ION外伝
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第1話IONシリーズ外伝 『護国の赤蛇』
『……何かを
これはある男の人生であると同時に、消えては浮かび、浮かんでは消える国々の興亡の歴史でもあるだろう。 ……その男は、「史上最強」と呼ばれた男である。 彼は最強に至るまでに、数多くのものを亡くした。 そして、たった一つこの残酷な世界での真実を得た――「強くならねば、誰も護れない」と言う真実を……』
――
……レッド・ヴァイパーは魔神であった。だが、彼の神殿がたったの一つも建てられないほど民から崇められていなかった。何故なら彼は臆病で有名で、とても弱かったからである。
『逃げ足だけは世界一』と子供相手から嘲られるほど、彼は腰抜けだった。
レッド・ヴァイパーと言う名前そのものが蔑称であった。本来ならばレッド・ドラゴンと呼ばれるところを、彼はそう呼ばれていたのだ。
彼の弱さは完全に事実であったため、反論の余地は全く無かった。それで彼自身、半分諦めの心地で自らレッド・ヴァイパーと名乗っていた。それでも辛うじて彼が魔神と呼ばれていたのは、彼が『
魔族とは人間と異なる種族であり、特殊な能力を持っている存在であった。中でも比類なき力を持った魔族は魔神や女神として人々から崇められていた。だがレッド・ヴァイパーは誰かから崇められた事など一度も無かった。彼はいつも何かに怯えている暗い顔をしていて、へっぴり腰で、何か言う前に必ず、ああ、とか、ええと、とか口下手を誤魔化すために言った。誰が見ても彼は弱々しくて惨めだった。更に彼には親類縁者もおらず、天涯孤独の身の上だったから、誰も彼を庇ったりしなかった。
いつでもどこでも、彼は大の弱虫で、たったの一人ぼっちであった。
彼は他の神々の神殿から『供犠』のおこぼれを貰おうと、その日もこっそりと出かけた。魔族は人間を、人体を食べる。だが、己を崇める民をむやみやたらに殺すような真似はせず、奴隷を食べ、自ら供犠になろうと申し出てきた者を食べていた。もっともレッド・ヴァイパーを崇めるような変人は誰一人としていなかったが。
レッド・ヴァイパーは人気のない道をとぼとぼと歩いていた。彼から自尊心や自己愛と言ったものは徹底的に失われていて、代わりに諦念と孤独感だけが影のように付きまとっていた。
すると、若い女の悲鳴が前方から聞こえた。レッド・ヴァイパーは仰天して、逃げようかとも一度は思ったが、それでも恐々と木々の陰に隠れて様子を見た。
何の事は無い、奴隷であろう一人のみすぼらしい女が、ならず者らしき複数の暴漢に襲われていた。
レッド・ヴァイパーはどうしたものかと思った。女は奴隷、それでなくとも貧民であろう。対して暴漢達の身なりは相当良く、若くて……そして何より強そうであった。
レッド・ヴァイパーは何だか泣きたくなってしまった。彼は弱すぎて、誰も助けたり護る事が出来ないのだ。それでも、と彼は思った。もう自分の名誉は地に堕ちて、これ以上悪くなりようが無いくらいである。だったら、逃げ腰でも良い、助けに入る真似くらいはしても良いのでは無いか。
何より彼にはみすぼらしい女が、まるでいつも情けない自分のように見えてしまって、不憫でならなかった。
――彼は人の形から『変身』した。
『GOUGAROROOOOOOOOOOOOOOOOOOHN!』
暴漢達は辺りをつんざくような大咆哮に肝をつぶして、我先にそちらを見た。
巨大な赤い竜が、彼らを見下ろしていた。
「う」
「うわああああああああああああああッ!」
一瞬恐慌状態に陥った彼らだったが、彼らの首領らしき男が言った。
「落ち着け! コイツはきっと、あの腰抜けのレッド・ヴァイパーだぜ! ぶっ殺してしまえ!」
まずい。レッド・ヴァイパーは青ざめた。失敗した。逃げよう。逃げなければ自分が殺される。
彼が逃げようとした正にその時、女が叫んだ、
「助けて!」と。
女の視線と彼の視線が交錯した。女は涙で一杯の眼をしていた。
『――GOUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHN!』
彼は思い切って、心底からなけなしの勇気を振り絞って、雄たけびを上げながら暴漢達に突進した。
これは暴漢達にとっては完全に予想外だった。レッド・ヴァイパーは間違いなく逃げるだろうと彼らは思って、いや、信じ込んでいたのだ。戦場で誰よりも真っ先に逃げ出して、馬鹿にされ、陰気で友達もおらず、子供からすら嗤われて、どこに出しても恥ずかしいほど惨めで情けない、竜である事すらみっともない、魔族の恥さらしだと思い込んでいたのだ。
なのに、これである。
竜の巨体が迫ってきて、暴漢達が気圧された瞬間、竜は首を伸ばして、女を口にくわえた。そして、そのまま上空に飛び上がって、あっと言う間に逃げ去った……。
彼は、逃げ足の速さだけは、やはり世界一であったのである。
木々に囲まれた、泉の側に竜は着地した。女を地面に下ろすと、レッド・ヴァイパーは人の形に戻った。
「ええと、怪我は、無いか?」
「ありがとうございます!」女は安心感から、ぼろぼろと泣き出した。「本当、お礼を申し上げます!」
女に泣きだされたレッド・ヴァイパーは困ってしまった。彼は、まさか自分の行為に女が感激して泣いているとは思わなかったのだ。今まで散々、男にも女にも子供にも老人にも馬鹿にされてきた彼ゆえに。
とにかく泣き止ませようとして、彼は言った、
「ああ、うん、これからは一人で出歩かないように、な? ああ言う連中は、大勢いるんだから、な?」
「……」女は頷いて、けれどそれから首を左右に振った。「それは出来ません。 私にはもう何も無いのです」
「え?」
「私には今や帰る国も……何も無いのです」
「まさか」とレッド・ヴァイパーは言いかけて、黙り込んだ。
イスラエル王国がつい先日カナンの地にある王国の一つを滅ぼした、と言う噂を彼も耳にしていたからである。その国も魔神や女神達を崇める多神教の国であったのに対して、イスラエル王国は唯一神を崇める一神教の国であった。イスラエル王国は滅んだその国の民を赤子から老人まで全て虐殺し、その死体をまるで山のようにいくつも積み上げた、と言う噂も、恐らく誇張はされてはいるものの、事実ではあるだろうとレッド・ヴァイパーも思っていた。
「……」
どうしたものやら。彼が黙り込んでいると、女は言った。
良く見れば、やつれてはいるものの、女は大変な美人であった。
「もしも貴方様が安楽に暮らしたいのであれば、ここでどうか私と会った事はお忘れ下さい」
「ええと……どうしてだ?」
「私の父が、カナンの国の守護神であったからです」
「バアル・ゼブルか!?」
レッド・ヴァイパーははっとした。魔神や女神の中でも最高位の者がその国や地域や都の守護神となる。そして、バアル・ゼブルは他国にも名高い、カナンの国の誇り高き守護神として君臨していた……のだが、
「……だが、滅んだからには、その血筋の者は皆殺されるな」
これが現実であった。敗者には慈悲など一切与えられないで、ただただ殺されるのだ。
「……」女は黙っている。
レッド・ヴァイパーは考えた。考えた挙句、こう言った。
「ええと、貴方は、私の事を知っているか?」
「いえ、存じ上げませんが……」女は不思議そうな顔をする。
「あ、うん、私はレッド・ヴァイパーと言う。 腰抜けの臆病者で有名だ。 誰も私の所に貴方が隠れているなんて思わないだろう。 もしも良かったら、ほとぼりが冷めるまで、私の所においでなさい」と。
それはとても奇妙な生活だった。男と女がいるのに、二人は男女の仲にもならず、なのに一緒に暮らしている。
(この人は何なのだろう)女は今ではそればかり考えている。(私に手を出すでもなく、私をイスラエルに売り渡すでもなく、一体何がしたいのだろう?)
彼女の視線にも気付かず、レッド・ヴァイパーは内職をしている。
魔神の端くれなのに、彼は草木で籠を編んでは、それを売って暮らしていた。
「あ」とレッド・ヴァイパーはようやく彼女がまじまじと己を見つめているのに気付いた。「ええと、どうした?」
「……いえ、何でもありません」
「そ、そうか」と彼は黙々と作業を続ける。
彼の器用に動く手指を見つめつつ、まだ問いが問いの形にすらなっていないのに、女はレッド・ヴァイパーを不思議に思っていて、大きな謎を抱え込んでいた。
「……」
「……」
そうこうする間に、明日売りに行く籠が全て編みあがった。
レッド・ヴァイパーはそれを確かめると、疲れたのか、ござの上で寝てしまった。彼は寝所を女に譲って、自分は床に敷いたござの上に寝ていたのである。
だが女は疑問が膨らんでいく所為で、寝所の中でいくら丸まっても、目が冴えて眠れなかった。
「やーいやーい、臆病者のレッド・ヴァイパー!」
「弱虫泣き虫ダメ男!」
「悔しかったら戦えよ!」
「やーいやーい! このビビリ魔!」
子供達の野次が飛び交う。蔑みの視線が大人達から浴びせられる。ひそひそと囁かれる影口。その中をレッド・ヴァイパーは市場へと向かった。
幸いにも籠は全て、日が一番高くなる前に売れて、彼は自分の家へと戻った。
女が、彼が帰るのを玄関から入ってすぐの部屋で待っていた。
「貴方は悔しくないのですか!」
帰ってきて、その部屋に入った途端の彼に、真っ先に怒声が浴びせられる。
「ええと、何が?」レッド・ヴァイパーは、本当に何が悔しくないのか分からなかった。彼にとってはあれが当たり前、毎日毎晩の事であった。
女は目じりを吊り上げて、険しい声で問い詰めた。「あんな子供にまで嗤われて、貴方には誇りと言うものが無いのですか!」
「……誇りなんか、無い」レッド・ヴァイパーはぽつりと呟いた。「欠片も無い。 だって私は、実際、意気地なしのろくでなしなんだから、さ」
「ならば何故、変わろうとしないのですか! 何故!」
「……変わろうと思った事もあった。 でも、私は、正真正銘の臆病者なんだ。 だから」
そう言いかけた時に、強烈な往復びんたが飛んできて、レッド・ヴァイパーはよろめいてへたり込むように腰を落としてしまう。
その彼の胸ぐらを掴んで、女は感情的に言った。
「何で!」彼女は今にも泣きだしそうな顔をしていた。「何で! 見ている私の方が悔しかったのに! 貴方は私を助けてくれた、なのに!」
「……」しばらく唖然としていたレッド・ヴァイパーだったが、ふっ、と穏やかな、けれど心底嬉しそうな顔になる。「私なんかのために、『悔しい』と思ってくれたんだ、ありがとう」
「ッ!」
女は顔を真っ赤にして彼から手を離し、後ずさった。
レッド・ヴァイパーは起き上がって、ゆっくりと彼女に近づいて、抱きしめた。
それが、彼らが初めてお互いを異性として認識し、意識した時だった。
……それから何年が過ぎたか。レッド・ヴァイパーは相も変わらずに、臆病者として有名だった。けれど彼には護るべきものが出来ていて、苦しいまでに愛しい女がいて、だから彼はもう一番恐ろしい事からは逃げなかった。
だが、彼らの幸せは長くは続かない。
……イスラエル王国が、彼らの暮らす国へ侵略戦争を始めた。その国の守護神は、瞬く間にイスラエル王国に味方する
イスラエルの軍勢が、ついにレッド・ヴァイパー達の暮らす街にまで迫ってきた時だった。
レッド・ヴァイパーは考えた。まずは安全な場所へ逃げよう、と考えた。イスラエル王国は異教徒を徹底的に弾圧する国である。安全な場所へ逃げねば、彼ら多神教の神々とその信者は全員滅ぼされてしまう。何より彼はサマエルと名付けた己の子供と、愛する女を護りたかった。それは他の人々も同じ事で、街からは逃亡者の列が出来ていた。その列の中にレッド・ヴァイパー達もいる。
――いきなり、列の前方から凄まじい絶叫と断末魔が響きわたった。
列の先頭から逃げ惑う人々が羊のように街へと戻ろうとして、辺りは大混乱に陥った。レッド・ヴァイパーが何事だと驚いた時、先頭から逃げてきた人々の叫びが聞こえた。
「大天使だ!」
「あのミカエルが降臨した!」
だが、列の後方、街の方角からも人々が真っ青になって逃げてきて、
「イスラエル軍がもう来た!」
「逃げろ、殺されるぞ!」
何て事だ、とレッド・ヴァイパーも青くなった。このままでは、幼いサマエルも妻も殺されてしまう。おまけに彼を除く多神教の神々は皆全て戦争に出向いていて、とてもここの救援には来られなかった。
「おとうさま」幼いサマエルが、人々が恐慌状態に陥った有様に怯え、レッド・ヴァイパーにしがみつく。「こわいよ、こわいよ、おとうさま!」
その瞬間、レッド・ヴァイパーは覚悟を決めた。
彼はサマエルを抱き上げると、じっとその顔を見て言った。
「良いかいサマエル。 お父さんと一つ、約束をしておくれ」
「なぁに?」
レッド・ヴァイパーは穏やかに笑って言った、「強くなるんだ。 自分の大事なものを、たとえ相手が何であろうと護れる強さを持ちなさい。 生きるべき時に生きて死ぬべき時に死ぬ、誇りと強さを持ちなさい。 そうすればお前は幸せに至るだろう。 いや、必ずお前はそうなるよ。 だってお前は、私の誇りと希望なのだからね」
「はい!」
元気よく返事をしたサマエルを地に下ろして、レッド・ヴァイパーはその頭を撫でた。それから妻に言った、
「この子を頼む」
「……」
彼女は、深く頷いた。もはや言葉は不要であった。
レッド・ヴァイパーは竜に変身した。
「わあ」とサマエルは無邪気に喜んだ。「どらごんだ、どらごんだ! おおきい! すごい!」
『GOUGOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHN!』
レッド・ヴァイパーは吼えた。
天地を震わせるほどに大きく、吼えた。
――そして目にも鮮やかに赤い竜は、天空へ飛翔し、あっと言う間にその姿を人々の視界から消した。
逃げ惑う人々を片端から惨殺していたその青年は、黄金色の翼を背中に生やしていた。そして、天空から地の有様の全てを睥睨していた。
ぶちん、ぶちん、と虫を潰すように、人々が地べたに倒れては、見えない力によって潰されていく。ぺしゃんこの死体が地面に積み重なり、もはやそれは山となっていた。
「ふん、異端者め」
青年はそう呟くと、地に降りてきた。そして体を潰そうとする重圧から逃げようと必死にあがく人々の頭を踏みにじって、げらげら笑いながら言うのだった。
「我らが唯一絶対神を崇めぬゴミクズは、死ね! 貴様らの命など何ら価値が無い! 虫けら以下だ! 痛いか? 辛いか? 苦しいか? だがそれは我らが唯一絶対神に刃向った当然の罰だ! もっと絶望しろ!」
そして、ぐしゃりと踏みつぶした。まるで虫けらを踏みつぶすようだった。
その次の瞬間だった。
音速を超えた速度で飛んできたレッド・ヴァイパーの巨体が、彼に激突したのは。
「――ぐ、お!?」
青年――大天使ミカエルは派手に吹っ飛んだ。だが空中で翼を動かし、体勢を立て直す。
「竜、だと!?」ミカエルは驚いた。「魔神連中は全員迎撃に向かったはず――貴様は誰だ!」
『私はレッド・ヴァイパー』彼は空中に浮かび、ミカエルと対峙した。『かかって来い!』
「おいおいおいおいおい」ミカエルは邪悪に、それこそ並み居る悪党ですら顔負けに嗤った。「俺が誰だか知らないのか。 俺は大天使ミカエルだ! 我らが唯一絶対神の
『……下僕? 唯一神に仕えねば生きていけない腰抜けの奴隷が何を言う。 私は、私達は、そこまで弱くは無いぞ! かかって来い奴隷風情が!』
「貴様ァ!」
奴隷風情と呼ばれ、ミカエルは激怒した。
「――『
ぐわんと空間が重力により歪んだ。それはレッド・ヴァイパーを直撃するかに見えた。だが、それよりも早くレッド・ヴァイパーは後方に避けている。逃げ足だけは速いのである。
『おやおや』小馬鹿にした態度でレッド・ヴァイパーは言った。『ものの見事に外れたな。 本当にそれでも貴様は大天使なのか?』
この挑発が、ますますミカエルを怒らせた。
「貴様! 貴様だけは首をねじ切ってやる!」
ミカエルはレッド・ヴァイパーを殺そうと迫った。だがレッド・ヴァイパーはすぐに逃げてしまう。ミカエルを挑発し、馬鹿にし、激怒に激怒を重ねさせながら。
――気付けばもう街は遥かに遠く、山をもいくつか超えて、丸一日が過ぎていた。
「貴様だけは殺してやる!」ミカエルは全速力で逃げるレッド・ヴァイパーを執拗に追いかけながら怒鳴る。「絶対にぶち殺してやる! ――おいサンダルフォン、ガブリエルの支援攻撃を寄こせッ!」
その途端、天空から小隕石がレッド・ヴァイパー目がけていきなり墜ちてきた。
『!』
レッド・ヴァイパーは辛うじて避けたものの、立ち止まってしまった。
「捕まえたぞ」
その背後で、彼に死刑が宣告された。
彼の尻尾をぎしりと掴み、ミカエルは悪魔のように笑った。
「天地無用!」
『――』
この時、レッド・ヴァイパーも実は笑っていた。心底愉快で可笑しくてたまらなかった。
彼はちゃんと護れたのだ。己の命よりも大事なものを護れたのだ。あの二人はきっと今頃は安全な場所へと逃げているだろう。逃げて生き延びているだろう。彼はここで終わる。だが彼の残したものは受け継がれていく。麦粒が地に落ちて死ぬ代わりに数多の豊穣を招くように、彼は死んでいくのだ。彼の人生は無意味なものでは無かった。彼の人生は意義があるものだった。
彼は大事な人を誰も護れない弱虫では無かったし、腰抜けでも無かったのだ!
レッド・ヴァイパーの巨体が地面に叩きつけられて、重圧に押しつぶされる。
凄まじい重力が彼の体を押しつぶしていく。
――ぐしゃり。
ミカエルは潰れて死んだ赤竜の体を見下ろして、忌々しげに、
「貴様の考えている事などお見通しだ。 今頃はイスラエルの軍勢があのゴミクズ共を一掃しているさ。 貴様の護りたかったものも、全て浄化しているさ! 余程の幸運が無ければ死んでしまうさ! 貴様は無駄に無意味に死んだな、ぎゃはははははは!」
女は逃げている。幼い子供の手を引いて、必死に逃げている。死体の山を越え、子供が疲れてぐずったのを抱きかかえて、必死に逃げている。それは周りの人々の誰もが似たような有様であった。もう少しなのだ。もう少しで国境を越える。そうすればイスラエル軍も彼女達に手を出す事は出来ない。だが、イスラエル軍の進撃は速かった。
矢の雨が降り注いだ。人々が絶叫し、あるいは断末魔を上げて、ばたばたと倒れていく。運悪く負傷しても生きていたものはとどめを刺された。
その地獄の中を、そしてその阿鼻叫喚の光景を背にして、女は走った。走って走って、辛うじて森の中へと入った。ここならば矢を恐れる心配は無い。だが、国境を越えねば安心は出来ない。彼女は走り続けた。足から血が流れているのにも構わずに。
「貴様は誰だ!」
不意に鋭い
「ここはペルシス帝国領なるぞ!」
助かった。国境を越えた!
彼女は子供を抱えたままうずくまりかけて、何とかこらえる。
「わ、私は、イスラエル軍より逃げてまいりました。 命だけはお助け下さい!」
「何……?」指揮官らしき身なりの良い男が姿を見せて、彼女をじろじろと無遠慮に見た。「なるほど、亡命者か」
「え、ええ……」
男はにやりと笑って、
「命だけは助けてやらんでも無いが……条件がある」
「何でしょうか……?」彼女は怯えた、どんな悪条件であろうと今の彼女には否む力が無いからであった。
「何、命までは奪わぬ。 私は出世したいのだ。 お前のような綺麗な女を我らが守護神ズルワーン様に献上すれば、それも可能だろう」
「……」
女は唇をかみしめて黙り込んだが、すぐに首を縦に振った。従順に。
ここで否と言ってサマエルごと殺されるよりは、いくら耐えがたき恥辱であるにせよこの条件を呑みこむしか無い。
貞節や善悪など生きるのにもはや邪魔なだけだ。
――何があってもサマエルのために、サマエルを育てるために生きる事。
それが彼女とレッド・ヴァイパーが交わした最後の約束だった。
男は満足げに頷いて、
「賢い女だ。 きっとズルワーン様もお気に召されるだろう!」
ペルシス帝国首都ペルセポリスで、彼女は守護神ズルワーンに貢物として献上された。華やかに飾られた彼女が歩く姿は、誰もがはっと息を呑むほど美しかった。ズルワーンは彼女の事をすぐに気に入った。気品、色香、包容力、そして凛々しさを彼女は兼ね備えていたのだ。それが、彼女がかつてはレッド・ヴァイパー、今はサマエルのために獲得したものだとは、誰も知らなかったが。
「おかあさま」とサマエルは目の前に並べられたご馳走を見て、眼をパチパチとさせた。ズルワーンが彼女を寵愛したため、生活も何もかもが豊かそのものになったのだった。けれどこの幼い子供は空腹であったのに、それに手を付ける前に、「おとうさまはいつもどってくるの?」と訊ねた。「おとうさまもいっしょに、ごちそうさまをいわなきゃ」
彼女は顔の表情を崩すまいと歯を食いしばった。この子は、何と良い子なのだろう。臆病者ではあったが卑劣漢ではなかったレッド・ヴァイパーの、良い所を受け継いで。そして、言った。
「……お父様はね、遠い場所へ行かれたの。 お前が大人になったら戻ってきます。 お前が寂しがっているとご存じになられたらお父様まで悲しくなりますから、お父様の事は秘密にしましょう。 良いですね、サマエル?」
「はい!」
何も知らない少年は、元気よく返事をした。
サマエルに異父弟アフラ・マズダが出来るまで、時間はかからなかった。だが、神殿で暮らす女の生活は決して幸せでは無かった。ズルワーンの彼女へ対する過度な寵愛は、後宮に住む他の女達の嫉妬を招いたからだ。特にズルワーンの子を一人も持っていなかった正妻からの攻撃は苛烈だった。女は健気に耐えていたが、ズルワーンが彼女に対する寵愛のあまりにアフラ・マズダを跡継ぎ――次期守護神にすると言い出した所為で、正妻らの嫉妬が憎悪と殺意に変貌したため、嘆き悲しんで毎日を過ごした。サマエルは必死に母親を庇い、守ろうとしたが、子供の出来る事など焼け石に雀の涙であった。
「お母様」サマエルは泣きじゃくっている母親に抱きついた。「お母様、泣かないで、泣かないで!」
「サマエル」女は彼を抱きしめた。「守ってやれなくて、ごめんね、ごめんね……!」
ついさっき、サマエルは正妻の召使いにより、階段から突き落とされた。幸いにも打撲で済んだが、下手をすれば命が危うかった。
「大丈夫だよ、僕は! これくらい何て事無いもの!」
「……ああ!」女は小さな、己にしか聞こえない声で呟いた。「お前は本当に良い子に育ったわ、あの人もきっと喜んでいるわ」
「お母様、だから泣かないで!」
少年の励ましに、女は、こくりと頷いて、無理やりに笑った。
そこにズルワーンが威風堂々とやって来た。贅沢に天井から壁は金銀宝玉で飾られて、美しい絨毯が床には敷かれ、置かれた調度品は美と豪奢の極み、まるで夢の中の世界を具現化したような
「……何だ、いたのか」ズルワーンはアフラ・マズダを大事に連れてやって来た。そして、サマエルをまるで罪人を見る目で見た。
「サマエル、なにをやっているの?」
アフラ・マズダも、見下した声で言った。彼は己が目に入れても痛くないほどズルワーンに愛されていて、一方、己の種違いの兄は害虫のように嫌われている事をもう知っていた。
なのに兄は自分よりも母親に愛されている!
この幼さで、既に彼は兄に対して、純然とした差別意識と、母親を奪われていると言う深い憎悪を抱いていた。
「……」サマエルは母親から離れた。彼は賢い少年であったから、こう言った。「何でもありません」
そして彼は、部屋から出て行った。背後で嬉しそうにはしゃぐアフラ・マズダの声、ズルワーンと丁寧な物腰でやり取りする母親の声がした。けれどサマエルは知っていた。彼の母親が、本当はズルワーンを愛してなどいない事を。
……彼は、本当はもう気付いていた。己の本当の父親が彼らのために死んだ事、父親の最後の赤き勇姿、交わした約束、そして天地を震わせるようなあの大咆哮の全てを覚えていた。いつも優しくて、優しすぎるくらいだった父親の記憶が、彼の支えになっていた。
「お父様」サマエルは廊下の端にある太い石柱にすがりつつ、誰にも聞こえぬように、けれど届くことを心底願って言った。「どうか僕に力を下さい。 大事なものを護れる力を、下さい!」
サマエルが一三才になった年だった。正妻がついに刺客を雇い、真夜中に彼の母親を彼ごと殺させようとした。だが母親は己よりもサマエルを庇った。母親は刺される寸前に絶叫し、何事だと人々が駆け付けてきたため、刺客はサマエルまで殺せずに、逃げようとした所を捕らわれた。
「お母様!」サマエルは段々と冷えていく母親の体に必死にしがみつく。「しっかりして、お母様!」
だが、既に急所を刺されていたため、母親は手遅れだった。
「さま、える……」彼女は大量の血を吐いたのに、微笑んだ。「生きる、のです、生きて、幸せに、死ぬべき、時に、死に、生きるべき、時に、生きて……ああ」そのしなやかな白腕が何もない空中に、伸ばされた。「そこに、いたのね、あなた……」
腕が落ちて、そして彼女はこと切れた。
死んだ。サマエルは目の前が真っ暗になった。彼は、母親すら護れなかったのだ。無力が罪だとしたら、彼は大罪人だった。
刺客は拷問にかけられて全てを自白した。激怒したズルワーンの命令で正妻は処刑され、彼の跡継ぎは正式にアフラ・マズダに決まった。だが、ズルワーンの怒りはそれだけでは治まらなかった。寵姫が殺された最悪の原因――サマエルを庇って女が死んだと刺客が言ったため――サマエルにもその牙を向けたのだ。
サマエルは背中に鞭打たれて、奴隷商人に売り渡される事が決まった。
「貴様の所為で!」容赦なく召使いに鞭を振り下ろさせながら、アフラ・マズダは怒鳴った。「貴様の所為でお母様が死んだ! 貴様が悪いんだ! 貴様は
「――」サマエルはただ激痛に耐えるしか無かった。体がバラバラになりそうであった。痛みを通り越して、感覚が麻痺してしまいそうだった。
だが。
だがこれは罰なのだ。
母親を護れなかった彼の、当然受けるべき罰であった。
彼の目の前には、相変わらず闇が広がっていた。
彼は奴隷商人に髪の毛を掴まれ、引きずられて神殿を、そしてペルシス帝国を追い出された。
奴隷船の中、サマエルは悪臭漂う船底の部屋に閉じ込められて、他の奴隷と同じように全てに絶望していた。自問自答を繰り返し、だがそれは全く突破口の無い、本当のただの『繰り返し』であった。
(お父様)
(どうして僕はお母様を護れなかったのか)
(弱いから、ですか?)
(……)
(弱いからだ)
(弱い事は悪い事なんだ)
(強くならねば)
(そうだ、誰にも負けぬくらいに強くならねば)
(強くならねば僕はまた失う)
(でも)
(どうすれば……?)
彼の思考は、いつもそこで停止してしまうのだった……。
奴隷船は不衛生で、船員や奴隷商人の気分次第で奴隷達は殺された。反抗しようものなら海へ突き落された。男は殺され、女は弄ばれた。病んだ者、死んだ者は海へと放り込まれた。だが今のサマエルは無力感に打ちひしがれていて、とても反抗する気力は無かった。ぼんやりと死にたいとすら思っていた。それなのに、サマエルは何故か生き延びてしまった。
船が港に着いた。奴隷達は鎖でつながれて船から降りるよう言われて、サマエルもそれに従った。今の彼には己の意志などと言う大したものは無かったのだ。
奴隷市場は大繁盛していた。特に男の奴隷が飛ぶように売れていた。それは、港のあるこの国、マケドニア王国が大規模な対外戦争を起こそうとしていたからだった。戦力を必要としていたのだ。だが、まだ成人してすらいないサマエルを買おうと言う酔狂な客は、いなかった。
ものの見事に、サマエルは売れ残った。
「おい、コイツをどうする?」
奴隷商人達が、困った顔をして話し合っている。
「どうするもこうするも……売れなきゃ食い扶持の損が取り戻せない。 そうだ、神殿に売りつけよう、供犠の糧として」
それでサマエルが、神殿へ連れていかれようとした時だった。
貴人と思しき青年がたまたま通りがかり、死んだ目をしているサマエルに気が付いた。
「おい小僧。 ……まるで死んだ魚のような目だな」と彼はもの珍しそうに言った。
「おお、これはイスカンダル様!」奴隷商人達がいっせいに笑みを浮かべて、我先にゴマをすり、おべっかを並べ立てる。余程の貴人なのだろう、とサマエルは何となく思った。「どうぞ、ごゆっくりご覧下さいませ!」
「……」青年はサマエルをじっと見つめた。「おい。 お前はどこの誰だ?」
「……僕は、ペルシス帝国から来ました。 名前はサマエルと言います」
「ふうむ」青年は考え込む。「
「……いえ、神の悪意にも負けぬように、育ってほしいからだと母は言っていました」
「その結果がこの有様か? 神の悪意に負けて、底辺にいるようだな」
やや嘲るようにイスカンダルは言った。
「そうでしょうね」とサマエルは一切抵抗しない。「父も母ももう死にました。 僕も、もうすぐ死ぬのでしょう。 地獄に行ったとしても、そこに僕の両親がいるのならば、きっとそこは天国だと思います」
「……どうしてお前の両親は死んだ?」
「!」それを言われて、サマエルははっとした。
目の前の闇が啓けた。
彼の両親は、彼のために、彼を生かすために死んだ。
彼は父親とかつて交わした約束を思い出す。『強くなって、大事なものを護れるように』『お前は私の希望なのだから』彼の死んでいた眼が、急に生彩を放ち始めた。
そうだ。何故忘れていたのだろう。己はまだ死ねないのだ!
「……僕を生かすため、です」
「ふうむ。 じゃあお前は何のために生きている?」
「約束を果たすため、です。 僕の父は僕に生きろと言ってくれた。 だから僕はそう簡単には死ねないのです」
「なるほど、な。 お前も親がいないのか」ここでイスカンダルはにやりと笑って、「良いだろう、俺に付いて来い!」と言った。
イスカンダルはマケドニアの王子だった。本来ならば先王であった彼の父フィリッポスが亡くなった後、マケドニアの王位に就くはずであった。だが彼の母親が既に死んでいて有力な後ろ盾が無かった事、父が亡くなった時に彼が幼かった事などが災いして、王位は彼の叔父ペルセウスが継いだ。
ペルセウスはイスカンダルを非常に敵視していた。何故ならイスカンダルが若く、優秀な軍事指揮官であったからである。イスカンダルはこれまでペルセウスから一七回毒殺されかけていた。彼を可愛がっている王宮侍医にして魔神のアスクレピオスがいなければ、とうの昔に死んでいただろう。
しかし、イスカンダルは絶対に叔父に反撃しようとはしなかった。
「どうしてですか?」
サマエルが思わず訊ねてしまったほど、イスカンダルはただ、ただ耐えていた。
「どうして貴方には力があるのに、それを振るわないのですか?」
「義のためだ」イスカンダルは一八回目の毒殺未遂事件に遭い、寝込んでいたが、はっきりとそう言った。「俺は、義に背く生き方だけはしないと誓った」
「……義とは、何ですか?」
「見てくれを気にする男の生き様みたいなものだ。 俺は」そこでイスカンダルは一呼吸置いて、「きっとこの世界では異端児なんだろう。 きっと愚か者なんだろう。 だが俺は、俺のこの生き方だけは絶対に変えない」と言い切った。
「お兄様」
アスクレピオスの孫娘で、イスカンダルの幼少時から一緒に育っている女神のヒュギエイアが、すっかり呆れた声で言った。彼女は赤ん坊の頃から一緒だったためもあり、イスカンダルの事を本当の兄のように思っていた。
「お兄様は、本当に不器用にしか生きられないのですね」
「何とでも言え」イスカンダルは、ぷいと顔を背けた。
「では遠慮なく。 お兄様は賢いのに愚かな生き方をしていらっしゃる。 あの奸智に長けたペルセウスの甥だとは信じられませんわ。 ねえサマエル、そうでしょう?」
サマエルはこのヒュギエイアが好きだった。彼女はいつもはきはきとしていて、気品を持っていて、まるで亡き母に似ていたから。
彼は頷いて、「……何がどう変異してイスカンダル様はこうなったのですか?」
「……俺はな」イスカンダルは天井を見つめて、ゆっくりと言った。「丁度サマエルくらいの年に、砂漠の国アエギュプトゥスの都アレクサンドリアから来たと言う哲学者に出会ったんだ」
海の向こうの砂漠の国アエギュプトゥスの都アレクサンドリアについては、サマエルも噂程度に知っていた。だが、『哲学者』とは?と思った。
「哲学者……? 哲学、とは何ですか?」サマエルは不思議そうな顔をする。
「思想の学問だ。 人は思考し、悩む生き物だ。 その悩みをどうにかしようと言う非常に論理的な学問だ」
「私に言わせれば思想犯の学問ですよ」ヒュギエイアがぼそりと言う。「そんな危険なものに浸ってしまって、お兄様はおかしくなられてしまった」
「うるさい。 とにかく俺はそれで変わった。 義のために生きなければ、俺は俺でいられなくなった」
「全くお兄様は」そう言いつつもヒュギエイアが白銀の器を手にして、「まあ、でも良いですよ、私はそんなお兄様が好きなのですから。 さ、薬湯をどうぞ」
イスカンダルは苦々しい顔をしてそれを飲みほし、
「……ああ、クソ、どうしてアスクレピオスの薬はいつも苦いんだ!」
「毒が甘いからですよ」ぴしゃりと彼女は断言し、イスカンダルはまた顔を背けた。それから彼女は、「ああ、サマエル、おじい様にお兄様がきちんと薬を飲んだと伝えなさい」とサマエルの方を向いて命じた。
「はい」とサマエルは頷いて、言伝のために歩き出した。
――部屋から出ていくその後ろ姿を見て、ヒュギエイアはぽつりと、
「サマエルはいずれ、大物になりますね」とつぶやいた。
「だろう?」とイスカンダルは自慢げである。「ヤツも見てくれを気にする男だ。 そう言う男こそ大物になる。 ヤツは、父親との約束を思い出した途端に目の色を変えた。 あのような燃える目をして、な」
「……あの眼は常人の眼ではありませんね。 少なくとも私はそう思います」
「ヤツはまだ能力に目覚めていない」イスカンダルは面白そうに、「どんな力に目覚めるのやら。 下手をすれば、神の悪意すら超越する能力に目覚めるのかも知れん。 ところで」
イスカンダルは絹の寝具の中から、にやりとした顔を彼女に向けた。
「?」ヒュギエイアは何だろうと不思議に思った。
イスカンダルはにやにやと、
「ヤツはお前の事が好きなようだぞ?」
「!」彼女は目を真ん丸に見開いた。「な、何故!?」
「何故も何も、お前は美女だ」
「……」ヒュギエイアは言葉が出てこない。
「その顔を見るに、お前も満更では無さそうだな」イスカンダルはついに笑った。「まあ良い。 恋には身分も出自もへったくれも無いからな」
「断ってまいります!」ヒュギエイアが顔を真っ赤にして叫ぶように言った。「お兄様、何を楽しそうにしていらっしゃるのやら!」
「妹のような女に恋人が出来たのが嬉しくもあり、さみしくもあり……これが楽しくなくて何なのだ?」
「全く! 全くもう!」ヒュギエイアは足音も荒く部屋を飛び出して行った。
それと入れ替わりに、クィントゥスが血相を変えて部屋に入ってきた。
彼はペルセウスの息子であったが、イスカンダルに味方していた。彼は青年特有の理想家であった。だからイスカンダルの潔い生き様に感銘を受けていた。理想を追い求めるあまりに現実を直視できない所があったし、あまり勇敢な気性でも無かったが、ともかく彼は現在のイスカンダルの敵では無かった。
「た、大変だイスカンダル!」クィントゥスは混乱のあまりに言葉がつっかえている。
「ん? これ以上何が大変になるんだ?」
「父はアスクレピオスを殺すつもりだ!」
「!」
「陪臣に武装させて、父がアスクレピオスの神殿に向かうのを見た!」
「何だと!?」イスカンダルは起き上がろうとして、それが出来なかった。毒にやられた体では、とても無理だった。
「おまけに父は君にギリシア遠征に行かせるつもりだ! 勿論勝って帰ってくる事を望むのではなく、間接的に殺すために!」
「……俺は良い、俺は良いんだ! だが、アスクレピオスまで……!」
イスカンダルはもがき、呻き、そして、畜生、と血を吐くように呟いた。
アスクレピオスは机の前の椅子に座り、真剣な顔でうつむいて薬草の調合をしていたが、そこへサマエルがやって来たため、顔を上げた。アスクレピオスの神殿の最奥の薬草部屋には、貯蔵され整理された薬草が織り交ざった、ややつんとした匂いと、それを焙じた少し香ばしい匂いで満ちていた。
「イスカンダル様はきちんと薬を召されました」とサマエルは言った。
「そうか。 ……それは良かった」
「では、失礼します」とサマエルが下がろうとしたのを、この老いた魔族は引き留めた。
「待て、サマエルよ。 年寄りの愚痴に付き合っておくれ」
「はい」
サマエルが了解したのを見て、アスクレピオスはぽつりぽつりと話し始めた。
「ワシはもう、年老いておる。 寿命ももうすぐ途切れるだろう。 ヒュギエイアにワシの知る限りの薬学と医学は教え込んだものの、ヒュギエイアの力はワシの力には遥かに及ばぬ。 今度イスカンダル様に何かあったならば、その時ワシは……どれほどお助けできるか、もう分からぬ」
「……」
「もしも亡きフィリッポス様が後三年ご存命であったら……とワシは思ってしまうのじゃ。 さすればあのペルセウスが王座に座る事も無かったであろうに。 ……それにしても、恨めしきはあのアレクサンドリアの哲学者よ。 イスカンダル様は
「理想は現実に破壊される、と言う事ですか」
「破壊ならばまだ良い。 だが実際は破壊ですら無いのじゃ。 ――『駆逐』」そこで言葉を区切って、老人は続ける。「『駆逐』されてしまうのじゃ……サマエルよ」
「はい」
「おぬしは、イスカンダル様をどう思っている?」
「高潔すぎて付いていけないと思っています」
「……これまた率直すぎる意見じゃな。 どうしてそう思った?」
「かつて、僕の母は、僕を育てるために貞節を捨てましたから。 それと比べると、イスカンダル様はそう言う事が一切出来ないように思います」
「そうか……」老人は目を閉じて、開けた。「サマエルよ、ワシはあの人に善と徳と義を司って、おぬしにはそれと真逆のものを司って欲しいのじゃ」
「それは、どう言う意味でしょうか?」
「車は二輪でなければ安定して動けぬ。 イスカンダル様には美しい理想を、おぬしには醜い現実を背負ってほしい。 そうすれば、イスカンダル様はきっと……」
「善? 徳? 義?」
不意に男の声がそこに割って入った。ばっとサマエルが振り返ると、ペルセウスが陪臣達を引き連れて部屋に入って来ていた。ペルセウスは言った。
「アスクレピオスよ、やはり貴様は老いたな。 そんなものなどこの世には無い! 偽善と悪徳と不義のみがこの世にある。 絶大な権力を手に入れれば、間違いなく誰であろうと腐るのだ。 イスカンダルも例外ではない」
「……」サマエルは脂汗をだらだらと流していた。陪臣達が全員武装していたからである。アスクレピオスが静かに立ち上がり、言った。その姿は老いてもなお、一国の名だたる魔神として堂々としていた。
「ワシに、何の用でございますかな、ペルセウス陛下」
「イスカンダルがまだ生きている原因を、いい加減に潰さねばと思ってな。 こちらの我慢も、限界に達したのだ」
「……では、ご自由になさいませ。 ああ」アスクレピオスはサマエルを見て言った。「あちらの奴隷まで殺す必要はございませぬ」
「そんな奴隷のガキなんぞ、端から相手にはするつもりは無い。 それにしても」とペルセウスは舌なめずりして言った。「ヒュギエイアは良い女に育ったな?」
かっとアスクレピオスが目を見開いた。
「……陛下。 そのお言葉は、どのような意味でしょうか?」
「そのままの意味だ。 今死ぬ貴様が気にする必要は無い」
「――!」
その瞬間、サマエルが脱兎のごとく走り出した。
だがすぐに陪臣により捕まって押さえつけられる。
「おやおや小僧、もしかして貴様はヒュギエイアに懸想でもしているのか?」ペルセウスが呆れたように言った。「おい面倒だ、殺してしまえ」
「お待ちを」アスクレピオスがそれを遮った。「所詮は奴隷、身の程知らずの小僧の思慕でございます、殺す必要はありませぬ」
「……ほう」とペルセウスは愉悦を顔に浮かべて、「殺す価値すら無い、と言うのか?」
「……はい」アスクレピオスは頷き、ゆっくりと言った。「さ、どうぞワシを殺しなされ。 ワシは老いぼれではございますが、殺す価値はありますぞ」
「ふむ。 では、やれ」
剣が一閃されて、アスクレピオスの首が宙を舞い、血が飛び散った。
「!!!」
サマエルはまたしても、己の無力を痛いほど思い知らされた。
また己は誰かに庇われるだけだった!
……首と別れた胴体が、どさりと倒れる。赤い血が流れていく。
「さてと……」ペルセウスはほくそ笑んで、「それではイスカンダルにギリシアへの遠征勅令を下そう! いくら、ヤツが優れた指揮官であっても、寡兵にて行かせれば迎撃により全滅するであろう」
ペルセウス達はサマエルを解放したが、彼は動けなかった。
まただ。
彼の中で母親が死んだ瞬間が鮮明によみがえる。
また、護れなかった!
「い」
その時女の絶叫が辺りを引き裂いた。
「いやぁあああああああああああああああああああああああああ!」
ヒュギエイアが真っ青な顔で立っていた。
「おじい様! おじい様!」
亡骸に駆け寄った彼女は、汚れるのも構わずに血だまりの中の首を抱きしめて、半狂乱で叫ぶ。
「どうしておじい様が!? 嫌よ、嫌よ! 何でおじい様が!」
だが賢い彼女は次の瞬間に誰が祖父を殺すように命じたかを悟り、ペルセウスを睨みつけた。
「おやおやヒュギエイア」ペルセウスは平然と、「どうして私を睨むのだね?」
「貴様、貴様は!」彼女はぎりぎりと歯を食いしばった。
「その顔も美しいのだから美女とは罪な存在だ」ペルセウスは彼女に近づくと、無礼にもその腕を握った。「おいで、ヒュギエイア。 そこの奴隷と、イスカンダルまで同じような目に遭う姿を見たいのか?」
「――ッ!」
ヒュギエイアは形相を歪めたが、やがて、ペルセウスに腕を引かれるがままに従った。もう失いたくない。それが彼女の本音であった。これ以上失うくらいなら、この身を投げ出してでも、それを防ぎたい!
「……ヒュギエイア、様」
サマエルは小さな声で彼女を呼んだ。彼女は振り返って、
「ごめんね、サマエル」と言った。
涙が一粒だけこぼれた。
イスカンダルは療養中の身であるにも関わらず、遠征に行かされた。サマエルも付いて行った。もはやマケドニアに彼らの居場所は無かったのだ。
「サマエルよ」夜の野営地で、ぱちぱちと燃えるたき火を囲んで座りつつ、イスカンダルはぽつりと言った。無理をしているため、今にも倒れそうな有様であった。「何も、兵卒を無駄に死なせる必要は無いと思わないか?」
サマエルは無言で頷いた。
「それに……」イスカンダルは笑った。「お前も無駄に死ぬ必要は無いのだ」
イスカンダルは剣を抜いて、その白刃を己の首に当てた。
「止めろ」サマエルは、何故か彼を止めた。
「今更何故止める?」イスカンダルは怪訝そうな顔をした。
もはや何もかもが全て終わってしまったも同然であった。彼らには帰る場所も護るべきものも今や存在していなかった。義に生きようとしたイスカンダルの生き方は、真正面から現実世界に否定され拒絶された。そしてイスカンダルが理想的なこの義のために殉じて犠牲になれば、サマエルだけはまだ助かるかも知れないのに。
サマエルがばっと背後を振り返った。
「――夜襲だ!」
次の瞬間、一本の矢がイスカンダル目がけて夜の闇を切り裂いた。
その時、であった。サマエルは覚醒した。急速に世界の流れる時間が遅くなった。サマエルの頭が恐ろしいくらいに冷静になり、同時に燃えるように熱くなった。
隣であり、すぐそこの、目の前へ、可笑しいくらいの速さで矢がその鋭い切っ先をイスカンダルに向けて、一撃にして仕留めようと迫っている。その、移動経路も、矢のある空間の何もかもが、サマエルの認識下に置かれた。彼は空間を理解した。三次元の世界空間を彼は認識した。そして、今の彼にはそれを操作する事が可能だった。操作と言っても特定のものしか今は出来なかったが、現時点ではそれで十分だった。彼を無慈悲に殺そうと言う神の悪意をも超越して、彼は覚醒したのだ。
そうだ、己も魔神になったのだ!父と同じように!
彼は右手を前に突き出した。
「――『
矢が粉々に砕け散った。
サマエルは立ち上がった。そして、魔神としての力を振るい始めた。夜襲をかけてきた軍勢の先鋒がことごとく粉みじんになって吹っ飛ばされる。
後続部隊にもサマエルは空間を爆発・歪曲させて一瞬で迫った。
「BANGBANGBANG!」
ものの数秒で、夜襲部隊を全滅させた。
それを確認してから、サマエルは歩いて戻った。
「……サマエル、お前は……」
唖然としているイスカンダルに、彼は興奮を抑えて、あえて冷静に言う、
「勝ったぞ、勝てるぞ、イスカンダル」
それは実の所、戦争ですら無かった。彼我の戦力差が酷過ぎて、負けないと言う結末しかマケドニア軍は得られなかったのだ。
――ギリシア全域を征服するまで、たったの数か月。
ついにギリシアの全てを征服した日の二日後、イスカンダルはギリシアの主要都市アテナイを馬に乗って
「サマエル」イスカンダルは訊ねた。「これからお前はどうしたい?」
サマエルはこの数か月間で、驚くほど大人びた態度を取るようになっていた。当然なのかも知れない。マケドニアを追い出されてからと言うもの、サマエルは、基本的に非力とされる、『子供』と言う己の有様を憎んでいたから。
サマエルは聞かれたのに、逆に聞き返した。
「……イスカンダル。 貴方はこれから大人しくマケドニアに、ペルセウスに従うおつもりか」
「……いや」意外な事にイスカンダルはこう言った。「このまま、帰還したとして、奪われるのは『俺の』ではなくサマエル、『お前の』得た土地だ。 それは、お前にとっては耐えられない事だろう?」
「……ああ」サマエルは頷いた。彼は己の力で領土をもぎ取った。だから、己の力でこの領土の守護神となり、君臨したいと思っていた。
「だが、俺は戻る」イスカンダルはサマエルを見て、いつものように快活に笑った。「待ち受けるのは犬死だろうが、戻らなければ俺は俺でなくなってしまう。 ……おいサマエル」
彼はサマエルの名を心底嬉しそうに呼んでから、悪戯っぽく言った。
「お前はこのままギリシアの守護神になれ。 そして精々ペルセウスの肝を冷やしてやれ。 その方が楽しいだろう?」
その笑みを見たサマエルは、ついに言葉にしてはならない事を口にした。
「……イスカンダル、お前がギリシアの王になれ! そしてペルセウスを打倒し、マケドニアも――!」サマエルが立場も何も捨てて、そこまで言った時だった。
イスカンダルが、穏やかな、だが揺るぎない目で彼を見据えて言ったのだ。
「俺は、義に背く事だけは出来ない。 良いかサマエル、俺はな、俺は――大事なものを護りたいがために義を抱いている」そこで彼は首を振った。ためらいも未練も執着も何かも、振り払うように。「……何、毒殺される前にヒュギエイアはお前の所に返そう。 案じるな、必ずヒュギエイアは生きている。 俺は、ヒュギエイアが生きている限り、この義を抱き続けたまま死ねるだろう。 それが俺の生き様だ。 お前の所に返せば、お前は全力でヒュギエイアを幸せにするだろう? これから、お前達はマケドニアなんか捨てて自由に生きろ。 生きて、幸せになれ。 お前の力は凄まじい。 きっと強力な守護神になる。 お前達はお前の力で幸せになるんだ――いや、幸せになれ。 命令だぞ?」
サマエルはヒュギエイアへの恋情と、イスカンダルのあまりの潔さに泣きたくなったが、涙を殺して、言った。
「……じゃあ僕はこの地から出て行く。 新天地で、僕は僕らの居場所を見つける!」
「そうか。 それも良いだろう」イスカンダルは目を細めた。
行軍が終わって、彼らがアテナイの神殿で休憩していた時だった。
「ペルセウス陛下よりの勅書でございます」
マケドニア本国より使者がやって来た。
勅書の内容は、このままペルシス帝国をも攻め落とせ、と言うものだった。
「……」イスカンダルは使者を前にして、勅書を手にしたまま沈黙している。勅書からにじむペルセウスの欲深さと、己への絶え間ない殺意でさえ、己の運命、宿命として――ただ義のために甘受しようとして、黙っているのだ。
使者は高圧的に言った。「おやイスカンダル様、ペルセウス陛下の勅命を受け入れぬ、と言う事ですかな?」
「……」イスカンダルはぽつりと言った。今や彼は己の悲劇的な運命を義のために受け入れようとしていた。だが、そのためには唯一欠かせない、いや、最も大事な事柄があったのだ。「ヒュギエイアは、無事なのか?」
「ああ」と使者はどうでも良さそうに、「首を吊って死にましたが、それが何か?」
サマエルが真っ青になった。真っ青になって、がたがたと震え始めた。彼が今まで最前線で危険をいとわずに戦ってきた理由が、ヒュギエイアがまだ生存している事であった。それが否定された。最も残酷な形でサマエルのかすかな希望が潰された。だが今のイスカンダルの形相たるや、サマエルのこの絶望を叩き壊すほど恐ろしいものになっていた。
「そうか」小さな、だがはっきりとした声でイスカンダルは言った。
使者がはっと怯むほど、今のイスカンダルの顔は恐ろしかった。
「そうか。 そうなのか。 ペルセウスは俺だけを殺すには飽き足らず、ヒュギエイアをもついに殺したのか。 俺の義は、俺の信念は、俺の生き方は、そこまで侮辱されねばならぬほど甘いものだったのか」
「ひ、い――!」
使者はその恐ろしい殺気と気迫に気圧されて後ずさったが、イスカンダルは前へと進んだ。ぎらりと獰猛に輝く剣を抜く。
「……俺が義などにこだわった所為で、俺の大事なものは全て殺された! アスクレピオスも、ヒュギエイアも! 俺は、俺の大事なものを護るために義に固執したのに! 何も護れぬならば、俺はもう義など捨ててやる!」
使者の首が飛んだ。血がどくどくと流れていく。イスカンダルはそれを冷酷な眼差しで見つめていたが、サマエルに言った。
「これよりマケドニアを破国する。 戦えるな、サマエル?」
「ああ」サマエルは憎悪に燃える目をして、頷いた。
――イスカンダルの軍勢は一気にマケドニアへ攻め上った。かつては寡兵だったが、ギリシアの軍勢も含み、今やイスカンダルが指揮を執っているのは一大軍勢であった。
最前線で戦場を駆け抜けて、サマエルはマケドニア王国軍を木端微塵にした。
彼は憎しみと怒りのあまりに狂いそうだった。ヒュギエイアを奪ったペルセウスと、無力であったあの時の自分が恨んでも恨み足りないほど憎かった。彼は暴れた。暴れられるだけ暴れた。荒れ狂う嵐のように彼は破壊した。破壊しなければ彼はとても正気ではいられなかった。噴火するような衝動に突き動かされるがままに、彼は壊して行った。マケドニア王国守護神アストライアは何が何だか分からぬ内にサマエルにより殺された。サマエルの力は非常な遠距離からの攻撃も可能としたのだ。
視認しうる範囲の外から、恐ろしい攻撃がやって来る。それは敵軍の士気を瞬く間に地に叩き落とし、数多の逃亡兵を生み出した。
数日かからず、ペルセウスとその陪臣達は虜囚の身となり、荒縄に縛られてイスカンダルの前に引きずり出された。
「……」イスカンダルは生き物ではなく汚物を見る目でペルセウス達を見下ろした。「さて。 叔父上殿、今は何が望みかな? 命か、権力か、名声か、それとも……」
「ヒュギエイアは生きている!」ペルセウスは叫んだ。「確かにあの娘は首を吊った、だが蘇生したのだ! あ、あの娘は今神殿の奥深くにいる、だから――」
それを聞いたサマエルは、イスカンダルを見て頷くと、駆け出して行った。イスカンダルは淡々と、
「『だから』――それが何なのですかな、叔父上殿?」
「ひっ!」ペルセウスはびくりと震えた。イスカンダルの激怒と言う火に、逆に油を注いだのを感じたのだ。だが、イスカンダルは変わらずに淡々と言った、
「良いでしょう叔父上殿、命だけは助けましょう」
「――」助かった、とペルセウスが思った時だった。
イスカンダルが自分の部下に対して言葉を続けた。
「この連中の手足を斬れ。 目を潰せ。 耳と鼻はそぎ落とし、口は引き裂け。 そして豚小屋の中にて豚と同様に生かせ。 だが、くれぐれも、絶対にだ、殺すなよ? 万が一にでも殺したならばお前を同等の刑に処す」
死刑よりも惨い刑罰が、下された。
「ヒュギエイア!」サマエルはマケドニアの神殿の中を走った。神殿内はイスカンダルの軍勢とそれと戦ったり降伏したりする神々でごった返していた。「ヒュギエイア、どこだ!」
――いた。いやしくも女神であるにも関わらず、まるで奴隷のような格好をさせられて、神殿の奥深く、鎖につながれて地べたに転がっていた。気を失っていた。体には拷問の痕があった。
「ヒュギエイア……!」
サマエルは彼女を救出すると、軍医の所に駆け込んだ。医者は栄養失調だと判断して、奴隷を一人殺し、彼女にその血を与えた。
「……う、うう」ヒュギエイアは目を開けた。「さま、える……?」
「そうだ、僕だ。 もう大丈夫だ、イスカンダルがこの国の王になる。 だから、もう、何の心配も要らない」
「……お兄様は、まさか、義を捨てたの……?」
「そうだ。 全てを護りたかったから義に生きていたのに、何も護れなかった義を、捨てた」
「……そう」
「……生きていてくれて本当に良かった、ヒュギエイア」
サマエルは本心から安心して言った。だが彼女は泣き出しそうな顔をして、
「汚い女になんか、生きる価値があると思うの?」
サマエルはきっぱりと言った。
「ある。 僕は貴方が好きだ」
彼の人生初めての愛の告白だった。
イスカンダルはマケドニアの玉座に腰かけると、側にいるサマエルに言った。
「……さてと。 これからどうしたものかな?」
「まずは、治世の安定を」サマエルは言った。「落ち着いたら、その後は……」
ああ、とイスカンダルは頷き、
「国を、国土を、拡大する。 ――そうだな、まずはペルシス帝国を打倒しよう」
それを聞いたサマエルの顔が変わったので、イスカンダルは怪訝に思ったが、すぐに納得した。
「ああ、お前はペルシス帝国から来たのだったな。 故郷に帰りたいのだろう?」
「……いえ」サマエルの眼が、憎悪に近いものを浮かびあがらせる。「あそこは、僕から母を奪った所です」
サマエルはマケドニアの守護神となった。彼は奴隷から、そこまで成り上がったのだ。彼は、非常に強力な魔神として各地に知れ渡った。軍神だ、武神だ、と噂された。
イスカンダルが内政を安定させている数年間、彼は神殿でヒュギエイアと共に暮らした。彼はまだ幼さの残る少年から、たくましい青年へと変わっていった。
「……」
寝所にて、彼の隣ではヒュギエイアが穏やかに眠っている。どんな夢を見ているのか、とても安らかな寝顔で、すう、すう、と寝息が聞こえる。しかし彼は目が冴えて眠れなかった。じっと考え込んでいた。
『貴様の所為でお母様が死んだ! 貴様が悪いんだ! 貴様は悪の根源だ! 死んでしまえ! 消えてしまえ! 二度と僕の目の前に現れるな!』
アフラ・マズダの声がよみがえる。
そうだ、そうだとも、己の所為で母は死んだ。全て己が無力ゆえの罪だ。
だがアフラ・マズダ、お前の前に己はもう一度姿を見せよう。
……そう思うと同時に、彼は母親が恋しくなった。母親は彼を愛してくれた。命を捨ててまで己を護ってくれた。二度とは会えぬが、せめて、墓前でありがとうと言いたい。
「……何を思っていらっしゃるの?」
いつ起きたのか。ヒュギエイアが薄く眼を開けて、優しい腕で彼に触れた。
「……お前の事だ。 お前と」とサマエルは彼女の腹に触れた。まだ膨れてもいない腹を。「この子について考えていた」
彼女は微笑んで、「……名前はどうします?」
「それを考えていたのだが、名案が浮かばない」
「もう」彼女は少し呆れたような顔をして、けれど嬉しそうに言う。「遠征に行かれる前には、どうぞ決めておいて下さい」
「ああ、勿論だ」
彼はヒュギエイアを抱きしめると、目を閉じた。眠れるものだろうかと思っていたが、いつの間にか意識は眠りの中へと沈み込むように落ちて行った。
その数年間で、イスカンダルは、変わってしまった。
かつての高潔さと引き換えにずる賢さを手に入れた。あれほど大事にしていた義を捨てて不義を手に入れた。立派であった徳を捨てて、悪徳を身に着けた。
彼の振る舞いは以前の彼の全てを駆逐するような有様であった。後宮に何百人もの女を囲い、美食と美酒に溺れ、ろくでもない因縁を付けては奴隷を平気で殺した。家臣で叛意ありと疑われた者、いさめようとした者を片端から処刑した。
暴君と言うにも余りある、酷い有様であった。
だが、イスカンダルの背後に屈強な武神サマエルがいると人々は思っていたため、サマエルを恐れて人々はイスカンダルが増長するのを止められなかった。
それでも、あまりにもイスカンダルが人を殺し過ぎたために、神殿で何も知ろうとせずに呑気に暮らしていたサマエルの耳にも噂が伝わった。
「おいイスカンダル」何かの冗談だろうと思いつつ、サマエルはイスカンダルに会いに行った。そして、ぎょっとした。かつては毅然としていたイスカンダルの眼が腐りきっていたように見えたからである。気の所為だ、と彼は思った。無理やりそう思うようにした。彼の知るイスカンダルは、高潔な人間であった。それがここまで落ちぶれるはずが無い。彼は現実をまともに見て分析せずに、まだそのような甘ったれた思い込みをしていた。
「どうしたサマエル?」イスカンダルは美女を幾人も周りにはべらせている。誰もが眉をひそめる行為だった。ここが後宮ならまだしも、ここは
「お前は殺し過ぎだ。 あまりにも殺すと恨みを買うぞ、気を付けろ。 それと君主としての振る舞いを――」
「分かった分かった、気を付ける」だがイスカンダルもサマエルの忠告に対してまともに相手をしようとしなかった。「それより、ペルシスへの遠征計画だが、半年後だ。 半年後に必ず往くぞ」
「分かった。 だが、くれぐれも人の命は粗末に――」
イスカンダルはうっとうしそうに、
「分かった分かった!」とサマエルを追い払った。
追い払われてもサマエルはろくに抵抗しようともせず、『全くアイツも変な趣味に染まったな』くらいにしか思わなかった。
膨らんだ腹を抱えて、ヒュギエイアはサマエルを見送った。
「男ならユニアノス、女ならルクレティアと名付けてくれ」とサマエルは言う。
「はい。 どうぞご無事で」
「それはこちらの台詞だ」サマエルは笑った。「女にとって出産は命がけだと言う。 ……必ず、私が戻ってきた時に二人で出迎えると約束してくれ」
ヒュギエイアは微笑んで、しっかりと頷いた。
――この夫婦はとても仲が良かった。サマエルが他に一人も愛人を作らなかったほどだった。時々喧嘩をして、仲直りする事を繰り返した。お互いを理解しようとし、お互いに感謝しようとし、相手を裏切る事だけはするまいと努めていた。
この時のサマエルは、正に幸せの絶頂点にいた。愛する女と絶大な力を手に入れて、そして何にも不満が無く、何にも苦しみが無かった。辛い過去に押しつぶされそうになっても、彼を隣で支えてくれる伴侶がいた。これ以上の何の幸せを望めと言うのだろう?
だが、彼の幸せは瓦解する。彼の幸せの舞台の下で陰謀が進行していたのである。それは幸せに目がくらんでいた彼の愚かさゆえに発見が遅れ、事実をまともに見ようとしなかった彼の甘さゆえにはびこってしまったものであった。
クィントゥスは耐えられなかった。とても耐えられる現状では無かった。
彼の父ペルセウスが人間の尊厳を奪われた時は、彼はむしろ肉親を傷つけられた悲しみよりも、イスカンダルによるこれからの治世に対する希望と爽快感すら抱いていた。彼の理想がようやく実現されると、信じたのだ。
それが、これである。彼の理想は駆逐された。侮辱され汚されて潰されて割れて砕けて裂けて散った。それも、理想の担い手であったイスカンダル張本人によってだ!かつての義を失い、堕落し落ちぶれたイスカンダルそのものによってだ!
クィントゥスはペルシス帝国への遠征軍を見送って、同時に、かねてより練ってあった計画を、仲間と共に実行した。彼の仲間は大勢いた。何故ならイスカンダルが、彼らが臣下として仕えるに値しない、むしろ大損をする暴君だったからである。このままでは自分の命も危うい、そこまで彼らは追い詰められていた。
彼らは魔神アポロン――かつてペルセウスの味方であり、己こそがマケドニアの守護神になろうと言う大それた野心を持つ魔族――と手を組み、行動を起こした。じわりじわりと、まるで雑草が増えていくように、仲間を増やしていったのである。誰でも己の命が惜しかった。おまけに友人や親族を殺された者が大勢いた。誰もが今のイスカンダルを疎ましく、憎らしく思っていた。
彼らの利害は一致している上に、大義名分もあった――『暴君を打倒する』と言う。そしてクィントゥスは『勇敢な気性』ではないとイスカンダルに思われていたため、謀反などしない、と勝手に決め付けられていた。
――それにヒュギエイアが気付いた時には、彼女はもう自由に逃げる事すら出来ない臨月の妊婦であった。
周りは人間も魔族も、皆、クィントゥスに味方する者ばかりであった。
「ヒュギエイア」アポロンは彼女を脅迫した。「子供と自分の命が惜しければ、従順になれ」
彼女は血相を変えた。
「……あ、あの人に何をするつもりなの……!?」
「サマエルは非常に強力な力を持っている。 危険は殺さねばならない。 ヤツがイスカンダルの刃である限り、我々に安息の時は無い」
「あの人は知らないだけよ! 事情を話せばきっとあの人は貴方達の味方になってくれるはず!」
「残念ながらヒュギエイア」アポロンは嘲るように言った。「サマエルは強力すぎるんだよ。 まるで制御不能な『竜』のようだ。 そんな化け物を己の庭園で飼う数寄者は、生憎ここマケドニアには誰一人としていない」
計画が実行されたのは、ペルシス帝国をイスカンダルが屈服させた直後であった。
ズルワーンは一撃でサマエルの手により死んだ事すら知らずに死んだ。アフラ・マズダがその跡を継いで、必死に抗戦してきた。だが、彼は遥かに力では異父兄に敵わなかった。
マケドニア軍は、あっと言う間にペルシス帝国首都ペルセポリス間近まで攻め上る。攻囲されたペルセポリスはハチの巣をつついたかのような大騒ぎになった。
「久しぶりだなアフラ・マズダ」
サマエルは地面に倒れているアフラ・マズダに声をかけた。アフラ・マズダはペルセポリスの防衛と迎撃のために自ら出陣したのだ。それが、今やペルシスの軍勢には一人として無事なものは無く、己ですらもはや戦意を失っている。
「……う、ぐ」アフラ・マズダは血にまみれて地面に倒れたまま、震えている。
「お前に生きる機会を一つだけ与えてやろう。 無条件降伏して、ペルセポリスを明け渡せ。 猶予は三日与える。 さもなくば」サマエルはかつて己にされた事を思い出した。あの痛みと屈辱を思い出した。「何、全滅させるまでだ」
アフラ・マズダは答えない。答えられるはずが無かった。彼は仮にもペルシス帝国の守護神である。それが自らの国をマケドニアに降伏させるなど、耐えられなかった。おまけに彼は、彼がかつてあれほど侮り嫌った異父兄に、今や完全に負けたと実感しなければならなかった。それはアフラ・マズダの矜持を滅茶苦茶にして、地べたに叩きつけられたがごとき、無残なものにした。だから、彼は、答えられないと言うより、声すら出ない有様であった。
アフラ・マズダが全く返事をしないので、サマエルは問いかけた。
「ふむ。 そんなに全滅させられたいのか?」
「……た」
ようやくアフラ・マズダは言葉をひねり出した。屈辱と絶望のどん底で。
だがサマエルは、もう一度繰り返して言わせた。
「聞こえないな」
「分かり、ました……」
――ペルセポリス陥落。
マケドニア軍は凄まじいまでの略奪と虐殺を行った。サマエルが止めろと言ったのに、イスカンダルはやらせたのだ。その挙句の果てにこう言った。
「弱い者など生きている価値が無い、そうだろう?」
「……お前は変わったな」忌々しくサマエルは言った。彼はここに来て、この惨状を見て、ようやくイスカンダルの堕落を直視できた。「悪い方へと変わってしまった。 お前が捨てたものは義だけじゃない、仁愛もだ」
「そんなものに一体何の価値があるんだ、サマエル? 俺はそんなものを信じ込んでいた所為で大事なものを全部失ったじゃないか」
泣き叫ぶ女官を犯しながらイスカンダルは半笑いで答える。
「……」サマエルは血まみれの地獄のような宮殿の中で、一人険しい顔をしていた。「お前はその中でも最も大事なものを失った」
「ほう、何だ?」
「お前自身だ」サマエルはぎろりとイスカンダルを睨みつけた。「お前は己を失った。 己を失うのみに留まらず、落ちぶれた。 お前はもはや元には戻れないだろう。 お前はもう汚いんだ」
「当たり前だ、そんな事は」イスカンダルはどこを吹く風と言った様子で、女官の首をぎりぎりと絞めながら言った。「俺はもう、すっかりこの汚さの素晴らしさを知ってしまって、魅惑されてしまっているのだからな」
「……」
サマエルはもう付いていけないと思って、一人、母親の霊廟を探した。
マケドニアに戻ったら、イスカンダルと手を切ろうと彼は思っていた。ヒュギエイアと子供を連れて、どこか静かな場所に隠棲しよう。イスカンダルがもしもそれに反対するのであれば、彼はイスカンダルを脅すか、殺すつもりであった。無力な奴隷から取り立ててもらった恩はある。だが、今のイスカンダルは駄目だ。狂っている。このまま関与し続ければ己もそしられて憎まれていくようになるだろう。それを嫌がって、イスカンダルと対立する事も起こりうるやも知れない。
そうなった場合、彼が何よりも優先するのは間違いなく己の妻子であった。
……ようやく見つけた母親の霊廟の前で、じっと彼は無言でたたずんでいた。夕日が霊廟を赤々と照らしている。あの時にこの力があれば、とサマエルは手を握りしめて思った。この力があれば、あるいは……。否。そんな仮定の話は己を慰めるものでしかない。今はただ、ただ、感謝しよう。
ありがとう、お母様。
サマエルは声を殺して泣いた。
ゆっくりと世界は夕闇に包まれていった。
イスカンダルは、既に乾いてしまって錆びたような色に変わっている、血に染まったペルシスの玉座に腰かけて、昼夜問わずの戦勝祝いの酒池肉林に溺れていた。
そこに、マケドニア本国からの使者がやって来た。
「イスカンダル陛下、戦勝のお祝い申し上げます」
使者はそう言ってひざまずき、美しい織物を両手に乗せて差し出した。イスカンダルは嬉々として、それを自らの手に収めようと玉座を下りて使者に近づいた。
きらりと何かが光り、どすりと言う音がするまで、イスカンダルは何が起きたのか、分からなかった。音のした場所を見る。己の胴体に、白銀の刃が深々と突き刺さっていた。織物の中に隠されていたのだ。瞬く間に彼の体に刃に塗られていた毒が回る。彼はどさりと倒れた。
「!」それを目にした兵士達に動揺が走った。さっと立ち上がって、そこへ高らかに使者が叫んだ、
「クィントゥス様がマケドニア王へご即位あそばされます。 反逆の心を持つ者は、その家族をも粛清します。 家族の命が惜しければ従順になりなさい!」
その声で兵士達の動揺は根こそぎ消されてしまった。
「――が、あ、あ、そんな……!」
イスカンダルが血反吐を吐きながら言った。その頭を踏みにじり、使者は唾を吐きかけた。
この使者は、クィントゥスの仲間の一人であった。そして誰よりもイスカンダルに対して憎悪を抱いていた男であった。その憎悪は己が刺客になると言う事の、暗殺への恐怖や戸惑いを一掃するほど、凄まじいものであった。
だから彼が自らこの役目に志願したのだ。彼は言う、
「貴様なんぞに俺の姉も弄ばれた挙句に殺されたんだ!」
そして使者はイスカンダルへの攻撃をあえて止めなかったサマエルに向かって、こう告げた。
「サマエル様。 ご家族の命が大切ならば、後は分かっていらっしゃいますね?」
「……ああ」
サマエルはあまり驚かなかった。いずれは、遅かれ早かれこうなるだろうと薄々思っていたのだ。だから彼はイスカンダルへの一撃を止めなかった。
絶命したイスカンダルを蹴り、使者は言った。
「では、帰還いたしましょう、我らの母国、マケドニアへ!」
この事態においてサマエルにとって最悪に予想外だったのは、アポロンの存在であった。サマエルはまさかアポロンに己の妻子が人質に取られているとは全く想定していなかったのだ。サマエルは、だから、神殿に入ろうとして、阻まれた時、仰天した。
「何故だ!?」
「サマエル様」神殿の番人達が言った。「貴方の奥方様とお子様が大事ならば、ここを無理に通ろうとするのは愚行でございます」
「アポロン様が次なるマケドニアの守護神になられます。 サマエル様、イスカンダルの凶行を放置した貴方には、もはやこの国の守護神たる資格はございませぬ」
「アポロン!? ヤツか、ヤツなのか!?」サマエルは力を振るって暴れようかとも思ったが、そんな事をすればヒュギエイア達の命が無い事をすぐに悟る。
泣き叫ぶ赤子の声が近付いてきたかと思うと、神殿からアポロンの妹アルテミスが嬰児を抱いて姿を見せたのである。
「嫌味なくらい貴方に瓜二つの男の子でございますよ」アルテミスは冷たい声で言った。「本当、嫌味なくらいに」
「……ヒュギエイアは無事なのか」サマエルは背筋がゆっくりと冷えていくのをこらえる。彼にとっては何よりも恐ろしい、とある予感に襲われていた。
「死にましたよ。 死体は川に捨てました」アルテミスは実にどうでも良さそうに言った。「何せ難産でしてね。 まあ、誰も助けなかったと言う理由もありますが。 最後の最期にあの女は己の命を捨てて、代わりにこの子の命を選びました」
「……」サマエルは奥歯を砕けそうなくらいに噛みしめた。『必ず、私が戻って来た時に、二人で出迎えると約束してくれ』――あの約束は叶わなかった。もはや未来永劫に、叶えられなかったのだ。荒い呼吸を何度も何度も繰り返してから、やっとサマエルの口から言葉が出た。「その子を返してくれ。 そうしてくれれば私はこの国を出て行く。 二度とお前達に関与しないと約束しよう」
「嫌ですわ。 あのイスカンダルに味方したやからの言う言葉なぞ、信じられるものですか」
「……それでも、頼む!」
その時だった。前方の空間がわずかに変動したのをサマエルは感じて、咄嗟にそれを避けた。空を切り裂く矢の音が後から聞こえた。
「これが兄様の返事でございます」アルテミスは小馬鹿にして言った。「さあ、さっさと失せなさい! それとも」
彼女は泣き叫ぶ赤ん坊を地面に叩きつけると、足で踏みつけた。赤ん坊は火が点いたように泣き叫ぶ。
「止めてくれ! その子に罪は無い!」サマエルが絶叫した。
「『存在そのものが罪』と言うものもあるのですよ」アルテミスは心底軽蔑した声で、「マケドニアの守護神だったのに、ご存じ無いのですか?」
「おやおやアルテミス」そうこうする間に、アポロンが姿を見せた。「何をもたもたしているのやら。 こう言うものはね」この美青年の魔神は、アルテミスを押しのけて手にしている矢の切っ先を地面の赤ん坊に向けた。「こうするのが一番なんだよ」
あまりの出来事にサマエルは一瞬、ほんの一瞬、固まった。
「――止めろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
はっと我に返ったサマエルが能力を発動するよりも早く、アポロンは矢を突き刺していた。
「あ」
サマエルはふらふらとその小さな死体に歩み寄る。絶叫も涙も出なかった。何もかもが衝撃に打ちのめされて、正常に機能しなかった。
「ああ……」
「それじゃアルテミス、行こうか」アポロンは爽やかに笑って言った。「ペルシス帝国まで手に入れたんだ、気合を入れて守らないと」
サマエルは小さな死体を抱きかかえて、もはや正気では無い目つきで、海の上をよろよろと歩いている。
『大事なものを、護れるように』
また護れなかった。
『誇りと希望なのだからね』
今や絶望しかない。
彼の心は殺されたのだ。
「……」
サマエルの放浪は続く。小さな死体が腐って骨だけになっても、彼は海の上を歩き続けた。朝も、夕も、日光が焼き尽くす昼も、冷たい月光が身を貫く夜も。
ふと海の色が変わって、彼はぼんやりと陸地が近い事を悟った。遠目でもはっきり分かる非常に巨大な灯台が見えた。彼は何となくその場所を目指した。
そこは大きく、見事な港だった。漁船から商船まで、大小様々な船が並んでいる。
彼は街の中へと入った。とても大きくて立派な街だった。
彼は人ごみの中を歩いたが、人々は彼のとても正気でない風体に驚いて自然と道を開けた。
歩いて歩いて――そしてとうとう限界が来て、彼は倒れた。
「おーい」
何だ?
「もしもーし」
誰だ?
「俺? 俺はラハブって言う」
……。
私は、誰だ?
「いや、それを赤の他人の俺に聞かれてもなー」
……私は……。
――私は!
次の瞬間、彼は自分が誰であるか何をされたか悟って、飛び起きた……つもりだったが、力の大半を失った体は、わずかにけいれんを起こしただけであった。
彼の側には日に焼けた変態の男がいた。何故変態かと言うと、全裸に近い格好で、きらびやかな金銀宝玉の装身具は沢山身に着けているものの、服らしい服といえば下半身に適当に包帯を巻いているだけだったからだ。
「あ、起きた起きた。 んで、アンタの名前は何だ?」
その男、ラハブは訊ねた。
「私は……サマエルだ」
「……もしかしてあのサマエルさん? マケドニア最強の守護神だった」
「……もはや私は最強でも何でも無い」
「うん、知っている。 商人のおっちゃんおばちゃん達がさ、マケドニアで
「呼び捨てで構わない」
「じゃあサマエル、まずは一杯、これを飲め飲め」ラハブはサマエルの口元に器を差し出した。
サマエルはそれをゆっくりと飲んだ。血だった。魔神や女神は、こうやって人体を食べねばその力が振るえなくなる上に、極限の『飢餓』状態に陥ると理性をも失う事がある。
「どうだ?」とラハブは言った。
「……礼を言う」
そこでサマエルは大事なものが無いのではっとした。
「あの子はどこだ!?」
「ここにいるぜ」とラハブは絹で出来た袋を差し出す。震える手でサマエルは中身を確かめて、それを抱きしめた。良かった。良かった。落ち着いてから、言う。
「……ありがとう」
「いやいや。 しかし、どうして革命以降ずーっと行方不明だったサマエルがウチの国に来たんだ?」
「……分からない。 何となく歩いて歩いて、そうしたらここまで来ていた」
「ふーん。 それにしてもマケドニアはおっかねえなあ、近頃は権力闘争が激しいじゃねえか。 血を血で洗う……おお、ぞっとしねえ」
「……ここは、どこだ?」とそれを聞いてからサマエルは訊ねた。
「砂漠の国アエギュプトゥスさ。 ここは、そのアエギュプトゥス屈指、いや、世界一の学問の都アレクサンドリアだ。 ちなみに俺がアエギュプトゥスの守護神だ」
「そう、か……」
アエギュプトゥスは砂漠の大国だった。古くから存在し、交易で繁栄している事、アエギュプトゥス王は代々ファラオと一般に呼ばれている事をサマエルも知っていた。そして、アレクサンドリアは知らぬ者がいないくらいに有名な都だった。ラハブが言った通りの、世界一の学問の都でもあった。聞いた所によれば『大図書館』があって、そこにはありとあらゆる学問の書や巻物が収められていると言う。
「まあ何があったかは詳しく聞かないが……大体分かる。 そのちっさいのの墓、作ってやろうか?」ラハブは親切心からそう言ったが、
「……まだ、離れられそうに無いんだ」サマエルは断った。今この子と離れたら自分がおかしくなってしまいそうだった。
「そうか。 ま、とにかく食って飲んで養生しな」
ラハブはそう言って、手を鳴らした。奴隷が肉と真紅のブドウ酒を運んできた。
「すまない」
それから数週間かけて、サマエルは元気を少しずつ取り戻した。
サマエルはその間、酒に溺れた。酔いつぶれては寝て、起きてはまた酔いつぶれ、だがある日突然彼は正気に戻った。それは本当に偶然であった。
……ある朝ふと目覚めたら、子供の楽しそうに遊び戯れる声が聞こえたのだ。それは彼の幻聴であったかも知れないし、実際に外で遊んでいた子供がいたのかも知れない。それを聞いた途端、彼は我知らず泣いた。泣いて泣いて、涙が枯れるまで泣いた。疲れ果てて泣き終わると、彼はようやく己の子が殺された事を受け入れた。死んでしまった事実を、直視できた。殺された彼の心がよみがえった。殺された彼の心の死体から、新芽が生え出たようであった。
命は、殺されてよみがえるのだ。
ラハブは美少年と酒が大好きだった。それこそ選り抜きの美少年と、ほとんど戯れて、あるいは酒に酔いつぶれて一日を過ごしていた。しかし彼は同時に変態でもあった。誰もが普通は隠れてする例の行為の現場を、人に見られる事が大好きだったのだ。神殿の内外、屋外屋内、時間も場所をも一切問わずに。
「……」サマエルはどう言う表情をすれば良いのか、真面目に分からないでいる。だが、そんな彼の状態に全く構わず、
「うひひひひー、興奮するぜ!」とラハブは調子に乗っている。
興奮しているのはラハブと美少年のみで、その夜の営みを真昼だと言うのに見せつけられているサマエルはむしろ冷めていた。彼は聞く、
「どうして少年とそう言う事をしたがるんだ?」と。
ラハブは言ってのけた、「知らん。 分からん。 だが俺は気付いたら美少年がいなければ生きられなくなっていて、な!」
「別に私も、同性愛がああだこうだと言うつもりは無い。 だがそう言う事は人前では無く隠れてやってくれ、男と女でも夜分に隠れてやるだろうに」
羞恥心を一体どこに置き忘れてきたのだろう。サマエルはそれが気になった。
「良いじゃん眼福だよ、眼福ッ!」
「……」呆れて言葉が出ないサマエルだった。
ラハブと言う魔神は、とんでもなく突き抜けた馬鹿なのか、どうしようもなく手遅れの間抜けなのか、真正の紛う事無き変態なのか。
サマエルは、こればかりはアレクサンドリア屈指の学者達でも、突き止められないだろうと思った。
しかし、アエギュプトゥスの民のラハブに対する崇敬は、絶大であった。ほとんどの民が、ラハブをまるで恵みの雨を降らす雲のように崇めていた。彼は雨を操るのである。彼は祈雨と止雨を自由自在に司った。アエギュプトゥスは砂漠の国であったから、きちんと雨が降らねば飢饉になった。だが、ラハブの力はそれを必ず回避させたのである。そしてラハブは農業を盛んにするために、灌漑工事等も進めさせていた。農業水路の開発などに欠かせない測量や地質調査などは、ここぞとばかりにアレクサンドリアの学者陣を動員してやらせた。更に天文学と気象学の学者を呼び集めて、雨季と乾季のあるアエギュプトゥスの砂漠の気候を詳しく調べさせたり、己の力を一番上手に発揮できる時期を天文学者によって作らせた暦に明記させたりした。それから、植物学の学者達に多少の乾燥にはびくともしない頑丈な品種の苗を開発させて、広めさせた。
その結果、アエギュプトゥスは収穫した穀物を、毎年国外に大量に輸出できるほどの豊かな穀倉地帯になった。『明日も食べるものに困らない』と言う状態は、人にとってとても安心感を与えるものだった。変態であろうが無かろうが、この魔神とこの魔神がやる事は彼らに生活と心の安定をもたらすのだ。それはとても素晴らしいものであった。人が生きるのはそれが高貴な事だからだとしたら、ラハブのもたらす雨はまさに高貴の源であった。命の源であった。うるわしい緑が、地平線の果てまで続く、豊かな大地の担い手であった。
つまるところ、恵みの雨をもたらす豊穣神、それがラハブであった。
だから人々は彼が多少の変態行為をしようと、常に酒に酔っていようと、生温かい目でそれを見逃したのである。いや、むしろ彼は人々から愛されていた。飲んだくれて道に倒れているラハブにかけられる毛布が山ほどあった。
「おーい! まーたラハブ様が飲みすぎて倒れているぜ!」と一番先に路地に倒れているラハブを見つけた男が叫ぶと、わらわらと人が寄ってきた。
「全く仕方ねえなあ、おい毛布だ毛布!」
毛布をかけてやる、親切な日焼けした男性もいれば、
「泥酔中に追いはぎに遭われたらどうされるんだい、もうラハブ様!」
心配する中年の女性もいるし、
「本当にこの御方が守護神で大丈夫なんだろうか……」
当然ながら、不安になる青年もいる。
「大丈夫に決まっておろう!」と怒鳴ったのは老人であった。「若造、おぬしはな、知らんのじゃ、飢饉の恐ろしさを! 食っていけんと言う理由で親が幼い子供を捨て、子供は老いた親を捨て、食べるものが無かったから砂利まで食った、あの悲惨な飢饉を知らんからそんな事が言えるのだ! ラハブ様が守護神であらせられる限り、あんな悲劇は決して起こらん! それがどれだけ素晴らしい事か、最近の若い者はこれだから!」
「うー」と呻きつつ、老人が怒鳴った所為でラハブは起きてしまった。酒臭い息を吐きながら、「そうさ、俺が守護神でいる限り、いくら貧乏だからって、自分ンとこのガキが、腹減ったー腹減ったーって泣いている時に飯を一粒も食わせてやれんなんて惨めな思いはしなくて良いさ。 農業していっぱい収穫して、んでガキを沢山産んで育てて、そのガキにまた農業させるんだ。
増えて、大地に満ちて、また大地に緑が増える! で、農閑期は工芸人職人に早変わり! 金銀細工から宝石細工までお任せあれ! それを神殿やら王宮に買い取らせてまた飯が食える。 肥え太れ、美しく太っちまえ。 衣食住足りて礼節をやっと知れるんだ。 豊かな事は良い事だ。 んで頭が良いヤツは学者になれ。 学者になって、もっともっとこの国を豊かにさせろ! この国がもっと豊かになれば、俺は美少年に囲まれて、悠悠自適な生活を……」
べらべらと喋っておいて、その途中で、ラハブはまた、こてん、と寝てしまった。
……誰もが少し苦笑して、互いの顔を見合わせると、手に手に持っていた毛布をかけてやるのだった。
「いよう」とその日もラハブはサマエルの所にやって来た。「俺が『観光ガイド』するからさ、アレクサンドリアの街を歩こうぜ! 美少年をナンパしたいんだ!」
あまり好ましいとは言えないが、別に嫌だと拒絶するほどの理由も無いので、ラハブにサマエルは付いて行った。昼間は暑いので、涼やかな朝に二人は出かけた。
「ええ~俺ことラハブの観光ガイドでござーい!」毎日毎度のように調子に乗りまくっているラハブはサマエルの前をうきうきと歩く。「ここがアレクサンドリアに留学に来た学生達の宿舎街でござーい! 男も女も老いも若きも『学ぶ意欲』のある者全てに解放されている街でござーい!」
「ふうむ」とサマエルは早朝なのに大勢行き来する人々に目をやった。誰もの目に学べる幸せと知識が増えていく楽しみがあった。
「ここが市場でござーい! 衣類に書物、奴隷から今日の夕飯まで何でも売っている場所でござーい!」
確かに、奴隷から、パピルスと言う植物で作られた紙の束、麻で出来た衣類に、にわとりの卵まで売っている。商人達の威勢の良い声が飛び交ってにぎやかだ。
「そうか」サマエルは段々、ラハブへの対応に慣れてきた。ラハブの数々の奇行や変態行為を、生温く見守っていれば良いのだ。無視さえしなければラハブはずっと調子に乗ってご機嫌でいる。要は自分を構ってくれる相手がいればそれで良いらしい。
「ここが高級邸宅街、別名『教授達の家』でござーい!」
そこはまるで大神殿がいくつも立ち並んでいるような、壮麗な邸宅と素晴らしい庭園の数々が、まるで己を見てくれと言わんばかりに熱砂の日差しに輝いている地区であった。高々と吹き上がる噴水、アエギュプトゥス独特の様式で作られ、細かい紋様が刻まれ、あるいは印や像が彫りこまれた石柱と、アレクサンドリアの中でも名高い学者のものらしき彫像が数多に整列している広々とした緑の庭園、清い泉、太く美しい枝ぶりの木々、そしてそれらに囲まれて、大理石で出来た巨大な館がそびえ立っている。そう言う壮麗な邸宅と庭園が、これでもかと並んでいるのだ。
「学問の講師達のか。 学問をすると言う事は、儲かるのだな……」
「勿論でござーい! ここで教授になるのにどれほどの努力と才能が必要か、その対価を考えれば当然でござーい!」
「なるほど」それこそ血のにじむような努力と天賦の才能が無ければ、ここでは教授にはなれないのだろう、とサマエルは納得した。
彼らは更に歩いた。日が昇り、熱気がじわりじわりと二人を覆っていく。だが、サマエルはそんな暑さが吹っ飛んでしまうほどの衝撃を受けた。ラハブが自慢げに
「さあて、お待ちかねのアレクサンドリア大図書館でござーい! 人の叡智の結晶、地道に積み重ねられてきた受け継ぐべき大智の終着点でござーい!」
「……素晴らしいな」
サマエルは心臓が震えるような感動を禁じ得なかった。その建物は、巨大で、その隅々までを精密なアエギュプトゥス独自の意匠に彩られ、その地に根を下ろした大樹のごとく、暑い日差しの中でも堂々としていた。
ここが知識の宝庫、人々の努力の結晶、叡智をはぐくむ胎盤なのだ。
「あったりめえのコンコンチキでござーい! ……どうだサマエル、たとえ天国にだってこれほどの図書館は無いだろう?」
「ああ!」
……その時、彼らは、図書館の門番がよれよれの服を着た少年と言い争っているのを見つけた。
「ご教授の方々のみが発行できる、許可証が無ければここには入れられんのだ!」
「お願いします、どうか中へ入れて下さい、お金ならいくらでもお支払いしますから!」
「金の問題じゃない! ここに入っているものは金でどうこうできるものじゃない!」
「そんな……!」
少年はつれなく門番に追い払われた。彼は未練がましく図書館の周りをうろうろと回っていたが、サマエル達に気付いた。ラハブが堂々と変態そのものの格好をしていた所為である。
「あ……」と少年は口を開けてぽかんとした。
「おい少年」とラハブが早速話しかけた。「一体どうしたんだ?」
少年は我に返り、「私は遠い異国の歴史家の端くれでして……この大図書館に大量の秘められた歴史書があると聞きまして、もう居ても立ってもいられず、どうか史料や文献を読ませていただこうとやって来たのです。 ですが……まずはここの学生になる所から始めねばならないようです」
「遠い異国って、どこだ?」ラハブは気になった。少年は答えて、
「『
「「!」」
サマエルとラハブが同時に目を見開いた。それは、遠い遠い海と大地の果てにある、巨大で豊かな国だと、半ば伝説的に語られていた国だった。
「少年。 君はどうやってここに来た?」ラハブは聞いた。
「出国許可が頂けませんでしたので、勝手に国を抜け出すと言う大罪を犯しまして、密輸船に乗り込みました。 ところがその密輸船が嵐で難破しまして、板切れに掴まって漂流する羽目になったのです。 幸か不幸か、そこをアエギュプトゥスの船に助けられました……」
「学問への熱意は恐ろしいな」黙っていたサマエルがついに呟いた。「犯罪まで冒させる」
「そこまで学問への熱意があるのなら、俺がアレクサンドリアの教授達に便宜をはかってやらない事も無いぜ?」とラハブが案の定言い出した。サマエルはそのラハブの背中を蹴り飛ばそうかと悩んだ。少年が、苦労の長旅の結果の汚れた顔はしていても、ラハブもろ好みの美少年であったからである。
「ほ、本当ですか!?」ぱっと少年の目が輝いた。
「ただし」ラハブがそこまで言った途端、サマエルはもう迷わずにその背中を蹴り飛ばした。「うぎゃあ!」
「おい君。 学問に情熱をそそぐのは良い事だ。 だがもっと人を知るべきだ。 この男はお前の尻の貞操を狙っている」サマエルは忠告した。
「え」少年は唖然としている。
「馬鹿野郎何をしやがる何をバラしやがる!」蹴られて地面に転がったラハブがわめいた。「折角の俺の『ボーイズ・ハンティング・タイム』を邪魔しやがって!!!」
「……」少年は少し考えた後、「私は歴史家として世界の歴史を記したいのです。 そのために国法を犯すと言う犯罪をも、既にやりました。 なのに今更、後ろの貞操をああだこうだと因縁を付けて守ろうとし、折角の好機を逃すよりは、私はそれらを投げ打ってでも歴史学を学びたいのです」
それ見た事かと、今度は、まるで躍るように飛び起きたラハブがサマエルを蹴った。
サマエルは倒れて、世の中は理不尽すぎる、と思った。
少年はバシレイオス・アグリッパと名乗った。彼はラハブの伝手でアレクサンドリアの歴史学の権威、アストリウス教授に師事し、すぐに気に入られて、暇さえあれば大図書館に、にわとりが鳴き出す頃から真夜中までこもって、歴史書を片っ端から書写し、熱心に講義を聴いた。
サマエルがその国の話を耳にしたのは、そのアストリウス教授の講義のさなかであった。何気なく彼も講義に参加してみたのだ。サマエルはペルシスとマケドニアの神殿で育ったから、文字の読み書きの能力はちゃんと持っていた。
ローマ。
イスラエル、ギリシア、アエギュプトゥスなどと比べては、歴史の浅い新興国である。だがギリシアの文化を積極的に取り入れ、強大な力を持っていて、盛んに対外戦争を起こしてきている。領土を拡張しようとしているのだ。その歴史は浅いが、これからアエギュプトゥスにとってどうなるか、問題だ。脅威となるかあるいは味方するか。今、守護神の後継者争いが起こっているらしい。それによって今後の動きは決まるだろう。
行ってみたい、と無性にサマエルは思った。
何故かは知らないが、心惹かれるものがあったのだ。
彼にはもう何も無かった。だから、何かを新たに作り出したかった。
ラハブに暇乞いをして、彼は船でローマを目指した。
「えー、行っちゃうのか?」
ラハブはつまらなさそうである。彼とサマエルは、既に友情めいた関係を作っていた。だが、サマエルはアエギュプトゥスの神殿には入ろうとしなかった。入れば、この程よい関係が壊れてしまいそうな気がしていたのだ。それにサマエルは、もうラハブと美少年の営みを見せつけられるのに本当に懲りていた。
「ああ、行く。 私は――どこにも居場所が無いのなら、自分の手で作り出したい」サマエルは言った。
ちぇ、とラハブは舌打ちした。それをバシレイオスがなだめて、
「きっとまたアレクサンドリアにいらっしゃいますよ」と言った。
「……サマエルは恩を仇で返すヤツじゃあ無いからなあ、だからこそつまらないんだ」ラハブは言った。
「それはどう言う意味だ?」サマエルはラハブの発言の真意が分からず、訊ねた。
「お前が
サマエルは引いた。盛大に引いた。心底ラハブの変態性に恐怖して呟く、
「……真性の変態を見た気がする……そんな拷問にかけられたら、私は自害するぞ」
もっとも、自害してもラハブの変態性からは絶対に逃れられない気がする。天地の果てはおろか、この世を超えてあの世へ逃げても、絶対に。
「てやんでいべらぼうめ、俺は美少年がいないと生きていけないんだ!」ラハブは逆上して、「何が悪いか!」
「実を言うと気持ちが悪い」サマエルはぽつりと、おびえたままで言った。「人それぞれの好みの問題ではあるのだが」
「……」無言でラハブに睨みつけられた。
長い海の旅を経て、彼はローマへ着いた。
現在のローマは守護神の跡目相続争いで、大騒ぎになっていた。現在の守護神はマルスと言う魔神である。だが、彼は老いている上に病に侵されていた。
サマエルはマルスの大神殿を訪ねたが、彼が名乗った途端に門番は青ざめた。
「ほ、本物のサマエル様ですか!?」
「それを証明したいのだが、どう証明すれば良い?」
「しょ、少々お待ちを!」
門番が神殿の中に駆け込んだ。それからは蜂の巣をつついたかのように、召使いや奴隷達が慌ただしく神殿を出入りする。その時であった。
「何だこの騒ぎは?」
大勢の付き人を従えて、若い魔神が姿を見せる。
「ポセイドン様!」戻ってきた門番が非常に気まずそうな顔をした。「こ、これは……!」
門番が説明しようとした時、今度はやはり大勢の付き人を従えた美しい女神がやって来た。
「あら騒がしい事。 一体何の騒ぎですの?」
「ミネルヴァ様……!」門番の顔色はどんどんと悪くなっていく。
この門番はきっとあまり口の達者な男では無いのだろうと可哀想になって、サマエル自身が言う事にした。
「私の名は、サマエルと言う」
「「!」」
二人の神々の顔色が瞬時に豹変した。
サマエル。それはあっという間にギリシア・ペルシス帝国を撃破し、だがマケドニアから追放されて行方不明になった魔神として有名だったのだ。
「私は居場所を作るためにここローマへやって来た。 だがいさかいはなるべく避けたい。 どうか」とサマエルは丁寧に言った。「話し合いで解決したいのだが、お願いできないだろうか?」
「……それは」魔神が敵意も露わに言った。「力では俺が遥かに下だと言う事か?」
「……私は居場所が欲しいだけだ。 力で争うような事はしたくない」
端からけんか腰の魔神に対して、女神は賢かった。
「では守護神ではなく、軍神としてローマにいれば良いではありません事? 私を支持して下さるならば、それを許しましょう」
「ミネルヴァ!」魔神が怒鳴った。「この女狐め!」
「あらあらポセイドン、先にサマエル殿に喧嘩を吹っかけたのは貴方ですよ?」
「……ッ!」魔神は憤怒の形相で女神とサマエルを睨む。
その時だった。召使いが現れて、丁寧な口調で、
「どうぞサマエル様、マルス様が謁見なさるとの事でございます」
――その男は、寝台の上で鋭い目をしていた。病んでいる体ではあるものの、心までは弱っていない、そう言う眼であった。
「貴方がサマエルか」守護神マルスは、じっと彼を見据えて言った。「どうして我らがローマに来た? 私が
「居場所が欲しいのです」サマエルは正直にローマに来た理由を言った。「どこにも居場所が無かったので、己の力で作り出そうと思いました」
「そうか。 だが貴方の評判は、強いと言う点では確かだが、品性には欠けていると聞いている。 特にマケドニア国王イスカンダルの悪逆非道な振る舞いを見過ごしたと言う……」
「私は義を持っていた時のイスカンダルを知っていました。 それを心のどこかで信じていました。 噂を聞いても、目で見ても、忠告をしても、その段階に至っても、義を持っていたイスカンダルの姿が思い起こされて、どうしても彼と真っ向から敵対できませんでした。 現実を甘く見ていたのです」
「……そうか」
「私はローマの守護神になるために来たのではありません。 神殿の片隅に置いていただければそれで充分でした」彼はあの女神と魔神の顔を思い浮かべて、「ですが――どうやらそれは今の状況では不可能のようですね」
「そうだ。 ミネルヴァとポセイドンの争いは、貴方を嫌でも巻き込むだろう」
「マルス様はどちらに守護神の座をお渡ししたいのですか?」
「……一長一短、二人のどちらにも致命的な欠点があり、長所もある。 たやすく決められる事では無いのだ」
「……なるほど」
「ミネルヴァは賢い。 大変に賢い。 だが力が弱い。 ポセイドンは逆に愚か者だ。 だが力がある。 どちらを選んでもローマは困るのだ」
「……」
「だが」マルスは一呼吸して、言った、「サマエル。 貴方はどうやらその両方を兼ね備えているようだ。 もしも貴方がローマの民に誰よりも支持されれば、私は自然と貴方を選ぶしか無くなるだろう」
「……ローマの、民に……」
守護神は民から崇められ、愛され、そして供犠の引き換えに繁栄をもたらす。
「幸か不幸か、近々マケドニアへの遠征計画が実行される。 私はこれの結果によって守護神を決めたいと思う」
そこまで言うと、マルスは力が尽きたのだろう、目を閉じた。
ローマのマケドニア遠征にサマエルもやって来る。その噂を聞いたマケドニアの神殿も王宮も上から下まで恐慌状態に陥った。サマエルがどれほど強いのか、それを知らない者はいなかった。アポロンは絶句してから、
「ヤツの心を殺してやったのに、どうして!?」と叫んだ。
ともかく攻めて来られた以上、無抵抗でいる訳にも行かず、マケドニア軍は迎撃に向かう。海戦が始まる。だが、始まるその前から既にマケドニア海軍の士気は底辺に落ちていた。
「――BIGBANG!」
ローマの艦隊が海の果てに見えた途端に、攻撃が、来た。空間が爆破されて巻き添えを食らった兵士達が木端みじんになる。船が撃沈される。うわあ、と誰かが叫んだ。逃げろ、と叫んだ。アポロンが必死に踏みとどまらせようとして何かを 叫んだが、その彼の眼前にサマエルが出てきた。
空間を、跳躍して、突然に。
あ、と思う事しかアポロンには出来なかった。
次の瞬間アポロンは首根っこを掴まれて、気付けば敵軍ローマの兵士達に彼は囲まれていた。
「う、わ」声が出ない。まともな声が出ない。アポロンは頭が真っ白になった。「あ、あ」
「ひい!」と叫ぶ声が聞こえて、アポロンがはっとそちらを見れば、マケドニアの指揮官が恐らく彼と同じようにサマエルに拉致されてきていた。
「今の内にローマの全軍で、マケドニアを叩き潰せ」
それから、サマエルはローマの指揮官にそう言った。
指揮官と守護神を奪われたマケドニア軍は、もはや牙爪を抜かれて筋肉をも奪われた獣であった。
当然ながらローマが勝った。清々しいくらいの大勝利だった。
アポロンは捕虜の中の一人として、ローマの街中を引きずり回された。アポロン達捕虜には民衆の罵声と石つぶてが、凱旋を飾ったローマ軍には花と金貨と賛辞が浴びせられた。
サマエルの名声はローマの市民の間で一気に跳ね上がった。神殿を建てようと申し出る富裕な貴族も現れたくらいだった。だがサマエルは断った。
「まだ、この程度で崇められては、傲慢と言うものだ」
その代わりに彼は神殿の片隅、日の光が良く当たる場所に一本の木を植える事を認めさせた。その若木の下に彼は、己の子を埋葬した。
彼は時間がある時には、その若木がそよ風に揺られているのを見て過ごした。
……ポセイドンは無言でサマエルをねめつけている。それにサマエルは気付いていないのか、背中を向けて、若木を見ている。
ポセイドンは今だと思った。彼は毒を塗った短剣を振りかざし、一気にサマエルの背中にそれで切り付けた――はずだった。だが、急に彼は体の自由が利かなくなった。まるで空間が彼を固定し、微動だにさせないでいるかのような――彼の全身から脂汗が噴き出た。
何と言う、恐ろしい力だ!
「私はいつ死んでも良い」
サマエルは青ざめた顔をしているポセイドンには背を向けたまま、言う。
「私の妻と私の
「……?」サマエルの言葉に、ポセイドンは戸惑った。何を言いたいのだ?
「復讐すれば良いのか? 同じ事を繰り返せば良いのか? それで私は満足できるのか? いや、復讐はしなければならない。 因果は絶対応報、運命の女神にすら変えられはしないのだから。 だがその後、私は何をすれば良いのだ? 何を目標に生きていくのか? 死ぬためだけに生き続けるのか? それで本当に良いのか? ……分からない。 本当に分からないのだ。 私の目の前には相変わらず闇が広がっている」
「……」ポセイドンは声が出なかった。
サマエルは、ふと思いついたように訊ねる、
「ポセイドン、貴方だったらどうするか?」
「……」
答えられない。ポセイドンは黙り込んだ。サマエルはしばらくして言った。
「……済まないな、とても楽に答えが出るような問いでは無いとは分かっているのに。 アエギュプトゥスのラハブだったら、こんな時は、酒に溺れて美少年と戯れ続ける、と断言しただろうに、な」
ポセイドンは考えてから、ゆっくりと言った。「……奪われ殺され傷つけられ、愛別離苦を舐めさせられ、それでも営んでいく。 それが人の生き様だ」
「……」
サマエルは相も変わらずポセイドンに背中を向けて黙っていた。
ふっとポセイドンは体が楽になったのを感じる。どうするべきか迷ったが、彼はその場からそっと立ち去る事にした。
「あらサマエル殿」
ミネルヴァは表向きは優しい、美しい微笑みを浮かべた顔で言う。内心でははらわたが煮えくり返っていたが。
「ご活躍、この目で確かに見ましたわ。 サマエル殿こそローマの守護神に確かに相応しいですわね」
「……か?」サマエルは小さな声で言った。
「?」ミネルヴァはよく聞き取れなかった。
サマエルはほんの少しだけ声量を上げて言った。
「招かれざる客が五人も神殿に紛れ込んでいるのは、貴方の指図か?」
「!」ミネルヴァは必死に平然とした顔を取り繕う。「何の事でしょうか?」
「……別に私は貴方から次期守護神の座を奪うつもりは無い。 だが」サマエルは淡々と続ける。「強くなければ誰も護れない。 強くあろうと賢明でなければやはり大事なものを失う。 それでも、強くなければ背負ったものの重圧に潰される。 弱い事は悪なのだ、この残酷な世界ではな」
「私が悪いとおっしゃるの?」ミネルヴァの声は刺々しいものに、つい、変わってしまっていた。
「……いずれ貴方も思い知らされるだろう、己が弱かったがために奪われ殺され辱められ、何の尊厳をも与えられない、そんな目に遭って。 力が無いと言う事はそう言う事だと私は思う。 無力は罪であり、喪失への恐怖の元なのだ」
「……」
「全てはマルス様がお決めになる。 私はただその決定に従うつもりだ。 ところで」ここでサマエルはじっとミネルヴァを見て、言った。「この世で最も残酷な処刑方法とは何だと思う?」
「え」彼女は戸惑った。「いきなり、何を……?」
「アポロンだ。 ヤツに私は妻子を殺された。 復讐をしなければならない。 ただで殺すだけでは許せない。 どうしてやれば良いだろうか?」
「それは……」彼女は考えたが、名案は浮かばなかった。
「……やはり答えられないか。 貴方は善い人なのだな」サマエルはしみじみと言った。「貴方は自分で思っているよりも、遥かに善い人なのだ。 刺客の件は、忘れる事にしよう」
「……」ミネルヴァは声が出なかった。ただ、『己は負けた』と知った。それも酷く単純な理由で思い知らされた。
サマエルは彼女から目をそらし、悠然と去っていく。
その背中を見つめて、彼女は深いため息をついた。
アポロンは脱走しようと番兵の隙をうかがい続けていた。彼は己がサマエルにかつて何をしたのかちゃんと知っていたし、今の状況も理解していた。このままでは己は殺される。いや、良くて『殺される』だろう。
アポロンはだからサマエルが牢獄にやって来た時、ざあっと全身から血の気が引くような思いだった。
「……」
サマエルは牢獄の鍵を開けた。そしてアポロンに、
「出ろ」と言った。
「私をどうするつもりだ……?」
「出ろ」サマエルは誰もが震え上がるような目でアポロンを見た。
アポロンは怯えながら牢獄から出た。
「どこにでも行け」サマエルは意外な事を言った。
「は……?」アポロンは耳を疑った。
「どこにでも行け。 好きにするが良い。 だが」サマエルはぞっとする声で断言した、「お前が幸福になった時、お前が満たされた時、お前の大事なものを、お前の幸福を、満足を、私は全部殺してやろう」
「ッ!」
「どこに逃げようと、どこに隠れようと、私は必ずお前を見つけ出し、お前の大事なものを全て、全てお前の前で殺してやる。 何度でも殺してやる。 魔族の人生は人間より長い。 その人生の残りを常に孤独で過ごせ。 かすかな幸せも得られぬように生きて、惨めに死ね」
「……」アポロンは真っ青になっている。魔族は人よりも長生きする。だが、その残りの人生を彼はサマエルにより、今、潰されたのだ。
「どうした、何を震えている?」
「……止めて、くれ!」アポロンは悲鳴を上げた。「それだけは止めてくれ!」
「私が止めてくれと言った時にお前は何をした?」どす黒い憎悪と激烈な復讐心。サマエルの声はそれだけで構成されていた。「さあ、どこにでも行け!」
「……」アポロンは、うなだれるだけだった。
「ふむ」と老境のマルスはまだまだ衰えぬ鋭い目で、三人の多神教の神々を見渡す。「その様子では、ミネルヴァとポセイドンの二人とも、サマエルが私の跡を継ぐ事に納得しているようだな。 では正式に決定しよう。 ローマ守護神マルス、後継ぎをサマエルに任ず」
うやうやしくサマエルはそれを承った。
「――」安心したのか、マルスは目を閉じて寝台の上に横たわった。
その日の夜の事だった。
サマエルは夢を見た。何の事は無い、幼い頃の記憶である。
彼を護るために彼の父が赤い竜として飛び立っていく、その姿を彼は見ていた。赤い竜の勇姿。
それはとても懐かしく恋しい記憶だった。
(ああ)
サマエルは思った。
(今の私なら、父さん、貴方をも助けられた!)
「サマエル」
懐かしい声がして、彼ははっと背後を振り返った。
彼の失ったもの全てが、そこにはいた。
彼はへなへなとその場に腰をついてしまった。
「父さん、母さん、ヒュギエイア、ユニアノス……!」
「こら、何を腰を抜かしているんだ、サマエル」
父親が彼を起こすと、ぴしゃりと尻を叩いた。
サマエルはいつの間にか幼児に戻っていた。家族三人で暮らした家の中にいた。いつも悪さをすると彼の父親も母親も彼の尻をぶった、その記憶もよみがえる。けれど彼は理不尽な理由でぶたれた事は一度も無かった。
裕福でも無かったし、小さな家だったけれども、幸せだった家庭がそこにはあった。
「おとうさま、おかあさま、ごめんなさい……」サマエルは懐かしくて、恋しくて、泣きながら謝った。「まもれなくてごめんなさい」
無力で護れなかったがために彼は愛した両親を失った。
がらりと景色が変わる。今度はマケドニアの神殿内だった。
サマエルは青年になっていた。
ヒュギエイアが泣いている。彼の胸の中で泣いている。
「私は汚い女なのに。 どうして、どうして! 私はろくでもないものなのに!」
「お前は良い女だよ」サマエルは一生懸命言葉を編み出す。慣れていないのだ、女を口説く方法に。「本当に良い女だ。 大体お前が僕をペルセウスから庇ってくれたから僕は今ここにいられるんだ。 ……あ、とするとお前が自分をろくでもなくて悪いと言う、一番の原因は僕になるのか……?」
「ばか」ヒュギエイアは泣き笑いの顔をして、サマエルの胸に爪を立てて引っ掻いた。「きらい、きらい、サマエルなんかきらい!」
「僕は大好きだ。 お前の子供が欲しい」
そして暗愚ゆえに愛した妻子をも彼は失った。
サマエルの目の前の闇がようやく啓けて――赤い竜が目の前に君臨していた。
『GOUROOOOOOOOOOOOOOOOOHN!』
それは、天地を揺るがすほどに吼えた。
……ああ。
これ、は。
私の夢見た姿。
大事なものを護るために、
己の命をも捨てた偉大な父の姿。
そうだ、私は、もはや、失ってなどいられないのだ!
赤い色と竜の姿が、彼の目に焼き付いた。
竜はもう一度吼えた――『GOUGAOOOOOOOOOOOOOOOHN!』
……そこでサマエルは目を覚ました。
静かな朝の気配が神殿に満ち溢れていた。
「……」
サマエルはゆっくりと寝所から起きあがった。彼は、とある事を決めていた。
赤。それは居並ぶ誰もがはっと息を呑むほど、鮮烈な赤であった。目が覚めるような赤。その衣にサマエルは身を包んでいた。そして彼の背中には赤い竜――と言うには小さいので、蛇と言えば適切なのだろう――の刺青が彫られていた。
彼は変わった。自分に対して恐ろしいまでに厳格になった。ローマの為政者に対して、盛んに対外戦争を勧めるようになった。特に対マケドニアへの遠征を勧めた。
「強くならねばならない」彼は言う。「この国もそうだ。 だが強くなければ生きる価値が無く、義を持たねば生きる資格が無い。 義とは何か? 常に己を疑う事だ。 これが義かと疑い続けてようやくそれは義へと到達する。 過信するな。 増長するな。 いくら偽の義を振りかざした所で、死は誰の前にも平等に訪れるのだから、忘れるな」
先の戦争でマケドニア領にローマはいくつか領土を得ていた。そこから、布に出来ていくシミが拡大するように、ローマは領土を拡大した。瞬く間に全ギリシアがローマの下へ入った。ローマはマケドニアに使者を送り、無駄な抵抗は止めろと言ったが、マケドニアは首都を攻め落とされてもまだ抵抗した。ペルセポリスに遷都し、あくまでもローマには恭順しない構えを取ったのだ。
ならば武力で攻め落とすまでの事。
ローマ軍はペルセポリス目がけて東征を始めた。
ペルセポリスの神殿は天地が引っくり返ったような騒ぎになっていた。アフラ・マズダはサマエルが攻めてくると聞いた途端に死人のようになって寝込んでしまうし、魔神や女神ですら逃亡者が相次いだ。
「殺される」クィントゥスは震えている。「殺される!」
アルテミスは逃げ出したいと考えているが、あの惨めに許しを乞うていたサマエル相手に逃げ出すなど己の面目が丸つぶれだと思っている。
かくなる上は、と彼女は考えた。
「刺客を贈ろう」
サマエルはペルシスの降伏した街の一つの守護神、女神アメシスから、貢物として小さな木で出来た美しい箱を得た。とても高価なものが入れられた箱であるらしく、開ける事は誰にも許されていないのだと言う。
「そうか」とサマエルは頷いた。「ならば私も開けるのは止めておこう。 中に毒蛇でも忍ばせられてはたまらないからな」
「ッ!」アメシスがぎょっとした。サマエルはその彼女に言う、淡々と。
「なるほど、当たりか。 先ほど蛇と言ったが、この箱の大きさではどうやら毒蜘蛛だな。 良いものを貰った、礼を言う。 焚刑ではなく絞首刑に減刑してやろう」
「な、何故!?」アメシスは、強制的に兵士達に連れていかれながら叫んだ。「何故分かったの!?」
「呼吸だ」サマエルは言った。「この箱の中でかすかな呼吸がある、それを私は探知しただけだ」
ペルセポリスは陥落した。
サマエルは略奪も虐殺も厳禁していて、それでもその禁を破って女を犯した兵士が一名いたので、即座に見せしめに斬首にさせた。
その一方で、神殿では、彼は、まるで百鬼を率いる魔王のように進んだ。げっそりとやつれたアフラ・マズダが彼の足元にひれ伏した。ありとあらゆる人々が恐怖そのものを迎えて、真っ青になりつつ彼の裁断を待つ。
じろりとサマエルは一同を見渡した。
「アルテミスはいるか」
「……」
アルテミスはもはや意識を失いそうになりながら、サマエルの視線を受けた。
「お前に贈り物がある」サマエルはそう言って、例の小箱を取り出した。
「ひッ!」アルテミスは凍りついた。
その小箱をサマエルに渡せ、とアメシスへ送ったのは彼女であったからである。
「どうした。 何を怯えている。 私からの贈り物だ。 開けて、中身を確かめるが良い」
アルテミスは自分の体が急に動かせなくなった。まるで空間そのものに押さえつけられているかのように、勝手に動けなくなる。
サマエルは近づいて、アルテミスに小箱を手渡した。
アルテミスの手が勝手に動いて、小箱のふたを開けていく。空間に押さえつけられた彼女の体は、もはや彼女の命令を一切聞かなかった。目を閉じる事すら許さなかった。彼女はだから、箱から八本の足を持つ紫色の蜘蛛が這い出てきたのを、ただただ見るしかなかった。蜘蛛は彼女の白い腕に這い登る。ゆっくりとゆっくりと、毒蜘蛛が白い腕を這い上がって行く。
そして、アルテミスの首筋に食らいついた。
その瞬間彼女は自由になって、引き裂けるような絶叫を上げた。だが、もはや全ては遅かった。悲鳴はすぐに途切れ、蜘蛛は倒れた彼女の体に潰された。
アルテミスの死体を見て、サマエルは、
「食え」と神殿の者達へ言った。「生きたければアルテミスの死体を食え。 食わぬ者は殺す」
誰もがおぞましさにぞっとした。魔族は人を食べるが、魔族が魔族を、人が魔族を食べる事など絶対的
だが、サマエルは言う。
「そうかそんなに死にたいのか、では――」
最初にサマエルと視線が合った哀れな魔神が、ひっと震えてアルテミスの死体に飛びついた。それからは獲物に群がる蟻のように人々が死体を食って行った。骨すらサマエルは食わせた。彼はそれからこう言った。
「命惜しさに禁忌を破るのか。 貴様らは生きる資格の無い連中だ」
「なッ!?」
人々の間に動揺が走る。
「や、約束を破るのか!?」
「否。 きちんと貴様らは生かそう。 ただし」サマエルは凄まじい目で一同を見渡して、「全員を去勢させ、四肢を切り落とし、目を潰し、耳鼻をそぎ落とし、口を引き裂いてから、だ。 身ごもった女を見捨てるなど、貴様らに人間らしく生きる権利は無い!」
ここに至って人々はようやく、今のサマエルの凄まじい怒りの原因が、ヒュギエイアとその子供の死にある事を悟る。彼女は一人で子供を産み、死んだ。だが彼らの内の誰か一人でも彼女を助けていれば話は違ったかも知れない。己に罪はあったが彼女らに罪は無かった。サマエルはそう思っているのだ、と。
「サマエル様」そこにローマの将軍カシウスがやって来た。「マケドニア王クィントゥスの処刑でございますが、いつに致しましょう?」
「いつでも良い。 都合の良い時にやれ」
「はッ」
「だが」とサマエルは言った。「群衆の眼前でやるのだ。 ペルシスの民に二度とローマへの反抗心を持たせぬようにやれ」
「承知いたしました」当然だ、もっともだと思い、将軍はかしこまった。
サマエルはぽつりと彼には聞かれぬように言う、
「次はガリア、ブリタニア、ゲルマニクス、ヒスパニアだな……。 だが……アエギュプトゥスだけは戦争を避けたい。 何としてでも……」
ローマの都は歓喜にどよめいていた。彼らの国が一気に拡大したのである。商人と言う商人が大急ぎで交易に出向き、ローマは活気にあふれた。
そこにローマの軍が帰還した。
「いらっしゃったぞ! 凱旋だ、凱旋だ!」
わあっと群衆が道の両脇に集まって、歓声を上げる。花びらが舞い、ありとあらゆる賛辞が飛んだ。
その行進の中にサマエルはいなかった。マルスが危篤だと言う、急ぎの使者が来たためであった。
「さま、え、る……」
マルスは病床の中で苦しみながらも、どこか嬉しそうな顔をしていた。彼の元にもローマの勝利の知らせは届いていたのだ。
「ここにおります」サマエルは枕元にひざまずいている。
「ろーまを、たの、む……」
「承知いたしました」
「……」
死んだ。安心したような、穏やかな顔をして。
サマエルはゆっくりと立ち上がると、マルスのための神殿を作る事、そしてそこに彼の遺体を埋葬するように、命じた。
アエギュプトゥスへの遠征について、サマエルは為政者と話し合った。どうかアエギュプトゥスとだけは戦争をしたくないと彼は言った。
「どうしてでございますか?」
現ローマ最高指導者のカエサルは不思議そうである。ラハブがサマエルの力が及ばないほど強い、と言う理由では無さそうだったのだ。サマエルはしばらく黙ったが、ようやく言った。
「貴方には底辺に堕ちたと言う経験はあるか」
「……無い訳ではございませんが」
「底辺に堕ちた時、己へと助けの手を差し伸べてくれた存在の感謝と恩義がどれほどのものか、貴方にも分かるだろうか」
「……。 それをサマエル様はアエギュプトゥスの誰かに抱いていると……?」
「そうだ。 守護神ラハブに私は心底感謝している。 その恩義を汚すくらいならば私は守護神を辞めても良い。 何か、良案は無いだろうか」
「……同盟を締結する、と言うのはいかがでございましょうか。 これならば対等の関係で、こちらからの戦争は避ける事が出来ます」
「……問題は、それにアエギュプトゥス王が同意するかだな」
その時であった。召使いが慌てて彼らに非常事態を伝えた。
「アエギュプトゥスからの使節団が間もなくやって参ります! いかがいたしましょう!?」
「通せ」サマエルはそうは言ったが、内心では不安そのものを抱いた。
しかし、使節団の中にサマエルはラハブを見つけ、その見つけた途端にうんざりして脱力してしまった。酔っていないだけで、後は、いつもの全裸に近い格好をしていたからである。
「コノタビハ、ローマノペルシステイコクヘノセンショウヲ、オイワイシマス」脱力したサマエルを見て、にやにや笑いながらラハブは言う。わざと変な発音で言う。「ツキマシテハ、コンゴノ、ローマトワレラガアエギュプトゥスノ、リョウコウナカンケイヲキズキアゲルベク、ヤッテマイリマシタ」
「お前は」サマエルはうんざりも過ぎて、ついに頭痛がした。抱いていた不安は吹っ飛び、その代わりに、いくら自分が強かろうとこの男だけには絶対に敵わない事を思い知らされた。「お前と言うヤツは……」
「元気そうで良かったぜ」ラハブは場を全くわきまえていない。「取りあえずさー、腹減ったから飯くれ。 あと、酒。 美少年も一緒にな!」
……盛大に饗応の宴が開かれた。
「俺にゃ、ぶっちゃけ戦闘能力無いのね。 つーか元々が戦神じゃねーし」ラハブは美少年を撫でまわしつつ、言った。勿論酒器は手放していない。恐らく死んでも離さないだろう。「だからさー、こっちはサマエルみたいなのに攻めて来られるとチョー困る。 だから同盟を締結してくれ。 こっちが下手に出るからさー、良いだろ?」
「本当にそれで良いのか?」
国の格で言えば、ローマは強国だとは言え新興国、アエギュプトゥスは由緒ある大国である。それが下手に出るとなると、反対する者はいないのだろうか。
「嫌です!っつってアレクサンドリアを焼かれるよりはマシ。 それにな、こちらが下手に出たって、そりゃ商人がお客様を神様だと言うのと同じだからさ。 ローマは実に素晴らしいウチの交易相手になりうるんだ。 既にウチの穀物でローマの民は毎日のパンを食っているだろう? って事で、仲良くしようぜー」
「そうか」サマエルは完全にほっとした。「それならば構わない」
だがそこでサマエルはラハブの背中を殴った。サマエルが安心した途端にラハブは何と、宴の席だと言うのに美少年を押し倒したからである。ここは宴の場であって、そう言う行為をする場所では無いのに。しかも衆人環視の真ん前で!
「テメエ何しやがる!」ラハブは怒鳴った。
楽器が美しく奏でられ、心地良く詩を歌う合唱が響き、美味を礼賛し、香水の匂いが立ち込め、楽しくざわめいていた宴席が、一瞬で嫌な沈黙に押し潰されて静まり返った。
「それはこちらの台詞だ! お前はいい加減に場をわきまえろ!」
サマエルも怒鳴り返す。
もはや場の雰囲気は最悪そのものであった。
「だから俺は見られると興奮するって」
「見せつけられる方の苦痛を考えろ!」
「苦痛? ふざけるな、眼福だぞ!」
「お前の粗末なモノを見て何が眼福だ!」
「――! テメエぶっ殺す!」
饗応の宴は、完膚なきまで台無しになった。
ラハブは完全に頭に来ていた。頭に来て、サマエルに掴みかかった。両者は取っ組み合いの喧嘩を始めた。ぶっ殺すも何も無い、世界一下らない理由の喧嘩であった。争いは同じ段階の者同士にしか起きないと言うが、正にそれであった。周りの者は相手が相手なだけに止めるに止められず、かと言って放置も出来ず、おろおろするばかりだった。最終的にはアエギュプトゥスの知の魔神トートが自慢の知恵を絞り、奴隷に水瓶を運ばせ、二人に水をぶっかけて止めさせた。犬の喧嘩の方がまだ性質が良いと誰もが胃をきりきりと痛めつつ思った。あれはうるさいだけで、自分達にはそれ以上の損害は与えないのだから。自分たちの眼前で大国の守護神同士が拳で殴り合うなどと、どれほど見たくない悪夢だろうか。
「……」
「……」
びしょ濡れの二人はまだ睨み合っている。
「お二方」トートが情けなくて泣きながら言った。「いやしくも守護神であらせられる方々が、何とまあ……まるで子供の喧嘩でございますぞ」
「だってコイツが俺の自慢のモノをけなしたんだ!」ラハブが喚いた。
「けなすも何も、事実だろう!」サマエルは言う。
「かかってこンかィ戦じゃァ!」ラハブはサマエルを蹴った。
「望むところだ!」サマエルも蹴り返す。
こんな下らない理由で戦争を始められてはたまったものではない。
周囲が胃を痛めつつも行った必死の説得となだめすかしで、二人はようやく落ち着いた。
ともかく、ローマとアエギュプトゥスの同盟の締結が終わった。
それから数日後。
「で」とサマエルは言った。「何故お前はここに居つく?」
「だって酒と飯が美味いんだ」何とローマの神殿の一角で、ラハブは酔いどれている。使節団は国へ帰ったのだが、肝心な守護神が他国に居残ったのだ!
「守護神が国へ帰らなくても良いのか」ここローマでも、サマエルはまたラハブと美少年の例の行為を見せつけられるのか、と嫌になってしまった。
人前でのそう言う行為は止めてくれと何度言っても、ラハブは聞かない。聞く耳を持たない。持つ、と言う神経そのものが無い。悪い男では無いのだ。むしろ人の良い、過度の流血を嫌う、誰に対しても親切な男である。
しかし、致命的なまでに変態なのだ。
「んー、もうちょっと休暇を満喫したい」
「休暇? お前は毎日が休暇のような生活をアエギュプトゥスでもしていただろう?」
美少年と戯れ酒を飲み神殿にも帰らず道端で酔いつぶれて寝る!
「それがさあ」とラハブは口に当てた酒の入った瑠璃の器をぐいと傾けてから、ぷはあ、と息を吐き、「バシレイオスがさあ、俺をあっちこっちの教授の講義に引っ張り出すんだ、『面白いですから、是非お聞きください!』って。 流石に講義中に酒は飲めないだろう? だから俺疲れちゃって」
「自業自得ではないか」
自分からそのバシレイオスに手を出した癖に、今更何を悔いているのだ。
「酷い事言うな。 バシレイオスってさあ、おまけに試験前になるともう俺とセックスレスなんだぜ、いくら誘っても却下されるんだ、酷いだろ? おまけにアイツ、試験前に五日連続で徹夜とかして、なのににこにこしているんだ、怖い」
「それは優先順位がお前より学問の方に圧倒的にあるからだ」
「やっぱりぃ?」べろべろに酔っぱらって、ラハブは滑舌も怪しい。
こんな男が守護神で本当に良いのか?いや、実は相当我慢を重ねているのでは、とサマエルはアエギュプトゥスの民に同情した。
「バシレイオスは学びたいがために国法を犯し、自分の貞操をも捨てたのだ。 お前よりも優先して当然だ」
「でも俺さみしい。 閨の中ですらバシレイオスは歴史があーだこーだと嬉しそうに喋ってさ。 それを俺はうんうん頷きながら聞いてやってた。 可愛いのにさあー、あー畜生、さみしい」
「お前は側に誰かいないと生きていないのだな」サマエルは呆れた。常に誰かに己を構ってもらえなければラハブは生きていけないのだろう。
「うん。 だってさあ、さみしいじゃん」
「……。 お前がやたらに人の視線にこだわるのは、さみしいからなのだな」
この変態は常に誰かが側にいてくれねば、自分を見ていてくれなければ、不安でたまらないのだろう。変態性が自己完結していれば良いのに、他者に構ってくれとちょっかいをかけ続ける、全くはた迷惑な変態である。
「そうそう。 ……俺さあ、乞食だったんだ」
ふとラハブは目を細めた。遠い昔を見るかのように。
「……」
「ちょうど五才だったな、親に捨てられたの。 アエギュプトゥスがすげえ飢饉でさ、もう子供は養えないから捨てるか殺すしかないってくらいだった。 まあ殺されなかっただけ愛されてはいたんだろうが。 ……確かに乞食はひもじかった。 食うものにも寝る場所にも事欠いて、辛かった。 だが俺は何より一人になるのが嫌だったんだ。 兄姉が六人いて、俺その末っ子だったから、一人ぼっちになるなんて経験ゼロでさ」
「……そうか」
「……俺が能力に目覚めたのも、また酷い飢饉になりかけた年だったな。 流石に
「豊穣の代償の、供犠か」
種をまかぬ所に生える草は無いし、手入れをせずに報われる実りなど無い。そして、何よりも死ぬ種が無ければ新たな命は生まれない。
「供犠ってよりは、『捨てないで』だな。 俺は美少年しか性の対象にならない。 だから数年でせがまれるんだ、『捨てないで』って」
ラハブはほんの少し寂しそうに言った。だからサマエルは言ってやる。
「良かったな。 バシレイオスは魔族だから、お前を捨てるかもしれないが、お前から捨てられる事は無いぞ」
「まあな、だから俺は安心している。 ところでこの鳥肉のハーブ焼きなんだが、おかわりをくれ。 ところでこのハーブは何だ? 凄くかんばしいんだが」
サマエルは苦笑して、「バジルだ。 で、ついでに酒も、だろう?」
ラハブはにやりと、「分かってるじゃん。 ビールでも葡萄酒でも大歓迎だぜ!」
結局ラハブは帰ったものの、年に数回はローマへとやって来るようになった。当然、変態を餌付けしてしまったとサマエルは後悔する羽目になった。
……その昔、アエギュプトゥスに移住してきた、ヘブライと言う民がいた。イスラエルと同じ一神教の宗教と、独自の慣習を持っていた。
それでも、先代の
それやこれやで、神々の中にも、民の中にもこれと言った差別意識は無かった。あるとすれば、私的な結婚をした時に、どちらの宗教を優先して子供を育てるか、その時にヘブライの民はどうしても一神教を優先させようとするから面倒だ、だがそれだけ信仰心が篤いと言うのは凄い事だ、程度であった。現実問題としては、基本的に実家が富裕で高貴な方の宗教が、育児においては優先されていたのである。
だが国王が変わった。新しい国王は、非常に攻撃的な性格をしていた。更に、偶像崇拝を禁じている一神教の神を毛嫌いしていた。
彼の幼い時、彼の乳母がヘブライの民であり、その乳母子もヘブライの民であった。そして子供ゆえの残酷さで、当時王子であった彼が何よりも気に入っていた小さな神像のお守りを、喧嘩をした時に破壊したのだ。そしてこう言ったのだ、神様を信じないから壊してやったんだ、と。以来、国王はヘブライの民を心底から憎むようになった。強引に暴力的に押し付けられる神様と信仰、と言うものを彼は徹底的に嫌ったのである。これに元来攻撃的な彼の性格が加算されると、どうしようもなく恐ろしい事態がやって来た。
彼の唯一神への憎しみは、アエギュプトゥス国王として、最低な結末を招く。憎しみのままに彼はラハブら多神教の神々を信奉するように強制し、断ったヘブライの民を徹底的に迫害した。しまいにはラハブらが止めろと言ったのも聞かずに、ヘブライの民の新生児を虐殺させたのである。暴力的に押し付けられる神様と信仰を嫌っていたはずが、逆に彼自身がそれを強要する立場に立ってしまったのだ。
この大惨事に激怒したラハブは飢饉を起こした。彼に言わせれば、
「きちんと税を納めて労役に就いてこっちの法を守っている、ならば別に信仰する対象が何であったって良いじゃないか、何であれ敬意を払うべきものには払う、他人の大事なものを自分も大事にする、全ての神霊を崇める、それこそが多神教だろう? 大体、よりにもよって何の罪も無い赤ん坊を、無駄に大勢ぶっ殺しやがって、クソバカ国王が!」であった。
だが、その後も国王のヘブライの民への差別と迫害は加速する一方であった……。暴力は暴力を、迫害は迫害を、差別は差別を、段階を飛ばして肥大化させていったのだ。
「あんまりですよ!」バシレイオスは憤慨している。彼はちょうど、神殿に、生贄の肉を分けてもらいに来ていた。「アレクサンドリアの学問の担い手の中にはヘブライの方も大勢います! ヘブライの教授の御方だっていっぱいいらっしゃるんです! あの方々と私達は信じるものが全く別でも、同じ目的のために協力し合う仲間なのに、何て事をするんですか!」
「同感だ」ラハブは忌々しそうに言う。「俺は豊穣神だ。 命の豊穣を司る神だ。 それがこの無意味な虐殺を、クソ馬鹿馬鹿しい弾圧を看過してなるものか! クソバカ国王め、命を何だと思っていやがる! しかもこれの理由が『気に入らないから』だ! 俺はお前の
「ラハブ様」とそこに癒しの女神ハトホルがやって来て、心底うんざりした顔で言った。「そのクソバカ国王ですが、今しがた、病に倒れたそうですわ」
「……はー」ラハブは深いため息をついた。「そら見ろ、因果がはね返ってきやがった。 だが死なせるのも可哀相だ。 ハトホル、頼む」
「了解いたしました、ラハブ様」ハトホルも嘆息して、「精一杯、治しますわ」
ヘブライだと言うだけで家財や家畜を没収され、抵抗したら家を焼き払われた。ヘブライだと言う理由だけで、役職から追放された。ヘブライだと言う理由だけで暴行された。辛うじて命だけは庇われたものの、それ以外の全てを失った。いくら多神教の神々がそれに真正面から反対したとは言え、完全には国王の横暴を止められなかった。やがてヘブライの民への差別意識は、国王からアエギュプトゥスの民の間にも、徐々に浸透していった。
「ヘブライの民は奴隷と同じだ」
そう、人々の口に囁かれる事が増えて行った……。
そして、それが月日を重ねるごとに、どんどんと最悪の事態を招きよせていく。
……ムーサイと言う名のアエギュプトゥスの王族がいた。彼は実は殺されたはずのヘブライの民の新生児の出であった。ある日、彼はふとした事から、迫害されているヘブライの民の一人を見て、猛烈な怒りを抱いた。そして、迫害していたアエギュプトゥスの人間を殺してしまった。すぐに彼が人を殺した事は発覚し、捕まる前に彼はどこかに逃げ去ってしまった。
ローマとアエギュプトゥスが同盟を締結してから、幾星霜。
もうラハブに来られるくらいならば、こちらから行くと覚悟を決めて、サマエルがアエギュプトゥスはアレクサンドリアに遊びに行った。守護神が動くとあって、ローマの大船団を従え、サマエルはアレクサンドリアに出向いた。
「いよう」ラハブは相変わらずの風体で、サマエルを見ると右手を挙げた。「元気にしていたか?」
「まあな」そう答えた時、サマエルは彼の背後にバシレイオスがいる事に気付く。「久方ぶりだなバシレイオス、勉学の方はどうだ?」
「おかげ様で、凄く楽しいです!」楽しくなければこんなに生き生きとしていないだろう、と言う顔でバシレイオスは言った。「それでサマエル様、アエギュプトゥスのラムセス一世が」
バシレイオスの眼が異様にらんらんと輝きだしたのにラハブは気付き、
「ストーップ! 喋るな、それ以上喋るな!!!」と慌てて制した。
「……」途端に死んだ目をするバシレイオス。
サマエルはラハブに何故止めたと訊ねた。
「だってバシレイオスが歴史について喋り出すと半日は止まらないんだ!」
「半日か……」
バシレイオスもある種の変態なのであろう。だからラハブと仲が続くのだろう。サマエルは合点が行ったと同時に警戒した。何しろ変態の行いに巻き込まれると、ろくな目に遭わないと痛いほど知っていたからだ。
「最短で半日だ。 声が嗄れてもまだ嬉しそうに話すんだ! ダメだからなバシレイオス!」
ラハブに叱られて、バシレイオスはしょげている。
数日後、サマエルは例の大図書館に入って、目がくらむような思いをする。
ここは、人々がこの、学芸の聖地アレクサンドリアで、巨大な『未知』の山に数多の人の理性と知性を以って、長い年月をかけて挑みかかる、言わば叡智の牙城であると思い知らされたのだ。分厚い本や巻物が棚に整然と並べられて、内蔵された知恵を無言で語っている。ここは世界の理性と好奇心と探究心、そして知識の庇護者であった。まるで子宮のようにその内部で理性と知識をはぐくむ、学問の揺籃の場所であった。
「素晴らしいな」サマエルは初めてこの大図書館を見た時と同様に、心底から感動した。
人の一生で出来る事など限られている。だからこそ人は受け継ぐのだ。受け継いで、更に営んでいく。食べられて命が循環するように、人々は永劫の知恵の輪を次の世代へと渡していくのだ。知識を受け継ぎ、発展させる事。種をまいて収穫し、その収穫からまた収穫を得る。それこそが人が獣と決別できる絶対点だった。
「?」
その時サマエルは視線を感じて振り返った。若い学生が、彼では無くバシレイオスを睨みつけていた。その眼にはとてつもないほどの憎悪があるのをサマエルは感じた。だがそれにバシレイオスは全く気付いていないようだが……。
神殿の一角の迎賓館でくつろいでいる時、サマエルはバシレイオスにあの学生について訊ねてみた。
「そう言えば図書館でお前を見ていた青年がいたが、心当たりはあるか?」
「ああ、それでしたらアストリウス先生の一番弟子のゼフォンさんですよ!」バシレイオスは手を打って、「とても厳格な方で、僕はしごかれてばかりです」と無邪気に笑った。
「どのくらい厳格なのだ?」そう問いつつも、サマエルは、あの青年の眼に厳しさよりも憎しみがあったのを感じていた。
「アストリウス先生が驚かれるほどです。 枕に出来そうな事典を一日で書写して来いとか、僕の書いた論文の内容が甘いと目の前で破かれたり、ああ、それから――」
「……」
サマエルはそれは学問への熱意によるしごきではなく、己の嫉妬と憎悪からのイジメだろうと思った。恐らく、バシレイオスの方が新参者でありながら、ゼフォンより優秀なのだろう。だがそれにちっともバシレイオスは気付いていない。妬まれる、嫉まれる、自分への敵意に気付くと言う神経が無いのだ。ラハブのように、彼もそう言う点では、どうしようもない変態なのだ。
サマエルはいかにもバシレイオスらしいと思った。もう少し、もう少しだけ世間慣れするべきだと思うと同時に、彼らしさがこのまま変わって欲しくは無いとも思った。バシレイオスが変態であっても好ましい存在なのは、サマエルにとってはラハブと同じだったから。
ゼフォンはついに決断した。許せないのだ。あの憎い男は、アエギュプトゥスのラハブのみならず、ローマの守護神サマエルとも面識があるらしい。
ふざけるな!
彼は激怒していた。
彼はアエギュプトゥスの学者の名門の家に生まれて、その男に出会うまで挫折と言うものを知らなかった。彼は世界一の天才だと周りから言われ、その通り己は天才だと過信していた。
その夢想を粉々にした男が、いきなり登場したバシレイオスであった。
バシレイオスの初めて書いた論文を読んだ時、ゼフォンは頭を殴られたよりも凄まじい衝撃を受けた。己の力量をはるかに超えた素晴らしい内容だったのだ。彼の誇りと自負は一瞬で木端微塵にされた。彼は絶句し、それから嫉妬に駆られてバシレイオスを影ながらいびった。だがバシレイオスはそれを特訓だと勘違いしている。おまけに守護神ラハブの寵愛まで受けて。それがゼフォンにはますます許せず、更にいびりの内容は酷くなった。だが、バシレイオスはまだ理解していない。
そのバシレイオスがローマの魔神サマエルとも面識があると知った時、ゼフォンはついに発狂しそうになった。ローマは新興国であったが、非常に強大な国であった。そのローマとの関係を破壊しないために、歴史学の教授達もバシレイオスをこぞって贔屓するだろうと思い至ると、もう、もうゼフォンには限界であった。
ならば――殺すまでだ。
ゼフォンは大金を払って、良く効く毒薬を密かに手に入れた。それをたっぷりと針の先端に塗りつける。その針を、彼はアストリウス教授の講義の際に使われる椅子の、バシレイオスのいつも座る場所にこっそりと立てて置いた。置いて、素早く彼はその場から立ち去ろうと体を翻して、ぎょっとした。
いつの間に!?
彼は真っ青になった。
真紅の男が彼の背後に立っていたのだ。
「止めておけ」と赤い衣の男は言った。「それ以上やれば、お前は己の一番大事なものを失うぞ」
「――」ゼフォンは声が出なかった。だが赤の男は続けて言う、
「気付いてはいないだろうが、これで失うものはお前自身だ。 お前は学者になりたいのだろう? だが、このまま帰ればお前は学者には決してなれない。 お前の動機はバシレイオスへの嫉妬だった。 嫉妬は限りないものだ。 お前は一生その嫉妬で苦しむだろう。 過去の亡霊と言うものは、忘却の彼方に追いやった途端に襲いかかって来る。 今は良くても、後にお前は一生後悔するだろう。 止めておけ。 今ならまだ間に合う」
「……じゃあ俺はどうすれば良い!?」ゼフォンが叫ぶように言った。「俺はヤツの所為で教授にはなれない! 一生うだつの上がらないままだ! そんな一生を過ごすくらいならば、俺はいっそこのまま――!」
「んー、だったら別の道を探せば良いさ」
能天気な声。講義室にラハブが入って来た。ラハブはサマエルを見て、ちっと舌打ちをして、
「お前も気付いていたのかよ」
「悪いか?」
「別に?」
ラハブは椅子の上の針を取ると、ゼフォンに言った。
「人生ってのはな、運命の女神のたなごころの上にあって、どこでどう変わるか分からない。 だが自分の力で変える事も出来ない訳じゃない。 恐らくゼフォン、お前の人生にとっての転機が今なんだろうぜ。 じっくり考えな」
「……」
二人の言葉に、ゼフォンが黙って、うなだれた。
サマエルがローマに帰っていってから数日後の、夜であった。
「変なんですよ」とバシレイオスは閨の中でひたすら首をかしげていた。
「変って……何が?」とラハブは半分ぼんやりとしている意識の中で、バシレイオスの体を抱きながら、言った。
「最近ゼフォンさんが変なんです」
ぱちっとラハブは目を開けた。「どう変なんだ?」
バシレイオスは心配そうに、「妙にお優しいんですよ。 以前は駄目な論文を書いたら目の前で八つ裂きにされたりしたのに、最近はそう言う事が一切なくて……重い病気にり患されていなければ良いのですが……」
「人に優しくなる病気なら、別に放っておいても良いじゃねえか」
「……それもそうですね!」とバシレイオスはにっこりと笑った。「それでラハブ様、『
また始まったぜとラハブは内心ではがっかりした。だが、可愛いので許した。
「『先代文明』ほどの高度な技術と文化を持っていた世界が何故滅びたのか、その原因こそ不明ですが、遺された『遺物』から察するに――」
「ああ……うん」
ラハブはまたうとうととまどろみつつ、相槌を打ってやるのだった。
ローマは更に領土を広げていった。アエギュプトゥス領では無い所を、海を越え山を越えてじわりじわりと我が物にしていった。ヒスパニア、ブリタニア、ガリア、アフリカーナなどを……。ローマは何十年とかけて、いつしか、巨大な帝国となっていた。
だが、その一方で、信仰の対象が全く異なるイスラエルとの軋轢は増していくきりであった。
ガリアを攻めた時の事である。ガリアにはローマにしてみれば『
侵略者ローマに対して、ガリアの戦士達が当然襲いかかって来た。ローマ軍は交戦の結果、大勢の捕虜を得た。捕虜達はいかにも獰猛な顔をしていて、今にも縛られた縄を引きちぎって暴れそうであった。その大将と思しき屈強な魔神も、ローマに屈するくらいならば隻腕で自害するかサマエルを刺し違えるかと言った、不敵な面構えをしていた。
サマエルは彼をまじまじと見ていたが、右手を挙げた。
「おい、やれ」
次の瞬間、ガリアの魔神は全く予想と異なった事態に度肝を抜かれる。わあっと大勢の美女達が走り寄ってきて、彼にしだれかかったり、色々と奉仕を始めたからである。それは捕虜達全員になまめかしく襲いかかった。続いて美食と美酒が運ばれてきた。ガリアの戦士達は面食らった。襲い来るのは想像していた苦痛や屈辱ではなく、想定外の快楽と享楽だったのだ。だが人は想像していた苦痛に耐える事は出来ても、想定外の快楽に耐える事は難しかった。
――三日後、今までの不敵な面構えはどこへやら、すっかり腑抜けた顔の魔神がいた。
「参った」と彼は隻腕を挙げて言う。「降参だ、降参だ! これ以上されたら俺はおかしくなってしまう!」
「そうか」サマエルは平然と、「ならばもっとやってやろう」
サマエルが指を鳴らすと、とっておきの美女が――。
「ひい!」隻腕の魔神はらしくもなく悲鳴を上げた。「何の拷問だ!?」
「……普段お前達はどのような生活を送っているのだ?」サマエルは気になって訊ねた。
「こんなただれた生活じゃない。 武芸の訓練をし、死ぬ事への恐怖を退治するために毎日戦って、そして一度誓った事は絶対に裏切らない、裏切ったら死ぬと決めている」と魔神は答える。
「ふむ」サマエルは何とはなしにこの魔神に好感を抱いた。素朴で潔いな、と思ったのだ。「お前の名前は何だ? 私はサマエルと言う」
「ティールだ」
「ではティール、お前達の自治を認めるがその代わりにローマへ降れ」
「……否と言ったらまた女攻めにするんだろう?」
「分かっているならば話は早い」
ガリアの前線に城壁を築いて、ローマ軍のガリア遠征は終わった。ティールはサマエルに忠実に従い、やがて彼の強さに完全に心服してしまった。人質に己の嫡子ヘズを差し出してしまうくらいであった。
ティールはその後もローマには忠実に仕えて、ガリアを統治する。
ローマにやって来ては、酔ってご機嫌になると、ラハブはサマエルの前でよくアレクサンドリアの自慢をした。
「医学、農学、天文学、数学、幾何学、物理学、哲学、言語学、修辞学、弁論術、宗教学、地理学、歴史学、化学、心理学、後は、えーと……アレクサンドリアでやっていない学問の方が少ないな。 凄いだろう?」
「ああ」サマエルは適当に流す。もう彼はラハブの扱い方を習熟していた。
無視されないものだから、ラハブはますます調子に乗って、
「人は知り、学び、更にその先へ進もうとする生き物だからな。 唯一絶対の神がいなければ生きていけないと言うほど、人は弱くないと俺は信じている。 まあ、人は俺の理想より強くは無いんだろうが。 ……唯一神の嫌な所は人から自由に疑い、自由に思考する力を奪う所だ。 だってさ、おかしいじゃん、唯一絶対の神がいるなら、どうしてこんなろくでもない世界になったんだ? 何がどうなったらこんな残酷な世界になったんだ? 唯一絶対の神が怠けているのか? 怠けるようなヤツを唯一絶対の神として崇めるのか? ま、俺みたいなのも美少年が側にいて国が安泰なら何もしない怠け者だがなー」
「お前はそれでも守護神か」
それでも確固たる守護神なのだから仕方が無いと知りつつ、サマエルは言った。
「仕事はちゃんとやっているぜ。 降り過ぎず涸れぬよう、毎年毎年骨を折っている」
「雨か」
「豊穣と繁栄のためさ」
「豊穣とは何者かの血汗が流れぬ限り、維持は出来ないものだろう」
「まあな。 だがそれも俺達魔族の愛欲さ。 愛していないものなんか食べたくも無い。 ――学者が言うには、人には三つの大きな欲があるそうだ。 性、眠、食。 で、俺らは望むと望まずに関わらず、その二つを同時に満たす事が出来る。 お前だって愛してもいないものは食べたくないだろう?」
「……血の一滴に至るまで、私は舐めとっている。 それが犠牲となった命への最大の感謝ではないかと思って、な」
「そうさ、そうだとも。 命に感謝する心を忘れた者ほどみっともない者は無い。 ましてや唯一絶対の神を言い訳にかざして、死んでくれた命への感謝の代わりにソイツへの祈りを捧げるような真似は、もっと醜い」
「……」サマエルは今度はラハブが妙に真面目なので変に思った。ラハブは普段はおちゃらけていて、おまけに『まあ良いじゃねえか』主義で変態そのものなのに。「アエギュプトゥスで何が起きているのだ?」
「いやー国王が交代してな」ラハブは少し顔をしかめて、「ちょっと若いだけあって、すぐに血を見たがるんだ。 特に一神教
「そうか」サマエルはふとイスカンダルを思い出した。
アエギュプトゥス王も、あのような悪徳に身を染めるような事が無ければ良いが、と思った。
ラハブは暗くなった話題を変えて、
「『ミイラ』って知っているよな、ウチの埋葬方法だ」
「ああ、知っている。 死体を干物にするのだろう?」
反射的にラハブはサマエルを蹴った。
「干物言うな! まあ金の無い連中は干物にするが、王族や神々はみーんな目が吹っ飛ぶような大金をかけて己の亡骸を『ミイラ』に変えて埋葬する」
「どうして干物にするだけでそんなに大金が――?」
「だから干物じゃねえ!」二撃目。「丁寧に亡骸を洗って清めて内臓を取り出したりしてから薬に漬けて、死後の世界での安寧を願い、祈りを込めた高価な装身具を一つ一つ包帯で体に巻きつけていくんだ。 『ミイラ』化専門の葬儀神だっているんだ。 んで、黄金のマスクをかぶせて棺に入れて埋葬する。 金はかかるし時間もかかる、だがこれがウチの習わしなんだ」
「ああ」サマエルは納得した顔をして、「お前のその格好も『ミイラ』になるのに手早くしようと――」全裸に近い上に包帯で下半身を……。
「皮肉を言うなら何度でも蹴っ飛ばすぞ! 良いか『ミイラ』ってのはな、」
「分かった分かった」もう辟易したサマエルは言う、「お前もいずれは『ミイラ』になりたいのだな。 その時は葬儀に私も出よう」
途端にラハブは機嫌を直して、「俺の墓や神殿が荒らされないよう、番人頼むぜ?」
……アエギュプトゥスにただならぬ異常が起こった。河が、湖が、泉が、血で染まったのだ。そして害虫が凄まじい勢いではびこり、腫れ物が出来る人が多発し、疫病が流行った。天から蛙と雹が降ってきた。そして真昼であるのに夜のように暗くなり、とどめとばかりにアエギュプトゥスの民の長子がことごとく死んでいった。
その原因は、差別と迫害に耐えかねたヘブライの民の国外脱出を、帰国したムーサイらが要求してきたのだが、アエギュプトゥス王が拒絶したためであった。
ムーサイは謎の力を持っていて、もはやかつてのムーサイでは無くなっていた。殺人犯として捕らえる事すら出来なかった。謎の力を、それで起こした異常事態を、ムーサイは、『唯一神の起こしたもうた奇跡』と言った。『邪教の悪魔共を信奉している愚者共など、皆死ねば良いでしょう』とまで言った。これにアエギュプトゥスの神で血気盛んな者は激怒してムーサイを殺そうとし、逆に返り討ちに遭った。
まだ天変地異が起きている間は、王は拒絶し続けた。だが、流石に長子が次々と死んでいくに当たって、とうとう許可した。
ラハブが言ったのである、
「もうあんな疫病神とは関わるな、自分から出て行くと言っているんだから追い出せ!」と。
ヘブライの民が移動を始めた。それと同時に天変地異が終わり、ラハブはほっとして、
「二度と戻ってくるなよ、二度とだ」と呟いた。
「……先生達が、友達が、みんな行ってしまう……」バシレイオスはヘブライの民の去っていく後姿に、半泣きである。学生である彼は疑うと言う事を知っていたから、彼らに差別意識など持っていなかった。むしろ同情していた。「もっと教えを乞いたかったのに……! 何でこんな事に……!」
「全部あのクソバカ国王が悪い!」ラハブは断言した。「あのクソバカ国王が弾圧なんかしなければ全部上手く行っていたんだ。 トチ狂って弾圧なんかしなければ、相互の理解と寛容と、そして何よりも強い『調和』が異教徒と俺達の間にあったのに。 それに必要なのはお互いへの遠慮と配慮、そしてお互いを受け入れられるだけの豊かさやゆとりだった。 創り上げるには何十年何百年とかかるそれを、ほんの一瞬でぶっ壊しやがって。
……信仰心や宗教愛ってのが、迫害されればされるほど加熱するものだって事を全然分かっていないんだ、あのクソバカは。 どうしてもヘブライの連中を堕落させて一神教の信仰を捨てさせたかったら、金貨銀貨の雨あられと美女美男と美酒美食でやれば良いものを、その真逆をやりやがった。 全くどうしようもないクソバカ国王だ。 だが……」
そこで彼は珍しく黙り込む。うるさいくらいにいつもは喋るのに。
「どうされました、ラハブ様?」バシレイオスは不安になって訊ねた。
「いや、な……」ラハブは少し苦々しい顔をして、「この国の守護神として、俺はあのクソバカ国王を殺すべき、あるいは退位させるべきだったんじゃないか、って思ってな……」
「……」バシレイオスは黙っていたが、きっぱりと言った。「ラハブ様はお優しいから、そう思われるのです。 でも、ラハブ様が一度でも政治問題に関与したとなれば、以後延々とラハブ様はそう言う問題に関与し続けなければならない。 それは……豊穣神であるラハブ様には、とても耐えがたい事でしょう?」
ラハブは優しい。致命的に誰に対しても優しい。だから、彼が関与し続ければ、国の政治は成り立たない。政治とは目に見える流血が無いだけの戦争だからだ。
「……まあ、な」
ラハブは重苦しい思いを抱え込んでいる。それで、バシレイオスはせめて気分を少しでも良くしてくれればと思って言った。
「でも、大バカ国王に一発くらい蹴りを入れたって誰も責めはしないですよ」
「はは!」ラハブはやっと笑って、「そうだな、思いっきり強烈なのを入れてやるぜ!」と言った。
「ええ、それが一番です!」
バシレイオスは元気に頷いて、それから講義があるからと去っていった。
だが、ヘブライの民が出て行ってしばらくして、アエギュプトゥス国王は思ってしまった。
何故己の長子を殺したも同然の輩を、みすみす何の処罰も受けさせずに逃す必要がこの世のどこにあるのかと。
王は戦車と騎兵から編成された軍隊を差し向け、自らその陣頭指揮を執った。
不運にもそれをラハブらアエギュプトゥスの神々が知ったのは、もう何もかもが止められない段階になってからであった。まさか王が自ら出陣したなどと言う事態、考えにも及ばなかったのである。
ラハブは血相を変えてその後を追った。他の神々に言い残して。
「もしも俺に何かあったら、あのサマエルを頼れ」
「!? いけません、いけませんラハブ様!」ハトホルが慌てて彼を引き留めようとして彼の腕をつかんだ。「貴方様に万が一の事がありましたら、この国は!」
「私めが参ります!」とトートがラハブの前に立ちはだかった。「ですので、ラハブ様は――!」
ムーサイに憑いた強大な『何か』が、下手をすれば国王もラハブをも害するかも知れない。否、『何か』は国王達に対して、必ずやとんでもない反撃手段を取るだろう。『邪教の悪魔共』と呼ばれて怒り、襲いかかったアエギュプトゥスの神々を何人も『何か』は簡単に殺傷したのだから。その中には歴戦練磨のアエギュプトゥスの戦神もいたのに、一瞬で殺されたのだ。
まだ王は良い。王族から次のアエギュプトゥスの王を選べば良い。
だがラハブには、代替者などいないのだ。
この高貴で偉大な豊穣神の代わりなど、そうたやすく出てくるものでは無いのだ!
「相手はあのクソバカ国王だ。 クソバカに言う事を聞かせられるのは俺くらいだ! じゃあな、俺は行く!」
トートは突き飛ばされた。ハトホルは振り切られた。
「こんな事になると知っていたのならば」ハトホルが膝を折り、泣き叫んだ。「あのクソバカ国王が病に陥った時に、精一杯治そうとしなければ良かった!」
ラハブが軍隊に追いついた時、ヘブライの民は船を持たぬまま海の岸辺に追いつめられていた。そこを軍隊は殲滅させようとしていた。
「大馬鹿野郎!」とラハブはいつになく大声で怒鳴った。腐っても守護神、その声は良くとどろいた。「関わるなと言っただろう、すぐに引き返せ!」
だが王はその言葉に耳を貸さず、ヘブライの民を殺そうとした。
その時、超常現象が起こった。
海が割れて、道が出来たのである。
あまりの出来事にあ然としているアエギュプトゥスの者達に構わず、ヘブライの民はそこを通って逃げ出した。
「な」とラハブは絶句して、それから叫んだ。「何だこれはッ!」
何が起きたのか、何が起きているのか、彼にはもう訳が分からなかった。
ただ、恐ろしいと感じた。とても恐ろしいと。
「――アエギュプトゥスの悪魔ラハブよ」
まるでそのしんがりを務めるかのように立ちはだかっている男――ムーサイは厳かな声で言った。
ばっと天がかき曇り、そこから光が一筋差し染めて、ムーサイを照らした。
誰もが思わず息を呑むような、荘厳な光景であった。
「俺はムーサイに憑きし大天使ミカエルだ。 貴様ら邪教の悪魔共を殲滅するために、我らが唯一絶対の神により遣わされた」
「唯一神、だと……!?」
「そうだ。 我らが唯一絶対神に刃向う悪魔ラハブと異端者共め、今この場にて朽ち果てろ! ――『天地無用』!」
ラハブ達に、何か、重たいものが圧し掛かってきた。まるで大岩を背負ったかのようであった。そしてそれは瞬く間に凄まじい重圧となり、ラハブ達はそれに耐え切れず地面に倒れた。彼らの体にかかる重力が操作されているとも分からずに、肺がつぶれて彼らは呼吸すら出来なくなっていった。
「ぐああ、あ――!」
倒れても悲鳴が漏れても重圧は止まない。段々とラハブ達の体がひしゃげていき、そして――。
まるで熟れた果実を踏み潰すかのように、つぶれた。
ラハブが戻ってこない。王も戻ってこない。軍隊の誰一人戻ってこない。時が経つにつれてアエギュプトゥスの王宮も神殿ももはや天地が動転したかのような大騒ぎになった。それにトートがたまりかねて、ついに己の目で確かめに行った。
彼は行き路も足が重かったが、帰り路はまるで鋭い剣で出来た山の上を歩かされるような思いであった。
――行った先で、彼は虫に集られた死体の数々を発見するのである。もはや死体は誰が誰であったのか分からぬほどであり、人の原形を留めてすらいなかった。地獄がこの世にあるのならば、ここだとトートは思った。そして聡い彼はそれをこの世に生み出した存在をも、すぐに察知できた。ある意味では有名であったのだ、その大天使ミカエルの降臨先で多神教の神々や信者達に何が起きるのか、は。
ただ、一つ。
一つだけ、トートはその遺体が誰のものであったか、すぐに分かった。
その人物だけはいつも、どんな時であっても、誰に何と言われても断固として変な格好をしていたから、衣類で判別が付いたのだ。
「おお」彼はその場に両膝を突き、もうこらえきれずに大粒の涙をぼたぼたとこぼした。「ラハブ様……!」
ラハブが何をしたと言うのだ。彼はこの国を安定させていた。供犠を受け取っては、その倍の豊穣で返した。変態ではあったが憎めない男であった。アエギュプトゥスのために生きて、働いて、人を愛し、人から愛され――なのにその最期がこれか!
血に染まった包帯に手をやり、トートは号泣した。
その直後より、イスラエルから、アエギュプトゥスへの凄まじい侵略が始まった。大天使ミカエルの手により、次々とアエギュプトゥスの街は陥落し、住民は全滅させられた。アエギュプトゥスの神々も軍も必死に立ち向かったが、生還者は誰一人いなかった。
これを見過ごせるローマでは無かった。同盟国の危機である。ローマは即座に軍事行動を取って、海を渡ってイスラエルの撃退へ向かおうとした。
サマエルは心底怒っていた。侵略者大天使ミカエルへ、凄まじいまでの怒りを抱いていた。アエギュプトゥスの魔神トートが援軍を求める使者としてローマにやって来て、語ったラハブの最期に、激怒に激怒を重ね、もはや理性を失って怒り狂う寸前であった。血に染まった包帯を握りしめた拳がわなわなと震えていた。その怒り様は、ローマの皇帝、元老院議員達にすら物も言えないほどの恐怖を抱かせるほどのものであった。
殺されたのは、彼の恩人にして唯一の友だったのだ。生贄の代わりに雨を降らす、崇高な豊穣の魔神だったのだ。アエギュプトゥスの高貴なる守護神だったのだ。
それを虫けらのように殺すなど。
サマエルは、だが、あまりにも怒り過ぎたがために、その怒りをも突き抜けて、冷徹になってしまった。冷徹にならねば、彼はそれこそ狂ったように暴走しただろう。何がどうあろうと何をどうしようと、必ずミカエルを殺すのだ。ラハブの無念をミカエルの骨身に思い知らせてやるのだ!赤の魔神は冷徹に、そう考えた。
サマエルの所へ、学問の聖地アレクサンドリアが、ついに陥落したとの知らせが届いたのは、そのローマ艦隊が渡っている、ちょうど海の上であった。
地響きのような恐ろしい音が、徐々に這い寄りつつ聞こえてくる。
バシレイオスはぶるぶる震える手で槍を握りしめる。他の学生達も、必死に書物を船へと運ぶ者、逃げ出す者、血気盛んなあまりに街の防衛軍へと志願する者、様々であった。
バシレイオスは、大図書館の書物を船へと運び、無事な場所へ運ぶ学生の警護の役目を果たしていた。だが本よりも重たいものを持った事も無く、戦った経験も無い彼は、はっきり言って役立たずであった。彼の側で二輪車に乗せた沢山の書物を、ゼフォンが必死に押して運んでいる。何とか彼らが港に着いた時には、もう嫌な臭いの煙が辺りに立ち込めており、兵士の雄叫びと剣戟の音がすぐ近くまで聞こえていた。彼らは急いで書物を船へと運びこんだ。
その時であった。イスラエルの軍隊が、港までついに攻めてきた。
「いたぞ、殺せ!」兵士達が駆け寄ってきた。バシレイオスは咄嗟に槍を構えて迎撃しようとして、それをゼフォンに奪われた。
「あ!」バシレイオスはその拍子に突き飛ばされて、船の中に転がった。
「寄こせ!」後からそう叫んだゼフォンが槍を構えて、船から飛び降りた。
バシレイオスは慌てて自分も降りようとしたが、船長がもう限界だと出航を命じたので、血相を変えた。
「待って下さい、ゼフォンさんが!」
バシレイオスは船長にすがり付いて頼み込んだが、船長はもう聞く耳を持てなかった。
「すまないが、もう限界だ!」
もはや己の命の問題なのである。ましてや他人の命に構う余裕など無かった。
「バシレイオス!」ゼフォンの声が響いた。バシレイオスが、こうなったら船から海に飛び込むまでだと体を船べりから乗り出した、その時に。ゼフォンは彼に背中を向けて兵士達と対峙したまま、叫んだ。「歴史書を書く時が来たら、精々俺の事は格好良く書いてくれ!」
「そんな! 今、今そっちに行く! ゼフォンさん、一人じゃ死んでしまうよ! 僕も戦う! ――あッ!」
「馬鹿、止めろ!」船員の一人が海に飛び込もうとしたバシレイオスを後ろから羽交い絞めにした。「死にたいのか!?」
「放して下さい!」バシレイオスは半泣きで叫んで暴れた。けれどひょろひょろの体躯の彼が、屈強な船員に敵うはずも無い。「ゼフォンさんが、ゼフォンさんが! 今、今行きますから、ゼフォンさん!」
そう叫んだバシレイオスに、ゼフォンは言った。
「馬鹿かお前は。 お前なんか来たって邪魔なだけだ! ――じゃあな!」
「ゼフォンさん!」
もう、ゼフォンの運命は誰がどう見ても決まっていた。ただの学生一人と兵士達の戦いである。奇跡が起きたとしても結末は変わらない。
「ゼフォンさん!」バシレイオスは絶叫したが、その声はもう届かなかった。
船はあっと言う間に戦煙に覆われた港を、逃げ出て行ってしまった。
何の因縁か、バシレイオスの乗ったその船が、ローマの軍隊が乗り、サマエルも同乗していた艦隊と出くわしたのである。
「サマエル様」バシレイオスは無念のあまりに、泣きながら事情を説明した。「アレクサンドリアは滅びたのに、僕だけ生き延びてしまいました」
「……」
「僕の第二の故郷は、どうして滅ぼされなければならなかったのですか」
「……」
「ゼフォンさんまで死なせてしまって、どうして僕が生きているのですか」
「……」
答えられない。だが言葉にすらならない激怒がサマエルの心中に湧きあがってくる。かみ殺さねば暴発する怒りだった。下手に口を開けば、どんな爆発的暴言が出てくるか分からない。それでサマエルは黙っていた。
……サマエルはとにかくバシレイオスを休ませると、最高速度でアレクサンドリアに向かった。
かつてサマエルを真っ先に出迎えてくれたあの大灯台が、滅茶苦茶に破壊されていた。にぎやかであった市場から、壮麗だった『教授達の家』や庭園があったはずの学芸の聖地はほぼ全域が焼き払われてわずかな煙のみが立ち上っており、特に大図書館は完膚なきまで消し炭にされていた。その周りには、恐らくここだけは護ろうと戦ったのだろう、学生達の死体で一杯であった。
あの大樹のように厳然とそびえ立っていた人の叡智の牙城の成れの果てが、これであった。人間の栄華など儚いもの、そう言いたげに。
「あ、あぁああああああああああああああああああああ!」
無理を言って付いて来たバシレイオスが絶叫して一番間近の死体に駆け寄った。それがもうただの物言わぬ肉塊であると分かっていても、割り切れずに抱き着いて泣き叫んだ。
「先生、アストリウス先生! そんな、そんな、どうして先生が!」
「……」サマエルはまだ黙っている。
イスラエル掃討戦が始まった。ローマ軍は善戦した。戦っては勝ち、勝っては戦って、そしてついにイスラエル軍を追い詰める事に成功する。
その時、天から、黄金の翼を持った青年が舞い降りてきた。
「……貴様が噂の大天使か」
サマエルは軍隊を離れた場所へと移動させた。
これから起きるのは魔神と大天使の争いである。巻き添えを受ければただの人間達にはひとたまりも無かった。
「そうだ!」ミカエルは邪悪に笑って言う、「俺こそがあの変態を潰し殺してやった大天使ミカエル様だ」
「貴様が守護神ラハブを殺したのだな」
本来ならばミイラにされて丁寧に埋葬されるはずであったラハブを、野垂れ死にさせたのか。アエギュプトゥスを貧しさと飢えから護っていた男を、虐殺したのか。たった一人の友を、恩人を、まるで虫けらのように潰したのか!
「守護神?」ミカエルは馬鹿にしきった態度で、「貴様らは神じゃない、ただの人食いの悪魔だ!」
「……そうか。 ならば」サマエルは右手を突き出した。「――BIGBANG!」
ミカエルは咄嗟にかわしたものの、空間の爆発の余波を受けて吹っ飛んだ。そこに空間を跳躍してサマエルが迫る。阿修羅の形相をして。ミカエルは咄嗟に、
「『天地無用』!」
サマエルの体に重圧がかかった。だがサマエルはするりと空間を歪曲させてその攻撃を逃れる。逃れながら、猛攻撃をかけた。
「BIGBANG! ――BANGBANGBANG!!!」
ミカエルの体が地面に叩きつけられた、と同時に爆発で空中高く吹っ飛ばされた、そしてまた地面に叩きつけられる。土ぼこりが舞い上がり、地響きがうなった。
「――く、クソッ!」
止まぬ猛攻に、ミカエルは叫んだ。
「おいサンダルフォン、ガブリエルの支援攻撃をよこせッ!」
天から小隕石が降って来た。だがサマエルが指をぱちりと鳴らすと、彼に命中する前に隕石は爆発して木端微塵になってしまう。
「効かんぞ」サマエルは瞬間移動してミカエルに迫った。大きく右腕を振りかざし、「思い知れ!」
顔面が思いきりひしゃげたミカエルが、空中でよろめいた。
「ぐ、ぐおお、おお……」ミカエルは顔を押さえて激痛に呻く。
その時であった。サマエルが人の気配を背後に感じて振り返る。
サマエルは名前は知らなかったが、男――ムーサイが黄金の箱を持って立っていた。
「貴様は誰だ!」サマエルは殺気まみれの声で叫んだ。
「私はムーサイ。 神に選ばれし預言者だ。 悪魔め、滅べ!」
そう言うなり、ムーサイは目を閉じて箱を開けた。
落雷があったかのように、辺りが白光で塗りつぶされた。それはもはや、直視したならば目がつぶれるのは間違いないほどの凄まじい光であった。
「ぐ、う――!」サマエルが目を押さえて膝をつく。「何を、した!」
「この箱は滅びた『先代文明』の遺物の一つ」ムーサイの哄笑が響いた。「『
ムーサイはしてやったりと言ってのけた。
先代文明とは、伝説で、かつてこの世界以前に存在したと言う、空前絶後の栄華を誇った文明の事であった。だが、ある日一瞬にして滅びた――。
「ミカエル様!」続けて、ムーサイは嬉々として叫んだ。「今でございます!」
「よくやったムーサイ!」ミカエルは勝ったと思い、最後の一撃を下した、「――『天地無用』!」
だが次の瞬間、かっと目を見開いて、サマエルが立ち上がった。
「BIGBANG!!! BANG!」
ミカエルが空間破壊に巻き込まれて下半身を失った。同時にムーサイも爆死した。
「目を潰した?」サマエルは凄まじい眼光を放つ目でミカエルを見た。光を失ったと言うのに、ミカエルが震えあがるような目つきだった。「それで私に勝ったつもりか? 私を誰だと思った。 私はローマが守護神サマエルなるぞ! 思い上がるな大天使風情が! よしんば首だけになろうと、私は貴様の喉笛を食いちぎる!」
そして、地面に這いずるミカエルへと一歩一歩、近づいて行った。
「ひ」ミカエルは生まれて初めて恐怖を感じた。怖かった。今までここまで彼を圧倒した魔神などいなかった。今まで彼は負けた事など無かった。彼は死の恐怖を知らなかった。だが、ここで、彼は初めて『殺される』と感じた。今まで殺す側だったのに、殺される。殺される!彼は死ぬ!「や、止めろ、俺を殺せば、我らが唯一絶対神は、貴様を、」
「黙って死ね!」
ミカエルの首が、どこか遠くへと飛んで行った。
それを空間構造の変異で感じ取りつつ、サマエルはその場にまた膝を突いた。両方の目から血があふれ出した。
「ぐ、う……!」サマエルは、意志で抑えていた苦悶のうめき声を出した。「目が。 だがラハブの仇は討てた……!」
……。
誰かの声がする。
「おやおやミカエル、何て有様ですか」
「ら、ふぁ、える……? た、す、け……」
「やれやれ本当に仕方の無い。 特別に癒して差し上げますから。 ……。 我らが唯一絶対神が呆れ果てております。 たかが一匹の悪魔風情に負けるなど、それでも我が下僕か、と」
「油断した……ヤツは、目を潰してもまだ噛み付いてきた……」
「言い訳はあまり我らが唯一絶対神には好まれませんよ。 それより我らが唯一絶対神よりご命令です、飽きたのでアエギュプトゥスからは手を引くように、との事」
「分かった……」
サマエルはすぐに治療を受けた。だが潰された目まで治せる者はいなかった。幸いに彼は空間を把握する力を持っていたため、日常生活には不自由は出なかったが、もう道端の花が何色で咲いているのかは分からなかった。彼は顔を一枚の赤い布で覆った。
ローマはアエギュプトゥスからイスラエルの勢力を全て駆逐し、その地にアエギュプトゥスの王族出身の地方総督を置いて帰還した。
帰還の際、サマエルが船に乗った時、その事件は起きた。
サマエルの前に兵士達がやって来て、一人の少女を突き出したのである。まだ幼さすら感じるほどの少女であった。サマエルは何とはなしにその兵士達がいやらしい顔をしている気配を感じた。
「サマエル様」と兵士の一人が言った。「ローマの軍紀では女は許可なく軍に同行してはならぬとあります。 ですがこの女は男と偽って軍に同行しておりました! これは重大なる軍紀違反であります! どうぞこの女を裁いて下さいませ」
「……良かろう」とサマエルは頷き、女の所属していた兵団の長を呼んで、尋ねた。「この女は軍紀を乱し、娼婦のように男を誘惑したのか?」
「いえ、サマエル様、そのような事は……」兵団長は口が重い。
「戦前に置いて逃亡あるいは勝手な行動を取ったのか?」
「いえ……兵団長たる自分の恥をさらすようでありますが、むしろ今まで全く気付かなかったほど、この女は勇敢でありました。 発覚しなければ、昇進を考えておりました」それで口が重かったのかと、サマエルは納得した。
「では聞く。 何故今頃になってようやくこれが発覚したのだ? 紛れ込んだのがどうしてすぐに判明しなかったのだ?」
兵士達が黙り込んだ。兵団長が、血相を変えて彼らを見た。
「……やはり言えぬようだな」サマエルはまるで刃物を突き刺すように言った。「当ててやろう、貴様らはこの女を集団で暴行しようとでもしたのだろう。 それもこの女の立てた戦功への妬みによって。 私にはその趣味は無いが、男同士、と言う関係を好む者もいる。 それで服従させようとでも思ったのだろう?」
兵士達の顔色が真っ青になっていく。目の前の盲目なる魔神が、静かに怒り狂っている気配を察したのだ。
「我が軍にそのような輩は要らぬ。 妬む事はやむを得ないとしても、己の弱さを恥じずにそれを他人に擦り付けるような輩は要らぬ! ――直ちに処刑せよ、兵団長」
死体が海に放り込まれた後、サマエルは少女に訊ねた。
「何故女である事を隠して付いてきたのだ?」
少女は淡々と言った。「……私は今でこそローマの民ですが、かつてアレクサンドリアにおりました。 アレクサンドリアに友達がいました。 助けたい一心で男だと偽り軍に入りました。 ですが友達はイスラエル軍に皆殺されておりました。 ……サマエル様、女にも友情と仇討ちをしたいと言う念はあるものでございます。 いくらそれがローマの法律や軍紀と相容れぬものであったとしても、どうしても我慢できぬ事と言うものが私の中にはありました。 ――今となってはいかなる処罰も受ける所存でございます。 彼岸で再会する時に、今の私ならば何ら恥じる事なく彼女達に言う事が出来ます、仇は取ったと」
烈女とはこの娘の事だな、とサマエルは思った。今、殺すには少々勿体ない娘だとも思った。
「ふむ。 いかなる理由があったにせよ、軍紀に違反はしたのだ、処罰しよう」サマエルは考えてから言った。「――お前を奴隷身分に落とす。 そして私の神殿に仕えよ」
彼女の名前をエステルと言った。周りからの評判は、『痩せぎすの小娘』だった。『怖いもの知らずの小娘だ』と言われた。
サマエルは彼女を寝室に伴う事はしなかった。他の奴隷と同じように扱った。しかし、外出する時は彼女を必ず供回りに入れた。
二人きりで出かける事もあった。
「そこの花は何色をしている」とサマエルはエステルに訊ねた。二人は、二人きりで街道上にいた。サマエルが少し散歩をしたいと言ったためである。
「血のような赤色でございます」
「何故そのような色になったのであろうな」
「アレクサンドリアにいた頃、植物を研究する学者から聞いた事があります。 花は虫を呼んで、己の子孫を残すために、花を咲かせ甘い香りの蜜をちらつかせるのだと。 ですから、きっと花の色も鮮やかな方が虫を引きつけるのでしょう」
「そうか。 子孫を残すためか。 ……では子孫を残さぬ者は、どうなのであろうな」彼はぼんやりとラハブの事を思い出した。
「子孫を残すは受け継がせるため。 人の場合は、受け継ぐべきは血ではなく、築き上げてきたもの、何よりも、志でしょう」
「そうか」彼はラハブから受け継いだものを、握りしめた。ラハブは死んだ。その後をサマエルが受け継いだ。受け継がねばならなかった。何故なら人はそうやって、そうして、今までもこれからも営んできて、営んでいくのだ。「……受け継ぐべきは、血ではないのだな」
その時、彼らがたたずんでいた街道の先から人影が姿を現した。
「ああ、サマエル様!」
バシレイオスであった。声を上げて、走り寄ってきた。
「バシレイオス、アテナイの様子はどうだ」
ローマは逃げてきたアレクサンドリアの学者達を、ギリシアの都市アテナイに住まわせ、学問に再び励むように色々な支援を行っていた。
「おかげ様で落ち着きつつあります。 今ではアレクサンドリアから辛うじて持ち出した書物を皆で整理しております。 あの図書館の廃墟の発掘も順調に進んでおります。 そのおかげか、各地からも学生がやって来るようになりました」
「それは重畳。 ……バシレイオスよ、お前は何をラハブから受け継いだ?」
「……」バシレイオスが穏やかに、けれどどこか悲しそうに微笑んだ。「あの方がいなくなってから、ようやく分かりました。 人の話を聞いて下さる方の大切さを。 私は、あの方がそうしてくれたように、人の話に耳を傾けたいと思います」
サマエルは広大なローマの領地の中を行幸して回るようになった。その側にバシレイオスとエステルを連れて、何年もかけて各地を回った。
『……彼と私達を乗せた大船団は各地の港に泊まり、彼は領地を歩いて回った。 その真の目的はイスラエルへの
……バシレイオスが日記を別の船室でしたためている間、サマエルは寝台に腰かけて、エステルに葡萄酒を注がせていた。
「……」彼女からかすかに血の匂いがした時、彼はエステルが女だった事を思い出した。ふと、ヒュギエイアの事を彼は思い起こす。彼にとって女とは、つまる所母親の延長線であった。彼は賢い女が好きだった。強い女が好きだった。男に甘えて生きようとする女よりも、自力で生きている女の方に憧れていた。凛としていて、揺るぎない女。男を立てるよりも己の足で歩く女。それが彼にとっての『母親』だった。
サマエルはエステルに触れた。びくりとエステルが震えた。あの痩せぎすだった少女が、今では見事に優美な女の体形に変わっていた。
『……何をなさいますか』
サマエルの心の中で彼女の声が聞こえた。魔族の力に目覚めた彼女の『共感能力(ハルモニア)』であった。触れた他者に己の感情を音でも言葉でもなく、まるで温度のように伝えてしまう力である。
「怖いのか」
「怖いのではありません。 女なら貴方様には掃いて捨てるほどいらっしゃるでしょう。 何故奴隷の私なのか、理解が出来ないのです」
「ただの気まぐれだ」
「ただの気まぐれで私を?」
「そうだ。 昔の女をお前は思い出させた」
「その代用品ですか、私は」エステルの声は少しとげとげしい。
「かも知れぬ。 ただの欲望のはけ口かも知れぬ。 だが……」
「?」何だろうとエステルが思った時、サマエルは言った。
「今、無性にお前に、お前だけに私の子を孕ませたいと思った。 他の女では嫌だ。 お前でなければならぬと思った。 ……我ながら変な気まぐれだ」ここで彼はエステルから手を離し、「気にするな。 本当に孕ませたいと気が狂いそうになった時は、私は既にお前を押し倒しているだろう」
「……」
エステルは黙り込んだ。
『ローマ歴二四七年、新芽の芽吹く月、一四日。 ガリアの地にてその隻腕の魔神ティールは恭しく彼を出迎えた。 その魔神の嫡子ヘズをサマエル様は返しに行かれたのだ。 やや申し訳なさそうな声で、彼は言った。 「お前に似たように育つと思っていたら、真逆に育ってしまった」 魔神は唖然とした顔で、「女好きのろくでなしになってしまったのですか」 「いや、哲学狂になってしまったのだ」 「哲学ぅ?」 「そうだ。 あまりにも理想を追いかけ過ぎているので、お前の所で現実を見せて鍛えねばと思って、返しに来た」 「はあ」 ……この哲学狂と呼ばれるヘズは私の学友であり、非常に思慮深い青年であった。 だが、彼は夢想主義的な所があったので、それをどうにかしようとサマエル様は思ったのだろう。 そして十数年後、私とヘズはふとした事で再会するが、彼は色白の夢想家から戦士の頭領に相応しい男になっていた』
『ローマ歴二五五年、枯葉の月、二二日。 アフリカーナでは黒き女神ペンテレイシアが彼を盛大に饗応した。 アフリカーナにはアマゾネスと言う戦女神の集団がいて、彼女はその集団の頭領だった。 彼女達の強さは相当なもので、かつてはローマ軍をも恐れさせた。 女はか弱い生き物だ、などと思ってはならない。 女は血を見慣れている分、土壇場での度胸が違う。 アマゾネスは「己を倒した男にのみ結婚を許可する」と言う風習を持っていた。 ペンテレイシアを倒した事のあるサマエル様は「妾で良いから側に置いてくれ」と彼女に迫られて困っていた。 彼女は、黒い肌が美しく目がダイアモンドのように輝き、引き締まった体は黒い雌豹のようで、まあ並大抵の男ならば逆に結婚してくれと迫るような美女だった。 だがサマエル様は断った。 エステルがこっそりと焼きもちを焼いて、サマエル様の背後で目じりを吊り上げているのを知ってか知らずか……』
『ローマ歴二五六年、青葉の月、四日、朝。 エステルは美女であった。 彼女とサマエル様の関係は分からない。 男女の仲のようにも見えるし、ただの主従の間柄にも見えた。 エステルについて簡潔に記しておこう。 彼女はアレクサンドリアの富裕な商人の家で生まれた。 彼女は気が強いが、理不尽でやかましい女では無かった。 一家がローマに引っ越して、彼女はローマの民になった。 そしてアエギュプトゥスがイスラエルから侵略を受けているのを聞いて、性別を偽ってローマの軍に入った。 友達を助けたかったのです、と彼女は後で言った。 彼女は奴隷に落とされた身の上であるが、恐らく私の予想では奴隷からいずれ解放されるだろう。 彼女は奴隷のままにしておくには惜しすぎる女であるからだ。 それでも彼女は私に一度だけ言った、「私はこのままで充分でございます」と』
『同日、昼下がり。 彼は敵であっても勇敢な者や死を恐れない者に対しては非常に寛大に接した。 逆に彼は卑怯者が大嫌いだった。 かつてブリタニアのエリンにセタンタと言う果敢な魔神がいた。 ローマ歴二一九年の事である。 セタンタはサマエル様により捕虜となったが、「貴様を殺すか自殺してやる」と言った顔をして、全くサマエル様に対して恭順しようとはしなかった。 サマエル様は彼と話し合った。 懇々とサマエル様は彼を説得し、彼の強さを認めて褒めたたえた。 どこまでも諦めずに、セタンタを一人の対等な相手として認めた。 その結果、最後にはセタンタはローマに忠誠を誓う事を決めた。 セタンタは自治を認めさせる代わりに、恭順をすると言った。 だが他のエリンの神々はそれを拒絶し、セタンタを殺した。 卑怯にもだまし討ちで、宴の席で酔わせてから殺したのだ。 これを聞いたサマエル様は激怒して、エリンの神々を弾圧した。 エリンの神々は逃げ惑ったが皆殺され、神殿は破壊されて新たに作り直されて、そこにはサマエル様とセタンタの神像が置かれた』
『ローマ歴二五六年、乾く月、七日。 ……アレクサンドリア、あの壮麗にして智に満ち溢れた都の廃墟は、砂と忘却の中に飲み込まれつつあった。 自然の力は偉大で、時は流れて止まらないと思う一方で、私はこぼれる涙をこらえきれなかった。 自然は変わらない。 だが人は、人の歴史は変わっていく。 時に無情に、時に優しく。 大図書館のあった場所に立つと、私は過去の思い出に浸る事の出来る一方で、否、と思うのだった。 いくら滅ぼされようと、いくら崩されようと、また築き上げねばならない。 また築き上げねば、この思い出を愛する事すら許されぬ、と……』
――サマエルがイスラエルとの国境近くにまで出向いた時であった。
男が地べたに倒れていた。必死に立ちあがろうともがいていたが、その力すらもう無いようであった。
イスラエルからの刺客か?と疑う一方で、サマエルはそれにしては弱り切っていると思い、供回りに男を介抱するように言った。
数日して、男は、ようやく喋るだけの力を取り戻した。
「俺は」と男は名乗った。「アスモデウス、と言う。 イスラエルから、逃げてきた」
「イスラエルから逃げてきた?」気になったバシレイオスが詳しく訊ねた。「どのような理由があったのですか?」
「……俺の女に、大天使に憑りつかれた男が、手を出した。 守りたかったのに、守りたかったのに、彼女は、殺されて、俺は、アエギュプトゥスの僻地に、幽閉された。 幽閉が解かれたと思ったら、今度は、ソロモンの宮殿作りに駆り出されて。 そこから、俺は、逃げて……」
男はそこで一度意識を失った。うわ言で何度も、殺してやる、と繰り返していた。だが医者はさじを投げていた。男の体はもう生きていくには壊され過ぎている、と。
サマエルはそれを聞いて男に会いに行った。
男はぼんやりと目を開けた。噂にも名高い、赤の魔神が立っていた。
「……貴方、が、サマ、エル、か……」
「そうだ」
「イスラエル、には……今、大天使、サタナエルが、降っている。 戦が、始まる……サタナエル、は、最悪、の大天使……」
「相手が最悪だろうと何だろうと、私は私の敵には負けぬ」
「……たの、む……イスラエル、を倒し……」
「分かった」
「……」
死んだ。
サマエルはアスモデウスの遺体を埋葬するように言った。
サマエルはローマへ帰還した。十数年ぶりの事であった。
群衆がわあわあと道の脇に押し寄せて彼を歓迎する。為政者は上手くやっているようで、群衆の雰囲気は明るい。
サマエルは神殿を建てなおすように命令した。あの若木が、見事に育って、今や神殿の合間に植えるには狭いほどの大木になっていたからだ。サマエルはヒュギエイアの声を風の中に聴いた気がした。
『誰よりもご立派になられました』
強いと言う事が己にとって何であるのかサマエルは知っていた。それは彼にとって大事なものを護れる事、であった。彼は一度愛したものを全て失っていたから、貪欲なまでに愛したものを護ろうとした。けれど彼はその欲望だけではなく、きちんとした疑心をも抱いていた。己が度を越した行動に出ないよう、その疑心は彼を上手に制御していたのである。
彼は歴代のローマの王、そしてローマの皇帝達の行う政治に対して、積極的には関わろうとしなかったが、もしも彼らが彼にとって到底看過しがたい事態を引き起こした場合のみ、エステル一人を連れてローマの元老院に、あるいは宮殿に乗り込んだ。そして直に対話した結果、為政者として失格だと彼が判断すると、彼は次のローマの為政者に相応しいと思われる人物を元老議員らに選ばせ、現為政者を退位させては新たに即位させた。
一見、それは凄まじいまでにサマエルに政治への執念があるからの行動であるように見えるのだが、サマエルのその行為を責める民も神々も、ほとんどいなかった。何故ならば彼は私利私欲では動かなかったからだ。
「あの美女が気に入ったからと糟糠の妻を毒殺して、新たに美女をめとった、それはまだ良い。 それはお前の問題だからだ」
「だがその殺された妻の一族がお前の行いを元老院にて告発しようとする前に兵を遣わして皆殺しにした、それは許さぬ。 これはローマの問題になるからだ」
「お前は戦時でも無いのに、兵を不法に動かした」
「公と私を混同したお前に権力を委ねたままにしては、いずれはローマは不法行為と不道徳に埋め尽くされ、滅びるだろう」
サマエルは別に怒鳴りつけるでも脅すでも無い、普通の口調でそう言って、為政者にローマから出て行くように命令し、後は神殿に帰って、次の為政者に期待した。
そうしてから、時々、サマエルはふと思うのだ、もしもこれをラハブが出来たのであれば、彼はまだ生きていてくれたに違いない、と。だがあのラハブの事だ、これを一度でもやったならば完全に自己嫌悪に陥って、あの優しさと親切さを失い、酒臭いだけの嫌な酔っ払いになってしまっていたに違いない。
アイツは本当に優しかったからな、とサマエルは思った。
あれほど親切だったアイツを、せめて望んだ『ミイラ』にしてやりたかった。
……ローマの神殿に、天涯孤独で臆病で血を見ただけで失神するほどの弱虫で、その事で誰彼からも馬鹿にされている若い魔神がいた。名前を、ダイモスと言う。
サマエルはある日、彼が奴隷達にすらあざけられている所に遭遇した。サマエルは神殿の外へエステルを連れて出かけようとしたのだが、エステルは所用で女奴隷達の部屋にいなかった。少し待ったのだが、戻ってこない。それで彼は仕方なく一人で出かけようとした。その時、だった。エステルの怒声が遠くで聞こえたような気がして、彼はそちらへと向かった。
「真にダイモス様は果敢であらせられる」
「魔神よりも物乞いの方が似合っていらっしゃる」
「おやおや何と気高くていらっしゃるのか! 今にも目から水をこぼして乾いた大地を潤すおつもりでいらっしゃる!」
「いい加減になさい!」エステルは半泣きのダイモスを背中に庇っていた。神殿の廊下、物言わぬ太い柱が彼女らの背後に立ち並んでいる。「貴方達も奴隷なのに、魔神相手に何と言う口を!」
「魔神?」くすくす、げらげらと彼女らを囲む奴隷達は哂った。「何の力も持たぬのに、魔神とは笑止千万だ!」
「サマエル様のご寵愛を受けているからって、エステル、調子に乗ってんじゃないわよ」
だがエステルは一歩も引かない。かつて戦場でそうであったように、果敢である。
「サマエル様のご寵愛がそんなに欲しいのならば、まずその卑怯でひねくれた性格をどうにかなさい。 サマエル様は卑怯者が何よりも嫌いであそばされる。 臆病は何とでもなります。 だがその腐った性根だけはどうしようも無い!」
奴隷達が、怒った。
「何だとう!?」
「ただの女奴隷の分際で、いい気になってつけ上がりやがって!」
エステルの細い体が倒れた。平手をくらって、よろめいた拍子に柱に体がぶつかり、頭を打ったのだ。
「や、止めろ、止めるんだ!」か細い声でダイモスは叫んで、必死にエステルを庇う。彼をも足蹴にして、奴隷達は暴行を始める――。
「ふむ」そこにサマエルが出てきたから、奴隷達は真っ青になった。「確かにそうだな」
恐ろしいまでの沈黙が流れた。サマエルはその沈黙を破って、一人で言葉を放った。
「確かに私は卑怯者がどうも好きにはなれない。 無駄な殺生も好きにはなれない。 だから、
真っ青になっていた奴隷達の顔は、もう白くなっていた。彼らは必死に哀願したが、サマエルは耳を一切貸さずに、ダイモスとエステルを連れて去ってしまった。
「さ、サマエル様」ダイモスはその場にひれ伏して御礼を述べる。「ありがとうございます、ありがとうございます!」
「気にするな。 私が、ああ言うのを生理的に受け付けないだけだ」
「う、うう――」ダイモスは地に頭をつけたまま、泣き出した。「どうして俺は臆病なのでしょうか、どうして腰抜けなんでしょうか、どうして魔神に生まれてしまったのでしょうか、俺なんか奴隷がぴったりなのに!」
「人には得手不得手がある。 お前はお前に合った務めを果たすべきだ」
「何にも出来ないんです、俺は……! もし失敗したら、失敗してみんなに迷惑をかけたらと思うと、怖くて、怖くて――!」
「慎重なのだな」サマエルは少し考えてから、言った。「……補給部隊はどうだろうか」
「補給部隊……?」ダイモスは顔を上げた。赤い魔神は頷いてみせて、
「そうだ。 近い内に我らがローマはイスラエルと激突する。 戦の基本は、情報と補給だ。 いくら強い軍でも、情報と補給が無ければ敗北する。 お前は、その補給を司る部隊を率いるが良い」
「え」ダイモスは驚いた。「ど、どうして俺なんかにそんな大役を!?」
「お前は慎重だ。 臆病なまでに慎重だ。 ならば出来る。 何も前線で戦う事のみが勇敢である、有能であるとの証明では無い。 目立たぬが欠かせぬ、と言う立場もあるのだ」
「……目立たぬが、欠かせぬ……」ダイモスは考え込む。それは、彼にとってはとても合っている、いや、彼にしか出来ない事のようであった。石橋を叩いては怯えつつ歩く彼の性格が、上手い具合に、初めて作用するような気がした。「……承りました!」彼はしっかりと頷いた。
「では、頼むぞ」サマエルはそう言って、エステルを連れて出かけていく。
その後ろ姿をじっと見て、ダイモスは自分に言い聞かせるように、言った。
「そうだったのか……。 こんな生き方も、俺にはあったんだ……」
ある日の朝、エステルはサマエルの衣を神殿の泉で洗いながら、ぼんやりと考え込んでいた。近頃の彼女はこんな風にして考えてばかりであった。
(こんなに胸が痛いのは、何故なのだろう)
(病気なのだろうか)
(だったら医者の所へ行けばよい、のに……)
(治らぬ病と言われるのが怖いのか)
(……違う。 そうじゃない。 私はこの痛みの原因をもう知っている)
(……)
エステルは声を押し殺し、うつむいて泣いた。もう洗ってなどいられなかった。
(私はあの人が好きなのだ)
(好きになってしまったのだ!)
「どうした」
背後からのサマエルの声にエステルははっとした。
慌てて、赤い衣を洗うのを再開する。
「何でもございませぬ。 疲れたので怠けていただけでございます」
「そうか。 本当にそうか?」
「……」
言えるものか。彼女は奴隷だ。人の尊厳や意志など要らない存在なのだ。このままで良い。このまま、あの人の側にいられるだけで良い。これ以上の幸せを望むならば、傲慢と言うものだ。
彼女は彼に背を向けたまま、言った、「はい」
「……」
黙ったままの彼の足音が去っていく。エステルはそれが完全に聞こえなくなってから、唇を噛みしめてまた泣いた。
後方支援は完璧と言って良かった。開発された街道は食料や武器防具、医療品に至るまで、様々な品を満載した荷馬車や貨物船を導きつつ、各都市の間を結んでいた。対イスラエル戦前線基地となるアエギュプトゥスとペルシスの二つの都市には、それらの順調な行き来の報告が来ていた。狼煙による各都市の間の連携は、密接かつ迅速で、万が一イスラエル軍にローマ軍が圧倒されそうになった場合、即座に援軍を派遣する事になっていた。二方面からの最大の構えと攻囲で、ローマは強大なイスラエル王国とその首都エルサーレムを陥落させようとしていた。
「いよいよだ」前線部隊を指揮する女戦士にして黒き女神ペンテレイシアは、夜明けを待つ陣中で呟いた。夜明けと同時に、彼女らはイスラエルの都市を攻め落とすべく出陣する。武者震いが止まらないのは、幼少から彼女に戦士として生きるべく叩き込まれた英才教育の賜物だ。「アマゾネスの雄姿、嫌と言うほど見せつけてやろう」
「油断するな」サマエルは、冷静に言った。「大天使が降臨する可能性がある。 その場合は即座に撤退し、私を呼べ」
サマエルとペンテレイシアは、本日、それぞれ別の都市を同時に攻める事になっていた。
「承知」ペンテレイシアはそう言って、愛馬に跨って弓矢と剣を携えた。既にほのかに空の果てが青く輝きだしている。「いざ、進軍せよ!」
ペンテレイシア達は、彼女達を迎撃するべく都市の城壁の門が開いたのを見て、まずは強弓を構えた。アマゾネス達は、誰もがこれを得意とする。遠方から雨のように矢を降り注がせて、敵に被害を与え、戦意を失わせ、混乱状態を引き起こす。そこに突撃するのが、彼女達の戦い方であった。
「放て!」
ペンテレイシアの高らかな一声で、矢の雨がイスラエルの軍隊に降り注ぐ。
――だが、矢は全て空中で停止した。
「あはははははは!」いやに陽気な顔をした美青年が、イスラエルの軍の真上の空からゆっくりと降りてきた。「そうです、そうですとも、ウリエル様! 僕はただお一人であらせられる神を信じます! ですから、どうか、僕に平安の時をお恵み下さい!」
『――良かろう。 アポロンよ、貴様は我らが唯一絶対神に帰依した。 ならば我は貴様に力を貸してやろう』
青年の頭上に、黒茶色の翼を持つ大天使が現れる。
ぐるん、とそれまで空中で待機していた矢が反転した。
「なッ」他のアマゾネスのように、ペンテレイシアも目を見張った。その、彼女達が放った矢が、彼女達に降り注いできたからである。それと同時にイスラエル軍の放つ矢が、彼女達に襲いかかってきた。
「矢が効かぬのか!」だが、ペンテレイシアの率いるアマゾネス達はこの程度では怯まぬ強者ぞろいで、果敢だった。「ならば剣で勝負するまでよ!」
そして彼女が雄たけびをあげるのに続いて他のアマゾネスも咆哮し、一斉に突撃した。両軍は激突するかに見えた。兵数はほぼ互角であり、アマゾネスの士気は高い。戦況はローマに利がある。
『ふん』と大天使ウリエルは、だが、この状況を鼻で笑った。『アポロンよ。 石つぶてを投げるのだ』
「はい!」アポロンは、まるで従順な奴隷のように頷いて、足元に転がっていた拳くらいの大きさの石を拾って、投げた。
……その石ころ一つで、よもや精鋭中の精鋭であったアマゾネスが壊滅するとは、この時にはローマ軍の誰もが予想していない。
「アマゾネスが壊滅……だと!?」その知らせを受けたサマエルもさすがに動揺した。敗軍からの伝令が、ちょうど今になって来たのだ。「大天使サタナエルが降ったのか!」
「い、いえ、ペンテレイシア様の最期のお言葉では」と言いかけた傷だらけの若いアマゾネスの一人アンティオペーが涙ぐみかけて、だが歯ぎしりしてそれに耐えた。「大天使ウリエル……だとおっしゃっていました」
「……そうか。 分かった」サマエルは言った。そして大天使達に激しい憎悪を抱いた。だが、この時の彼はまだそれを理性で殺している。
「サマエル様!」負傷者の手当てや物資の補給などのために陣中へとやって来ていたダイモスが、真っ青な顔をして彼の元へ走ってきた。「ペンテレイシア様達の、な、亡骸が、亡骸が! な、な、亡骸が!」
その先の言葉がつっかえているほど、ダイモスは動揺していた。
「どうされたのだ!? 詳しく言うのだ!」
「て、偵察の者からの情報なのですが――アマゾネスの方々の亡骸が晒し者にされております、鳥の餌にされております、都市の城壁から吊るされて……!」
「……敵とは言え、果敢に戦った者を死後も侮辱するとはな」サマエルは激怒した。彼は卑怯が大嫌いであった。そして死ぬまで勇ましく戦った相手を、死後に辱めるなどと言う行いを、心底憎んでいた。「私が出よう。 そして奪還する」
翌日、サマエルは出陣した。攻撃目標の都市にローマ軍を率いて接近していくと、ローマの兵士達が次々と悲鳴やそれに近い無言の叫びを上げた。
城壁から、ずらりと、彼らの友軍であったアマゾネスの死骸が、ぶら下げられていたのである。それらは鳥につつかれていた。
ローマの兵士は何も残虐な行いを見慣れていない、と言う訳では無い。偵察の者がこう言う有様だと言っていたのも先に聞いている。元々ローマの闘技場で血なまぐさいものにも見慣れていた。たが、ただでさえここは敵地であり、そしてアマゾネスの強さを彼らは良く知っていたのに、その彼女達がこんな有様になっていると分かると、恐怖はどうやっても抑えきれないのだった。
「あ、あはははははは!」
その彼らの上空から、男が降りてきた。その声を耳にした瞬間、サマエルはあの悪夢を思い出す。我が初子を殺された、あの瞬間を思い出す。
「アポロン……!」
「あはははははは!」アポロンは壊れたように笑う。笑っている。「死ね、サマエル! 貴様が生きている限り、僕は幸せになれないんだ!」
「貴様はあの時処刑しておくべきだったな」サマエルは淡々と言った。「ペンテレイシア達のためには、焼き殺しておくべきであった……!」
「今の僕には大天使ウリエル様が憑いていらっしゃる! 貴様なんか、もう相手じゃない! ウリエル様、ガブリエル様のお力をどうぞお貸し下さい!」
天空から小隕石が無数に降ってきた。それは途中で軌道を変えて、ローマ軍に猛雷のように襲いかかる――と思いきや、爆発して全て消えた。
そして、盲目なる魔神は毅然と、厳然と、彼らの前に存在している。
『ふむ』と大天使ウリエルの声が響く。『どうやら我々の攻撃の通用する相手では無いようだ。 我もガブリエルも撤退するとしよう』
アポロンの顔に浮かんでいた、余裕のある笑みが、消えた。真っ青になった。
地に落ち、四方八方を見て叫ぶ、
「ウリエル様!? ウリエル様ッ!? ど、どうして――!?」
「行け」とサマエルは隣にいたアンティオペーに言った。「ヤツの身柄はお前達アマゾネスに委ねよう。 生かすも殺すもお前達に一存する」
「御意に!」
生き残っていたアマゾネスが、我先にアポロンに襲いかかった。
「一思いに殺してなどやらぬわ!」アンティオペーらはアポロンを暴行し、口々にそう言った。「生き地獄を味わえ!」
「では」とサマエルは全軍に指令を出した。「かかれ!」
イスラエルの都市が陥落したのは、それから半日後であった。
サマエルはアマゾネスの亡骸を埋葬し、更に進軍した。
ローマの進軍は順調であった。進軍していく間に分かったのだが、現イスラエル王ソロモンは大変に英明な君主であったらしい。だが、今では老いぼれたただの暗愚な老人になっているそうだ。
「あれでは我らが唯一絶対神に、見捨てられる」と言う噂が流れていた。そして見捨てられかけている証に、ローマの侵略を神が見過ごした、と。
いよいよイスラエル王国首都エルサーレムに、ローマ軍が近付いて来ていた時だった。
「――きゃはははははー!」
急に天から笑い声が降ってきて、軍の誰もが天を仰いだ時、それは夜のように黒い六対の翼をはためかせて降りてきた。それは非常に愛くるしい幼女の姿をしていて、だが、その目は漆黒に輝いていた。
「……貴様が大天使サタナエルか」サマエルは冷えた声で訊ねた。感じるのだ。この幼女から、とんでもないけた違いな『力』の気配を。
「そうだっぴょーん! おれちゃまは我らが唯一絶対神様から遣わされたんだぞ、えっへん!」と幼女は平らな胸を張った。
「何故アレクサンドリアを殲滅した」
「神様を信じない悪いヤツはみんな死んじゃえば良いんだもん!」
「信仰心の有無が生殺与奪に関わるのか」
「うん。 だって神様は偉いんだ、立派なんだ、凄いんだぞ!」
「それがどうした。 貴様らがアエギュプトゥスへやったあの行いを、正当化しようとするのか」
「だってお前達なんかごみなんだもん。 死んだ
そう、無邪気に、言うのである。何の悪意も無く言うのである。無垢な子供が虫を殺すのと似ていた。言い換えれば虫を殺すように人を殺せる、最もおぞましい存在であった。
「あれ?」とそのサタナエルが突然首をかしげた。「さんだるふぉん、神様がそうおっしゃっているの? 撤退しろ? はーい、分かった!」
そしてサタナエルは空中へ舞い上がった。
「えーとね、サマエルだっけ? 命拾いしたねー、神様、イスラエルのソロモン王を見捨てるってさ。 良かったね、おれちゃまが本気を出したら、お前なんか即死していたもんね! それじゃ、ばいばーい!」
「待て!」とサマエルは追いかけようとしたが、サタナエルは姿を消してしまった。
――イスラエルをローマは征服した。イスラエルの民から激しい抵抗があったが、それも弾圧して、数年で静まり返った。
ローマはソロモン王の建てた壮麗な宮殿を破壊し、そこにサマエルら多神教の神々の神像をすえた神殿を建設した。
最後まで抵抗していたソロモン王を捕虜として、サマエル達は見事にローマに凱旋を飾った。
「一つ聞きたい事がある」とサマエルは今やただの老人となったソロモン王に訊ねた。「何故貴様らイスラエルはアレクサンドリアを焼き討ちにした? 略奪ならばまだ理解は出来る。 だが貴様らはあの図書館を、あの都を徹底的に焼き払った。 何故だ?」
「人の叡智など下らぬもの」ソロモンはしわがれた声で言った。「神のみぞが真理を知る。 たかが人の分際で、神の智の領域にあそこは踏み入れようとしていた。 全くもってけしからぬ場所であった。 だからだ」
「……」サマエルはソロモンを牢獄に入れて、幽閉しろと配下に命令した。そして、一人呟く、「何が『全くもってけしからぬ場所』だ。 今思えば、あそこは、人が、己の理性と知性で唯一絶対の神に立ち向かう場所であった。 この世には神の代わりに運命と真理があると突き詰めるためにあった……」
ローマに帰還したサマエルを出迎えた者の中に、エステルがいなかった。彼女は寝込んでしまっていた。ありとあらゆる手を尽くしたのだが、医者がさじを投げてしまった、病名すらわからぬ病であった。
(分かっている)エステルはすっかり痩せてしまった体を寝具に埋めて、思う。(この病の名前を、私は分かっている)
けれど彼女はそこから一歩も動けなかった。彼女は己のこの欲望のために動くくらいならば死ぬべきだとまで思いつめていた。人は、いかなる絶望に突き落とされても、いかなる苦痛と悲しみに襲われても、どのような誘惑に遭ったとしても、その魂の高貴さを失ってはならない。彼女の行動理念はそれであった。なのに、時々、彼女は声を殺して泣くのだ。彼女の体がうずく。寂しいと喚き、あの人が恋しいと叫ぶ。あの人の腕に抱きしめられたい。でも、それは絶対にやってはならない事なのだ。あの人は気高く強い人だ。それをわずかであろうと汚す事は絶対に許せない。あってはならない!そう強く決断していても、彼女は起き上がれないほど苦しんでいた。穢れた情念が彼女をむしばむのだ。
彼女の所にサマエルがやって来た時、彼女は眠っていた。うなされながら眠っていた。苦しいのか胸元をはだけて、悩ましい息を吐いている。
「……」
サマエルは、彼女の頬に触れた。その途端にエステルの感情が濁流のように流れ込んできて、サマエルは思わず熱いものに触れたかのように手を離した。
『あの人の子供が欲しい』、要約してしまえばエステルの願いはそれであった。愛されなくてよい。奴隷で上等だ。ただ、ただ今の彼女は一人で生きていくのが辛すぎた。だが彼女はそれを言葉にも態度にも出さず、耐えている。今、彼に伝わった感情ですら、彼女が寝ているから勝手に能力が動いたのであって、起きていれば彼女はこれを断じてちらつかせもしなかっただろう。
「……だが、私は……」サマエルは彼女を起こそうとして、それを止めた。
彼は怖かった。あんな形でヒュギエイアを失った事、眼前でユニアノスが殺された事、それがまだ彼の中で尾を引いていた。
彼は黙って、エステルから離れていった。
ざわざわと、今では大木になった、あの若木が神殿の隅で風に鳴っている。
その音をサマエルは聞いていた。そこにダイモスとバシレイオスがやって来た。ダイモスは神殿を出て、今ではローマの行政長官をやっていた。どうも魔神をやるよりもそう言う仕事が彼の天職であったらしく、彼のやる事に文句を言う者は誰もおらず、彼自身、生き生きと務めを果たしていた。バシレイオスはアテナイに住み、今ではそこの教授の一人となっていた。アレクサンドリアの発掘を支援しており、主に、失われた大図書館の歴史関係の書物をこれ以上散逸させないためにまとめていくと言う、気の遠くなるような作業を行っていた。二人は和やかに会話をしつつ、やって来る。
「お前達か」サマエルは振り返って、言った。「元気そうで何よりだ」
「ええ、おかげ様です!」ダイモスはしっかりと言った。
「?」異変にいち早く気付いたのはバシレイオスだった。「サマエル様は、お元気では無さそうなのですけれど……先の対イスラエル戦でお疲れなのでしょうか」
「いや」サマエルは否定して、「どうも私は臆病であるらしい」
「「えっ」」二人は同時に驚いた。
「ご謙遜……ですよね?」ダイモスは目をまばたかせた。
大天使すら撃退したこの魔神が、臆病だなんて、とても信じられない。
「いや、そうでは無い。 どうも私は女が絡むと臆病になる」
「ああ……」バシレイオスが納得したように、「どんな女性なのですか?」
「私と似ている。 命知らずの癖に男が絡むと臆病になる」
「……ラハブ様がご存命でいらっしゃったら、もどかしさのあまりにサマエル様を殴られたでしょうに……」
バシレイオスはそう言ってから、懐かしそうに目を細めた。
「だろうな、そうだろう」サマエルは同意した。
きっと殴ってから『据え膳は食え! 食えと言ったら食え! よし、お前をぐるぐる巻きにしてその女の所に連れて行って、お前達を監禁してやる、何か進展があるまでは一歩も外には出さないぞ!』を実行する。それも大喜びで、だ。
「あまり参考にはなりませんが」ダイモスがおずおずと、「その女性に花でも贈られては……?」
「それが出来たならば苦労はしていない」
「……………………………………」散々黙った後にバシレイオスは重々しい、いや、仰々しい口調で言った。「この場合の臆病とは、はっきり申しまして卑怯と同等でございます。 お互いが卑怯者では、何ら進歩がございません。 サマエル様、どうぞご決断を」
「……そうか、卑怯か……」サマエルは大木を見た。ざわざわと枝葉が風に鳴る、それを。「そうだな……そうだ」
エステルはぼうっとしていた。月光が神殿の窓から差し染めて大理石の床を照らすのを、じっと見つめていた。徐々に遠くから誰かの足音が近づいてくるのに気付いた彼女は、はっとして、慌てて寝具をかぶって寝たふりをする。足音は、彼女が寝ている寝台の間際で止まった。エステルは胸が高鳴り、体中が熱くなる。
あの人だ。エステルはそれを直感していた。あの人が来た。
「エステル」声がした。「起きているのだろう?」
駄目だ、返事をしては。彼女は唇を噛みしめる。今口を開けば、彼女の汚くて赤裸々な感情を吐露してしまう。それだけは、駄目だ。この人を困らせる事だけは!
「あっ」だがエステルは声を出してしまっていた。彼女の体がたくましい腕に寝具ごと抱き上げられたからである。彼女はまるで熱に浮かされたかのように、頭がふわふわとして、体がおかしくなっていくのを感じた。
彼女は浴場まで運ばれた。
ゆっくりと彼女は床に降ろされた。そして、寝具がはぎ取られる。そこにいたのは、やつれてもなお美しい女であった。サマエルの手が彼女の衣に伸びた。脱がされていく。エステルはこれが夢なのか現実なのかすら、分からなくなってきた。生まれたままの姿になった彼女の姿は、動きさえしなければまるで美しい彫像のようであった。
「湯につかって来い」とサマエルは言った。
エステルは奴隷から解放された。やがて彼女は男の子を産んだ。だが賢明な彼女は、決してその子を次の守護神の跡継ぎにしようとはしなかった。受け継ぐべきは血のみでは無い。ローマの次なる守護神は、これだけ大きな国を護るだけの力を持った、立派な魔神でなければならない。彼女はそう考えて、サマエルも承知した。
サマエルはよちよちと彼の方へ這ってくる元気な赤ん坊を感じた。彼が抱き上げると、赤ん坊は笑った。無邪気に、嬉しそうに。
それだけで彼には十分だった。彼らは幸福であった。数多の犠牲の果てにようやく手に入れた幸せであった。
ネルヴァと名付けられたその赤ん坊は、後にローマの優れた為政者となる。
ダイモスにしてみれば恩人の子であり、しかも有能な、いずれは己を超えてローマの皇帝にもなりうるほどの部下であったので、ネルヴァへの可愛がりようは大変なものであった。『実の親よりもあれは猫可愛がりだ』と噂されるほどであった。ネルヴァは非常に賢明であって、しかも親の良い所ばかり受け継いでいたので、彼がアテナイに留学した時、バシレイオスは感嘆のあまりにサマエルへこんな手紙を送り付けたほどであった。
『サマエル様、まさに天恵と言うべきでございます、この子を貴方様が得られましたと言う事は』
サマエルはよくネルヴァを連れてあちこちに出かけた。赤い魔神の隣で目を輝かせているその息子の光景は、本当に微笑ましかった。
ローマの次期守護神に選ばれたのはニケと言う名の強い女神であった。このニケですら、下手をすれば己の地位を危うくしかねない存在であるのに、ネルヴァを可愛がった。天性の人たらし、とでも言うべき不思議な力がネルヴァにはあるのだった。
ネルヴァは色々な地方出身の若者と友達になり、彼らの力を借りて動いた。特にマウケナス、アグリッピウスと言う少年達は、彼の右腕であった。
サマエルとエステルはネルヴァを厳しくしつけたが、理不尽な行いは一度もしなかった。時には手をあげる事もあったが、その時はどうして手をあげるのかをきちんと説明してからやった。自分よりも弱いものを虐めて面白がった、それはとてもいけない事だ、何故ならそれは卑怯そのものだから。父親の威光を借りて威張った、それは許されない事だ、何故ならそれは恥ずかしい真似だから。
誰からも愛されて、ネルヴァがすくすくと育っていく姿を見て、サマエルはぼんやりと、ありがとう、と思った。運命の女神よ、私に希望を与えてくれてありがとう。願わくはどうか奪わないで欲しい。……否、護ってみせよう。たとえ相手が唯一神であろうと、命がけで護ってみせよう、この希望を!
同時に彼は思う。己が、老いてきている事を。
父母の言葉がよみがえる。『生きるべき時に生きて、死ぬべき時に死ぬ』、その時が迫っているのを彼は知っていた。死ぬ事への恐怖はあまり無い。むしろ惨めに生きる方が彼は恐ろしかった。醜態を一度でもさらして、今まで築き上げてきた己の誉れある過去を一瞬でぶち壊す方が、耐えられなかった。後顧の憂いは無い。驚くほど出来の良い息子とその仲間、優秀な魔神や女神、為政者達。彼は本当に後継者達に恵まれたと思った。
ネルヴァが成人した日の、夜だった。エステルは湯浴みに行っていて、サマエルは一人で寝台の上に寝そべっていた。
――妙な気配を感じて、サマエルは周囲を見渡した。誰もいない。だが誰かがいるのだ。
「出て来い」と彼が言った時である。闇の中から、にゅうっと人影が生えてきた。それは、死んだはずの――。
「アスモデウス?」
『ええ、私です』と彼は優雅に礼をした。『介抱して下さった上に、きちんと埋葬して下さり、本当にありがとうございました』
「私は幻覚か幽霊を見ているのか?」
『いえ、私は悪魔になりました。 悪魔と言うのは、まあ幽霊のような存在ですが、自我も理性もしっかりとあります』
「……ふむ」サマエルは取りあえず、己の頭と正気を疑うのは止めた。
『せめてものお礼に、情報を持ってまいりました』
とアスモデウスは言った。よく『見れば』美青年であった。
「何の情報だ」
『イスラエルの不穏分子についての情報でございます。 ……サタナエル、と言う大天使がイスラエルにて暗躍している模様。 どうやら武装蜂起を促している様子です。 ご注意を』
「そうか」サマエルはあの幼女姿の、ただし残酷そのものであった大天使を思い出す。「知らせてくれた礼を言う。 監視を厳重にしよう」
それからもちょくちょくと、アスモデウスは彼の所へ有益な情報を持ってくるようになった。
そして、ついにイスラエルで反乱が起きるまで間もない、と言う情報がサマエルに伝えられる。アスモデウスからだけではなく、イスラエル総督からも『イスラエルの民に叛意の疑いあり』と言う急ぎの伝令が来たのだ。
「ネルヴァ」とサマエルは我が子を呼んだ。「一つ、頼みがある」
「何でしょうか」とやって来たネルヴァは不思議そうな顔をしている。
「イスラエルの反乱を鎮圧する際に、大天使サタナエルと私は戦うだろう。 勿論私は勝つ。 だが、その後は全てお前に任せる」
ネルヴァの顔に疑問が浮かび、それはすぐさま何かをこらえる、沈痛な顔に変わる。
「何故そんな事をおっしゃるのです! 父上は、最強の――」
「相手は『最悪』だそうだ」
「……」青年ネルヴァは、奥歯をかみしめる。
「だが私が、そしてお前がいる間は我らがローマ帝国は不滅だ。 ……ネルヴァ、だから」サマエルはお決まりの台詞を言いかけて、止めた。エステルと彼はこれまで厳しくも慈愛深くネルヴァを見守っていた。これからネルヴァが政治を行うにあたって、その友やダイモス達は全力で助力するだろう。そしてニケが次なるローマを守るだろう。ローマは続いていく。そして、サマエルは己が老いぼれてもうろくして死ぬなどと言う醜態をさらすのは、真っ平御免であった。「……いや、お前ならば何の心配も要らぬか。 何しろお前は、私達の子だ」
「父上……」ネルヴァは、目を閉じて、開けた。目の前の赤い男は、誰よりも威厳があり、同時に彼への愛情に満ちているような気がした。本当の親の愛が、その子を己の力で生きていけるように育てるものだとしたら、彼は誰よりも愛されていたのだ。「当然、です」
「往ってらっしゃいませ」エステルは言った。赤い魔神の隣に美しい彼女が立つ光景は、まるで神話の一場面のように美しく荘厳であった。そして彼女は、サマエルが老いている事、そして醜く死にたくはないと思っている事にとうの昔に気付いていた。彼女はその願いを裏切る事も穢す事もしたくなかった。だから、むしろ微笑んで言う。「あの子がおりますので、要らぬ心配はなさりますな」
「ああ」サマエルは頷いた。「私は往く。 エステル、お前はこれからどうする?」
彼女は何のためらいもなく言った、
「どうするも何も、私は貴方様といつまでも一緒におります」
「そうか。 ありがとう」
「!」エステルはちょっと驚いた顔をして、それからまた微笑んだ。まるで一輪のつぼみが花開いたかのように、その微笑みは美しかった。「貴方様と夫婦になれて、こちらこそありがとうと申し上げるべきですわ」
サマエルはイスラエルの反乱分子の鎮圧のために出征した。これが彼の最後の戦になった。エステルはそれを見送って、サマエルのための神殿を作らせた後、己の体もそこへ埋葬するように言い残してから、自害した。
神殿の中のあの大木が、ざわざわと風に鳴いていた。
バシレイオスは必死に記憶をたぐり寄せていた。アレクサンドリアで一生懸命、ただし嬉々として写した歴史書達の内容と、教授達の講義を思い出そうとしていた。
彼はもう何十巻にも及ぶアレクサンドリアの歴史書の復元書や逸文集を出していたが、しょっちゅうその改訂版も出していた。しかし今度の今度こそ、完成させてみせる、と彼は決めていた。今度のそれは、その一冊一冊が鈍器になるくらい分厚い本であった。世界歴史大典、と彼はそれらを名付ける事を決めていた。
そこに彼の弟子が駆けつけてきて、
「先生、サマエル様の行幸です! このアテナイにいらっしゃいました!」
「何だって!?」と彼は大急ぎで仕度をして、出かけた。
サマエルは群衆の歓喜の声の中、神殿に入った。バシレイオスは彼に謁見した。
「バシレイオス」とサマエルは聞いた。「研究は進んでいるか」
「おかげ様で、地道にですが進んでおります。 間もなく世界歴史大典が完成する所でございます」
「そうか」とサマエルは頷いた。それから、「……もう、何年になる? お前がラハブにあの図書館前で見つけられてから」
「……百年と五〇年、経ちました」
魔族は人より長生きする。長生きをして、だからその分、人との離別も多い。
「――」一世紀と半世紀。それほど長い時間が経ったのか、とサマエルは驚くと同時に、己の人生を噛みしめた。「――そうか。 百年と五〇年が過ぎたか。 私も老いたな」
思えば長い人生であったのに、あっと言う間に駆け抜けた気がする。
老いたとは思っていたが、そこまでとは。
「サマエル様……」バシレイオスも、万感の思いであった。
サマエルは人払いして、それから言った。
「バシレイオス、一つ頼みたい事がある」
「何でしょうか?」
「私はこれからもう一度イスラエルに向かう。 もしも生きて帰って来なかったならば、歴史書にこう書いてくれぬか、『戦って死んだ』と」
「!」バシレイオスは眼を見開いた。
「私はローマの守護神だ。 しかしそれ以前からいつも戦場を駆け抜けてきた。 いつも戦場で活躍した。 なのに、戦場でない場所で死ねるものか」
「……サマエル様」バシレイオスはぶるぶると震えていた。「サマエル様!」
「安心しろ、私はお前に偽の歴史を記させはせぬ。 頼んだぞ」
「……」バシレイオスはしっかりと頷いた。床に水滴がいくつか落ちた。
太陽は朝焼けの中を昇る。そして、夕暮れに必ず沈む。
彼らはその事を、知っていた。
イスラエルに彼らが到着したと同時に、イスラエルの大勢の民が決起して反乱を起こした。
軍隊にそれを鎮圧に行かせ、サマエルは単身そこへと向かった。そこから、強大な、とても強大なあの気配が立ち込めているのだ。
――そこでは、黒の幼女が、彼を待ち構えていた。
「きゃははははは!」と大天使サタナエルは歌っている。「悪いヤツらはみなごろしー、悪いヤツらはみなごろしー♪ お前もみんな、みなごろしー♪」
「音痴だな」サマエルはそう言ってのけた。「まるで調律し忘れた琴のようだ」
「……おまえ」とサタナエルは憎々しげに言った。「死んじゃえ!」
サタナエルの影から混沌があふれ出て、それは津波のようにサマエルを襲った。
「BIGBANG!」
だが、混沌の津波は空間ごと吹っ飛ばされる。そこをサマエルは空間跳躍して一気にサタナエルに近接した。サタナエルの顔が驚愕に歪んでいた。
「BIGBANG!」
サタナエルの全身がバラバラになって散った。だがサマエルはまだ警戒を解いていない。気配が、強大な気配がいまだに立ち込めているのである。
「おまえ」と、サタナエルの声がした。
「くうかん、か」
「くうかんを」
「あやつるのか」
「く、ちくしょう!」
「いくぞ!」
彼の周りを混沌の壁が囲んだ。
「くらえ!」
壁が崩れて、全方位から彼は混沌に襲われた。
だが、その時にはもう彼はそこにはいない。空間を歪ませて、脱出している。その後何度も混沌は彼を襲ったが、全てサマエルは撃破あるいは回避してしまった。
いたちごっこが何日も続いた。
「どうした大天使」サマエルは嘲笑った。高貴な者のみが嘲笑えるのだ。「本気を出せば私を即死させられるのでは無かったのか」
「ちくしょう」
「ちくしょう!」と混沌が叫ぶ。
「にん、しきを」
「
「空間の認識を……」
「…………………………」
「………………」
「…………」
「成功」
がらりと空気が変わった。サタナエルが幼女の姿を取ってサマエルの前に立った。
「凄いヤツだなー、さすがは大帝国ローマの守護神。 だが」幼女は無邪気に言う。「もうおれちゃまの勝ちだ」
「何故だ?」
「おれちゃまは認識したものを喰えるんだぞ。 おれちゃま、空間を、今、認識した。 きゃはははははは、今なら降伏すれば命だけは救ってやる、えっへん!」
「降伏? 馬鹿を言え」サマエルは呆れきった声で言った。「何のために私が時を稼いだと思っている」
「!?」サタナエルがはっとした。びくりと体を震わせて、「さんだるふぉん、それ、ほんとーか!? 解放軍、全部、鎮圧されたって……?」
『サマエル様』アスモデウスの声がサマエルの影からした。『イスラエルの反乱分子の鎮圧並びに首謀者の処刑が完了しました。 ローマは、勝ちました……!』
「アスモデウス、伝令の礼を言う」サマエルはにやりと笑った。「大天使サタナエル。 私はお前に勝った! ローマは勝った! ローマの未来に幸いあれ!」
「畜生!」混沌の海がサマエルを襲った。サマエルは空間を爆裂させたが、何と空間を食して、混沌は彼を襲った。だが彼はもう逃げなかった。逃げる必要など無かった。何故なら彼は勝ったのだ。彼の盲目にはもうはっきりと見えていた。
ローマへ華々しく凱旋を飾る軍の隊列が、何よりも鮮やかに。
そして彼亡き後も彼が未来を託した者達により、ローマは更なる繁栄へと導かれるのだ!
「は、はははははははははははは!」
心底嬉しそうな、大きな笑い声を上げて――目覚めるような鮮烈な赤は混沌の黒に瞬く間に飲み込まれた。
飲み込んだ後、沈黙の中でサタナエルが姿を現して、言った。
「分かった、さんだるふぉん。 神様がそうおっしゃるなら、おれちゃまも撤収する……」
混沌の海が消えた。
「しかしコイツ、何てヤツだ。 何て男だ。 このおれちゃまに勝つなんて。 コイツは、己の老いぼれて死ぬ運命にすら勝った……。 コイツは、史上最強の魔神だった……」
サタナエルは黒い翼を羽ばたかせて、天上へと飛んで行った……。
バシレイオスは、あと数日で発刊される世界歴史大典の文章に、誤記が無いか、偏った文章が無いか、確かめている。夜更けで、ランプがちりちりと燃えていた。
『夜分に失礼する』背後で声がいきなりして、バシレイオスは驚いた。
振り返れば、あのアスモデウスがいて――。
「ゆ、幽霊、幽霊が実在した!?」
『幽霊ではない、悪魔だ』アスモデウスは口をぱくぱくさせているバシレイオスに言った。『それよりも、どうしても告げたい事がある』
「何、でしょうか……?」
『サマエル様の死に際だ』
「!」バシレイオスはかっと目を見開いたが、やがて、ゆっくりと閉じた。「……どのような死に際であらせられた?」
『勝った。 勝って、ローマの未来を祝福し、そして――』
死んだ。
「……。 伝えて下さった事、御礼申し上げる」
『誰かに伝えずにはいられなかった』アスモデウスは思い出しつつ言った。『あの見事な死に際は……まさに最強に相応しい死に際であった』
「……」バシレイオスは、涙をこらえて頷いた。彼はサマエルから受け継いだものを、きちんと受け止めた。
バシレイオスは書いた。世界歴史大典の最後の一行を、書いた。
『そして彼は戦場で戦って死んだ。 ローマの未来を、残した者に託して』
世界歴史大典が発刊されたその日、バシレイオスは彼の高弟達に言った。
「私は、故郷へ帰ろうと思う」
「せ、先生!?」
驚く彼らに、バシレイオスは言う。
「ここで私のするべき事は終わった。 後はお前達が引き継ぎなさい。 私は」バシレイオスは穏やかに笑った。「一つの梯子だ。 より高みを目指すための一つの梯子だ。 お前達はそれを昇った。 次はお前達がそれになりなさい」
――バシレイオスは『帝国』に帰還した。帝国の誰もが驚いた。もう、とうの昔に出奔して野垂れ死んでしまっただろうと思っていた彼が、世界歴史大典を土産に帰ってきたのだから。彼は、帝国の支配者、女帝に謁見を許された。彼は見てきた事、やってきた事を話した。居並ぶ貴族がその真新しい情報に目を丸くする中、バシレイオスはとうとうと語った。
女帝は彼の過去の罪を許し、帝都の図書館の長に彼を任命した。世界歴史大典はそこに収められたが、多くの貴族が写本をこいねがい、広まっていった。
バシレイオスは仕事の合間に、帝国の外に出てからと言うもの、ずっと書き溜めていた日記を元にして何冊も本を書いた。その中の一冊に『ローマ記』がある。それは、この言葉で締めくくられている――。
『彼は、史上最強の、護国の赤き魔神であった』
サマエル亡き後のローマは一時混乱状態に陥るが、荘厳な紫の衣をまとった為政者ネルヴァが見事にそれを治めた。ネルヴァは理想を現実にするために、地道で堅実な方法や手段を選んで、実行した。ネルヴァの後も、英明な為政者が相次いで、ローマは空前絶後の、『世界の全てがここにある』と呼ばれるほどの繁栄を見せる。
だが、時代が移ろうと共に、少しずつローマも衰退していった。同時に一神教の神が暗躍した。その下僕、大天使達はイスラエルのみではなく、世界中に一神教の教義を広めていった。一神教と多神教のどちらが勝つか。その争いは水面下でじわじわと広がっていき――最終的には一神教が勝った。もっとも、いきなり人は変われるものでは無い。多神教はゆっくりと廃れていって、一神教もゆっくりと広まっていった。サマエルほどの強力な魔神は、そうそう出るものでは無かったから、大天使達がいざと言う時には猛威を振るった。
……やがて魔族と人間の関係は逆転し、悪化した。魔族は過去の栄光を失い人間を殺して食べる化物として扱われるようになり、自由に思考する力を失った人間は唯一神に救いを求めてすがるようになっていった。厳然かつ壮麗であった神殿は破壊され、神像は打ち捨てられて、そして唯一神へ祈りを捧げる聖所へと変えられていった。
そして、古代と言う、命の生死が入り乱れる豊穣の時代は静かに終わりを迎える。
――サマエルが死んでからどれほどの時が経ったか。
ローマ支配下のイスラエルがベツレヘムで、星の降る夜に、一人の赤子が産まれた。その赤子は、後に『救世主』と呼ばれ、世界を根幹から揺るがす存在になっていくのだった。
END
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