第十五章 新たなる恐怖


 隼人はルノーをスタートさせた。背後で爆発音がした。

 仲間のバイクから離れて止めてあった高野のハーレーが火を吹いた。

 神父からもらったダイナマイトを夏子が投げつけたのだ。

 悲しみを断ち切るような行為だ。乱暴すぎるようだが。吸血鬼として死んだ高野を悼む夏子の優しいこころのあらわれでもあった。なにもかも灰する。高野の思い出がのこらないように。爆発は連続して起きる。バイクがつぎつぎと爆炎をあげる。燃え上がる。


 玲菜もケントとその仲間は動けない。動かない。高野の死を悼んでいる。これで、暴走族「バンパイア」は解散する。かわいそうだか、こうすることしか出来ないのだ。


「過激な展開ね」

「…………ですね」

 隼人の応えに夏子がほほ笑む。けっして笑っているわけではなかった。それは仲間との決別を覚悟している夏子の泣き笑いだった。悲しいほほ笑みだった。慰める言葉もなく、隼人は車の窓から外を見ていた。まだ暮れて間もないので、外灯のない田園地帯にでても周囲が見渡せる。ところどころに街灯もついている。いまごろは、神父は大谷の地底にもぐりこんでいるはずだ。彼が爆薬を使えば――どうなるだろう。


 鹿沼の皐道場までは10分とはかからない。夏子はただぼんやりと景色を見ているわけではない。むしろ、悲しみの底で、なにか一生懸命に考えている。それが、ハンドルを握る隼人にも伝わってきた。隼人には夏子の内なる声が聞こえてきた。

(なにかおかしいのよね。……いくらなんでも、おかしい。なにか見おとしているものがある。吸血鬼はもっと強い。なんども戦ってきたが、中途半端であきらめて引いてしまう。吸血鬼はもっと残酷なはずだ。それにRFまかせで鹿人の直属の吸血鬼がでてこない。鹿人はどこにいるの。なにをしているの。わたしたちをケンセイしているだけみたい)

「そうかもしれない。夏子の推理は正しいと思う」

 隼人は声に出して夏子に応える。


 おまえの背におれたちの目があると思え。鬼島に脅かされた。初めて襲われたのは……ホテル。リバサイドホテルの屋上だった。


 鬼島も田村も本気ではなかった。夏子は倒せなくても、ぼくのことなど簡単に倒せたはずだ。その あとすぐに、暴走族〈バンパイァ〉の高野との戦いがあった。

 夏子の家が襲われた。雨野を取りもどすために大谷の洞窟にのりこんだ。

 夜の一族が皐道場に報復した。


 そしてきょうの闘争。下っ端のRFまかせで、鹿人はででこなかった。なにか腑に落ちない。はじめから奇妙だ。


 だれも知らなかったはずの夏子の帰郷だ。


 どうして鬼島と田村が迎え撃つことがてきたのだ。

 どうして今日にかぎって、鹿人がいなかったのだ。

 夏子が隼人と会ったのは偶然だった。

 鬼島と田村がラミヤ、夏子と会ったのも偶然だった、のではないか。

 まったくの偶然が続いたのだ。


 鬼島と田村はホテルの屋上から停車場坂を下ってくる夏子と隼人をみて驚いた。

 かれらはホテルの屋上で望遠鏡でも覗いていたのだろう。実地検分?

 かれらの視野にふいに伝説のラミヤ、夏子が偶然入った。

 かれらは偶然とは思わなかった。思えなかった。


 屋上でかれらはなにをしていたのか? 

 隼人をめまいがおそった。

 夏子もぼう然としている。

 屋上で鬼島と田村に襲われた。

 あれいらい、ずっと吸血鬼との戦いに明け暮れた。

 絶えず彼らに見張られていた。

 隼人はいま気づいたことの重大さにブルッとした。

 不意に思いついたことの異常さに、頭がしびれた。

 大変なことが起きようとしている。

 やがて起きるかもしれない事が隼人を不安にした。

 不安と恐怖に怯えてふるえだしていた。



 デスロック「サタン」が来鹿するのは今夜だ!!


 故郷凱旋公演「サタン」という幟が立っている。

 そうだ。狙撃。テロだ。テロ攻撃。狙撃。

 ホテルからの狙撃だ。


 鬼島と田村はホテルの屋上から見ていたのだ。

「サタン」一行が通る停車場坂の実地検分をしていたのだ。

 その視野に夏子と隼人をとらえたのだ。

 スナイパーとしての鬼島と田村は場所と位置確認をしていた。

 あまりにもタイミングが悪すぎる。

 夏子の注意をほかに向ける。

 ただそれだけの目的で襲撃してきたのにちがいない。


「そうよ。わたしもそう確信する。いそぎましょう」


 夏子と隼人はじぶんたちの推理におののく。なんてことだ。鹿人のフエントにすっかりだまされていた。


 テロ。テロだ。鹿沼で奇想天外のテロが起きる。


 なぜ、そんなことを、するのかわからない、だから、テロだ。

 なぜ、鹿沼なのだ。

 なぜ、「サタン」のボーカル福沢秀人なのだ。

「サタン」を襲撃する計画……? がある。

 まちがいない、それ以外にかんがえられない。

 ほかに、なにがある。

 なぜだ。なぜそんな、おおそれたことをする。


「サタン」を襲撃すれば、世間の注目を浴びる。

 でも――そんなことで、この世の中はかわらない。

 でも――恐怖を、不安を世間に広めることができる。

 明確な理由はわからない。それがテロだ。世間をさわがせ、恐怖の底におとしこめばいいのだ。それがテロだ。


 理由はわからないが、鹿人が権力を手にするのに必要なのだろう。

 あるいは、単なる自己顕示欲からくる行動なのか。

 偉ぶりたいだけなのか。

 でも起きようとしているテロには、隼人も夏子も確信がもてた。


 天啓。神の声だ。隼人はそう感じた。


 あいつぐ、戦い。吸血鬼との戦いに幻惑されていた。

 敵の真の狙いが、ほかにあることに気づかなかった。

 理由はさておき、阻止しなければ。

「落ち込まないで。はじめから、目くらましにあっていたのよ。鹿人は作戦たてるのに長けているから」

 なんてバカげた、無謀なことを企てているのだ。

 それほど権力を手にしたいのか。

 なんて怖ろしいことを平然と実行に移そうとしているのだ。

 それほど権力を手中におさめ、人間を支配したいのか?

 いままでの、すべての攻撃はテロを察知されないためのフェイントだ。

 ほかに注意をそらすミスガイドだ。


 妖霧から街を守るために。

 妖霧を防ぐため――妖霧の元を断つために高村神父がダイナマイトの入ったリックを背負って洞窟に潜入した。暗い坑道で先をいそいでいる。

 たったひとりで。果敢にも突き進んでいる。

 そうしたイメージが隼人の脳裏に浮かぶ。

 神父さん申し訳ない。夏子もおれもご一緒したかった。

 行きたかった。ごめんなさい。

 高村神父は暗い坑道にひとり消えていった。

 無事に帰ってきてください。

 宇都宮のひとびとを吸血鬼のわざわいからガードするために。

 宇都宮で遊びまくっている鹿沼の若者を助けるために。

 神父はよろこんで命を賭けた。

 もはや餃子を食べたくらいでは、吸血鬼の牙を避けることは出来ない。

 神父はこの教区の守護神。ガードナーだ。

 この町を固守してみせる。

 この町の平和を死守する。

 という決意をひめた神父のイメージが隼人の内部にある。

 ぼくと夏子も鹿沼を守る。



「まにあうかしら」

 夏子の思いは鹿沼の街にとんでいる。

「もっと飛ばして」

「サタン」のボーカル福沢秀人の故郷が鹿沼なのだ。あとのメンバーは関西出身ときいている。

 東北巡業の門出を故郷鹿沼でやる。訪れるのは今夜だ。

 鹿沼駅前の大通りを通過する予定時間までいくらもない。


 残された時間はわずかだ。


 群衆を避けるためにこんな遅い時間帯を選んだのだ。

 隼人はルノーのスピードがものたりない。

 鹿沼までの距離が遠く感じる。

 わずか10数分の時間が長すぎる。

 長すぎる!!

「わたしたちの推理はまちがっていない」

 なにか話していないと不安だ。テロを阻止できなかったら!

「わたしが鹿沼にもどることは雨野しかしらなかった」

 ふたりともさきほどから同じことを話している。

「それなのに、ホテルでおそわれた」

「望遠鏡で見張っていた視野に夏子が入った。ヤツラ驚いたろうな」

「駅から府中橋までは直線道路だ。狙いやすい」

 ふたりは脳波を交わしていたことを口にする。

 なんども話し合うことで確信はますます深まった。


「サタン襲撃には絶好のポイントだ」

「ビンゴ」


 夏子が直接頭に話しかげず声にだす。

 ふたりともなにか落ち着かない。

 声に出している会話がすごく不穏なものだとはわかっている。

 でもにわかに信じられないでいる。

 鹿沼の市街に入った。

 路肩のガードレールに幟が等間隔を置いて立っている。


 夜風にはためく幟の文字は『大歓迎福沢秀人』。


 夜風に大歓迎の幟がはためいている。

 人気絶頂のサタンだ。

 ファストアルバム「制覇」はもじどうり他をおさえて連続17週、売上トップだ。ここは、その秀人の育った町だ。秀人はおれの友だちだ。

 沿道には夜になっているのに、歓迎の人が群れている。


「夏子さん。この事件が解決したらぼくと結婚してください」

 ウッと夏子が息をのむのがわかった。

「バカね。わたしが何歳だと思っているのよ」

 夏子が沈黙した。夏子の声がまた直接頭にひびいてきた。


(わたしと隼人の愛が、わたしたちが愛し合うことが、故郷鹿沼のためになるなら、結婚してもいいわ。わたしたちが結婚することが、わたしたちを育んできた鹿沼の自然のためになるなら……。隼人あなたを好きよ。背中にあなたの気配を感じたときから、こうなる予感があった。わたしたちの愛は、わたしたちだけのものではない。ふたりのものではない。吸血鬼と人間が結ばれるのよ。その愛はだんじてふたりだけのものではない。周りのひとたちとの共生の中にあるのよ。そのことをわかってもらいたいの。わたしって古い女なのよ)


 西中学の荒川、加藤、福田が道場で歌ってくれた『千年恋歌』が隼人の心にひびいていた。


 やがて燃え尽きていい

 あなたに会えるなら


 あなたと結婚できるなら、と隼人は声にならない声でかえ歌をうたった。



 隼人は夏子を振り返りながらホテルの自動ドアを通過した。

 沿道の人出がうそみたいだ。ホテルのフロントは閑散としていた。

 あのとき、鬼島と田村は階下からエレベーターで昇ってきた。

 レストランは最上階にある。狙撃には屋上が適している。

 だから、屋上で夏子と隼人をおそったのだ。でも、なにか準備してある気配はなかった。

 フロントには女性がいた。

「客室で府中橋に面しているのは……」

 花火大会でもないのに、なにいってるのかしら。不審な顔からそれでも返事がもどってきた。


「四階の角部屋です」


 とげとげしい声だ。夏子を羨望の眼差しで見ている。その部屋に泊まりたいというと、ふさがっています、そっけない。フロントの上のテレビでは、サタンの一行が鹿沼インターを下りて、市街地に向かっていると報じている。一刻に猶予もない。


「その部屋のキーをだしなさい」

 と夏子が厳しい声でいった。ガードマンが血相変えて走ってきた。フロントが隠しボタンを押したのだ。

「これは、隼人さん」

 現役の警察官のころ皐道場に通ってきていた松本だった。


「そんなことが」


 松本が絶句した。さすがに、隼人が伝えた情報への反応は素早かった。

 キーをフロントの女の子から松本がひったくる。

 三人はエレベーターに乗り込む。

 ちらりと隼人はテレビをみた。サタンの車が、鹿沼駅前の道路を左折して、府中橋への直線道路を進んでいた。そのまま進めば、間もなく府中橋だ。橋を渡りきれば十字路。右折すれば川上澄生美術館。左折すれば福田屋デパート。

 その十字路の箇所だけ歓迎の人垣が途切れているはずだ。

 見晴らしが利く。

 そこをスナイパーは狙う。まちがいない。

 距離にして三〇メートル位だ。

 松本が鍵穴にキーをさしこんだ。開かない。


「あの娘、またキーをまちがえた」

 フロントにもどったのではタイムアップだ。



「夏子たちを見失っただと。それはどういうことなのだ」

 夏子にも隼人にも鹿人の声が頭に直にひびいてくる。松本には聞こえていない。

 三人は「ソレツ」と掛け声かけでドアに体当たりする。

「こういうことよ。鹿人」

 驚く鹿人に松本が警棒を叩きつけた。

 なんなくかわされてしまう。

 鹿人の吸血鬼移動は敏速だ。

 コマ落しの映画を見ているようだ。

 隼人は橋に面した窓からアサルトライフルがつきだしているのを見た。


 銃身は黒く塗られている。


 田村がスナイパーだ。ほんとうに田村なのか?

 隼人は皐手裏剣をなげた。

 照準をつけていた田村の腕に手裏剣がつきたった。

 ジュっと肉が溶けている。

 田村は絶叫する。

 床に崩れる。

 傷口の腕からは肉の溶ける臭いがする。

 煙がでている。

 それでも、また再生するかもしれい。

 もう一人いたRFがライフルに飛びつく。


「させるか」


 隼人は手裏剣を取り出そうとする。

 間に合わない。RFは標的に狙いを定める。


 銃口からフラッシュ。

 マズルフラッシュ。

 閃光が煌めく。


 隼人は銃声をきいた。

 夏子の耳に銃声がひびいた。

 松本は銃声に圧倒された。

 まにあわなかった。

 と、隼人、夏子、松本が同時に同じように感じた。


 外で急ブレーキの音。

 車のスキッド音がした。

 激突音。

 不吉な音が窓のそとで起きた。

 夏子が宙を飛んでRFにとび蹴りをかます。


「撃て、撃ちまくれ。秀人を撃て。サタンのやつら皆殺しだ」

 松本が鹿人に投げ飛ばされた。

 鹿人が絶叫している。

 窓から身をのりだして外を見ている。


 まだ、間に合う。


 まだ、秀人には銃弾はヒットしていない。

 ふっとんだRFにかわって田村が溶けていく腕で銃架ににじりよる。

 立ち上がる。

 田村に迫る夏子と隼人を鹿人が邪魔する。

 田村が銃身にしがみつく。

 銃床が動いている。

 微調整している。

 夏子も隼人も近寄れない。

 鹿人が妨害している。

 夏子の髪が伸びる。

 夏子の髪が田村の首を締める。


 バチッと青白い光り。


 スパークが田村の首回りで発光する。

 田村は蒼白となる。

 精気がぬけていく。

 倒れる。

 形が崩れ溶けていく。

 一瞬で灰となる。


 このとき部屋を揺るがす鈍い振動が伝わってきた。

 普通の人では感じないような揺れだった。

 大谷の方角だ。

 神父だ。

 神父がやったのだ。

 松本が鹿人に体ごとぶちあたる。

 よろける鹿人に夏子が叫ぶ。

「テロは許さない。たとえ、兄さんでも死んでもらいます」

 目の前で田村が溶解したのを見ている。

 始祖の直系の吸血鬼であっても……溶けるかもしれない。

 恐怖が叫び声となる。

「やめろ!! ラミア」

 夏子の髪が伸びる。

 青白く光りながら髪が伸びる。

「ヤメロ!!!」


 鹿人が消える。

 一匹の蝙蝠がそこにはいた。


 蝙蝠に変身した鹿人が窓から飛び出す。

 そとには逃げずに壁を這い上っている。



 なにかおかしい。テロには完全に失敗している。いまさらなにをあせっているのだ。街の騒音は高鳴っている。怒号も飛び交っている。でも秀人は無事だろう。


 路上の群衆はたいへんなことになっている。騒音の感じで夏子と隼人にはわかる。ぴんと伸びた夏子の髪はぎりぎりまで伸びた。

 鹿人の変形した蝙蝠は鉤爪をたてて壁を登りつづける。この期におよんで、まだ屋上へむかっている。


 なにかおかしい。


 ぴんとのびた髪は蝙蝠を捕えたままだ。夏子が窓際まで走り寄る。スパークが髪の先端まで煌めく。髪の毛がひかれる。もうこれ以上のびない。

限界だ。

 スパークを浴びて蝙蝠が一瞬、鹿人の人型にもどる。

 壁面から剥がされて鹿人は落ちる。

 ギャッという悲鳴が川面でする。

 鹿人は流れにおちた。

 夏子も隼人もこのとき鹿人の脳波を読んだ。

 吸血鬼は、流れる水に弱い。

 鹿人は恐怖のあまり秘めていたことを露呈させた。

 鹿人がどうなったか確かめている余裕はない。

 たいへんなことを鹿人の脳からリーデングした。

 ハッとした表情が夏子に浮かぶ。


「鹿人の心の声。聞いたよね」

 夏子が隼人に確かめる。

 夏子は動揺している。

 いま聞いた鹿人の内なる声が信じられない。

「隼人、屋上へ急ぎましょう」

「まだなにかあるのですか」

 松本が背後で必死に呼びかけている。応えていられない。


「屋上よ。屋上。隼人きて、急いで」


 夏子は鹿人のように窓から外に出る。まさか蝙蝠に変身する気ではないよな。と隼人はあわてて考える。警備員の松本がいる。

 夏子に声をかけるわけにはいかない。


 夏子の姿は窓の外に消えた。なにかが壁を伝わって屋上へ上っていく。

 隼人はエレベーターに駆けこむ。隼人は懸命に不吉な予感を抑え込む。

「まだ後があるからな。まだ勝負はきまっていない」

 鹿人の川へ転落まぎわの悪意にみちたメッセージ。

 夏子はあのステゼリフからなにかを察知した。

 それでこそ、窓から外に出た。

 それでこそ変身してでも屋上に急いだ。

 鹿人はなにか仕掛けている。


 まだなにかある。


 なにか鹿沼を衰退させるようなことを仕掛けている。

 それは隼人の直感だ。

 不安になった。なにを企んでいるのだ。

 それがわからないから不安に慄く。

 寂れてしまった鹿沼の街が、イメージとなって浮かぶ。

 そうなってほしくない。

 ぼくと夏子はこの街で結婚するのだ。

 街が滅びないためにも、戦う。

 ぼくらを育ててくれた街を守りぬく。


「ここよ。隼人。ここ」


 屋上に駆けつけた隼人に夏子が叫ぶ。

 屋上――はじめて夏子と隼人で鬼島や田村と戦った場所だ。

 夏子は給水塔の影にいた。

 屋上でも人目につきにくい所に、鶏小屋があった。

 金網の囲いの中で鶏が死んでいた。

 その奥は鉄の扉があった。

 扉の向こうは闇。

 闇の中からいままさに蝙蝠が夜の空に飛び立とうとしていた。

 扉の脇にはRFが倒れていた。ジュワっと溶けている。


「はやく、隼人。わたしが飛びこんだら扉を閉めるのよ」


 鹿人の悪意に満ちたステゼリフ。

 隼人は不吉な予感に戦慄する。


「外から鍵をかけて。鳥インフェルエンザの保菌蝙蝠がいる」


 夏子の声が直接隼人の頭にひびいてくる。

 予感は現実となった。


 最悪の形で。


 邪悪な形で。


「バイオテロじゃないか」


 隼人は扉の中の夏子に呼びかける。

 応えはない。

 夏子が蝙蝠に訴えかけている。

 説得しているようすが隼人の脳裏に浮かぶ。


「このまま夜の闇に飛び立つことは止めて。おねがい。そんなことをすれば、鹿沼だけではない。宇都宮も全滅する。人間にも感染する恐れがあるのよ。おねがい、この闇の中でおとなしくしていて」


 扉の内部では無数の蝙蝠のギイギイという鳴き声がしている。

 夏子が必死で蝙蝠を説得しているようすが、隼人の脳裏に伝わってくる。


「隼人、わたしが飛びだしたら、すぐに扉をまた閉めて。急いで」


 扉を閉鎖したときには、数匹の蝙蝠が夜空に飛び立ってしまった。


「隼人、逃げよう」


 ふたりは、ダッと走りだす。

 背後の扉の内部でくぐもった音がひびく。

 衝撃音。

 ふたりは、コンクリートの床にふせた。

「神父のダイナマイト使ったの」

 月明かりを受けて蝙蝠が不吉な飛翔をづけ、ふたりの視野からきえていった。

「しかたないわね」


「あの蝙蝠がニワトリに菌をうつしたらどうなる」


「もうまにあわない」


 鶏に発生した鳥インフェルエンザが人に感染したら?

 爆発音は意外と低かった。

 だれも気づかないようだ。

 この小屋の蝙蝠を全滅させたことで満足はできなかった。


「とんでもないことをしていたのね。母が不安を感じていたのはこのことだった」


 夏子は無念の形相で蝙蝠の飛び去った方角をにらんでいた。

 鹿人が襲撃に使った部屋にもどる。

 もう、手のほどこしようがない。

 どうなるか、運命にまかせるしかない。

 飛び去った蝙蝠しだいだ。

 ニワトリに菌を移したら、鹿沼が衰退する。

 そんなことが、起きませんように。

 そうなって、欲しくない。防ぐ手立てがあれば、戦う。

 じぶんたちの街は、じぶんたちで守る。

 ともかく、わたしたちを育んでくれた街だ。

 守る。守る。守る。



「ああ、もどってきました。この人たちが狙撃を阻止してくれたのです」

と、松本がいった。

「隼人。隼人。じやないか。ありがとう。助かったよ」

 幼馴染の福沢秀人だつた。「サタン」のボーカルと隼人は熱い握手を交わした。


「どこへいってたのですか」と松本に訊かれた。

 とてもいままでのことを説明しても信じてもらえない。

 松本が困惑しているところへふたりが現れたのだ。


 吸血鬼がいるなんてことをだいの大人が信じてくれるだろうか。

 ことの経緯をどう説明したらいいのか。こんどは、隼人が困惑した。

 事件現場に初めから関与した。

 目撃もした。

 その松本でも信じられないのだ。


「いわぬが花」

 夏子が澄ました顔で他の人には聞き取れないようにいう。

 じかに脳裏にひびいてくる声だ。

 路上で車が上げる炎が窓を赤く染めている。

 黒煙がもうもうと部屋に充満する。

 警官が窓からつきでていた銃を撤収する。

 あわただしく窓をしめる。

「失礼。お手柄でしたね」

 部屋は警官でごったかえしている。

 煙の中で、松本の記憶が薄らいでいく。

 ぼんやりとかすんでいく。

 夏子がそうしむけているのだ。


 鹿人が狂った野望を抱いたからだ。

 吸血鬼の影響下にあって街が狂っていた。

 暴走族がのさばり、街が狂いだしていたのだ。

 こんな事件は在ってはいけないことだ。

 人気歌手を狙ったテロ。

 見たくもない。

 聞きたくもない。

 話題にするのも愚かしい。

 こんな事件は起きては、起きてはいけなかったのだ。未然にふせげたからいいようなものの、街全体が汚名をきるところだった。


 黒煙が夜空に立ち上っている。

 あの夜空に蝙蝠が飛んでいる。

 人はいつも危険と紙一重のところに住んでいる。

 隼人はそんなことを思っている。

 やっと救急車のサイレンが近寄ってくる。

 燃え上がる車の炎が赤い。

 警察車のランプが赤い。

 消防車の車体が赤い。

 救急車のランプが赤い。

 夏子が、シーっと唇に指をそえている。

 あまりしゃべるなと松本を見ている。


 あの目も、唇も赤かった。

 黒髪がするすると伸びてなにかを捕えていた。

 まるで、あの娘吸血鬼のようだった。

 この美しい娘が、吸血鬼であるはずがない。

 目が赤く光っていた。

 どうして娘の目が赤く見えたのだ。

 いまみれば唇はいまどきの娘にはめずらしく自然な色だ。

 それを、なぜ真紅と見誤ったのだ。

 松本は夏子の美しい顔をみつめている。娘の顔が揺らぐ。


「シィ……」

 と唇に指をあてて夏子がほほ笑んでいる。


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