漢に襲われている若い女を見つけた。可哀想に真っ青になって震えている。壁際に追いつめられて、逃げようにも逃げられない。イヴァンは地下鉄が駅に止まって乗客が乗降を始めた瞬間、人をかき分けて痴漢に近付いた。近付くと、彼はぽんと痴漢の肩を叩いた。はっと痴漢が振り返ったその顔面に拳がめり込む。痴漢はぎゃあと悲鳴を上げて、いっせいに乗客が何事だと視線を向けた。

「……もう大丈夫ですよ」イヴァンは穏やかに女に話しかけた。それから乗客に向かって、「痴漢です、この男!」と叫んだ。

鉄道警察に次の駅で男を突きだし、女は何度もイヴァンにお礼を言った。美人で芯が強そうな顔をしていた。着ている服は品の良いカジュアルなもので、きっとそれなりに裕福で育ちの良い平民なのだろう。言葉の端々に貴族のような偉ぶった口調は無かった。彼女はこの駅で待ち合わせをしていると言い、もうすぐその相手、婚約者が来ると言った。イヴァンは凄く嫌な予感がした。

「……」

「……」

婚約者が到着した途端、気まずいなんて段階レベルの話ではない重たい空気が流れる。

「ねえヴァレリー!」とその空気をまだ読んでいない女がにこにこして言った。「この方、私を痴漢から助けて下さったの、どうかこの親切な方に貴方もお礼を――」

「……いえ、結構です」イヴァンは消えてしまいたい衝動に駆られた。彼の変装は本当にちょっとしたもので、彼を良く知る人間ならば一目で見破れるものだった。「……オリエル。 お前婚約していたのか」

ヴァレリー・ド・オリエル。あのオリエルである。だがイヴァンと彼は水と油の関係だった。

「……成人が婚約してはならんと言う法律はこの国には無いぞ」

「……それはそうだが」

だが、ちょっとデリカシーに欠ける所のあるオリエルが、婚約までこぎ着けていたなんて、意外も意外、想定外だった。多分、恋は盲目と言うヤツだろうとイヴァンは女に同情した。

開眼して、恋の夢が覚めたら、自分の選択を彼女は間違いなく後悔するだろう。オリエルは軍人としては優秀そのものだが、人間としては微妙な所がある。デリカシーに致命的に欠けている所があるのだ。

「あら!」と女は嬉しそうに言う。「貴方、ヴァレリーのお知り合いだったのね!」

「……ええ、まあ、はい」イヴァンは返答に困った。確かに知り合いである。だが、仲良しではない。一緒にいてもどう会話したら良いのか全く分からなくなる嫌な関係である。

「……まあ、な」オリエルも困っている。

「奇縁だわ! 本当に良かった!」女だけがまだ空気を読んでいない。

「……後の事はワシに任せて、お前は先に帰れ」オリエルはいつになく小さな声で言った。

「はーい!」と女は何度もお礼を言いながら、去っていった。

「……」

「……」

騒がしい駅にて、重苦しさのあまりに窒息死しそうな雰囲気の中で、二人は、沈黙している。

「……礼は言わんぞ」とオリエルは言った。

「……それで良い」イヴァンはぼそりと返事した。


 Dr.シザーハンドは殺人博士と呼ばれている。手術の天才でありながら、恋人を殺して食べてしまったと言うおぞましい過去を持っている。それで刑務所に入れられたのを、国王が特別に恩赦して、一二勇将の一員となった。

 グレゴワールが発作的に自殺未遂をしたのがそもそもの原因であった。国王クレーマンス七世に王妃アンリエッタとの密通を疑われたショックで、発作的に自分の胸を拳銃で撃ちぬいたのだ。その『密通』は、王妃が国王の浮気癖のあまりの酷さをグレゴワールに思わず愚痴っていた、と言うのが真相であった。国王は慌てふためき真っ青になり、王妃には平手をくらった。しかもグレゴワールの自殺未遂が狂言で無かった証拠に、銃弾は心臓の厄介な位置に食い込んでおり、並大抵の医師では取り出せない、と言う状況であった。だが、あのシザーハンドならば出来ると医療関係者の誰もが言ったため、国王は急いで恩赦したのだ。

Dr.シザーハンドは主に国王や一二勇将の健康を維持していた。物腰の穏やかな紳士であり、優しそうな眼鏡の奥の目を見ていると、とてもこの男があんな所業をしたとはとても思えないだろう。

彼はある日、イヴァンの身体改造手術を提案した。加齢によりおとろえていく体を、機械化により補強しようと言うのだ。イヴァンは二つ返事で承諾した、のだが、

「……食べたりするなよ?」急に不安になって彼は念を押した。「俺は食べてもそんなに美味しくない、と思う」

「食べませんよ」とDr.シザーハンドは呆れたように言った。「私が彼女を食べたのは、恋しかったからです」

「……食べてしまいたいくらい可愛かったのか?」

「そうですねえ、そのくらい恋しかったのは確かです」彼はふと哀しそうな顔をした。「彼女は精神を病んでいたのです。 生きる事が何よりも苦痛だといつもいつも言っていました。 生きてくれと頼んでも、どうして生きなければならないの、と返されまして。 私のために生きてくれと説得したのですが……彼女は何度も自殺未遂を繰り返した。 彼女の手首は傷痕だらけでした。 私も彼女を治すつもりが病んでいったのかも知れません。 気付いたら彼女を殺すために、治すためではなく、メスを手にしていました」

「……」イヴァンは黙って聞いている。

「でも、好きだったんですよ。 死んでも相変わらず。 愛しくて愛しくて、気付いたら食べていました。 食べてしまっていました。 とろりとした眼球の味を私はまだ覚えています。 美味しいとは思いませんでした。 ただただ愛おしかった。 ……彼女を食べる事で、寂しがり屋だった彼女を一人にはしないようにしたかったのかも知れません。 だから私は反省していません。 後悔もしていません。 でも、もう二度と彼女のように誰かを愛せる事は無いでしょう」

「……それでも」イヴァンは口を開いた。「殺人は殺人だ。 殺した者はいずれ殺される」

「分かっていますよ、ええ」

Dr.シザーハンドは何もかも呑みこんだ顔で、頷いた。

「だからこそ私は今こうやって働いているのです。 義務を果たすために。 この義務さえ果たせたらもう心残りは無い。 私は、いつ死んでも構わないのです」

「……そうか」とイヴァンは不思議な共感を覚えた。彼もまた殺してしまった人間だからである。いずれ殺し返される事を理解している人間だからである。因果の絶対応報を分かっていて、だからこそ今を生きようとしている。イヴァンはグレゴワールの言葉を思い出した。『私はリンゴの木を植えるだろう』――それにイヴァンは水をやる。だとしたらDr.シザーハンドは肥料を用意するだろう。一二勇将はみんな、そんな人間だ。イヴァンはその一人になれた事を心底運命の女神に感謝した。滅びない『何か』のために生きられる事を、本当に嬉しく楽しく思った。


 クリスタニア王国国王クレーマンス七世は一二勇将を率いている。クリスタニア王国では国王の権力こそが絶対であり、抗う事が出来る者はいないほどである。彼こそがこのクリスタニアで唯一の絶対的権力の持ち主なのだった。

 稀代の名君と呼ばれても、クレーマンス七世も人の子であった。非常に人間らしい人間だった。普段は温厚な男だが、貴族におだてられれば調子に乗り、グレゴワールらに説教されればしゅんとなる。美女を見れば食指が動き、王妃に尻をつねられれば悲鳴を上げる。美食と美酒には目が無くて、Dr.シザーハンドに血糖値の事で脅される。趣味はジグソーパズルの制作で、五〇〇〇ピースもの大作を仕上げて自慢して悦に入る。彼は、そして、自分に政治的能力が無い事、統治者としては駄目な方である事を自覚していた。敵を知り己を知れば百戦危うからず、と言うが、彼は自分に政治家としての才能がほとんどない事を知っていた。だからこそグレゴワールを見出し、登用したのだ。そのグレゴワールがきっかけとなって、一二勇将が生み出された。

クレーマンス七世はいわば無能な名君であった。己が無能だと分かっているからこそ名君になれたのだ。一二勇将を彼は信じ、信じられていた。だがその一方で一二勇将はほぼ国王の権力に依存しており、国王の一言に左右される不安定な存在でもあった。貴族のように独自の権力基盤を持っていなかったのだ。


 ……かつて、このクリスタニア王国の若き国王クレーマンス七世は、どん底に落ちていた。先代国王からの対外戦争にはことごとく敗北、政治的には貴族の言いなり、領土は減る、国民も減る、増えるは負債と絶望のみ、と言う状態であった。

 そんなある日、クレーマンス七世はグレゴワールと出会うのである。この時、実はクレーマンス七世は自殺を考えていた。当時列強諸国最強と呼ばれていたアルビオン王国軍が、クリスタニア王国首都クリスタニアンを陥落させるべく進軍してきていたのである。その防衛戦にも負け続け、クリスタニアン陥落まで間もない、と言う時に彼は、上司とソリが合わずに首にされたグレゴワールに出会ったのである。

ここから全てが始まった。

……お互いにお互いが、必要不可欠な状態であった。グレゴワールを取り立てたおかげでクレーマンス七世はクリスタニアン防衛戦に勝利できた。グレゴワールが、軍隊一の変人と呼ばれていたオリエル大佐を、防衛戦の総指揮官に任命したからである。クレーマンス七世は泣いて喜んだ。一方グレゴワールは感激していた。出会ったばかりの自分に大役を任せてくれた国王に、自分を信じてくれた国王に、完全に心酔してしまった。彼はこの国王のために生きようと誓った。彼は国王のために、このクリスタニア王国を繁栄させてほしいと言った男のために、命を投げ出す事を決めた。彼は、自己犠牲などと言う大層なものではなく、その方が楽しい事間違いなしの人生になると確信したのだ。

 一人、二人と仲間を増やし、グレゴワール達は活躍した。貴族達は当然ながら彼らを良くは思わず、クレーマンス七世に色々と吹き込んだ。クレーマンス七世は、だが、一切グレゴワール達の中傷誹謗に耳を貸さなかった。クレーマンス七世は無能な男だったが、信じる強さを持っていたのだ。それは何よりも崇高で、気高く、素晴らしいものだった。グレゴワール達はそれに応えた。これほどの信頼に、応えなければつまらない。彼らはそう思っていた。だって、その方が楽しいじゃあないか。

――そしてクリスタニア王国は、今に至る。


 海上貿易の要衝ハルトリャス海峡の支配権を巡って、『帝国セントラル』とクリスタニア王国が睨み合った時の事だった。帝国は世界的勢力の最後の一つで、魔族が貴族となって人間である平民を統治している国だった。

聖教機構、万魔殿、クリスタニア王国、帝国、この四つの勢力のパワーバランスの元、現在の世界は維持されていた。そして、このハルトリャス海峡の支配権を得れば、海上交易によりもたらされる莫大な富が得られる。

 クリスタニア王国の一二勇将は最初支配権でなく通行権を得ようと下手に出た。一二勇将は、帝国へ代価を払って通行権を得るだけで十分だと判断したのだ。勿論払った代価とは比べものにならないほどの利益が得られる。現在帝国が支配しているハルトリャス海峡を、何も戦争を吹っかけて支配権ごと奪い取る必要は無い。ここは大国としての面子なんか捨ててしまって下手に出て、帝国に媚びて、まあ、値切れるだけ値切って通行権を得よう。

これが、貴族達の怒りを買った。大国と呼ばれるクリスタニア王国が、下手に出ているなど、彼らには耐えられなかったのだ。自分達はほとんど何もしなかった癖に、プライドだけは一人前で、威張っていたから、余計に耐えられなかった。花を捨てて実を取る一二勇将のやり口が、彼らには国辱であるように感じられた。

それで彼らは一致団結して、国王の説得にかかるのである。

 クレーマンス七世も己の支配する国を大国大国と呼ばれて、少し有頂天であった。そこに貴族達からこれは屈辱的だのこれは国王の面子への冒涜だの、色々な単語を集団で次々に吹き込まれては、たまらない。

「戦争を!」貴族は口々に言った。「あんな国辱的なやり方ではなく、正々堂々とハルトリャス海峡を勝ち取るのです! 我が国の軍隊の強さを、素晴らしさを、帝国に見せつけてやるのです! 魔族共に思い知らせるのです! 我らの国こそが世界最強である事を、世界に知らしめるのです!」


 ――国王はすっかりその気になってしまった。


 「な」国王に呼び出され、話を聞かされたグレゴワールは仰天した。「戦争、ですと!?」

「そうです」クレーマンス七世はきっぱりと言い切った。「我が国こそ最強だと、帝国の魔族共に思い知らせてやるのです!」

「いけません!」グレゴワールは血相を変えていさめた。「戦争はいけません! 陛下、どうかお考え直し下さい! この戦争は、負けます!」

「負ける……?」クレーマンス七世は見る間に不機嫌になった。「グレゴワール、貴方はまだ戦いもしない内に敗北主義を唱えるのですか?」

アナベラが叫んだ。

「違います! これは無駄な戦争です、無駄な戦争は絶対にやっては――陛下、どうかお止め下さい!」

「うるさい!」クレーマンス七世は一蹴した。「敗北主義者の言う事なんか聞きません!」

もう駄目だ。グレゴワール達は目の前が一瞬暗くなった。戦争は起こる。そして負ける。クレーマンス七世の性格は誰よりも彼ら一二勇将が理解している。調子に一度乗ると、とことん暴走してしまう。もう、こうなったら、いかに戦後処理を上手くやるか、それだけだ。それでも彼らは念のためにオリエルに聞いてみた。戦の達人である彼に。

「オリエル。 勝てそうか?」クロードは、聞いたものの、もう答えは知っていた。

「……兵が気の毒だ。 勝てん、勝てんよ。 向こうの方が地理に圧倒的に詳しい、何しろ現在も実効支配しているのだからな。 それに……」オリエルは言いかけて口を閉ざした。

「クセルクセス」マダム・マクレーンが眉をひそめて言った。「帝国海軍提督にしてジュナイナ・ガルダイア太守。 帝国現枢密司主席エリシャの実弟。 そして、天才的な戦争指揮官。 オリエル、貴方を別に悪く言うつもりは無いのだけれど、貴方の才覚は勿論知っているのだけれど、こればかりは、ねぇ……」

「とにかく戦後のために動くしかない」滅多に喋らない『沈黙の聖人』ゲッタが喋った。彼は情報統制、軍事目的の暗号開発などを行っていた。彼は他の国々の暗号文を解読機械無しに一べつしただけで解読してしまったほどの演算能力を持っていた。「敗戦した後が問題だ、恐らくこの機を逃さず聖教機構が動くだろうから。 それをいかにして回避するか、だ」

「……最悪の場合は俺が動こう」イヴァンが言うと、皆が静かに頷いた。


 そして、第一次ハルトリャス海戦は始まった。そして一日も経たずに終わった。

クリスタニア王国の、見事なまでの惨敗だった。オリエルが指揮をとっていれば結果は違ったかも知れないが、生憎彼は敗北主義者扱いを受けていて、総司令官は大貴族のオーランド海軍提督だった。クリスタニア王国軍は大量の捕虜が出して、その中にオリエルらも入っていた。

 ――だが、戦が始まる前にアナベラ達が既に帝国と密約を結んでいた。それはクリスタニア王国側が賠償金を支払う代わりに通行権を得る、と言うシンプルなものだった。後は捕虜の返還をいつにするかなどと言う細かい微調整があるだけだ。

 更に一二勇将の読みは的中する。聖教機構がこの瞬間を狙って動いたのだ。一気に攻勢に出て、クリスタニア王国領土へと攻め込もうとした。第二次ベタニア戦争である。だが、同時に聖教機構内で分裂が起きたため、それどころでは無くなってしまった。たっぷりとクリスタニア王国からワイロの洗礼を受けた聖教機構幹部が、背信行為と言う腐り果てた行いをありがたい事にやってくれたのである。イヴァンが出るまでも無かった。聖教機構は内部分裂を治めるために戦争どころでは無くなってしまい、クリスタニア王国軍と軽い小競り合いがあったものの、すぐに撤退してしまった。だが、それで諦める聖教機構では無い。軍事制裁が加えられない代わりに、徹底的な経済制裁を行ったのである。しかしクリスタニア王国はものともしなかった。この国は強力な軍事力だけでなく、今や確固たる経済力をも有していたのである。

「聖教機構に経済制裁を加えられても、だ」ユースタスはにやりと口角をつり上げる。「そんなものは予測済みだ。 天気予報よりも分かり切っている事だ。 金とコネと力こそが国を、組織を動かすのだから。 即座に緊急金融特措法を施行した、何、この国の経済に損害は何一つ与えさせん!」

『私が聖教機構幹部会議を盗み聞きしたのもあるんですけれどね!』とマルバスは自慢そうに胸を張った。イヴァンは、今なら胸を張ってもちっともおかしくはないな、と静かに笑いたいのをこらえて、思った。


 ――イヴァンは帝国の、否、世界屈指の貿易港にして国際商業都市ジュナイナ・ガルダイアへ出向いた。そこにクリスタニア王国海軍の捕虜達が囚われているのである。大量に。

ジュナイナ・ガルダイアは美しい街だった。海の青さと街並みが鮮やかなコントラストを成していて、国際貿易都市だけあって色々な国の色々な人間が街を闊歩していた。

 彼は捕虜収容所に向かった。上手く潜入してオリエルと会えれば良いのだが、と思っていた。しかし、きっと警備は厳重で捕虜は厳しい暮らしをさせられているだろうから、会うのは難しいろうとも覚悟していた。

 ……彼は捕虜収容所が最初どこだか真剣に分からなくて、何度もジュナイナ・ガルダイアの地図と目の前の光景を重ね合わせた。必死に住所を確認した。間違っていない。間違いなくここだ。その事実に打ちのめされた途端に、彼は脱力してしまってぽかーんと口を開けた。


 遊んでいるのである。


 帝国の幼い子供と、クリスタニア王国海軍海兵が、球を追いかけて。

(……捕虜だよな?)

イヴァンはこんな親善交流のためにあの戦争をやったのだろうかと訳が判らなくなった。

(捕虜と言うのは普通厳しい暮らしをさせられて、故郷を必死に思い出しては自分を慰めているものじゃないのか? 遊ぶのか? 敵国だった国の子供達とボールを追いかけて遊ぶのか? 捕虜とはそんなものなのか?)

彼は歩いていって捕虜収容所と小さく書かれたプレートの下の門をくぐり、中に入ったが、誰にもとがめられなかった。

中に入って、彼はますますあ然とした。肥えているのである。海兵が皆揃って肥えているのである。そして娼婦らしき女や、芸人と思しき男、楽器を抱えた楽団、その他色々の、捕虜収容所にあるまじき帝国の民間人とすれ違い、真面目に自分の正気を疑うしか無くなった。

(娼婦? 芸人? 楽団? ここはどこだ、俺は誰だ!? ――お、俺はイヴァン・アセンだ。 殺し屋のイヴァン・アセンだ。 落ち着け、俺はイヴァン・アセンだ。 だ、だがここは一体どこなんだ!?)

「おうイヴァン!」聞き慣れた馬鹿でかい声がその時響いた。

「……」

彼は声のした方を見て、いよいよくらげのように骨抜きのふにゃふにゃにされてしまった。

オリエル(しっかり肥えている)が異国的美女の肩に手を回しつつ、開け放たれたドアの向こうの部屋の中にいた。

何だか、イヴァンは一切合切が馬鹿馬鹿しくなってしまった……。

「……お前達は何をやっているんだ」

「いやあ、最初は虐待されるものだとばかり思っていたんだが。 ご覧の通り天国なもので誰も逃げだそうと言う気分になれん。 美女も多いしな、がっはっはっはっは!」

しかし確か、この男は今では結婚していたはずである。だとしたらこれは浮気である。不倫である。この場にお堅いグレゴワールがいたら、即座に激高し、猛雷烈火のごとく、どしゃまく怒鳴りつけていただろう。

「……帰る」

イヴァンはそれだけ言って、返事も聞かずにくるりときびすを返すと、その場から立ち去った。

 それから数日後、彼はクリスタニア王国のオリエル夫人の邸宅を訪れていた。彼が捕虜収容所で見た光景をそのまま話すと、オリエル夫人の形相が変わった。

 そして停戦条約が正式に結ばれて、捕虜は全員返還される事になり、名残惜しそうに帰ってきたオリエルを待っていたものは、怒り狂った細君のビンタの嵐であった。


 ――クリスタニア王国軍の兵士が捕虜として囚われて、ジュナイナ・ガルダイアに連行された日の事であった。

オリエルはクセルクセスに呼び出されて、何だろうと思いつつ、ジュナイナ・ガルダイア政庁に連れて行かれた。その部屋に一歩足を踏み入れたオリエルは目がくらむかと思った。絢爛豪華な調度品の数々、トドメとばかりに天井には太陽のようにきらびやかなシャンデリア。それらに囲まれたど真ん中に、ブロンドの長い髪の美しく若い男がいた。だが、男のまとう雰囲気は老練なそれである。魔族は基本的に人間よりもはるかに長生きする。ならばこの男こそが、クセルクセスなのだろう。

オリエルはびしりと背筋を正して、言った。彼は上級将校の姿に相応しく、威風堂々としていた。

「私に何の御用でしょうかな?」

「――一二勇将とやらに一度会ってみたかったのですよ」クセルクセスはややごう慢な口調で言った。「ただの人間の癖に頑張っている、そんな話を聞きましてね」

「確かにただの人間かも知れません。 ――本来ならばこの戦争は起こらなかった。 それが我々の判断でした。 勝てる戦争しか戦争はやってはならんのですから」

「ほう」とわずかに上体を前のめりにした、クセルクセスは興味をそそられたようだ。「勝てる戦争しかあなた方はやらなかったのですか」

「一つだけ。 第一次ベタニア戦争だけは別です」オリエルはきっぱりと言った。「あれは勝たねばならぬ戦争でした。 あれに勝てるか否かがクリスタニア王国の将来の命運を左右したのですから。 ……ですが我々はもう勝てる戦争しかやりません。 勝てる戦いでなければ、よしんば無理やりに勝てたとしても、貴重な戦力を失い国力は削がれ、何も良い事はありませんから」

「それがあなた方の国が急速に強大化した理由ですか」クセルクセスは納得したらしい。

「それだけではありません。 一一人の仲間がいたからこそ、です」オリエルはその一人一人を思い出しつつ、言った。「一人では無理でした。 誰かが欠けていれば恐らくクリスタニア王国は今のようにはならなかったでしょう。 だが一一人のあの仲間達がいれば、怖いものなど何もありません。 やりたい事をやり、足りない部分は補い合い、やりすぎた部分は削って、私達はここまで来たのです」

「……ふうむ」クセルクセスは軽くうなった。「一人の天才ではなく一二人の凡人と言う事ですか」

「凡人かも知れませんが、誰もが覚悟を腹にくくっています。 その覚悟は、命よりも重いものなのです」

「……それが愛国心と言うものですか?」

オリエルは少し考えたが、すぐに否定した。

「いいえ、愛国心などと言う言い訳ではありません。 楽しいからです。 純粋に楽しかったからこそ、我々はここまで来られたのです。 『この楽しさを失うくらいならば』――それが我々の覚悟です。 命がけの覚悟です。 ワイロでもらう大金よりも、死ぬまで保証された高位よりも、ただアイツらとこの楽しい義務を果たしたい。 それだけです」

「ほほう」クセルクセスはご機嫌だった。「……実は、オリエル殿、貴方は大変に優秀な軍事指揮官だと言う話を聞きましてね。 それがどれほどのものか、知りたいと思ったのですよ。 ここに」とクセルクセスは机の上に置かれた立体映像投射機のスイッチを押した。ハルトリャス海峡の映像が浮かぶ。「先ほどのハルトリャス海戦の模擬戦争プログラムがあります。 貴方がいかように用兵を巧みとするか、見せてはくれませんか」

「良いでしょう」とオリエルは頷いた。

 それで二人はヘッドマウントディスプレイを頭にかぶり、『戦争ゲーム』を始めた。

……最初は余裕そのものであったクセルクセスの顔が、段々と歯を食いしばり険しくなっていく。そしてついに、はっと血相が変わった。

それはハルトリャス海峡の海流が、丁度、海の干満時と重なって、変わり始めた時であった。同時に、それまで帝国海軍に押されていたクリスタニア王国海軍が、一転して逆襲してきたのだ。それに反撃しようとした帝国海軍だったが、クリスタニア王国軍の劣勢に伴い深く攻め入っていた事と海流が変わっていたため、反撃には不利な状況に立たされてしまった。クリスタニア王国海軍の快進撃に、帝国海軍の軍艦は次々と撃破されていく。そして帝国海軍の退路の先には、いつ出現したのか、クリスタニア王国海軍、それも主力部隊が――!

「う、うう!」クセルクセスは呻いて、ヘッドマウントディスプレイを外し、机に叩きつけた。彼は自分が優秀な軍事指揮官だと自覚していたし、それは事実であった。だが、彼がハルトリャス海戦で勝てたのはただの幸運ラッキーだったと認めざるを得なかった。「何と言う男だ! 海流の変化すらも読んでいたのか!」

「……徹底的に」とオリエルはそのディスプレイを外してから言った。「私は調べます。 敵地の地理を知り尽くし、敵について調べつくし、それから最善と思われる作戦を練り、実行します」

「……」クセルクセスの顔に、もはやごう慢な色と言うのは一切無かった。「なるほど、あなた方は本当に素晴らしい……! どうやら我々は対立的にではなく、友好的に共存しなければならないようだ」

「我々もそれを望んでいます」とオリエルは言って、「どうぞ停戦条約の締結にご協力を。 それはあなた方にとっても何ら不利にはなりません」と付け足した。

「……なるほど」クセルクセスは香水の匂いをかいで落ち着いた後、「……枢密司の姉に伝えておきましょう。 あなた方『一二勇将』がいるクリスタニアと全面衝突した場合は、こちら側も相当な損害を受ける、と」

そしてクセルクセスは右手を差し出した。オリエルはそれを右手でしっかりと握った。


 イヴァンはたっぷり一〇分は固まっていた。向こうも固まっていた。

硬直が解けた後、とんでもない現場に出くわしてしまったとイヴァンは恐れた――クレーマンス七世の不倫現場に。侍医のいない医療室のベッドの上で、女とけしからん行為をやっていたのだ。王妃アンリエッタがいるにも関わらずのこの所業である。これは、大問題になる。

 一二勇将が慕っている名君クレーマンス七世は、ご覧の通りの好色漢でもあった。

 「う、あ、あ……そ、そうだ! 何が欲しいのですか!?」すぐさまクレーマンス七世は買収行為に出た。「権力ですか金ですか地位ですか!?」

イヴァンは別にそんなもの、欲しくない。もらっても困るからだ。

「……いえ、結構です」

「ぐ、グレゴワールにだけは!」国王はがたがた震えながら言った。そんなに震えるくらいなら不倫をやるなとイヴァンは心底思った。「グレゴワールにだけは言わないで下さい!」

「……」イヴァンは何と言えば良いのか困っている。

「欲しいものは何でもあげます、だから――!」国王は恐慌状態パニックになっている。パニックになるくらいなら不倫なんかするなとイヴァンは心底思った。

「……逃げた方が賢いですよ」とイヴァンはついに哀れになって言った。「俺がここへ来たのは、グレゴワールが書類で指を切ってしまったので、絆創膏を貰うためですから――」

その時だった。イヴァンは殺気に、背後の紛れもない殺気に、ぎょっとして振り返った。


 「……陛下」


 恐らくイヴァンが戻るのが遅かったため、自分で貰いに来たのだろう。それとも噂をしたので影が差したのか。グレゴワールが額に青筋を浮かべて、わなわなと震えつつ、そこに立っていた。もう悪魔も(少なくともマルバスなら)裸足で脱兎のように逃げ出すだろう、鬼のような形相をして。

「ヒイイイイイッ!」クレーマンス七世はジャンピング土下座を繰り出した。「出来心です、出来心なんです! ど、どうか勘弁して――」

だが、鬼は咆吼をあげる。

「貴方はぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!」イヴァンは思わず耳をふさいだ。音声の、これは暴力だ。オリエルの大声なんか、これに比べたら小鳥のさえずりだ。頭がぐわんぐわんと揺れ、鼓膜が消し飛ぶかのような気がした。「これで二三回目ではありませんかぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

女が真っ先に逃げ出した。だが国王は逃げ遅れた。

「うわあああああッ、堪忍して下さい!」

「身ごもられているアンリエッタ様にぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!! 申し訳ないと思わないのですかぁあああああああああああああああああああああああ!!!!!」

「ごめんなさい、ごめんなさい!」

半泣きの国王と怒髪天のグレゴワールを見て、誰が大国クリスタニア王国の国王とその宰相だと思っただろう。上下の立場が逆転して逆転して、おまけに反ひねりしていた。

「アンリエッタ様にぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!! 謝罪をぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!! 謝罪なさって下さいぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!」

「謝ります、謝りますから! お願いだから怒鳴らないで!」

グレゴワールはまるで警察官が犯人を拘束連行するかのように、国王を無理やりに連れて行った。イヴァンはこっそりと後ろを付いて行った。国王が最悪、失禁するのではと危ぶんだためである。


 「……ハァ」

事情を聞いた王妃アンリエッタは、ため息をついて、土下座する国王を見、まだ怒っているグレゴワールを見、それから言った。

彼女は貴族の出身だったが、一二勇将の味方をしてくれて、一二勇将をねたむ貴族達の不満をいつもなだめてくれていた。グレゴワール達が王の不倫癖を必死に治そうとしていたからである。正直、イヴァンはこんな浮気猿にはもったいないくらいの賢妃だと思っていた。

「私、グレゴワールと結婚したかったわ」

「何でだぁ!?」国王は怒鳴った。「何でだ、アンリ!」

「だって浮気しないもの」

「赦さんぞ!」国王は不倫した癖に独占欲を出して叫ぶ、「浮気は赦さんぞ!」

「二三回も浮気した貴方にだけは言われたくないわよ!」

犬も食わぬ夫婦喧嘩が始まった。だが、国王の方が不利であった。何しろ王妃にはグレゴワールが味方しているのだから。

イヴァンはこっそりとその光景を見て、思わず嘆息してしまった。情けない。何て情けない。だが、同時に国王を身近に感じた。憎めない、酷く人間くさい人なのだな、と思った。


 ……王太子アルベールには、はっきり言って王の素質が無かった。

グレゴワールやアンデルセン達が必死に幼い頃から教育しようとしたが、生まれつき愚昧で頑迷なのは全く変わらず、自尊心だけは一人前だった。貴族にちやほやされるのが大好きで、威張り散らすのが趣味のような少年だった。それでもグレゴワールは切々と語り、教化しようとした。国王の義務を果たさねばならない事。その義務はとても重たいものであると言う事。だが王太子はふんぞり返って話を聞こうとせず、終いにはうるさがって、己を崇める貴族と遊びに行ってしまうようになった。国王も王妃もそれを悲しがったが、王太子はどこ吹く風だった。

 その姿を見て、イヴァンは昔殺したサー・バーナード・ウィクリフを思い出す。あれもこのような男だった。このような、自分がちやほやされなければ生きていけない弱い人間だった。人間の『強さ』を持たない人間だった。覚悟の無い人間だった。イヴァンはこの国の未来に不安を感じる。この少年が大人になって、クリスタニア王国の国王になる時が必ず来る。そうなったらこの国はどうなるのか――?イヴァンは不吉な考えを無理やり頭から追い払う。そして、それでもリンゴの木に水をやろうと決心するのだった。


 ――「見たか?」

「見ました!」

「お前もか!」

「……俺もだ」

「春が来たな、鉄血宰相に!」

 ――最近の一二勇将の一番の話題は、グレゴワールとその新任秘書エマだった。男女の仲なのかどうかは分からないが、何と言うのか、一緒にいる姿を見ると微笑ましさのあまりに見ている側が悶えてしまうのだ。

「何あれ可愛いわぁ!」とマダム・マクレーンがマルバスにストーキングさせた結果、二人は清い交際をしている事が判明した。年の差はあるものの、双方同意の上なのだから何ら問題は無い。マダム・マクレーンはニヤニヤが止まらなくなってしまった。

「……」ゲッタは喋らない。だが、彼は仕事の合間に結婚式のスピーチ原稿を真剣に執筆していた。その時彼はやはりニヤニヤしていた。

 グレゴワールはむやみに人に暴力を振るうような男ではない。だが、彼はある日アルトゥールをぶん殴った。アルトゥールにしてみれば良い迷惑だった、本当にただの親切心から精力剤をグレゴワールに渡しただけなのに。

「ひ、酷いじゃないか! 何で殴るんだ!」

「黙れ!」一喝したのだが、グレゴワールは顔を真っ赤にしている。それを見たら、もうイヴァンですらニヤニヤが止まらなくなってしまった。

……いつの間に集まったのか、一二勇将の面々が周囲にいて、好き勝手にお節介な世話焼きをやろうとしていた。

「犯罪だな。 道徳的大犯罪だ。 やいこの犯罪者め、逮捕だ逮捕!」クロードがニヤニヤして言う。

「黙れ!」グレゴワールは怒鳴った。

「グレゴワール、いかに女性を落とすかと言う問題に対しての対応策は――」アナベラがいつものごとく生真面目に、縁結びをしようとする。

「黙れ!!」

「いいかグレゴワール、夫婦と言うものはだな」オリエルが己は夫婦仲が悪い癖に偉ぶって諭そうとした。

「黙れ!!!」

「法律上、結婚には何ら差し支えも」ランディーが応援しようとした。

「黙れ!!!!」

「ああ、出産の時は任せて下さい、必ず元気な赤ん坊を」Dr.シザーハンドが自分の胸を叩いた。

「黙れ!!!!!」

「結婚式の費用が足りんかったら喜んで無利息無利子で融資するぞ!」ユースタスが言い出す。

「いい加減にしろ!!!!!!」

 それでも、一二勇将の面々は怒鳴ってばかりのグレゴワールに、とにかくニヤニヤが止まらなかった。


 しかしエマの方はどうなのだろう。貴族とも呼べない小貴族の出の彼女の、かなり年の離れた男と付き合いたがる心裏を、一二勇将は知りたくなった。グレゴワールに限って若い娘をたぶらかしたなんて事は絶対に無いが、それでも気になる。なので、グレゴワールを除く面々がくじ引きをして、当たったマダム・マクレーンが突撃する事になった。

「ねぇ」と廊下の片隅で、彼女はエマにさりげなく出会ったふりをして話しかけた。「貴方、どうしてグレゴワールの事が好きになったのぅ?」

ぼっとエマの顔が一瞬で朱に染まった。マダム・マクレーンは慌てて、にやけそうになったので扇で口元を隠した。

「そ、それは! それは! ……それは、その」嫌だわ可愛い!マダム・マクレーンはすっかりこの若い女が気に入ってしまった。「この王宮は、陰謀と策略がうごめく魔窟じゃないですか。 貴族と平民が激しく、でも意味もなく争っているじゃないですか。  でも、あの人は、そう言う垣根を壊して、自分の信じる道を歩いている。 たとえそれが苦難の道でも、恐れる事なく歩いている。 あの人は凄く強いから。 だ、だから、その……」

賢い女だわ、と彼女は思った。美人でしかも賢い女だ。グレゴワールにぴったりだと思った。

「……『恋に上下の隔てなし』。 頑張りなさいよぅ、グレゴワールは照れ隠しで怒鳴るからぁ。 全くあの男は罪な男ねぇ。 罪な男過ぎて今まで気付かなかったわぁ。 おほほほほほほ……」

 マダム・マクレーンは上機嫌で立ち去った。


 王宮ではありとあらゆる噂が流れ飛ぶ。どんな秘密でも、ここでは隠し事にならない。貴族が威張り散らし、一二勇将に従う官僚としばしば対立する、その狭間で、ありとあらゆる情報が、混沌の海となって王宮の隅々まで満たしていた。

勿論、その中に、グレゴワールとエマの小さな幸せの噂も、誰が言い出したかも知れずに流れ始めた。

「なあグレゴワール」と一二勇将を代表してアンデルセンが話しかけた。「お前は堅物だが男の中の男だ。 彼女を幸せにしてやるんだぞ?」

「黙れ!」とグレゴワールは怒鳴ったが、誰も気圧されたりなどしなかった。顔が真っ赤な彼を、一体誰が恐れるだろうか。グレゴワールの仲間達は期待した。その期待はとても甘酸っぱいもので、考えるだけで胸が幸福感で満たされてしまうようなものだった。

 イヴァンはある日クリスタニアンの街を歩いていたら、宝石店から一緒に出てくる二人を見てしまった。これはまさか。いやいや間違いない。イヴァンは後で冷やかしてやろうと思った。きっとまたグレゴワールは必死に怒鳴るだろう。だがちっとも恐ろしくなんか無い。散々冷やかして冷やかして、そして祝福してやろうじゃないか!と彼は思った。


 ――その次の日からエマが行方不明になろうとは、だから誰にも予想出来なかった。


 いつまで経っても出勤して来ない上に電話にも出ないので、体調を崩したのだろうかとグレゴワールは彼女の自宅を訪れた。彼女の自宅は首都郊外の少し人気のない場所にあった。着いて早々、彼はぞっとした、家のドアが施錠されていなかったのだ。嫌な予感がしてグレゴワールは家の中に踏み込んで、絶句した。家中が嵐に遭ったような有様になっていたから。

肝心のエマの姿はどこにも無かった。

 クロードが警察官を総動員して捜索に当たらせた。マルバスが必死で情報を集めた。これは紛れもない誘拐だった。婚約指輪を注文したばかりの若い女が、こつ然と消え失せるはずが無い。だが、彼らの必死の捜査にも関わらず、何一つ朗報は無かった。

 グレゴワールは数日で一気に老けた。Dr.シザーハンドが無理やり彼を医療室に放り込んで休みを取らせ、国王がこっそり見舞いに来たくらい老けた。国王は沈痛な顔で、

「この度は何と言えば良いのか……グレゴワール。 さぞ辛いでしょう……しばらく休みを取りなさい」

「……いいえ、陛下。 私はそれでも仕事をします。 義務を果たします」

 グレゴワールは、そう言って、完成されたばかりのプラチナの指輪を握りしめた。指輪は二個あった。二人が選んだ誓いの言葉が内側に書かれていて、永遠に変わらぬ愛の象徴のダイヤがはめ込まれていた。シンプルだけれど洗練されたデザインの、それを、何よりも大事そうに。


 ……万魔殿と激突したり、聖教機構と睨み合ったりしつつ、クリスタニア王国は順調に発展を遂げていた。

ある日、王妃アンリエッタが若くして亡くなった。いつものように就寝して、そして二度と起きてこなかった。脳出血だった。葬儀が悲しみの中行われた。一二勇将は王妃を亡くした事で二つの大きな問題に突き当たった。一つは貴族の不満をなだめてくれる人がいなくなった事。もう一つはアルベール王太子のいさめ役がいなくなってしまった事である。

クレーマンス七世は、王妃がこの世からいなくなった途端に、あれほど酷かった浮気癖をぴたりと止めてしまった。

「どうされたのです?」Dr.シザーハンドは思わず訊ねた。「もう誰も浮気をしても責めないのに、何故ですか?」

「……」クレーマンス七世は目を細めて、ぽつりと言った。「結局私は、彼女の注意を引きたくて、子供のような真似をずうっとしていたのですよ」

「……」Dr.シザーハンドは、王妃と夫婦喧嘩してばかりいたクレーマンス七世の本音を聞いた気がした。切なく、哀しい本音だった。もうあの人はこの世にいない。その絶望的な空白感を、彼は良く知っていた。彼はその空白感に耐えられず、恋人を食べてしまったのだから。他の一二勇将も、黙っていた。イヴァンは思った。浮気が原因の喧嘩ばかりしていたけれど、彼らは紛れもなく夫婦だったのだろう、と。

そこに、『ただ今戻りましたー』と呑気にマルバスが戻ってきた。

「? どこに行っていたのぅ?」マダム・マクレーンが訊ねると、この悪魔は、

『異界(ゲヘナ)ですよ』と答えた。『アンリエッタ様を異界までお連れしてきました。 あそこなら、アンリエッタ様ものんびりと過ごせるでしょうから』

「異界とはどんな場所なのですか?」クレーマンス七世が王座から身を乗り出した。

『穏やかな良い場所ですよー、地獄タルタロスとは違って何の責め苦も無いですし。 死人や悪魔が沢山いますから、退屈もしませんし』

「……そう、ですか」クレーマンス七世は王座に身を預けて、言った。「私もいつかそちらへ行けるでしょうか?」

悪魔はお任せ下さいと胸を張る。ちょっと空気を読めていない。後でマダム・マクレーンにお仕置きされるだろうな、とイヴァンは思った。

『いつでもお連れできますよ! ただし普通の人間だと、二度と戻れませんがね』


 重しだった王妃がいなくなってしまったために、貴族の不満がとうとう爆発した。一二勇将の活躍とは裏腹に、冷遇されてきた彼らは、一二勇将を皆殺しにするべく一致団結して反乱を起こす。

『クリスタニアン暴動』と後に呼ばれる蜂起である。

しかし、彼らの行動はマルバスにより筒抜けであった。街のあちこちで手先に命じて破壊行為をやらせ、傭兵を雇って、王宮に侵入させたものの、すぐさまクリスタニア王国軍によって鎮圧されてしまった。首謀者のロウラン卿は捕らえられ、即座に国外追放された。

 ロウラン卿の館は家宅捜索を受けた。警察の中でもエリートの、国家捜査官達は館に地下牢がある事に気付く。そこに閉じこめられていた人間がいたものだから、彼らは驚いた。その人間はこの数年行方知れずだったエマと、その子供と思しき小さな少年だった。

 「何だと!?」

クロードは部下からの報告に仰天した。そして激怒した。

「ロウラン卿め、焚刑にしてもまだ許せん! よくもまあやってくれたな! ――それで、彼女達は無事なのか!?」

「……」部下の沈痛な無言の返答に、クロードは全てを悟った。

「……そうだな、普通の人間が地下牢に閉じこめられて数年、おまけに子供まで……無事で済むはずが無い、のだな……Dr.シザーハンドに診察させよう」

 「……」Dr.シザーハンドはエマを診察した。エマはまるで白痴になってしまったかのようだった。子供の手だけは絶対に離さずに握りしめて、だが、焦点の合わない目でぼうっと宙を見つめていた。衰弱しきっていて、何を問いかけても反応しなかった。唯一、少年が、

「おかあさん」と言うと、その頭を撫でて、優しい子守歌を歌い出すのだった。

Dr.シザーハンドは明るくて賢かったかつての彼女を思い出すと同時に、自殺すら彼女は許されなかったのだと悟り、あまりの世界の残酷さに絶句した。こんな有様にされた彼女を見れば、グレゴワールがいかにショックを受けるか分からない。そのためDr.シザーハンドは勝手な独断だと思ったが、絶対安静の面会謝絶だと言って、病院の中に匿った。睡眠薬を投与してエマを寝かせると、Dr.シザーハンドは少年の診察に移った。少年は憎悪と敵意の塊のような目をして、Dr.シザーハンドらをにらんでいた。エマの顔立ちをそのまま受け継いだような、少年だった。

「坊や。 名前は何て言うのかな?」

Dr.シザーハンドは一生懸命優しい声音を出した。だってぼろぼろの衣服を着せられて、不自然に痩せていて、生傷だらけの少年なのだ。

「……ギー。 ギー・ド・クロワズノワ」

「じゃあギー坊や、体に痛い所や変な所は無いかい?」

「こっちのめ」と少年は片目に手を当てた。「アイツになぐられてから、あんまりみえないの」

「!」彼は、これほど人を憎んだ事は無かった。ロウラン卿をまるで親の敵のように感じた。こんな小さな少年にまで何と言う事をしたのだ!「……そう、か。 他に痛い所は無いかい?」

「おじさんはなにがしたいの?」少年はまるで信じていない声で言う。「ママのところにかえして。 ぼくがまもらなきゃ、ママはひどいことをされるの」

「もう誰も君と君のママに酷い事はしないよ。 誰も、だ」

「しんじられない」

「……そうだろうね」彼は、少年の頭を撫でようとして、だが、少年がびくりと震えた姿に、ロウラン卿が何を少年にしたのか、してきたのか、理解した。彼は優しく少年の頭を撫でる。「でも、ここにいる人はみんな、君の事を大事にしてくれるよ」

 少年をシャワーで洗って、睡眠薬を飲ませてエマの隣で寝かせ終わると、いつからいたのか、イヴァンが病室の片隅に立っていた。

「見たか」Dr.シザーハンドはロウラン卿への激しい憎悪を全く隠さずに言った。「この子まで何をされたか、貴方も」

「……見た。 ……反吐が出るな。 殺してくる。 出来るだけ無惨に、残酷に、苦痛を感じさせつつ、殺してくる。 こんなに殺人したいと思ったのは初めてだ」

イヴァンはぞっとするような声で言う。彼はギー坊やと、己の幼い頃を重ねていた。彼もまた、そう言う目に遭ってきた人間なのだ。Dr.シザーハンドは薄笑いを浮かべた。

「私はランディーでもクロードでも無いからね。 貴方の発言を何も聞かなかった事にする」

「……ああ。 分かった」頷いて、イヴァンは病室から出て行った。


 翌日、Dr.シザーハンドはグレゴワールに詰め寄られた。彼はクロードからエマ発見の報告を受けたのだ。

「何故だ、何故会わせてくれない!?」

「……」

言えない。だが、もう、この無言であると言う事で全てを語ってしまっている。

「頼む! 会わせてくれ!」

「……」

「それほど酷いのか……!」グレゴワールが、Dr.シザーハンドにすがりつつ膝を折った。Dr.シザーハンドはまだグレゴワールに貴方はガンですと告知した方が気楽だとすら思った。その場合なら、グレゴワールはさっさと己の体を切り刻んでガンを摘出してくれと言うだろう。

彼は自分の苦痛には強いが、他人の苦痛には弱いのだ。

「……彼女は、もう、認識出来ていません。 この世界を認識出来ていません。 彼女の心は壊されて、その破片が子供を通じて動いているだけなのです」

「……」

「……それでも会いに行きますか」

「ああ」

 グレゴワールはゆっくりと、頷いた。


 「……」エマはベッドの中で子守歌を歌っている。少年はエマの手を握りしめて、ベッドの隣の椅子に腰掛けている。

病室に彼らが入ると、少年は彼らを見て言った。

「なんでなぐらないの? なんでおいしいものをたべさせてくれるの? ぼくをだましているんでしょ? どうせもうすぐひどいことをするんだ」

「しないよ。 絶対にしない。 君はもう理不尽な暴力に怯えなくても良いんだ」

Dr.シザーハンドは断言したが、

「しんじない」少年は言った。「ぜったいに、しんじない」

「……」グレゴワールは唇をかみ締めていたが、エマに近付くと、その薬指にプラチナの指輪をはめた。彼女が痩せてしまっているのでぶかぶかだった。

「おじさん、これ、なに?」少年は訊ねる。

「指輪だ」

「きれいだね」と少年はそれを物珍しそうに見た。

「……坊や。 ギー坊や。 もっと早く坊やのママを我々が助け出していれば良かったのだ。 本当に、済まなかった」

グレゴワールは、そう言って、膝を折って少年と視線を合わせた。

「そうだよ」少年は憎々しげに言う。「ママは、こうなっちゃうまえは、いつもグレゴワールってひとがたすけにきてくれるよ、っていつもいっていたんだよ。 でも、いつまでたってもこなかった。 だからママはおかしくなっちゃったんだ!」

「……」

「ママをかえせ!」少年は叫んだ。聞く者の心を貫くかのように。「ぼくのママをかえせ!」

「……ギー」優しい声がして、その場にいた誰もがはっとした。エマの目の焦点が合っていた。「グレゴワールさんがね、助けに来てくれるよ。 必ず来てくれる。 あの人はそう言う人だから。 凄い人なんだよ。 だからもう少しの辛抱。 もう少しの……」

「エマ!」グレゴワールは反射的に彼女に飛びついて、空いている手を握りしめていた。「私だ、分かるか!? 私だ!」

「……!」エマの顔に希望に溢れた笑みが浮かぶ。「やっぱり来てくれた……! グレゴワールさん、あのね、私――貴方の、子供を」

それが最期の言葉になった。エマは意識を失い、Dr.シザーハンドが手を尽くしたがそのまま亡くなった。

「私の所へおいで」葬儀が終わった日、グレゴワールは少年に言った。「お前は私の息子だ」

「……」少年は、小さく頷いた。


 このギー坊やは、アルベール王太子の真逆を行く少年だった。何より賢い。驚くほど賢い。そして勇敢で情愛に厚い。とにかく優秀なのだ。一二勇将はギー坊やを溺愛した。ゲッタなどこっそりあめ玉を食べさせて、それが原因で虫歯にしてしまい、他の面々から怒鳴られたくらいだった。ギー坊やは一二勇将の持つ知識や経験を教え込まれ、そしてそれを何倍にもして返した。鍛えればそれだけ強くなる、育て甲斐のある少年だった。溺愛されて、ようやくギー坊やの顔に笑顔が戻った。

ギー坊やのすくすくと育つ姿を見ながら、イヴァンは何故かニヤニヤが止まらなくなってしまった。これは将来相当な大物になるぞ、と予感した。だが、同時に彼は哀しさを感じる。本来ならばここにエマの姿もあったはずなのだ。……喪ったものは戻らないと知りつつも、イヴァンは、もしも、と思ってしまうのだった。


 ……ギー坊やはもう坊やと呼ばれる年ではなくなった。大人になった。政治家の道を歩んでいる。しかしそれでも一二勇将の間では可愛い可愛い『ギー坊や』であった。


 ――それは正にバトル・ロワイヤルであった。

机が吹っ飛び、椅子が投げられ、罵声と怒号と金切り声が交錯した。

「ワシがやる!」

「お前はすっこんでいろ! 私がやるのだ!」

「黙れモヤシが! 私が一番相応しい!」

「男なんかろくでもない、私がやるのよぅ!」

「毒婦は黙っていて下さい! 私が!」

「はっはっはっはっ、貴様らを全員逮捕させてその隙に私がやる!」

「私がやる。 やると言ったらやる。 必ずやる。 大事な事なので三回言った!」

「ハゲは黙っていろ!」

「うるさいメタボ親父が!」

「引っ込んでいろクソジジイ!」

「その臭い口を永久に封じてやろうか、あぁ!?」

「……お前達、おやつを巡って争うガキか」

 イヴァンは思わず呟いてしまった。一二勇将のこの情けない争いの発端は、ギー坊やにあった。何とギー坊やがこの度、結婚式と、披露宴代わりの食事会をやる事になったのだ。そこで祝辞を誰が読むかと言う事で、この争い、下らないバトル・ロワイヤルが始まってしまったのだ。

 結局、誰もひかない上に白熱したものだから、国王が仲裁に入らなければならず、くじ引きで選ぶように国王は苦笑いして命令した。

「やった!」と叫んだのはクロードだった。「見ていろギー坊や、最高の祝辞を読むぞ!」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

 他の一二勇将の恨み言も全く気にせず、クロードは意気揚々と準備を始めた。


 食事会の会場は、楽しいざわめきと華やかな雰囲気に包まれていた。何故か大きな犬が一匹いて、側には若い男が付き添っていた。ギー坊やの友人で、チャーリーと言うのだそうだ。その犬は賢そうな犬だった。吠えもせず、きちんとお座りして、きらきらとした瞳で周囲を見ている。

「おうギー坊や、あの犬は何だ?」オリエルが何気なく訊ねると、ギー坊やは忌々しそうに、

「彼女の飼い犬です、彼女が出席させると言って聞かなくて……御不快に感じられたらすみません」

「いや、別に大丈夫だ。 賢そうな犬じゃあないか」ユースタスが言う。だがギー坊やは相変わらず、

「俺と犬とどっちが大事なんだと問い詰めたら、何のためらいもなく犬だと言われました……」

『そりゃ男は裏切りますが犬は裏切りませんからねウギャー!』マダム・マクレーンに尻をつねられたマルバスが飛び上がった。

「まあ嫌な女だこと。 それでも愛しているの、ギー坊やぁ?」

マダム・マクレーンに哀しい笑みを見せて、ギー坊やは、

「……俺は一生彼女に頭が上がらないでしょう」


 事件は食事会の始まる直前に起こった。会場の入り口で係が招待状をあらためていた時に、あの犬がいきなり恐ろしい咆吼を上げて、招待客の一人に襲いかかったのだ。当然招待客は悲鳴を上げて、だが犬により押し倒された。

「お、お前何やってんだ!?」泡を食って犬の隣にいた若い男が止めようとしたが、招待客に近付くなり、何を考えたのか彼も一緒になって暴行を加え始めた。当然、大騒ぎになった。

「何の騒ぎですか?」とギーが顔を出す、そして絶叫した。「アンドレア!!! お前達俺の友達に何て事をしているんだ!」

「コイツはお前のダチじゃねえ!」若い男はアンドレアをやっと組み伏せて、怒鳴った。そのアンドレアの懐からごつい拳銃が、消音器付きのそれがごとりと落ちた。目の前の大乱闘に怯えていた招待客が、あっと息を一斉に呑んだ。「コイツは恐らく殺し屋だぜ!」

警察が呼ばれて、後で全ての事情が分かったのだが、一二勇将を恨んでいる相手から刺客が差し向けられて、本物のアンドレアを気絶させて招待状を奪い、変装して会場にもぐり込もうとしたのだった。

「警察沙汰なら任せておけ」とクロードが警察車両に同乗して、行ってしまった。食事会の祝辞は中止になってしまったが、誰も(刺客を除く)身体を傷付けられたものはいなかった。招待客は賞賛の目で犬を見た。イヴァンも何て賢い犬だろうと感嘆した。ギー坊やの相手の女が招待したがったのも納得が行く。名犬だ。

犬はきちんとお座りをして、ぱたぱたと尻尾を振っている。いかにも誇らしげである。

しかしギー坊やだけが、相変わらず、まるで仇でも見るような目で犬を見ている。彼は自分がこの犬に劣っているのかと思うと、惨めになってしまうのだった。


 ――国王が絶対的権力を持っていたクリスタニア王国の、統治体制を変えようとクレーマンス七世自身が言い出した。

「息子ははっきり言って暗君です。 あんな馬鹿息子にこの国の最高権力を委ねたら、この国は滅亡の始まりを奏でてしまう。 何とかしてそれを回避しないと――」

それで彼が提案したのが、立憲君主制であった。グレゴワール達は国王の勅命に従い、新しい憲法の制定に乗り出した。これに大反対だったのがアルベール王太子以下貴族達だった。当然その動きを、一二勇将は監視するのを忘れなかった。マルバスが暗躍し、ゲッタが機密情報を死守した。

 『大変です! あ、そ、その前にトイレに!』

 「漏らして良いからここでお話しなさい!」

 貴族達が何と万魔殿と組んだらしいと言う、とんでもない情報がマルバスにより伝えられた。一二勇将は苦々しい顔をした。万魔殿と組んで、貴族はきっと新憲法制定を邪魔するだろう。正真正銘の馬鹿だとイヴァンは思った。万魔殿が何の代価も無しにこの国に介入するはずが無いのだ。恐らく万魔殿は貴族を操り、この国をぐちゃぐちゃにするつもりだろう。だがそれに貴族は気付いていない。目先の事しか考えていない。足元の水たまりに夢中になっていて、その先にある奈落に気付いていない。

 こうなったら出来るだけ早く新憲法を定めよう。国王の承認を受けて、誰にも妨げられはしない絶対的なものにしてしまおう。一二勇将が全力で急いでいる中、最悪の事態が突如として起こった。

 ――国王クレーマンス七世、崩御。

 この情報は瞬く間に世界中に広まった。


 人には絶対に死んではならない時がある。クレーマンス七世の場合は、正にこの時だった。新憲法が生まれ形を成す、この時にだけは彼は死んではならなかった。死神を殺してでも生きなければならなかった。だが――この世界はどこまでも残酷で、救いようがなかった。

 ――冷たい国王の頬に指先を触れて、グレゴワールは思った。約束。私が果たすべき約束。どうしてそれを最後まで見届けて下さらなかったのです。どうして。大事な人を失う『絶望』を、彼はもう一度味わっていた。

 イヴァンらはグレゴワールの後ろ姿に、かける言葉が見つからなかった。グレゴワールがどれだけクレーマンス七世に忠義を立てていたか見て知っていたし、どれだけ人間としてクレーマンス七世を好いていたかも感じて知っていた。親友のような、戦友のような、互いに相手こそが己の一番の理解者だと胸を張って言えるような関係であった事も。

 グレゴワールは一二勇将やギー坊やに言った、今すぐ亡命する準備をしろ、と。

「万魔殿が背後に付いている貴族達は、アルベール王太子が戴冠したが最後、我々を迫害するだろう。 今すぐに大事な者を亡命させるのだ」

彼らは初めて保身に走った。家族や友達、親戚を亡命させる準備に走った。だが、彼ら自身は逃げなかった。

「この国のために殉死するのも、悪くない」ゲッタが内心をぶちまけた。「我々はこの国のために生きてきた。 だから最期はこの国の所為で死にたい」

イヴァンは、この国、と言うよりも、この仲間、と言った方がより正確だろうと思った。この仲間と楽しい事がやれなくなるならば、死んだも同然だ。

盛大に葬儀が催され、国民の涙と共にクレーマンス七世は葬られた。

 一二勇将とギー坊やは、不安を隠しきれないでいた。アルベール王太子や貴族はまだ良い。まだ目的がはっきりしている。だが、その背後で動く万魔殿の意図が読めない。何をするつもりなのか。何が起こるのか。全く分からなかった。


 アルベール王太子は戴冠して、アルベール二世になった。

彼が国王になって一番先に出した勅命が――『一二勇将』の解散・罷免であった。一二勇将が就いていたポストには、それまで冷遇されていた貴族達が収まった。アルベール二世の即位を、『きっと彼も父王の遺志を継ぐだろう』と無邪気に祝福していた国民は、これに震かんした。これは、ただの政権交代ではない。革命に近い。

そして、真っ先に軍人であったオリエル元元帥と殺し屋であったイヴァンが国家反逆罪で逮捕されて、政治犯収容所に放り込まれた。誰の目から見てもそれは無実の罪、えん罪だった。もう他の一二勇将もいずれは同じ運命を辿るのは明らかだった。

 グレゴワール達は、それまでどこまでも一緒にいると言っていたギー坊やを逃げ延びさせるために、最後の力を振り絞った。ギー坊やは彼らの子供だった。彼らの知識と経験を吸収して育った一本の若木だった。ギー坊やは彼らの最後の希望だった。自分達は死んでも良い。だが、この青年を死なせるなど冗談ではない。何より若いギー坊やには未来があった。その未来を枯れさせる事など、到底彼らにとっては耐え難かった。聖教機構に、亡命させてくれないかと話を持ちかけた。しかし聖教機構の方は曖昧な返事しかしなかった。グレゴワール達はそれでも諦めずに、今度は帝国に頼もうとした。

 だが、それどころでは無くされた。

 帝国からの使者がクリスタニア王国に、亡王の弔問と新王の祝福にやって来たのである。勿論、帝国の好意と偉大であった前国王への哀意を代表してやって来たのだ。なのにアルベール二世はこの使者を捕まえて、処刑すると言い出した。グレゴワール達は血相を変えた。そんな事をすれば戦争になる。これが宣戦布告の使者ならばまだしも、平和目的で送られてきた使者を殺せば、間違いなく帝国は激怒し、戦争を起こしてクリスタニア王国を叩き潰そうとする。グレゴワール達は止めさせようとして、それを待っていたアルベール二世により、反逆罪で全員捕らえられた。この暴君はこうして当初の目的――一二勇将全員の投獄――を果たしたのに、結局使者を殺してしまった。ここに来てようやくグレゴワール達にもアルベール二世達の企んでいる事が認識できた。


 無意味な戦争を、起こすつもりなのだ。帝国と、クリスタニア王国の。


 恐らく万魔殿が味方すると言ったのだろう、だがそれを真に受けてこんな愚行をするとは!

明日の運命をも知れぬ立場となったグレゴワール達は、この国の衰退を、滅びを、予感した。


 「……『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。 草は枯れ、花は散る。 しかし、主の御言葉はとこしえに残る』」

イヴァンはあの時のグレゴワールの言葉を思い出していた。ここに囚われてから彼は、その言葉を繰り返してばかりいた。まるで自分に言い含めるように。これが彼らの運命なのだと納得したいかのように。

『シクシクシクシク』マルバスが泣きに泣きながら姿を見せた。『貴方だけでも逃げて下さいよ! 貴方なら出来るでしょう!? 逃げて下さいよ、お願いしますから!』

イヴァンは困った笑顔で答えた、「……もうアイツらと運命を共にする覚悟は出来ている」

マルバスは、もう涙腺が壊れてしまったかのように泣き続ける。

『……うう、ひっぐ、シクシクシク……必ずあなた方を異界へとお連れします、異界は穏やかな場所、こんな思いをしなくても良い場所です』

「……それよりギー坊やはどうだ?」

悪魔はいっそう激しく号泣した。『戦争に、出る事を、選択しました! あの子は! あの子は貴方達を釈放させる代わりに、自ら帝国との戦争に出る事を――!』

「……それは嘘だな、黒い方便だ」イヴァンは胸が苦しくなるのを感じた。「釈放は嘘だ。 あの暴君がとてもそんな程度で俺達を釈放するはずが無い。 だがギー坊やは承知するしか無かったのだろう。 ……あの子は、たった一人の、俺達の子供だから」

イヴァンは悲しみと愛おしさを噛みしめた。彼が護身術について教えてやった、あの幼かったギー坊やは、立派に大人になったのだ。

彼らは立派にギー坊やを育て上げたのだ。

マルバスはいったん泣きやんで、言った。

『……。 帝国は怒髪天です、部下を無惨に殺されたクセルクセスが特にもうぶち切れています。 恐らくハルトリャス海峡で軍事衝突するでしょう。 万魔殿が援軍を出すと言っていますが、本当かどうか』

「……いくら万魔殿と組んでいてもだ。 勝てないだろう。 だってこれは、無駄な戦争なのだから。 そうか、この国の絶頂期は終わったのだな……」

イヴァンはこの国の滅びを確信した。この国の崩壊を直感した。今まで尽くしてきた彼らの信義を、忠義を踏みにじり、愚昧な暴君が統治する国が、ながらえるはずが無い。

『ただ一つ……朗報と言うべきか、まだ分からない事があります』マルバスが首を傾げて、『聖教機構の動向が分かりません。 ギー坊やを迎えに行くか行かないかで、今、聖教機構幹部は思いっきり揉めているんです。 どちらかと言えば迎えに行こうと言う方が強そうなのですが……まだ、完全一致とまでは行っていません』

「……そうか、聖教機構が……。 動いてくれる事を今の俺達は、ただ、願うしかないな。 ……ギー坊やは本当に賢くて強い子だ。 坊やは、俺達のようにここで死んではならない。 坊やはきっと、俺達の誰よりも偉大な人間になるだろうから」

マルバスは体をまるめて声も無く泣いた。

『この世界は残酷すぎる! 国のために骨身を削り心血を注いできた貴方達が! こんな目に遭うなんて!』

「……それもまた運命だ」イヴァンは言って、ぽん、とマルバスの肩に手を置いた。「これが運命ならば、それを俺は甘受しよう。 異界まで道案内を頼んだぞ」

『――』

 マルバスは、こくり、と頷いた。


 ある日の朝、一二勇将は全員釈放されて、だが、牢獄の出口で彼らを待ち受けていたのは銃口の群れだった。

 ああ、やっぱり。誰もが朝の爽やかな日差しに照らされてそう思う中、グレゴワールは、穏やかな顔で一二勇将を振り返って、言った。これが彼の最期の言葉になった。

 「今まで、楽しかったか?」

誰もが頷いた。イヴァンもそうしてから思った。楽しかった。そしてこれからも楽しいだろう。だって一人じゃないのだ。孤独では無いのだ。マルバスは言った、必ずお連れします、と。だとしたら別に怖がる必要もない。恐れる必要もない。全てを受け容れて、ここでいったん終わりにしよう。けれどこれで完全なお終いではないのだ。まだまだ、世界は続いていく。

 だって、まだ、ギー坊やが生きているじゃないか。

 ――そして無数の銃声が響いて、一二勇将の物語は終わる。


 『彼らの墓はクレーマンス七世の慕廟を取り巻くようにある。 ユースタスの後を継いだメディチ家の当主が金で貴族を黙らせてそこへ埋葬させたのだ。 彼らは死後も主君に仕えている。 生前と変わらず、あの一二人は円卓を囲んでいる。 そしてグレゴワールはいつものように、浮気癖の酷い国王を怒鳴りつけ、嘆く王妃を慰めているだろう。 オリエルは大声でデリカシーの無い発言をし、アナベラは相変わらず鋭く、ユースタスは吝嗇漢、アルトゥールは発明にいそしみ、ランディーは法律を制定し、シザーハンドはいかに皆に健康的な生活を送らせるかで頭を悩ませ、クロードはかつらを武器にして活躍し、マダム・マクレーンは男に毒を盛り、ゲッタは喋る事を忘れ、アンデルセンは目立たぬよう地道に仕事をし、そしてイヴァンは取っ組み合いの大喧嘩をする彼らを黙って引っぺがしているだろう。

 ………………。

彼らは偉大であった。 彼らは高貴であった。 それは彼らがただ主君に最期まで忠実であったからだけでなく、彼らが『クリスタニア王国』と言う成果を上げたからだけでも無い。 彼らが一人の若者を最期に必死の思いで生かしたからだ。 その若者は「一二勇将の申し子」である。 一二勇将から生まれ、一二勇将の知識や経験を吸収し、そして一二勇将を超えた存在となる。 彼の名はギー・ド・クロワズノワ。 今や誰もがその名を知り、聖教機構に君臨する「聖王」その人である』

「政治家と倫理 ――一二勇将の生涯―― サミュエル・グラッジ著」



                                   END






る軍人将校の涙】


 俺は俺を理解してくれるヤツのために生きて死にたい!


 「アルビオンにかつてクリスタニアは首都を陥落させられかけたが、今度はこっちが落とす番だぞ!」

クリスタニア王国の軍人オリエル中将はそう言って、どん、と円卓を拳で叩いた。

「確かに今が好機だな。 万魔殿の介入により、エリン問題でアルビオンはいつも以上に弱っている。 聖教機構は万魔殿のアルビオンへの介入に激怒、いつになく両者は激しく争っていて、こちらに構う余裕が無い」

円卓を囲む仲間の一人、大金持ちのユースタスはそう言ったが、眉をひそめて、

「だがアルビオンは今現在、列強諸国最強の国だぞ? いくらクリスタニアが発展してきているとは言え、あの『不落の都』ロンディニウムを陥落させる事など……出来るのか、本当に?」

「ワシは出来ん事は言わん」オリエルは言い切った。

「それでも、こちらも相当な被害の覚悟をしなければならないだろうな」内政にかけては右に出るものがいないアンデルセンが嘆いた。「こっちも向こうも、戦死者が沢山出てしまう。 人道的にも色々と責められるだろう」

オリエルは分かっていないな、と言いたげな顔をして言う、

「ロンディニウムはそうだ、不落の都だ。 世界三大勢力の聖教機構、帝国セントラル、万魔殿のどれもが史上一度たりとも攻め落とせなかった都だ。 アルビオンは侵略戦争に出向く以外、つまり防衛戦争の場合はほとんどロンディニウムに引きこもり、敵勢力が軍事費を多大に浪費して士気がダダ下がりした所を打って出る戦法をいつも取っている」

「それはそうでしょう、何しろロンディニウムには『聖骸布エイジス・シュラウド』システムがあります。 あれは『どのような軍事的攻撃からも都を守る』聖遺物を応用した最強の軍事防衛システム。 発動エネルギーが莫大なので戦時しか使われないそうですが、一度発動されればいつまででもそれが続きますよね。 ひいては核弾頭ですらあれの前では無意味ですから、籠城戦をしても何ら恐れる事が無い」名医Dr.シザーハンドがため息をついた。「オリエル、もう少し現実的な計画を――」

そこで、彼らの統率役リーダーのグレゴワールが口を挟んだ。

「……かつて我らがクリスタニアが首都クリスタニアンはアルビオンの一〇万の大軍により陥落させられかけた。 しかしオリエルが指揮を執ったたった一万の軍隊でアルビオンは歴史的惨敗を喫した。 もしもクリスタニアンが陥落した場合、国王陛下は自害をも考えていたそうだ。 今回の目的はその報復とアルビオンを超越する事、と言った所か? お前はいつだって現実離れした戦略を用いて、あり得ない戦果をたたき出すからな」

オリエルの顔に会心の笑みが浮かぶ。

それは、己がきちんと理解されていると言う事を改めて再確認した者の、意中の笑みであった。

「おうグレゴワール、流石お前はワシの事が分かっている! そうだ! その通りだ!」ここでオリエルは声を潜めて、「ワシは今回誰も死なさず殺さずロンディニウムを陥落させようと思っている」

「「!」」


 馬鹿め。アルビオンが首都ロンディニウムの住人達は、皆、そう思った。史上一度たりとて敵の手に落ちた事など無い不落の都を落とそうなど、それもたったの五千の兵士でやろうなどと、愚の骨頂、馬鹿の中の馬鹿だ、と。

世界最強勢力の帝国がかつて数十万の軍隊で攻囲した時でさえ、攻めあぐねて、結局落ちなかった都なのだ。

だが、一人だけ全く意見の違う生粋のアルビオンの男がいた。

「相手はあのオリエルだ。 我ら精強なるアルビオン軍一〇万をたった一万の軍でずたぼろにしたあのオリエルだ。 今すぐに打って出て、蹴散らさねばこちらが危険だ! 今ならば兵卒の士気も高い、数の上でも絶対的に有利だ、簡単に撃退できる!」

だが、誰もがその意見に耳を貸さなかった。逆に、彼の事を臆病者だとか散々に罵った。

「ハリー・マグワイガー・エルンストウッド将軍、君を私は心底見損なったよ」

アルビオン国王ジョージ一八世は呆れきった態度でそう言った。

「君はあれだ、軍人を辞めるべきじゃあ無いのかね? 聖骸布の力は君も知っているだろうし、ロンディニウムには備蓄もたっぷり、民の間にはクリスタニア王国軍を野次る歌すら流行っていると言うのに」

「……陛下、これは私の軍人としての経験と勘でございます。 とても、とても嫌な予感がいたします。 あのオリエルが小勢でやって来て、しかもその目的がこのロンディニウム陥落となると、想定外の想定外の策を講じているに違いありません。 今ならば数の上でも士気の上でもこちらが絶対的に優勢、今の内に蹴散らせばオリエルと言えど必ずや撤退するでしょう」

「ああ、そうか」国王は蔑んだ声で、「要は君は戦果を挙げて表彰されたいだけなのか。 全くこれだから戦争狂は」

違う。俺はそんなもののために戦ってきたんじゃない!

ハリーだけには分かっていた。これすらも恐らくはオリエルの策の内、手のひらの上なのだろう。

あの男は敵の油断を恐ろしく的確に致命的に貫く。

きっと、今にも動いていて、そしてそれはきっとアルビオンにとって致命傷となる一撃を与えるものに違いない!

「……」

だが、誰も賛同も理解もしてくれないがために、彼は、出撃命令を下せなかった。


 アルビオン首脳部がロンディニウムに籠城して二週間後の事であった。ロンディニウムの民から窮乏の声が次々と上がった。ロンディニウムは巨大な城郭都市であった。当然、居住する民も大勢いた。

「食べるものが何もない」

何故だ、と政府や軍部の誰もが驚いた。食料も、勿論民の分まで備蓄はたっぷりとあったはずである。急いで在庫確認がされた。そして真っ青な顔の首相が国王の所に飛んできて、

「ありません、何もありません! 食料はおろか弾薬までもが! 民にほぼ盗まれました!」

「どう言う意味だ!?」国王は青くなって怒鳴りつけた。

「クリスタニア軍が全て食料も弾薬も通常の数十倍と言う値段で買占めると言う風聞を流したために、民はそれにつられてロンディニウム中の物資を売り払い、それだけに飽き足らず、城の備蓄庫から次々と蟻のように盗み出したのです!」

ああ。ハリーは思った。城は堅固である事無比であった。だがその中にいる人は堅固では無かったのだ!

「ど、どうする、首相!」

「聖骸布を発動させましょう! さすればクリスタニアもこれ以上は手が出せません!」

愚かな真似を、とハリーは思った。もはや、手遅れだ。今すぐに出撃するしかこの事態の打開方法は無い!籠城したところでもはや未来は無い!

彼はそう悟って進言したが、即刻とんでもない話だと却下された。


ロンディニウムは、聖骸布に覆われた。あれほどアルビオンの民の自由な出入りを看過したクリスタニア軍は手の平を一変させて、今度は銃口を突きつけた。そしてそのクリスタニア軍に完全包囲されている籠城戦であるがゆえに、補給を外から入れる事も出来ず、すぐに民も軍も過酷な餓えにさいなまれるようになった。

それを嘲笑うかのように、ロンディニウムの外ではクリスタニア軍がバーベキューや花火やゲームなどをして遊んでいる。山のように食物が積まれていて、それを好き放題食べているのだ。

オリエルは恐ろしいくらいに軍紀違反者を許さない男であった。軍紀違反者は裁判にかける事もせずにその場で銃殺するのが当たり前だと思っている男であった。そのオリエルが、『派手にやれ、ただし太りすぎで機動力は落とすなよ』と命令したのである。それでクリスタニア軍はその神出鬼没な機動力は維持しつつも、派手にやった。

結果、朝から晩まで、どんちゃん騒ぎ。

それはどんどんと酷くなっていて、終いには商売女が出てくる、夜には徹夜の花火、と言った有様になった。オリエルがためらう兵卒を怒鳴りつけてそうさせたのである。何だ貴様らは、ワシは『派手にやれ』と命令した!命令違反で銃殺されたくなかったら『派手にやれ』!クリスタニア軍は今度は嬉々として従った。

ロンディニウムの民はどんどんと痩せていくのに反比例して、クリスタニアの軍はどんどんと肥えていく。

助けてと民が亡命を願っても、銃口で追い払われる。そしてその銃口の向こうでは、酒池肉林の宴会騒ぎ。これが連日連夜続いた。

この間、ハリーは悲痛に訴え続けた。出撃命令を!彼はもはや、それ以外に現状をどうにかする術など一切ないと知っていた。

だが、アルビオンの誰からも最後まで理解されなかった。

ついに国王の食卓にネズミが肉として上った日、国王はついに降伏をほのめかす言動を取った。

だがハリーは、この瞬間にこそ心臓の中で誇りと信念が火花を散らした。

彼は生粋のアルビオンの男であった。狡猾にして勇敢で、高貴な男であった。

そして列強諸国最強のアルビオンが、そしてその国民である己が、一度も戦わずに降伏したなどと、絶対に魂が許さない男であった。生粋の武人なのであった。

かくなる上は、全滅覚悟で、クリスタニア王国軍へ突撃し、現状を打開する!

彼はもはや極限にまで餓えた兵士達を率いて、聖骸布を強制的に解除させ、まっしぐらに敵陣に突撃した。

けれど、もう、兵士達の餓えは、限界なのであった。

彼らはハリーの命令など聞かずに、クリスタニア王国軍が残してさっさと逃げた、その食料をむさぼり始めた。

ハリーは絶望した。

聖骸布は解除された。もうオリエルのクリスタニア軍はロンディニウムを今頃占拠し終えているだろう。たった一つハリーが見つけていた好機を、誰も理解してくれなくて協力も得られずに、ロンディニウムは陥落したのだ。

ハリーの痩せ衰えた手が彼の懐の拳銃に、たどり着いた。

その時、だった。

「もう戦争は終わった。 死人が出る必要はもはや無い」

「!」

オリエルだった。たった一人、ロンディニウムの正面門橋から歩いてきた。

「ロンディニウムの連中は敗北の責任を全て貴方に押し付けた。 国王も首相も、誰も彼もだ。 だが違う。 それをワシは知っている。 貴方は強かった。 この極限の飢餓状態で、兵を率いて突撃できるなど、並大抵の男には不可能だ。 貴方は」オリエルは言った。全ての共感と、敬意をこめて。「強かった」

その瞬間、ハリーが耐え忍び堪えていた全てが決壊した。

「そうだ、誰も俺を理解してくれなかった! 誰も俺の言葉に耳を傾けてくれなかった! 俺は強かった、なのに、誰も俺を認めてくれなかった!」

「ワシもだった。 グレゴワールが認めてくれなかったら、今頃も軍隊一の変人扱いされて、貴方と全く同じ思いをしていた」


『アイツはキチガイだ』

『突拍子も無い事しか言わない』

『精神病院に入れた方が良いんじゃないか』

『頭の検査をしてもらえ、知能の方のな!』

『お前はな、オリエル、完全におかしいんだよ』

おかしいのは貴様らだ。ワシは必ず勝つ方法を知っている!

やけ酒に溺れて、無念に泣いたあの日々。


『はっきり言うがお前は異端児だ』

『何だ、いきなり。 もうじきこのクリスタニアは終わるんだろう? アルビオン軍一〇万が首都クリスタニアンを陥落しに来ているそうじゃあないか』

『だが私と同じ、異端児だ。 だから聞く。 お前ならアルビオンに勝てるか?』

『ん? 勝つぞ? ちょっと街は焼けるが、必ず撃退する。 この場合の勝利とは、アルビオン軍の完全撃退だろう?』

『だがクリスタニアンの首都守備兵はたったの一万だ。 出来るか?』

『出来ん事はワシは言わん』

『では全て任せる。 お前は今からクリスタニアン守備軍の総司令官だ』

『な!? ま、待て、どう言う事、』

『出来るんだろう? だったら撃退して来い。 話はそれからだ』

だが、理解者グレゴワールが現れた。最高の理解者に、ただのやけ酒の相手から、なってくれた。それが全ての始まりだった。世界最強の戦略家、常勝将軍オリエルの誕生だった。


うずくまって、おうおうと男泣きに泣きじゃくるハリーに、オリエルは言った。

「貴方の名誉も誇りも、ワシの名にかけて守ろう。 今は、ゆっくりと休まれよ」


 あの誰も落とせなかったロンディニウムを無傷で、しかも誰も殺さずに落とした。

この戦果は、クリスタニア王国を列強諸国最強と誰も彼もに認めさせるものだった。オリエルを戦争の天才だと、嫌が応にでも思い知らせるものだった。


……だが、そのクリスタニア王国が滅んだ今となっては、たった一人を除いて、誰も知らない。

ロンディニウム陥落により塗炭を舐めるような思いをした者がほとんどだった中、たった一人、陥落させた張本人により命よりも大事なものを救われた男も、また、いた事を。


 「ワシにはヤツの気持ちが痛いくらいに分かった。 グレゴワールが認めてくれなかったら、ワシも今頃も……。 己に才能がある事は分かりきっているのに誰からも相手にされない、と言うのは本当に辛い事だ。 分かるんだぞ、全てが。 ここでこう攻めたら無傷で勝てる! だが誰も相手にしてくれない。 だからぼろ負けする。 それが毎回だ。 ワシだってやけ酒に溺れて血の涙をこぼした事が何度あったか……。 男なんて馬鹿みたいに単純な生き物でな、己の能力を見出し、認めてくれた相手になら殺されても良いとか平気で思っちまう。 それにな、ワシが強かったのではない、もしもユースタスが金を出ししぶり、アンデルセンが情報を流通させてくれなかったら。 ……そう言う事だ。 ワシらはどうやら、どうしようもない腐れ縁でぎっちぎちに結ばれているようだな!」



                                   END

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