第一章 ケイコが消えた

        

 犬飼ケイコが消えた。

 塾長のアサヤは納得がいかなかった。


 どうしてもっとはやく連絡してくれないのだ。

 月曜日に家をでたきり水曜日になってももどらない。2日も外泊していることになる。電話をかけてきたのは、母親だった。おろおろしていた。犬飼ケイコ。東中学から通ってきている中学2年生の美少女だ。

 ふっくらとした顔立ち。

 しもぶくれの丸顔。

 今、流行りのポッチャリ。イヤシ系美少女。

 

 アサヤ塾でもすこぶる人気がある。

「アサヤ先生。ケイコになにかあったの。メイルうっても返事ないの」


 女生徒にきかれた。鹿沼にある七つの中学から成績優秀な生徒が集まってきている。むろん、勉強onlyという塾生だけではない。だれもこばばない。ケンカに明け暮れ、塾には余り顔をださない。二荒三津夫のような高校生もいる。番場もいる。塾生がイロイロなのは、塾長、アサヤの包容力の豊かさだろう。


「トラブルにまきこまれたらしい。あとは……なにもわからない」


 塾生たちには、そう返事する。

 易者にきてもらった。ケイコの母親がいう。どうして、いまごろ、この21世紀に、易者に頼るのだ。

 ハイ、警察へは届けました。でも、行方はまだ、わからない。親の不徳のいたすところ。あとは、だまって待つだけです。途中から電話をかわった父親がおろおろした声でいっていた。


「私立探偵を……探偵社にたのんでみたらどうですか」


 それしか手がないだろう。なんで、易者なんだよ。そのつぎは拝み屋かよ。すこしいらいらしてきたが、逆らはずに、静かに聞いてみた。


「パソコンのネットで調べたが……費用がいくらかかるかわからないもんで」


 易者からパソコンと話しが飛ぶ。費用が不明瞭なので、だから、探偵社には依頼しなかった……ということらしい。探偵社に頼むと、という主語を補ってきかなければ。意味不明。アンバランスな現代の家庭風景を垣間見た思いだった。容赦なく金をとられるのが怖いのだろう。


 かなり経済力のある農家で、土建業も兼業している。犬飼という、土地の名を氏としている旧家だ。県議をしている祖父が次期市長戦に立候補する。と評判だ。それでも都会の探偵社に依頼しない。


 金をバカスカ巻き上げられる恐怖が。娘を心配する親心を押さえた。あるいは、政治家としての祖父がスキャンダルをきらったのか。

 ドカっと音がした。隣家でガス爆発? 窓がまだ揺れている。かなり激しい。2階の妻のミチコの教室にアサヤは駆けあがった。

「いまのなんなのよ」

 黒板で解いていた二次方程式を背にミチコが青ざめた顔を夫に向けた。隣家はしんと夜空のもとで静まり返っている。

 直下型の地震だったのか。いちどきりの立て揺れだった。爆発音のようだった。爆風におそわれた感じだった。窓ガラスが割れそうだった。激しいゆれだった。それでこそ近隣のガス爆発と感じたのだ。

 教室の床が跳ね上がった。衝撃的な激しい縦揺れだった。それも、一瞬、ドカっとなにか爆発したように揺れた。教室のテレビをつけたがなんの報道もなかった。いつもは、ほとんどリアルタイムといってもいい。秒差でテレビの上画面にテロップで文字がでるに。

 おかしいではないか。地震があってすぐに臨時ニュースがはじまるのに。この辺だけの局地的な揺れだった。アサヤは妻の教室にいた。生徒たちを見ながら立ち尽くしていた。

 9時まであと10分は授業がある。生徒は地震のことなど気にしていない。 しかし、この縦揺れがこれからおこる変事の前兆だったのだ。



 法眼武は公衆トイレに入ろうとしていた。

 鹿沼警察署に隣接している。街角の公園の隅にある。トイレまであと数十歩だ。舗道の脇は土手。その下を黒川が流れていた。


 デカ部屋をでたときすませてくればよかった。

 縦揺れの地震があったのを機に仲間と別れてきた。尿意はふいにおき、すでにがまんできない。お茶を飲み過ぎていた。そうだ。部屋をでるときは、モヨオしていなかった。だから……すませてくればよかった。……というのは正しくない。


 なぜふいに……尿意をもよおしたのか。つまらないことを理屈っぽくしてしまう。些細なことでも、説明してから行動する。行動しながら意味を求める。バカげた癖だ。


 トイレの建物に入った。音楽がきこえる。人が入ってくる気配をセンサーでとらえる。すると音楽が鳴りだす。ということは、人がいるはずだ。「お猿のかごやだほいさっさ」というメロデーが鳴りつづけている。


 なんだ……この選曲は。今夜にかぎって、メロデーがおかしく感じた。猿が飛び出してくる。そんな錯覚にとらわれた。先客がいた。人影はない。では……。ながながと尿をした。武は背後に意識を集中した。背後のふたつある扉は開かない。


 おおきいほうの用をたしている気配はない。それどころか、人がはいっているようすもない。水を流す気配もない。だが、確かに誰かいる。

 そのまま立ち去れなかった。なにか、ある!!

 刑事のカンが武にも、身についてきたのか。奥の扉の下から水が流れてきた。配管が壊れて、水があふれている?


 水には色がついていた。赤い。赤錆色のドロっとした流れ。まるで生きているようだった。タイルのツナギ目の凹みを、赤いミミズがはうように、流れてきた。


 蛇行する線となって流れてきた。ぶるぶるふるえていた。生きたミミズだ。血だ。トイレの悪臭。アンモニア臭にまぎれていた血の匂いが濃密に漂ってきた。

 まちがいない。殺人課の刑事が嗅ぎつけた匂いだ。


 またかよ、こんな田舎街で。おおすぎるよ。扉のノッブに素手で手をかけるようなへまはしなかった。いつも持っている白の手袋をとっさにした。

 刑事が第一発見者かよ。さえねぇ、事件だ。

 だが、開いた扉の中には、予想を超えたモノがあった。便座に男が座っていた。喉元が三日月型に大きく裂かれている。


 血はそこから流れだしていた。切り裂かれた喉元から鮮血が噴き出していたのだ。下半身はむきだし。

 もっとも――トイレの便座にすわっている。それは異常なことではないかもしれな。ボッキしていた。これは、どうみても異常だ。

 男根が快楽の絶頂といったふくらみをみせている。天をついていた。さきっちょから白濁した液がふきだしている。しゃぶられていたのか。自分でシゴイテいたのか。猥褻すぎる。U15――には読ませることはできない。話すことも禁止されていることだ。


 武はそんなことを職業的に考えた。男には見覚えがあった。毛布マンだった。いつも毛布を頭からすっぽりとかぶっている。それで、毛布マンと呼ばれているホームレスだった。

 河川敷公園を生活の場としている男だった。見覚えはあったが、素顔をみるのは初めてだ。朝日橋の下の段ボールで作った家? に住んでいた。こんなおだやかな顔をしていたのか。Fデパートに出店している「金谷ホテル」のパンを恵んだことがあった。


「ムダなことはやめろ」

 係長に注意された。

「どうしてですか」

「一食くらい与えても、毛布マンの生活はかわらない」

 武は唇をかんだ。


 デカ部屋にいるはずの稲垣に。

 トイレの建物をとびだすと携帯をいれた。

「稲垣。人が殺されている。署のとなりの公衆トイレだ」


 ドカドカとした足音が署のほうから近寄ってくる。まだ、犯人がそのへんにいるかもしれない。携帯から稲垣の興奮した声がする。武も走りだしていた。


「あたりを、見てくれ。マルタはほかの奴らにまかせろ。まだヤッタ奴はこの辺にいる」                  


 稲垣が携帯で思いっきり叫んでいる。生の声もきこえてきた。Fデパートの非常階段をふりかえっていた。


「あれも、ヤッパ殺人事件だったのだ」


 それは確信となって、武をおそった。闇のなかに黒々と螺旋階段はとぐろをまきながら屋上にむかっていた。そこから東中学一年生の女子生徒が転落死(自殺としてかだずけられてしまったが)したのは3月ほど前だ。


 道路にもデパートの駐車場にも人影はなかった。犯人はどこに消えてしまったのだ。血のながれ具合からみて、兇行がおこなわれて間もないことがわかる。武はあせっていた。


 自分が犯行現場にいた。ほんの数分前まで、犯人があそこにいたのだ。それなのに、ながながと小便垂れていた。血が流れだしてくるまで――。気配は感じられなかった。ただ、漠とした勘で、あそこでぐずぐずしていたのだ。


 死体があるとは――。

 頸動脈から血をふいて死んでいった男がいた。

 犯人らしい人影が見当たらない。       

 武はあきらめて、現場にもどった。


「指紋が出たぞ。それも何人分も」

「公衆トイレだからな、犯人の特定はムリか」

「コミにまわれ。聞き込みにまわれ」


 自宅から駆けつけた部長の本田がわめいている。

 いわれるまでもない。武と稲垣は黒川ぞいの、桜やハナミズキが植えられた『ふれあいの道』にも駐車場にも人影がないのは確かめていた。


 河川敷公園に降りた。背後で、鑑識のフラッシュが光っていた。


「なんど嗅いでも血の匂いだけはなじめない。好きになれないな」

「血の匂いが好きになったら、バァンパイァだろうが」


 稲垣が武をなぐさめるように肩をたたいた。あの、たえがたい匂い。嗅ぎ慣れた、血の匂い。刑事課にまわされたとき。はじめて大量の血をみて。死体が発散する強烈な異臭を嗅いで。吐いてしまった。


 だが、武にはこれから起きることはわからなかった。


 稲垣が不用意にももらしたバァンパイァということばが。現実味をおびて武に重くのしかかってくるとは――。予期できなかった。それができたら、予期というより、超能力だろう。


 血の祝祭にかれらが招待されている。超能力があるわけではない。わかるわけがなかった。そんなことが、わかるはずがなかった。


 武が稲垣の肘をつついた。捜査の範囲をさらに広め、この向こうまで行こうという合い図だ。貝島橋の下をくぐる。公園の隅の藤棚のした。東屋でアベックが淫行のマッサイチュウだった。


 公園の常夜燈は明るすぎた。      

 全裸の女があわてもせず、下着を手に立ちあがった。


「なんだぁ。三津夫の妹じゃないか」

「スケベデカ。あまりみつめないでよ」


 女子中学生にしては熟れきった豊乳をおしげもなく、月光にさらしタカコが武をにらんでいる。夜風がそよいでいる。タカコに背をむけた。

 武の目の前で稲垣が男を尋問している。なにがスケベデカダ。ガキのくせに、発情しやがって。兄貴にコロサレルゾ。



「だれも、信じてくれないんスよ」


 三津夫が警察にきたのは、昨日だ。武も「アサヤ塾」の卒業生だ。三津夫は武にすがるようにいった。


「あたりまえだ。いそがしいんだ。そんなゲームの世界みたいなことがあるかよ。もう、いいかげんにしろ。鹿陵総番の名がすたるぞ」


 三津夫はなにをいわれても逆らわなかった。必死でその時の状況を武に説明した。三津夫と番場が御殿山公園についたときには。「妖狐」の一団の影も形もなかった。誰にも見えていなかったらしい。

「妖狐」のロゴ入りの特攻服。族の集団を目撃したものがいないのだ。

 あの時、新鹿沼駅にいた学生たちに聞いてまわった。なにも目撃情報はない。

 あまり奇怪な事件なので三津夫は武に報告に来たのだった。     


 ……一般の人間には見えないのか。ヤンキーはヤンキーどうし。おれたちにしか見えていなかったのか。そんなことはない。女子生徒だって、あんなに怯えていたではないか。あまり怖かったので、かえって忘れてしまったのか。

 忘れようとしているのか。思い出すのが怖いのか。みんなに聞いてまわった。

 だれもあの連中を見たというものがいない。三津夫の頭はヒートしてした。それで――武のところに相談にきたのだ。見えていても怖くてなにもいえない――ということもある。

 駅員からもなにも訊きだすことはできなかった。

「それより、三津夫、タカコ、なんかかわったことないか」

「なんスか、センパイ。うちのタカコがなにかやらかしたんですか」

「いやそういうことじゃない。きゅうにエロッポクなったとおもってな」

「ああ、あいつ、センパイのこと好きですから」

「よせ。デカとスケ番では、さまになららない」

「それって、差別。さべつですよ……だけど、そういえば……」

「どうした? なにかかわったことあるか」

「タカコのやつ夜、出歩いている」

 武はガクッとなった。

「夜……ゲーセンにたむろしているから非行少女なんだろうが。夜の街を徘徊しなくなったらおかしい……からな。夜――出歩いてなんの不思議がある‼」

「男ができたみたいなんス。武さんにはわるいが、男がいるみたいんス」

「ダカラ、おれは関係ないの。おれに遠慮することないの」

「ホントスか。武さんのタカコ見る目、あれほれてる目とおれ見たんスよ」

「ばかバカ馬鹿。刑事をからかうと、逮捕しちゃうぞ」


 そんな会話を三津夫としたのは、つい昨日のことだ。だからこそ、タカコの淫行が武には納得できた。やはりタカコには三津夫が心配していたように男がいた。それも、夜の公園で体を許すほどの仲だ。


「しらない男よ。ここ歩いていて声かけられたの。2万だすからって、ネダられたのよ。しかたないじゃん」

「カネ出せば、だれとでもつきあうのか」

「そうだよ。武なら、ただで、あげちゃう」

「そうゆう、もんだいかよ」


 タカコは男をカバっているのだ。タカコと話していると、頭がおかしくなる、と武は思う。思いながらも、タカコの豊かな胸を眺め……なにか聞き出そう焦っていた。だが、武はタカコからは男に関する情報はなにもえられなかった。

 いまどきの中学生の考えていることはわからない。わかったところで彼女たちの行為を止めることはできない。


 これは教育の問題です。親と学校の先生に責任があります。親の自分の子どもにたいする教育がなってない。なにか問題がおきれば、すべて学校の責任にする。教師の監督不行き届きだとわめきちらす。モンスターマザがいる。すべてを行政側の責任にする。子どものことを理解していないのは。

 その両親だ――。

 タカコを尋問していて、武は一瞬、本田部長の口癖を思いうかべる。


「あつ、キサマ。逃がさんぞ!!」


 稲垣の怒号で武は現実にひきもどされた。男は不意に、三段跳びを逆転写したような動きをみせた。

 稲垣の尋問を拒んだ。

 なんの予備運動もなかった。正面をみたまま背後に跳んだのだ。あっけにとられた。不意をつかれてバカ面をしていたろう。


 武と稲垣。ふりの顔をみたまま男は不気味な哄笑をあげた。

 さらに跳び、そしてもう1回。3回の後ろ跳びで視界から消えてしまった。タカコのことなどほうっておけばよかった。稲垣と二人で消えた男の残像をもとめて河川敷を見渡した。


 太古から変わらぬ黒川の流れがあるだけだった。河原には枯れすすきが春の夜風にそよいでいた。すすきが芽吹くまでにはまだ時間がかかる。いますこし温かな風が吹きださなければだめだ。


 男の消えかたに、武は不自然なものを感じた。なにか、〈非現実〉的なことが……起きている……。要するに、リアルではない。


 三津夫から聞いた話だってオカシイ。

 採集した指紋からは犯罪に該当するような人物は浮かびあがらなかった。


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