第98話・素直じゃない君×素直な君
食事も終わってお風呂も済ませれば、後はもう雑談をして寝るくらいしか選択肢は残っていない。
時刻は23時を過ぎたところ。今日は杏子達に付き合わされたせいか、俺は結構疲れていた。
とりあえず後は寝るだけだから、自室のベッドで爆睡してしまおうと思っていたわけが、どうやらそんな考えは、おはぎに水あめとハチミツを塗りたくって食べるくらいに甘い考えだったらしい。
「なあ、どうしても俺が居ないと駄目なのか?」
リビングのフローリングに敷かれた三つの布団。俺はそれを見ながら、ソファーに座って四杯目のコーヒーに口をつける。
「もちろん居ないと駄目だよ。ねっ、愛紗」
「わ、私は別にどっちでもいいけど……杏子が居てほしいって言ってるんだから、そうしたらいいじゃないですか」
向かい側のソファーに座っている二人が、見事な連係プレーでそう言ってくる。
「しかしなあ、別々の部屋ならともかく、やっぱり同じ部屋で寝るってのはまずくないか?」
「どうして?」
杏子が不思議そうな表情を浮かべて聞き返してくる。今更かもしれないが、我が妹には警戒心とかそういうものは無いのだろうか。
「いや、どうしても何も、同じ部屋に年頃の男女が川の字に並んで寝るとか、普通はしないだろ?」
「うん。他の人とはしないけど、相手がお兄ちゃんだから問題無いでしょ?」
友達の前でも平然とこういう事を言ってしまえる杏子に、ある意味で感心してしまう。
そんな杏子の言葉に引いてるんじゃないかと思って隣を見ると、愛紗は真っ赤な顔をして杏子を見ていた。その表情からは、引いてると言う感じは一切受けないから不思議だ。
「そうは言うけどなあ……」
「そんなに一緒に居るのを渋るって事は、お兄ちゃんは隣で寝てる私と愛紗にな何かするつもりでいるの?」
「えっ!?」
杏子の言葉を聞いた途端、愛紗は驚きの表情と共に自分の身体を両手で抱き締め、じとーっとした目で俺を見てきた。
――おいおい、妹の発言を本気にするんじゃないよ。頼むからそんな疑惑の目で俺を見るな。
「はあっ……兄ちゃんがそんな事をするわけ無いだろ?」
「だったら問題無いじゃない」
どうやらこれ以上問答を続けても埒が明かないようだ。気は進まないが、今日のところは観念するとしよう。
「……分かったよ。杏子の言うとおりにするから」
「やった!」
「へ、変な事をしたら許しませんからね……」
「分かってるって」
愛紗は未だに両手で自分の身体を抱きしめたまま、上目遣いでそんな事を言ってくる。どんだけ信用が無いんだ俺は。
そうは思いながらも、お風呂上りに起こったあの一件を考えれば、愛紗にそう言われるのは仕方ない事かもしれない。だけどあれはわざとじゃないんだから、そろそろ勘弁してほしいもんだ。
それからしばらくして、三人それぞれに布団に入ってから就寝する事になったんだが、やはり雷が怖いからか、俺は二人に挟まれる形で寝る事になっていた。
当初は少し布団を離してからそこで寝ようと思ったんだけど、それは杏子の必死のブロックによって防がれてしまった――。
布団に入ってからどれくらいの時間が経っただろうか。
暗い部屋の中で聞こえてくるのは、掛け時計の針が進む音と、時折鳴り響く雷や、雨が屋根を打ちつける音、風が窓を揺らす音、そして隣で眠る杏子の小さな寝息くらい。
天井を見つめる形で寝ている俺の左手は杏子に握られていて、自由に寝返りを打つ事もできない状態だ。
杏子が眠ったのを確認してから何度かその手を離そうと試みたのだが、その手は恐ろしいくらいにガッチリと握られていて、全然離す事ができない。
まさか瞬間接着剤でも付いてるんじゃないだろうな――と、そんな疑いを持ってしまうくらいだ。
問題の杏子は俺の方を向いたり仰向けになったりと、至って自由に寝返りを打っているのだが、たまに俺の方へゴロゴロと迫って来たりするから困る。
部屋が暗くてはっきりと顔が見えるわけではないけど、いくら妹とはいえ、間近まで迫られるとその吐息を感じてドキッとするから困るんだ。
「ううん……おにい……ちゃん」
耳元付近で妙に艶かしい声を出す杏子。色々な意味でゾクッとくるから止めてほしい。
「――先輩、もう寝ちゃいましたか?」
そうやってしばらく寝ている杏子の玩具にされていた時、右隣で少し距離を取って寝ていた愛紗の小さな声が聞こえてきた。
「いいや、まだ寝てないよ。どうした?」
杏子を起こさないようにと、頭を右側に向けて小声で話しかけた。
すると愛紗もこちらを向いたのか、声の大きさこそ変わらないものの、先程よりもその声がクリアーに聞こえてくる。
「ちょっと眠れなくて」
「愛紗もか、俺は杏子に邪魔されて眠れないんだよな」
そう言って再び握られている左手を外そうとしたが、やはり先程よりも強い力で手を握り返されてしまった。
――コイツ、本当は起きてるんじゃないだろうな?
「寝てるのに邪魔されてるんですか?」
不思議そうに呟く愛紗に、俺はさっきから杏子にされてる事を軽く説明した。
「本当に先輩と杏子って仲がいいですね」
「まあ、仲が良いと言うか、杏子が強引なだけと言うか……」
俺は苦笑いを浮かべながらそう答えた。
大多数の兄妹が実際どれだけ仲が良いとか、そんな事はよく分からないけど、それでも俺達は仲が良い方だとは思っている。まあ、妹にいいようにされてるだけとも言えなくはないけど。
「いいな……私もお兄ちゃんほしかったな……」
雨音などで掻き消えそうな程の小さな声でそう呟いたのが聞こえた。
そういえば俺は、小さな頃は姉が居る友達が羨ましく思った事もあった。まあ姉が居る友達から言わせれば、『姉ちゃんなんて口やかましいだけだぜ』て事らしいが、それでも何となくお姉ちゃんって優しいんだろうなーとか、そんなイメージを抱いていたもんだ。
「どうしてそんなに兄貴がほしかったんだ?」
「うーん……私って妹が居るじゃないですか。だからやっぱり、小さな頃からお姉ちゃんとしてしっかりしないとって思ってきたから、結構疲れちゃう事もあって。そんな時によく思ってたんです。お兄ちゃんが居たらなーって」
少し照れくさそうな声音でそう言う愛紗。
普段はちょっと素直じゃないところもある子だけど、やはりその根底は素直で優しい子なんだなと思えた。
「そっか。じゃあ、もしも兄貴が居たとしたら、愛紗はどんな事をしてみたかった?」
「うーん……そう言われるとよく分かりませんけど、先輩と杏子みたいになってみたかったかも」
――それってつまり、兄貴を手玉に取ってみたいって事ですか?
普段の杏子と俺が他人にはどう映っているかは分からないけど、実際とは違う感じに受け止められている気はする。
「それは……兄貴が大変だな」
「杏子の相手って大変なんですか?」
「まあ、大変ちゃ大変だが、それなりに楽しくやってるって感じかな」
「そっか。やっぱり羨ましいな……」
「なあ。もしも愛紗が俺の妹だったら、どういう兄妹になってたんだろうな?」
「ふえっ!?」
「ど、どうかしたのか?」
あまりの妙な反応に、俺は思わず上ずった声が出てしまった。
「せ、先輩が変な事を言うからですよ……」
「えっ?」
「そんなに変な事言ったかな……?」
「い、言いましたよ。そ、それに私、先輩の妹にはなりたくないですし……」
「そんなに俺の妹になるって嫌な感じなのか!?」
結構ショックな発言だ。まあ、もしも兄貴が誰になるかを選べるなら、もっと格好良くて優しい兄貴の方がいいだろうしな。
「ち、違います! 嫌とかそう言うんじゃないんです。だって……もし私が先輩の妹になっちゃったら、――になる事もできないから……」
「えっ? 何になる事ができないって?」
雨風が酷くなってきているからか、肝心な部分の言葉が聞こえなかった。
だからそう聞き返したのだが、愛紗はしばらく沈黙した後、むくれた感じでこう答えた。
「何でもないです。気にしないで下さい……」
「ええっ!?」
それから何度かその事について聞いてみたけど、結局は教えてもらえなかった。
「ひゃうっ」
そしてゴロゴロと鳴っていた雷が再び大きな轟音を立てた時、愛紗が叫ぶのを我慢するような声を出した。きっと杏子を起こしてしまわない様に、叫びたいのを我慢しているのだろう。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です……べ、別に雷なんか怖くないから……」
その声はこれでもかと言うくらいに震えていて、段々と愛紗の声がこちらへ近付いて来ているのも分かった。
「無理しない方がいいんじゃないか?」
「む、無理なんかしてないです!」
――やれやれ……本当に意地っ張りだな。
「せ、先輩こそ、本当は雷が怖いんじゃないですか?」
「えっ? いや、別にそんな事は――」
「本当は怖いんでしょ? 怖いですよね!?」
畳み掛ける様にしてそう言う愛紗。
いまいち何がしたいのかは分からないけど、とりあえずこういう時は愛紗の言い分に乗っかっておく方がいいだろう。
「あ、ああ。怖いな、本当は凄く怖いぞ」
「や、やっぱりそうだと思いましたよ。し、仕方ないですから、怖がりの先輩の為に手を握ってあげてもいいですよ?」
――あー、なるほど。そういう事か。
愛紗の考えがようやく分かり、それと同時に思わず笑みがこぼれた。
しかしまあ、何て回りくどいやり方だろうとは思ってしまうけど、同時に凄く愛紗らしいやり方だと思えてしまう。
「ど、どうするんです?」
「分かった。お願いしようかな」
「しょ、しょうがないですね。それじゃあ、こっちに手を差し出して下さい……」
言われるがまま、俺はゆっくりと右手を愛紗の方へと伸ばして行く。
「あうっ……」
伸ばした先で小さな温かみに触れると、小さく短い声が聞こえた。
そして俺は、触れた小さな温かみを自分の手で包み込む。
「これでいいか?」
「い、いいんじゃないですか……」
包み込んだその手を優しく握ると、愛紗は少しだけ力を入れて握り返してきた。
さっきは小さく感じた温かみが、今度はより大きく、更に温かく感じられる。
「ありがとな、愛紗。気を遣ってくれて」
「い、いいんですよ別に……先輩の為ですから気にしないで下さい……」
それからは雷が鳴っても愛紗が悲鳴の様な声を上げる事は無かったけど、ただ、雷が鳴る度に俺の右手は強く握られていた。
「――ありがとう……先輩」
しばらくして意識がまどろみへと落ちて行く寸前、俺の耳に一言お礼の言葉が聞こえた。
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