第九章 夜の一族とのバトル


 道が分岐している。

 曲がったとたんに衝撃波をたたきつけられた。

 波のなかに恐怖のイメージがあった。山羊の角と髭。いままで戦った吸血鬼とは顔が違っていた。老いた吸血鬼だ。

 

 でも絵を描く使命に目覚めたおれには怖いものはない。芸術の至高の領域をめざしているおれには怖いものはない。 長く伸びた犬歯。鋭い剣のような歯が喉にくいこんでくる。

 

 怖くない。喉に噛みついてくる。

 怖くない。血を吸われる。

 怖くない。首をくいちぎられる。

 鮮血の海。吸血鬼の巨大なアギトが迫る。

 おれの首が噛み砕かれている。

 怖くない。絵をかくよろこびが覚醒したおれにはもう怖いものはない。おれはいままでであったら、恐怖に襲われたイメージを。もろともせず、突き進んだ。

 さらなる衝撃波がきた。隼人の存在そのものが、肉体が木端微塵となってふきとばされる。それで もさきに進む。


「お見事です。さすが姫が選んだかた。始祖の直系のかたのみ入ることを許された墓地の墓守りです。リリスともうします。どうぞお通りください。ラミヤ姫があちらにおいでです」


 恐怖のイメージが霧散していた。



 薄闇の奥から夏子の気配が漂ってくる。糸をたぐりよせるように夏子の思念をたよりに進む。念波を発信するということは、じぶんの位置を敵に知らせることにもなる。その危険をおかしてまで、夏子がおれに呼びかけている。


「そう、そのまま進んできて」

 こころにひびいてくる夏子の言葉にしたがって、先をいそぐ。闇から白い手が伸びてきた。夏子だった。

「こわかったでしょう。よくここまでたどりつけたわね」

「リリスが教えてくれた」

「そうね。わたしたちのシンパもいるのよ」

 夏子が唇をよせてきた。あたたかな唇の感触。しびれた。快感。ふたたび口の中にミントの香りがただよう。気力がわきあがる。夏子に手をひかれて進む。夏子にしたがって左折した。ひろい空間にでた。


「ラミヤ」


 すすり泣くような細々とした声がする。


「お母さん。お母さんなの? 蘇生していたのね」

「ラミヤ。わたしの可愛い娘の匂いがいま、わたしを呼び醒ましたのよ」


 広間には古びた棺が並んでいた。吸血鬼の地下墳墓だった。どこからともなく明かりがもれている。紫外線を含んだ光であるはずはなかった。太陽の光線ではない光。地下のヒカリゴケが発する光のようであった。

 


 年代を感じさせる棺の蓋が半開きとなる。干からびたミイラのような細い腕がその縁にかかった。蜘蛛の巣と埃を払って起き上がろうとしている。


「隼人。一滴でいいの、母の唇に……」


 顔はシロウのようだ。だが、ぼくには恐怖はない。愛する夏子の母だ。わが家の遠いご先祖様だ。夏子に会ったときのように、なつかしさがある。

 ぼくは唇を噛みその顔に唾液まじりの血をそそぐ。夏子と相似形の顔が瞬時にしてよみがえる。ぼくはすばやく指先に剣の刃をあてた。


「これは出血サービスです」


 血が唇にたらたらと垂れた。みるまに顔に赤みがさす。精気に満ちてくる。

 輝いている。肌がつやつやとして、潤いがある。

 若い。夏子の姉のようだ。皐家の遠い祖母がそこにはいた。


「ラミヤの母。鹿未来、カミイラです」


 ぼくはまだ見ぬ母に会ったような気分だった。



「もういちど、お見事といわせてください。こうした再誕ははじめてみさせていただきました。大谷の地下にこないように。警告の使いをだしましたが、無用のことだったようです」


 リリスが実体化した。

「おねがい。リリス。雨野をたすけだして」

「承知しました。でも、あまり事をあらだてないですむといいですね」

「わたしは、雨野さえ返してもらえれば、それでいいの。わたしのことを一世紀も待っていてくれた雨野が……。とらわれたままではかわいそうで、しかたないの。雨野を返してもらえれば、すぐに退散するわ」


 鹿未来、夏子、と、おれはリリスと共に墓地をでる。しばらく行くと広間にでた。大理石を敷きつめた絢爛豪華な広間にでた。いままでの、薄暗い空間はすべて偽装だったのか。ここは、夜の一族の地下宮殿の広間だ。

 拍手がした。


「始祖。おひさしぶりです。約定を守らず帰還して、ごめんなさい」

「ラミヤ。鹿沼から嫁いできたお前の母が生きかえった。未来には生きかえるという伝説がいま現実のものとなった。鹿未来の再誕だ。それも人の血をやっと吸ってくれての復活だ。うれしいではないか」

「雨野はどこにいるのかしら。かえしてくださるわね」

「それは鹿人に聞け」


 始祖。夏子の祖父は、むかしのような威厳がない。

 老いた始祖を夏子は不安げに見あげた。


「お兄さまはなにを企んでいるのですか」

「世界制覇らしいな」

「鹿人はアナクロよ。わたしはこの百年ヨーロッパをさまよい歩いてきたわ。大きな戦争を二つも経験した。数えきれないほどの死者をみた。おおくの若者が死んでいくのを見てきた。ヨーロッパの夜の一族との戦いも経験してきたわ。でも、わたしは。こちらから戦いを挑んだことはない。ひとを襲ったこともない。血を吸うことはあいかわらずできない。芸術家の精気だけを吸って生きてきた。世の移り変わりを見てきた。おじいちゃん、おねがい鹿人を止めて。わたしたちはこのままでいいじゃないの。いやだったら、わたしみたいに。ひとの血を吸わなくても生きていけるようになるべきよ。ひととの共生をはかるべきよ。それが時代になじむことと、わたしは学んできたわ」



「ばかな」

 始祖は威厳にみちた態度でいった。

「おねがい」

「ばかな。そんな考えはうけいれられない」

「偉大なる始祖。おじいちゃん。夏子の考えはわかったでしょう。あきらめるのだ、夏子。白っ子らしい平和主義、反吸血鬼的な態度はすてるのだな」


 鹿人が始祖の隣に出現した。憎しみのため目が真っ赤に充血している。

 始祖と夏子の対面をうかがっていのだ。


「おじいちゃん。おねがい」

「だめだ。あきらめるんだ」

「おじいちゃん。わたしたちは。争わなくても、生きていけるように。進化していくべきなのよ」

「おれたちは昼でも活動できるように進化してきた」

「ひとと、共に生きていけるようになるまで、あと一息よ。おねがい」

「おとうさん。わたしからも……おねがいします」


 よみがえった夏子の母。おれの遥かなる祖母も口添えする。


「おやじを殺した女は黙ってろ」

 憎しみをこめて鹿人がいう。

「鹿人。わたしは殺したくてあのひとを手にかけたわけではない」

「鹿未来。弁解は無用。いくたび繰りかえしてきた議論だ。またむしかえすことはない」

「それよりラミヤの処分だ。また遠隔に追放するか」

「もうたくさんよ。雨野を返してくれれば、おとなしく退散するわ。そして、もうここへはこない」

「ばかな」

 鹿人がふいに夏子に襲いかかった。憎しみのため鉤爪がブルーに光っている。体も蛍光性ブルーの霧におおわれている。

 夏子と鹿人の間におれは割ってはいる。霧からブルーの色彩が薄れていく。

「そ、それは……」

 夏子をかばう。

 剣を抜く。地摺りに構える。

 必殺のかまえだ。



 間合いにはいりこんだものは、したから掬いあげるように切る。

 返す刀で、切りさげる。

 切り口が二重になる。

 秘剣。稲妻二段切り。

 鹿人が狼狽して飛び退く。


「そういうことかよ。鹿未来も永い眠りから目覚めた。再生した。隼人はわれらに逆らう。夜の一族を滅ぼそうとして送りこまれた鹿未来の実家。……死可沼流の家の者だったのか」

「それはちがいます。母にはわたしたちへの害意はないわ。わかってあげて、お兄さま」


 夏子はfamilyが争うことを避けようとしている。悲しかった。つい声を荒げてしまった。 清らかな美貌が悲しみに曇った。


「わたしたちを生んでくれたここにいる母は、闇の一族のことはなにも知らずに嫁に来たのです。母は父を愛していました。ひと噛みされて、一族の花嫁となったときから、いまでも父を愛しています。母はわたしたちが、ひとと共存共生できる世界を夢みているの。その成果が、ひとの血を吸わずに生きながらえてきたわたしなのよ。わかってあげて。母は父をいまも、いいえ……永遠に愛しているのよ。愛しあう両親から生まれたわたしたちが、なぜ争わなければならないの。なぜ憎しみ合わなければいけないの」


 鹿未来の目に涙が光った。

 


 しかし鹿人の歯列が歪む。

 夏子への憎しみ、おれへの敵意をむきだしにした。

 鹿人の敵意は、強烈だった。母に似た美しい妹が子どものころから憎くかった。父を倒した母が疎ましかった。母への殺意があった。だが、母は剣道の達人だった。幼い鹿人に勝ちめはなかった。

 父は強くなければいけなかった。父が一族の長として君臨していれば――。

 鹿人の少年時代はもっと豊かで――。楽しかったはずだ。

 鹿人はもっと強くなれたはずだ。鹿人の犬歯が、異様にせりだしてきた。

 祖父の前で、一族のものが見守る中で、じぶんの強さを誇示したい。

 犬歯が光る。白く伸びる。きらめいている。

 下唇をこえて伸びたナイフのようにきらめく犬歯。

 


 あれを楔のように首筋に打ちこまれたら。血をすすられたら、まちがいなくひととしては死ぬ。吸血鬼になってしまう。隼人はおののいた。首筋が現実に噛まれたように痛む。

 

 痛みは鋭く深い。血が流れでているように感じる。吸血鬼の心理攻撃だ。戦わずしてすでにひとを屈服させる。

 鹿人の双眸の真紅の光がさらに強くなる。隼人は目を細める。ほんとうは目をつぶったほうがいい。夏子への愛が鹿人の攻撃に耐える。害意にたいして心のブロックを固める。愛する夏子は、死を賭して守りぬく。

 

 首筋への衝撃波がうすらぐ。鹿人の鉤づめがおそってくる。

 かわす。正面蹴りがおれの顎にくる。

 飛び退ってかわす。吸血鬼の乱杭歯と鉤づめ。

 鹿人は肉体をメタモルフオウゼさせた。

 もう完璧な吸血鬼だ。

 完全な吸血鬼だ。

 絶対恐怖の吸血鬼だ。

 鹿人のきらめく爪が隼人の喉を突いてくる。避けながらおれの剣が鹿人の腕をしたからなぐ。金属音がひびく。チャリリリと鹿人の爪が隼人の剣で切断された。

 

 それでも爪はおれの両眼に狙いをつけて飛びこんできた。

 パチッと青白い火花が散る。夏子の髪が鹿人の爪をからめとった。夏子の髪におれの眼は救われた。夏子の瞳は緋色にかがやき、鹿人を照射している。


「やめんか。やめなさい」

「始祖。おじいちゃん」


 甘える声で夏子が呼びかける。

「夏子おやめなさい。いまさら争ったところで古くからの抗争をくりかえすだけです」

『お母さま。それではなんのために危険を冒して……この地にもどってきたのか、夏子にはわかりません。鹿未来の直系のわたしにだけ傍受できる呼びかけに応じて……』

 夏子が、母と娘の頭にひびく声なき声でささやく。ほかのものには聞こえない。

夏子とマインドが、精神回路がつながっている隼人には聞きとることができた。

 聞こえている。内密にかわされている母娘、ふたりの会話がおれには聞こえている。

 夏子の悲哀ともシンクロしている。

『よくもどってきてくれたわ』

 という、鹿未来の思念もキャッチした。

 

 夏子は故郷の〈鹿沼土〉が恋しい。


 だけで、もどってきたのではなかった。

『なにか起きそうなの。わたしたち大夜=大谷の一族になにか起きそうなの。ラミヤもどってきて。帰って来て。永久追放なんて、気にしないで鹿沼にもどってきて』

 一族の存亡にかかわるようなこと。とんでもないことが起きそうな予兆。だがそれが、どんな型で現れるのか。危険が迫っている。棺の中の鹿未来には予感があった。

 大災害がおそってくる。

 棺の中で、身うごきならない、鹿未来はラミヤに念波をとばした。

 一族の命運をも……決めかねないことだ。

 鹿人がこれからやろうとしていることは。

 それがなんであるかはわからない。鹿未来は悲しいかな棺の中。夫殺しという罪状がなければ一族の女長の地位にいる鹿未来だ。罪状認否もなしに仮死状態におとされて棺の中。

 それでも一族のことは心配だ。鹿人もラミヤも可愛い子どもたちだ。一族のことも気にかかる。嫁にきた女は、その婚家と運命を共にする。嫁として迎えられた女は、その夫の家のために死ぬ。

 そう教育されていた。

 そう信じて生きてきた。

 干からびた仮死の体からラミヤにSOSを発信した。愛娘ラミヤはその吸血鬼通信に応えて、こうしてもどってきた。おれの血をすわせることで、鹿未来を蘇生させた。


「この場はひきましょう。お母さま」

「させるか」


 鹿人と夏子の体が中空で交差した。青白い炎が飛び散った。


「姫!」


雨野の声がひびいた。


「ジイ。ブジダッタノネ」

 拘束を断ち切って自由の身となったのか。リリスに助けられたのか。雨野は鹿人の背後にふいに立体化した。鹿人の腕の動きを封じた。


「レンフイルドが。従者が主人である吸血鬼に逆らうのか」

 鹿人が苦鳴を上げた。夏子の黒髪で喉を締められている。

「鹿人も夏子もやめなさい」

 鹿未来が母の威厳で静かにたしなめる。

 始祖の黒く偉大な影は動かない。

 吸血鬼の祖である影は微動だにしない。

 それがひさしぶりで会った孫娘への愛か。

 隼人は争いの渦の外にいる。正眼に魔倒丸をかまえたまま動かない。

 夏子をおそおうとする鹿人の配下を押さえている。魔族は破邪の力を秘めた剣気に打たれている。それ以上近づけない。

 シャシャという悪臭を吐きながら包囲網を絞ろうとしている。おれを威嚇する。おれには吸血鬼を切る意思はない。

 ただ愛する夏子を守りたいだけだ。

 夏子とその母、雨野の三人と無事ここから離脱したいだけだ。

 なんとかして、この大谷の地下要塞から脱け出したい。

 夏子を守りぬきたい。

 死可沼流の剣士の誇りにかけても、夏子を守る。

 吸血鬼とそのRFを切り殺すつもりはない。

 こちらから切りこんで吸血鬼とRFを葬る気はない。

 そんなことをすれば、争いに火をつけるようなものだ。


「鹿人。あなたは幼少のころから妹をいびってきた。どうしてなの? どうして夏子を憎むの」

「蘇ったからって、おれはあんたを母として、みとめないから」

「兄さん」


 母を侮辱された。それも兄によって。だからこそ、許せない。ほおっておくと母にどんな危害を加えるかわからない。夏子はまさに怒髪天をつく形相となる。美しいだけに凄惨ですらある。黒髪が瞬時に、青白く輝度をます。


「前言撤回を要求します」


 夏子の口から古いことばが飛びだす。

 鹿人の首をさらに締める。


「なんだ。これは。力が抜けていく。ヤメロ」


 鹿人が声を荒げて苦しむ。



 広間に面した洞窟の入り口からコウモリが群れをなして噴出する。

 おれの剣気にうたれて身動きできなかった。

 魔族からもコウモリに変身するものがでた。

 コウモリは猛烈な悪意の波動となる。

 黒いうねりは一斉に夏子と隼人を襲う。

 青いフレアをあげている。

 鹿人を苦しめている。

 夏子の髪にコウモリが噛みつく。

 風車のように剣を振るう。

 剣をきらめかせてコウモリを斬る。

 夏子を襲うものは容赦しない。


「タタキ斬るぞ。コウモリのみじん切りにしてくれる」


 隼人! おまえの強さを証明しろ。オマエノツヨサヲミセロ。コウモリを斬らなければ夏子が危ない。夏子を守るためなら……なんでもする。

 コウモリなら、遠慮なく斬れる。

 夏子を襲うものは斬り捨てる。

 夏子に殺意をもつものは、斬る。

 だがコウモリは群れをなして際限なく襲ってくる。

 いくら斬りはらってもその数が減らない。


「姫様。鹿未来様も引いてください」


 争いの渦から雨野が飛び退る。夏子の手をとって退却をうながす。追いすがるコウモリの群れに剣を振るう。

 剣を稲妻のようにひらめかせる。

 斬り上げ、斬り下げ、左右に払う。

 隼人はシンガリを務める。

 あとから追いすがるコウモリを斬り払い、退路を確かなものとする。

 鹿未来。夏子。

 雨野と隼人はただひたすら走る。

 走る。光ある空間にむかって走る。

 走れ。走るんだ。

 たがいに励まし合って先を急ぐ。


「リリスは大丈夫かしら」

「始祖でも墓地にはみだりに入れないから心配ないでしょう」

 やがてかすかに陽光が見えてきた。

 光。

 本来なら吸血鬼の苦手な紫外線の元へ飛びだした。

 新鮮な空気。

 草いきれが気持ちいい。

 太陽が輝いていた。

 眩い光の中までは、コウモリは追ってこなかった。

 雷雨はすでに去っていた。

 夏の終わりの北関東は、大谷の空はどこまでも青かった。


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