第八章 吸血鬼の牙城
1
蝙蝠のダンマツマの鳴き声が岩肌にしみこんでいく。
「守衛が通したものを、どうして襲うのよ。こいつらみさかいなく襲ってくる。鹿人兄さんの配下ね。わたしたちを通さないように命令されているのよ」
「おれの気配が蝙蝠を呼び寄せているのだろう」
「気にすることないわ。先に進みましょう。どんなことがあっても死なないでね。隼人。好きよ」
夏子がポンとおれの肩をたたく。夏子はたちまち、闇のさらなる深み、奥にむかって走りこむ。
吸血蝙蝠の群れが、ふたりに追いすがる。長く黒い帯状になって追いすがってくる。急な斜面をおれは駆け降りる。冷気が吹きつけた。地上は晩夏。地下は冬。
夏子もまたおれを励ましながら、手刀を振るって戦っている。長く伸びた爪で蝙蝠を引き裂き前に進んでいく。その後ろ姿をおれは追っていたはずだった。
夏子の姿がない。地下道で迷ってしまった。微妙に歪んだ遠近法の地下道だった。地下の城塞、吸血鬼の牙城に人を寄せつけないための歪みなのだ。
蝙蝠のあまりに不気味な絶叫に。おれは天井に目をそらした。その間に、夏子が道を曲がつたのだ。それに気づかず直進していたのだ。道はいたるところで枝分かれしている。もどったところで迷ういっぽうだろう。
おれはただひたすら前進する。鋭い殺気だ。体が凍てつくような恐怖。吸血鬼の視線だ。殺気だ。それもかなりハイクラスの吸血鬼だ。吸血鬼がおれを視認している。おれはその吸血鬼を肌で感じている。蝙蝠の襲撃はあれほど激しかったのに。どうしたのだろう。
門衛が通過させたものだ。だから、襲うことをためらっているのか。息がつまるような緊張がぴんとはりつめている。
見えない。だが確実にそこにいる。吸血鬼は襲ってこない。体が冷えこむ。無数の針を射こまれたような恐怖。苦痛。じっとしていることに耐えられない。そっと進む。
2
耐えられないような恐怖を押しのけるように隼人はそっと前進する。
なんのための剣の修行だ。血を吐くような修行は、剣の技を磨くだけのものだったのか。こころの鍛練がたりなかったのか。反省しながら前に進む。
確かに、いままでの修行は人間を仮想敵としての修練だった。
ひととひととの戦いのための剣の技だ。地上での戦いに備えたものだ。
だが、いまおれが戦おうとしているのは、人間ではない。
おれが戦おうとしているのは、人外魔境に住む吸血鬼だ。
そしてここは地下深い。吸血鬼の、地下の城だ。敵地だ。
夜の一族の居城だ。光をきらう、闇のものの住む地下道なのだ。どうする隼人。ひるむな隼人。おれは、おれを、励ます。じぶんにエールを送る。おれはじぶんを励ます。鼓舞する。
……夏子に呼びかける。こころのなかで念波を送る。
「夏子、どこにいるのだ。どこだ。このおれの念波がとどいたら応答してくれ」
見栄をはっている場合ではない。すなおに助けをもとめながらさらに進む。それほど距離ははなれていないはずだ。
「夏子。夏子。夏子」
それは、恋しい夏子によびかける念波でもあった。
寒い。闇にたいする恐怖。
地下へ潜ることへの恐怖。
人が夜の闇にたいしてもつ根源的な恐怖。
闇の中にいるのだという、本能的な恐怖。
その暗闇で、地底の迷路で隼人はひとりになってしまった。勇気をふるいたたせて、先へ先へと進む。
夏子からの応えはもどってこない。
3
周囲に苔がむしている。ぬるぬるしている。そのぬるぬるとした手触り。気持ちが悪い。
天井からは水がしたたっている。ぽとんぽとん……。水滴の落ちる音があたりにひびく。
階段はつきた。急傾斜の道は平になっている。かなり地下深く下りた。足元は平坦になった。まるで舗道を歩いているようだ。おれは地下の古代都市に迷いこんだようだ。
落ちついてきた。いまはただひたすら前に進むしかないのだ。いつまた蝙蝠の大群におそわれるかもしれない。それを恐れてここにとどまっていては、この地下で倒れてしまう。
ああ、絵を描きたい。
この期におよんで創作意欲がフツフツとわいてくる。
いつか筆がぐいぐい運び、思うような絵が描けたらとねがってきた。
いまなら描ける。おれのこころにわだかまり、潜んでいた、絵画への――すばらしい作品を描きたいという欲求が夏子との愛の交感によって燃え上がった。
芸術家としての心情に火がついた。
画家としてのこころが開発されたのだった。
いまなら描きたい対象をとらえる技法がある。
思うように筆が進む。
こころを表現できる。
こんなところで、とどまってはいられないぞ。
こんなところで、恐怖におちこんではいられない。
このさきに愛する夏子がいる。
おれがいくのを待っている。
おれに絵を描くパワーをあたえてくれた夏子がこの先にいる。
おれを待っている。
おれに絵を描く意欲をわきたたせてくれた夏子がいる。
夏子。いまいくからな。
隼人、あんたは絵を描く才能なんかない。下手だ。どうして剣道やってるヤツが美術部なんかにいるんだ。剣道オタクの隼人がどうして絵を描くのよ。と川島信孝にこっぴどくいわれてきた。やめたら。才能のない隼人が美術部にいるとウザイんだよ。
「絵を描くのが好きだった。剣道をやっているぼくが絵を描くのではない。絵を描いていた少年がたまたま祖父の家に預けられた。その祖父が死可沼流の師範だった。絵の好きなぼくが剣道にものめりこむことになった」
なにをいってもむだだった。
作品はいつも酷評をもってむかえられた。悲しかった。
くやしかった。
ひととかかわりあいのない、静物ばかりを、そうした経緯があったので、モチーフとしてきた。
いっそ、美術部をやめようと悩んでいた。
4
ところが、いまはちがう。
夏子とのこころの交流でムンクの悩みを知った。ムンクの深い人間的な悩みにくらべたら。おれの 悩みなどなにほどのことがある。
ああ、夏子、ありがとう。人物を描くことができる。ひととつながりをもてる。おれの悩みをモデルにそそぎこむことができる。その悩みを絵にできる。ましてモデルはムンクのモデル。夏子。愛する夏子。大好きな夏子だ。その夏子がこの先にいる。はじめておれの絵の才能をみとめてくれた。ほめてくれた。やさしい夏子か待っている。夏子とのこころの交歓で芸術家としての精神に目覚めた。
こころが高揚した。そうしたこころで絵を描くことがどんなにやりがいのあることか、わかった。かってないほど生きるよろこびにふるえている。
恐怖が去った。
描いてみせる。
この秋の展覧会には出品する。
描いてやる。
描く。
描き切ってみせる。
モデルは夏子だ。
巨匠ムンクのモデルだった夏子だ。
いい絵が描けないはずがない。
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