第4話IONシリーズ外伝 『神様のいない世界で』
ピンクのバラの花言葉:『美しい少女』『温かい心』『愛を持つ』『輝かしい』等
山間にある小さくて辺鄙な、けれどのどかな農村フェノームにある、これまた小さな教会の神父。それが今のアルマン・ド・リオンクールの職業であった。
彼の趣味は園芸であったが、特にバラの花が好きで、いつも様々な色や品種のバラを見事に教会の小さな畑に咲かせていた。
「綺麗ですね、アルマンさん」とある理由でこの教会を訪れた、彼の元同僚の
「ああ」とアルマン神父は抱えていた肥料袋を土の上に置いて、「私は、この村にずっといるよ。 そしてこのバラ達を育て続ける。 ベアトリスの眠るこの村が、いつまでも美しいように」
「そっか。 じゃあアルマンさん、これが遮光器のスペアです。 多分、この数があれば、アルマンさんが眠る時まで足りるでしょう」
そう言ってセシルは、持っていたカバンから、ロザリオの形をした紫外線除去装置をいくつも取り出した。
「ありがとう、セシル君」穏やかに笑んで神父はそれを受け取った。
「いえいえ。 ところで、彼女は一体?」とセシルは訊ねた。
彼女?バラ園にはこの二人しかいないが……?
途端に神父は苦笑して、「どうもね、私を好いてくれているらしいんだが、ちょっと嫉妬深いんだ。 おまけに年相応にワガママでねえ」
セシルもつられて苦笑する。
「これじゃあまるで犯罪者ですねえ、アルマンさん」
「ベアトリスに顔向けできないような事はしていないよ。 多分、彼女の初恋の相手なんだろうね、私は。 何、私ももう百年以上は生きた。 そろそろ寿命だろう。 彼女の初恋が美しいまま終わるように、善処するさ」
「良いですねえ、誰かに愛されてその時を迎えるってのは。 何とも素敵だ。 それじゃ、お邪魔するのも何なんで、俺はここで。 さようならです」
「ああ。 さようなら、そしてありがとう、セシル君」
お互いに一礼して、セシルが立ち去って行った。
アルマン神父は肥料袋を抱え直す。そして、
「こら、ミナさん。 覗き見はいけませんよ」
と生垣の向こうへ、叱るような声をかけた。
途端に生垣の向こうからぴょんと顔を突き出したのは、思春期頃の少女だった。
「神父様、あの人は誰ー?」
叱られたのなんて全く知らない顔をし、口をとがらせて、言う。アルマン神父は困った顔をした。
「彼は私の昔の同僚だったのです」
「本当? 神父様の恋人じゃないですよね?」
「……あのねえ、ミナさん。 私は神に仕える身、恋人を作ってはならない決まりなのです」
「でもミナ、神父様が大好き!」
甘酸っぱい果実を優しくかじったような味がする、この気持ちを、彼女は素直に好きだと言うのだった。
「こらミナさん。 私が好きなのでは無くて、私も好きと言うべきです。 神様、ご両親、お友達、全てを含めて好きと言わなければいけませんよ」
「でもミナ、世界で一番神父様が好き!」
「はぁ」
困り切ったアルマン神父が肥料袋をため息と一緒に抱え直した時だった。
「こらー! ミナー! 神父様にまたご迷惑をおかけして!!!!!」
女性の声が大きく響いたかと思うと、農婦が小型トラクターに乗ってやって来た。
「あ、ママ」ミナが途端にしゅんとする。そこに怒涛の説教が始まった。
「全くアンタは! 駄目じゃないの! 神父様に何て事をするの! これが神父様じゃなかったら、アンタは大事なものを滅茶苦茶にされちゃうわよ!」
「だって……」
「でももだってもありません! 全くアンタは今日だって学校をさぼったわね! 先生から連絡が来た時、いい加減恥ずかしくてママは顔から火が出るかと思ったわよ! 少しはそのワガママを治しなさい!」
「はーい……」
「分かったらさっさと学校に行く!」
ミナはほとんど追い払われるように教会から去っていった。その後姿を見て、彼女の母親は盛大にため息を吐いた。
「全くいつもすみませんねえ、うちの娘が。 ああ、神父様、そういや今日はどなたか教会にいらっしゃったそうですが、まさかうちの娘の所為でその方が……?」
「いえ、彼は仕事中だったので、そんな事はありませんよ。 かつての同僚ですから、仕事中の忙しさは見当が付きます」
「特別任務遂行員、いえ、特務員でしたっけ、聖教機構屈指のエリートの。 何だか、いつもニコニコしている神父様もかつては名うての特務員だったなんて、とても想像できませんわ」
「いやあ、私は大した事ありませんよ。 妻が……ベアトリスが死んで、それで私も辞めましたし。 男なんて意外ともろいものです」
「でも……『アトウェイ・ギガンティス』事件で神父様の奥さんは……ねえ神父様、どうしたら復讐を望まないようになれるのですか?」
「愛する人が最期に望んだ事を、代行する事、でしょうかね。 ベアトリスはバラが大好きで、いつか引退したら一緒に育てようと約束していたのですよ」
ふと、農婦の顔に悲しみが浮かんだ。
「フィリップは、何を望んでいたのかしら……」
「ミナさんの花嫁姿でしょう。 ミナさんを幸せにする事、それが貴方の夫フィリップさんが貴方の反対を押し切ってまで戦争へ往った理由だと思います」
「でも……どうして……」
「きっとフィリップさんは、ミナさんを大学まで行かせたかったのでしょう。 ミナさんは本当に優れた才能をお持ちです。 でも、それを花開かせるにはお金が要ります。 娘の未来のために、フィリップさんは戦争に往ったのでしょう」
思わず農婦は涙ぐみかけて、無理やりに笑う。
「あの人らしいわね。 本当に優しくて、本当に馬鹿だったわ」
アルマン神父は
「ねえベアトリス。 彼女の初恋が綺麗に終わるには、私はどうしたら良いかな」
それから彼は起き上がり、顔を洗って食事を食べて着替え、ロザリオを首から下げて聖堂へ祈るために向かった。祈りをささげてからバラ園に向かう。端整に手入れをしつつ、彼はバラに話しかける。
「美しい花には棘がある、とは言うけれど、ベアトリス、君はまるでハリネズミだったね。 若かった私も愚かだったが、君と来たら本当に酷かった。 『悪女のベアトリス』の異名は伊達じゃなくてさ。 それでも、ある日、君が小さな花屋のバラの鉢を嬉しそうに買っていた姿に、私は完全にやられてしまった。 こんなに笑顔が素敵な女性と一緒に年老いていけたら、どれだけ幸せだろうって。 君が男性を悉く拒絶していた理由が子供が出来ない体だからだったけれど、私はそれで良かった。 きっと子供が出来たら出来たで、私は子供相手に嫉妬して、どうしようもない男になり果てていただろうし。 うん、君と過ごせた時間は本当に幸せだったよ。 旅行で一緒に来たこの村がすっかり気に入って……もしもあんな事件が起きなかったら、今頃は一緒にこのバラの手入れをしていたよね。 君の事だ、害虫退治や肥料運びは全部私にやらせてだ。 でも、凄く楽しかっただろうな……」
その時、だった。彼はようやく異常事態に気付いて、咄嗟に側にあった園芸ハサミを握りしめて素早く周囲の様子をうかがった。
気付くのがあまりにも遅かった!
鼓動は落ち着いているが、彼の内心では冷や汗が流れていた。
何故こんなに静かなのだ?
鳥のさえずりがしない。全く、聞こえない。この山間の小さな村は、小鳥の鳴き声でいつも満ち溢れているのに、全く……聞こえないのだ。
彼は最大限に警戒しつつ、バラ園を出た。その顔を見たフェノームの村人がいたらさぞ驚いただろう、いつものほほんとしていた神父様の顔が、戦士のそれになっていたのだから。
聞こえるのは木々の風にそよぐ音、せせらぎの軽やかな水音のみ。
村人も、放牧されていた家畜も、誰一人何一匹としていない。
「……」
もう彼にはこの異常事態を発生させた犯人が分かっていた。これは集団誘拐や拉致などでは無い。寝ていたとは言え、元特務員の彼が気付かぬ間にこれをやり遂げる事が出来たのだ。否、彼だけがこれの直撃を受けずに済んだのだ。『抗体体質』の彼だけが。
人の気配を感じて、彼は素早く身を木立の中に隠す。だが、現れたのは、泣きじゃくっているミナだった。
「ママ、みんな、どこ行っちゃったの……ミナ良い子にするから、戻ってきて……!」
「ミナさん!」
アルマン神父が驚いて姿を見せた途端に、ミナはわんわんと泣き出す。
「神父様、ママがいないの、みんながいないの、ミナ寝坊したのにママも誰も怒りに来なくて、きっとミナ捨てられたの、ワガママだったから……!」
「違います、良いですかミナさん、こっちに来て下さい!」
言うなり彼は有無を言わさずに彼女を抱きかかえて、人にあるまじき速度で疾走を始めた。
あっと言う間に急な山道を人を抱えたまま駆け上り、村が一望できる頂上に立つ。だが、彼は息を荒げてすらいない。
「あ、ああ……!」ミナが、村を見下ろして、悲鳴を漏らすなり絶句した。
フェノーム村が、完全に誰もいない空白の村となっていたのである。いつもならば放牧されている羊や牛、飛び交う鳥、そして朝から勤勉に働いている村人達がいるのに、誰も、何も、どこにもいないのだ。
「神父様、何で……!? 何でみんながいないの!?」
「ミナさん。 ヤツの能力は『
「嘘! ママもみんなも死んじゃったの!? そんなの……ミナは嫌!」
ミナはわなわなと震えだした。だが彼には慰めている暇すら無かった。
「ウラド、何が目的だ」
そう言って、振り返る。
「復讐に決まってんだろ『
若い、全身に傷を負った男が山の絶壁に立っていた。手には巨大な機関銃を持っていた。
「私へか。 だったら寝ている間に暗殺すれば良かったものを」
「無理でしょ。 腐っても老いぼれてもお前は『神弾』のアルマンだ。 俺がどうこうしたって無理に決まってる。 だから、お前の大事なものをまた殺してやろうって思ったんだよ」
お人好しの神父様、と彼を無邪気に慕ってくれていた村人達を。
「……外道が」
「お褒めの言葉ありがたく頂戴しまーす。 おっと動くなよアルマン。 これが何か分かるか?」
そう言って男は起爆スイッチをちらつかせる。だがもう神父には分かっていた。山道を駆け上りながら必死にそれの解除方法を探していたのだ。だが、元特務員の彼が解除出来なかった。
「……ああ。 彼女がお前に見つからずに道を歩いていたとは思えなかった。 彼女に生体爆弾をしかけたな?」
何故ならそれは――、
「御名答。 とびっきりの生体爆弾だ。 最新式で、引退したお前じゃ解除出来やしない。 で、お前がこれからどうするべきかを言ってみろ」
「私が自殺すれば彼女は助ける、そうだな?」
「流石に賢いねえ。さあ、遮光器を外せ」
それを聞いたミナが悲鳴を上げた。吸血鬼は極端に日光に弱い。その日光から身を守る遮光器を、この山頂の強い日差しの中で外そうものなら――。
「神父様、駄目、それだけは駄目!」
だがアルマン神父は穏やかに微笑んで、言った。
「さようならミナさん、どうか無事で」
神の加護があらん事を。
その手からロザリオが落ちた。
少女の、身を引き裂かれるような絶叫が、山の間をこだました。
あんなに素晴らしい試合、私は初めて見たよ、と聖王は言った。武芸の極みに至る事が許された者だけの、壮絶な激突にして華麗なる演舞だ。百年以上を生きた魔族でも、あの境地に至る事が出来る者は本当にわずかだろう。
この世界の現行秩序は三つの巨大世界勢力の拮抗によって保たれていた。
一つ目、
二つ目、
三つ目、
この三つ目の帝国は最強の世界勢力でありながら基本的に鎖国気味で、あまり外部への干渉をしない。
だが聖教機構と万魔殿は違った。両者は互いの支配体制に異を唱え、もはや数百年続く、世界戦争を展開していたからである。
魔族とは人体を食する性質を所持した、亜人類であった。ずば抜けた生命力や身体能力及び超能力、戦闘力を所持しているが、代償に人体の摂取を必要とした。そのため、中世では激しく迫害されて逆に人間を襲い、襲われた人間が怯えて逆に迫害を加速させると言う悪循環を繰り返していた事もある。
だが、時代が下った現在となっては、聖教機構では『合成肉』を統治下の全魔族に定期配布する事でその悪癖を抑えているので、人間と魔族は同じ世界に共生する事に成功していた。
合成肉って本当に不味いんだよな、とよく聖教機構の魔族は愚痴をこぼす。臭いし固いし、牛肉のステーキが本当に恋しくなる。魔族の一種、吸血鬼は言う、いい加減に吸血鬼の全員が赤ワイン好きって思い込みを止めて欲しい、ビールやウィスキー派の吸血鬼が一体何人いる事か。同じく変身種の一種である狼人間は言う、俺達が肉好きって偏見はそろそろにしてくれ。俺の知り合いの狼人間は全員ベジタリアンだぜ。
そして彼らはふと、言う。
戦争の無い世界なんて、もう想像が出来ないよ。
彼らの生まれる前から、そして彼らが生まれてからもずっと、続く戦争の世界。
その誰にも想像さえ出来なかった事を実現させようとした二人の男がいた。
聖教機構最高指導者『聖王』と、万魔殿最高権力者『大帝』が、何百年と続いた両組織の戦争に終止符を打とうとしたのだ。
恒久和平条約の締結である。
だが、これには難色を示す者も当然ながら数多かった。そのため、一度だが緊張緩和のために親善交流をしようと二人が試みた結果、ある『試合』が提案されたのである。
それは、万魔殿の幹部にして強者の魔族シラノ・ド・ベルジュラックと、聖教機構のエリート構成員にして戦闘員である特務員の一人、『神弾』のアルマンとの試合であった。
二人とも名うての戦士であったが、今回は『勝ってもいけないし負ける訳にはいかない』と言うとんでもない圧力がかかっていた。勝てば相手の面子を潰すし、負ければ自分の面子が台無しになる。更に周囲からの熱いが重い期待も背負わされた。
この極限の精神状態の中で繰り広げられたのが、名高い『ティエ・ラ・ベランジェ試合』であった。
カメラと言うカメラが押し寄せ、観客と言う観客が詰め寄せた。当然、聖王と大帝も見に来ていた。これだけで常人ならば失神しそうになっただろう。
だが、二人はそれを超越し、激突したのである。
全ての観客が目を限界まで見開き、息をする事を忘却の果てに押しやった。握りしめられた拳が震え、恐ろしいまでの沈黙が会場を支配した。心臓の鼓動が昂ぶる音が激しく響いた。
互角。そして、互角ゆえに魅せられる華麗な武芸の極み。
最初は強ばっていた二人の顔に次第に笑みが浮かんでいく。
それは戦いの楽しみ、最高の好敵手と戦えるこれ以上ない僥倖の笑みであった。
楽しい!
こんなに楽しいのは、生まれて初めてだ!
お前は俺を理解している。お前は誰よりも俺を理解している。
俺とお前が強いと理解している。
だから戦う。
戦おうじゃないか。
決着が付くその瞬間まで!
そうだ、この戦いの先にあるのは、まるで凄まじい台風が過ぎ去った後の、呆気に取られてしまうくらいに真っ青な空なのだ!
決着が付いた。
組み合ったまま、互いに互いの心臓に拳銃の狙いを突きつけていた。
「「そこまでだ!」」
聖王と大帝の声が同時に轟いた直後、割れんばかりの拍手と、もはや絶叫に近い観客の感動の声が上がった。
誰もが総立ちして雄たけびに近い歓声を挙げていた。
そこにはもはや組織も無く対立も無く、ただ目の前で繰り広げられた華麗なる試合に極限まで興奮した、ただの人間達がいた。
……父の隣であの試合を見ていた私も、手を痛くなるくらいに打ち鳴らし、父が少し興奮した様子で喋った言葉に心底賛同しましたわね、と聖教機構幹部マグダレニャンは懐かしい過去を思い出していた。
その時に、シラノとアルマンが誰に命令されたでも無く互いの手を強く握り合ったのを、父は酷く嬉しそうに見て、言った。
「ご覧、マグダ。 もうすぐこんな光景が、世界中の至る所で見られるようになるんだよ」
「世界が平和になれば、こんな凄い試合が世界中で見られるようになりますの、お父様?」
「ああ。 そうだ。 戦争の無い世界でも闘争を求める者は出てくる。 だがそこで流されるのは無辜の民の血と涙では無く、このような素晴らしい試合を求める求道者達の汗と努力だ。 戦う先に未来と勝利を見出した者の、美しい演武の結晶だ。 常に悲劇的で暗鬱な結末しか訪れない世界戦争とは訳が違う。 これは何とも愉快で、そして負けたとしても痛快で爽快な思いが胸に溢れるじゃあないか、マグダ」
「素敵ですわね、とっても素敵。 ねえお父様、早く世界を平和にして下さいな、マグダはお父様とこんな凄い試合をまた一緒に見たいのですわ」
「はは、勿論だよ」
そう、それは間もなく叶うはずだった。
そして新しい世界がやって来るはずだった。
聖王と大帝が、同時に、恒久和平条約調印場所であるウトガルド島で、取り巻きの者達共々、完全に行方不明になった――『
……それより間もなく両者は死亡したと認定され、互いにその罪を糾弾しあった聖教機構と万魔殿の間で第一一九次世界大戦が勃発した。
世界は再び戦煙で覆われた。
ああお父様、何と言う皮肉でしょうか、世界の平和を誰よりも望んだ貴方が亡くなられ、その思いが砕け散った事で、再び平和が世界から遠ざかったのです。
……ですが私は、その思いの欠片を、今でも手に握りしめていますわ。
面倒臭えなあ、と不気味な風体の年齢不詳の男、
「何故公表しませんでしたの? ウラドが閉鎖監獄ヘルヘイムから貴方の失態で脱獄しおおせたと! あのアルマンがこの情報さえ知っていればウラドはとうの昔に撃滅されていましたわ! ウラドが何のために忌まわしい『アトウェイ・ギガンティス事件』を発生させたのかご存じないとは言わせませんわよ。 それとも貴方の無能をこれ以上言い繕いたいのかしら?」
少女の姿の彼の主君は、鬼すら震え上がるような剣幕で、同じ聖教機構幹部エイブラハム・ハーカーに詰め寄っていた。このエイブラハムは、脱獄不可能と呼ばれていた『閉鎖監獄ヘルヘイム』の総統括官であった。そして、忌々しい事にハーカー家はヘルシング家と姻戚関係にあった。
「……い、いや、それは、追跡部隊を放っていたので、大丈夫だと」
「その追跡部隊がウラドに全滅されてしかも携帯していた装備一式まで奪われた。 これは明らかに貴方の人選と指令が間違っていましたのよ。 しかもその挙句アルマンはおろか、フェノーム村の村人まで殺されましたわ。 これはもはやテロと同等。 よって既にこの事件の管轄権は特務員を代理統率します私に移行しました。 これ以上の邪魔をするおつもりなら」可憐な少女の姿だと言うのに、化物が涙を流して命乞いしかねないほどの恐ろしい声で、マグダレニャンは宣告した。「貴方のために異端審問弾劾裁判を起こしますわよ、お覚悟はよろしくて?」
「ひっ」エイブラハムは絶句して、へたへたとその場にうずくまり、失禁した。
もはやこんな無能者に構う時間すら惜しいとマグダレニャンはその場を立ち去る。I・Cはその後ろを随行しつつ、言った。
「で、お嬢様、俺はあのアッパッパーのお馬鹿ちゃん、ヘルシング家のウラドお坊ちゃまを殺せば良いんだろう?」
「ええ。 殺しなさい。 ……ですが一つ懸念があるのです」
「人質、か?」
「その通り。 あのアルマンが遮光器を手放した焼死体で見つかった、となるとウラドは村人の誰かを人質にアルマンに自殺を迫ったのでしょう。 しかしその人質の死体は見つかっていませんわ。 あくまでも可能性の話ですが、ウラドの『
「なるほどな。 だがお嬢様、目の前でアルマンが焼け死んだ光景を見せつけられて、その人質がまだ正気だとは限らんぜ。 フェノーム村は本当にのどかで馬鹿みたいに平和な田舎の村だった。 そこの純朴な村人がアルマンのあんな酷い死にざまに、果たして正気でいられるかな? もしもあのイケメン野郎に惚れていた村娘とかだったら、半狂乱だろうなあ」
「それは見つけない限り、何とも言えませんわ。 貴様とシャマイムにウラドの完全殺害任務を下します。 完遂するように」
「勿論だとも、お嬢様、いや、ボス」ここでI・Cは邪悪でおぞましい笑みを浮かべた。それは彼の黒い蓬髪やどこか薄汚い風体と相まって、悪魔の笑みのようであった。「この『
嘘だ、と言う悲鳴に近い声が次々とこぼれた。あのアルマンさんが殺されるなんて、嘘だ!
「殺されたと言う表現は適切では無い」元同僚の訃報を特務員達に伝えた白く小柄な人型兵器シャマイムは言った。「現場の状況の分析の結果、アルマンはウラド・ヘルシングより人質を守るために自ら遮光器を外した可能性が最も高い」
「あはは、は……」半泣きで吸血鬼の男フー・シャーが言った。「あの人らしいなあ、本当にあの人らしいよ。 ――畜生!」
そう怒鳴って机に思い切り叩きつけられた拳が、彼だけでなくその場の全員の悔しさを代弁していた。
「葬式は、いつだ?」セシルが落ち込んだ声で言った。「せめて、ベアトリスさんの隣に、ちゃんと葬らないと……」
「明後日だ。 フェノーム村へ赴く代表者数名を募るとボスはおっしゃっていた」
「くじ引きだな、奪い合いになりそうだ」
セシルはそう言って、うな垂れた。
『良いですねえ、誰かに愛されてその時を迎えるってのは。 何とも素敵だ。 それじゃ、お邪魔するのも何なんで、俺はここで。 さようならです』
『ああ。 さようなら、そしてありがとう、セシル君』
――なあ、良い人から先に死んで行くのは何でなんだ、神様?
「シャマイム」と現在のマグダレニャンの秘書であり、かつては歴戦練磨の特務員であったランドルフが形相を歪めて言った。「アルマン先輩のためにも、殺された村人のためにも、ウラド・ヘルシングを殺してくれ。 ヘルシング家からの妨害がどう入るか分からないが、必ず、殺してくれ」
「……ヘルシング家」
「吸血鬼の名門一族だからって良い気になって! 大嫌いよ、あんなお高くとまった連中は!」
特務員の双子姉妹、ニナとフィオナが口々に罵った。それを口火に、ヘルシング家――名軍人を代々輩出する事で有名な『ヴァレンシュタイン家』、崇高な聖職者を次々と誕生させた『ツァレンコ家』に次ぐ聖教機構屈指の名門家系であり、そして『優れた暗殺者』を代々決まって誕生させる事で有名な吸血鬼一族であった――への不満が爆発した。
「ヤツらは身内びいき過ぎるんだよ!」
「あんな酷い『アトウェイ・ギガンティス事件』を起こしたのに庇いに庇って、結局ウラドは死刑にならなかった!」
「何が『優れた暗殺者だから』だ! 今どき暗殺なんか時代遅れなんだよ!」
「聖教機構じゃ珍しい『魔族の名門』だからって最初は凄いと思っていたんだ! だけどアイツらは俺達特務員や一族外の魔族を人と思っていないじゃないか! なのにゴマすりだけはお上手なんだよな!」
「『アトウェイ・ギガンティス事件』で一体何人が犠牲になったと思っているんだ!」
「異端審問弾劾裁判はあの一族のためにあるようなものよ!」
「冷静になる事を要請する。 感情的な不平不満は害悪になりかねない」シャマイムは機械音声で言った。「I・Cと自分は任務を完全遂行するため、アルマンの葬儀に出席できない。 代理出席を依頼する。 また、ヘルシング家がボスを暗殺しないよう警戒を厳重にすべきだ。 ボスは今回の件でヘルシング家を完全没落させる事を決定した」
「それなら任せてくれ」と言い出したのは絶世の美男子の特務員グゼであった。「全力でボスの危険を排除するよ。 ところで……『アトウェイ・ギガンティス事件』って、確か……」
シャマイムは頷いて、詳しい事情を知らないグゼに説明した。
「
グゼは流石に引きつった顔をして、
「要するにアルマン氏の奥さんに横恋慕した馬鹿がレイプしようとした。 当然夫のアルマン氏と戦いになってその挙句に街一帯の住人を皆殺しにするまで暴れた。 ……精神異常者じゃないのか、ソイツ。 俺にはソイツが元々気が狂っていたとしか思えないんだが」
「滅茶苦茶甘やかされて育った馬鹿ボンボンのお坊ちゃまだから、欲しいと思ったものは何だって手に入れようとするのよ!」特務員の誰かが忌まわしげに言った。「で、手に入らなければ大暴れ! 本当に腐った性根をしているわ!」
「それは酷いな……」グゼは呟いた。「なるほど、名門だったのは過去の話、今じゃただの腐った暗殺者の群れ。 それがヘルシング家か。 良く分かった。 気合を入れてボスを護衛しよう。 元暗殺者が現暗殺者からボスを守ろうなんて、まあちょっと皮肉だがな」
ウラドはご機嫌で高級ホテルのスウィートルームのジャグジーバスに浸かっていた。片手に通信端末を持ち、大声で会話している。傍聴・盗聴などを一切恐れていないのだ。何故なら、このホテルはヘルシング家の親族が運営しているホテルであり、そしてこの通信は盗聴不可能なヘルシング家当主、通称『ドラクル』への直通回線だからだった。現『ドラクル』はウラドの実兄、レンフィールド・クドラク・ヘルシングである。
「レンフィールド
『それが、あの女狐マグダレニャンが悉く妨害にかかって来ているのだ。 恐らく我らヘルシング一族を凋落させたいのだろう。 だから、もう少しかかる。 ゆっくりそこで時間を潰してくれ』
「兄ぃ、何なら俺があのメスブタを殺してやろうか?」
『何、お前の手を借りるでも無い。 既に我らが一族の精鋭を差し向けた。 「魔王」が女狐の側にいれば話は違ったが、女狐は愚かにも「魔王」にお前を殺させようと派遣している。 全く馬鹿な女だよ』
「了解ー。 じゃあ俺はしばらくここでのんびりするぜ。 ありがとな、兄ぃ」
『何の。 無邪気に私を慕ってくる可愛い弟のためさ。 それでは、な』
「ああ。 じゃーねー」
それからウラドはバスローブ一枚を羽織って、ベッドルームへ向かった。そこでは半裸の少女がほぼ失神状態で、手錠でベッドの上に拘束されていた。
「全く俺は良い兄ぃを持ったもんだぜ」少女に覆いかぶさりながら、ウラドは笑った。「おかげ様で俺は人生を謳歌できるんだ。 そうそう、謳歌しなきゃ人生はつまらないぜ!」
好きだったの、とミナはぼんやりとした意識の片隅で思った。私、神父様の事が大好きだったの。
……神父様は、大きな柩と小さな荷物を連れて、私の村にやって来た。
柩は差し染める朝日がとても綺麗な教会の、後ろの小さな墓地に葬られて、神父様はバラを育て始めた。最初は枯らしてばかりで、凄く落ち込んでいて、だからミナは励ましたくって、自分で育てた小さなピンクのバラを植えてあげたの。
そうしたら、神父様が、
『ありがとう』
って言ってくれて、その微笑みがミナは大好きになってしまった。
友達に教えられて、ミナはこれが恋なんだって知った。凄く素敵なもの。
こんな、心の中にバラが咲いたみたいな、キラキラした気分になれるんだから。
ミナのパパはミナが小さい時に戦争に往って、死んじゃって、だから凄く寂しかったのだけれど、神父様に恋をしてからはそうじゃなくなった。赤ん坊のミナを抱っこしているパパの写真に、ミナはね、今幸せなんだよって教えてあげたの。そうしたらパパが笑ってくれた気がした。
神父様が凄く強いって事を知ったのは、村をギャング団が襲った時だった。神父様はいつものほほんとしていて、怒った事が無くて、悪い押し売りに騙されたくらいで、だから村のみんなからお人好しの神父様って言われていたのに、その時だけはそうじゃなかった。
一瞬で、女の人に酷い事をしようとしていたギャング5人が吹き飛んだ。
放たれた銃弾全てをかわして、避けて、人間ってあんな動きが出来るんだって、ミナがびっくりしたくらいの凄い動き方で、素手でギャングを全滅させてしまった。ギャング団を追って来た特務員の人達が、あんな凄い動きをしたのに平然としている神父様を見て、『あ、先輩!』と口々に言った。
特務員。魔族や人間の中でも超の付くエリートしかなれない、上級構成員。
その人達が神父様を『先輩』と呼んで、あるいは『さん』付けして、
『しちゃいかんのだろうが、このギャングに同情しちゃうぜ』
『そうねえ、よりにもよって先輩がいる村を襲うなんて』
『不運と言うか、気の毒と言うか……』
『まだまだ現役だよなあ、アルマンさんは』
『バリバリだなあ。 ボスなんか「いつ戻って来てくれてももろ手を挙げて大歓迎する」って言っていたけれど、俺達なんか嬉しさのあまりに全員で踊っちゃうだろうよ』
『おかげ様で死人はギャングだけ、村人は無事。 この村にアルマンさんがいる限り、テロリストだって泣いて逃げて帰るだろうさ』
でも神父様はちょっと困った顔をして、
『私にだって苦手なものはあるんだ、みんな、そんなに過剰に期待しないでくれ』
ちっとも威張らない神父様が、ミナ、もっと好きになっちゃった。
神父様を、ずっと、好きでいたかったよ。
でも、もう、駄目。
ミナの所為で神父様は死んじゃった。
日の光に焼かれて、ミナの目の前で、死んじゃったの。
最期まで優しい目で、ミナを見ていてくれた。
神父様、ねえ神父様、ミナは今、凄く胸が苦しいの。
ぞっとするような真っ黒い気持ちで、いっぱいなの。
こんな気持ち、生まれて初めてなの。
ミナ怖いよ、神父様……。
マグダレニャンがシャワーを浴びていると、とても遠慮がちな声がシャワー室の外から聞こえた。
「すみませんボス、しばらく出てこないで下さい」
「あらグゼ」と彼女は部下の特務員の名を呼んだ。「どうしましたの?」
「掃除中なんです」とグゼはとにかく申し訳なさそうである。
「掃除中?」
「はい、ボスを殺しに来たヘルシング家の吸血鬼を一〇匹ほど殺したのは良いのですが、掃除が大変で……ああランドルフさん、すみません、手伝って頂いて」
「いや何、グゼ君もご苦労様だったね。 おやコイツは生きているようだが」
「ああ、一匹くらい生かしておけば、ヘルシング家を追い詰める札になるんじゃないかと」
「なるほど、君はいつでも冷静だね、上出来だよ」
「殺すのはいつでも出来ますからね。 ボス、と言う訳でもうしばらく……」
「ええ、分かりましたわ」
と言いつつ、彼女はあまりにも酷薄な笑みを浮かべた。これは使える『札』が手に入った。非常に有益な札だ。
マグダレニャンを殺そうとした暗殺者が囚われて異端審問弾劾裁判にかけられる。
その情報を手にしたレンフィールドは真っ青になった。
「何故失敗したのだ……!」
彼は急いで弟ウラドに連絡を取り、すぐにウトガルド島経由で帝国へ亡命しろと伝えた。
『兄ぃ、何があった!?』
「我らが一族の精鋭が……女狐の暗殺に失敗したのだ」
『何だと!? 「魔王」は今、俺を追っているんだろう!?』
「……『死神』ランドルフ辺りが暴れたのだろう。 とにかくお前は今すぐにウトガルド島へ行け。 ウトガルド島から帝国へ亡命するのだ! ウトガルド島は金さえあれば何とでもなる場所だ。 良いな、急げ!」
『それは出来んぜ、兄ぃ。 今度は俺があの女狐を殺す! 俺を見捨てなかった兄ぃを俺が見捨てられる訳が無いだろうが!』
「駄目だ!」
『大丈夫だ、こっちには人質もいる、兄ぃだけは俺が助ける!』
ウラドはそう言うなり通信端末をへし折り、バスローブを脱いで変装した。
自分の体に対して『バイオ・モンストロス』を使い、思春期頃の子供の姿に変身する。
それから、手に入れてからと言うもの、延々とぼうっとしている人質を大型のトランクに詰め込み、ホテルを出た。
「さあ」と誰にも聞かれないようにタクシーを待ちつつ呟く。「このウラド様を本気にさせた報いは受けてもらうぜ」
「え? お前なんかが本気になった所で何か変わるのか?」
咄嗟にトランクごと飛び退っていた。だが動悸と冷や汗が一気に激しくなる。
何故なら、ウラドの背後には、いつの間にか――、
「『魔王』か!」
「そうさ、俺だ」
鞭を片手に、I・Cが立っていたのである。
「ったく虱潰しにヘルシング家関連の施設を当たったが、やーっと見つけたぞ。 おいシャマイム、ホテル・ツェペシュだ。 ウラドお坊ちゃまを見つけたぜ」
通信端末の向こうで、了解した、と返答が来た。
「さあ」
鞭を構えて、I・Cは一歩一歩ウラドへ迫っていく。悪魔のように嬉々とし、天使のように邪悪な笑みを浮かべて。
「お馬鹿で有名なウラドお坊ちゃま。 その報いを受ける刻限が来たぜ」
「……ッ!」ウラドは一瞬怯んだが、すぐに言った。「おい、俺が『バイオ・モンストロス』を使ったらどうなるかくらい分かっているだろうな?」
「たったの一〇〇万くらいだろ」
一瞬何を言われたのか分からずウラドは戸惑ったが、すぐに血相を変えた。
「たったの、一〇〇万、だと?」
この街の住人や周辺住民を合わせて約一〇〇万程度。
それを、たったの一〇〇万、と言ったのである。
「言い方が難しすぎて分からなかったのか、ウラドお坊ちゃま、いやウラド坊や。 『たかが一〇〇万』だ」I・Cは鞭を鳴らした。「人間が一兆一京那由他死のうと俺に言わせれば『たかがそれだけ』なんだよ」
「!」
最凶の特務員。
絶望の招来者。
悪夢の具現者。
震撼の化物。
ありとあらゆるI・Cの噂と化物そのものの異名が次々と恐怖と共に浮かんでくる。
絶滅させたらしいぜ、一軍を、たった一人で。
数千年生きているらしいぞ。
殺す方法が無いそうだ。
魔の中の魔、邪の中の邪、恐の中の恐、禍の中の禍、悪の中の悪。
全てを破壊して何も生み出しはしない。
大喰らいの化物。
神を殺した魔王。
『魔王』
今や、ウラドは完全に気圧されていた。
「ボスからの任務はお前の完全抹殺だ。 慈悲の一片たりともくれてやるなとさ。 って訳で」鞭が宙を切り裂いた。「おっ死ね」
ウラドは咄嗟に『バイオ・モンストロス』を使って通行人を巨大化させ、それらの死体を己とI・Cの間に積み重ねる事で距離を取った。
だがI・Cは高く跳躍し追跡してくる。邪悪に、破壊的に、愉悦たっぷりに嗤いながら。
「さあ逃げろよウラド坊や。 俺から逃げられるなら逃げてみろよ」
風をつき 闇の夜
岸走る父と子
子を父はひしと
抱きしめ 温めつ
歌!?
ウラドは戸惑った。
何で魔王のヤツ、歌ってなんかいるんだ!?
子よ 何におののくや
見ずや 父 魔王を
いかめしき魔王を
子よ そは狭霧ぞ
ウラドはもう全身が冷や汗にまみれていた。
いとし子 来たれよ
われといざ遊ばん
岸辺には花咲き
わが母 よき衣を持てれば
父よ 父よ 聞かずや
魔王のささやくをば
わが子よ おののきせそ
鳴るは 木の葉ずれよ
いとし子よ ゆかずや
わがむすめらは待ちたり
むすめら連れて舞い遊び
歌おもしろく 伽せん
歌おもしろく 伽せん
父よ 父よ 見ずや そこに
魔王のむすめらを
子よ 子よ いまそこに
立つは古き柳ぞ
背後で、ねっとりと舌なめずりする音が、確かに、聞こえた。
いとしや 世にうるわしき子
拒むとも われ連れゆかん
『バイオ・モンストロス』!
ウラドは必死に巨大な死人を盾に逃げ回った。
父よ 父よ 守りてよ
魔王 われを捕らう
……駄目なのか
ウラドの心を絶望が覆い潰した。
――俺はここで死ぬのか。
兄ぃを助けられずに、終わるのか。
――否!
ウラドは咄嗟にトランクを開けて、空のトランクをI・Cに投げつけた。
「チッ」I・Cが忌まわしげに舌打ちする。「人質、案の定生きていたか」
丁度、上空から降下してきた白亜の戦闘機が、I・Cの背後で喋った。
『人質を発見、生存を確認。 I・C、人質の救出を最優先にすべきだ』
「俺は殺す、シャマイム、お前は助ける、それで良くないか? ――!」
『!』
その隙で十分だった。ウラドは巨大化させた人間の死体をありったけ一人と一機目がけて倒れさせ、その隙に人質ごと逃げおおせた。
ウラドが恋と呼べる感情を抱いたのは、後にも先にもその瞬間だけである。
『悪女のベアトリス』
精鋭の特務員で、同じく特務員のアルマンの妻。
あんなに笑顔が綺麗な女は初めてだった。
バラの花が咲いたように華やかであでやかでありながら、その癖無邪気な笑み。
恋に近い感情を抱いた。こんなに胸が苦しかったのは初めてだった。今までどんな美女とだってデートをしてきた。だがこんな思いになったのは本当に初めてだった。直に会うのさえ苦しくて、拙い文章で恋文を書いた、だが八つ裂きにされて戻って来た。贈り物をしても、デートに誘っても、酷いと言う言葉を極限に使ったようなやり方で拒絶される。
なのに、あの女は。
『アルマン、凄いじゃない!』
あの男の腕の中で、本当に幸せそうに、嬉しくてたまらなさそうに微笑んでいた。
『いやあ、あんなに強い男とは初めて戦ったよ』
『そりゃそうよ、シラノ・ド・ベルジュラックと言えば万魔殿きっての強者じゃない!』
『実を言うともう一度戦おうって約束した。 世界が平和になったら、また思いっきり戦おうって』
『はあ!? 私とフェノーム村でバラを育てるって約束は!?』
『うん、孤児とバラを育てつつ毎日戦おうって……あいたッ! 抓(つね)らないでくれ!』
『アンタ馬鹿ね! 本当に馬鹿ね! 殺すわよ!』
『止めて! 許して! ベアトリス!』
俺には一度もそんな顔を見せてくれなかったのに、
どうしてそんな男とは何よりも幸せそうに話すんだ?
悔しかった。苦しかった。泣きそうだった。憎かった。
悲しいと言う感情を初めて味わった。
だから、襲って、殺してやった
かつての面影さえ欠片もない醜い死体を見た時、俺はざまあみろと思ったのだ。
だが、予定外な事が一つあった。
『アルマンが抗体体質だった』事。
俺は全身の骨をバキバキにへし折られ、身動きできない状態で、殺されかけた。
あの痛みは忘れられない。
だが運よくそこにシャマイムの阿呆が駆けつけて来たのだ。
シャマイムは言っちゃ悪いが兵器なんて辞めた方が良いレベルの善人だ。
俺を殺そうとするアルマンを食い止めた。
『異端審問弾劾裁判にかけるべきだと主張する!』
バーカ。
兄ぃが俺を庇ってくれて、俺はヘルヘイム収監で済んだ。
おまけにハーカー家が数年後に俺を脱獄させてくれた。
だから、俺は、あの痛みの報復のために。
何とか逃げられた俺は、そのまま人質を引きずって兄ぃの所へ向かう。
兄ぃは、真っ青な顔をして俺を出迎えた。
俺の一族の一人に異端審問弾劾裁判で極刑が言い渡されたらしい。
即ち、俺達一族はこれから没落する事が決まったって事だ。
だがただで没落する俺達じゃないぞ。
俺は人質を連れて、マグダレニャンの許婚のヨハン・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインの所へ向かった。このヨハン様は無能の臆病者で有名な男だが、何故か婚約者のマグダレニャンに溺愛されている。言い換えりゃマグダレニャンの弱点だ。俺はあっさりとヨハンを人質にする事に成功した。だってコイツ、メイド・アンドロイドの整備をしていて、無警戒そのものだったからな。
俺はマグダレニャンに連絡を取った。
「よう女狐。 婚約者の命が惜しくないのか?」
モニターの向こうで女狐の形相がはっきりと変わった。何せ俺の足の下で、ヨハン様が気絶しているんだからな。
『貴様……!』
「おいおい、落ち着けよ、この状況が分からない訳じゃねえだろうが」
俺は笑った。俺は死ぬだろうが、兄ぃ達だけは絶対に助ける。
『……要求は何ですの?』
「何だよ、今更。 もう俺の要求なんか分かってんだろ?」
沈黙。
『……うふふふふふふ』
だが、いきなりマグダレニャンが笑い出した。俺は気が狂ったのかと思った。
「おいおい、何だいきなり」
『全く、愚か。 まだ無能だの愚かなだけならばまだ何とでもなりますのに、貴様らはその上に卑怯と来ていて、本当に救いようがありませんわね』
「チッ。 じゃあその目で婚約者が死ぬところをちゃんと見るんだな!」
俺はヨハン様の頭を踏み潰そうとした。
だが、次の瞬間、まばゆい光に辺りが覆われて、一瞬視界が奪われた。
閃光弾!
「いやあ念のためにヨハン様に成り代わっていて良かった」
視界が戻った時には、目の前にいたのはあのヨハン様で無く、恐らく特務員の、やたらイケメンな若い男だった。
「ではボス、『バイオ・モンストロス』が怖いので、俺も退避します」
『ええ、もう構いませんわよ』
また光。
見えるようになった時には、半分死にかけているような有様の人質と俺以外、誰もいなくなっていた……。
モニターからマグダレニャンの嘲った顔が見えた。
『さあ、これからどうしますの? ウラド・ヘルシング』
「ああああああああああアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
俺は咄嗟に絶叫して、手元にあったアンドロイドの部品を投げつけて、モニターを破壊した。
直後、俺はへたり込んで、人形のような人質の顔を見た。
もう駄目だ。
もう駄目だ。
俺は兄ぃ達を助けられなかった。
俺を助けてくれた、兄ぃ達を……!
絶望、だけがあった。
その時、ずっとぼうっとしていた人質が目をはっきりと開けて、俺を見て、言ったのだ。
「アンタなんか死ねば良いの」
俺は、逆上した。
人質を犯しつつ首を絞めて殺した。
俺はもう終わりだ。
兄ぃ達も終わりだ。
だったら、せめて、世界を道連れにしてやろうじゃないか。
俺は、『バイオ・モンストロス』の
過剰放出。それは魔族が己の能力を行使する際に、『限度』を越えて酷使する事である。酷使の結果、大体の魔族は力尽き、意識を失って倒れてしまう。
だがもはやウラドは何もかもがどうでも良かった。完全に自暴自棄になっていた。
シャマイムがすぐさま駆けつけて、ウラドを完全鎮圧させるべく戦っている。
I・Cは、足元の死体を見た。
ウラドが連れていた人質の少女の無残な死体であった。
「あーあ」とため息を漏らしつつ――何故ならば彼の主はなるべく人質を助けなさいと言っていたのである――人質の遺体に触れる。
「ん?」
その時、彼は人質の手の中に固く握られているものを見つけた。
遮光器、であった。そして彼の記憶では、フェノーム村に住む吸血鬼は一人しかいなかった。
「……へー、お嬢ちゃんはアルマンが好きだったのか」
頷くかのように、死体の目から、涙がぽろんと落ちた。
「そうか、なるほどな……」
I・Cの顔に、邪な喜悦の笑みが浮かぶ。
「じゃあちょっと手伝ってくれるか、お嬢ちゃん?」
抗体体質とは、『バイオ・モンストロス』に対して半強制的な鎮静化の効力を持つ体質である。
シャマイムは苦戦していた。過剰放出状態のウラドが、自らを巨大化させて、まるで怪獣のように街を破壊していたからである。そして次から次へと街の住人は『バイオ・モンストロス』により死んで行く。
(被害を最小限に抑えるには――!)
シャマイムは白い戦車に姿を変えた。荷電粒子砲を、主砲から放つ。それはウラドの巨大な頭部を消し飛ばした。だが、数秒の内に頭は再生する。
すぐさまシャマイムが戦闘機に姿を変えて、退避していなければ、踏み潰されていただろう。
その時、であった。
歌が聞こえた。
父 奮い ひたばせぬ
悩める子を 抱きつつ
家にはいたりぬ
漆黒より黒く濁った眼をした少女が、その一節だけを繰り返し歌いながら、ウラドに接近していくのである。
(人質か!)
シャマイムはこの状況下で生存できる生命体が『抗体体質』の持ち主か兵器である己か、あるいはI・Cだけだと知っていた。
そして人質目がけてウラドの足が落とされる。
シャマイムは咄嗟にその足へ荷電粒子砲を放った。
命中はした、だが、間に合わず再生した。
当然、人質は――。
そが子はすでに死せり
その声は、踏み潰された瞬間に、辺り一帯に響き渡った。
ウラドの巨体が停止した。
そして、ゆっくりと、前のめりに、倒れた。
水蒸気を上げて、『バイオ・モンストロス』が鎮静化されたため、元の体に戻っていく。
最終的には、心臓にロザリオの形をした遮光器が突き刺さったウラド・ヘルシングが、まるで石ころのように地べたに転がっていた。
「……」
その紳士は、しばらく無言で、漂うバラの甘い香りの中、仲良く並ぶ二つの十字架を見つめていたが、やっと、口を開いて、こう呟いた。
「……もう一度だけ、お前と戦いたかったよ……」
彼に付き添う青目青髪の青年が、そこで沈痛な顔で言った。
「……そろそろ行かねば。 聖教機構に見つかれば大事になります、シラノさん」
「ああ。 ……分かっているよオットー君」
そこで彼らは墓地からバラ園を通り、街道へと向かって歩き出した。
神父様。
大丈夫だからね。
落ち込んだらいけないの。
ミナ、また、バラの花、植えてあげるから!
「?」
シラノは背後で少女の明るい声がしたような気がして、振り返った。
だが、誰もいない。そもそも村人が全滅したこの村に、少女がいるはずが無いのだ。
「どうかされましたか、シラノさん?」
怪訝そうな顔をする青年に、
「……いや、何でも無いよ」
そう告げて、紳士は再び歩き出した。
ピンクのバラの花が、丁度、美しく咲き誇っている頃の出来事であった。
END
引用:シューベルト作曲、ゲーテ作詞『魔王』
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