第55話・初めて×緊張

 ゴールデンウイーク四日目。休日も残すところ今日を含めて三日となっていた。

 そんな残り少ない休日の中、俺は朝早くから美月さんに借りていたラブコメ漫画を読み漁っている。

 本当はお昼くらいまでは寝ている予定だったけど、杏子に朝早くから叩き起こされてしまい現在こうしているわけだ。

 部屋の本棚から借りた本の全てをリビングに持って下り、ソファーに寝そべって本を読む。これで横にあるテーブルにお菓子とジュースでも置いたなら、怠惰な日常を送る見本の様なダメ人間の出来上がりになるだろう。

 だがもちろん、飲み物も食べ物もそこには置かない。下手に食べ物や飲み物を近くに置くと、本を汚してしまう原因になるからだ。自分の所持品ならまだしも、これは借り物なんだから細心の注意を払う必要がある。

 静かな部屋の中で聞こえてくるのは、掛け時計の秒針が進む音だけ。

 ここは閑静な住宅街だから車の交通量も少なく、外から聞こえてくる音も強いて言うならスズメのチュンチュンという声くらいだ。住む場所としてはとても良い環境だと思う。

 漫画を両手に持って内容を読み耽りつつ、ふとリビングにある掛け時計を見ると、時刻は午前8時前を指し示していた。


 ――杏子はそろそろ目的地に着いた頃かな。


 実は朝早く杏子に叩き起こされた時に初めて聞かされたんだが、今日からゴールデンウイーク最終日までの間、杏子は友達と有名なメルヘンの国へと泊りがけで遊びに行く事になっていたらしい。

 それなら別に後から携帯に連絡をくれたらいいと思うんだが、杏子としては俺も一緒に連れて行きたかったらしく、朝5時に叩き起こされてから延々1時間程の間『お兄ちゃんも一緒に行こうよ!』とせがまれ続けた。

 いつもなら杏子の要望をだいたい聞いている俺だが、しかし今回ばかりはそんな杏子のお願いを断った。

 なぜかと言えば単純な事で、泊りがけで遊びに行くお金なんて今の俺は持ち合わせていないからだ。最近は立て続けに面白い本やゲームを買ったから、次の小遣い日まではかなり自重しなければいけないしな。

 しかし杏子がこんな理由で納得する訳も無く、最後には『私がお兄ちゃんの分も出すから』とか言っていたが、それは断固として拒否した。兄が妹に遊び賃を出してもらうなんてプライドが許さないからだ。

 とりあえず俺は杏子が出発するまでの時間を要求を拒否し続ける事で乗り切り、杏子は非常に不満そうな表情を浮かべながら出かけて行った。

 杏子には悪いけど、友達と楽しむ時は友達と思う存分に楽しめばいいのだ。

 そんな事を思いながら掛け時計から視線を戻し、再び本を読み始める。それにしても面白い。流石は美月さんがお勧めしてきただけはあると思った。

 ラブコメって基本的な流れとかキャラクター設定とかはわりとありふれてる物が多いけど、それでもやっぱり面白いと思う。

 でも毎回こういったラブコメを読んでいると思う事だが、本当に主人公ってのは鈍感過ぎだ。もちろん主人公が勘の鋭い人物だと話を成立させにくいからだというのは分かっているんだけど、読んでいると非常にヤキモキしてくる。

 あからさまにヒロインから好意を向けられているのに、それにまったく気付きもしない主人公を見ていると、俺とそこを代われと言いたくなる。きっと誰しも思った事があるはずだ。

 もしも俺がラブコメの主人公なら、すぐにヒロイン達の好意に気付いてあげられるんだけどな。

 はっきり言って、ラブコメの主人公みたいに鈍い男なんて現実には存在しないと思う。

 基本的に男ってのは、女子が少し優しくしてくれただけで『この子は俺の事が好きなんじゃないか?』とか、本当にそんな些細な事からあらぬ勘違いを起こす生き物だからな。だから物語の主人公の様な鈍さは現実ではありえないと言える。

 まあ俺の場合は女子の優しさを好きと勘違いする程未熟者ではない。過去にはそれなりに苦い経験もしたし、それなりに辛い失恋もした。

 だからこそ今の俺は、現実のそういったラブコメトラップには引っかからない。伊達に失恋をしてきたわけではないのですよ。

 自身の恋愛遍歴を思い出しながら次々と漫画の続きを読み、そして借りた漫画の最終巻を読み始めた頃、テーブルの上に置いていた携帯がブブブッと震えながら動いてすぐに止まった。バイブがすぐに止まったという事は、メールが来たという事だ。

 俺は携帯を手に取って画面のロックを解除し、メール画面を開く。そこには妹の杏子からのメールがあった。


「ちゃんと着いたみたいだな」


 届いたメールには一枚の写真が添付されていて、メルヘンの国をバックに友達と一緒に笑顔で写っている杏子の姿があった。俺は返信画面を開き、『兄ちゃんの分も沢山楽しんで来い』と書いてメールを送り返す。

 そして最終巻をじっくりと読んでから携帯の時計表示に目をやると、そろそろお昼の12時を迎えようとしていた。

 俺はお昼ご飯を作る前に借りた本を美月さんに返そうと思い、テーブルの上にある本を丁寧に積み重ねて抱え上げ、お隣の美月さん宅へと向かった。


「しまったな……」


 家を出てすぐ隣の美月さん宅の玄関前に立った俺は、両手が塞がっていて玄関のチャイムが押せない事に気付く。

 地面に本を置くわけにもいかず、俺はちょっと悩んだ挙句に少しだけしゃがみ込んでからおでこでチャイムのボタンを押そうとした。


「あっ、龍之介さん。こんなところでどうしたんですか?」


 もう少しで俺のおでこがチャイムのボタンに触れようかという時、玄関の扉がカチャッと音を立てて開き中から美月さんが顔を出した。


「お、お辞儀の練習をしてたんだよ。ほら、本を返す時にちゃんとお礼を言わなきゃだからさ」


 我ながら苦しい――いや、間抜けな言い訳だと思う。ここで素直に本当の事を言えないのは、それだけ俺が人として浅いという事かもしれない。


「龍之介さんはとっても礼儀正しいんですね」


 涼やかな笑顔でこちらを見ながらそう言ってくる美月さんは、どうやら俺の言った事をそのまま信じてくれたらしい。そんな美月さんの穢れを感じさせない笑顔を見ていると、無性に罪悪感が沸き起こってくる。


 ――ごめん美月さん。本当の理由を言えない見栄っ張りな俺を許してくれ……。


「あ、ありがとう。ところで借りてた本を返しに来たんだけど」

「そうだったんですか。私も龍之介さんに用事があって呼びに行くところだったんです。ちょうど良かったですね」

「そうなんだ。それで用事って何?」

「はい。つい今しがた杏子ちゃんから『お泊りで遊びに行ってるので、私が居ない間はお兄ちゃんを頼みます』ってメールが来たんです。それでちょうどお昼ご飯を作っていたので、龍之介さんを誘おうとそちらを訪ねようとしていたんです」


 杏子の奴、相変わらずお節介と言うか心配性と言うか。まあアイツなりに俺の事を考えてなんだろうけどな。だけどその文面だと、まるで俺が一人では何も出来ないダメ兄貴みたいじゃないか。


「そっか、ありがとう。それじゃあせっかくだしご馳走になるよ。とりあえず本はどこに置いておく?」

「それでは私の部屋まで運んでいただけますか?」

「了解」


 俺は借りていた本を美月さんの部屋まで持って行き、その後で一度自宅へと戻った。戸締まりだけはしっかりしておかないといけないからな。

 そしてきっちりと家中の戸締まりをした俺は、再び美月さん宅へと向かった。

 よくよく考えてみれば、杏子抜きで美月さんの家に行くのはこれが初めてだ。別に何かあるわけではないけど、少し緊張してしまう。

 そんな妙にドキドキした気持ちを抱えたまま、俺は美月さんの家の中へと入った。

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