第四章 愛してるよ 夏子


「画材はすべてそろえてあるわ」


  再会の第一声。夏子の唇から洩れた言葉だった。

 夏子はぼくがすぐに絵をかける準備をしておいてくれた。東日本大学合同美術展の校内予選に落選して落ちこんでいるのを知られていた。ぼくを励ますために、夏子は本気で励まし、協力してくれている。涙がにじむ。はじめてぼくの画才がみとめられたようで、うれしい。


「おもうように筆をすすめるのよ。隼人の感性のときめきのままに……描いていけばいいのよ……」


 夏子がよりそってくる。フルーテイなイイ匂いがする。なんていう香水なのか。夏子の体臭なのかもしれない。キスしたいのをがまんする。夏子をモデルに絵を描きつづけた。夏子のところにかけより抱しめたい。


「この香水の匂いは……薔薇の匂いがしますね」


 なんてキザなセリフをいって、唇を重ねたい。あの芳しい彼女の唇を吸いたい。あのひんやりとした唇。あの芳しい唇。

 夏子。愛している。ずっとむかしから。夏子をモデルに。こうして絵を描いてきたような心地がする。この感情は、記憶はムンクのものなのか。


 夏子。愛している。ずっとむかしから。愛しあってきたような気がする。心が高揚していた。

 どうしていままで、人物を描かなかったのか不思議だった。

 なつかしい人に会えた。夏子を見ているとそう感じる。その感じ、その感傷、その抒情が絵になっていく。カーテンに濾(こ)されて斜めに差し込む光の微粒子がきらきらと彼女のまわりで踊っていた。



 これからはこの人だけを画きつづける。

 やっと絵筆をとることができた。絵を描くことはあきらめていた。実技はなかばあきらめていた。担任の川澄講師からはいつも、手ひどい批判を浴びていた。


「皐くんの絵には構成ミスや質感の欠除がある」


 そんな抽象的な印象で批判されて、迷うばかりだった。ぼくには画家になる才能はないのかもしれない。悩んだ末、西洋美術史を専攻していた。

 クラブ活動では油絵を描いている。ミレンがあった。

 それでも、絵を描くことは、たのしくはなかった。それが嘘みたいだ。夏子と向かいあって、彼女の肖像を描いていると。ふつふつと意欲がわきあがってくる。

 

 夏子は絵筆をふるうぼくを、愛おしそうに目を細めて眺めている。ありがとう、夏子。あなたに出会えてよかった。


 全国大学美術連盟の秋の展覧会に出品してみよう。

 チャレンジしてみるよ。


 夏子。この絵を校内選抜のない、あの連盟展にだしてみよう。直接展覧会場に作品をもちこんで、大勢の審査員の前に並べる。その場で採点され、入選が決まる。あの熱気にあふれた芸術の祭典に出してみよう。いいよね。夏子。どんな批評がきかれるか、ともかく出品してみるよ。

 ぼくは落選つづきだ。おなじ美術部に属する仲間の川島信孝は。大判の画集の並んだ書架に。美術展での受賞の証として。金色にきらめく賞牌や楯を飾っている。それをみせつけられて屈辱感に苛まれた。

 そのあげく、なかばあきらめた油絵だ。なかばすてた実技だ。やはり絵筆をとるのはたのしい。

 快楽だ。オイルの匂いもいい。絵筆がキャンパスをはしる筆触がここちよい。

 こころのおもむくまま筆がはしる。何年もこうして夏子を描きつづけてきたような、なつかしさがある。



「一瞬のこころのときめきは――永遠のときめきと……同じことなのよ」

 

 夏子がぼくのこころの動きにシンクロしてつぶやく。芸術家だけがあじわえる至福の時だった。純粋な存在に夏子はなっていた。クリスタルの中で生きているようだ。ああ、この透明感を絵にすることが出来たら――筆がすすむ。


「その気持ち。それがいいのよ」


 夏子の髪がのびてきてぼくの精気をすいとる。


「ああ、すてき。すばらしいわ。こんなに純粋な精気を吸うのははじめてよ」


 夏子のこころがぼくのこころと交感しあっている。

 ぼくのよろこびは、夏子のよろこびだ。

 夏子の黒髪でふたりはつながっていた。


「純粋に芸術にうちこむひとのエネルギーはおいしいのよ。さらに隼人は剣の道を究めようとしている。極上の向上心を兼ね備えている。わたしは――最高のパートナーに出会えたのね」


 愛する夏子を描くことはよろこびと幸福感をぼくにもたらした。

 いつもいっしょにこうしていたい。

 いつも夏子を身近にかんじながら。

 いつも夏子と言葉をかわしながら。

 生きていきたい。

 夏子に精気をすわれることによって、ぼくはさらに高い芸術の境地へとのぼりつめる。

 夏子からさらに純粋になった精気がもどってくる。芸術を志す者同志の魂の昂揚。ふたりにあいだで、サ―キュレート現象が起きている。プラスのスパイラルだ。限りなく、高みにのぼっていく。


 ふいに夏子の声にならない声が脳裏にひびいてきた。



「敵が来ている。はやく描いて。この屋敷にも入りこんでいるわ。彼らの邪念が感じられるでしょう。壁のツタが錆鉄色に退色したら危険信号なの……」


 そういわれてみれば、確かに外から邪悪な思念が迫ってくる。異質なとげとげしい念波がぼくの意識のふちをちくちく刺している。


「ブラック・バンパイァですか。鬼島や田村ですか」

「ほら、おしゃべりしていると、雨野にしかられますよ」


 ラミアの帰還に、感動のあまり雨野の顔はほころんでいる。もう会えないかもしれない。ラミヤ姫の母。鹿未来(カミーラ)さまの密命を拝受して。姫の執事になってから何年になるのだろうか。忘れてしまった。

 人の血を吸うことができず。

 拒血症の白っこ。

 アルビネスとさげずまれ。

 群れを追われた姫のふいの帰還。

 うれしくて雨野のこころがふるえている。

 ラミア姫の帰国。

 それも〈心〉を人にかよわせ。

 その相手の心のエネルギーを高揚させる。

 そのエネルギーをほんの少しばかり吸収することで。

 生きながらえる技を獲得しての帰還だった。



 この土地の吸血鬼としては新しいタイプだ。マインド・バンパイア。人間の血を吸わず、人を殺してバンパイアとすることもない。

 なお、さらに、人と共生できる技を目前にしても。まだそれを信じられない。雨野のよろこびがぼくのこころにながれこんできた。


「信じられない。筆がひとりでに動き、配色まで無意識にやっている」

「それはわたしのこころにある、ムンクのなせる技……」


 絵を描こうとする。いい作品を創造しょうとする意欲が高まる。精気がこんこんとわきあがる。


「いそいで」


 壁にはりついたツタがざわついている。垣根のツルバラ、アイスバークがさわいでいる。垣根のツルバラ、シテイオブヨークがふるえている。垣根の白バラが、急速に色あせていく。風もないのに垣根の白いバラ、庭の赤や紫のバラの花びらが散っている。

 風もないのに葉がひるがえる。ちりちりと干からびていく。ツタの蔓が念波攻撃を受けて壁からひきはがされる。バリバリと壁からひきはがされる。ツタが泣いている。ツタの悲鳴だ。まるでいきているように空中で蛇のようにのたくっている。錆鉄色のツタの葉が宙にとびちる。

 しゃりしゃりに乾き、粉末となって降ってきた。その粉末の霧の中に人型。――異界のものが浮かびあがってきた。


「こんどの攻撃は強いですね。見てまいりましょう」

「でないほうが、いいわよ」


 夏子の制止が聞こえていたはずだ。雨野は外にとびだした。


「爺はよろこんでいるのよ。わたしが戻ってきたので。生き返ったようなものね」


 それが、文字通り棺から再生したのだとは――。ぼくにはまだわかっていなかった。

 雨野京十郎は目覚めた。この屋敷も生の息吹をふきこまれた。これだけの屋敷があれば評判になっていたはずだ。雨野も屋敷も長い眠りから目覚めたばかりなのだ。



 見えた。

 雨野が庭を走っている。

 雨野の前方で芝生が盛り上がる。盛り上がった芝生の筋が雨野めがけて集まる。青々とよくのびた芝生がそそけだち。なんぼんもの筋が。あきらかに雨野の足元めがけて集まってきた。地下からモグラのように。攻撃をかけてきた。

 

 雨野が隠し持った幅広の剣を。大地につきたてた。バンと青白い炎が。剣をつきたてた大地で。炸裂した。衝撃音が窓ガラスをこなごなに破壊した。


「念波アタックよ。わたしたちの防御バリアが破られたわ」


 信じられないことだが絵は完成していた。キャンバスの中の夏子を見るために。現実の夏子がぼくのそばによりそった。


「なかなかの出来ね」


 作品を見て夏子はつぶやく。


「作品をほめられたことなぞ、はじめてだ」  


 ふたりはかたく抱きあった。絵の出来栄えを祝してふたりはかたく抱きあった。


「隼人の処女作ね」


 はげしくもえるようなキスをかわした。強く抱擁した。夏子の胸のふくらみを感じた。やわらかく、弾力のある乳房。


「いくわよ!」


 凛としたひびき。

 夏子の気魄のこもった声だ。

 絵筆を木刀にかえて。夏子の後を追った。

 夏子が念じる。

「美しいものを守るためには命をかける。邪神退散。邪神退散」


 お経のようにも聞こえる。陰陽師の呪詛のような念動力をひめたものだった。

 割れてちらばっていたガラスの破片が。人型にうごめくものたちにむかって。射こまれた。鋭角にとがった破片が。雨野を襲おうとしている人型をヒットした。光にきらめきながら、無数の破片が人型を攻撃する。

 そこに声がする。破片は四散する。はねかえされる。むなしく大地におちる。



「あいかわらず、勇ましいことだ。白っこ娘。おれの従者がせわになったな」

「その呼びかたは、やめてほしいわ。鹿人お兄さま」


 空気が冷えた。

 肌寒かった。

 ぼくは土埃のなかにいた。

 その目前で人型が具体性をおびてきた。どこといってかわったところはない。背のすらりとした、やせ形の若者の姿になった。チェックのシャツをダメージGパンの上にだらしなくだしている。背後には鬼島と田村がひかえている。そして、ああ、爬虫類の肌をした異形のものたちが周囲には群れていた。


「夏子と名乗っているのだったな。妹よ。おまえはラミア。もどってきてはいけなかったのだ」


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