第2話IONシリーズ外伝 『獄(ひとや)の乙女』



古代世界より時は下って中世、訪れたのは暗黒時代。

魔族相手の異端審問裁判が頻発された時代。

その陰惨な時代のまっさなかを、駆け抜けた少女がいた。


【ACT〇】 涜神

 崇高な存在への畏敬を抱く心は誰の中にもある。崇高で高貴な存在を『神』と名付けて崇め奉る者もいる。それ自体は敬意を払うべき行いだ。

だが、大抵の者は同時にその神を己の利便のために利用する。天国に行きたい、この祈りを叶えて欲しい、などと言う世迷言をほざいて。

それは信仰では無い。ただのおねだり、甘えである。『神を信じている自分』『神のために戦い、神のために死ぬ自分』『神のために何もかも犠牲にする自分』と言う自己満足に酔いしれるために神を使うべきではない。

 ……そうやって、神を人間は貶めてきた。そしてこれからも貶め続けるだろう。


 ――かつてこの世界には数多の異教の神々が存在した。魔神、女神と呼ばれるような多神教の神々である。彼らは『魔族』と呼ばれる、人ならざる異種族であった。魔族は人間を食べる。そのため、異教の神々は人間の供犠を求めた。供犠を求める代わりに、己を崇める人間達へ加護を与えた。だが、それらの異教の神々は、一神教の唯一神により次第に駆逐されていった……。


 魔族は、元々この唯一神により人間を支配するために作られた。しかし唯一神は作る際に致命的な失態を犯した。何者かにより魔族へ『知』を与えられてしまったのである。『知』が芽吹き、自由に思考する力を持った魔族の大半は、この残忍な神にやがて愛想を尽かした。そして己達の力で魔神や女神となり、世界各地に割拠しながら、唯一神へ敵対した。

 唯一神は非常に強力な神であった。だが、唯一神は同時に呆れるほど気まぐれな神でもあった。気分次第で異教の神々を駆逐しなかったり、己の領地に攻め上られてもそれを放置したりもした。しかし、唯一神と異教の神々の力の差は歴然としており、唯一神は異教の神々を少しずつだが駆逐していった。


 唯一神がとうとう世界を支配しかけた時、突如として奇跡が起こった。救世主ソーテールが現れたのだ。その救世主が伝えようとした事は、『アガペー』であった。救世主は人々を癒し、奇跡を起こし、高貴な行いをした。その一方で、唯一神の教えは、『律法』であった。そのため救世主は唯一神に憎まれ、殺された。そして、それとほぼ同時期に唯一神はこの世界から姿を消した――。


 そして残されたのは、救世主の伝えようとした事、救世主そのものを勝手に宗教に祀り上げたその弟子達とそれに賛同する人間達、もはや往時の異教の神々としての威容を失い、化物と呼ばれるまでに落ちぶれた魔族だった。


【ACT一】 街角


 腐臭と香水の入り混じった甘ったるい匂いがあたりに満ち溢れていた。娼婦の勧誘の、妙にキンキンと響く声が辺りに響いている。

 その雑踏の中、マントを羽織った少年は人ごみをすり抜けていた。人にぶつからぬ様にどこかを見すえて、街の外の方へと歩いていく。

――その歩む先に、のそりと巨体が姿を現した。ちょうど道を塞ぐように。

 いや、それだけではない。彼の背後、左右からも人が姿を現した。


 囲まれた。


 彼の前を塞いだ男が、ごきりと首を鳴らして言った。

「おい、若いの。 たったの一人でこの界隈を出歩くとはいい度胸じゃねえか」

ぴたりと足を止めて、彼――少年は声を口に出した。若い声だった。

「度胸の問題じゃ無いだろう。 運がいいか悪いかだけだ」

「テメエ!」

一人が冷ややかな挑発に激昂して掴みかかった。だが逆に腕を取られ、突き倒された。ざわりと周囲が湧き立った。挑発の挑発に乗ったのだ。

「やっちまえ!」

手には刃物を持って、三人が襲い掛かった。

――軽業師のように彼は宙に飛び上がった。その足先が正面の男の顎を蹴り飛ばす。のけ反る男は脳震盪を起こしてそのまま倒れた。一回転して彼は着地する。地面に伏せるように身体を倒し、両の足先を伸ばして左右の男の足をなぎ払う。まるで操られるコマのように男達は揺らぎ、宙でぶつかって、ごとん、ごとんと地面に倒れる。

最初に倒れた男が起き上がった時には、うめき声を上げる仲間は皆倒されて、男ひとりきりだった。

「――うわああ!」

男は仲間を見捨て、慌てて逃げ出した。

 少年は彼らに見向きもせずに、再度歩き出した。

彼の前にまた誰かが姿を現す。今度は、妖艶な娼婦だった。

「すごいじゃないかい、全員やっちまったなんて」

彼は無視して彼女の脇をすり抜けようとしたが、女は手を伸ばして彼を遮った。

「何の用だ」彼は無感情な声で言う。

真っ赤に塗られた口紅が艶かしくも動いて、笑みの形を作った。

「あんたに惚れちまったのさぁ。 お代はいらないからあたしと寝てくれないかい?」

「断る」

にべも無く彼は手を払いのけた。女は、まあと眉をひそめた。彼は立ち止まりもせずに歩き出しつつ、呟いた。

「襲わせておいて、今更何の用だ」

それは小さな声だったが、はっきりと聞こえた。

女の目が驚きに見開かれる。

「どうしてだい!」

「同じ臭いがしたからだ。 同じ穴のむじなの、臭いが。 貴様の香水だな」

女は青ざめた。そんな微量の共通点を見出すなど、普通の人間にできる芸当ではない。

「……あんた、まさか」

だが、彼は彼女の言うことを聞きもせずに歩き去った。

すぐに人ごみの中へ消えてしまう。女の視線から、消えてしまった。

「魔族――なのかい!?」


【ACT二】 邂逅


 コルネーリアは未熟だった。生まれつき何事にもすぐに激昂し、逆に冷ややかで飽きっぽいところがあった。その癖に、彼女は冷静さと地道さが必要とされる異端審問官の見習いだった。

 「異端審問官の役目――『魔族』の討伐。 でも魔族って何なのかしら。 人間を食べると言われているけれど、どうしてなのかしら」

誰にも聞こえないよう、ぶつぶつと口の中で繰り返し呟きながら、彼女は退屈な講義をやりすごしていた。

 異端審問官養成所の今日の講義は魔族と人間の見分け方についてだった。だが講義で習ったことなど、現実でいくら役に立つか分からない。その場限りの知識など何のためにあるのだろう。よく考えてみれば考えてみるほど、曖昧でどうしようもない答えばかりが降り積もる。

 例えば一+一の答えは二と数学では定まっているが、現実では決して答えが二になるとは限らない。そもそも足している一と一が同じ、同一にして均質の一である事は現実ではほとんど無いではないか。仮にここに一つのリンゴがあるとしよう。このリンゴを一αと定義しよう。とすれば一+一が二になるには一αがもう一つ必要だ。だがそんなもう一つの一αは存在しない。一αと同じ空間と物質構成と時間軸と次元を共有するリンゴは、一αがここにある以上、ここにはどうやっても重複して存在できないからだ。

 ……こんな言い訳は、詭弁に近いのは分かってはいる。だが、どうしてもコルネーリアには上手く飲み下す事が出来ないのだ。

 講義が終わってもどうしようもない答えが山のように鎮座していて、何を聞いたのかさえろくに彼女は思い出せなかった。講義で聞いた肝心な事よりも頭で考えたことの方が大事なのだった。

俯いたまま一人で廊下を歩いていると、誰かの足先が見えた。

顔を上げると、柔和な笑みを浮かべた青年と目が合った。

「あ、ごめんなさい――」

慌てて道を譲る。

「いえいえ、こちらこそ」

温和な表情で一礼すると、青年は歩いていってしまった。

その背中を何となく振り返って見て、彼女は驚いた。

 金と銀の鍵が二つ組み合わさった模様。教国法王庁ヴァティカンの役人であることは間違いない。そして一三省と書かれていた。検邪聖省の人間だ。


 ――それも、恐らくは現役の異端審問官。


 一気に鳥肌が立った。講義や実習で関係者を見かけたことはある。だが現役の張本人に出会ったのは初めてだった。脳細胞の一つ一つが覚醒していくような感覚に、彼女はいきり立った。

「――あ、あの!」と、思わず呼び止めてしまっていた。

「どうかしましたか?」

当然青年に聞かれたが、逆に彼女は戸惑った。何を話せばいいのだろう。だが戸惑うよりも酷くいきり立っていた彼女は、とんでもないことを口に出した。

「何か手伝える事はありませんか!」

「――おや」と青年は穏やかな表情を崩さずに言った。「随分と熱心な学生さんだが、いいのかい?」

「今日は、もう何もやることはありませんから!」

後やることと言えば、修道院の寮に帰って、今日の講義のおさらいをして寝るくらいしかないのだった。

「それじゃあ……」

青年は困ったような顔になった。

「修道院長様に会いたいのだが、部屋を教えてくれないかい。 すっかり忘れてしまってね、どこだったか思い出せないんだ」

「はい!」

彼女は気張って答えたが、それがおかしかったのか青年は吹きだした。彼女は少しだけむくれたが、こちらです、と歩き出した。青年は言った。

「いや、実に熱心な修道女シスターさんだと思ってね――勉学の方はどうだい」

「可もなく不可もなく、と言ったところですよ――神様の思し召しに任せています」

「そうか、それは良かった」

ところで、と彼は例のごとく聖者のような穏やかな顔になって、口にする。

「僕に興味があるようだが、やはり僕の仕事関係かい?」

「分かっていましたか」彼女は少しだけ落胆した。けれど、どうしようも無い好奇心は猫をも殺す。

「まあ、このくらい敏感でないと、神の敵と戦うには力不足なんだよ」

やや自慢げに彼は言ったが、それには嫌味らしさが感じられなかった。むしろ素直だと言う好感をコルネーリアに抱かせた。

「じゃあ単刀直入にお尋ねします」

ふつふつと彼女の脳細胞が興奮して湧き立つのが分かった。訊ねたい事があまりにも多すぎて口がもつれそうになるのを、彼女は必死に抑えて言った。

「魔族って何ですか? どうして戦うのですか?」

それは彼女の心の中に鎮座した、謎の塊だった。青年はすらすらと答えた。

「魔族とは、我々人間とは相容れないモノだ。 何しろ我々の唯一絶対なる神の教理に違反した神の敵で、しかも人間を捕食しなければ生きていけないのだから。 おまけに魔族は特殊能力を持っていて、それの使い方も知っている。 知を使って力を振るい、人々を苦しめる。 まるで暴君だね。 ――魔族とはすなわち、神と人間の宿敵だ。 根こそぎ殺さねばならない存在だ。 ……どうして倒さねばならないかは、君にもいずれは分かるだろう。 春になれば花が咲くように。 君も我々異端審問官の仲間なのだから」

「ふうん――いずれあたしにも分かるときが来るんでしょうか」

聞きながらコルネーリアはぼんやりとその時を思い浮かべた。いつになるのだろう。そういえば近々何かの実習があるはずだから、その時になれば否が応でも分かるかもしれない。

「来る。 僕に来たのだから、君に来ないはずがない」

 ……ちょうど修道院長室の前まで来て、彼女達は立ち止まった。

「ありがとう」と青年は礼を述べた。

「いえ、こちらこそ、色々聞けて楽しかったです」コルネーリアは、少し寂しいな、と思ったが、それは態度にも声にも出さなかった。

「それじゃ、またいつか出会おう。 神がそのようにおん定めたらば、ね」

格好いいことを言うじゃない、と彼女は寂しさの代わりに感心した。


 彼女は寮に帰ってから、彼の名前を聞き忘れたことに気がついた。けれど、まあいいか、とそれほど気にしなかった。

神がそう定めるなら、いずれ――いつかは彼と彼女は再会できるだろう。

 その時が、楽しみだった。


 ――鉄格子の向こうには昏々と眠り続ける若い男がいた。

窓にも鉄格子が嵌められている。狭い部屋の中で拘束着や手錠などで厳重に束縛され、あまたのチューブがその男に繋がれている。


 「これが狼男――狼人間ヴェアヴォルフ。 変身種ライカンスロープの中の一つの……」


 だれ彼となく息を呑む音が聞こえた。

「そう、狼男だ」

実習を担当する教官は冷たい声で言った。

「今はこうして寝かせてあるが、諸君らの敵でもある」

コルネーリアはずらりと並んだ列の最後尾にいた。寝坊して、遅刻しかけたためだった。自分の無能さを彼女は呪った。折角の実習の日だというのに、何を自分はやっているのだろう。よりにもよってこの日に寝坊するなんて、恨めしいったらありゃしない!

「今日の実習は、狼男の倒し方を学ぶ」

教官は銀の銃弾を銃に装填して見せた。

「これで心臓を撃ちぬく」

ごくり。

彼女達は一斉に手に汗を握ってつばを飲んだ。

「他にも倒し方はあるが――これが最も一般的な倒し方だ」

教官は鉄格子の鍵を開けた。そして中に入り、男の枕元に立った。

その時ぐらりと地面が揺れた。地震だ。思わず誰もがよろめいたとき、狼男が目を開けた。教官がよろめいた拍子に、チューブの一本に手が当たって、最悪な事にそれを引き抜いてしまったのだ。

それに気付いた教官が悲鳴を上げた。狼男は見る間に異形へ――巨大な狼へと変化へんげした。拘束着が引きちぎられ、手錠が吹っ飛んだ。ばきん、という音と共に教官の首が喰い切られた。銃は血にまみれてどこかへと飛んでいった。生徒が次々と悲鳴を上げた。揺れが収まった時には、巨大な狼がのそりと鉄格子を開けて、こちら側に出てきていた。

生徒は我先に出口に殺到したが、その為に逆に部屋から出られなかった。

 背後から狼が襲いかかった。羊に襲い掛かる狼そのものだった。

断末魔の悲鳴が上がった。痛ましい叫びが。

 「――!」

コルネーリアはその瞬間に覚醒した。

 突然、冷静さが彼女の頭を支配した。何をどうすればいいのか、手順が目の前にくっきりと現れたようだった。妙に世界がゆっくりと流れているようだった。恐怖は無かった。人を掻き分け、血を浴びながら教官が手放した銃の元に駆け寄り、撃鉄を上げて照準を定めた。狼の心臓めがけて。あまりにもその行動は適切すぎて、まるで彼女が誰かの手に操られているかのようだった。

狼が彼女獲物に飛びかかる。

 轟音。

地響きを立てて狼――いや、男が倒れた。

「――へあ」

そう言い、途端に銃を手放して、その場にコルネーリアは座り込んだ。

がくがくと震えが襲ってきて、寒くも無いのに痙攣した。涙が溢れた。

 最初に逃げ出した生徒が他の教官を連れてくるまで、彼女は子供のように泣きじゃくりながら座っていた。


 その数日後、まるで裁判にかけられた被告のように、彼女は証言台に立ち、養成所のお偉方に囲まれてわずかに震えていた。

「それで、君が倒したという狼男の件についてだが――」

「はい」

「本当に君が倒したのかね、一度も倒した事の無い見習いが」

「確かに、あたしがやりました」

『まるで「自白しろ」と迫られているようだ』と彼女は感じた。

実際、そうだった。教官の失態を補った彼女の特異性が、今や問題になっていた。ありえない事なのだ。一度も戦った事のないただの修学中の少女が、化物を倒す事など。何の損傷も受けずに、化物をただの一撃で倒してしまう事など。

「どこをどのタイミングで狙えばいいのか、分かったんです」

「どうしてだね? 君にそれが分かるはずがない」

「どうしても何も……きっと神様のお導きですよ」

「震えながら泣いていた君に? そんな奇跡が起こりうるとは信じられんが」

そう言われても、コルネーリアは同じ事を主張するしかない。

「でも、本当にそうだったんです」

「ともかく君は見習いであるにも関わらず、狼人間を倒したわけだ」

温和な声が響いてきたのは、そのセリフが言い終わる前だった。

「――そう。 それが事実だからこそ、僕がここに来たのです」

声のした方を向いて、彼女は目を丸くした。柔和な笑みをたたえた顔。いつぞやの異端審問官の青年だった。

こうして二人が再会するのに、大した時間はかからなかった。

 「ベルトラン・レッシング!」お偉方の顔がいっせいに引きつった。「どうして貴君が――」

「事件の管轄は養成所より検邪聖省へ移動しました」彼はコルネーリアの肩に手を回す。「それに付きまして彼女の身柄もこちらが預かります」

「――そ、そうですか」と引きつった顔のまま、お偉方は口々に言った。

 ベルトラン・レッシング。

彼女は名前を頭に刻み付けた。いい名前だ。そして、かなりの威力がある名前らしい。お偉方が完全に静まり返ってしまったのは、いっそ痛快だった。

「異存は無いですね? では御機嫌よう」


 その後、コルネーリアは荷物をまとめるように言われて、戸惑った。

「でも、どうしてですか? どうして私なんかを――」

「今まで見習いが活躍したことは無かった。 正式な異端審問官のみが神の敵を討ち滅ぼしてきた。 ――端的に言うと、君は第一の試験に合格したんだよ」

「合格? ってことは――」

心臓の辺りが、きゅうと痛んだ。緊張と恐怖に。彼女は自分が未熟である事を知っていたし、それに狼人間の一件は偶然がそうさせたものだと思い込んでいた。きっと神様が助けて下さったのだろう、と。だが、神様が彼女をいつも助けてくれるものだとは限らない。保証はどこにも無いのだ。

しかし青年ベルトランは、穏やかな表情を崩さない。

「ともかく荷物をまとめたまえ。 君は最年少で僕らの仲間になれるかもしれない」

心臓の辺りが痛い。じくじくと痛む。第一の試験。ということは第二の試験もあるということだ。それに合格できるかどうか。

「あ、あたしにはそんな才能ありません!」

「才能? 才能とは使命だ。 君も僕らと同じ使命を背負っているんだ。 君の才能はそうあるべきだ」

「でも――」と、言いよどむ。言いよどんでしまう。自分は平凡な少女でしかなかったはずだ。それが何でこうなってしまったのか。もしも運命を司る神がいるとしたら、それは残酷な神だ。

「『でも』も『だって』もあるものか。 何度でも言う。 君には荷物をまとめて僕に付いて来てもらう。 きっと君と出会ったのは、神の思し召しに違いない」

 結局、強引な彼の態度に、コルネーリアは従うしかなかった。


 コルネーリアが連れてこられた検邪聖省の支部の外見は、その物々しい業務の内容とは裏腹に、地味で質素だった。

街の中にあるが、化物を倒すための拠点・要塞だと言う外観の印象は少ない。むしろツタの這う壁のせいで、陰気くさくてたまらない場所のように思うのもしばしばだった。しかしその中には地下牢や拷問部屋などと言う、色々と血なまぐさい空間もあるのだが……。聞いた話では聖地エルサーレムにある検邪聖省の本部は、それはそれは荘厳で美しいらしい。他の大聖堂や他の省の建物などと並んでいても見劣りはしないそうだ。

 だがコルネーリアは暗い印象の支部に連れて行かれて、簡単な健康診断と書類審査を受けたきり、やや放置気味の扱いを受けていた。これだったら養成所か修道院にいた方が退屈しない、と彼女はうんざりしていた。

彼女を連れてきたベルトランも別件で忙しいらしく、それから一度も顔を見ていないし――彼女は退屈に殺されそうだった。


 ある日、ふらりと街へ出かけたのも、そういう事情があったからだった。ちょっとした気晴らしの散歩をするつもりだった。

夕暮れの街は綺麗だった。斜陽が差す中をふらふらと歩いていくと、幼い子供が泣きそうな顔をして裏路地を彷徨っているのを見つけた。

「坊や、どうしたの?」

しゃがみこんで尋ねると、幼児は半泣きの顔を上げた。

「ママンとはぐれちゃった……」

なるほど。そういう事情らしい。

「一緒に探してあげようか?」

「うん、ありがとー」

にっこりと坊やは笑うと、とことこと歩き出した。

「あ、待って、どこに行くの」

彼女は慌てて後を追いかけた。

「こっちー」

人気の無い方へと坊やは歩いていく。仕方なく彼女は付いていった。

「ねえ、ママンはそっちにはいないと思うよ」

そのセリフがようやく口に出たのは、日が沈みかけて辺りが闇に覆われ始めた頃だった。来たばかりでこの街の地理に詳しくない彼女は、自分の帰り道さえおぼつかない。正に頃合はたそがれであった。

「うーん、いいの」

「何がいいの?」

突然坊やは身体を曲げた。くくく、とガラにも無い密かな低い笑い声。


 「お前を頭からかじってやるのにさ!」


 『坊や』の頭部がはじけた。

彼女が事態を認識する前に、大きな触手がずるっと伸びて、腕に絡みついていた。咄嗟に振り払おうとした反対の手にも絡み付いて、地面に引き倒された。悲鳴を上げるために開かれた口には、声が邪魔だと言わんばかりに肉汁をしたたらせた触手が突っ込まれる。

視線を上げた先では、巨大な口が牙を生やして蠢いていた。しまった、やられた、魔族の変身種だ――彼女は足をばたつかせたが、それにも触手は絡みついた。

 ――喰われる!

悟った彼女は目を閉じようとしたが、上手く行かなかった。まぶたは凍りついたように動かなかった。

「……妙に騒がしいと思ったら、変身種か」

怜悧な声が聞こえてきたのは、いよいよ彼女の頭部が口に飲み込まれた時だった。

『何だ!? 異端審問官か?!』

坊や――今では怪物と言ったほうが正しい魔族――がダミ声を上げた。

「いいや、違う。――『三人の魔女』について知らないか?」

『何だ、それは?』

「じゃあ死ね」

上からだった。サーベルが煌いたかと思うと、坊やの触手を叩ききっていた。奇怪な悲鳴を坊やは上げた。それの余韻が終わらないうちに、サーベルは坊やの胴体を両断していた。人間で言う心臓――核を切断された事による、断末魔。

コルネーリアの頭部がついでに吐き出される。

「ぶ、は!」

コルネーリアは自分を助けてくれた人物を見上げた。

マントをまとった細身の影。少年だった。

「あ、ありがとう――」

「礼はいらない」

まるで興味がないと言いたげに、くるりと身体をひるがえして、少年は立ち去ろうとした。そうは行かないと彼女は追いすがる。

「待って! あたしはコルネーリア! 助けられてそのままなんて嫌よ!」

「金はあるのか?」

言われて彼女は困った。有り金は全て検邪聖省に置いてある。

「今は無いけど――」

「じゃあ用は無い」

「待って! あたしは検邪聖省に属しているの、あたしにできることなら何でもやるわ!」

「!」少年の目が見開かれた。「検邪聖省だと!?」

「そ、そうよ! ――何か文句でもあるの?」

「いや……ない」

無いのならば、この反応はちょっとおかしいわ、とコルネーリアは思ったが、

「余程ありそうだけど。 まあいいわ、とにかくあたしに出来ることなら何でも言ってちょうだい」

少年は少し考えて、「……私と出会ったことは誰にも言うな」

「え、それだけ?」コルネーリアは呆気に取られた。

「そうだ」

少年は念を押した。そして今度こそ身体を翻して、走り去った。

 コルネーリアはその姿を目で追ったが、すぐに夕闇の中へ消えてしまった。


 秘密を守ると言うのは、秘密の大小に関わらず難しいということを、コルネーリアは身に染みて感じた。

『坊や』の死体は検邪聖省に発見されて、魔族の不審死体として解剖されている。その最中に彼女はばったりと廊下でベルトランに出会ってしまった。ベルトランのような勘の鋭い人間の前で、彼女は必死に少年と出会ったことを隠さなければならなかった。

「やあ、元気にしているかい?」

「元気ですよ、毎日が暇ですけど」

「そうか。 ――ところで何を隠しているんだい?」

ぎらりと睨まれて、彼女はうっと息を詰まらせた。

彼は何て鋭い勘を持っているんだろう。羨ましいが、今では脅威だった。脅威は払いのけなければならない。

「何を隠していると思いますか?」

「ふうむ、そう来たか」彼は少し考えるそぶりを見せた。「――とても重要なことだね、僕相手に隠さなければならないということは」

「当たらずとも遠からずですね」

平然と答えているが、内心は冷や汗ものだった。また心臓がきゅうと痛んだ。彼女はあの少年との約束を守らなければならない。命を助けてもらったのだ。絶対に守らなければならない。

「どうして隠しているんだい?」

「言う必要が無いから、と答えたらダメですか?」

「ダメではないよ。 だが妙に気になる」

「女の子は秘密を抱えて大人になるんですよ」

「君はまだまだ子供に見えるがね」

カチンと来たが、確かにその通りだった。コルネーリアは、まだまだ未熟な少女だった。

「そう――ですか。 じゃあそうなんでしょう」

「何をむくれているんだい?」いたずらっぽく彼は笑った。

「どうせあたしはまだまだ子供なんですよ」

「無垢な子供の何が気に入らないようだか知らないが――まあいい。 君はどうやら例の死体とは無関係のようだしね」

「例の死体?」

できるだけ知らないフリをして、彼女は訊ねてみた。

「魔族の死体が見つかった。 誰かに倒されたようだが、それが誰なのかわからないのさ」

「怖い……」知ってはいる。だが彼女はあの少年も怖かった。見てくれはただの少年なのに、魔族を滅ぼしたのだ。尋常、通常、ではありえない。

「一般的な感想としてはそれでも構わないが、僕らの感想としてはそれじゃダメだ。 誰が魔族を滅ぼしたのか、突きとめなければならない」

「そう――ですよね」

彼女はわずかに声に戸惑いを含ませた。急に彼女は自信を無くした。彼女は、まだまだ自分が無力な少女である事を、自覚するしか無かった。あの少年に助けられねば、死んでいた。こんな有様で、どうやって異端審問官でいられるだろう?

「ん? どうしたんだい?」ベルトランが不思議そうに訊ねたのに、思わず彼女は言ってしまった。彼女にとってベルトランとは、己の弱みもさらけ出せる存在だったのだ。

「本当に、あたしには検邪聖省に務める資格があるんでしょうか?」

ベルトランは彼女の肩をつかんだ。

そうしないと彼女は弱々しくて、幼くて、消えてしまいそうだった。とてもか弱い印象を受けたのだった。

「資格はあるとも。 十分に。 君はもっと自覚を持つべきだ」

「でも、第二の試験に合格できるかも分からないし……」

「君はもっと自信を持つべきだ。 ここだけの話、君は書類選考でも非常に良い結果を残している。 だから安心したまえ」

「――はい」

こくりと彼女は頷いた。そう言われると、少しは前向きに考えられる様な気がした。少なくとも彼には、彼女は認められているのだから。

「ありがとうございます」

「何の。 君のためならば僕は何でもやるつもりだよ」

そこまで信頼されているのか。コルネーリアはやや複雑な気持ちだったが、素直に嬉しいと思った。彼に嘘をついてすまないと思う一方で、彼に感謝していた。

泣きそうな顔で笑う彼女を見つめながら、ベルトランは決めていた。

 (第二の試験は彼女の潜在能力を完全に引き出すものでなければならない――)


 ――無我夢中だった。久しぶりの獲物に喰らいつくのに。とても美味しかった。濃いバターのような、とろける味わい。首筋に噛み付いてごくりごくりと飲み干す。暑い砂漠で遭難した人間がオアシスにたどり着いた時のようにがむしゃらに飲む。気が付けばもうすぐ夜明けという時間帯だった。まずい。日が昇る前にホームに戻らねば。しぶしぶ獲物を手放す。

――どさり。

とうの昔に獲物は冷たくなっていた。

「ふう。――美味しかったぜ、お嬢ちゃん。ありがとな」

彼は獲物の残骸に投げキッスをして、そう声をかけた。紳士的に。ちょっとした冗句ジョークだった。本当は泣き叫ぶ娘を無理やり食ったのだ。首筋に噛み付いて血を吸ってやった。そうされる内に少女は恍惚とした表情を浮かべ、うっとりとしながら死んだ。

 さて、愛しの我が巣に戻るとしようか。

彼があくびと共に、大きく伸びをした時だった。

吸血鬼ヴァンパイアだな」

ひゅん――と空気を切る音がして、彼の肘から先の両腕が宙に舞っていた。あふれ出す血。地面に落ちた腕が二本。

「なッ――!?」

痛みよりも何よりも驚きが勝って、振り返る。

ひどく柔和な笑みを浮かべた青年が背後に突っ立っていた。

いつの間に近づいたのだ!?吸血鬼は叫んだ。

「誰だ、テメエは!?」

「ベルトラン・レッシング――異端審問官だ」

「!」

聞き覚えがあった。彼のような異端者フリークス――魔族を片端から処刑して回っているという噂の――『最強の』異端審問官。

「――おれを殺しに来たのか!」

「そうだ。――だが違う」

妙なことを言うと、ベルトランは両手を胸の前で合わせた。細く長い指が妖しく動く。急に吸血鬼は動けなくなった。細い糸で縛り上げられたかのように。ぶすりと皮膚に針が突き刺さったような痛みを感じた。だがそれも束の間、彼の意識はすぐに遠ざかる……。


 第二の試験は、実技試験らしい。コルネーリアは不安で死にそうになりながら試験会場――と言っても狭い一室だが――の扉を叩いた。

「どうぞ」

帰って来たその声を聞いて、はっと彼女は驚く。ベルトランの声だったのだ。これならば辛うじて合格できるかも知れないと安堵する。希望が湧く。それまできしきしと痛んでいた心臓が、ほんの少し楽になった。

「失礼しまーす……」

部屋は薄暗く、よく見えなかったが――机と、その奥の椅子にそれぞれ誰かが腰掛けていた。

「机の上に銃がある。銀の弾も装填してある」奥の椅子からベルトランの声。

「銀の弾?」

銀の弾を使うとなると――相手は限られてくる。魔族の中でも、狼人間、吸血鬼などに特に有効な手段だからだ。

「そうだ。 君にはこれから吸血鬼を一体倒してもらう」

「そんなッ!」

無理だ。咄嗟に彼女は棄権しようと思った。吸血鬼といえば、様々な能力を有した化物だ。不死性、耐久性、瞬発能力などのずば抜けた身体能力、そして吸血する事による一時的な強力化、おまけに特殊能力。

「安心しろ、吸血鬼は弱らせてある。 だが脅威である事は変わりない」

「無理です、出来ませんよ!」

「無理であろうとやってもらう。 これが第二の試験だ」

 机に腰掛けていた人影が動いた。よく見れば二つの腕が切り落とされている。のろのろとした動きだが、徐々に彼女に迫ってくる。彼女は追いつめられそうになる前に、机の上の拳銃に手を伸ばす。届いた。ごくりと生唾を飲み込んで、彼女は撃鉄を上げた。

だが、狼男を倒した時のあの恐ろしいまでに冴えた感覚は訪れない。がたがたと震えが止まらない。当然、狙いなど付けられるはずもなかった。

「こ、来ないで! ――撃つわよ!」

必死に威嚇したけれど、のろのろと相変わらず近寄ってくる。とても堪えられないような生臭い臭いが漂う。吸血鬼の口腔から漂う血の臭いだった。

どうしよう、どうしようとそればかりが頭の中を駆け巡る。部屋の隅にまで後ずさり、迫られても、コルネーリアは震えているだけだった。

吸血鬼はぐっと顔を近づけて、彼女の首筋の臭いを嗅いだ。美味そうな臭いがした。実に。

かぱり、と口を開けた。鋭い牙が生え揃う、肉食動物のような顎だった。助けて、と彼女は悲鳴を上げた。だがベルトランは動かなかった。椅子に腰掛け、冷たい目で彼女を見つめているだけだった。

「誰か、助けて!」

首筋に吸血鬼の歯が迫る――その瞬間だった。

急にコルネーリアの表情が変わった。

怯えていた少女が、余裕の笑みを浮かべる。その余裕さは、まるで、アリを何気なく踏み潰すゾウのそれだった。格が違うのだ。

ベルトランは目を見張った。

「!」

吸血鬼の口腔に銃身を突っ込んで、轟音。

反動で吹っ飛んだ吸血鬼に華麗に追撃の蹴りをかまし、心臓部に狙いをつける。

「滅べ」

二度目の轟音。

心臓を打ち抜かれた吸血鬼は、糸が切れた操り人形のように動かなくなった。

「それが君の本性か、素晴らしい!」

椅子から立ち上がり、ベルトランは拍手した。だがそれも途中でいきなり止む。コルネーリアは銃口を彼の方向へ向けていた。

「どういうつもりだい……?」

「……お前は我の敵か?」

違う。コルネーリアの声だが、響きが違う。無邪気で少女らしかった声が、深い余韻を残す大人の、否、もっと老成した声に変化している。

「敵……敵だと思うのかい?」

「吸血鬼を糸で操っていたのはお前だろう?」

「!」

ベルトランは糸を回収しながら、彼女の本性を見極めようとした。

どうして知っているのだ。

「何故、それを……?」

「感じたのだ。 お前からの敵意を」

「敵意を感じた?」ベルトランは、ついに口に出した。敵意はあった。確かにあった。だが、ただの人間にそれを悟らせるほど彼は愚かでも未熟でもなかった。「お前は誰だ?」

この発言は、彼女が誰かに今は操られていることを、彼が確実に認識したということだった。すると彼女は傲岸不遜に、こう答えた。


 「我はウリエル……『地獄タルタロス』の番人」


ウリエル――大天使だと!?太古の昔の伝承と聖典カノンにしか見聞きしない存在を目の当たりにして、彼はぎょっとしたが、途端にコルネーリアが崩れ落ちたので、慌てて駆け寄って抱き起こした。

「コルネーリア! 大丈夫か?」

「……あ、あたし、何を」

やはり。彼は一人納得した。恐らく彼女は身体を乗っ取られて操られていたのだ。そして吸血鬼を倒した。大天使にとり憑かれて。

「無事に試験に合格したんだよ、安心してくれ――」

「――良かった」

いきなり彼女の目から涙がこぼれた。

「あ、あれ? 悲しくなんか無いのに――涙が」

彼女は、子供のように泣き出した。無事倒せたと言う安心?合格したと言う歓喜?それとも――。これが一体何の涙なのか、彼女には分からなかった。

「……」

ベルトランは彼女を抱きしめながら、興奮して堪らなかった。

彼は自分より強い相手を負かす事に快感を覚える性質だった。

彼女は、もしかすれば、彼に及ぶ人間になりうるかもしれない。


 あの少年にコルネーリアが再会したのは、小雨の日の昼だった。

何のことはない、街をうろついていた所にすれ違ったのだ。

「あら、久しぶりじゃない」

「――ああ」

ひどく面倒そうに彼は答えた。

ちょっとそこの喫茶店に入らない?と彼女が誘うと、しぶしぶと言った感じで付いてきた。

「あたし、コーヒー。 貴方は? おごってあげる」

「紅茶」

能面のような無表情で言う。

「遠慮しなくてもいいのに」

「紅茶」

はいはい、分かったわよ――店員にコルネーリアが注文を伝えて、何となくやるせない時間が訪れる。暇の一言では潰せないのに、かと言って退屈でも無い不可思議な時間が。

コルネーリアは、その時間を終わらせないために言った。

「この前はありがとう」

「別に」色気も愛敬もない声で言った。

「綺麗な顔して、素っ気無いのね」

「元からだ」

「あっそ」

紅茶とコーヒーが運ばれてきた。苦いそれを一口飲んで、コルネーリアは尋ねた。

「貴方、名前は何ていうの? あたしはコルネーリア」

「ジャン」

「ジャンね――いい名前じゃない」

「別に」

「愛想悪いわね、ちょっと」

「元からだと言ったはずだ」

あっそう、それで、と彼女は続ける。

「貴方、どうして魔族を退治したの? 異端審問官でもないのに」

「……」無視して紅茶をあおる少年。

「答えられない質問だったかしら。 でも、妙に気になるのよ」

「検邪聖省の人間だからか」

本当にお前は鬱陶しい、少年はそう言いたげだった。

「いいえ。 一個人として、どうしても気になって。 それだけの腕前があるのだったら、どうして異端審問官にならないの?」

「ならないんじゃない。 なれないし、なりたくもないんだ」

「貴方があたし達の『敵』だから?」

ジャンはわずかに眉をしかめただけだった。

「だとしたら、どうだと言うんだ」

コルネーリアは対照的に、にこっと笑い、

「勘よ。 全くの勘。 でも当たっているんでしょ?」

彼は肯定も否定もしなかった。

「だったらどうして検邪聖省に通報しない」

「貴方はあたしを助けてくれたわ。 恩義には硬いのよ、あたしは」

「信用できない」吐き捨てられた言葉。

その言葉を浴びても、まだコルネーリアは微笑を浮かべていた。

「別に構わないわよ。 あたしが勝手にやっているだけだから。 貴方は信じなくてもいいのよ」

「……ハァ」

ジャンはカップを置くと、呆れたかのようにため息をついた。

「気楽なものだな」

「まあね。 ――ちょっと聞きたいんだけど、いいかしら?」

「何だ?」

ちょっと舌で唇を舐めて、コルネーリアは言った。

「悪魔憑きならぬ天使憑きって、貴方は信じる?」

「悪魔が実在するなら、天使も実在するだろう。 そう考えるならば、起こりえないことではないだろう?」

「そっか」彼女は少し俯いた。「じゃああたしはどうしてとり憑かれたんだろう……?」

「待て。 どういうことだ?」

話がいきなり飛躍したため、何のことを言っているのか彼には分からなかった。彼女はやや上目遣いに彼を見た。彼はじっと彼女を見つめていた。

「……上司達が会話しているのを盗み聞きしちゃったのよ」

そもそも誰かに話してもいい事なのだろうか、と彼女は考えた。けれど彼はあちこちに吹聴するような人間には見えなかったし、そもそもそう言う風にしか見えない彼女は、紛れもない未熟者だった。人を見極める目にも長けていなかった。誰でもすぐに信用してしまうのだった。

「あたしには大天使ウリエルがとりいているって」

「――大天使が」

それきり彼は黙ってしまった。

「ごめんね、こんな気持ち悪い事を言って」

彼女はいたたまれなくなって席を立ち上がった。あの心地よい時間は、終わってしまったのだ。

「それじゃ。 お茶に付き合ってくれてありがとう」

会計を済ませて、店の外に出る。ちょうど雨が降り止もうとしているところだった。彼女は背伸びを一つすると、歩き出した。


 それを見送って――。

「どう思う、アスモデウス」

誰にも聞き取られないような小さな声で、ジャンは呟いた。

それに応えるかのように、どこからともなく、声が響いてくる。

物理現象としての音波ではなく、精神に感応する『声』だった。

『ありえんことではないさ、ジャンヌ。 いやかつてはそうだった。 よくある事だった。 何しろ我らの敵なのだからな、我らを追いつめるためならば手段は選ばんさ』

「だが彼女は無自覚だ、とても憑いているようには見えない」

かり、と彼はツメを噛む。どこかもどかしいのだった。コルネーリアが彼の敵か味方か、それすらも判然としていない。

『演技やも知れんぞ?』

「演技――だろうか」

それにしては自然なように感じられたが。

『ともかく誰も信じぬ、これに限る。 信ずれば裏切られるのが我らの宿命なのだからな』

彼はわずかに頷いて見せた。それは分かっている。身に染みて。骨に刻まれて。

「ああ。 気を付ける」

窓から外をうかがう。もう雨は完全に止んだようだ。

そろそろ出るとしよう。


 ……村は地獄のようになっていた。家屋にべったりと肉片や血が飛び散っている。その家屋も徹底的に破壊されていた。まるで巨大な怪獣が、暴れ狂った後のようだった。見事なまでに村中が根こそぎ壊されていた。気をつけていても前に進もうとすれば誰かの肉片をぐちゃりと踏んでしまって、コルネーリアはえずきたいのを必死で堪えた。先を行くベルトランに声をかける。

「この村――何があったんですか?」

狼人間ヴェアヴォルフに襲われたんだ」

足を止め、振り返る。彼女はぞっとした。この惨状を目にしても、ベルトランは柔和な笑顔を崩さないでいたのだ。

正式に異端審問官となり、一月経ったとはいえ、彼女はまだまだ未熟で、飽きっぽい人間のままだった。いつもはただの少女だった。

「狼人間――ですか」

「この先の教会に捕らえてあるそうだ。 処分しに行こう」

教会も、他と比べてマシだとはいえ、ぼろぼろの有様だった。

「――酷いものですね」

「何の。 これしき酷いの内にも入らないよ」

ああ、あたしにはまだまだ経験のけの字も無いんだ、とコルネーリアは思い知った。この惨劇をこの程度、と言えるくらいにならねば、異端審問官として相応しくは無いのだろう。


 半壊した教会の入り口には、大男が腰掛けていた。職業は軍人だと言われても納得するくらいに、とても強そうだった。

ベルトランの姿を見て、彼は立ち上がる。

「よう、ベルトラン」太い声で言ってから、ちらりと彼女を見やって、「その子が例の――」

「ああ、その研修生だ。 僕が面倒を見ている」ベルトランは、頷いた。

「えーと、そういや、名前は?」と彼女の方に手を差し出しながら大男は尋ねた。

「コルネーリア・シュロッサーです。 よろしくお願いします」

その手を握って、彼女は応えた。簡単な握手だった。大男は名乗る。

「俺はヴィルヘルム・ヴァレンシュタインだ。 よろしくな」

彼らが教会の中に入ると、血なまぐさい臭いが一層強まった。

「――狼人間は、どこです?」コルネーリアは訊ねた。

「あそこだ」とヴィルヘルムはあごをしゃくって見せた。

「!」

壁に長いランスで留められた男がいた。まだ若い。少年の域を脱したばかりだろう。おびただしい血が壁を伝って床の上に流れ落ちている。常人ならば既に死んでいる量だったが、か細く息をしていた。

「さっさと処理しちまおうぜ」とヴィルヘルムは言い、

「ああ」とベルトランは頷く。

「ま、待って下さい! 裁判とかはしないんですか?」

彼女は思わず声に出していた。ベルトランは首を振る。

「必要ない。 一々そんな手間をかけていられるほど、僕らは暇じゃない。 それに裁判をしたとて結末は同じだ。 ――死刑、死刑、死刑、死刑! これっきりだ」

「でも――」

「おい、コルネーリア」不機嫌そうにヴィルヘルムは彼女を遮った。「じゃあ聞くが、お前は許せるのか? あれだけの殺戮と破壊をこの村にもたらした化物モンスターを。 男も女も老いも若きも皆殺した化物アンチクリストをよ」

「う――」言葉に詰まった。彼女は、許せなかった。絶対に許せなかった。平凡な人々のささやかな暮らしを破壊する化物を、許せるほど彼女は間抜けでは無かった。

「許せないだろう? それが僕らだ」ベルトランは言った。

コルネーリアは銀の弾が装填された拳銃を手にした。

「分かりました。 あたしがやります」

狼人間の心臓に狙いを定める。

うう、と男が呻いた。

「……死にたく、ない。 助けてくれ――」

彼女は拳銃の撃鉄を起こした。

「――貴方は、死にたくなかった人を沢山殺したの」

「好きで殺したんじゃない、どうしようもないくらいに腹が減って――」

「それでも罪は罪よ!」

轟音。

彼女の手から、拳銃が奪われた。

男の腕が巨大な獣に変化して、それが喰らい付いたのだ。

「じゃあ、俺を殺すテメエらの罪は、一体何だ!」

むくり。男が身を起こした。じゅうじゅうと音を立てて傷口が癒されていく。身体を貫く槍を引き抜くと、コルネーリアめがけて投げつける。

「危ない!」ベルトランの叫び声がした。

辛うじてコルネーリアは槍を避けた。予想外の出来事だった。避けたものの、男の腕が彼女の細い首に絡みつく。

ベルトランとヴィルヘルムが硬直した。人質を取られたのだ。

「槍の『身体制御術式』を解除しやがったな!」ヴィルヘルムが吼えた。

「中々キツかったぜ」

にんまりと男は笑みを浮かべた。凶悪な笑みだった。まるで獣そのものの、邪悪さを露呈した笑みだった。

「この小娘がべらべらと長いこと喋ってくれなきゃ、解けなかったところだった」

「この野郎――!」コルネーリアは暴れようとしたが、その頭部に拳銃が突きつけられた。

「おっと。 下手な真似は止してもらおう。 異端審問官のくせに情けをかけるから、こういう目に遭うんだよ、馬鹿め」

「貴様ァ!」ベルトランが両腕を掲げた。糸を飛ばそうとしたのだ。

「へっ」

だが、男は跳躍した。一瞬で、少女を抱えつつ、教会の天井にぽっかりと空いた穴の上に飛び上がる。入れ替わりに爆笑が降ってきた。距離を取られては、ベルトランの糸といえど、切り裂くことはできない。見上げる異端審問官達は思わず形相を歪め、唇をかみ締めた。何たる失態、何と言う事態だ!

「あははははは! じゃあな、あばよ――!」

そして狼人間はコルネーリアを抱えたまま、姿を消した。


 森を狼は疾走する。少女は気絶したので、背中に乗せてある。走るエネルギーが次から次へと湧いてきて、止まることなどできやしない。何しろたらふく食べたのだ。まあ、後でこの少女をデザートにいただこう。

しばらく走っていると、狼人間は泉を見つけた。ちょうど喉が渇いていたので、頭を突っ込んで水を飲む。その時、かさりと足音がして、泉に誰かの影が映った。

まさか異端審問官が追いついたのか?

警戒しつつ誰か確かめると、細身の少年だった。マントをまとって、手にはサーベルを提げている。

敵か、味方か?狼は戸惑った。

「狼人間か。 ――『三人の魔女』について知らないか?」

冷たい陶磁器のような声だった。

『何のことだ?』

「じゃあ死ね」

少年は跳躍した。泉を跳び越し、彼の真上から襲い掛かる。狼は大きく跳ねて避けた。その拍子に背中の少女が落ちてしまうが、構ってはいられない。狼は人型に変身した。手には拳銃がある。

「動くな! 一体何だ、知らないと答えただけじゃないか!」

「知らないなら用はない」

少年はじっと拳銃を睨んだ。その両目が赤く輝く。

「――あちッ!」

男は拳銃を手放した。いきなり銃身が熱くなって、握ってはいられなくなったのだ。少年が駆け寄る。だが男の腕が獣の頭部に変化した。大きくあぎとを開いて、少年に噛み付こうとする。細い腕が振るうサーベルでそれを受け止め、少年は男と対峙した。

「お前も、まさか――!?」

「そのまさかだ」

少年の両目が、赤く輝いた。男は上半身に熱を感じ――それは一瞬で、高温に跳ね上がった。男の身体が燃え上がった。凄まじい悲鳴をあげて、男は泉に飛び込んだ。ぶすぶすと肉が燻る臭いが辺りに漂う。やがて、ぷかりと男の身体が水に浮かんだ。

 ……しばらく彼は男の死体を見つめていたが、その場から立ち去ろうとした――かちり、と撃鉄をあげる音がしなければ。

「動くな」

そう言われる前に少年はもう振り返っていた。

少女――コルネーリアが拳銃を握り、彼を狙っていた。怯えた様子が何一つもない、冷静そのものの眼差しだった。否、あまりにも無慈悲な冷酷すぎる目だった。

「コルネーリア?」

彼は油断した。前にも同じような状況があったため、彼女は知り合いの少女だと、そう思っていたのだ。

「我は彼女ではない。 地獄の番人ウリエルだ」

『ウリエルだと!?』少年の影がざわめいた。『何故貴様がここに現臨しておるのだ』

「貴様らを殺害するためだ、アスモデウス。 そして悪魔と契約した魔女!」

深い因縁を飲み込んだような声でウリエルは言った。

「長かったぞ、この瞬間チャンスを待つのは」

『いかんぞジャンヌ、ヤツの能力は――!』

轟音。銃口から銃弾が放たれた。少年は反射的に身を伏せてそれを避けた。

『右だ!』

だが、避けたはずの銃弾が螺旋を描きながら方向を変えて、彼の右側から襲い掛かった。ホーミング能力を有しているのだ。それもかわすが、胸の部分の服が破けた。そこから微かな二つの膨らみがのぞき、わずかに血がにじむ。後ずさった足が水に浸かった。だが泉に落ちれば、格好の餌食になってしまう。

「魔女よ、我が操りうるのは一弾だけと思うな!」

轟音。二発目が彼めがけて襲い掛かった。

「くッ!」

彼は――泉の中の死体を引きずり起こし、それを盾にして銃弾を防いだ。防いだ弾が死体を貫く前に、彼は素早く走り出した。遮蔽物の多い森の中へと。

 だが、その身体がいきなり宙で停止した。

まるで網に引っかかった小鳥のように――彼はもがいたが抜け出せなかった。

「話は聞かせてもらった。 今日は何かと物入りな日だ――狼人間の次は魔族、それも上位種の魔女か……」

ベルトランが森の中から姿を現した。その背後には、巨大な槍を手にしたヴィルヘルムもいる。ベルトランはもがいている彼女に言った。

「動けないだろう? 銀を塗布した上に身体制御術式を組み込んである特別な糸だ」

「その魔族、いや、魔女は発火能力を有している。 気を付けろ。 一定範囲内に近づき、視認されれば焼き殺される」

ウリエルが二人に言った。

「ご忠告ありがとう、大天使様」

ベルトランは右手を上げた。すると身体制御術式が改変され、彼女の身体は地面に崩れ落ちた。目を閉ざされて。ぎりぎりと彼女は歯軋りをしたが、どうにもならなかった。

それを見届けて、コルネーリアの身体もひざまずいた。

「あ、あれ――」

ぼろぼろと悲しくも無いのに泣き出す。理由もないのに涙が流れる。

「あたしは、一体――?」

彼女は我に帰ったものの、訳が分からなくなってしまった。

「間に合って良かった」

ヴィルヘルムが彼女を支え起こした。

「魔女も捕まったし、無事狼男の件も解決した。 コルネーリアが無事で良かったぜ、本当に」

「魔女?」

そして彼女は倒れ伏している魔女を見つけて、青ざめた。

「――ジャン!」

馬鹿、と魔女は内心思った。

己と知り合いであることを自白したようなものだった。

「知り合いなのかい?」

「おい、何で名前を知っていやがる?」

案の定ベルトランらは険しい顔をした。コルネーリアは慌てた。

「ち、違います、でも――彼は悪い魔女じゃない」

「魔女に良いも悪いもあるものか。 全て魔女は焼き尽くさなければならない。 それが異端審問官の役目だ」

「でも――彼は」なおもコルネーリアは食いつこうとしたので、ヴィルヘルムは彼女の肩に手を置いた。

「『彼』じゃない。 確か、魔女は全て『女』だ。 ――いいや特上に悪い女さ、悪魔と通じた。 だから裁きを受けさせなければならないんだぜ」

そして彼は魔女に近づくと、頸部を叩いて気を失わせた。

その身体を軽々と担ぎ上げる。

「行こうぜ、異端裁判所へ」


 異端裁判所は断崖の上に建てられていた。高い尖塔がいくつも連なっているその外見は、まるで悪夢に出てくる悪魔の城のようだった。

その尖塔の一つのてっぺんに、若き魔女は幽閉されていた。

 「アスモデウス、どこにいる」

いつも彼の影に潜んでいる悪魔の気配がせず、魔女は不安げだった。両膝を抱え込んで、部屋の隅に座っている。白い囚人着を着せられているため、暗い部屋の中でその姿はほんのりと浮かび上がっているようだった。

『ここに――いる』

部屋の暗がりからあの声がした。

『だがこの場所は聖別されておるから、どうも居たたまれないな』

「そうか。 ――これから私はどうなる?」

『拷問と異端裁判を受けさせられ――焚刑死刑だ』

「くそッ。 どうにかならないのか!?」

『我が力を以ってしても、お前を脱出させることは不可能だ。 万が一の奇跡が起こらぬ限りは……』

「万が一の奇跡か……」

魔女はかり、とツメを噛んだ。どうすればいいのか、分からなかった。せめて身体に書き込まれた身体制御術式が解除できれば、脱出の望みもあるのだが、これが解除できない限りは能力すら使えない。

『……ジャンヌ、どうしてあの小娘を殺しておかなかったのだ』

ややあって、悪魔は尋ねた。

「……分からない。 見殺しにしたくなかった、それだけだ」

『お前が? 珍しい事もあるものだ』

「コルネーリアが大天使にとり憑かれている所為かもしれない」

『関係ないぞ、それとこれとは。 だが今更嘆いても仕方の無い事ではあるな』

「そうだな」

部屋の中に沈黙が訪れる。

『さて、万が一の奇跡を探してくるとしよう』

「?」

アスモデウスは如何にももっともらしい態度で言った。

『この地方に古くから伝わる伝説を知らぬか? 突然嵐が巻き起こり、あたり一面が暴風に襲われることにまつわる伝説を』

「いや、知らない」

悪魔が密かに笑うのが気配で感じられた。

『我は知っておる。 では――』


 異端審問官に連れられて、彼女は塔を下っていた。審理という名の拷問のために、引き立てられるのだ。

「さっさと歩け!」

髪を掴まれて引きずられる。能力が使えるなら、ただでは済まさないところだったが、今は耐えるしかなかった。

窓の外は折悪しく嵐だった。ごうごうと凄まじく風が吹き荒れている。雨が激しく窓を打ち付けている。拷問部屋に連れ込まれると、そこには見た顔が揃っていた。

ベルトラン、ヴィルヘルム、そしてコルネーリア。

ジャンヌは中央の椅子に座らされた。そして鎖で椅子に固定された。その目の前には水盤がある。聖水の入った水盤だった。

「名前は?」ベルトランが尋ねた。

ジャンヌはふて腐れた表情のまま、答えようとしない。

ベルトランは彼女の髪を掴んで、水盤に顔面を突っ込ませた。

じゅう、と肉が焼ける音がして、ジャンヌは暴れたが、ベルトランは容赦しなかった。

しばらく経ってからジャンヌの顔を上げると、真っ赤に染まっていた。聖水に触れた魔女は、熱湯に触れたのと同じ有様になるのだ。

「名前は?」

「……ジャンヌ」

「お前は魔女か?」

「私は魔女だ」

「今まで能力を行使して何人殺した?」

「覚えていない」

有無を言わせず、ベルトランはジャンヌの顔を水盤に浸けた。

少し経ってから引き上げて、もう一度尋ねた。

「能力を行使して人を殺めたことはあるか?」

「……ある」


 ――一連の光景を目の当たりにしていたコルネーリアは、はた目には哀れを催すほど青ざめてしまっていた。彼女は未熟で、ただの少女で、とても人間が魔族を害する光景を見ていて平然としていられなかったのだ。それを察したヴィルヘルムが、部屋の外に連れ出した。この男は、一見無骨なように見えて、意外に敏い所がある。

「大丈夫か、コルネーリア。 顔が真っ青だぞ?」

「だ、大丈夫です――でも、どうして拷問するんですか!」

ヴィルヘルムは参ったな、と思った。

「相手は魔女だぞ。 普通に問い詰めた所で、自白すると思うか?」

「でも、でも――やりすぎじゃ」がたがたと少女は震えている。

「そんなに辛いなら外してやろうか? ――どうせ焚刑にすることは決まっている、経過は見なくても審理の結末は同じだからな」

ひい、と彼女は息を呑んだ。もう卒倒しそうであった。

「焚刑――焼き殺すんですか!」

「おいおい、養成所で習わなかったか、魔女は焼き殺すものだと」

ヴィルヘルムはいい加減に付き合いきれないと首を左右に振った。

「なあコルネーリア、お前はこの職業に向いていないんじゃないか」

「そんな事は――」無いと言いたいが、しかし、今のままでは。

彼女は黙ってしばらく考えているようだったが、うん、と頷いた。

「あたしもやります。 いえ、やらせて下さい」

「――本当に大丈夫なのか?」

途中で失神するんじゃないだろうか、ぶっ倒れるんじゃないだろうか、あるいは気を病むのでは。ヴィルヘルムは心の底から心配した。けれどコルネーリアはきっぱりと言った。

「大丈夫です。 あたしも異端審問官の端くれですから」


 だが、彼女は実はとんでもない事を考えていた。

自分から積極的に関わるように見せかけて、隙を見てジャンヌを逃がそう、と。


 その時は案外早くやって来た。魔女が捕らわれてちょうど二週間たった時だった。毎日のように拷問を受け、すっかり魔女は痩せ細っていた。明日焚刑に処されるという事は決定していたが、その前に衰弱して死んでしまうのではないかと思われた。拷問は勿論、待遇も酷いものだったのだ。

「アスモデウス、いるか」

その日も散々に鞭打たれた魔女は、牢に鍵がかけられた途端に、悪魔の名前を呼んだ。身体が衰弱しきっていて、もう動けなかった。

『おう、いるとも。 今日もまたむごくやられたな』

細い背中には、縦横に鞭の痕が残っていた。血が滲んでいる。肉も所々で裂けていた。牢屋の隅で闇が凝り固まると、人型に変わる。スマートな青年の姿を取った悪魔はジャンヌの囚人着をそっと脱がすと、傷をべろりと舐めた。舐める所から傷が癒えていく。背中を舐め終わると、悪魔は闇に戻った。

「つぅ……」

いよいよ明日が最後の日かと思うと、彼女はぞっとした。死にたくない。何が何でも死にたくはない。何とかして生き残らないと。

しばらく彼女は床に寝そべっていたが、膝を抱えて丸まった。

「アスモデウス、私は死にたくない」

『我もお前を殺したくない。 ――万が一の奇跡を信じろ』

「信じて、裏切られたらどうする」

『……我がお前を裏切るはずがないのだ』

「口だけなら、何とでも言える」

 その時、扉が開く音がした。ジャンヌはぎょっとした。

「ジャンヌ、起きている?」

コルネーリアが顔を出した。

「……何の用だ」

顔を上げて、ジャンヌはコルネーリアを睨みつけた。

拷問された恨みつらみなら、この二週間で山ほど積もっている。

「歩けるなら付いて来て。 さあ、早く」

牢の鍵を開けて、コルネーリアは手招きした。

「何だ、処刑なら明日の朝でも遅くは無いはずだ」

「違うわ。 いいから付いて来て」

コルネーリアは、異論は聞かないとばかりに、さっさと歩き出した。仕方なくジャンヌはその後に必死に付いて行った。

塔の長い螺旋階段を下る。その途中で、ジャンヌは不意に足を止めた。

「コルネーリア」

「何? 時間が無いの、急いでちょうだい」

「何が目的だ」

振り返らずにコルネーリアは答えた。たん、たんとリズムよく階段を下っていく。

「言いたくなんか無いけど、あえて言うなら恩返しかしら」

「……あれだけ虐げておいてか」

窓辺に寄りかかり、ジャンヌは吐き捨てた。

「あれは騙しよ、騙し。 フェイクよ。 あたしがそうでもしなきゃ、周りが納得しなかったの。 とてもじゃないけれど、引っかからなかったの」

「――お前など信じられない」

「分かっている。 それで上等よ」

ふう、とコルネーリアはため息をつく。……と、手で頭を押さえた。

「あれ、頭が――!」

ぼうっとする……?

コルネーリアの異常に気付いたのはジャンヌの方が早かった。

「どうした――!?」

コルネーリアは無言で拳銃を引き抜いた。冷徹な眼差しはコルネーリアのそれではない。

「お前を我が逃がすとでも思うたか!」

『ウリエルめ、この時によくもまあ現臨しおって!』

アスモデウスが忌々しそうに囁いた。

『ヤツめ、自らの手で処分するつもりぞ』

「くッ――!」

逃げようにも銃弾の方が速い。それに身体が弱った上に能力が使えない今の有様では、応戦することも出来ない。圧倒的に不利だった。

この状況下ではどこにもジャンヌの勝機も生き延びる方法も無かった。

その時だった。アスモデウスが急に黙り込んだかと思うと、

『今だ! そこの窓から飛び降りろ!』

と叫んだのだ。

「な――?」ウリエル・コルネーリアが戸惑った。

飛び降りたところで、地面に叩きつけられてお終いだ。

「分かった!」

しかし、ジャンヌは渾身の力を振り絞り、窓を破って飛び出した。ひらりと白い囚人着が宙ではためいた。

「何!? ――馬鹿な!」

ウリエル・コルネーリアは窓に駆け寄ったが、外は大嵐で、ジャンヌの姿は忽然と消えてしまっていた。

びゅうびゅうと風と雨が破れた窓から吹き込んできていた。雷が遠くで鳴っていた。まるで地獄の悲鳴のように。


【ACT三】 彷徨える男


 「母さん」

……記憶の中の母親は、いつも穏やかな微笑を浮かべている。

「なぁに? どうしたの?」

これは夢だと分かっていた。だが良い夢だった。醒めてほしくない。

「悪い夢を見ていたんだ」

悪い夢のような現実を忘却の彼方に押しやって、彼女は母親にしがみ付いた。温かい。これが現実なら、どれだけいいだろうか。どれだけ現実になれと望んだだろうか。辛い現実は、分かってはいる。だがしばらくこの温もりに溺れていたい。包まれていたい。

「そう。 悪い夢はお忘れなさい」

慰めるように、母親は、彼女の細い体をかき抱く。

「うん――」

心地よいまどろみが襲ってくる。彼女は夢の中で、また眠った。それは揺りかごの中の記憶のように、安らかで穏やかなものだった。


 ――目が覚めた。夢の続きを見ているような、曖昧な感覚の中を彼女はぼんやりと天井を見つめた。ランプが光りつつ、わずかに揺れている。

身体を起こす。何も着ていなかった。ベッドのシーツにくるまって狭い部屋を出る。狭い廊下を進んでいくと、扉が見えた。静かに押すと、それは軽く軋みながら開いた。

船だった。巨大な船の甲板に彼女は立っていた。周囲は暗い雲に覆われている。

「アスモデウス……?」

ワケが分からなくなって、悪魔を呼ぶ。

『これが我の言った、万が一の奇跡だ――嵐を招き永久に彷徨う天翔ける船。 どうだ、中々凄まじいだろう?』彼女の影からいつもの声が響いた。

「……誰もいないのか?」

甲板を歩く。まるで幽霊船のように古びていて、誰もいないようだった。

――否。

「!」

船体の隅にうずくまる影を見つけて、彼女は足を止めた。

男だ。ぼろぼろの衣服を身にまとい、あらぬ方向を見つめている。

「……おい」

ジャンヌは声をかけた。

びくり、と男は震えた。そしておずおずと立ち上がる。背が高いので、ジャンヌが見下ろされる形になった。

「お前は誰だ?」

「――」

口を開いてもごもごしたが、声が出ない様子だった。

「喋れないのか」

頷く。そしてまじまじとジャンヌを見つめた。まるで信じられないものを見るかのようだった。やがて笑みを浮かべる。

「――!」

そして、いきなり、ジャンヌに抱きついてきた。

「わッ!」

反射的にジャンヌは男を組み伏せていた。だが男はもがこうともせず、笑顔のままだった。心から嬉しいと言いたげに。

「……何だ、気味の悪い」

普通、組み伏せられれば抵抗しようとするのに、ただただ嬉しがっている?

『軽く数百年以上もの間、人にうておらぬからの。 話し方を忘れてしまったのだろう。 お前に出会えて、余程嬉しかったようだ』アスモデウスが言った。

「数百年以上――?」

『もはや伝説よ』アスモデウスは昔を思い出したのか、酷くしみじみとした様子だった。『かつて機械仕掛けの神ヤルダバオトを呪ったがために、未来永劫に空を彷徨うことを定められた男のな』

「! 聞いたことがある。 確か彷徨えるオランダ人フライング・ダッチマンという――」

嵐を招く船に乗り、永久に彷徨う宿命の男の伝説を。

『そう、それだ』

「じゃあ、この男は、何百年も、たった一人で――」

その間に気が狂ってもおかしくないだろうに、それほどの長い年月を孤独のうちに過ごしてきたのだ。

「おい」とジャンヌは彼を解放して、声をかけた。「何か書くものは無いか?」

ある、と男は頷いてみせた。持ってこようか、と素振りで伝える。

「頼む」

しばらくして男は羽根ペンと羊皮紙とインクを持ってきた。ジャンヌはそれを借りて文字を書いた。筆談をしようというのだ。

『お前の名前は?』

男はこうやって誰かと意思疎通が出来る事に感嘆したようで、しばし文字を見つめていたが、

『忘れた』と古典様式の文字で書いた。

『じゃあお前は誰だ?』

『それも忘れてしまった。 他に誰もいなかったから、誰でも良かった』

『お前はどうしてただ一人船に乗り、彷徨っているのだ?』

男は黙した。ややあって、

『機械仕掛けの神を裏切り、呪われたからだ』

震える文字でそう書いた。一瞬、奇妙な沈黙が辺りを支配する。

それを破ったのはジャンヌだった。さらさらと羊皮紙に書く。

『そうか。 今まで大変だったな。 これからどうしたい?』

『何も――無い。 何をしたいとも思わない』

『しばらく船に乗せてもらえないか』

ほっとしたように男は頷いた。

『構わない。 好きなようにしていい。 どうせ我輩だけしかいなかったのだから』

『助かる』

ジャンヌは『ところで』と書いた。

『何か着るものは無いか?』


 今までの生活と比べると、不気味なくらいに安穏としていた。異端審問官に追われることも、周囲の目を気にする必要も無く、好き勝手に振るまえた。

ジャンヌは怪我のリハビリと暇つぶしを兼ねて船内を散策した。そして知ったのだが、この船は見た目が古いだけで、その船中には何でもあった。大量の書物が詰め込まれた書庫、食料に溢れたキッチン、衣類も沢山備えられていた。しかし男はそのどれにも手を付けようとしないで、大体甲板の上で、ぼうっとどこかに視線を彷徨わせていることが多かった。あるいは所在無さげにふらふらと船内を歩いていた。

ばったりと書庫の前で出くわしたとき、それでジャンヌは大して驚かなかった。

「本を読むのか?」

この数日で声を取り戻した男は、彼女にそう尋ねた。やけに古臭い話し方ではあったが。

「ああ。 そちらは例のごとく彷徨っているのか?」

やや皮肉そうに彼は答える。

「永久に、だ」

「そうか。 大変だな」

それが彼女の示せる精一杯の共感だった。

「ところで――『三人の魔女』について知らないか?」

彼はしばらく考えた後、

「ヴァルプルギス・ヘカーテ・ルーナのことだな」

予想外の返事にジャンヌは驚いた。

「知っているのか!?」

「名前だけだがな」

「どうして知っているのだ?」

ありとあらゆる闇の住人、魔族に尋ねてきた。三人の魔女を知らないか、と。だが今まで誰も知っていると答えなかったのだ。名前さえも。

「私もあの残酷な神に愚かにも刃向かった存在だからだ」

「は?」ジャンヌは首をかしげた。

「いや、長くなるから止そう」彼は手を左右に振った。「だがどうしてお前は三人の魔女を追い求めるのだ?」

「人間に戻りたいからだ。 そして、魔女が魔女である理由を知りたい」

彼女はためらいなく言った。

はっとしたように彼はジャンヌを見つめた。だが次第に笑みを浮かべる。いやらしい笑みだった。まるで彼女の痴愚を嗤うような。

「人間では無い者は、決して人間にはなれぬのだ。 知っているか? 機械仕掛けの神はそのようにして人間と人外を――魔族を創ったのだ」

「分かっている。 だが諦めきれないんだ」

「諦めた方が楽になれるぞ、我輩のように」

ジャンヌはふんと鼻で笑った。嗤われたのを、小馬鹿にして。

「諦めたからその様になったのか。 さぞ気楽だろう。 惨めなものだな」

「何だと――」

気色ばむ彼に、ジャンヌは断言した。

「諦めたら人間らしささえ無くしてしまう」

「人間らしい事に何の価値があるのだ!」彼は思わず吼えた。

「この世界の日の当たるところで生きられる」

今や魔族は人間につぶてで以って光の中から追われ、闇の中でしか生きられない。ジャンヌはそれを身に染みて知っていた。

「太陽が恋しいのか」彼は吐き捨てた。「真夏には照り返しで焼き焦がし、雲がある時にはろくに役立たずのあんなもの、下らないではないか」

「恋しい。 お前だって本当は恋しい癖に」

「――」

男は黙った。身体を翻して、のそのそと去っていく。ジャンヌは何故か敗北感を感じた。本当ならば、誰だって日の当たるぬくぬくとした場所が恋しいだろう。それを責めるのは、少し間違っているのかも知れない。

 だがそれ以上は彼女は特に気にもせず、書庫の中へ入った。本をあさる。適当な一冊を手にすると、読み始めた。

『新・世界歴史大典――これは偉大なる大バシレイオスの編纂した歴史書の注釈書の一冊である。 彼がこのアテナイを去って、早くも数十年が過ぎた。 尊厳者たる第一人者ネルヴァ皇帝の統治によりローマ帝国は今日も平和と安寧を謳歌している。 この平和を物語る、有名な逸話エピソードがある。 大バシレイオスの高弟の一人にパトリキウスと言う男がいる。 この男は大バシレイオスの跡を継ぐに相応しい、素晴らしい歴史学者であった。 だが、彼はネルヴァ帝の治世について、今まで筆ではかくのごとくしか語っていない。 「人類の理想とされる時代」、と。 別にネルヴァ帝を批判するのを恐れた、と言う訳では無いのだ。 彼は決して権力に対して屈する男では無いからである。 彼にこれしか語らせなかったほど、今は平和であり、そして素晴らしい時代なのだと私は考えている。 現にこの本をしたためている私自身、昨日落とした財布が中身も何もそのまま、今日の朝に届けてもらえたのだ。 ネルヴァ帝の後継者も決まり、ニケ守護神の後継ぎも決まり、今の私達の懸念と言えば、「こんなに平和すぎて良いのだろうか」と言う贅沢なものである。 イスラエルの民もネルヴァ帝の絶妙な統治により、今は大人しい。 いや、ネルヴァ帝の寛容な、宗教税の納税者に対する態度と、逆にローマの偉大さを思い知らせる厳格さには、誰であろうと彼には大人しく従った方が幸せだ、とすぐに思い知らされるのであろう。 ネルヴァ帝には、ただ、弱点がある。 彼には軍人としての致命的な欠点があったのだ。 戦争を行うだけの体力が無い、と言う。 しかしこれは、彼の右腕にして後継者のトライアヌスが補っている。 実際の軍事行動を取る際には、彼がネルヴァ帝の命を受けて代行すれば何ら問題は無いのである。 そして、トライアヌスがネルヴァ帝へ謀反を企てる、と言う事もまず無いであろう。 何故なら彼のネルヴァ帝への心酔ぶりは巷で噂になっており、その内容と来たら、誰にも呆れられるほどなのだ。 ネルヴァ帝の気高い人格もそうさせるのであるが、トライアヌスはどうやらネルヴァ帝が己の父親だと勘違いをしているのだ。 ネルヴァ帝が一度、熱病に苦しめられ、命をも脅かされた時があった。 その時にトライアヌスは衣を引き裂いて大地に伏して泣き叫び(最前線で軍を指揮し、戦った事が何度もある男で、彼ほど有能かつ勇敢な軍人はこのローマにも二人といない)、何も食べず飲まず、ついには元老院議員の誰もが気の毒だと思うほどに憔悴したのである。 万が一にもネルヴァ帝に殉死しないようにと元老院議員が総出で説得に当たったほどであった。 この手のトライアヌスの逸話は羽根ペンがすり切れても書き切れないだろう。 トライアヌスの妻が産褥で苦しんでいたのにそれを知らぬネルヴァ帝の呼び出しに大喜びで馳せ参じ、事情を知ったネルヴァ帝が慌てて帰させた事もあるくらいである。 魔族も人も、同じ大地の上で日の光を浴び、月の元で飲食を共にし、花を見ては名高い詩人の詩句を思い出して謳う。 全く、私にはパトリキウスの気持ちが馬鹿馬鹿しいくらいに分かる。 何しろ今の時代と来たら、悲しみはあっても立ち上がる勇気を与えられ、苦しみはあっても絶望は無く、痛みはあっても実りもあるからだ。 パトリキウスも私も、歴史家にとっては何も書けないこの時代を生きられる事を、運命の女神に感謝せねばならない』


 男に変化が見え始めたのは、早くもその次の日だった。

伸びに伸びた髪とヒゲをばっさりと切って剃ったのだ。そうすると多少は見た目がマシになった。風呂にも入るようになった。

ある日、ジャンヌが湯船に浸かっていると、がらりと扉が開いて男が姿を現した。ジャンヌの姿を見とめて、驚いたように目を見張る。

「す――すまない」

「別に」

ジャンヌは湯船から立ち上がった。その裸身に、彼は目が吸い寄せられる。

傷痕。惨たらしいそれが、身体を網の目のように覆っている。

「!」

「今までの旅の結果だ」

ジャンヌは無感情な声で言った。

「そ、そこまでして人間に戻りたいのか?」

信じられないような口調で、彼は呟いた。信じられなかった。訳のわからないもののために、どうしてそこまで一途になれるのか。

「戻りたい」淀みない声でジャンヌは言った。「戻りたいんだ」

「――」

何も言えない彼の隣をすり抜けて、ジャンヌは浴室の外に出た。


 「我輩にも協力させてくれ」

男――F・ダッチマンがそう申し出たのは、それから数日たった日のことだった。ジャンヌは片眉を上げると、

「信用ならない」

冷たい声で言った。いくら今まで何もされていないとはいえ、信じられるはずが無いのだった。これから何をされないと言う保証はどこにも無いのだから。

「!」

「何が目当てだ」

それ相応の見返りが無ければ、人は何もしないということを彼女は知っている。

「そ――それは」彼は言いよどむ。「別に――無い」

「別に、何だ。 私の体か?」

「――」黙ってしまう。「違う」かろうじて、それだけ男は言った。

「ともかくお前は信用できない。 勝手にしろ」

「分かった――」

悲しそうに彼は言った。

だが納得はしているようで、彼はそれからもジャンヌの好き勝手にさせておいた。

 『さて、いつ船を降りる?』

アスモデウスが訊ねた。ジャンヌは寝台に横たわっていたが、目を開ける。美しい青年が、彼女を覗き込んでいた。

「出来れば明日にでも降りたい。 早く三人の魔女を探さねば」

身体に組み込まれた身体制御術式も解けた。もうここに居る理由は無い。

『だが――あの男が納得するかどうかだな』

「脅してでも降ろさせる」

毛布をかぶり、ジャンヌは寝返りを打つ。

『脅しに屈する男だとは思えんぞ。 素直に頼むのが一番だ』

「苦手だな――」ジャンヌは舌打ちした。そして眠った。


 ……ジャンヌは、裕福な貴族の一人娘として生まれた。

だが、平和な生活が続いたのは、母親が魔女である事を隠していた間だけだった。それが発覚した途端に、母親を異端審問官に売り渡して、父親は出世した。魔女の娘である彼女も危うく掴まりそうになったが、彼女は辛うじて森に逃げ込んだ。

許せない、許さないとの壮絶な恨みと、自分も命からがら逃げ出すのが精一杯だったという不甲斐なさと共に、彼女は森をさすらい、死にかけた。その時に魔族の一種、魔女の能力が開花したのだった。そして、彼女は助かりたいがために、悪魔を無意識のうちに呼び出した。

 『我は悪魔、名はアスモデウス。 汝の心の叫びを聞いて参上した』

「心の、叫び――」

衰弱して死にかけていた少女は、弱々しい声で呟いた。おぼろな視線の先には、美青年がかしずいている。

『汝は死にたくないのであろう? 我と契約すれば、生きながらえさせてやろうぞ』

その誘惑は、幼く、全てに裏切られた少女にとっては、十分すぎるほど魅力的で抗えないものだった。ただ死にたくないだけの少女にとって、抗えるはずが無かった。

「――死にたく、ない」

『ならば話は早い』

彼女らは、契約をした。

そこで知らされたのが、『三人の魔女』という存在だった。

『我も名しか知らぬが、全ての魔女の始祖であるらしい。 何故魔女が魔女であるのかも、きっと知っているだろう』

「どうして私が魔女なのか、理由を教えてくれるって事――? どうしたら人間に戻れるかも?」

何も無かった彼女にとって、それは前に示されたただ一つの道だった。

『そうだ。 ――求めるがいい、さらば道は開かれるだろう』

「うん――必ず、見つけてやる!」

呪詛と怨恨の間を彷徨っていた彼女は、必ず見つけてやると決意したのだった。それは一途な、誰にも止められない思いだった。


 「船を降ろしてもらいたい」

次の日、ジャンヌは早速頼み込んだ。F・ダッチマンは驚いたようだったが、分かったと頷いた。ただ、それから、こう言った。

「いつ、戻ってきてくれる――?」

今度はジャンヌが驚く番だった。またここに戻るなどという選択肢は、全然考えてもいなかったのだ。

「戻るつもりはない」

「では降ろさない」彼は声を荒げて言い張った。「戻ると約束してくれるまでは、絶対に降ろすつもりはない」

「交渉は決裂のようだな――」

冷たい声で言うと、ジャンヌはサーベルに手をかけた。

「ふん」

だが、それを見て彼は笑った。笑ったが、虚しさの漂う笑みであった。

「そんなもので、この我輩が倒せるものか」

「何だと――」

ジャンヌの双眼が、赤く輝いた。

「我輩は死ねないのだ」自嘲するかのように、彼は言った。「この船にいる限り」

「黙れ!」

F・ダッチマンが猛炎に包まれて倒れる。――だが、炎に包まれたまま、彼は起き上がった。ぶすぶすと肉が焼け焦げる音と臭いが辺りに充満する中、彼は――何故か、生きていた。

『ジャンヌの炎は十字架をも焼き焦がす威力だと言うのに』アスモデウスが呟いた。『不死の伝説は真であったか――』

「我輩は、船から降りない限り、死にはしない。 死ねないのだ」

次第に炎が消えていく中、彼はそう言った。ジャンヌの腕を掴み、ぐっと顔を近づける。ジャンヌはもがいてサーベルを突き刺したが、凄い力だったため、徒労に終わる。ごぶ、と血を吐きながら男は言った。

「約束してくれ、必ず戻ると。 そうすれば降ろしてやる」

凄い目つきをしていた。必死なのが丸見えだった。血走ってさえいた。ジャンヌと別れたくない一心なのだった。

「くッ――!」

『ジャンヌ、一まずここは約束するべきだ』アスモデウスが言う。『船を降りることが先決だ。 それに、天翔ける船はあっても邪魔なものではないだろう?』

「……分かった」

ジャンヌは、渋々と言った感じで頷いた。

ぱっと喜色をF・ダッチマンは浮かべた。火傷でただれた顔なので、凄まじい形相ではあったが。


 「君がした事は重大な過失だ」

ベルトランは苛々しつつ叱責した。まったくとんでもない事態だった。

「異端審問官が魔族を脱走させたなど――前例が無い!」

机に拳を叩きつける。彼と対面する少女がびくりと震えた。目を閉じてじっとこの状況に耐えている。

「コルネーリア!」

少女は答えない。答えようが無いのだろう。ベルトランの信頼を裏切った事に。異端審問官として失格であるという事実に。

しかも彼女はこれを自分の口で言ったのだ。ベルトランは鋭く言った。

「君は処罰されるだろう。 その前に聞きたい。 何故助けた?」

「どんな処分でも受けます。 でも理由は言えません」

「そうか。 じゃあ君には訊くまい――ウリエル!」

少女は目をかっと開いた。何ら怯えていない、傲岸不遜な眼差しだった。

「我に何の用だ」

「どうして彼女は逃がそうとした?」

「魔族のゴミがこの馬鹿娘に絡んだのよ。 ゴミゆえ我は出なかったが、そこを魔女が救ったのだ。 それに恩義を感じておったらしい」

何て事だ。ベルトランは頭を抱えた。

「お前が出ていれば良かったものを――」

思わず呻く。呻きたくもなる。この大失態の根本的原因はそれなのだから。

「この小娘一人がどうなろうと我の知った事か」

ベルトランはしばらく黙した後、こう尋ねた。

「お前は一体何を望むんだ?」

「ふん、ただ我らが神のために! 全ては我らが唯一絶対神のために! ――邪魔者は全て絶滅するだけよ」

「上等な理由じゃないか。 だが肝心な、足元の彼女の事を抜かしている」

憑かれた側のことを何も考えていない。本当に、戦うこと、滅ぼすことにしか興味が無いようだった。

「ふん」ウリエルは小ばかにして笑った。「愚痴はいいからとっとと例の魔女の死体を持って来い。 あの高さから飛び降りたのだ、原型を留めておるのかすら分からんがな」

「……」

塔の上部から飛び降りたとは言え、身体制御術式――その中でも強力な拘束制御術式を組み込まれた魔女は飛べるはずがないので、下で死体が見つかるはずだった。だがどこをどう探しても見つからなかったのだ。風に飛ばされたのかもと谷の方まで探したのだが、それでもぷつりと魔女の痕跡は途絶えていた。

「言えないという事は、まだ見つからぬということか。 ふん、無能者共め」

「死体が見つからないという事は、生きているかもしれないという事だ。 死んでいればいいが……」

その確固たる証拠が欲しいのに、それが一向に見つからないのだ。

「死んでいるに決まっておるわ」

ウリエルは笑った。正体は大天使だというのに、どこか邪悪さをたたえた笑みだった。

 「死んでおらずとも、必ず我が殺してみせよう」


 喰らってやった。自分を馬鹿にした親方も、いつも虐めてきた兄弟子も、みんなみんな喰らってやった。生きながら、助けてくれと哀願するヤツらを、みんなみんな頭から丸かじりにしてやった。力はまばゆい!能力は素晴らしい!覚醒した能力の前では、人間などゴミ屑に過ぎないのだ。

ざまあ見ろ。

狼人間は裏路地を疾走していた。誰よりも速く。彼を追跡する異端審問官でさえ、追いつくのは不可能のはずだ。

だが、人影が彼の前に姿を現す。細身の人影だった。彼の体当たりの一撃で、軽く吹っ飛んで行ってしまいそうな。

「三人の魔女について知らないか――?」人影は、そう訊ねた。

『何だ、それは』

「じゃあ死ね」

人影はサーベルを抜いた。そんなものでは、彼の分厚い毛皮を貫き通すことは出来やしない。彼は突進して、人影をなぎ払おうとした時だった。人影の双眸が赤く輝いた。彼は不意に身体に熱を感じた。

『ウグ?!』

火の気も無いのに、身体が、燃え上がった。彼は大咆哮を上げて暴れた。だが火は盛んになる一方で、とうとう、どう、と横倒しになる。

「やったか――」

人影――ジャンヌが呟いた時だった。

「やあ、今晩は」

爽やかな声が、どこかから、した。

「!?」咄嗟に辺りを見回すと、すぐ背後にマントをまとった見知らぬ人影が突っ立っていた。

どうして気が付かなかった!?ジャンヌはサーベルで斬りつけるが、かわされる。

「待った! 僕は君の敵じゃあない!」と人影は面食らったように叫ぶ。

「信じられるか」

彼女の双眸が、赤く輝いた時だった。異端審問官が駆けつけてきたのは。

「魔族はどこだ!」

「足跡を追え!」

「!」

彼女がそちらに気を取られた瞬間、ばさりとマントが翻り、彼女は人影にマントにくるまれるかのように抱きしめられていた。そしてピキピキパシンと背後で何かが凍る音がして――爆発する。

「ッ!」

ジャンヌが驚いて振り返ると、狼人間の死体が消えていた。

「これは――何事だ!」

「足跡が消えているぞ!?」

駆けつけた異端審問官が怒鳴った。

「別に何も無いよ。 君達こそ一体何だね、人の逢瀬の邪魔をして」

ジャンヌを抱きしめる人影が言う。若い、端整な顔立ちの青年だった。異国情緒が漂う顔だった。この辺りでは見かけた事のない、珍しい褐色の肌をしていた。

「貴様は誰だ!」

すっ――と青年は身分証を掲げた。

それを目にした異端審問官が絶句する。

「て、『帝国セントラル』の大使だと――!?」

異端審問官達がどよめいた。遥か遠方に、広大な領地を支配する帝国は、圧倒的な軍事力と政治力を持つ、超巨大勢力だ。いくら教国の異端審問官と言えど、そこの大使には手出しできない。下手に機嫌を損ねて教国相手に戦争でも起こされたら、一たまりもないからだ。

「し、失礼いたしました!」

慌てて我先に異端審問官達が立ち去っていく。

それを見てから、ジャンヌは彼を突き飛ばした。

「お前は一体誰なんだ!」

取りあえず敵ではないようだが――依然として正体不明だった。

「僕はアリー」

青年は、道端の花を指差した。ピキピキパシン――とそれが凍る。指を一振りすると、爆発して、消え去った。ジャンヌは目を見張る。

「『霜の妖精フロスト』だ」

 同じ宿に泊まって、彼らは話し合った。

「帝国というのは、一体何なんだ?」

ジャンヌは訊ねた。聞きたいことは沢山あった。

「女帝陛下が支配する国。 僕らの故郷さ」

アリーはワイングラスを片手にそう言った。

「女帝陛下?」

「僕らの、そして全ての支配者だ。 素晴らしいお方だよ」

そうか、とジャンヌは頷いて、

「さっきはどうして助けた?」

「可愛い子が危機に瀕していたら助けるのが男というものじゃないかな?」さらりとアリーは言った。飲んではいたが、酔ってはいなかった。「それに、同族を見捨てるだなんて出来ないしね」

「同族? 私とお前が?」

そうだよ、と彼は言った。

「力は見せただろう? ――帝国では、力を使える僕達魔族が貴族として平民である人間や領地を統治している」

「……信じられない」

知らなかった。そういう世界があるということを。全くの初耳だった。この狭い、魔族は人間に迫害されるだけの世界しかないと、信じ込んでいた。

「無理に信じなくてもいい。 でもあるんだ、事実として」

「――」

ジャンヌは少し黙って、それから訊ねた。

「三人の魔女について知らないか――?」

アリーは不思議そうな顔をする。

「? 何だい、それは」

「……何でもない」

 宿の寝台に転がると、アスモデウスを呼ぶ。

「アスモデウス」

『おう』

声だけが聞こえる。

「ヤツの言ったことは真実ほんとうか――?」

『真実だ。 帝国は、ある』悪魔は断言した。『お前もあそこでなら安穏と暮らせるだろう。 行きたいか?』

「……ヤツは、三人の魔女について知らなかった。 という事は、向こうにはいないということだ」

『なるほどな。 だが知っていて言わぬ可能性もある、気を付けるのだ』

「ああ」頷く。「分かっている。 ヤツの目的が何なのかすら、分からないのだから」

『それは、我が探ってみよう』

アスモデウスが言い出した。

「頼む」


 城の機密情報を探る。軍事情報だ。どこの城に、街に、どれだけの軍勢があるのか。兵器の数はいくつか。優れた将軍はいるか。

あらかた調べつくすと、城を出た。

途端に不審な気配を感じて、彼は立ち止まった。

「誰だ?」

――だが、何も言わずに気配は消えた。

「!」

まずい。相手が誰で目的が何にせよ、見られたのだ。急いで故郷に戻らねば!

 「名残惜しいけれど、君とはここで別れなきゃだ」

翌朝、アリーは突然別れを切り出した。

「どうしてだ?」ジャンヌは訊ねた。

「急きょ帰還命令が下ってね――」と、うそぶく。

「軍事機密情報を探っていたのがバレたからか?」

ジャンヌの発言に、ぎッとアリーは形相を変えた。凄まじい形相だった。

「あれは、お前だったのか!」

彼女の周囲の空気の温度が、一気に低下する。

「待て」

だが、ジャンヌは平然としていた。

「私はお前の敵じゃない」

「では何だと――?」

好青年の面影をかなぐり捨てて、アリーは鋭い口調で問い詰める。

教国ヴァチカンは、私の敵でもある。 だが帝国はそうじゃない」

なるほど。アリーは納得した。敵の敵は、取りあえず味方ということだ。

「よろしく、な――」

アリーは右手を差し出した。不思議そうな顔で、それをジャンヌは見つめる。

「同盟の握手をしようじゃないか」

「ああ」

戸惑いがちに差し出された右手が、しっかりとアリーの右手に握られた。


 必ず帰ってくると約束した。だが、戻ってきてくれなかったらどうしよう。止まった船の中で、一人F・ダッチマンは懊悩した。

会いたい。会いたくて気が狂いそうだった。長年彷徨っていたが、こんな思いは初めてだった。初めての感情に、彼は戸惑いつつも泣いた。涙が止まらなかった。何故泣くのかさえ分からないままに。

ひとしきり泣いた後、彼は虚脱感に襲われてしばらくぼうっとしていた。ぎしり、と船から降ろしていた縄梯子が軋んだのはその時だった。

「!」

やがて、人影が頭を覗かせる。ジャンヌだった。たまらずに、駆け寄る。

「本当に、帰ってきてくれたのか!」

「ああ。 少しやつれたようだが、大丈夫か」

そう言いつつ、軽やかに彼女は甲板に上がった。

「そ、そうか?」

そう言えば、戻ってきてくれるのか心配で、何も喉を通らなかった。食べなくても死ぬことは無いが、憔悴したのだろう。

「ともかく、戻ってきてくれてありがとう」

「別に――」ジャンヌは首を振る。

ぎしり、と縄梯子がまた軋む音に、F・ダッチマンは目を見張る。

「誰だ!」

次にのそりと姿を現したのは、褐色の肌をした、好青年だった。

「こんにちは」

優雅に、挨拶をする。殴られたような衝撃が走り、F・ダッチマンは目をただぱちぱちとさせた。そんな彼にも構わず、ジャンヌは言った。

「紹介する、船長のF・ダッチマン、帝国貴族のアリーだ」

「よろしく!」そしてアリーは辺りを見回して、感嘆の声を上げた。「凄いじゃないか、先代文明ロスト・タイム遺物レリックか、これ全てが!」

「――!」これはF・ダッチマンには、想像だにしていなかったことだった。「……どうしてだ、ジャンヌ」

どうして、どうして、彼を連れてきたのだ。邪魔者を何故受け入れたのだ!

「味方だからだ」あっさりとジャンヌは言った。

 F・ダッチマンの心に、どうしようもない絶望が芽生えたのは、この時だった。そしてそれは彼の表の意志とは裏腹にすくすくと成長し、鮮やかな色彩の花を咲かせてしまう。


 「君は、見返りに何が欲しい?」

寝台の縁に腰掛けて、アリーは突然訊ねた。その寝台に寝そべっていたジャンヌはしばらく考えて、

「別に、何も――」

そう言わずに、と彼はジャンヌの手を取った。

「僕が軍事スパイであることを黙っていてくれるんだ、帝国での市民権はどうだい?」

「要らない」

「持っていても邪魔にはならないだろう?」

彼は、その手に小さな札を握らせた。

「何のつもりだ?」

アリーは微笑を浮かべてみせる。

「君は本当に美しい」

口説き文句だった。

だが、そんなものはジャンヌにとっては無意味である。魚を溺死させるようなものである。

「うるさい」

ジャンヌは面倒くさそうに手を振り払って言った。

まあまあ、とアリーは笑ったまま、不意に扉のほうを見て言った。

「盗み聞きとはいい趣味じゃないか?」

ややあって、F・ダッチマンが扉を開ける。真っ青な顔色をしていた。

「どうしたんだ?」ジャンヌが身を起こす。

「いや――別に」震える声で、そう言う。

「顔が青いぞ?」ジャンヌは怪訝そうに言った。

何でもない、とF・ダッチマンは扉を閉めた。

「それにしても」とアリーは話題を変えた。「この船は素晴らしいね」

「そうか?」

「先代文明の遺物だなんて、滅多に無いものだよ」

「先代文明――」ジャンヌは繰り返す。「それは何だ」

「かつてこの世界を支配していた文明の事だ。 詳しくは僕も知らないけれど、とてつもない技術力を誇っていたらしい。 この船は、おそらくその残骸だ」

「そうか――」興味なさげにジャンヌは頷いた。だがそれにアリーは気付かず、続けて言った。

「帝国にも遺物の残骸はいくつかあるけれど、ここまで完全な姿で残っているものはそうそう無いよ。 大体は断片だ」

「F・ダッチマンは、死ねないそうだ」ジャンヌは言った。「それも、先代文明とやらの所為か?」

「不死?」アリーは小ばかにしたような表情を浮かべる。「そんなものは、この世にあり得ないよ。 ……この世の造物主たる機械仕掛けの神ヤルダバオトですら死んだんだ。 誰もが、いずれは、死ぬ」

「そうか」ジャンヌはさらりと流した。


 その後、船中で行きかう時、F・ダッチマンは思い切りアリーをにらみ付けた。

「? ――ああ」いきなりで戸惑ったものの、その意味にアリーはすぐに気が付く。「貴方も彼女の事を好いているのですか」

「――お前は、一体何をしたいのだ」

「彼女を連れて帝国に戻りたい」あっさりと彼は言った。

「何だとう!?」

F・ダッチマンは怒りのために青ざめた。

「貴方の望みを当てて差し上げましょう――彼女を永久にこの船に乗せておきたい」アリーはいきなり、ぞんざいな口調に変わった。「――お前はそうなんだろう、ええ? 身の程知らずのF・ダッチマン? この船の上でお前は彼女と二人きりでいたいんだろう? 未来永劫、彼女の独占を望んでいるんだろう?」

「……彼女は、そんな事など望みはしない!」F・ダッチマンは歯軋りした。

「それはお前にも言えることだ、違うか?」アリーの声は、嗤っている。

「貴様!」

激昂したF・ダッチマンはアリーに掴みかかった。だが、その腕が凍りつく。腕を押さえて、F・ダッチマンはその場にうずくまった。アリーは冷ややかに、

「いくら不死とやらであるにしろ、凍らせれば動けない、そうだろう?」

「くッ――!」

 その時だった。

「何をしている?」

ジャンヌが、通路の向こうから不審そうな顔つきで二人を見つめていた。

「喧嘩か? なら甲板でしろ」

アリーが身体を翻す。優雅に一礼すると、ジャンヌの側をすれ違う。

「ええ、もう終わりました」

「そうか」ジャンヌは、それ以上聞こうとはしなかった。「おい」

F・ダッチマンの元に歩み寄ると、凍りついた腕を掴む。

「な、何を――!?」

「大人しくしていろ」

彼女の両目が、赤く輝いた。彼は腕に熱を感じる。氷が溶けたのだ。

「ほら、これでいい」

「……あ、ありがとう」

嬉しかった。彼女にやってもらったという事実が。

ジャンヌは片方の眉を持ち上げた。本当にどうでも良さそうに。

 「別に」


 『ジャンヌ』

アスモデウスが、誰もいなくなると姿を現した。ため息をつきつつ、

『お前は、人の感情に疎すぎるぞ』

「? ――何の事だ」

『今はまだ良い。 だが注意せねば、いずれ火傷を負うぞ』

不思議そうな顔をしながらも、彼女は頷いた。

「分かった、気を付ける――」

だが、アスモデウスの忠告は事実となる。


 「……はぁ」

吸血鬼を一体焼き殺して、ジャンヌはため息をついた。

こいつも、三人の魔女について何も知らなかった。このままで本当にいつか巡り合える時が来るだろうか?それを考えると、気が遠くなりそうだった。その場を、異端審問官が来る前に、立ち去る。

船に戻ると、アリーが訊ねてきた。

「F・ダッチマンについて知りませんか?」

「どうかしたのか?」

「さっきから姿を見かけなくて――」

「風呂にでも入っているんだろう」

「でしょうかね――?」

その時、ぎしりと縄梯子が軋んだ。はっと二人が見つめる中、話の当人が姿を現す。

「船から降りられたのか」ジャンヌは呟いた。てっきり船から離れられないものだと思っていた。

「ああ。 七年に一度だけ許される――」

「どこへ行っていた、F・ダッチマン!」

アリーが鋭い声で訊ねた。

「外を彷徨っていた」

嘘だ。直感でジャンヌは感じた。F・ダッチマンの元に駆け寄り、目を見つめて問い詰める。

「何をしていた?」

瞳が、揺らいだ。だが、彼は言い張った。

「お前の害になるようなことだけは、していない」

「それは、本当か?」

「本当だ」確信を持って、彼は繰り返した。「本当だとも」

「分かった」ジャンヌは、それを信じた。


 ベルトラン・レッシングは街を歩いていた。道行く人は、彼の衣服を見た途端にさっと道を避けていく。泣く子も黙る異端審問官の制服だからだ。わざわざ呼び止める変人などいない、彼はそう思っていた。

だが、彼は呼び止められる。

「もし――魔族や『帝国』とは対立関係にある御方ですかな?」

いやに古風な話し方だった。

「そうですが――何か?」

そちらを振り向くと、マントを羽織った男が立っていた。ローブで顔を隠している。声から推測するに、壮年の男だ。

 「少々お話したい事がございます」


 「ねえジャンヌさん」アリーは興味深そうに訊ねた。「貴方の目的は何です?」

「――」

話してもいいものだろうか、とジャンヌは迷った。側にはF・ダッチマンがむっつりとした顔で立っている。

だが、アリーはじっと彼女の目を見つめて言った。大きな、黒い瞳が彼女を映し出す。

「僕達は同族じゃないですか。 誰にも話しはしませんから」

仕方ない。ジャンヌは小さな声で呟いた。

「三人の魔女、と言うものについて探している」

ぴくり、とF・ダッチマンがわずかに反応した。妬ましい、そんな目でアリーを、苦しい、そんな目でジャンヌを見つめる。

だがそれに見られる二人は気が付かなかった。

「なるほど――僕の伝手で探してみましょうか?」

「いい。 断る。 放っておいてくれ」

その時だった。ぐらりと船が振動したのは。停まったらしい。

「――F・ダッチマン?」

「船のメンテナンスだ」

ほとんど無表情で彼は言い放ち、部屋の外に出て行った。

「そうか」ジャンヌは素直にそう言うものなのかと思った。いくら先代文明の遺物であろうと、稼動している限りきっと時々には手入れが必要なのだろう、と。

 ――何となく外の空気が吸いたくなって、ジャンヌは甲板に出た。

F・ダッチマンが縄梯子を降ろしていた。

「……何をしている?」

「!」

F・ダッチマンはジャンヌの元に駆け寄ると、いきなり抱きかかえた。そして、船内に運び込もうとする。

「な、何をする?!」ジャンヌは仰天した。

「隠れていろ!」

ジャンヌは、F・ダッチマンの気が狂ったのだと思った。

「アリー!」と大声で呼ぶ。

「どうしたんです、ジャンヌさん!?」

叫び声にアリーが駆けつけてくる、そこに向かってジャンヌは叫んだ。

「F・ダッチマンの様子がおかしい!」

「ちッ!」

彼は舌打ちして、ジャンヌを解放した。

縄梯子がぎしりと軋んだのは、その時だった。

「なッ――」

ジャンヌ達が息を呑んで見つめる前で、人が登ってきた。それが誰であるか見とめた瞬間、ジャンヌは真っ青になる。

「コルネーリア!」

あら、と少女は彼女を見た。その片腕は、義手に変わっていた。

「お久しぶりね、ジャンヌ」

彼女だけではなかった。ジャンヌの見知った顔が――拷問を受けている最中に知り合った顔ばかりだったが――次々と縄梯子を登ってきた、ベルトラン、ヴィルヘルム、その他諸々の。

「まさかこんな所で出会うだなんて、思わなかったわ」彼女は淡々と呟いた。

「魔女め、こんな所にいたのか」ベルトランが吐き捨てるように言った。「道理で僕達異端審問官が総出で探しても、死体が見つからなかった訳だ」

「待て!」とアリーが大声を出した。「私は帝国の大使だぞ、そして彼女は私の同伴者だ! 何か用事でもあるのか!」

「ある。 軍事スパイだろう、お前は」ヴィルヘルムがぞんざいな口調で言った。「『帝国』の大使だろうが何だろうが、身柄を拘束させてもらう」

「!」アリーも青ざめた。

「彼女にだけは手を出さない約束だ!」F・ダッチマンが怒鳴った。「それだけは守ってもらうぞ」

「いいだろう」ベルトランが頷いた。

だが、コルネーリアの双眸が異彩を放つ。じゃきん、と義腕を構えた。その先端から銃口が飛び出す。

「魔女め! 今度という今度こそ撃ち滅ぼしてくれるわ!」

ウリエルが現臨したのだった。

「マズい、抑えろ!」ヴィルヘルム達が彼女を組み伏せた。だが、物凄い、少女のそれとは思えないような力で抵抗する。大の大人が数人かけて押さえにかかっているのに、それを振り切りそうな勢いだった。

「殺してやるのだ、放さんか! この人間共め! 邪魔するでない!」

「F・ダッチマン」蒼白な顔でジャンヌが言った。「裏切ったな!?」

「お前だけは裏切っておらん」ここに至っても、愚鈍にも彼は言い張った。「邪魔なのはアリーだ」

「裏切り者め!」ジャンヌは血を吐くように叫んだ。「信じていたのに」

はっとF・ダッチマンの目が見開かれる。

「ジャンヌ、お前は――」

「ジャンヌ!」アリーが囁いた。「飛び降りるぞ!」

「分かった!」

ばっと二人は船べり目指して駆け出した。

「待て! 待ってくれ!」とF・ダッチマンが呼び止めるのも聞かずに。

あっと異端審問官達が息を呑む中、二人は船から同時に飛び降り、船を包み込む嵐の中に巻き込まれた。

 「アリー!」

落下していく中、ジャンヌは目を見開いて叫び、手を伸ばした。

どうか届くようにと。アリーの方でも手を伸ばすのが分かった。

だが、それは叶わなかった。

「――ジャンヌ!」

呼ぶ声が、遠ざかっていく。


 二人は、風にもまれて散り散りになった。


【ACT四】 覚醒


 がさりと木々に衝突した。しなる枝が、着地の衝撃を和らげる。

「うッ――」

だが、それでもかなりの衝撃が彼女を襲い、思わず呻いた。

「アスモ、デウス」

彼女に取り憑いている悪魔の名を呼ぶ。

『災難だったな』

彼女を抱き起こして、アスモデウスは言った。辺りは森の中だった。

「F・ダッチマンが――よくも!」

許せない。ジャンヌは唇を噛んだ。内臓から焼け焦げそうなほどの怒りが、彼女を支配していた。どん――と地面に拳を何度も叩きつける。拳が痛くてたまらなくなると、がりがり、と地面をかきむしった。ツメがはがれても彼女は地面を掻くことを止めなかった。

『救世主とて弟子の裏切りに遭うたのだ。 まあその弟子は魔王サタンに取り憑かれておったのだがな……』

アスモデウスは彼女を慰めた。だからあれほど信じるなと言ったであろう、とは、この彼女の凄まじい怒り様を見てしまっては、言えなかった。

「取りあえず、アリーを探そう」

ぶすぶすと燻る怒りを抑えて、ジャンヌは言った。

 だが、そうは行かなかった。異端審問官達が、周囲を徹底捜索していたのだ。ぐずぐずしていては、見つかってしまう。

『火を起こせ』アスモデウスが言った。『その隙に逃げるのだ』

ジャンヌは言われた通りに森に火をつけた。異端審問官達が消火のために集まってくる最中、彼女は逃げた。唇を噛みしめて。

森の出口まで逃げ出した時だった。

 「待て」

冷酷な――鋼のような声が辺りに響いた。ジャンヌは足を止めて振り返る。

「コルネーリア」

片手が義手の少女が、彼女を見すえていた。冷たい無慈悲な眼差しで。

「否、我だ」

ウリエルは義手を構えた。その先端から銃口が飛び出す。

「その腕は――!」どうしたのだ。ジャンヌははっとした。

「汝を逃がしたがために切断されたのよ」ウリエルは苦々しげに吐き捨てた。「だがそれで良かったのかも知れぬ。 同時にこの小娘の未練をも切り捨てたのだからな」

「!」

ジャンヌは衝撃に目を見張った。知らなかった。そんな事があったのか!

だがウリエルの方は、この瞬間に攻撃の準備が整っていた。

「滅ぶがいい!」

発射された。

ジャンヌは咄嗟に、前方の空間を炎上させた。その隙に身をくらます。そうしたつもりだった。だが、違った。双眸が青く輝く。

カキン――と鋭い音が辺りに響く。

突如、前方に出現した氷の壁によって、銃弾は受け止められていた。

「あ、アリー!? アリーなのか!?」

返事は無かった。森のどこからも。その存在も無かった。森のどこにも。

『ジャンヌ、逃げるのだ! 他の異端審問官が来るぞ! 街へ逃げ込め!』

アスモデウスが叫んだ。

「くッ――!」

ジャンヌは身を翻して逃げ出した。

 貧民街の宿に泊まると、ジャンヌは花瓶に生けられた一輪の花に向かって試してみた。

双眸が赤く輝く。花は燃え上がった。だが青く輝くと、花は炎ごと凍りついた。しかし、もう一度赤く輝くと、蒸発した。

「物質の温度を左右できる――?」

『おそらく、そうだ』アスモデウスが頷いた。『激怒が、更なる力の覚醒を促したのだろう。 おめでとう、ジャンヌ』

「嬉しくない」彼女は呟いた。「アリーがいてくれた方が良かった」

『泣くでないぞ、ジャンヌ』

不意に背後から腕が伸ばされて、彼女は抱きしめられた。

「誰が泣くか」

『ふふ』とアスモデウスは笑う。『それでこそお前だ』


 「そうか、魔女は街に逃げ込んだか――」

ベルトランは呟いた。

「とすると、貧民街に逃げ込んだだろうな。 街を閉鎖して、虱潰しに当たろう」

「待て、それでは約束と違うではないか!」F・ダッチマンが声を荒げた。「彼女に手を出さないとの約束であろう!」

「命には手を出さない。 拘束制御術式を組み込んで、我々の管理下に置く」

「何だと――!」

F・ダッチマンは後悔した。

だが今更だった。こうなったのも、彼が全て悪いのだ。信じられていたのに、裏切った彼が。

「街の包囲は簡単だ」彼を遮って、ヴィルヘルムが口を挟んだ。「だが貧民街の捜索は厄介だぞ。 まつろわぬ民がごまんといる。 俺達の支配圏外だ」

「魔女一匹を取り逃がすくらいなら、いっそ全てを焼き払った方がマシだ」

ベルトランは言い切った。

「焼き払う――ですか」コルネーリアが淡々と呟く。「そうなる前に、できるだけ努力しましょう」

異端審問官の必死の捜索が始まった。だが、ようとして魔女の行方は知れなかった。


 ベルトランの後ろに付いて街を回る。コルネーリアは、真面目に職務を全うしようとしたが、どうしても弾む気持ちを抑えられなかった。甘い雰囲気こそ無いものの、二人きりで街を歩いているなんて、何だかデートみたいだったのだ。

「コルネーリア、ちょっと良いかい?」

突然、彼は訊ねた。

「はい、何でしょう?」

「義手の調子は? 痛まないかい?」

「あ、絶好調です!」

「そうか」彼は少し黙って、「君への罰を止められなかった責任は、僕にある」

沈痛な口調で、そう言った。コルネーリアは慌てて、

「そ、そんなこと無いですよ! あれは、あたしが完全に悪い、あたしの罪でしたから。 罰を受けて当然です!」

いや、とベルトランは苦しそうに言った。

「……デルヴィエール卿は厳格なお方だ。 いかなる罪であろうと許されない。 君の場合も、そうだった」

「今度こそ、挽回しますから、ね?」

励ますように彼女は言い、ベルトランは頷いた。

「ああ。 必ず。 そうしてみせよう」

しかし、彼女は、辺りの光景に気が付いて慌てふためいた。

いつの間にか――娼窟に迷い込んでいる。甘ったるい、だがどこか腐ったような匂いに満ちあふれている。客引きの声が耳障りに響く。

 「あら、いい男じゃない」

妖艶に化粧した娼婦が、声をかけてきた。びくん、とコルネーリアが少し目を見開いて痙攣する。育ちの良い彼女は、こんな女を、初めて見たのだ。

「どう? ちょっと休んでいかない? お安くしておくわよ」

「今忙しいんだ」

にべもなくベルトランは断った。コルネーリアは、とてもほっとした。

だが、娼婦はしつこく、

「そう言わずにさ、ちょっとだけ。 新しい娘も入ったんだから」

「新しい娘――?」

ベルトランの顔に、興味深そうな色が浮かぶ。色ありと見た娼婦が、彼の腕を取って誘った。ベルトランはそれに逆らわず、付いていく。

「ちょ――ちょっとちょっとちょっとベルトランさん! 不潔ですよ! 止めてくださいってば! ベルトランさん!」

コルネーリアは喚いた。冗談じゃなかった。こんなことはあってはならない事だった。抱いていた淡い慕情が粉々になりそうだった。

「何、顔を見るだけさ――」と彼はうそぶく。「君も付いてくるかい?」

「嫌です! 一人で行ってください!」

 コルネーリアはこの決断を、一生後悔することになる。


 街の閉鎖など、そう何日も続けられるはずが無いのだ。必ず商人層から不満が爆発して、解除される。それを見越して、ジャンヌは身を隠していた。

「アンヌ」

偽名を呼ばれて、ジャンヌは立ち上がった。アスモデウスの見せる幻覚で、あどけない顔立ちの少女に彼女は変装している。

「お客さんだよゥ。 あんたをご指名だ」

客引きの女が連れてきたその客を見て、ジャンヌは本当に青ざめた。

あのベルトランだったのだ。だが、顔でバレるはずがない。彼女は落ち着いて、対応した。

「いらっしゃーい! あら、検邪聖省のお方? 珍しいわ」

「ヴィルヘルムはお忍びでよく利用するらしいが」ベルトランはこっそり呟いた。

手を取って店の奥に導く。薄暗い店内は、淫靡な香りに満ち溢れていた。所々から嬌声が響く。へえ、とベルトランは言った。

「初めて来たけれど、凄いところだね」

「あら、お客さん、初めてなの?」

「いや――違う。 でも、こういう所には慣れていなくてね」

「何も怖いことはないのよ。 気を楽にしていらっしゃいな」

寝台しかない、狭い部屋に着く。棚からワインを取ると、彼女は二つのグラスに注いだ。こっそり片方に一錠の錠剤を落とすと、彼女はそれをベルトランに差し出した。

「はい、乾杯」

「ああ、ありがとう」

一息に飲み干す。酒が入って饒舌になった彼は、話し出した。

「こんな場所で言うのも何だけれど、僕には好きながいてね――」

「あら、そうなの!」彼女は驚いたかのように言う。

「笑顔の可愛い、でもドジな娘でね、頑張り屋なんだ」

「いい娘じゃないの」

「ただ」と彼は顔を暗くした。「非常に厄介な宿命を背負っている。 とても――ね。 だから――」

段々、ろれつが回らなくなっていく。

「僕は、いつか――うん? おかしいな、急に眠気が」

「あら、無理せずに寝ればいいわ。 するのはその後でも遅くないわよ」

「ああ、そうす――」寝た。

それを見て、ジャンヌは変装を解いた。脂汗をべっとりとかいていた。演技していたものの、それまでは抑えられなかったのだ。

「まさかここに異端審問官が来るとは思わなかった――」

来てもまさか『最強』だと言われるベルトランだとは思わなかった。

いきなり、焦ったような声をアスモデウスが発した。

『ジャンヌ! ヤツは寝ておらん!』

「!」

咄嗟に部屋からジャンヌが飛び出した、その背後で部屋が爆散した。ベルトランの糸が切り裂いたのだった。

「この店は客に薬を飲ませるのかと思ったら、まさか魔女だったとは」

ジャンヌは駆け出した。その後をベルトランは追う。店の裏口から出た所で、彼女は転んだ。ベルトランの糸によって。

彼女は転びながらも前転して距離を取る。

「確かに薬を飲ませたはずなのに――」彼女は舌打ちする。

「僕の体にそんなものは効かない」

ベルトランは両腕を構えた。不可視の糸が、そこから伸びる。

「魔女め、確保する!」

「嫌だ!」

ジャンヌの双眸が赤く輝いた。ぼっと裏路地の両側の建物に火がつく。凄まじい勢いで燃え上がった。だが、お互いに射程距離の外だった。

「くッ、小ざかしい真似を!」ベルトランは呟いた。

「――!」

猛炎の中、炎による空気の揺らぎが見えた。その間に糸が揺らめく。糸が揺らぎを切り裂く。それが、ジャンヌにははっきりと見えた。炎のおかげだった。ジャンヌは、糸の無い空間に思い切って飛び込んだ。

「なッ――!」

ベルトランは驚いた。この糸が目に見えるはずが無いのに、まるで見えたかのように魔女が動いたのだ。接近された!焼かれる前に、糸を動かし、魔女の身体に神速で拘束制御術式を叩き込む――!

「これで終わりだ!」

「死ね!」

拘束制御術式を打ち込まれながら、ジャンヌの目が、青く輝いた。

二人には覚悟の差があった。殺すつもりと、捕らえるつもりと。

それが勝敗を分けた。


 「どうしたんですか?!」

火事騒ぎにコルネーリアが駆けつけてくる。そして、絶句した。

「――! ベルトランさん!」

振り返って、彼が呟いたのは、断末魔でも悲鳴でも呪詛でもなく、ただ――。


 「コルネーリア」


 それで、絶命した。

最強と恐れられた異端審問官、ベルトラン・レッシングは、全身が凍結して死んだ。

コルネーリアが大絶叫した。

「――いやあああああああああああああああああああ!」

『ジャンヌ、逃げるのだ!』

焦った声でアスモデウスが言う。

「分かっている!」

ジャンヌに異存は微塵も無かった。彼女は火事だと集まってきた人混みの中に姿をくらました。

「ベルトラン、さん……」

コルネーリアはベルトランの元に駆け寄ると、そうっと――壊れ物に触れるかのように、彼におそるおそる震える手で触れた。

その瞬間、彼の身体は粉々に砕け散った。まるでガラスの置物が粉々に砕け散るように。跡形も無く、飛散する。

「――!」

コルネーリアは声を失って、ただその場に立ち尽くした。

透明な涙が、溢れ出す。

「嘘でしょ、こんな――こんなのって! ベルトランさんは最強だったのに!」

『愚か者め』

喪失感のあまりに何も思考できない彼女に、何者かが囁いた。

『ヤツが死んだのは、お前の所為だ』

「あたしの、せい――?」

『そうだ。 そもそもお前が魔女を助けた所為で、こうなったのだ』

声は、まるで命令するかのように言った。

『復讐しろ! 必ずやこの手で討ち取ると約束するのだ!』

彼女は、泣くのを止めた。泣いても無意味だと悟ったのだ。

「――ええ」

ぎりっと唇を噛みしめる。この痛みを、憎悪を忘れないために。身体にそれらを刻印するかのように。自分の愚かしさを呪うかのように。否!己の体にそれら全てを刻印するのだ!

復讐するは我にあり!

彼女は呪詛をつむぐ、

「必ず、この手で殺してやるわ――魔女め!」


 ベルトランが倒されたという知らせは、瞬く間に検邪聖省を駆け巡った。激震が走った。ベルトランは最強と呼ばれた異端審問官だったのだ。

法王庁ヴァティカン検邪聖省最高位の枢機卿モンシニョールデルヴィエールは、顔色を変えて報告にやって来た部下を怒鳴りつけた。

「どう言う事だ、ベルトランが倒されただと!」

対する一介の異端審問官の少女は、冷徹――冷酷そのものだった。

「彼は魔女に殺されました。 最後まで職務を果たそうとして」

「負けたという事は、弱かったという事だ」

「いいえ、違います。 彼は最強でした」

「たかが異端審問官風情が、私に口ごたえしようと言うのか!」

少女は、恫喝されても涼やかな目のままだった。それを見て、デルヴィエールは彼女がそういうものの効く人間でないことを悟る。

「ところで――その魔女の名前だが、ジャンヌと言ったな」

「はい。 間違いありません。 ――それが何か?」

「いや、何でもない――」デルヴィエールは少女を下がらせてから、呟いた。「まだ、生きていたのか、ジャンヌよ」

 異端審問官達はベルトランの葬儀をしめやかに執り行った。遺体が惨たらしい有様なので、棺は硬く閉じられたままだった。

コルネーリアは棺の上に花束を乗せながら、こう誓っていた――貴方の仇は、あたしが討ちます。

 その後、一同は嵐を呼んでF・ダッチマンの天翔ける船――新たにタラップが添えつけられた――に乗り、移動した。

 この間、F・ダッチマンは船長室にこもったまま姿を見せなかった。彼は心底後悔していた。自分は神に呪われて当然の人間だと思った。彼はジャンヌを裏切ったのだ。信じられていたのに、一番やってはならない事をやったのだ。何て事をしたのだろう――悔いは、尽きることが無かった。


 デルヴィエールは、検邪聖省の牢獄の最深、死刑囚の独房を訪れた。陰鬱な目をした痩せた老人が、その奥で彼を待っていた。

「貴方がここに来るとは珍しいのう」

老人は、興味深そうに言った。デルヴィエールは、老人と目を合わせようとせず、一方的に話す。この老人は魔族でこそないが、人を呪う事が出来るのだ。

「呪ってほしい人間がいる。 呪ってくれれば、代わりに減刑してやろう」

「その人間の肉体の一部はあるか――?」

「ある」デルヴィエールは言った。「髪の毛だがな」

「それでいい」死刑囚ザントマンは笑った。狂った笑いだった。「また誰かを呪える日が来るとはの。 ――ほんにこの世は楽しいのう!」


 誰もいない道を歩いていたジャンヌが、いきなり胸を押さえて倒れた。

『ど、どうしたのだ、ジャンヌよ?!』

アスモデウスが慌てるのが分かった。だが、ジャンヌは胸を押さえて苦しがるだけだった。しかし五分ほど経つと、彼女は真っ青な顔をしたまま立ち上がった。

「いきなり胸が痛くなって――」

『お前に持病など無いはずだ。 一体何が起きたのだ?』

「分からない」ジャンヌは首をかしげた。「何が起きたのだろう?」

しかし、同じことが翌日にも起こった。

だんだん発作の感覚は短くなり、しかも苦痛の時間は長引いてきた。

『分かったぞ、ジャンヌ。 情報をありったけ集めてきたのだが……』

宿で悶え苦しんでいるジャンヌを支えながら、アスモデウスが言った。重々しい口調だった。

『お前は、恐らく呪われているのだ』

「の、呪われて、いる、だと?」

ここ数日ですっかりやせ細ったジャンヌは呟いた。

彼女は夜も眠れなかった。眠ったら眠ったで、悪夢ばかりを見て飛び起きるのだった。今までに無いことだった。何か飲み込もうとすると苦痛が走るため、食事も喉を通らなかった。喉を通るのは水だけだった。

『そうだ。 このままではいずれお前は死んでしまう』

「誰から、だ――」

分かりきったことであろう、と彼は言った。

『お前を呪って利ある相手など一つしかおらん。 検邪聖省だ』

「何、だと――」彼女は目を見張った。

ベルトランを倒したことにより、度外に危険視されたのか。それしか思い至らなかった。だが、この現状が最悪である事は間違いなかった。

『どうする、ジャンヌ』

苦しみながら、ジャンヌは考えた。必死に考えた。

やがて痛みが遠のくと、彼女は言った。

「このままではいずれ死んでしまうのだろう? ならば結果は同じだ」

『!』アスモデウスが驚くのが分かる。『いかん、それだけはならんぞ、ジャンヌ!』

しかし、彼女は口に出した。

「検邪聖省に行く」


 検邪聖省の支部は、思ったよりも地味な建物だった。数々の建物がそびえ立つ街中でも、これと言って目立っていない。そこの門番は、当然ながら異端審問官だった。たまたまその日は、ヴィルヘルムがそこの番を任されていた。

 昼過ぎに、よろよろと、まるで乞食のようにみすぼらしい影が、よろめきつつ彼の前に立った。

「何だ? 布施はやらんぞ」

ヴィルヘルムはガンと突っぱねた。そもそも異端審問官が乞食相手に一々慈悲をくれて布施をしていては、職務が成り立たないのだった。大体金か食べ物が欲しいのなら修道院か教会に行けばいいものを。

「――」乞食は、物も言わずにその場に倒れた。

「お、おいおい!」

流石に門の前で行き倒れられては、評判に関わる。彼は乞食を中へ運んで、介抱した。彼は自分を冷酷な男だと勘違いしていたが、実際は良くも悪くも非常に人間らしい男だったのだ。


 「乞食を介抱するハメになったんですって――?」

コルネーリアが面白そうに言ったのは、翌日の事だった。

「ああ。 面倒なものだぜ」とヴィルヘルムは困った顔をして言った。

「面白そう!」案の定、彼女は興味を持った。「あたしも会いたいわ」

「ああ、いいぜ」

だが、乞食を見た途端に、コルネーリアの顔色が変わった。

真っ青に近い色になる。

「ど――どうした!?」ヴィルヘルムは驚いた。

「……ジャンヌ!」

コルネーリアの震える口が、憎々しげに言葉を紡ぐ。

「痩せ衰えているけど、コイツこそ魔女よ!」

「何だとう!?」

言われてみれば、確かにどこかで見たことがある顔だった。

「魔女め――よくも彼を!」

じゃきん、と彼女が義腕を構えたのを見て、慌ててヴィルヘルムは止めた。

「止せ! コルネーリア!」

「止めないで、殺すのよ!」コルネーリアは暴れた。「彼の復讐をするの!」

「いやいや、待てよ」ヴィルヘルムは残虐な、壮絶さの漂う笑みを浮かべた。「その前にする事は沢山あるだろう?」


 牢屋でジャンヌは目を覚ました。久しぶりに眠ったためか、気分は爽快だった。だが、全身に打ち込まれた拘束制御術式の所為で、能力が使えないようになっていた。

こつ、こつ――と近づいてくる足音。誰だ。ジャンヌは身を硬くする。

 デルヴィエールが、姿を現した。

ジャンヌの目が、驚愕に限界まで見開かれる。だが、すぐに怒りの色に染まり上がった。

「――この、裏切り者が!」

牢屋の鉄棒のすき間から、腕を突き出す。だが彼女の手は空しく宙を掻いた。

 届かなかった。

「まだ、生きていたのか――ザントマンは死んだと言ったが。 呪いなどアテにならないものだな。 それとも魔女は魔族ゆえに、呪いに抵抗力でもあるのか……」

デルヴィエールは呟いた。

「お前を殺すまで私は死なない!」

彼女は吼えた。いつもは冷静な、冷酷なほどの彼女が、珍しいくらいに激怒していた。

「アンヌと同じ所に行けばよかろうに――」デルヴィエールはぽつりと言った。

「お前が殺したも同じ癖に! 殺してやる!」

「私を恨んでいるのか?」デルヴィエールは諦めたような表情を浮かべた。「まあ、当然だろうな――」

「畜生!」彼女は鉄棒を掴んで喚いた。「お前なんか父親じゃない!」

「そうだとも。 だからこそ可能なのだ」

デルヴィエールは冷静だった。

「これからお前は、拷問を受け、異端裁判所に引き出され、死刑判決を受けて焼かれるだろう。 私の許可の下に。 お前が生きている限り私に安堵の時は訪れないのだ。 死んでくれ」

そして、言いたい事を言ったデルヴィエールは去っていく。

「お前だけは許さない!」

その背中に向けてジャンヌは叫んだ。声の限り、絶叫した。

「お前だけは!!!!!!!!」


 デルヴィエールの予言の通り、彼女は拷問を受けた。

苛烈な拷問だった。ベルトランを殺された異端審問官達の激しい怒りの矛先は、全てジャンヌの細い体に向かった。彼女のツメは全て剥がされ、全身に焼印が刻された。鞭打たれ、床を引きずられた。身体に電流が流された。水に浸けられ、沈められた。火であぶられ、焼かれた。食事は牢番がちょろまかし、彼女の口には入らなかった。異端裁判所に引き出され、焚刑――死刑判決を受けた。

処刑前夜の夜になると、もう彼女は自力では歩けないほど衰弱していた。

しかし、彼女の目には依然として意志の光があった。

『ジャンヌよ』彼女の傷を癒しながら、アスモデウスは言った。『今夜が最後の夜だな』

「ああ」

その光を不思議に思いながらも、アスモデウスはここ数日ずっと考えていた事を口に出した。

『共に異界ゲヘナへ旅立たぬか?』

「? 何だと……?」

『我と共に、異界へ行こう、ジャンヌ。 我はお前を愛しておる』

それは、長い間言えなかった告白だった。

「断る」

だが、にべもなく、いつもの様に彼女は断った。

「異界に行って、お前のように悪魔にはなりたくない。 私は人間のままでいる」

『ふふ――』アスモデウスは苦笑する。この娘は、いつだって、こうだった。『やはり、そう来たか』


 翌朝、彼女は火刑台へと登らされた。鎖で柱に縛りつけられて、周囲を薪で覆われる。大勢の群集がそれを好奇の眼差しで見守った。若い魔女が焼かれると言うだけで、残酷だが最高のショーになるのだった。

死刑執行人が、薪に火をつける。乾ききったそれは、めらめらと勢いよく燃え上がった。

 それを見守りながら、どこかコルネーリアは不満な思いを抱えていた。本当にこれで良かったのか。何度もそう考える。本当に――これで良かったのか。

憎んで憎んで、憎みぬいてもまだ足らないほど憎い魔女はこれで死ぬと言うのに、何か、こう、いわゆる『物足りなさ』と『つまらなさ』を彼女は感じていた。

いよいよ魔女の身体が炎に包まれた――その瞬間。


 爆発した。


 火の粉を浴びた群集が悲鳴を上げて逃げ惑う。

コルネーリアは目を見張った。

火刑台の上には、凄まじい形相の魔女が立っていた。

身体に打ち込まれた拘束制御術式が以前と同じだったため、とうとう解除に成功したのだ。

鎖が魔女の身体から滑り落ちた。

逃げ惑う群集の中に、彼女は飛び込もうとした。その時である。

不意に天がかき曇って――嵐を呼んで天翔ける船が突っ込んできたのだ。タラップの先端には、F・ダッチマンが掴まっている。

「逃げるぞ、ジャンヌ!」F・ダッチマンは叫んだ。

ヴィルヘルムが目を見張る。「まさか、アイツ、裏切ったのか――!?」

「誰がお前と!」

ジャンヌは叫び、構わず飛び込もうとした所を、F・ダッチマンが捕らえた。

「ふざけるな!」

彼の身体が炎上する。だが、それでも彼はジャンヌを手放そうとしなかった。

天翔ける船は凄まじい速度で去っていく。後には逃げ惑う群集と、驚愕に動けず、度肝を抜かれた異端審問官達が残されていた。


 ――「何をする、放せ!」

船上に担ぎ上げられたジャンヌは暴れて抵抗した。

「許してくれなどとは言わない!」F・ダッチマンは叫んだ。「だが、我輩はお前を愛しておったのだ!」

絶望的な告白だった。叶う事のない夢のようだった。永遠に解放される日の訪れの無い、呪われた宿命(さだめ)のようだった。

「裏切り者の癖に、今更何だ!」

覚悟していたが、拒絶されて彼は完全に絶望した。ジャンヌを甲板に降ろす。

「本当にすまないことをした――」今更だと知りつつも謝ったが、もう何もかもが遅かった。

「うるさい!」

ジャンヌは船から早速飛び降りようとしたが、アスモデウスが慌てて止めた。

『止せ、お前の今の身体で飛び降りては持たん!』

「アイツの顔など、見たくない」ジャンヌは吐き捨てた。「見るくらいなら、死んだ方がマシだ!」

だが、強烈な目眩に襲われてその場にくず折れる。体がもう限界なのだった。もう体を、意識を維持できない。彼女は抵抗したが、意識が遠のいていく。

「誰が、お前を――許すか!」

彼女は途切れかけた意識の隅で、そう叫んだ。


 また、夢を見た。悪夢だろうかと、一瞬心配したが、遠方で手を振っている人影を見て、そんな考えは完全に消し飛ぶ。

「母さん!」

駆け寄ると、抱きしめられた。こらえていた涙が、こみ上げる。

「どうしたの、ジャンヌ、傷だらけになって」

「異端審問官に拷問されたんだ」胸に頭を埋める。

「そう。 でももう安心して良いのよ」ジャンヌを抱擁しつつ、彼女は言った。「ここに貴方を傷つける者は誰もいないわ」

「うん――」

いい夢だ。彼女はぬくもりに甘えながら、そう思った。絶対に、覚めてほしくない。

しかし、徐々に意識が薄れていく――。


 ――覚醒した。

彼女は泣いていた。寝台に横たわって。

『どうした、ジャンヌ、怖い夢でも見たのか』

アスモデウスが言った。ずっと彼女に付き添っていたのだ。

「いや――違う」

『それなら良いが』

身を起こすと、ふらふらと目まいがした。まだ身体が回復していないのだ。だが、ここがどこであるか思い出して、ジャンヌは必死に体を動かした。こんな所には、一分一秒たりとも居られない。

「早く、降りなければ――!」

『それなのだが』アスモデウスは困ったように言う。『もう奴の目的地に着いた様だ』

「目的地だと――?」

アスモデウスは本当に困惑したように言った。

 『「帝国」だ』


 甲板に出ると、F・ダッチマンが立っていた。ジャンヌの姿を見とめると、ほっとしたように呟く。

「起きたのか――」

「どうして連れて来た?!」ジャンヌは殺す勢いで食いかかった。「帝国などに!」

「ここならば、お前は誰にも追われること無く、安全に暮らすことが出来る」

「余計な真似を! 戻せ!」

「それは、出来ない」彼は、断固として否と言った。「お前を危険な目に遭わせることだけは出来ない」

「お前が裏切った癖に何を今更! もういい!」

ジャンヌはタラップに足をかけた。よろめきながらも、降りていく。

「そうだ」それを見送って、F・ダッチマンは呟いた。絶望。ただそれだけが彼の心にあった。「私は裏切り者だ。 本当にどうしようもない、最低の人でなしだ……」

ジャンヌが降りてしまうと、F・ダッチマンはその後を追った。

彼の最後にするべき事は、これで済んだのだ。

タラップを降りて、地面に足を付ける。

途端に、ぼろりと脆くも彼の足が崩れ去る。

足が、胴体が、腕が、首が、頭がぼろぼろと砂の山の様に崩れていく。

「『七年に一度を除き、船を降りた時がお前の死ぬ時である』――か」

もはや誰にも届かない声で、彼は言った。

「それは今だ」


 その背後で、嵐を呼ぶ天翔ける船が崩落して行った。


【ACT五】 帝国


 清潔そうな、消毒液の匂い。かちゃかちゃと金属製の器具を弄る音。

ここはどこだ――ジャンヌは目を覚まして、真っ先にそう思った。

確かF・ダッチマンの船を降りて歩いていたら、また倒れてしまって――その後どうなったのだろう。

「あら、目が覚めたの?」

声をかけられる。白衣を着た女だった。

「貴方、行き倒れていたのよ。 大丈夫?」

「ここはどこだ」ジャンヌは身を起こそうとして、止められた。

「まだ起きちゃダメよ、身体が相当衰弱しているんだから。 ここは帝立施療院(ホスピタル)。 変な所じゃないから、安心して」

「病院か――」

ああ、と女は納得したかのように言った。

「貴方、異国の方ね、異国ではそう呼ぶらしいから。 とにかく寝ていなさいよ」

「いい。 起きる。 金が無い」

ぷっと女は吹き出した。

「何がおかしい」

「お金は要らないのよ。 帝国の厚生省から全て支給されているから」

ジャンヌはしばらく施療院にいた。身体が完全に回復するまで、外に出してもらえなかったのだ。何度か脱走しようとしたため、最終的には監視付きの部屋に移された。

「ここは、不便だな」

五度目の脱走に失敗した後、ぽつりとジャンヌは呟いた。

『まあ良いではないか』アスモデウスは心底面白そうに、にやにやと笑った。『しばしの休養よ』


 帝国は、平和そのものだった。教国とは比べ物にならないほど豊かでもあった。平民と貴族の、歴然とした身分制度があるくせに、誰もが安穏とした顔で暮らしていた。何よりジャンヌが驚かされたのが、貧民と貧民街がないと言うことだった。

「どうしてだ、教国と同じように身分制度があるのに」

『福祉制度という奴が充実しておるのよ』アスモデウスは何故か自慢げに言った。『女帝がそうしろと言ったがためにな』

「ふん……女帝というのは、一体何なんだ?」

『千と一つの夜を越え、万と一つのあしたを過ごした者だ。 真の神の受肉した存在でもある。 万象を見通し、抱擁する者でもある』

「何だ、それは?」

『まあ、今のお前には分かるまい』


 ある夜、街を一人歩いていた彼女は、兵士達に呼び止められた。

「待て! 夜中に一人で出歩くとは、不審なヤツだ」

マズい。ジャンヌは逃げ出した。だが土地勘も効かない場所だったため、袋小路に追いつめられる。

「くッ――」

やるしか、無いのか。ジャンヌの双眸が赤く輝こうとした時だった。

『待て!』アスモデウスが寸での所で彼女を止めた。『敵を作ってどうする!』

「だが――」このままでは捕まってしまう。

『ヤツらは検邪聖省とは違う。 命まで奪われはせんわ』

「大人しくしろ!」

ジャンヌは捕らえられた。

 兵士の詰め所のような所に連行されて、ジャンヌは指紋を取られた。

それが照合された途端に、彼らはどよめいた。

「おい、どうする――」

「――いや、うん、まさか孤児だとは思わなかった」

孤児?何のことだ、とジャンヌが思った時、彼らの一人がやって来て、何とジャンヌ相手に説教を始めた。

「いくら親がいないからって、女の子が夜に一人出歩くなんて危険じゃないか。 そうだ、市民証は持っているのか?」

「一体何の事だ」

「ああ――」と彼らは目配せしあった。「教えてくれるはずの親がいないんだっけな」

彼らは小さな札を彼女に渡した。かつてアリーが彼女に渡したそれと、全く同じものを。

「ほら、これを大事に持っておくんだ。 これさえあれば、役所で福祉制度の恩恵に預かれる」

「ふうん――」

この札にはそんな効果があったのか、ジャンヌは不思議そうにそれを見つめた。

その様を見て、兵士達は何かを完全に誤解したようだった。

「辛いだろうが頑張れよ」「捻くれるんじゃないぞ」「親が無くても子は育つ」「少ないが取って置け」「これも持って行け」

結局ジャンヌが解放されたのは、翌日の朝になってからだった。彼女は大層な物持ちになっていた。普段は身軽なので、戸惑っていた。

「一体ヤツらは何がしたかったんだ――?」

彼女には理解できなかった。てっきり暴力か酷い目に晒されると思ったのに、逆に色々ともらってしまった。

『さあな?』アスモデウスはうそぶいた。『だが、アリーに感謝せねばなるまい。 おそらく市民権をくれたのはヤツだ』

「――確か、そんなことを言っていた」ジャンヌは過去を振り返って、しみじみと言った。「それが今になって役に立っているのか」

感謝しようにも、残念な事に離れ離れになっていて出来なかった。その安否さえ分からないのがもどかしかった。

「アリー、今どこにいる」

ジャンヌはふと口に出した。

返事は相変わらず、無かった。


 ジャンヌは役所に行ってみた。市民証を見せると、金が――教国の通貨とは違った――支給された。温まった懐を抱いて、ジャンヌは役所を出た。

帝都シャングリラまで、彼女はもしかしたらアリーがいるかも知れないと思って旅をした。

着いた日、シャングリラの繁華街、陽光のさんさんと差すカフェテラスで彼女は食事を取った。教国の食事とは全く違ったが、それなりに美味しかった。

支払いを済ませて、歩き出す。その時だった。悲鳴と怒号が、辺りに響いたのは。

「何だ何だ!?」

「何があったんだ――!?」

人々がどよめく中、通りの向こうから大勢の人が逃げてくる。

「貴族のペットが逃げ出した! あんた達も逃げろ!」

逃げてきた男が、ジャンヌにもそう怒鳴った。他の人間は我先に逃げ出したが、

「? ペットなら、心配ないだろう」

ジャンヌは『ペット』の詳細を知らなかったのでとんちんかんな事を言った。

「馬鹿!」ほとんど悲鳴のように怒鳴られる。「貴族のペットと言えば、ほとんど猛獣なんだぞ!」

何、とジャンヌが目を見張った時だった。轟音。それが獣の咆哮であると気が付くまで時間がかかった。その隙に、屋根を軽やかに伝って下りて来た凶暴で優美な白い獣は、ジャンヌの間近まで迫っていた。人々がわあっと声を上げて逃げ惑う。獣は、獰猛な眼差しで彼女を睨みつつ、威嚇するかのように、もう一度吼えた。

「!」

ジャンヌは身構えた。だが――警戒を解く。

この白虎は、大勢の人間に怯えているだけだと、感じたのだ。

「おいで」

――虎は唸ったが、彼女の手が鼻先に触れると、途端に大人しくなった。ごろごろと猫のように喉を鳴らす。

 「ハキムが人に懐くとは――」

驚いたような声に、彼女は振り返った。

日陰から、二十歳前後の豪奢な身なりの美しい女が、驚いたような眼差しでジャンヌを見つめていた。

「そなたも貴族か?」

ということは、彼女は貴族なのだろうとジャンヌは思った。漂わせる雰囲気は、確かにそれらしいものだった。高貴で、上品で、優美。

「いや――違う」

ジャンヌは首を振った。そして、早足に立ち去った。

 「おいで、ハキム。 脱走するとは全くけしからんぞ」女は虎を手招きすると、よしよしと撫でた。「うむ?」

突然、女の目が妖しく輝いた。

「何――『甘美なる血の匂いがした』だと?」

ジャンヌの消えた方を、彼女は見やる。

「それは――是非求めねばなるまい!」


 静かな平民の住む地区の宿に泊まっていると、宿の主人が客の来訪を告げた。

「?」

帝都に知り合いなんていないはずだと不思議に思い、警戒しつつ宿を出ると、彼女は覆面の男達に囲まれた。

この前の兵士達とは雰囲気が根本的に違う。刺々しいものだった。

「私に何の用だ?」ジャンヌは訊ねた。

「一緒に来てもらおうか――」

「断ると言ったら?」

男達は無言で武器を抜き放った。

「どうやら、敵らしいな――」ジャンヌはサーベルを抜いた。

一人目の男が討ちかかってきた。半身になってそれをかわし、ジャンヌはサーベルを一閃させた。男の首から血が吹き出る。男達が一斉に襲いかかってきた。ジャンヌの双眼が青く輝く。ピキピキパシン――と間近の男の足が凍結した。

「なッ――貴様は貴族か!?」

男達は驚愕に目を見張った。

「いや、違う」

ジャンヌは無造作にサーベルを振り下ろした。袈裟切りにあった男が絶命する。

「マズいぞ、下がれ!」

男達は逃げていった。

「アスモデウス!」ジャンヌが呼ぶと、彼女の影が答えた。

『分かっておる。 後を追う』

「頼む」

ジャンヌは急いで走り出した。理由は何であれ、人を殺したのだ。

この場所にはもう居られなかった。

 翌日の夕ごろ、アスモデウスが帰ってきた。ジャンヌは帝立図書館にいた。平民にも開放された広大な図書館は、身を隠すのにもってこいだった。

『分かったぞ、ジャンヌ』ひそひそと影が囁いた。『ヤツらは貴族の館から派遣されたようだ』

「どこだ?」

『まさかジャンヌ、行くつもりではあるまいな――?』

「そのつもりだ」

そして彼女は振り返る。覆面の男達が、ぎょっとしたように包囲を狭めるのを止めた。彼女の能力を恐れているのか、射程距離から微妙に外れている。

「――一緒に行こう」

 それは奇妙な光景だった。裏路地を、覆面の男達とジャンヌが、付かず離れずの距離を保ちながら歩いていく。

「お前達の主人は誰だ?」

ジャンヌの予想通り、男達は答えない。それに気分を害した様子も無く、ジャンヌは更に訊ねた。

「私の何が目的だ――?」

知らない、と男の一人が小さな声で言った。

「ただお前を連れてくるようにと――」

なるほど、とジャンヌは頷いた。行けば、分かるだろう。

『注意せよ』アスモデウスが警戒した声で囁いた。『鬼が出るか蛇が出るか分からんぞ』

「異端審問官が出ないだけマシだ」ジャンヌはぼそりと言った。

 その貴族の館は、美しく、広大な庭園に囲まれていた。数百年の時を経た、壮麗な館だった。ジャンヌは思わず息を呑んだ。庭には、だが虎が数匹放し飼いになっていて、彼らは機械馬に引かせた馬車に乗って館へと進んだ。館の門扉が閉じられる。

何が来るかと待ち構えていたジャンヌを待ち受けていたものは、宴だった。広い一室に通されると、料理が次々と運ばれてきた。豪勢な料理だった。ジャンヌにはよく分からなかったが、帝国の山海の珍味が集まっているのだった。グラスには年代物のワインが注がれた。

「――」

一礼して、召使達は退出していく。

扉が開いた。振り返って、ジャンヌは驚いた。

逃げ出した白虎の一件の際に出会った女が、威風堂々と立っていたのだ。

「わらわはアカーシャ。 アカーシャ・サル・イスクン。 部下が失礼致したな。 ――さ、存分に召し上がるがよい」

「……ジャンヌだ」

ジャンヌは、料理に手を付けようとしなかった。それを見たアカーシャは自分から料理を食べ、ワインを飲んだ。

「毒など入れてはおらんわ。 安心せよ」と、微笑む。

「ふん――」

渋々、ジャンヌは口を付ける。美味しいと素直に感じた。同時にひどい空腹を感じた。アカーシャは微笑みながらそれを見つめた。美しい微笑だった。彼女は優雅に果物を摘まんでいたが、ふと手を止めて言った。

「そなたは魔女であるか?」

「そうだと言ったら、どうする?」

ジャンヌは手を止めて、アカーシャを睨みつけた。

「一度会いたいと昔から願っておったのよ。 ――安心せい、わらわは吸血鬼(ヴァンプ)じゃが、そなたを害そうなどとは考えておらぬ」

彼女は鋭い二つの牙を剥き出した。吸血鬼の証だった。

「――だとしたら、何故部下に襲わせた?」

「命令を誤解したのよ」アカーシャは首を振った。「探して連れて来いと言ったのを、無理やりにと思ったようだ。 すまない事をした」

だが、とアカーシャは続けた。

「わらわも大事な部下を二人失ったのだから、おあいこじゃろう?」

「――」

ジャンヌは黙って食べた。

「――ふふ」

アカーシャは彼女に聞こえないように呟いた。

 「そなたは、本当に美しいのう――わらわは数百年を生きておるが、そなたほど美しいものに出会ったのは初めてじゃ」


 食べ終えると、ジャンヌは客室に案内された。豪華な、天蓋つきの寝台が彼女を待っていた。どこかから甘い香りがする。香が焚き込められているのだった。

「ヤツは、一体何がしたいんだ?」ごろりと寝台に横になり、ジャンヌは言った。「私に会いたいだけで、わざわざ部下を危険に晒したのか?」

『分からん』アスモデウスは素直に答えた。『お前に危害を加えるつもりは無いようだが、さっぱり分からん』

「そなたは魔女であるか、と訊ねてきた。 魔女の何が目的なのだ?」

会話を思い出して、ジャンヌは言った。

『――』悪魔は、答えなかった。


 夜半、ジャンヌは気配を感じて飛び起きた。

燭台を手にしたアカーシャが、いつの間にか部屋の中に入ってきていたのだ。まるで美しい幽霊のように佇んで。

「! 何だ!?」

ジャンヌは咄嗟に手元のサーベルを引き寄せた。その時、アカーシャの双眸が獣のように光った。それを見たジャンヌの身体が硬直する。金縛りに遭ったかのように、動けなくなる。身体制御術式を打ち込まれたかのようだった。自由に喋ることすら出来なくなった。

「くッ!」

何をするつもりだ――言葉にならなかったが、彼女を睨みつけた。

「そなたのことを思うと眠れなくての――恥を忍んで参ったのじゃ」

アカーシャはするりと美しい猫のように寝台の上にのぼった。

燭台を置き、身を寄せ、ジャンヌの顔に手を添える。ぐっと顔を近づけると、彼女は睨みつけるジャンヌに向けて囁いた。

「許してたもれ。 そなたは美しい」

いきなり唇を奪われて、ジャンヌは目を見開いた。口内をアカーシャの舌がぐねぐねと這い回る。噛み付こうとしたが、顎が動かなかった。たっぷりとジャンヌの唇を味わってからアカーシャは唇を離した。つう、と卑猥に糸が引く。そのまま彼女はジャンヌの首筋に舌を這わせる。耳たぶを甘がみされて、くぅ、とジャンヌは呻いた。舌は彼女の胸元まで伝わる。甘い、青々しい香りが辺りに漂う。アカーシャはたまらないと言った感じで、ジャンヌを乱暴に裸にした。その途端に、夜目の効く彼女は、目を見張った。

「何と――痛ましい」

おそるおそるジャンヌの傷痕だらけの身体に触れ、抱きしめた。ジャンヌの鼻腔を、アカーシャの甘ったるいムスクの香りが満たす。どこか淫らな、人を狂わせる香りだった。

「我ら魔族は教国では迫害に遭うておると言うが――その話は真であったのじゃな」

ゆるゆるとジャンヌの身体に指を這わせながら、アカーシャは呟いた。細長い白魚のような指が、彼女の双つの膨らみを捉える。アカーシャはそこを愛撫しつつ、首筋に舌を這わせた。慣れた手つきだった。ああ、とジャンヌは悩ましげなため息をついた。拷問による苦痛とも、戦いの興奮とも違う、初めての感覚だった。

「ふふ――」アカーシャは美しく微笑んだ。「もっと感じるがよい」

彼女は膨らみを愛撫しつつ、片方の手をジャンヌの下半身に滑らせた。そろそろと秘裂をなぞる。そこは、膨らみへの愛撫で、徐々に潤みつつあった。誰も触れたことのないその場所を触られて、ジャンヌは白い喉をのけ反らせた。

「敏感じゃのう」

アカーシャは嬉しそうに囁くと、秘裂をかき分けてその内側に指を進めた。ぷっくりと充血した一点を摘み上げる。優しく抓ると、ジャンヌの体が震えた。アカーシャはそこを抓って、叩いて、くすぐった。同時に、ぴちゃ――と舌先で膨らみの先端を弄う。舌でつつくと、ぴんと尖った先端がぷるりと震えた。舌を絡めて、そっと吸う。

はあ、とジャンヌは吐息を吐き出した。甘く、切ない感覚が体中を満たしていた。触れ合う皮膚がじんじんと痺れて疼くようだった。真っ白な空白と過剰な充実が交互に襲ってくるようだった。体中が波に優しく揺すられて、激しく突き上げられるようでもあった。

「そなたが魔女でなくても、わらわは恋をしていたじゃろう」アカーシャは睦言むつごとを言った。「――三人の魔女の血筋は、何故わらわ達を魅せつけるのか」

「!」

驚きに目を見張った次の瞬間、ジャンヌは絶頂の岸辺に打ち上げられていた。視界が白光に染まり、身体が勝手に痙攣する。

(三人の魔女――)

その言葉を脳裏で呟きながら、彼女の意識は遠のいていった。


 翌朝、目を覚ましたジャンヌの側には誰もいなかった。

だが、身体の火照りが、昨夜何があったのかを如実にジャンヌに教えていた。

「あ――アスモデウス!」

『何だ』不機嫌そうな声と共に、影が答える。

「ど、どうして昨日止めなかった!」

顔を赤くしながら、ジャンヌは怒鳴った。

『我が止められるものでは無かったさ』悪魔は反吐のように吐き捨てた。

「また戯言を! どうせ面白がって見ていたのだろう!?」

いきなり青年が姿を現すと、ジャンヌの手を掴んで寝台に押し倒した。

『そんな事は無い』青年は、低い、ドスの効いた声で言った。『我が、あれを面白がって見ていたなどという事は無い、決して』

「何をする、放せ!」ジャンヌはもがいた。だが、凄い力で束縛されているため、振り切れなかった。

『お前の顔に確かにそそられはした。 だが我の心は絶望に満ち溢れておる。 お前は我のものだと契約したであろう? それなのに、お前は何だ、あんな女にがらされて、挙句の果てに気を失いおって』

「くッ――」ジャンヌは顔をしかめた。自分の失態を思い出して。「うるさい!」

『何度でも言おう、お前は我のものだと』

「うるさい、私は誰のものにもなりたくはない!」

『契約は絶対ぞ――』

不意にアスモデウスは顔を近づけると、噛み付くようにジャンヌの唇を奪った。昨夜のアカーシャの様に、ジャンヌの口内に舌を潜りこませる。

「――んぅ!?」

ジャンヌは暴れた。血が出るほど舌に噛み付いた。

だがアスモデウスは放さなかった。固く彼女を抱きしめていた。


 どれほどの時間が経っただろうか、とん、とん――と扉が叩かれて、ようやく彼は姿を消した。

「お目覚めですか、お館様がお呼びです」

扉を開けて、召使が言った。

ジャンヌは息を荒くしていたが、黙って頷いた。


 「おはよう、ジャンヌ」

薄暗い部屋の中に入ると――吸血鬼は太陽の光が苦手なのだ――アカーシャが声をかけた。彼女は部屋の奥の椅子に腰掛けていた。たっぷりと艶を含んだ声音に、ジャンヌは何故か全身が総毛立つ。

「三人の魔女について貴様は何か知っているのか――?」

昨日のことを頭から振り切るかのように、ジャンヌは言った。

さもないと彼女が発する重厚な雰囲気に、圧倒され、また飲みこまれてしまいそうだった。

「三人の魔女の血筋が魔女になりうるという事、魔女を殺した者が魔女になると言う事だけ存じておる」

彼女は椅子から立つと、ゆっくりとジャンヌに近づいた。

「その『癒しの血』が、わらわ達の『渇き』を永遠に癒すという事も」

「『渇き』――?」

「吸血鬼は『渇き』と呼ぶが、『飢え』とも呼ぶ輩もおる。 ――魔族の、人間を喰らいたくなる衝動のことよ」

ジャンヌに触れようとする。だがジャンヌは身構えた。それを寂しそうに見つめながら、アカーシャは言葉を続けた。

「どうかわらわは『渇き』を癒したいのじゃ――血を分けてはくれぬか?」

二つの牙を見せながら。それがアカーシャの真の目的だった。

「断る」

ジャンヌは断った。血を吸われて殺されない保証はどこにも無かった。魔女である彼女の場合は多少吸われても死なないかも知れないが、危険な橋を渡るわけには行かなかった。

「そうか。――では無理やりにでももらうぞ!」

アカーシャの瞳が妖しく輝いた。咄嗟にジャンヌは目を閉じて後方の壁まで下がった。本能的に見てはならないと感じたのだ。あれを見れば、身体の自由を奪われる。

邪眼イービル・アイだ』アスモデウスが言った。『目を見るな、支配されるぞ!』

だが、目を開かねばジャンヌは能力が使えない。

「くッ!」

「わらわ達の仲間となって、永久にここにいるがよい――」

ジャンヌはサーベルを抜き放った。

『右だ!』アスモデウスの声の通りに斬りかかると、何かをかすめた。きっとアカーシャのきらびやかな衣服だろう。

「その方がそなたにとっても幸せであろう? 女帝陛下の御許おんもと、ここは平和で、そなたを害するような者など一人もおらぬ」

「ふざけるな!」

声のした方向に、彼女は切りかかった。だが、またかすめただけに終わる。

「もうそなたは傷つかなくても良いのじゃ。 ――わらわがそなたを守ろうぞ」

「余計なお世話だ!」

声のした方を向いて、ジャンヌはサーベルを振った。だが、当たらない。

「薄情な事を言うでない――わらわ達は一夜を共にし、情を交わしたではないか」

『前だ! いや、後だ――くッ、速い!』アスモデウスの声が上擦る。

「――よもや忘れたのか?」

アスモデウスの指示に従う前に、吐息を感じる距離で囁かれて、ジャンヌはぞっとした。いつの間に接近されたのだ――!?

サーベルを振り回す。だがかすめもしなかった。むわっと甘いムスクの香りがした。

「わらわはそなたを愛しておるのじゃ」

ジャンヌの耳元で声がした。同時に、鋭いものが首筋に二つ触れる。

「堕ちてくるがよい。 わらわが受け止めよう」


 ぶすりと鈍い音がした。


 「あ――な、ぁ、あ!」

ごぼりと口から血を吐きながら、アカーシャは叫んだ。

「――どうして、なの、じゃ!?」

逆手に握ったサーベルを深々とアカーシャの胸元に突き立てながら、ジャンヌは言った。

「臭いで分かった」

目を開く。サーベルはアカーシャの心臓を見事に突き刺していた。

ジャンヌにすがって、ずるずると床へとくず折れながら、アカーシャは呟いた。

「――ジャンヌ、わ、わらわは……そなたを」

死んだ。その亡骸に、ジャンヌは告げた。

「私はお前を愛していない」

 そしてジャンヌはサーベルを抜くと、窓から飛び降りて行方をくらました。虎も、彼女を見ても襲いかかろうとしなかった。

仮にも貴族を殺めてしまったのだ、もうこの国にはいられなかった。ジャンヌは出来るだけ急いで帝国を旅立った。


【ACT六】 使者


 教国に戻ったジャンヌは、元のように放浪の生活に戻った。

 ある日のこと、商人達が声を張り上げている市場を歩いていたジャンヌは、ふと見慣れた後姿を見かけて驚いた。

「あ、アリー!」

人影は振り返った。

立ち尽くすジャンヌを目にして、不思議そうな顔をする。

「アリーだって? 君はアリーを知っているのかい!?」

違う。別人だと、ジャンヌは気が付いた。異国情緒が漂う、アリーとそっくりの青年だが、声が違った。

「……知っていた」


 喫茶店に二人は連れ立って入って、話し合った。

青年の名はウサインと言った。

ジャンヌは手短に、自分とアリーに起こったことを話した。

ウサインは最初は信じられないという顔をしていたが、彼女が市民証を見せると、とうとう信用した。市民証は帝国の貴族でなければ発行できないのだ。

「アリーは天翔ける船から落ちて行方不明になったのか――道理でいくら経っても帰還しないハズだ」

彼は頭を抱えた。

「お前とアリーは、どういう関係なんだ?」

「従兄弟だよ」

なるほど、とジャンヌは納得した。親族だからそっくりなのか。

 「……実は、アリーの不帰還が原因で、戦争が起ころうとしている」

ウサインはややあってから、打ち明けた。

「戦争だと?」

ジャンヌは目を大きく開いた。

「過激派が、女帝陛下をそそのかして、起こそうとしていると言った方が正しいけれどね。 ――僕は穏健派に属していて、それを止めるために使者として派遣されたんだ」

「つまり」とジャンヌはサーベルを手にしながら言った。「お前が死ねば、戦争を堂々と始められると言う事か」

「君は一体何を――!?」

ウサインが身構えた時だった。喫茶店の扉や窓を突き破って、覆面姿の人影が数名、凶器を手にしてなだれこんで来た。

店にいた客から悲鳴が上がる。

「いたぞ!」

「殺せ!」

ウサイン目がけて、刺客は襲いかかる。だが、彼らはその途中で炎上した。絶叫が上がる。炎に包まれて彼らは暴れていたが、やがて動かなくなった。

「す――凄い」

うって変わった甲高い声に、ジャンヌは振り向いた。ウサインはいなかった。代わりに一〇歳くらいの少年が席に腰掛けていた。

「?」

ジャンヌは不思議そうな顔をした。さっきまではそこには確かにウサインが座っていたのだが――まさか、もう過激派にやられたのか?

「僕は二重影人ドッペルゲンガー――擬態能力メタモルフォーゼで、誰にでもなれるんだ」

少年は、ウサインの口調でそう説明した。


 二人は一緒に行動することになった。ウサインはジャンヌの戦闘能力が、ジャンヌはウサインの帝国大使という身分の隠れ蓑が必要だった。ジャンヌは過激派をいつも撃退した。屈強で熟練した異端審問官ですら、身分を知るとウサインを化物のように恐れた。ウサインが言えば、ジャンヌはノーチェックでどこにでも入ることが出来た。二人は共存共生関係にあった。

 「僕は枢機卿に会わなければならない」

ウサインは言った。彼は、今は、威厳ある老人の姿を取っている。

「枢機卿? 法王ではなくて?」

確か、教国を統べるのは法王だと聞いていたが――。

「枢機卿とは、教国を支配する、一三人の最高権力者のことだ。 昔はともかく今では法王はお飾り的なもので、大した実権は持っていない」

「そうなのか」

「君の国のことじゃないか」ウサインはちょっと咎めるように言った。「僕に教えられてどうする」

「私は、どこにも属さない」ジャンヌは答えた。「私は魔女だ」

「――そうか。 すまない」ウサインは素直に謝った。

「いいんだ」

ジャンヌが首を振った時だった。

その視界の端に、見つけた!街の人混みの中、懐かしい人影を。

「――アリー!」

ジャンヌは叫んで、走り出した。ウサインも慌てて後を追う。老人の姿では走りにくいため、元の姿に戻った。

だが――人影は、人ごみに紛れて、消えてしまった。

「アリー……」

ジャンヌ達が立ち尽くした時だった。


 「見つけたぞ、ウサイン!」


 高らかな声が天から響いた。二人が弾かれたかのように、顔を上げた。

目の前の建物の上に、綺麗な、浅黒い肌の女が立っていた。

「ジャミーラ!」ウサインが引きつった声を上げた。「どうしてお前がここに!?」

「敵か」ジャンヌがサーベルを抜いた。

「敵だなんてモンじゃない」焦った声でウサインが叫んだ。「アイツは、過激派の幹部の一人だ!」

ばっとジャミーラは二人の前に降り立った。通行人がどよめく。あれだけの高さから降り立ったと言うのに、ジャミーラは怪我一つしていなかったのだ。

魔族だ、と次々と声が上がる。異端審問官を呼べ!

「汝、ウサインの護衛か」

ジャミーラは高飛車に言った。背が高いので、ジャンヌ達は見下ろされる。

「そうだ」

ジャンヌが答えた瞬間、彼女は見えない拳に腹部を殴られた。

「ぐ、ふ――!?」驚きに、彼女は目を見張った。

「死ね!」ジャミーラの目が白くまばゆく輝いた。

念動力サイコキネシスだ!』アスモデウスが叫んだ。

前かがみになったジャンヌの顎が殴られた。視界が衝撃で白く染まる。

半分気を失いかけたジャンヌの体が、逆さに持ち上がった。思い切り壁に叩きつけられる。血が飛び散った。

「ジャンヌ!」ウサインの叫びに、ジャンヌははっと正気を取り戻した。だが、身体はジャミーラの意のままに振り回される。

今度は屋台に放りこまれた。商品の棚が無残にも崩れ、うわあと商人が叫ぶ。それに構わず、ジャンヌは飛び起きた。かすむ目を奮い立たせて、ジャミーラ目がけて発火させる。だが狙いは外れた。

「なッ!?」

しかし、ジャミーラの服に、炎が燃え移った。消そうとした腕を、ジャンヌは凍りつかせることに成功する。

「貴様、よくも!」

ジャミーラは後ずさった。すぐにその姿は見えなくなる。逃げたのだ。

それを確認した途端、ジャンヌの意識が薄れだす。がくりと膝を突き、地面に倒れた。

「ジャンヌ!」ウサインはジャンヌを担いだ。「しっかりするんだ!」

異端審問官達が駆けつけてきて面倒な事になる前に、彼らも逃げ出した。


 宿に彼らは急いで泊まった。ジャンヌはなかなか目を覚まさなかった。

ウサインはさらさらと書状をしたためて、彼女の枕元に置いた。

「僕を消しにジャミーラ張本人が来たと言う事は、過激派は相当焦っていると言う事だ」

昏々と眠るジャンヌに向けて、彼は重い声で言った。

「ヤツらは戦争をするためなら、何をするか分からない。 だから、僕は可能な限り急いで枢機卿に会いに行かなければならない。 ――残念だけれど、ここでお別れだ。 上手く行けば、また僕達は会えるだろう」


 枢機卿デルヴィエールは、その日も執務室で精力的に仕事に励んでいた。化物どもが事件を起こさない日は無いのだ。異端審問官を統括する彼は、毎日のように化物達と戦っていた。

「げ、猊下」扉がノックされて、一人の異端審問官が入ってきた。「め、め、面会したいとの者が――」相当焦っているのか、どもっている。

「誰だ?」

「帝国の大使だそうです!」

「!」

すぐに帝国の大使は彼の執務室に通された。使者は、若い、異国の顔立ちをした青年だった。ウサインと名乗った。

「御用は何ですかな」丁寧な口調で、デルヴィエールは訊ねた。帝国のご機嫌を損ねたら何が起こるか、何をされるか、分からないからだ。

「実は――」

と青年は語りだした。

帝国の過激派が教国との戦争を望んでいる。それを止めさせるために彼がここに来た。どうか戦争を始めないで欲しい。

「なるほど――」話を聞いて、デルヴィエールは深々と頷いた。「話は承りました。 私の方から枢機卿会議にて申しておきましょう」

帝国との戦争となると、一大事だった。

早速、枢機卿会議を招集せねばなるまい。

 ところで、と彼は訊ねた。

「話から推測するに、過激派とやらに貴君の御命が狙われてもおかしくはなさそうですが、護衛の者は?」

「襲われて、負傷しました――宿で寝ております」青年は唇を噛みしめた。

「何ですと?!」

デルヴィエールは心底慌てた。平和を求める使者の身が害され殺されたとあっては、戦争を始められる格好の口実となってしまう。それだけは絶対に避けねばならない。

彼は急いで異端審問官を呼びつけた。

「彼が無事に帰れるまで、目を放すな!」

「お待ち下さい!」今度はウサインが慌てる番だった。彼はこの地ではジャンヌや自分達のような魔族が迫害されている事を知っていた。「それでは護衛の者が困ります。 お気持ちは分かりますが、結構です」

「そうは行きませんな」デルヴィエールは強引な口調で言った。「宿へは迎えの者をやりましょう――何かご不満でも?」


 ジャンヌは目を覚まして、枕元の書状に気が付いた。

それを読んで、彼女は刮目した。

「一人で行ったのか――?!」

起き上がろうとして、酷い頭痛に襲われる。包帯の巻かれた頭を押さえて、うう、と呻いた。まだ回復しきっていないのだ。

『待て』とアスモデウスは彼女を止めた。『今更行っても、遅いぞ』

「彼を殺させる訳にはいかない!」

ジャンヌは気力を振り絞って立ち上がった。その時、宿の主人が彼女に来客を告げた。

「来客だと――」ジャンヌは不思議そうに呟いた。


 宿の前で「ったく、早く護衛様が出てこねえかな……」などと考えながらぼんやりとしていたヴィルヘルムは、出てきた人影を見て、唖然とした――というより、想定外の事態に度肝を抜かれた。

それは、出てきた人影も同じだった。

「あ、魔女!」

ベルトランを殺し、拷問を受け、処刑の寸前に嵐を呼んで天翔ける船に拉致されて消えた魔女が、そこにいたのだ。

「異端審問官!」

ばっと離れて、彼は武器を――巨大な長槍――を構えた。

「どういう因縁か知らねぇが、のこのこ出てくるとは良い度胸じゃねぇか」

同僚ベルトランかたきを、討ってやる。彼は獰猛な笑みを口の端に浮かべた。

「どうしてお前がここにいる」

魔女は、サーベルを正眼に構えながら言った。

「帝国の大使の護衛を迎えに来たのさ!」

「なッ!?」魔女は、目を見張る。「ウサインは、無事に辿り着いたのか!?」

「ど、どうしてお前が大使の名前を知っている!?」

まさか、とヴィルヘルムはそこで気が付いた。

「お前が大使の護衛なのか!?」


 デルヴィエールは、目の前の光景に固まった。身体制御術式を組み込まれているとは言え、帯剣した魔女が、異端審問官の背後から彼を睨みつけていたのだ。

「じゃ、ジャンヌ!」

さしもの彼も、うろたえた。

「どうしてお前が――」そこでヴィルヘルムのように彼も事情に気が付いた。「何という運命だ……」

その運命の滅茶苦茶な采配に、ただただ彼も絶句する。

「殺してやる!」

サーベルを抜き放って、ジャンヌは襲い掛かろうとした。だがその前にウサインとヴィルヘルムが立ち塞がる。

「待て! 彼を殺すんじゃない!」

「退け、ウサイン!」

魔女は吼えた。

「彼を殺せば戦争になるぞ! それでもいいのか!?」

「お前達の都合など知った事か! そこを退け!」

「いいや、退かない!」

ウサインの姿が変わった。デルヴィエールと瓜二つに。

本当に衣装までそっくりで、ジャンヌには見分けが付かなくなってしまう。

「余計な真似を!」

ジャンヌは渋々――本当に嫌そうに――サーベルを収めた。

途端に、ずきんと頭が痛む。頭を抱えて、彼女はうずくまった。

彼女に素早く近づくと、ヴィルヘルムは手錠をかけた。

「!」ジャンヌは目を見開く。

「殺さないだけ、ありがたいと思え!」ヴィルヘルムは本当に不満げだった。

ウサインの姿が、元に戻る。ジャンヌの元に駆け寄ると、彼は囁いた。

「ヤツらに君の身を害させはしない。 どうか安心してくれ」

「ふざけるな!」ジャンヌは喚いた。「私の邪魔をしておいて、今更何だ!」

「君とデルヴィエール卿との間に何の因縁があるかは知らない」冷静な口調で、ウサインはなだめた。「だが、大義のためだ、我慢してくれ」

「嫌だ!」ジャンヌは身をよじった。「大義が何だ! 大義など所詮はデマだろうが! アイツだけは許さないと誓ったんだ!」

 その時だった。不意に周囲が騒がしくなったかと思うと、一人の異端審問官が駆け込んできた。

「大変です、何者かの一団が、攻めて来ました!」

泣く子も黙る検邪聖省に攻めてくる相手など、今までいなかった。そんな度胸のある化物など、そんな呆れた者の集団など、いなかったのだ。

「何だとぅ!? 応戦するのだ!」

はっ、と命令を受けた異端審問官達が、部屋の外へと駆けていく。後にはヴィルヘルムだけが残った。

「きっと過激派だ」ウサインが呟いた。「僕らの命を狙っているに違いない」

「その通りだ!」

窓の外から、声が高らかに響いた。

途端に、窓ガラスが全て割れて、雨風が勢いよく吹き込んできた。

おそらくは念動力で飛空したのだろう――ジャミーラが割れた窓から入ってきた。入ってくるなり、言った。

「死んでもらおう! 貴様らには!」

「――貴様ァ! 『疾風怒濤シュトルム・ウント・ドランク』!!!」

ヴィルヘルムが長槍を構えて、挑みかかった。神速の一撃だった。

どんな化物でもこれを喰らえば、一撃の元に仕留められる――。

「ふん――一介の人間に、このわらわが止められるものか!」

だが、ジャミーラは鼻でせせら笑う。

ガキン、とヴィルヘルムの長槍が透明な壁に阻まれた。

「なッ――」

驚く間も無い次の瞬間、見えない拳の一撃で、ヴィルヘルムの巨体が軽々と吹っ飛んだ。ジャンヌは自分の方へ飛んできたそれを、辛うじて避ける。ごぼ、とヴィルヘルムは嘔吐した。体が勝手にがくがくと痙攣する。急所に見事に命中したのだ。

「ジャミーラ!」ウサインが叫んだ。「どうしてそんなに戦争を始めたいんだ!?」

ジャミーラは笑みを浮かべた。会心の笑みだった。

「優れた種族が愚かな種族を支配して何が悪いのだ」

「ふざけるな! そんな狂った考えが許されるとでも思っているのか!」

「わらわには汝ら穏健派の考えの方が理解できん。 帝国以外の場所では、我々は迫害されておるだけではないか。 復讐して、何が悪い」

「僕達と分かり合える人間もいる! お前達の狭苦しい世界で、物事を決め付けるな! そんな古臭い考えで、この時代を生きていけるとでも思うのか!」

「いくら古かろうと、あった事は無かったことには出来ん!」


 「おい」とジャンヌは痙攣するヴィルヘルムを足先でつついた。「手錠と身体制御術式を解け」

「ぐはッ――な――何だとぅ!?」ヴィルヘルムは目を見張った。「そんな事が、で、きるか!」

「じゃあヤツらは全員死ぬぞ、お前がその様ではな」

冷酷な声でジャンヌは言った。

ウサイン、デルヴィエール共に戦闘能力はゼロに等しい。ヴィルヘルム無しで、強大な力を持つジャミーラ相手に敵うはずも無かった。

「ち、畜生――!」

ヴィルヘルムは屈辱に歯を食いしばった。こんな屈辱は、生まれて初めてだった。


 がっ――と見えざる手にウサインは掴まれた。宙に持ち上げられる。息が詰まって絶息し、ウサインは息も絶え絶えの状態になった。

「汝のご託も、これまでだ!」

ジャミーラは凶悪に笑った。

「そうは行くか」

だが、いきなりサーベルが彼女を薙ぐ。辛うじて避けたが、ジャミーラの頬に血の筋が浮かんだ。ウサインを手放してしまう。

「貴様! また会ったな! 何者だ! 氷と炎を操る者め!」

距離を取ってジャミーラは言った。ジャンヌの能力を恐れてのことだった。

「魔女だ」

「何だと――魔女の血統は、まだ絶えていなかったのか!」

信じられないようにジャミーラは呟く。

「お前」とジャンヌは呟いた。「三人の魔女について何か知っているな」

「知っていたらどうだと言うのだ?」ジャミーラは鼻で笑った。

「教えろ!」

「断る!」

ジャンヌの周囲で、炎が爆発的に燃え上がった。それは雨を蒸発させ、大量の湯気を生み出す。

ぐわん、とその空間が撓んだ。見えざる手だ。ジャンヌは転がってそれを避ける。一気に距離を詰めながら、ジャンヌはサーベルを振りかざした。

「小癪な!」

ジャミーラは壁を展開した。だが、よけられる。湯気が、壁の形で、その空間の空白を作っていたのだ。

「お前の手は」とジャンヌは叫んだ。「もう見えざる手じゃない!」

一閃。ジャミーラが血をまき散らしながら倒れた。それでも、まだ彼女には息があった。辛うじて、生きていた。

「次はお前だ!」

めらめらと燃え上がる炎を背後に、ジャンヌはデルヴィエールを見すえた。

「な――」

じり、とデルヴィエールが青ざめて後ずさる。

それを追って一歩一歩迫りながら、ジャンヌは言った。

「この瞬間を何年も心待ちにしていた――お前を焼き尽くす瞬間を!」

とうとう壁に背中が当たって、デルヴィエールは一歩も下がれなくなる。

ジャンヌの双眸が赤く輝いた。その時だった。

 「猊下! 撃退に成功しました!」

コルネーリア達、異端審問官が、扉を開けたのは。

そして目の前に広がる光景に、口々に叫ぶ。

「ま――魔女めッ! 猊下ッ!」

コルネーリアの瞳の色が、豹変した。じゃきん、と義手を構える。

「魔女よ、今度こそ我が手で滅ぼしてくれる!」

「――!」

マズい。たとえデルヴィエールを倒したとて、次に彼女を待ち構えているものは、これでは決定している。

『ジャンヌ、逃げるのだ!』アスモデウスが叫んだ。

「嫌だ!」ジャンヌは叫んだ。「折角ここまで来たのに――!」

『お前は、生きねばならん!』

ジャンヌは唇を噛みしめた。悔しさと悲しさを堪えて。

そして体を翻すと、割れた窓から身を躍らせた。


 ジャミーラが焼かれる日がやって来た。

ウサインは火刑台を複雑な思いで貴賓席から眺めた。一度は殺されかけた相手ではある、だがいくらなんでも焼き殺すのは可哀想ではないのか――しかし彼は行動に移そうとはしなかった。

「いよいよですな」

涼しい顔で隣席のデルヴィエールが言う。

火刑台の上にジャミーラが引き立てられて――拷問を受けたのだろう、ほとんど引きずられるようだった――鎖で柱に縛り付けられた。群集がどよめく。今度焼かれる女は、若く、美しかったのだ。残虐だが最高のショーだった。薪がその周囲に積み立てられる。死刑執行人が火をつけた。煙が上がる。

 「待て!」

その時、声がとどろくと共に、火刑台の上が爆発した。

火の粉を浴びて逃げ惑う群集の中から一人が火刑台に飛びのった。きょとんとしているジャミーラの鎖を、解く。

その人影が誰であるか知って、ウサインは顔色を変えた。

「ジャンヌ! 裏切ったな!?」

彼は叫んだ。

「――」

ジャンヌは、ちらりと彼の方を一瞥した。だが、すぐにジャミーラの腕を掴むと、異端審問官が駆けつける前に、群衆の中に飛び込んで姿を消した。

 人気の無い所まで逃げると、ジャンヌはようやく足を止めた。

「い――一体何が」

ジャミーラはまだ事態が飲み込めないようだったが、呟いた。

衰弱しきった身体で、ここまで逃げてこられただけ上等だった。

「――あ」

ジャミーラはそう言ってその場に座り込んだ。自分のぼろぼろの両手を見つめて、それからジャンヌを見て、ようやく言う。

「――わ、わらわをどうして助けたのだ?」

わざわざ異端審問官に見つかる危険まで冒して、一体何故。

「三人の魔女について何か知っているだろう?」ジャンヌは訊ねた。「教えてくれ」

なるほど、とジャミーラは頷いた。

「――ヴァルプルギスという魔女の居場所を知っておる」

「!」

ジャミーラは地名を言った。

「ここにおると、昔、話に聞いた――」

「そうか。 ありがとう」

「礼を言うのはわらわの方じゃ」

ジャンヌはもう十分だとばかり去っていく。

「この恩、一生忘れはせんぞ――!」

その背中に向けて、ジャミーラは叫んだ。


 ジャンヌは高台から、街道を過ぎ行く人の群を見つめた。次の街へと歩いていく途中だった。様々な顔が通り過ぎていく。

だが、彼女の探している人の顔は、杳として知れなかった。

「――アリー、どこにいるんだ」

返答は相変わらず無かった。


 帝国に帰還したウサインを待ち受けていたのは、開戦という予想外の事実だった。

「な――」

彼は青ざめる。

「何故ですか?!」

「女帝陛下の御意思だ」

苦々しげな、だがどこか諦めた口調で、穏健派の幹部は言った。

彼ら帝国貴族にとって、女帝陛下の意思は絶対だった。とても抗うことなど出来はしない。彼ら貴族は女帝の忠実な臣下として生きるように、幼い頃から教え込まれてきているのだ。

「君には謹慎処分が下るだろう――」

「そんな――一体何のための使者だったんですか!?」

ウサインは床に膝を突いて、頭を抱えた。

苦悩する彼を哀れに思って、幹部は席を外した。

「どうして――どうしてだ! 何故だ! 何故戦争を!」

床にツメを立てて、かきむしる。

瞬間的にその頭を過ぎったのは、ジャミーラを火刑から助けた魔女の最後の姿だった。

「よくも――よくも助けたな!」

彼は誰も聞くもののいない呪詛を吐き出した。

「裏切り者め!」


【ACT七】 破壊の魔女と死の魔女


 崖っぷちの古びた館は、曇天の中、無言の威圧感をかもし出していた。一体何年何十年と時間の経過に耐えてきたのだろうか、とジャンヌは思った。正確な年数は分からないが、相当なものに違いない。

とんとん、と固唾を呑んで扉を叩く。扉は自動的に、彼女を内へと誘うかのように開いた。

中へ足を進める。ぼぼぼっと壁の燭台に次々と炎がともった。その炎が示す道をジャンヌは進んでいく。やがて、一つの扉に突き当たった。

扉は開かれる。

そこは――貴族的な趣味に彩られた、美しい、だがどこかしら投げやりな一室だった。退廃と絶頂が同時に存在しているような、矛盾した印象をジャンヌは受けた。

「ようこそ――いらっしゃい」

金属的な響きの声が彼女を出迎える。くるりと窓辺の大きな椅子が回転した。そこに腰掛けていたのは、ジャンヌと同い年か、少し若いくらいの少女だった。豪華な金髪が、その足元までゆるくウェーブを描いている。美しい。ジャンヌは息を呑んだ。だが一室と同じように、どこか退廃的な印象を受ける。滅び去る寸前の繁栄。歪んだ真珠バロック。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

「貴方が――ヴァルプルギスですか」

ジャンヌは、丁寧な口調で訊ねた。ともすれば声が震えそうになるのを、辛うじてこらえていた。

「私が破壊を司る魔女、ヴァルプルギスことヴァルプ」少女は椅子を立って、ジャンヌの元へと近づいた。「貴方も魔女ね、血が呼応しあっているわ」

「――はい」

お互いに初見であるのに、どこか慣れ親しんだ感情を、彼女達は抱いていた。あたかも、肉親同士が再会した時のような。

「私に、聞きたいことがあるのでしょう?」

ヴァルプは、言った。

「何でもお聞きなさいな」

「私は――どうして魔女になったのですか、人間に戻れるのですか?」

ジャンヌは緊張のあまりもつれそうになる舌を抑えて、言った。

「魔女が魔女になったのは、魔女の血統の、存在の宿命。 かの救世主の起こした奇跡の一つ」

ヴァルプは淡々と言った。

「元に戻る方法など、ありはしません」

「――!」

ジャンヌは両目を見張った。

「そんな――」

それだけ言うのが、精一杯だった。

元に戻れる日がいつか来ると信じて、戻りたくて、今まで頑張ってきたのだ。

それが――この一瞬で瓦解した。その衝撃は凄まじかった。

何も言えない彼女に、優しくヴァルプは話しかけた。

「ここで共に暮らしませんか? 異端審問官もここまでは来ません。 残りの一生を、平穏と平和の内に過ごすのも悪くは無いでしょう?」

「――」ジャンヌは、しばらく考えた。それから、首を左右に振った。「お断りします」

「何故?」ヴァルプは、声音を変えた。剣呑な声で。「それがいけない事だとでも思っているの?」

「違います」

ジャンヌは、また首を左右に振った。

「私の生きる道は、平穏や平和とは無関係なんです」

ヴァルプの表情が豹変した。だが、それを見せないように彼女は俯いた。

「――そう」

不穏な気配を感じて、ジャンヌは不思議そうな顔をした。

「?」

「――残酷の極みとは、否定だ」ぼそぼそとヴァルプは俯いたまま、呟いた。「だがお前はそれをやってきた。 まるであの機械仕掛けの神のように。 お前は、いつもいつもいなんでばかりで、人の幸せというものを考えた事が無い。 一度も無い。 これからも無いだろう」

低い声で彼女は言った。

「お前さえいなければ、幸せに至れた者も数多くいただろう」

――どん、と空間がいきなりに振動した。突如として、そこに人影が出現する。

ジャンヌは目を見張る。

「――F・ダッチマン!」

ヴァルプに召喚された男はきょとんとしていたが、ジャンヌを目にして驚いたかのように口を開いた。驚きのあまり言葉は出てこなかったが。その背後で、曇り空が嵐に変わる。

「この男のように、お前に否まれたばかりに異界に堕ちた者もいる」

ヴァルプは顔を上げた。激怒の表情だった。

はっとジャンヌは息を呑む。

「お前は何と残酷な女なのだ! この私をも否むとは! お前はあの機械仕掛けの神と同じだ! ――許さない!」

ばちばちッと空間が帯電した。ヴァルプの豪華な金髪が、静電気でふわりと持ち上がる。

「私はお前を許さない!」

白い稲妻が走った。

『――いかん、ジャンヌ!』アスモデウスが焦った声で言った。『逃げるのだ!』

「え――!?」

だが、ショックからまだ立ち直っていない少女は、動けなかった。

彼女は、しかし、突き飛ばされる。

F・ダッチマンだった。ジャンヌの代わりに、稲妻を浴びた。

「――ぐッ!」

黒焦げになりながらも、辛うじて彼は生きていた。

ジャンヌを抱き上げて、窓から飛び出す。

「否まれても尚慕うか」ヴァルプが嘲るかのように言った。「下らぬわ」

窓の外には、嵐を呼んで天翔ける船が待っていた。ジャンヌ達を乗せると、急いで発進する。

その後ろ姿に向けて、ヴァルプは呪言を怒鳴った。「どこまでも――どこまでも追いかけてやる! この私を否んだことを一生後悔するが良い! 血肉に刻んで覚えておれ!」


 船に乗ったジャンヌは、柄にも無くぽかんとしたままだった。

「F・ダッチマン、どうして――」

「お前に去られた後、私は滅んだ。 滅んだはずだったのだが――気が付けば異界にいた。 悪魔になっていた。 お前に会いたくて、その未練が残っていたのだろう。 お前にもう一度否まれることが本当に恐ろしかった」

違う、とジャンヌは叫んだ。彼女は戸惑っていた。

「どうして助けた?!」

F・ダッチマンは静かに言った。

「今の我輩が恐ろしいのは、あの女がお前を害することだけだ」

「――」

ジャンヌは黙り込んだ。沈黙が辺りを支配する。

ややあって、彼女は呟いた。

「これから私はどうすればいい――?」

三人の魔女に出会って、平凡な少女に戻ることだけが望みだったのに。それは叶わない夢だったのだ。夢は覚めたのだった。理想は現実に敗れた。まどろみの夜は去り、残酷な朝が来てしまったのだ。

F・ダッチマンは言った。どこか慰めの調子を含んで。

「今はとにかく休むのだ」


 夢を見た。

草原の中、風に吹かれながら、彼女に向けて優しく微笑んでいる女がいる――。

「母さん!」

ジャンヌは絶叫して、駆け寄ろうとした。だが届かない。

どんどん女の姿が遠ざかっていく。

「待って母さん! 待って――」

視界から見えなくなると、彼女はその場にくずおれた。


 「一人にしないで!」


 彼女は叫んで、寝台から飛び起きた。泣いていた。

その彼女をじっと悪魔が見つめていた。

『どうした、ジャンヌ。 我がお前を一人きりにはせぬぞ――』

「うるさい」

そう言われてもアスモデウスは慣れたもので、彼女の手を握ると、優しく話しかけた。

『それで、お前はこれからどうするのだ? 復讐か? それとも放浪か? どの道お前は魔女なのだ。 好きな道を選ぶが良い』

「母さんに会いたい」

ジャンヌははっきりとした声で言った。

「会って話がしたい」

『そうか。 ――それも良いだろう』

アスモデウスは頷いて、彼女の手を離した。心底名残惜しそうに。

本当は、彼女を連れて異界へ行きたかったのだ。

『それならば、残る二人の魔女が何やら知っておるかも知れんな――』

「探そう」ジャンヌはためらい無く言った。

 ――「ヘカーテについて、異界で噂を聞いた」

F・ダッチマンが重たい口調で言った。どんな噂だろうとジャンヌは耳を澄ます。だが、あまり良くない噂だろうと予想は付いていた。

「どうやら検邪聖省の支部の一つ、バヴァリアに囚われておるらしい」

「!」

異端審問官が詰め寄っている、最高警備のあの場所へは、流石の彼女も侵入できない。

どうしたものだろう――考えていた彼女は、ふと閃いた。

「敵の敵は、味方になりうる」

「――ジャンヌ、まさか」

驚くF・ダッチマンにジャンヌは頷いて見せた。

「現在教国を侵略していると噂の、帝国軍に協力する」


 帝国軍は、既に教国領内、内陸奥深くまで進軍していた。教国と帝国では、その軍事力に圧倒的な差があるのだった。だが慣れない土地で、いくつもの要塞に阻まれて、その進軍の速度は遅かった。

ジャンヌが門を叩いたのは、その陣地の一つだった。

「誰だ!」

番兵が彼女を止めた。

「ここが帝国軍第一三師団の陣と知っての事か! 何用だ!」

「ああ」彼女は市民証を見せた。教国の内部で見かける事など無いそれに、番兵は目を丸くする。「協力したくてやって来た――私は魔女だ」

彼女は師団を率いる将軍ミクローシュに謁見した。壮年の狼人間だった。

「そちが我らに協力したいという魔女か――だが」

ぎらり、と眼光鋭く彼女を睨む。

「信用ならんな。 教国側のスパイかも知れん」

疑われるのも当然の状況だった。ジャンヌはすぐに納得して、

「そうじゃないと証明するには、何をすればいい」

「これから我々は検邪聖省の支部がある城塞都市バヴァリアを攻略せねばならん。 ――検邪聖省には、我々魔族を討伐するのに優れた異端審問官という輩が居ると聞く。 彼らをせん滅するべく、陽動させる囮をやれぬか?」

それは、もっとも危険な役割だった。失敗すれば、命は無い。

「いいだろう」だが、ジャンヌは頷いた。それしか道は無いのだ。

 帝国軍が迫ってくるとの噂を聞いて民間人が逃げ出したバヴァリアは、閑散としていたが、軍人と傭兵がその代わりに大勢詰め寄っていた。

その中に入るのにも門が固く閉ざされていて、一苦労だった。もっともF・ダッチマンの船があれば、問題は無かったが。

 ジャンヌはまっしぐらに検邪聖省を目指す。

 ――そこの門番達が、近づいてくる彼女を見て、目を丸くした。

門番をやっていたのは、また、何の運命か、ヴィルヘルム達だったのだ。

「お前――どうしてここに来た!?」ヴィルヘルムは問い詰めた。

「別に」嘲笑うような口調で彼女はうそぶいた。「お前の顔が見たくなった」

「――ざけんじゃねぇぞ魔女が!」

ヴィルヘルムは一瞬で激怒して長槍を構えた。ジャンヌは身を翻して逃げ出す。

それを見て、ヴィルヘルムはもう一人の門番目がけて叫んだ。

「俺が追う! お前は仲間を呼んで来い!」

追跡劇が始まった。ジャンヌとヴィルヘルム、その後に続く異端審問官達の一団。あのベルトランを殺した魔女なのだ、圧倒的大勢で仕留めねば危ない。ほとんどの異端審問官が彼女を追った。

だが、城壁辺りで魔女の姿は忽然と消えた。帝国軍を恐れて固く閉ざされた城門から外へ逃げられるはずは無いのに――何故。

「――おい!」

だが、門の外から揶揄するかのような大きな声が上がった。

「お前達は、それだけ大勢でありながら、魔女一人も殺せないのか、無様だな!」

何だとう!?ヴィルヘルムはこれ以上無いほどに激昂した。

「門を開けろ!」門の側にいた不幸な兵士に彼は詰め寄る。

「で――出来ません! 帝国軍が間近に迫っているのです!」

兵士は彼の勢いに圧倒されたが、辛うじて断った。

ヴィルヘルムは額に青筋を幾本も浮かべて、

「ああそうかい! じゃあ無理やりにでも通らせてもらうぜ!」

長槍を構えて、門扉目がけて突進した。


 凄まじい轟音が辺りに響く。


 粉砕された門扉の向こうから、魔女が目を丸くして彼を見つめていた。

「ブチ殺すぞ、魔女!」ヴィルヘルムは雄たけびを上げた。

「嫌だ」

魔女は脱兎のごとく走りだした。

「待てやゴラァ!」

ヴィルヘルムは吼えながらまっしぐらにその後を追った。

 ――とうとう崖っぷちまで追いつめた。

ヴィルヘルムは獰猛な笑みを口の端に浮かべた。

「もう逃げられねぇぞ――!」

魔女は、黙って振り返った。

そこに、コルネーリア達後続の一団が駆けつけてくる。

「魔女め」じゃきん、と義手を構える。「死ぬがいい!」

だが、魔女の瞳には恐怖も絶望も無かった。むしろなすべき事を達成した者のみが持つ、満足感すら抱いているようだった。

「死ぬのはお前達の方だ」

コルネーリア達の背後に、気配がした。

彼らがはっとして振り向くと――背後の森の中から武装した軍隊が――旗を見る限り帝国軍だった――音も無く、いつの間にやら、彼らに銃口を向けていた。

「一斉射撃用意!」

それを率いるミクローシュが、叫んだ。

「魔女よ、礼を言うぞ!」

ヴィルヘルムは悟って、怒鳴った。

「騙しやがったな!」

「騙したと言えるほど、お前達と私の間には信頼関係があったのか?」

無い。物の見事に陽動されてしまった彼らの方が悪いのだった。

「くッ――!」

魔女は崖っぷちを伝い、帝国軍の方へそろそろと移動した。

それと同時に、無数の銃口が異端審問官達を狙い、殺意を放つ。

「発射!」

ミクローシュの声と同時に、ばたばたと異端審問官達が銃弾に当たって倒れた。

「ち――畜生!」地面に身を伏せたヴィルヘルムが悲痛に叫んだ。「こんなのって――こんなのってあるか!」

彼らは絶体絶命だった。逃げ場はどこにも無く、助かる術は何も無かった。

 その時だった。

不意に天がかき曇ると、ごろごろと雷雲が鳴り出した。

そして――猛嵐のように稲妻の群が帝国軍を襲った。

辺りが一瞬、真っ白に染まるほどだった。

「「!?」」

次々と帝国軍の兵士が倒れた。黒焦げになって。

だが、こんな雷などありえない。意志を持っているかのように帝国軍だけを襲う雷など――。

「な――」ミクローシュが叫んだ。「何が起きたのだ!?」


 「私はお前を許さないと誓った」


 唐突に、上空から声が降ってきた。

弾かれたようにジャンヌは天を見上げる。

優雅に地に舞い降りてきたヴァルプが、金髪を揺らめかせながら、凄まじい憎悪の眼差しでジャンヌを睨みつけていた。

「――今ここで、朽ち果てるがよい!」

ばちばちッと激しい放電現象が起きる。

「!」

ジャンヌは咄嗟に地面を転がった。直前まで彼女がいた地点に稲妻が命中する。かすめただけで、彼女の身体は痺れ、衝撃に震えた。

「くッ――」それでも、遮蔽物の多い森の中へ逃げ込む。

「逃がさん!」

落雷が木に命中して、大きく裂けた。それでも辛うじてジャンヌは木々の中へと身を隠した。

だが、そこにどしゃぶりの雨のように稲妻が降りそそぐ。

「どこにおるのか分からねば、全て消してしまえばよいわ」

だが――落雷を受けた裂けた木々から炎が燃え上がる。その中から、人影が姿を現した。ジャンヌだった。ぎりぎりで落雷と側雷から外れていたのだった。痺れる身体を抑えて、ジャンヌは叫んだ。

「私はお前を倒す!」

「やれるものならやってみるがよい!」

ヴァルプの背後の木が、爆発炎上した。同時に凍結した木が根元から彼女目がけて倒れてくる。

「なッ――」豪華な金髪に火が燃え移る。それを消し止めながら、ヴァルプは飛びすさった。「貴様、氷と炎を操る者か!」

落雷を落とす。それをジャンヌは地面を這うようにして避けた。

接近しようとしている。

それに気付いたヴァルプルギスは、前方に雷を落とした。ジャンヌは寸前でかわす。だが、そこに落雷で裂けた木が倒れてきて足を止めた。

思わず、止めてしまった!

「私を誰だと思っている、破壊の魔女だぞ!」

ヴァルプはそこ目がけて最大級の稲妻を落とした。

直撃した。

ヴァルプはそう思った。

だが次の瞬間、彼女の身体は猛炎に包まれていた。

何故――?!

咄嗟に目を見張ると、黒焦げの人影がジャンヌを庇っているのが見えた。稲妻を彼が受け止めたのだった。

「――ま」美しい髪も、顔も、身体も炎に包まれながら、ヴァルプは呟いた。「魔女を、殺した者は、魔女の魂を得て、魔女になる――」

死んだ。

破壊の魔女、ヴァルプルギスは焼け死んだ。

 ジャンヌは倒れているアスモデウスを担ぎ起こした。

「どうして庇った――!」

今まで一度も庇ったことなど無いくせに。

うう、と気絶から回復して彼は呻く。

良かった、生きていた。ジャンヌは安堵した。

『庇わずにはいられなかった』

アスモデウスは苦しい息の下、言った。

『――しばし異界へ帰って、身体を休めてくるとしよう』

「分かった」ジャンヌは頷いた。「ありがとう、アスモデウス」


 森から出ると、ミクローシュが崩れかけた軍隊を立て直している所だった。異端審問官達の生き残りはその隙に逃げてしまっていた。

「作戦は失敗だった」

彼はジャンヌを見とめて残念そうに言った。

「だが君は任務を完遂した。 どうやら教国のスパイでは無いようだな」

「当たり前だ」ジャンヌはぶすっとした顔で呟いた。

 帝国軍は、増援を待って、それから一週間後、バヴァリアを陥落した。身代金を払って、敵の将兵達は解放された。


 検邪聖省を歩く。今となっては無人の、ろくな思い出など無い建物が、何故かジャンヌには懐かしく感じられた。彼女自身どうしてだろうと思いつつ、地下牢を探す。

入り口を見つけて、彼女はごくりと息を呑んだ。人の気配は無い。入り口のすぐ側に鍵の束と消えた松明があった。それを手にして松明に火をつけ、中に入る。コツ、コツ――と足音が反響する。酷い臭いがした。囚人達の腐乱した死体の臭いだった。バヴァリアが陥落される間際に、異端審問官達によって軒並み殺されたのだろう。

階段を下って、最奥を目指す。

そこでは――無数の刃物で全身を貫かれた老婆が、横たわっていた。だが死体は腐乱していない。そして、どこか懐かしいような感情をジャンヌに抱かせた。ジャンヌは、持っていた鍵の束から選んで、牢の鍵を開ける。

「来たね、魔女――」

死体は起き上がると、自らの手で刃物を抜き出した。傷口からは肉が見えるきりで、血は出ていなかった。それもすぐに塞がる。

「貴方が、ヘカーテですか」ジャンヌは問うた。

「そうだよ、僕が死の魔女ヘカーテだ」

よろよろと立ち上がりながら老婆は言った。

「お初だね、ジャンヌ=ヴァルプルギス。 そしておめでとう」

「!?」何を言われたのか、一瞬、ジャンヌには分からなかった。

「ヴァルプを倒したんだろう? 魂で分かる」ヘカーテは嘲笑うかのように言った。「魔女を殺した者は魔女の魂を得て魔女になるのさ――だから魔女は焼かれて処刑される」

「わ、私は、更に魔女になるのですか!?」ジャンヌは刮目した。初耳だった。「そんな――!」

「それが三人の魔女の、魔女の条理」ヘカーテは断言した。「機械仕掛けの神にだってもう変えられはしないのさ」

「――」

ジャンヌは黙って、それから切り出した。

「生きたまま死者に会う方法はありませんか?」

「死んだ者は蘇られない。 死は死ぬきりだ」へカーテは心底から嗤った。「そんな都合のいい話があるのなら、僕が飛びつきたいね!」

「ど――どうにかなりませんか!?」

ジャンヌは困りきって訊ねた。

「ヴァルプを殺した癖に、何を今更言うんだい!」だが、ヘカーテは忌々しげに吐き捨てた。「彼女は否みさえしなければ良い子だったんだ!」

死の魔女は牢から出て、絶句しているジャンヌの側をすたすたと通り過ぎていく。しかし、階段のところで、振り返った。意地悪そのものの、まるで悪い魔女のような声で、ヘカーテは言った。

「牢から出してもらったお礼に、教えてやるよ――再生の魔女ルーナなら、何か知っているかも知れない」


【ACT八】 少女


 ジャンヌが帝国軍に協力したとの知らせを、城塞都市グラエキアで受けたデルヴィエールは、らしくもなく青ざめた。怒りに打ち震える。

「ジャンヌめ――どこまで私を邪魔するつもりだ!」

それは紛れもない憎悪だった。純黒の憎悪が、彼の背後から焔のように立ち上っているかのようだった。

とんとん――とその時扉が叩かれる。

「入れ」と彼が言うと、

「失礼します」

大人しそうな顔立ちの少女が入ってきた。

「ご命令通り、エクス・ラ・シャペルの吸血鬼氏族クランを殲滅させました」

「! まだ命令を下してから、一日も経っていないぞ。 単独でか?!」

「はい」少女は頷いた。

驚異的な速度だった。ベルトラン・レッシング並の殺戮能力だった。

彼女なら――とデルヴィエールは考えた。可能かも知れない。

「報告書の提出に参りました」

彼女は、机の上に書類を出した。それを受け取って目を通しながら、彼は繰り返し頭に浮かんだ可能性を推敲していた。書類をめくる。全滅、の文字が目に飛び込んだ。その文字を何度も確認する。間違いなかった。全滅。全滅であった。全て滅されていた。

「それでは失礼します――」

「待て」

少女が下がろうとした時、彼は呼び止めていた。

「お前に密命を下そう」

「何でしょうか?」

少女は年相応の幼さの残る不思議そうな顔をした。

「魔女ジャンヌを追い、殺すのだ」

その瞬間、少女の瞳に別の光が宿った。デルヴィエールはそれに気付いてぞっとした。機械よりも無慈悲な、残酷な目だったのだ。

「当然だ」

がらりと口調が変わる。これが報告にあった天使憑きか――と彼は思った。だが、命令遂行のためにはむしろ歓迎するべきなのかも知れない、とすぐに思い直す。

「手段も道義も問わない。 どんな方法を使おうとも必ず殺せ!」

たとえ教国を背信しようと、殺せるのならば構わなかった。殺さねばならなかった。それほどデルヴィエールにとっては危険な存在なのだ。

「ほう、いいのだな?」確認するかのように、だがどこか面白そうに少女は言った。「たとえ全てを破壊しようと」

「構わん」彼は、頷いた。


 F・ダッチマンの船から降りて、ジャンヌは城砦都市の一つ――デン・ハーハを歩いていた。ここまでは帝国軍の侵攻も及んでいない。だから都市の雰囲気ものどかなものだった。

「――?」

視線を感じて、振り返る。だが気のせいだったようだ。ジャンヌはすたすたと歩き出す。

 火事だ、との叫びが聞こえたのは、それから間もない頃だった。

はっと顔を上げると、城門の方から煙が立ち上っていた。火にまかれるのはゴメンだとジャンヌは反対側の城門を目指した。だが、そちらからも煙が立ち上っていた。

「!」

囲まれた。ジャンヌは急いで教会の高い鐘楼に駆け上る。そこから見下ろすと、見事に都市の出入り口が炎で塞がれていた。炎の勢いは激しく、街中を侵そうとしている。

『どうする、ジャンヌ――』アスモデウスが訊ねた。

「炎を消す」ジャンヌは淀みない声で答える。

その時だった。


 「死ね」


ジャンヌが背後に気配を感じて、振り返った、その肩を銃弾が貫いた。

「――ぐッ!」苦痛に、声が漏れる。

コルネーリアが、まるで無感情な眼差しで、彼女を見つめていた。

ごーん、ごーん――と鐘が鳴り出す。

『ウリエル! いや、コルネーリア!』アスモデウスが叫んだ。『まさかお前達が火を付けたのか――流石は大天使、やる事が外道じみている!』

『人間ごときが何人何十人何百何千何万死のうとも、我の知ったことか』

ウリエルは嗤い、コルネーリアは義手を構えた。

「お前を殺すためなら、あたしは世界だって滅ぼしてみせる!」

「――待て!」ジャンヌは叫んだ。「魔女を殺せば、魔女になるんだぞ!」

『この小娘がどうなろうと我の知った事か』

ウリエルが口の端を吊り上げた。

「それが何よ! あたしはあの人を殺したお前を絶対に許さない!」

コルネーリアの目には、悲壮なまでに強い決意が浮かんでいた。

ならば。ジャンヌの目が青く輝いた。前面に氷の壁を作り出し、それを盾に距離を詰める。だが同じ手が2度も通用する相手ではなかった。発射された弾丸の方が速かった。それは途中で軌道を変えながら加速して、氷の壁を貫いた。

「――!」

速い!

咄嗟に身を捩ってかわそうとしたジャンヌの心臓に、それは命中した。

ジャンヌの体が、鐘楼から崩れ落ちる。

『ジャンヌ――!!』

アスモデウスの絶叫が響いた。

ややあって、ぐしゃりと潰れる音がした。

 コルネーリアは鐘楼を降りた。鐘楼の前、教会の広場へ行く。そこは一面血まみれになっていた。

ジャンヌは撃たれて、墜ちて、完全に死んでいた。

それを確認して、彼女はその場にひざまずいた。

天を仰ぐ。

「――ベルトラン、さん」

つう、と涙がこぼれた。一度決壊した涙は止まらなかった。身体を震わせて、彼女は泣き出した。子供のように、泣きじゃくる。

「あたし、ちゃんと貴方の仇を取りましたよ――」


 コルネーリア・シュロッサーの帰還は、静かなものだった。

一人、彼女はデルヴィエールに報告した。

「これがその証拠です」

血にまみれた一握りの毛髪を、コルネーリアは差し出した。

「――確かに」

デルヴィエールは安堵した表情で言った。これで脅威は削除されたのだ。彼の悩みと不安には、終止符が打たれたのだった。

「これは魔女のものだ」

それでは、と彼女は退出した。

 異端審問官の詰め所に行くと、そこではヴィルヘルムが煙草を吸っていた。彼女を見とめると、慌てて消す。ここは禁煙地帯だったのだ。

「ねえ、ヴィルヘルム」とコルネーリアは声をかけた。

「な、何だ?」叱られるかもと焦りながらヴィルヘルムは言った。

すう、とコルネーリアは深呼吸する。それから、口に出した。

「あたし、異端審問官を辞めようって決めたの」

「何だって!? ど――どうしてだ!?」

折角かのベルトラン・レッシング並みに強くなったと言うのに。

「もうあたしには目的が無いから――」

寂しげな顔で、彼女は言った。

それを見て、ヴィルヘルムは何も言えなくなってしまう。

「そうか。 ――今まで楽しかったぜ」

大事な同僚に向けて、彼は言った。

「うん、あたしもいっぱい楽しかった。 ありがとう」

少し涙っぽい顔で、コルネーリアは言うのだった。

「そうと決まったら、送別会だ」

ヴィルヘルムはあえて笑顔を作った。同僚を涙で送るなど、男の恥だと思ったのだ。笑顔で送ろう。それが彼のせめてもの心遣いだった。


 コルネーリアは僻地の修道院に入った。毎朝毎晩、十字架の前で、神に一心に祈る彼女の姿が見られた。誰のために何のためにそんなに祈っているのか――誰も訊ねられないほど、彼女のその姿は、神聖で不可侵なものだった。

彼女のその平和な生活は続くかに見えた。あれ以来、ウリエルは彼女に取り憑かなくなっていた。彼女は平凡な少女に戻ったかに見えた。

 だが、彼女の持つ高い戦闘能力は、帝国との戦争で苦しむ教国にとっては、到底捨てがたいものだった。

 「え――」

教国からの勅使が彼女を訪れて、話し出された内容に彼女は驚く。

「あたしに、戦に出ろと――!?」

「そうだ」

勅使は頷いた。

「暴虐なる帝国の侵攻により、我が教国は苦しみ続けておる。 ――否とは言うまいな?」

それは命令だった。

「――」


 コルネーリアは戦場に出た。

銃弾が頭上を飛び交う中、彼女は殺される恐怖と殺す絶望を味わう。

この世の地獄がそこにあった。この世にこそ地獄があるのだ。

だが、ウリエルは降臨しようとしなかった。彼女は今や用済みとして見捨てられたのだった。

 「た、助けてくれ――」

そう哀願する負傷した帝国兵の頭に、銃弾を撃ちこむ。脳漿をまき散らして、大人しくなる帝国兵。だが次がやって来る。

ずしんと衝撃があたりを震わせた。

数人の兵士を粉々に粉砕しながら、地面に大きなクレーターが生まれる。

「大砲だ!」誰かが叫んだ。

戦況不利と見た帝国軍が、強力な新兵器を持ち出したのだ。

その叫びも悲鳴に変わる。まるで黒い雨のように、教国軍の上に砲弾が降りそそいだ。

「畜生、このままじゃお終いだ!」また、誰かが叫んだ。


 その時だった。


 コルネーリアの血が沸騰したかのように熱くなる。

(な、何これ――)

初めての感覚に彼女は戸惑った。

ぐんと視界が狭まる。だが、非常な遠距離が――裸眼では見えないような距離の光景がはっきりと見えた。砲台が見えた。

義手が自動的に跳ね上がる。

(――!)

銃弾を発射した。小粒なそれは砲弾を引き裂き、放射線状を描いて飛んで――大砲に命中し、それを粉砕した。

続けて彼女は銃弾を放つ。

帝国軍に命中すると、それは巨大な穴を空けた。いきなりの謎の攻撃に、帝国軍が崩れるのが分かる。

容赦なく、彼女は銃弾を浴びせた。すぐに帝国軍は総崩れを起こして、退却していった。

局地的だが、教国軍が勝ったのだ。

「何なの、この力は――?」

彼女は義手を見つめて呟いた。

銃弾に莫大な衝撃を込めることができ、遠距離攻撃を可能とするこの力は、一体何なのだろう。

『魔女を殺した者は魔女になる』

彼女が撃ち取って殺した魔女の声が脳裏にこだまする。

それを振り払うかのように少女は首を振り、呟いた。

「ともかく、これがあたしの新しい力、ね――でも……」

 (もう、意味が無いわ)


 彼女のおかげで、教国軍は局地的にだが戦況を巻き返した。やられっぱなしだった彼らにとって、彼女は戦乙女ジャンヌ・ダルクのような存在になった。

コルネーリアの、ただただ一方的な遠距離からの排除には、いくら強大な兵器を備えた帝国軍と言えど、為す術なかった。徐々にだが、帝国軍は後退させられていった。

――しかし、周囲から英雄と祭り上げられ、聖女と呼ばれ、重宝がられるようになっても、彼女の心には、どうしようもない虚無感が広がっていた。


【ACT九】 岐路


 ここはどこだ?そんなことを考えながら、彼女はふらふらと暗い道を進んでいく。しばらく進むと、広場のようなところに出た。そこに懐かしい人影を見つけて、彼女は驚いた。

「アリー! ここにいたのか!」

「ああ、ジャンヌさん!」

アリーも驚いたかのように目を丸くした。

「貴方もここに来たんですか?」

「コルネーリアに負けて……」彼女はここへ至るまでの道のりを思い出そうとして、首を振った。「ダメだ、負けてからの記憶が無い」

お前は?と訊ねられて、アリーは言った。

「僕は記憶を失って彷徨っていた所、『飢え』に襲われて人間を襲ってしまいましてね、その時に異端審問官に倒されたんです。 それで、気が付いたらここにいたんですよ」

「そうか。 ――お前も死んだのか」

ジャンヌはぽつりと呟いた。

 「ちょっと座って、話しませんか?」

アリーは誘い、ジャンヌはそれに乗った。

彼は軍事スパイをやっていた間のことを面白おかしく話した。

彼がいない間のことをジャンヌはかいつまんで話した。

それは、ひと時の憩いだった。

ジャンヌが話し終えると、アリーは言った。

「そうですか、ウサインが――そうだ、ジャンヌさん、これを彼に渡していただけませんか?」

赤玉のはまった銀の指輪を、彼は渡した。

「別にいいが、私も戻れないんだ」

ジャンヌは困った。

「いいえ、貴方は戻れますよ、だってほら――」

アリーはある一点を指差した。

そこを見て、ジャンヌは絶叫した。

追い求めていた人間の後姿が、そこにあったのだ。

「母さん!」わき目も振らずに走り出す。

その後姿に向けて、アリーは穏やかに、寂しそうに言った。

「最後に会えてよかったよ。 ――さようなら、大好きなジャンヌ」


 ――ゆらゆらと揺れるランプの光が、眩しい。

ぐすぐすと誰かがすすり泣いているのが聞こえてきた。罵声も聞こえる。

「こんな事になるくらいなら、しがみ付いてでも船から降ろさねばよかった――!」

『今更後悔しても遅い!』

「何が後悔だ、そんなものはくそくらえだ! お前、よくも平気でいられるな! 大体お前が付いていたのに、何をやっていたのだ!?」


 ?


『平気だと!? とんでもないわ、我のジャンヌが死んだのだぞ! 傷は全て癒した、だが魂が帰らんのだ!』

「それしか出来ない能無しの所為でジャンヌは死んだのだぞ! この無能者が!」

『何だとぅ!?』


 何の話だ?


 「おい、うるさいぞ」

ぴたりと罵声とすすり泣きが止まった。視線をそちらに向けると、F・ダッチマンとアスモデウスがお互いの胸ぐらを掴んでいた。

「――あ」

怒鳴りながら泣いていたF・ダッチマンの顔色が青くなる。いや、白くなった。途端にぶくぶくと泡を吐き、彼は白目を剥いて失神した。

『じゃ――ジャンヌ!』

アスモデウスがF・ダッチマンを放り出して彼女の元に駆け寄った。

『何故生き返った?!』

「暗い道で、アリーと出会った。 その後、母さんを追いかけたら――」

彼女は拳を開いた。赤玉のはまった銀の指輪が、そこから現れる。

『……お前の母親か』アスモデウスが呟いた。『全く不可思議なこともあるものだ』

「母さんは焼かれて死んだ」

ジャンヌは辛すぎる過去を思い出して、唇を噛んだ。

「まだ天国に行けずに、彷徨っているのかも知れない――」

『――』


 F・ダッチマンが気が付くと、ジャンヌは言った。

「帝国に行きたい。 ウサインに渡したいものがある」

「それは誰から渡された?」F・ダッチマンが指輪を見て訊ねた。

「アリーだ。 アリーは、死んだ」

「……」彼は複雑そうな顔になった。


 船は帝都へと到着した。帝都には最も数多く貴族が住む。彼女はそこでウサインを探した。図書館で貴族目録を開き、住所を探す。二日かかったが、無事見つけることが出来た。ジャンヌは館に向かった。だが――館には人の気配がなかった。扉を叩くが、一向に開かれない。

「?」

引っ越したのだろうか?ジャンヌが弱った時だった。

「汝、貴族の館の前で何をしておる――不審なヤツめ!」

怪訝そうで警戒心あふれる声が背後からかけられて、ジャンヌはしまったと振り返った。

お互い、驚愕に目を見開く。

豪華な衣装に身を包んだジャミーラが、機械馬の上からぽかんとした表情で彼女を見つめていた。

「汝――!」その目に、喜悦の色が浮かぶ。「我が恩人よ!」


 ジャンヌはほぼ拉致されるようにジャミーラの館に連れ込まれ、地にも置けぬ歓待を受けた。要らないと断っているのに目の前には豪勢な食事が並べられ、年代物のワインが栓を抜かれた。

 「お館様――」そのさなか、召使が困ったかのように取り次いだ。「テオデリクス様がお出でですが、いかが致しましょう?」

「今は所用で会えぬとお伝えしろ! いくら穏健派の首長であろうと、今は会見どころではない!」彼女は断言した。

「はッ――」召使が退出する。

「穏健派?」ジャンヌは自分の耳を疑った。「お前は過激派じゃなかったのか?」

「あれから、考え直したのよ」ジャミーラは快活に笑った。「本当に帝国に戦争が必要なのかを。 ――そして気付いたのだ、別の道があるということを。 その甲斐あってか、今では穏健派の方が力が強い。 まもなく戦争は終わるであろう」

「ふうん……」

しばらくジャンヌは飲み食いをしていたが、ふと気が付いて訊ねた。

「ウサインの居場所を知らないか?」

はっとジャミーラは息を呑んだ。

「ウサインは――」言葉に詰まる。

「ウサインに何かあったのか!?」

「いや――謹慎処分は解けたものの、誰とも顔を合わせようとしないのだ」ジャミーラは声を潜めて言った。「汝、会いに行くつもりであろう?――止めておいた方が良いぞ。 何しろ、女帝陛下の御招きにも姿を見せようとしなかったのだからな」

「――また、女帝陛下か」ジャンヌは呟いた。「女帝というのは、何なんだ」

「これ、失敬な口を利くでない!」ジャミーラはたしなめるように言った。「女帝陛下は、帝国開闢の時以来、ただ一人のこの国の支配者であらせられる。 我らの太母グレートマザーにして、絶対の主だ」

「開闢以来――」

確か、それは数百年以上の昔の事だ。比較的長命な魔族の妖精フェアリーでも、せいぜい三〇〇年生きられれば長い方だ。それなのに――ということは。

「もしかしたら……」ジャンヌは誰にも聞こえないように呟いた。


 夜半、彼女はジャミーラの館を抜け出して、ウサインの館へ向かった。勝手に扉の鍵を壊して開け、中に忍び込む。ぷんと異臭が鼻を突いた。酒の臭いだった。そちらに向かうと、何かにけつまずいた。ワインの空き瓶だった。

 その一室は、ワインの空き瓶に溢れかえっていた。あまりの酒臭さにジャンヌは顔をしかめる。

だが、月光に照らされて、一人の男が酒をあおっているのを見つけた。無精ひげが酷い。まるで最初のころのF・ダッチマンのようだった。

「ウサイン」

ばっと男が反応した。目は闇を探り、ジャンヌに辿り着く。

「お前、誰だ!」

ろれつの回らない口調で、そう問責した。

「忘れたのか、ジャンヌだ」

「! ――貴様ァ!」

いきなり殴りかかってくる。だが酒に酔っ払っているので、ジャンヌは簡単に避けた。あっさりと組み伏せる。ウサインは暴れた。

「貴様、裏切った癖に、よくも――!」

「何のことだ?」

「よくもジャミーラを助けたな! アイツの所為で俺は今こんな有様なんだ!」

八つ当たりだ、とジャンヌは思った。

「あの時貴賓席に座っていたお前が何を言う。 それに彼女は今や穏健派だ。 お前の仲間じゃないか」

「ふざけるな! 言い訳など聞きたくもない!」

そうか、とジャンヌは彼を解放して指輪を取り出すと、ウサインに握らせた。

「――これは! ジンの指輪!」

「今際のアリーからもらった。 お前に渡せと」

「そうか」

指輪をはめて、ウサインは起き上がった。話が通じたのか、とジャンヌはほっとする。

「やはりお前がアリーを殺したのか!」

指輪から赤いレーザー・ビームが放たれた。咄嗟にジャンヌは避ける。だが光を受けた壁に穴が開いた。

「!」

「最初から怪しいと思っていた――市民証も、この指輪も、全てアリーを殺して奪ったのだとすれば、辻褄が合う!」

「私はアリーを殺してなどいない! 殺したなら、どうしてお前にわざわざ渡しに来るか!」

だが、彼は聞く耳を持たなかった。

「黙れ、この強盗め! 人殺しが!」

光が放たれる。ジャンヌは飛びすさった。

「信じてくれ!」

「アリーの仇だ!」指輪の赤い光が、彼女を狙う。

『ジャンヌ、逃げるのだ!』

アスモデウスが言った。

「だが、このままでは――」

誤解されたままだ。

『もう目的は果たしたであろう? お前には次がある!』

「くッ――!」

ジャンヌはやむを得ず、逃げ出した。


 月の美しい夜だった。ふと、ふらふらと街の間を彷徨いたくなるような、そんな夜だった。ジャンヌはジャミーラの館をまた彷徨い出て、帝宮御苑へと忍び込んだ。警備の目をかいくぐり、奥を目指す。

御苑は広かった。ここで遭難した者もいるのではと思うくらいに。

しかし、彼女はとうとう最奥に到達する。

泉のほとりに、一人の老婆が立っていた。泉に映る自分の顔を、じっと見つめている。

「貴方が女帝ですか――」

ジャンヌはサーベルに手をかけながら言った。警備の者を呼ばれたら一たまりも無いからだった。

「ええ。 私が女帝。 この帝国の唯一の君主です――」女帝は微笑を浮かべた。余裕ある微笑だった。「破壊の魔女よ。 あなたがここに来るということはわかっていました」

「貴方は」ジャンヌは期待を込めて訊ねた。「ルーナですか?」

女帝の微笑が、深まった。

「――いいえ」

しかし、彼女は否定した。

「私は千と一つの夜を越え、万と一つの朝を過ごし、全てを抱擁する者。 真の神の受肉した存在。 万象を見通す者。 破壊と再生と死を司る三人の魔女とは、根本からちがいます」

「――」ジャンヌは落胆した。彼女でもないのだ。

「私はあなたの事をしっている」

女帝は、優しい声で言った。

「私は、あなたの苦難の旅をしっている。 ――そこでお願いがあるのです」

「――何ですか?」

「私は、戦争をおわらせたいのです、勝ったという形で。 しかし今の状況では、それは難しい。 どうしても、あなたの協力が必要なのです」

「私が?」怪訝そうな顔でジャンヌは言った。「私は関係ない」

「いいえ、大いに関係があるのです。 ――我が帝国軍を圧倒している者の名は、コルネーリア・シュロッサー。 元異端審問官の少女です」

「!」

ジャンヌは目を見開いた。断ろうとした。だが彼女は、女帝の微笑みに、首を縦に振るしかないことを悟る。


 ジャンヌが去った後、その影が地面に残った。ずぶりとそれが膨らんで、美しい青年の姿を取る。アスモデウスだった。

『全く上手く言いくるめたものだな、リリス=ソフィア』

彼は、女帝をそう呼んだ。まるで古くからの知り合いのようだった。

「いい子ね、本当にいい子だわ、貴方がほれ込むのもわかるわ」

女帝は頷く。だが首を振った。

「でも我が同胞はらからにはかえられない。 我が子達にはかえがたい。 私を母と慕う子供らがこれ以上傷つくのは、たえられない」

アスモデウスは静かに言った。

『それであの娘を戦場にやらせるのか。 冗談ではないぞ。 それなりの代価を約束してもらわねば』

「いいでしょう。 ――引き換えに、再生の魔女ルーナの居所を教えてさしあげましょう」

その時、東の空からさし染める光が、女帝の身体を照らした。途端に、女帝の身体が変化する――愛らしい少女へと。


【ACT一〇】 決戦


 ジャンヌは戦場へ出た。そして、この前と違うと感じた。どの兵士も表情が暗いのだった。最近は防戦一方だったからかも知れない。一個師団が幾つも教国軍の『戦乙女』によって壊滅したからかも知れない。

――帝国軍にとっては『戦乙女』は恐怖の対象だった。いきなり、不可視の攻撃が雨あられと容赦なく襲ってくるのだ。正体不明の怪物と同じようなものだった。噂によると、戦乙女はただ一人であり、数で言えばこちらが有利であるのに、それが圧倒的な火力によって逆転されるのだった。

 その日、ジャンヌは初めてその攻撃を見た。

いきなり空間が振動したかと思うと、兵隊の群がばらばらになって吹っ飛んだ。

「――き、来た!」

恐慌の悲鳴が上がる。整列していた兵隊が、狼に襲われた羊の群のように崩れる。指揮する将校は踏みとどまれと叫んだが、無駄だった。追撃が次々と彼らを襲う。ものの一分で、前列部隊が全滅した。逃げ惑う後続部隊が続いて壊滅した。

「――!」

F・ダッチマンの船から見下ろしていたジャンヌは、目を見張った。

これが、コルネーリアの仕業だというのか?!

『さて、どうやって近づく』

アスモデウスが言った。

「軍隊を囮に使う」

『殲滅速度の方が圧倒的に早いぞ』

「地面に擬態して――」

『途中で見抜かれないとは思えない、危険が大きすぎる』

「森の中へおびき寄せて挑む」

『馬鹿、それではかえって相手の思うツボだ。 力ずくで押しつぶされる』

「じゃあどうすればいい」ジャンヌは苛立つ口調で言った。

「我輩の船で近づけばよかろう」

F・ダッチマンが言った。

「――撃墜されるかも知れないぞ」

「構わん。 船なら、お前と違って修理可能だ」

『いやに殊勝だな』アスモデウスが少し揶揄するような口調で言った。『また裏切るつもりか』

「いや――」彼は首を振る。「あのような思いは、二度としたくない。 それだけだ」

『――』


 コルネーリアは不穏な気配に気が付いた。戦争を繰り返すうちに鋭くなった彼女の神経が、勘が、囁いているのだ――何者かが近づいてくると。

「――」

周囲を見回す。特に異常は無い。雷雲が頭上に立ち込めているだけだ。

その雷雲のもっとも黒い一点目がけて、彼女は銃弾を打ち込んだ。

轟音。雷雲が割れた。天翔ける巨大な船――左舷に大穴が開いている――が高度を下げて、彼女を狙って体当たりをかましてきた。

「馬鹿が」冷たく彼女は呟いた。

銃弾を続けて発射する。船の前方が大きく破損する。マストがへし折れ、船は進路を変えた。彼女の右側、森の木々をひしゃげながら墜落する。当然だ。大砲以上の火力を持つ彼女に、正面から突進してきたのだから。

だが――墜落の間際に船から飛び降りた人影を見て、彼女は大きく目を見張った。

「――生きていたのね、魔女!」

その目に生彩が宿る。久方ぶりのことだった。まるでかつての彼女が復活したかのようだった。

『よくも蘇ったな! 魔女を殺せ!』

ウリエルが、降臨した。

「ああ――今度こそお前を倒す!」

サーベルを抜き放ち、ジャンヌは叫んだ。コルネーリアも叫んだ。

「やれるものなら、やって御覧なさい!」

冷たい雨がごうごうと降り始めた。


 お互い、しばらく動かなかった。雨に全身を打たれながらも、石像のように固まっていた。最初に動いたのはコルネーリアだった。義手を構え、銃弾を発射する。ジャンヌはそれを避けた。だが追尾してくる。ジャンヌは森の木に張りついた。銃弾が迫るぎりぎりで離れる。身代わりとなった森の木が粉砕した。

次の銃弾は凍らせて叩き落す。だが、こめられた衝撃をまともにくらったサーベルがへし折れた。

ジャンヌの身体も、地面を転がる。だが地面にツメを立てて彼女は食いしばった。冷気と熱気を衝突させて、前方の空間を爆発させる。膨大な水蒸気と湯気が立ち込めた。濃霧に、視界が曇る。

『小ざかしい真似を――』ウリエルが歯軋りした。

だが、コルネーリアは連続で銃弾を撃ち出す。霧が吹き飛ばされた。

ジャンヌの姿は、消えていた。森の中へ隠れたのだろう。

「――何処に隠れた、魔女め」

周囲を警戒して見回しながら、コルネーリアは言った。

「出て来なさい!」

また濃い霧が湧き上がる。

それを銃弾で引き裂いた時だった。不意に背後から気配がした。コルネーリアは振り向かずに銃弾の軌道を変える。衝撃はこめなかった。込めない方が、操作しやすいのだった。

「くッ――!」

銃弾は魔女を追った。咄嗟に濃霧を発生させるが、間に合わない。これでお終いだ、とコルネーリアはそこ目がけて最大級の衝撃をこめた銃弾を放った。

一撃必殺の攻撃だった。

命中した。胴体に大穴が開く。

「――あ」ジャンヌは、目を見開いた。「アスモデウス!」

美しい青年は、胴体に大穴をあけながらも、こう呟いた。

『――ジャンヌ、雨を、使え!』

ジャンヌの双眸が青く輝いた。パシンと空間が凍結した。雨が全て一瞬で真っ白に凍って、空間に停滞する。冷気はその空間を伝わって、コルネーリアまで伝導する。雨にぐっしょりと濡れていた彼女の義手が氷に覆われた。

「なッ――このッ!」

コルネーリアは、構わず発射しようとした。

轟音が響いて、次の瞬間コルネーリアは血にまみれた。

銃口に氷が詰まっていたため、暴発したのだ。

『わ――我が』ウリエルが絶叫した。『我が滅びるなど! 神よ、おお、救いたもう――』

「――ベルトラン、さん」

地面に倒れた彼女はそう呟いて、動かなくなった。雨が彼女の血を洗い流していった。

とても、安らかな顔をしていた。


 「アスモデウス!」

ジャンヌは地面に倒れたアスモデウスを助け起こした。冷気を浴びたため彼の顔はびっしりと霜に覆われていた。

「しっかりしろ――!」

それを拭う。

『我は死にはしない、一時眠るだけだ――』

目を閉じてアスモデウスは言った。

「どうして庇った?!」

『――愛しておる、ジャンヌよ』

「――分かった」ジャンヌは呟いた。祈るかのように。「お前が戻ってくるまで、私はお前を待とう」

『ふふ――』アスモデウスは口元に微笑を浮かべた。『ありがとう』

彼の姿が影に溶けていく。消えてしまった。


 帝国に戻ったジャンヌは、女帝との謁見を許された。

「大儀であった――」

臣下に囲まれているため、女帝は重厚な、重々しい声をヴェールの向こうから発した。

「別に」ジャンヌは素っ気無く言った。

「ぶ、無礼者!」

「女帝陛下に何と言う態度を!」

居並ぶ貴族がいきり立ったが、

「よい。 かまわぬわ」の一言で静まり返る。

「褒美を取らすぞ、何なりというてみい」

「要らない。 どうしてもと言うなら、アカーシャを殺したのを許して欲しい」

貴族達が湧き立った。数ヶ月前の高位貴族殺害事件は、解決しないまま日ばかり過ぎていたのだ。

「枢密司次席を殺めたのはそちであったか――」

「正当防衛だがな」

また貴族達がざわめいた。

「何でもといったのじゃ。 よいであろう。 ゆるしてつかわす」

「ありがとう」

用は済んだと、ジャンヌはくるりと踵を返して歩き出した。

その時だった。居並ぶ貴族達をかき分けて、一人の男が姿を現した。指にはめられた赤玉の銀の指輪が、輝く。赤い光が飛び出した。

「!」

予想もしない攻撃に、ジャンヌは胸を射抜かれて、倒れた。血だまりが広がる。

「――ウサイン! 何をする!」

女帝が叫んだ。男――ウサインは冷静だった。

「女帝陛下、こやつは枢密次席だけでなくアリーをも殺めた者です。 ――どうぞお裁きを!」

「たわけるな! ひっとらえよ!」

衛兵達がウサインを囲む。

「なッ――」ウサインは驚いた顔をした。「女帝陛下、どうか正しいご判断を! 女帝陛下!」

ウサインは捕らえられて行った。

ジャンヌは施療院に担ぎ込まれた。

 胸の傷は深く、中々ジャンヌは意識を取り戻さなかった。

それでも一月後、ジャンヌは壁伝いに歩けるようになるまで回復していた。例のごとく脱走を恐れて、監視がいつも彼女に付き添っていた。

 ある朝ジャンヌが目覚めると、その監視達がいつもより騒がしかった。

「教国が――解体しただって?!」

何!?

ジャンヌは耳を澄ませた。

「ああ。 ヴァル――何とかって機構に改編されたらしい。 法王を廃して、一三人の枢機卿が直接支配するようになったそうだ」

「――そりゃ、凄いな」

「ああ、ようやく思い出したぞ、『聖教機構ヴァルハルラ』だ!」

教国が解体したのか。ジャンヌは思った。だとしたら、今は混乱期だろう。異端審問官も魔女一人には構っていられないだろう。

ルーナを探す、またとない好機だと思った。

だが、脱走はまだまだ可能ではなかった。

 夜中、ジャンヌは誰かに揺り動かされて目を覚ました。夕食の時に飲まされた薬の所為で、熟睡していたのだった。

「誰だ!?」

咄嗟に人を呼ぼうとしたが、

「しー、静かに」

聞いたことのある声に、声を潜める。

「じょ、女帝!?」

「そう、私です」

女帝は寝台に腰を下ろすと、にっこりと微笑んだ。

「お知らせしたい事があって、まいりました」

「何だ?」

「再生の魔女、ルーナの居場所です」

「!」

彼女は、遥か東方の小島の名前を言った。

「間違いなく、彼女はここにいるはず」

「ありがとう――」

「いえいえ、こちらこそ」

女帝は優雅に一礼すると、去っていった。


 それから数週間後、ジャンヌは完全に回復した。

ちょうど船の修理が終わったF・ダッチマンが彼女を訪ねてきた。

「これから、何処に行く?」

「ルーナに会いに行こう」ジャンヌは言った。


【ACT一一】 再生の魔女


 魔女ルーナの居所は、普通の民家だった。あまりにも平凡すぎて、ジャンヌは見落とす所だった。軒下でヘカーテが一人チェスをしていなければ。ヘカーテはジャンヌを見とめると、やあヴァルプ、と呼び止めた。

「とうとうここまで至ったね――ルーナは家の中にいる。 行って、会うといい」

 眩しい外から中に入ったため、一瞬彼女は目がくらんだ。だが、徐々に慣れていく。ぼやけていた屋内の人影の顔の輪郭がはっきりとしていく――彼女は目を見張った。

その人影は、編み物をしていた手を止めた。

「……母さん」

震える声が、ジャンヌの口から吐き出される。

「あら、ジャンヌ。 ようこそ、いらっしゃい」

彼女は編み物の代わりに暖炉の薬缶を手に取り、お茶を淹れる。

「母さんは焼かれて死んだはずじゃ――」

がたがたと震えながらジャンヌは言った。

「一度焼かれたくらいじゃ死なないわ。 ちょっと熱かったけれどね」

そう言って、彼女は薬缶を置いた。

「――ッ!」ジャンヌは、母親にたまらずに抱きついた。「ずっと会いたかった――!」

涙が頬を伝う。

彼女を優しく抱擁しながら、母親は言った。「私もよ。 今までよく頑張ったわね、ジャンヌ」

 テーブルを囲んで、魔女のお茶会が開かれた。

良い香りのするハーブティーとクッキーが出された。

「貴方にも三人の魔女について知らせなきゃだわね――」

「三人の魔女とは、そもそも一体何なんだ?」

「機械仕掛けの神によって創られた、元は一つの存在。 救世主により救われて、機械仕掛けの神に抗ったがために、三つに引き裂かれたの」

「――」

「破壊と死と再生を一手に司る機械仕掛けの神の下僕。 初めはそのはずだったんだけれどね……僕ら魔族は知を持ったがために抗ったんだ」へカーテが言った。

「神」ジャンヌは呟いた。「神とは一体何なんだ?」

「私達が今言っているのは、この世を創造した、機械仕掛けの神よ。 邪悪で無知で残酷だった神の事。 救世主を遣わした真なる神とは別物なの」ルーナは言う。

「この世を創造した?」

「そして機械仕掛けの神が私達を生み出した。 魔女だけじゃない、大天使も吸血鬼や狼人間も妖精も、全て神が創り出したのよ――人間を支配するために創り出したの」

「人間を支配するために……?」

「そう。 人間に似せて作らせて、特殊能力が開眼するまでは人間と同じ形、同じ思考、同一の存在としてあるの」

「……魔族が幼いヒナである内は、人間と大差ないと言う事か」

「そうよ」とルーナは頷いた。「でも私達はもう人間には戻れない」

「――」ジャンヌは、黙り込んだ。

その彼女に向けて、ルーナは優しく言った。

「落ち着くまで、しばらくここにいらっしゃいな」

 ……それから半年ほどたったある日のことだった。

アスモデウスが、ひょっこりと帰ってきた。

『ジャンヌ、久しいな』と彼は言った。

「アスモデウス」庭の花を眺めていた彼女は言った。「お前は悪魔になる以前は何だったのか?」

『我は魔族であった。 だが死んでしまった。 悪魔は女帝により死した者から変えられるのだ。 だがあまりにも昔の事で、もう我は生あった時の事はろくに覚えてはおらんさ』

「そうか」

『覚えているのは、あの頃は我ら魔族と機械仕掛けの神が激戦を繰り広げておった事くらいだな』

「魔族は意思を持ったがために造物主に抗ったと言うが――」

『まともな神経の持ち主ならば、あんなろくでもない神に忠節を誓い、崇め奉ろうなんて者はおらぬ。 ……あの頃は、我ら魔族と人間の興亡が激しかった。 唯一神に恐怖心から仕える者、唯一神と真っ向から抗う多神教の魔神や女神達、その狭間にて揺れ動く人間達――。

 ……魔族の中にも強力な力を持った者がいた。 彼らは自らこそが神であると名乗り、魔神や女神となった。 己を崇める人間を統治し、領土を広げ、唯一神と激突した。 唯一神のみならず、他の魔神や女神とも領土争いを展開した……。

 何が禁欲だ。 快楽は素晴らしい。 何が清貧だ。 貧乏を何故自慢するのだ。 偶像を崇拝するな? 形あるものはいずれ全て壊れると言いたいならば素直にそう言えば良いのだ。 全くあの唯一神の律法には呆れ果てる』

「……魔族が人間を統治する、か」

『そうだ。 だが魔族による統治とは言えあれは共存であった。 共に生き、信じあい、疑いあい、崇めて崇められ、愛し愛され憎み憎まれ、人身御供にされてそれを食らい、共に戦い、そして死んでいった。 けして魔族は化物などでは無い。 人間と同じ、生物よ』

「……」

『そう、かつては魔族と人間の栄華の時代があったのだ。 今ではもう帝国の他は滅びてしまったが……我らと人間とは、決して相容れぬものでは無いのだ。

 ――迫害は憎悪の連鎖を呼ぶ。 真に必要なのは、迫害ではなく互いの理解なのだ。 そこに必要なのは宗教では無い。 好奇心と忍耐だ。 あくまでも何があっても相手を理解しようとする強い姿勢だ。 完全には分かち合えぬであろう、だがそれで諦めるならば何もかも無意味だ』

ジャンヌは静かに色とりどりの花をもう一度眺めた。今が旬で、咲き誇っている。

「私達に、人間と共存する方法は無いのか?」

悪魔は答えた。

『教国――聖教機構のある限り、それは難しいだろう』

「――」


 次の日のお茶会で、ジャンヌはある提案をした。

「聖教機構を、倒したい」

ヘカーテとルーナは、ただ黙って頷いた。

「それが貴方の意志なら、私達は協力するわ」

「僕達は三位一体の存在。 一人の意志が僕らの意志だ」


 以後数百年の長きに渡って聖教機構と敵対する『万魔殿パンテオン』が誕生したのは、この時だった。


 「じゃ、僕は仲間を集めてこよう」とヘカーテが言ったので、

「F・ダッチマンの船を使うといい」とジャンヌは勧めた。

ヘカーテは旅立った。

「じゃあ私は」とルーナは言った。「強い子供を産むわ。 聖教機構を倒せるくらいの」

「私は」決然とした口調で、ジャンヌは言った。「皆を率いて、戦おう」


                                          END



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