第九章 夜の一族とのバトル
1
道が分岐している。
曲がったとたんに衝撃波をたたきつけられた。
波のなかに恐怖のイメージがあった。山羊の角と髭。いままで戦った吸血鬼とは顔が違っていた。老いた吸血鬼だ。
でも絵を描く使命に目覚めたおれには怖いものはない。芸術の至高の領域をめざしているおれには怖いものはない。 長く伸びた犬歯。鋭い剣のような歯が喉にくいこんでくる。
怖くない。喉に噛みついてくる。
怖くない。血を吸われる。
怖くない。首をくいちぎられる。
鮮血の海。吸血鬼の巨大なアギトが迫る。
おれの首が噛み砕かれている。
怖くない。絵をかくよろこびが覚醒したおれにはもう怖いものはない。おれはいままでであったら、恐怖に襲われたイメージを。もろともせず、突き進んだ。
さらなる衝撃波がきた。隼人の存在そのものが、肉体が木端微塵となってふきとばされる。それで もさきに進む。
「お見事です。さすが姫が選んだかた。始祖の直系のかたのみ入ることを許された墓地の墓守りです。リリスともうします。どうぞお通りください。ラミヤ姫があちらにおいでです」
恐怖のイメージが霧散していた。
2
薄闇の奥から夏子の気配が漂ってくる。糸をたぐりよせるように夏子の思念をたよりに進む。念波を発信するということは、じぶんの位置を敵に知らせることにもなる。その危険をおかしてまで、夏子がおれに呼びかけている。
「そう、そのまま進んできて」
こころにひびいてくる夏子の言葉にしたがって、先をいそぐ。闇から白い手が伸びてきた。夏子だった。
「こわかったでしょう。よくここまでたどりつけたわね」
「リリスが教えてくれた」
「そうね。わたしたちのシンパもいるのよ」
夏子が唇をよせてきた。あたたかな唇の感触。しびれた。快感。ふたたび口の中にミントの香りがただよう。気力がわきあがる。夏子に手をひかれて進む。夏子にしたがって左折した。ひろい空間にでた。
「ラミヤ」
すすり泣くような細々とした声がする。
「お母さん。お母さんなの? 蘇生していたのね」
「ラミヤ。わたしの可愛い娘の匂いがいま、わたしを呼び醒ましたのよ」
広間には古びた棺が並んでいた。吸血鬼の地下墳墓だった。どこからともなく明かりがもれている。紫外線を含んだ光であるはずはなかった。太陽の光線ではない光。地下のヒカリゴケが発する光のようであった。
3
年代を感じさせる棺の蓋が半開きとなる。干からびたミイラのような細い腕がその縁にかかった。蜘蛛の巣と埃を払って起き上がろうとしている。
「隼人。一滴でいいの、母の唇に……」
顔はシロウのようだ。だが、ぼくには恐怖はない。愛する夏子の母だ。わが家の遠いご先祖様だ。夏子に会ったときのように、なつかしさがある。
ぼくは唇を噛みその顔に唾液まじりの血をそそぐ。夏子と相似形の顔が瞬時にしてよみがえる。ぼくはすばやく指先に剣の刃をあてた。
「これは出血サービスです」
血が唇にたらたらと垂れた。みるまに顔に赤みがさす。精気に満ちてくる。
輝いている。肌がつやつやとして、潤いがある。
若い。夏子の姉のようだ。皐家の遠い祖母がそこにはいた。
「ラミヤの母。鹿未来、カミイラです」
ぼくはまだ見ぬ母に会ったような気分だった。
4
「もういちど、お見事といわせてください。こうした再誕ははじめてみさせていただきました。大谷の地下にこないように。警告の使いをだしましたが、無用のことだったようです」
リリスが実体化した。
「おねがい。リリス。雨野をたすけだして」
「承知しました。でも、あまり事をあらだてないですむといいですね」
「わたしは、雨野さえ返してもらえれば、それでいいの。わたしのことを一世紀も待っていてくれた雨野が……。とらわれたままではかわいそうで、しかたないの。雨野を返してもらえれば、すぐに退散するわ」
鹿未来、夏子、と、おれはリリスと共に墓地をでる。しばらく行くと広間にでた。大理石を敷きつめた絢爛豪華な広間にでた。いままでの、薄暗い空間はすべて偽装だったのか。ここは、夜の一族の地下宮殿の広間だ。
拍手がした。
「始祖。おひさしぶりです。約定を守らず帰還して、ごめんなさい」
「ラミヤ。鹿沼から嫁いできたお前の母が生きかえった。未来には生きかえるという伝説がいま現実のものとなった。鹿未来の再誕だ。それも人の血をやっと吸ってくれての復活だ。うれしいではないか」
「雨野はどこにいるのかしら。かえしてくださるわね」
「それは鹿人に聞け」
始祖。夏子の祖父は、むかしのような威厳がない。
老いた始祖を夏子は不安げに見あげた。
「お兄さまはなにを企んでいるのですか」
「世界制覇らしいな」
「鹿人はアナクロよ。わたしはこの百年ヨーロッパをさまよい歩いてきたわ。大きな戦争を二つも経験した。数えきれないほどの死者をみた。おおくの若者が死んでいくのを見てきた。ヨーロッパの夜の一族との戦いも経験してきたわ。でも、わたしは。こちらから戦いを挑んだことはない。ひとを襲ったこともない。血を吸うことはあいかわらずできない。芸術家の精気だけを吸って生きてきた。世の移り変わりを見てきた。おじいちゃん、おねがい鹿人を止めて。わたしたちはこのままでいいじゃないの。いやだったら、わたしみたいに。ひとの血を吸わなくても生きていけるようになるべきよ。ひととの共生をはかるべきよ。それが時代になじむことと、わたしは学んできたわ」
5
「ばかな」
始祖は威厳にみちた態度でいった。
「おねがい」
「ばかな。そんな考えはうけいれられない」
「偉大なる始祖。おじいちゃん。夏子の考えはわかったでしょう。あきらめるのだ、夏子。白っ子らしい平和主義、反吸血鬼的な態度はすてるのだな」
鹿人が始祖の隣に出現した。憎しみのため目が真っ赤に充血している。
始祖と夏子の対面をうかがっていのだ。
「おじいちゃん。おねがい」
「だめだ。あきらめるんだ」
「おじいちゃん。わたしたちは。争わなくても、生きていけるように。進化していくべきなのよ」
「おれたちは昼でも活動できるように進化してきた」
「ひとと、共に生きていけるようになるまで、あと一息よ。おねがい」
「おとうさん。わたしからも……おねがいします」
よみがえった夏子の母。おれの遥かなる祖母も口添えする。
「おやじを殺した女は黙ってろ」
憎しみをこめて鹿人がいう。
「鹿人。わたしは殺したくてあのひとを手にかけたわけではない」
「鹿未来。弁解は無用。いくたび繰りかえしてきた議論だ。またむしかえすことはない」
「それよりラミヤの処分だ。また遠隔に追放するか」
「もうたくさんよ。雨野を返してくれれば、おとなしく退散するわ。そして、もうここへはこない」
「ばかな」
鹿人がふいに夏子に襲いかかった。憎しみのため鉤爪がブルーに光っている。体も蛍光性ブルーの霧におおわれている。
夏子と鹿人の間におれは割ってはいる。霧からブルーの色彩が薄れていく。
「そ、それは……」
夏子をかばう。
剣を抜く。地摺りに構える。
必殺のかまえだ。
6
間合いにはいりこんだものは、したから掬いあげるように切る。
返す刀で、切りさげる。
切り口が二重になる。
秘剣。稲妻二段切り。
鹿人が狼狽して飛び退く。
「そういうことかよ。鹿未来も永い眠りから目覚めた。再生した。隼人はわれらに逆らう。夜の一族を滅ぼそうとして送りこまれた鹿未来の実家。……死可沼流の家の者だったのか」
「それはちがいます。母にはわたしたちへの害意はないわ。わかってあげて、お兄さま」
夏子はfamilyが争うことを避けようとしている。悲しかった。つい声を荒げてしまった。 清らかな美貌が悲しみに曇った。
「わたしたちを生んでくれたここにいる母は、闇の一族のことはなにも知らずに嫁に来たのです。母は父を愛していました。ひと噛みされて、一族の花嫁となったときから、いまでも父を愛しています。母はわたしたちが、ひとと共存共生できる世界を夢みているの。その成果が、ひとの血を吸わずに生きながらえてきたわたしなのよ。わかってあげて。母は父をいまも、いいえ……永遠に愛しているのよ。愛しあう両親から生まれたわたしたちが、なぜ争わなければならないの。なぜ憎しみ合わなければいけないの」
鹿未来の目に涙が光った。
7
しかし鹿人の歯列が歪む。
夏子への憎しみ、おれへの敵意をむきだしにした。
鹿人の敵意は、強烈だった。母に似た美しい妹が子どものころから憎くかった。父を倒した母が疎ましかった。母への殺意があった。だが、母は剣道の達人だった。幼い鹿人に勝ちめはなかった。
父は強くなければいけなかった。父が一族の長として君臨していれば――。
鹿人の少年時代はもっと豊かで――。楽しかったはずだ。
鹿人はもっと強くなれたはずだ。鹿人の犬歯が、異様にせりだしてきた。
祖父の前で、一族のものが見守る中で、じぶんの強さを誇示したい。
犬歯が光る。白く伸びる。きらめいている。
下唇をこえて伸びたナイフのようにきらめく犬歯。
8
あれを楔のように首筋に打ちこまれたら。血をすすられたら、まちがいなくひととしては死ぬ。吸血鬼になってしまう。隼人はおののいた。首筋が現実に噛まれたように痛む。
痛みは鋭く深い。血が流れでているように感じる。吸血鬼の心理攻撃だ。戦わずしてすでにひとを屈服させる。
鹿人の双眸の真紅の光がさらに強くなる。隼人は目を細める。ほんとうは目をつぶったほうがいい。夏子への愛が鹿人の攻撃に耐える。害意にたいして心のブロックを固める。愛する夏子は、死を賭して守りぬく。
首筋への衝撃波がうすらぐ。鹿人の鉤づめがおそってくる。
かわす。正面蹴りがおれの顎にくる。
飛び退ってかわす。吸血鬼の乱杭歯と鉤づめ。
鹿人は肉体をメタモルフオウゼさせた。
もう完璧な吸血鬼だ。
完全な吸血鬼だ。
絶対恐怖の吸血鬼だ。
鹿人のきらめく爪が隼人の喉を突いてくる。避けながらおれの剣が鹿人の腕をしたからなぐ。金属音がひびく。チャリリリと鹿人の爪が隼人の剣で切断された。
それでも爪はおれの両眼に狙いをつけて飛びこんできた。
パチッと青白い火花が散る。夏子の髪が鹿人の爪をからめとった。夏子の髪におれの眼は救われた。夏子の瞳は緋色にかがやき、鹿人を照射している。
「やめんか。やめなさい」
「始祖。おじいちゃん」
甘える声で夏子が呼びかける。
「夏子おやめなさい。いまさら争ったところで古くからの抗争をくりかえすだけです」
『お母さま。それではなんのために危険を冒して……この地にもどってきたのか、夏子にはわかりません。鹿未来の直系のわたしにだけ傍受できる呼びかけに応じて……』
夏子が、母と娘の頭にひびく声なき声でささやく。ほかのものには聞こえない。
夏子とマインドが、精神回路がつながっている隼人には聞きとることができた。
聞こえている。内密にかわされている母娘、ふたりの会話がおれには聞こえている。
夏子の悲哀ともシンクロしている。
『よくもどってきてくれたわ』
という、鹿未来の思念もキャッチした。
夏子は故郷の〈鹿沼土〉が恋しい。
だけで、もどってきたのではなかった。
『なにか起きそうなの。わたしたち大夜=大谷の一族になにか起きそうなの。ラミヤもどってきて。帰って来て。永久追放なんて、気にしないで鹿沼にもどってきて』
一族の存亡にかかわるようなこと。とんでもないことが起きそうな予兆。だがそれが、どんな型で現れるのか。危険が迫っている。棺の中の鹿未来には予感があった。
大災害がおそってくる。
棺の中で、身うごきならない、鹿未来はラミヤに念波をとばした。
一族の命運をも……決めかねないことだ。
鹿人がこれからやろうとしていることは。
それがなんであるかはわからない。鹿未来は悲しいかな棺の中。夫殺しという罪状がなければ一族の女長の地位にいる鹿未来だ。罪状認否もなしに仮死状態におとされて棺の中。
それでも一族のことは心配だ。鹿人もラミヤも可愛い子どもたちだ。一族のことも気にかかる。嫁にきた女は、その婚家と運命を共にする。嫁として迎えられた女は、その夫の家のために死ぬ。
そう教育されていた。
そう信じて生きてきた。
干からびた仮死の体からラミヤにSOSを発信した。愛娘ラミヤはその吸血鬼通信に応えて、こうしてもどってきた。おれの血をすわせることで、鹿未来を蘇生させた。
「この場はひきましょう。お母さま」
「させるか」
鹿人と夏子の体が中空で交差した。青白い炎が飛び散った。
「姫!」
雨野の声がひびいた。
「ジイ。ブジダッタノネ」
拘束を断ち切って自由の身となったのか。リリスに助けられたのか。雨野は鹿人の背後にふいに立体化した。鹿人の腕の動きを封じた。
「レンフイルドが。従者が主人である吸血鬼に逆らうのか」
鹿人が苦鳴を上げた。夏子の黒髪で喉を締められている。
「鹿人も夏子もやめなさい」
鹿未来が母の威厳で静かにたしなめる。
始祖の黒く偉大な影は動かない。
吸血鬼の祖である影は微動だにしない。
それがひさしぶりで会った孫娘への愛か。
隼人は争いの渦の外にいる。正眼に魔倒丸をかまえたまま動かない。
夏子をおそおうとする鹿人の配下を押さえている。魔族は破邪の力を秘めた剣気に打たれている。それ以上近づけない。
シャシャという悪臭を吐きながら包囲網を絞ろうとしている。おれを威嚇する。おれには吸血鬼を切る意思はない。
ただ愛する夏子を守りたいだけだ。
夏子とその母、雨野の三人と無事ここから離脱したいだけだ。
なんとかして、この大谷の地下要塞から脱け出したい。
夏子を守りぬきたい。
死可沼流の剣士の誇りにかけても、夏子を守る。
吸血鬼とそのRFを切り殺すつもりはない。
こちらから切りこんで吸血鬼とRFを葬る気はない。
そんなことをすれば、争いに火をつけるようなものだ。
「鹿人。あなたは幼少のころから妹をいびってきた。どうしてなの? どうして夏子を憎むの」
「蘇ったからって、おれはあんたを母として、みとめないから」
「兄さん」
母を侮辱された。それも兄によって。だからこそ、許せない。ほおっておくと母にどんな危害を加えるかわからない。夏子はまさに怒髪天をつく形相となる。美しいだけに凄惨ですらある。黒髪が瞬時に、青白く輝度をます。
「前言撤回を要求します」
夏子の口から古いことばが飛びだす。
鹿人の首をさらに締める。
「なんだ。これは。力が抜けていく。ヤメロ」
鹿人が声を荒げて苦しむ。
9
広間に面した洞窟の入り口からコウモリが群れをなして噴出する。
おれの剣気にうたれて身動きできなかった。
魔族からもコウモリに変身するものがでた。
コウモリは猛烈な悪意の波動となる。
黒いうねりは一斉に夏子と隼人を襲う。
青いフレアをあげている。
鹿人を苦しめている。
夏子の髪にコウモリが噛みつく。
風車のように剣を振るう。
剣をきらめかせてコウモリを斬る。
夏子を襲うものは容赦しない。
「タタキ斬るぞ。コウモリのみじん切りにしてくれる」
隼人! おまえの強さを証明しろ。オマエノツヨサヲミセロ。コウモリを斬らなければ夏子が危ない。夏子を守るためなら……なんでもする。
コウモリなら、遠慮なく斬れる。
夏子を襲うものは斬り捨てる。
夏子に殺意をもつものは、斬る。
だがコウモリは群れをなして際限なく襲ってくる。
いくら斬りはらってもその数が減らない。
「姫様。鹿未来様も引いてください」
争いの渦から雨野が飛び退る。夏子の手をとって退却をうながす。追いすがるコウモリの群れに剣を振るう。
剣を稲妻のようにひらめかせる。
斬り上げ、斬り下げ、左右に払う。
隼人はシンガリを務める。
あとから追いすがるコウモリを斬り払い、退路を確かなものとする。
鹿未来。夏子。
雨野と隼人はただひたすら走る。
走る。光ある空間にむかって走る。
走れ。走るんだ。
たがいに励まし合って先を急ぐ。
「リリスは大丈夫かしら」
「始祖でも墓地にはみだりに入れないから心配ないでしょう」
やがてかすかに陽光が見えてきた。
光。
本来なら吸血鬼の苦手な紫外線の元へ飛びだした。
新鮮な空気。
草いきれが気持ちいい。
太陽が輝いていた。
眩い光の中までは、コウモリは追ってこなかった。
雷雨はすでに去っていた。
夏の終わりの北関東は、大谷の空はどこまでも青かった。
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