第十章 隼人目覚める


「雨野を助けだしたのだから、そんなに落胆しないで」


 夏子は兄の鹿人との戦いに疲れていた。

 慈愛に満ちた顔で鹿未来が夏子をなぐさめる。

 

 ツタの生えた屋敷にもどってきた。イーゼルには夏子の肖像が架かっていた。部屋はすっかりアトリエだ。隼人も夏子も雨野も、三人とも傷も負わずにもどってこられたことを鹿未来が祝福する。夏子は美しく微笑んでいる。


「若い想い人がいて、夏子は幸せね」

「いまは恋人というのよ」

「あらそうなの。隼人さんは若いわね」

「あら、お母さま……いまは女性が年下の恋人をもつのがトレンディなのよ」

「年下といっても、いくつ年齢差があるのかしら」


 母と娘は顔を見合わせる。プッとふきだした。


「きれいに描いてあげてね。実物よりきれいにね」

「お母さま」

 夏子が母を睨むしぐさをする。

「隼人さんは、死可沼流の剣士だけではなかったのね。絵師でもあるのね」

「いまは画家っていうの」

「あら、語呂合わせをしたのよ」

 鹿未来がほほ笑んでいる。

「それは、わたしが選んだひとですもの」

 夏子も負けていない。絵師でもあるのねという褒め言葉に応える。母の言葉をゆるくうけいれている。鹿未来と雨野が部屋を出ていく。隼人さんと、ふたりだけにしてあげましょう。という心づかいからだ。


「隼人。ありがとう。ぶじに雨野を救いだせたわ」

 夏子が唇をよせてきた。

『吸血鬼の唇を吸うのってスリリングだと思っているのね』

『ぼくのこころをのぞかないでください』


 半分は声にだして、後はテレパシーで会話をかわしているふたりだった。

「ああ、隼人。わたしもあなたが好きよ。愛しているわ」

 夏子が隼人の唇をふさいだ。

 おれは夏子を抱き寄せる。

 夏子がしなやかにおれに身を任せる。

 はかなく消えてしまうような夏子を抱きしめている。

 この時間が永遠につづけばいい。

 夏子はやさしくおれの背を愛撫している。

 そっとおれは、そっと夏子の胸にふれる。

 夏子のミントの香りが漂う。

 唇がはなれる。

 ふたたび夏子をぎゅっと抱きしめた。

 もうそれだけで幸せだ。

 じっと夏子がおれを見つめている。


「わたしの隼人……」

「夏子。夏子、夏子」


 ふたりの間には見つめ合うだけで、ここちよい快感が芽生えていた。

 肉体的な性を超えたスピリチュアルな〈愛〉だった。

 肉体的な愛の交歓は、精神的な、霊的ともいわれる愛のための前奏曲だった。

 ふたりは両手を上げハイタッチの姿勢となった。

 暖かな精気が夏子から伝わってきた。


 

 目覚めるとスープのいい匂いがしていた。

「夏子さんたちは」

「おふたりは、霊壁を補修しています。いつまた、鹿人さまが襲ってくるかわかりませんから」


 窓を開ける。壁の赤茶けて枯れてしまったツタの葉を切りとっていた。あの葉がレーダーの役割を 果たしてくれた。鹿人たちの攻撃を知らせたくれたのだ。

 ヘンスにはアイスバークが咲いている。白雪姫、初恋のバラという二つの花言葉ののある四季咲きのつるバラ、アイスバークが美しく咲き乱れていた。

 ほかにも白いバラの花々が競い合って咲いていた。


『隼人。今日も、また描きつづけましょうね』


 夏子の思念がとどく。離れ過ぎているので声は聞こえない。それでも夏子の朝の笑顔は見える。白いバラの花のように清楚だ。若やいだしぐさで手をふっている。


「隼人。あなたが絵を描くために燃えあがれば、わたしのこころはやすらぐの。隼人からエネルギーをもらえるの。そして邪悪なものと戦う力が強くなるの」

 


 部屋には光が差し込み、色彩に満ちていた。

 ロココ調のアンティク家具や調度品の角や面が光を受けてすばらしい陰影をみせていた。

 柱の古時計の針がピンと動いた。時報を告げて鳴りだした。

 清澄な朝の気配の中で、隼人は傑作の描けそうな期待感に舞い上がっていた。

 イメージが形をとる。色彩が頭の中で渦をまいている。


「そうよ。そうよ。その意欲よ。いい絵を描こうとする気力が大切なのよ」

 食事が済む。キャンバスに向かう。吸血鬼の髪が横にたなびいている。

 ひとりの男を捕えている。あのムンクの絵の構図から抜けだせない。

 あの絵のイメージがおれにまとわりつく。

 おれは美術史を専攻していた。ムンクの絵は画集や展覧会でほとんど観ている。それがかえって禍となっている。ムンクの影響から抜けださなければだめだ。吸血鬼に捕えられる恐怖を描くのではない。美の女神に出会ったよろこびを表現したい。

 

 ムンクは美しいものがあたえる衝撃、戦慄を克服できなかった。

 力ずくで抑え込もうとした。そういう時代だったのかも知れない。ニーチェの哲学の影響もあったのだろう。

『人生を危険にさらせ』ニーチェのことばを絶えずこころに響かせてのムンクの画業だった。そして美のもたらす恐怖に耐えられず、やさしく狂っていった。

 叫びながら。

 恐怖に慄き、恐怖に耐えられず、恐怖の叫びを……あげながら。おれはそんなふうに観念的にムンクを理解していた。だがいまはちがってきた。

 美しいものとの出会いのよろこびこそ表現されるべきなのだ。むずかしい理屈はいらない。



 夏子と会った、浜辺の少女と会ったよろこびをキャンバスに定着させればいいのだ。隼人。おまえはじぶんの絵を描けばいいのだ。ムンクのモデルがいままさに目前にいる。だが、ここは21世紀の日本、北関東の極み、北端にある小さな田舎町、鹿沼なのだ。

 夏子の内部にあるムンクの狂気の画才をベースにした。隼人の色彩感覚と構図が楽しいほどきまって絵になっていく。

 美は克服するものではない。楽しむもの。よろこびを感じるもの。ともに共鳴しあって旋律を奏でるもの。夏子と出会ってからおれはそう思うようになった。

 

 観賞する側と製作者。双方で共鳴しあう。その美の振動をおたがいに感じ、さらに感動し合うものこそ芸術だ。小説だってそうだ。作者の感動を読者が読みとる。共鳴する。それが本を読む楽しみだ。恋も同じことだ。

 

 夏子。愛している。

 隼人。ムンクはわたしの実体を知った。

 恐怖の叫び声をあげた。

 叫びながら、吸血鬼を見た恐怖に慄き、絵筆をふるいながら発狂した。

 悲しかった。

 隼人、あなたは、はじめからわたしのことを受けいれてくれた。

 吸血鬼のわたしを怖がらなかった。

 それはふたりの血のなせる業かもしれない。キャンバスにすべる絵筆の筆触を楽しみながら隼人は思った。おれたちの血は混ざり合っていたのだ。

 わたしが戦うときは、目が赤くなる。恥ずかしいところを見せてしまったけれど、隼人あなたはたじろがなかった。

 

 うれしかった。好きよ、ハヤト。

 ぼくも夏子を愛している。

 ありのままのわたしをうけとめてくれる男に会えるとは思わなかった。

 美を追い求める、絵を描きつづける高揚感がふたりから漂い出ていた。


「ああ、傑作が描けそうだ」

 ああ、夏子。

 あなたは、なんて綺麗なのだ。

 美しすぎる。あなたの顔をぼくには表現できない。

『後ろ向きに描かないでよ』

 夏子が隼人にテレパシーで呼びかける。あまり熱烈に美しいといわれたので、テレテいるのだ。

 世の中には絶えず戦場がある。武器による戦いが後を絶たない。ぼくらも大谷の地下洞窟で戦ったばかりだ。


 だが、いまは剣を絵筆にかえている。


 美の神との美しいハーモニー。邪悪なものを遠ざけようとしている。醜悪なものを遠ざけようとしている。隼人は興奮してまた青年期特有の観念的な思考の世界にのめりこむ。

 美しいものは善なるものを高めるのかもしれない。

 美しいものを愛でるこころは、悪いことを考える心を清める。



「きょうは、ここまでね。くるわ」

 ふいに夏子がいった。隼人にも感じられた。夏子といるので感覚が敏感になった。感性が増幅されている。いままで感じられなかったことが感じられるようになった。ざわざわと背筋を虫がはっているようだ。危険が迫っている。ドアが開かれた。鹿未来と雨野が飛びこんできた。


「くるわね」

 母と娘が並ぶ。遥か時空を越えて母と娘がともに生きている。

 鹿未来は抗加齢協会の名誉会長になれるほど若く見える。マイナス5歳肌どころの騒ぎではない。化粧品のキャンペーンガールもマッサオのピチピチ肌だ。

 ふたりとも若さに輝いている。鹿未来が夏子の後を追い窓辺に立つ。


「まだやる気なのね。日が陰らないというのに。鹿人も焦っているのね。よもや、夏子がもどってくるとは、考えていなかったでしょうからね」

「おかしいわ。こちらに向かってこない」

「道場があぶない」

 壁に立て掛けてあった魔倒丸が音を立てている。鋼のこすれ合う音だ。鍔鳴りしている。鍔がカチカチ鳴っている。道場にのこされた稲葉鍛冶の細川唯継の鍛えた剣と共鳴しているのだ。

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