第六章 死可沼流皐剣道場
1
夏子をかかえて武者門をくぐった。だれもみあたらなかった。皐道場の広い前庭には月の光がさえわたっていた。道場に明かりはついていた。叫んで聞こえる距離ではない。こんなときに、携帯があれば。広すぎる屋敷がうらめしかった。一刻もはやく、夏子を休ませたい。ここにつれてきたのは無謀な行為だったのではないか。あのまま夏子の部屋にいたほうがよかった。静かにベッドに寝せておいたほうがよかったのではないか。
心細かった。頼りになるのは祖父。祖父に夏子の容態を診てもらいたかった。庭も屋敷も、背後の雑木林も月明かりに照らされていた。道場は静寂な夜の中でひっそりと静まりかえっていた。
夏子をかかえてよろよろと歩いていた。夏子の顔から冷たい汗がしたたっていた。ロウがとけていくような汗だ。夏子の青白い頬から首筋にかけてながれていく。体温が感じられない。
「夏子さん。しつかりして。もうすこしだから」
「夏子でいいのよ」
弱々しい声がする。夏子。ラミヤ。吸血鬼としてのあなたはもっと強いはずです。もうすぐ道場です。がんばってください。励ましの声が喉元までこみあげた。でも、吸血鬼と呼ばれることを夏子はよろこばないだろう。いやがるはずだ。
「いますこしですから」
ありきたりの平凡な励ましの言葉しかかけられない。この夏子への想いをうまく伝えることができない。もどかしい。せつない。いまはそんなことを想っている場合かよ。
いままでこんな感情になったことはなかった。武者門の外に駐車場はある。車はそこに停めてきた。段差のきつい階段は夜露にぬれていた。つまづかないように注意してのぼった。玄関までここからは石畳の道がつづく。時間がかかり過ぎる。
「おんぶしてあげる」
「はずかしいわ」
「こんなに弱りきっている。そんなこといわないで」
強引に夏子を背負った。丸みのあるお尻に手をそえた。軽い。夏子が頬をよせてきた。夏子を背負って石畳を歩いた。氷のように冷たい。冷たい。夏子の冷や汗と涙だった。
池で鯉が跳ねる。気の乱れを感じとったのか。鯉が水をもりあげて、はげしく泳いでいる。波立つ水面に跳ねた鯉の鱗が月光にきらめく。
2
「おじいちゃん」
玄関を入る。必死で叫んだ。
磨きあげられて黒光りする道場の床。道着にしみこんだ汗と男の体臭。それがすごく頼もしく感じられた。やっと着いた。ほの暗い広がりの中に平穏ないつもの道場がある。それがすごく頼りになる。いつものわが家だ。
「だれかきて」
「これは……」
奥から走りでてきた祖父の幻無斎が絶句した。夏子は道場の床に横たえられた。夏子の顔からは血の気がうせている。息もたえだえだ。青ざめた顔でそれでも健気に挨拶をする。
「たすかったわ。……夏子ともうします。お世話になります」
「なにもいうな。わかっておる。そのままでは永すぎる眠りに落ちてしまう」
幻無斎の命令は奇異なものだった。
「倉庫にある袋詰めの鹿沼土をもってこい。ありったけここに敷きつめるのだ」
住みこみの門下生が走っていく。『サツキ』栽培のために備蓄してある鹿沼土を道場に運んでくる。ぼくも祖父の指図に従おうとした。
「隼人。そばにいて。おねがい」
夏子がぼくを見上げて哀願する。門下生がビニール袋をまず矩形に、寝床のおおきさにならべる。その中に鹿沼土を敷きつめる。急ごしらえの土で作った寝床ができあがった。
「よし。これでいい。ここに横になりなさい」
幻無斎がやさしい、いたわるような声でいう。隼人は夏子をだきあげる。そっと土の寝床に横たえる。
「ああ、なつかしい、鹿沼の土。故郷、鹿沼の、わたしを癒してくれる鹿沼の土。夜の一族は百年に一度は故郷の土をあびなければならないの。……だから隼人、その土に触れることができない永久追放は。生きながら死を受けいれることだったの……」
テレパシーで夏子がささやく。他の人から見れば、夏子はただ黙って鹿沼土の寝床に横になっている。淡い黄色のつぶつぶの土。顆粒状をした鹿沼土をなつかしそうに掬い頬ずりをしている。
鹿沼土は夏子の体の上にもかけられた。ドロ温泉につかっているようだ。鹿沼土が青白く発光した。この怪奇現象を前にしても。だれも声を出すものはいない。
3
青い光はオーロラーのように道場の高い天井いっぱいに広がる。
だれも冷静にそれをみている。さすがは剣の鍛練で精神も鍛えぬかれた面々だ。
初めて見る現象にもたじろがない。冷静にみつめている。
それでも西中学剣道部の荒川だけが。
小さな声で「わあ、きれいだな」――素直に感嘆した。土の粒子の一粒、ひとつぶが。夏子の消耗した体力を回復させるために輝いている。
夏子はみるみる精気にみちいくる。頬に血の気がさしてくる。鹿沼土はもともと無機質といわれるほどだ。なんの養分もない。それなのに、夏子は土から精気を吸いとっている。
まるで充電しているようだ。
夏子にとっては、故郷、鹿沼の土は、癒しの土。だからこそ、長い放浪の果てに故郷にもどってきたのだろう。
夏子の呼吸が正常になった。深く呼吸するたびに夏子の上から土がさらさらとながれおちた。胸のふくらみがふるえている。瞼に真珠の涙があふれた。夏子の手をぼくはしっかりと握った。
「ありがとう。やっと鹿沼にもどってこられたのね」
「グランパ。これは……」
夏子の急激な回復におどろいた。頬にほんのりと紅がさしてきた。夏子に生気がみなぎってきた。よろこびのあまりぼくは祖父のいやがる英語で呼びかけてしまった。めずらしく咎められなかった。
4
「隼人。おまえに、この魔倒丸を譲るときがきたようだ」
床の間の刀掛から反りのない直刀が取り上げられた。祖父が隼人に手渡す。
「それは! 魔剣」
恐怖の叫びだった。夏子がふるえている。
「そうだったの……。わたしは理想のパートナーに会ったわけね」
祖父が夏子を見ている。慈愛にみちた眼差しだ。
「遠い昔。一度は混ざり合った血。ご先祖さまにどうやら隼人、おまえは恋をしたらしいな。これも定めかもしれない。死可沼流の女が、昔この家から岩また岩の大谷に住む一族に嫁いだ。岩と砂ばかりの土地で作物ができるのだろうか。なにを食べて生きているのだろうか? と危ぶむものもいたらしいが。勇猛果敢な一族で。そこにほれ込んで親族のものも。その婚姻に同意したという。それが……子どもをふたり産んでから。……その一族がとんでもない魔族であると知った女は。この魔倒丸で夫を切り自害した。遺体はもどされず、この剣だけが送りかえされてきた。死可沼流奥儀、稲妻二段切りは二枚の刃で切ったような傷口になる。この剣は鹿沼の細川唯継の鍛えし業物。魔族も容易に再生できないということだ」
「わたしも聞いています。わたしは、そのかたを母として生まれたバンビーノ。一族のきらわれもの。来宮、ラミヤです」
5
道場がいつものように静かになった。ラミヤとぼくだけが道場にのこる。
鹿沼土の寝床にぼくも横になった。夏子がぼくの腕を枕として、顔を 寄せてくる。
悲しみと、寂しさの陰りが青白い顔にある。月の光が武者窓から射していた。夏子が直接こころにひびいてくる声で話しかけてくる。
「母の育った道場にいるなんて夢のようだわ。明日は大谷にいってみましょう。そこに、雨野はとらわれているの。それに……母が仮死の状態で生きているの。母は死んでいないの。会いたいな。もう、百年以上も会ってない。会いたいわ。母は、わたしたちの出会いをよろこんでくれるはずよ」
ぼくは夏子のえりあしに唇でふれた。夏子の透明なほど白い肌。そして、横顔をみて、声をまじかにきいているうちに、自制心がゆるんでしまった。夏子が欲しい。夏子とひとつになりたい。夏子と体をつなぎたい。そこで顔をよせていき、夏子の唇をすった。
「わたしたちの初夜になるのね」
夏子に拒まれていない。夏子も同意してくれている。うれしかった。そこで……さらに……まろやかな乳房に唇でふれた。葡萄のような乳首に唇をうつした。
「ああ、すてきよ。隼人」
夏子が隼人の唇に唇を重ねた。キスしていると隼人の頭は乳白色の霞がかかつたようになった。
「夏子のお母さんに会いたい。似ているの」
慾望がゆっくりとひいていく。けだるい心地よさのなかで、隼人がつぶやく。
「それはもう、そっくりだといわれていたわ」
夏子は遠くを見ている。
夏子にとっての過去とは、どれほどのものなのだろうか。
人間はかならず死をむかえる。ぼくが死んでも夏子は永遠に生きている。
夏子の遠い未来の記憶の中でぼくは生きつづけている。
6
「隼人にも一目でわかるわよ」
「たのしみだなぁ」
「隼人の腕、たくましいのね」
隼人はその腕で夏子を抱きしめた。夏子がさらに顔をよせてくる。ふたりの唇が、道場の鹿沼土の寝床で、触れあった。夏子があえぐ。
「夏子すきだ。愛している。愛している。ずっとむかしから。ぼくらは出会い。愛しあう運命にあったような気がする。むかしからの約束だったような気がする」
夏子はじっと目を閉じている。一筋の涙が頬をつたっている。
「ああ、鹿沼にもどってきよかった」
幸せそうな声なき声がぼくの心にしみてくる。
「鹿沼にもどってこられて、よかった。隼人に会えてよかった」
夏子がぼくの唇を吸う。甘い香りが夏子からたちのぼる。バラの庭園にいるようだ。
ふたりは抱きあつたまま、こころで話し合っている。
やがて、眠りがやってきた。
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