第99話・ハプニング×嬉しい気持ち
翌日の朝。
カーテンが閉まっている窓の外側では嵐もすっかり静まったようで、薄いイエローのカーテンは陽の光に照らされてその色が更に明るく見えている。
部屋の中も陽が昇って行くのに比例して明るさを増し、その明かりをもとに壁に掛けてある時計へ視線を向けると、時刻は午前7時過ぎを指し示しているのが見えた。
「早く起きてくれねえかな……」
この時、俺は一つのピンチを迎えていた。下半身を何度もよじらせながら、激しくなるだけの尿意に必死に耐えていたからだ。
尿意を感じて目を覚ましてから、既に30分が過ぎている。
それならさっさとトイレに行けばいいと思うかもしれないが、それが出来るならこういう状態にはなっていない。
なぜなら俺の左手は昨日のまま杏子に固く握られていて、右手も愛紗によってギュッと握られているからだ。
とりあえず俺にとっての緊急事態という事で、無理やりにでも手を離しにかかろうと何度か試みたのだが、それはことごとく失敗に終わった。
しかも無理やりに手を離そうとすればする程、二人は握る手の力を強めてくるから恐ろしい。
「どっちでもいいから、とりあえず起きてくれ――――!」
両手を拘束されているに等しい以上、寝返りも打てない俺には声を出して二人の目覚めを促す他無いが、二人はよほど深い眠りについているのか、何度呼びかけてもピクリとも反応してくれない。
杏子はいつも目覚めが良くないので仕方ないけど、愛紗もそうだといよいよ参ってしまう。
そしてここから更に30分程、二人が目覚めるまで俺は耐え難い尿意に必死に耐え忍んでいた。
「くあーっ! すっきりしたっ!」
尿意で最初に目を覚ましてから約一時間後。
杏子と愛紗の手繋ぎからようやく解放された俺は、即行でトイレへと駆け込んで用を足した。こんなにトイレを恋しく思ったのは、小学校の遠足で生水を飲んでお腹を壊した時以来だ。
俺はトイレに行けるという幸せを沸々と噛み締めながらトイレを出る。
「トイレに行きたいなら早く行けば良かったのに」
トイレから出て来て廊下を歩き始めると、小さな欠伸をしながら洗面所から出て来た杏子がそん事を言ってきた。
――コイツ……誰のせいでそれが出来なかったと思っていやがるんだ。
「ん? どうしたの?」
「はあっ……何でもないよ」
「変なお兄ちゃん」
杏子は俺の返答に首を傾げると、パタパタとスリッパの音を立てながらリビングへと向かって行った。
――妹よ、お兄ちゃんの涙ぐましい努力を少しは知ってほしかったぜ……。
そう思いながら心の中でむせび泣く。
まあ、本来はちゃんと説明してやればいいんだろうけど、俺と手繋ぎをしていた事を愛紗は知られたくないだろうからな。
「お、おはようございます。先輩……」
「おはよう、愛紗。ちゃんと眠れた?」
「あっ、はい。それなりに……」
俯き加減にしていた顔を少し上げ、チラチラと上目遣いで見てくる愛紗。その顔は少し照れたように紅くなっている。
「そっか。それなら良かったよ」
「う、うん。ありがとう……」
愛紗は少し慌てて俺の横を通り抜け、洗面所へと入って行った。
――寝起きの姿を見られたのが恥ずかしかったのかな。
そんな事を思いながら自室へと戻り、パジャマから普段着へと着替える。
そして部屋から出て階段の方へ向かうと、入れ違いに二人と出くわす。どうやら俺と同じで着替えに向かっているようだ。
「朝ご飯の準備しておくから、着替えたら下りて来いよ?」
「了解。ありがとね、お兄ちゃん」
「あ、ありがとうございます……」
杏子は相変わらずの様子だが、愛紗は未だに顔を小さく俯かせたままだ。よっぽどパジャマ姿を見られるのが恥ずかしいんだろう。
愛紗は杏子が昔買ったパジャマを着ているのだけど、身長152センチ程しかない杏子のパジャマをもってしても、愛紗が着るとダボダボになってしまう。
しかしそのダボダボ具合が妙に可愛く見えるからグッドだ。これが世間で言われるところのパジャマ萌えってやつだろうか。
そんな事を考えながら台所へと向かい、簡単な朝ご飯を用意した後、私服と制服に着替えた二人と一緒にちょっと遅めの朝食タイムへと入る。
いつもは二人で食べる事が多い食卓に、今日は愛紗が居る。たったそれだけの事なのに、いつもよりも楽しい食事タイムになった。
こうして三人で朝食タイムを終えた後、杏子と愛紗が昨日の夕食と同じく片付けをしてくれた。
そして少しだけくつろいだ後の午前10時過ぎ、愛紗は自宅へと帰宅する為にソファーから立ち上がった。
「杏子、先輩、お世話になりました」
丁寧にペコリと頭を下げる愛紗。普段はツンツンしてる事も多いけど、こういった礼儀正しさはいつもながら好感が持てる。
「ううん、とっても楽しかったよ。またお泊まりに来て、今度は妹さんも一緒に」
「うん、ありがとう。由梨にも話してみるね」
「そうだな、良かったらまた遊びに来てくれよ。歓迎するからさ」
「あ、うん……。分かりました……あっ」
愛紗が顔を俯かせながら玄関の靴置き場を見た時、何かに気付いたかの様に小さく声を出した。
「どうかしたのか?」
「あ、あの……私の靴……」
「「あ――――っ!?」」
――そうだった。昨日俺が杏子に言って愛紗の靴を隠させたんだった。
「悪い愛紗。杏子、早く隠した靴を出してくれ」
「…………」
その言葉に杏子は何も言わずに沈黙し、口元に指を当ててから視線を天井へと向ける。
「どうしたんだよ杏子、早く靴を出してやってくれよ」
「……忘れちゃった」
「「えっ!?」」
「わ、忘れたって、隠し場所をか?」
「うん……」
――おいおいマジかよ! それは洒落にならないぞ。
「と、とりあえずその辺りを探して見ようぜ。愛紗ごめんな、ちょっと待っててくれ」
「あ、はい」
愛紗に対して詫びを入れつつ、俺は杏子と一緒に家中を靴を求めて探し回った。
「――ごめんね愛紗、ちゃんと見つけておくから」
「うん。分かったから、もう謝らなくていいよ」
あれから思い当たる場所を色々と探してみたけど、結局どこを探しても愛紗の靴は見つからなかった。
だから愛紗には申し訳ないけど、杏子が昔使っていた靴を代わりに使ってもらう事にした。本当はちゃんと靴を返して帰ってもらいたいけど、このまま愛紗にずっと待ってもらうのは忍びないから。
「それじゃあ杏子、俺は愛紗を駅まで送ってくるから、その間に靴を探しておいてくれ」
「うん。愛紗、見つけたら電話するから」
「分かった。でも、無理して探さなくてもいいからね? どうせ使い古しの靴だから、そろそろ買い替えようと思ってたところだし」
その言葉に杏子がもう一度謝ると、俺は愛紗を連れて駅へと向かった。
「ごめんな愛紗、俺が靴を隠せなんて言ったから」
「ううん。杏子にも言ったけど、そんなに気にしないで下さい」
「でもさ……」
「それにあれは、私の為にそうしてくれたんでしょ?」
「まあ、それはそうだけどさ」
「だったらそれでいいじゃないですか。悪気があってやった訳じゃないんだから」
にこやかにそんな事を言ってくれる。そんな愛紗の表情を見ていると、ますます申し訳ない気持ちになってしまう。
それからしばらくは他愛のない話をしながら駅へと歩き、そろそろ駅へと辿り着こうかという頃、俺はちょっとした事を思いついた。
「なあ愛紗、今から少しだけ時間とれないかな?」
「えっ? それは大丈夫ですけど、どうしてですか?」
「ちょっと付き合ってほしい場所があるんだ」
「は、はい。それはいいですけど」
「よしっ、それじゃあ行こう!」
俺はそのまま愛紗を連れ、駅から少し離れたショッピングモールへと向かった。
「――さあ、愛紗! 好きな靴を選んでくれ!」
一緒に来たのはショッピングモールの中にある靴の専門店。俺はここでお詫びに靴をプレゼントしようと考えていた。
「先輩、こんな事しなくていいですよ……」
愛紗は申しわけなさそうにそう言う。
普段はちょっとおっかないところもあるけど、こう見えて結構遠慮深い子なんだよな。
「頼む、これはお詫びなんだ。どれか好きな物を選んでくれ。じゃないと、俺の気が収まらないんだよ」
「…………分かりました。それで先輩の気が済むなら」
少し考え込んでいた愛紗は、俺のお願いに小さく微笑みながらそう答えてくれた。
「ありがとな。じゃあ、早速いいのを探そう」
「うん」
そう返事をする愛紗の表情は少し楽しそうに見えた。
店の中に入ると様々なシューズが所狭しと展示されていて、その種類の多さにビックリしてしまう。最近は子供の靴一つとっても多種多様な物があるようで、しかもそれが結構高い値段で売られている。靴一つにここまでの機能を持たせてるのかと、無闇に感心してしまう品もあるくらいだ。
そんな物に気を取られつつも、愛紗に似合いそうな靴があるコーナーを探して回る。
「あっ、これいいかも」
二人で色々と靴を見て回っていた時、愛紗が目の前の棚に展示されていた靴を手に取った。
愛紗が手にしたのは、黄色と白のラインが入ったシンプルな感じのスニーカー。
「愛紗って普段はスニーカーを履く事が多いのか?」
「はい。ローファーなんかも履くけど、だいたいはスニーカーですかね。軽いし楽だから」
「なるほど」
そんな言葉を受け、俺は愛紗に似合いそうなスニーカーを中心に探してみる事にした。
だが女子の靴など今まで見繕った事の無い俺には、スニーカーに種類を絞ったとは言え、いったいどんな感じの物を選べば良いのかがさっぱり分からない。
しかし15分くらいスニーカーの棚を見て回っていた時、俺の目に一つの可愛らしい靴が映った。
「あっ、これいいな」
俺が手に取ったのは黒色のハイカットスニーカーで、シンプルながらも女子の履き物らしいスリムなフォルムだった。
「先輩、何か良いのがあったんですか?」
「ちょうど良かった。これなんてどうかな?」
こちらへやって来た愛紗に向かい、俺は手に取ったその靴を見せた。
「あっ、シンプルだけど可愛い」
「だろ! 俺もそう思うんだ。なあ愛紗、ちょっと履いてみなよ」
「うん」
近くに居た店員さんに声をかけ、愛紗の足のサイズに合う靴を出してほしいと頼んだ。
店員さんは快く愛紗が言ったサイズの靴を倉庫に探しに行ってくれたのだが、やはり身体が小さいだけあって靴のサイズも小さく、店員さんが戻って来るまでにはちょっと時間がかかった。
「どうですか?」
しばらくして店員さんが持って来てくれた靴を試し履きした愛紗が、クルリとその場で回って感想を聞いてくる。
何と言うか、凄く似合っていた。まるで愛紗の為に
「いいっ! 凄く似合ってるぞ!」
「本当ですか?」
照れた感じでえへへっと微笑む愛紗。その姿は見ていてとても愛らしい。
「もちろん!」
「それじゃあ、これにしてもいいですか?」
「おう! あっ、でも本当にそれでいいのか? 他にいいのがあったら――」
「これでいい。これがいいんです……」
愛紗は俺の言葉に被せる様にそう言ってくる。
それを聞いた俺は、愛紗のご希望どおりにその靴を買ってその場でプレゼントした。そしてせっかく買ったのだからと、俺はその場で愛紗に履き替えを勧めてみた。
この後、買ったばかりの靴に履き替えてご機嫌な様子の愛紗と一緒に靴屋さんを出た俺は、そのまま駅へと向かい、後は愛紗が帰るのを見届けるだけになった時だった。
「あっ、お姉ちゃん」
不意に俺達の背後から声がかけられ、二人でその声がした方を振り向く。するとそこには、愛紗によく似た顔立ちをした黒髪の女子が居た。
「由梨じゃない。お友達の家からの帰り?」
「うん。お姉ちゃんも今帰り?」
「そうよ。ちょうどいいわ、一緒に帰りましょう」
「うん。で、お姉ちゃん。こちらの方は?」
「あっ、私の友達のお兄さんで、鳴沢龍之介先輩よ」
「どうも、初めまして」
「初めまして。私は
ペコリと頭を下げる妹さん。
愛紗より頭一つ分くらい身長が高く、見た目だけなら妹さんの方がお姉さんに見える。
そして艶やかな黒髪のロングヘアーには緩やかなウェーブがかかっていて、一見おっとりした感じに見える妹さんの雰囲気によく似合っていると思える。
「こちらこそ、いつもお姉さんには妹がお世話になってます」
俺も同じく妹さんに挨拶をする。すると妹さんはにっこりと微笑んで話を始めた。
「お会いするのは初めてですけど、私は何だか初めて会った気がしません」
「えっ? どうしてかな?」
「それは多分、お姉ちゃんから鳴沢さんのお話をいつも聞いていたからだと思います」
「ちょ、ちょっと由梨!? 何言ってるの!」
慌てふためきながら妹さんに詰め寄る愛紗。そんな慌てるくらいに俺の変な話でもしているのだろうか。
「あれっ? お姉ちゃん、靴がいつもと違うね」
必死な感じで詰め寄って行った愛紗の言葉などまるで聞こえていなかったかの様に、突然話題を変える妹さん。
「あっ、ちょっと色々あってお姉さんに迷惑をかけちゃったから、お詫びにプレゼントしたんだよ」
「そうだったんですか。良かったね、お姉ちゃん。大事にしないといけないね。せっかく好――」
「あ――――っ! もうっ! 止めて止めてっ!」
「むぐぐ――」
愛紗は何かを言おうとした妹さんの口を両手で押さえ、その発言を封じる。
「き、気にしないで下さいね、先輩! ほら、帰るわよ、由梨」
「もう……お姉ちゃんたら。では鳴沢さん、お姉ちゃんの事、これからもよろしくお願いしますね」
「あ、うん」
「余計な事を言わなくていいから! ほら、駅に向かって歩いて」
そう言って妹さんを先に行かせる愛紗。何だかよく分からんが、苦労してるのかも。
「ごめんなさい、先輩。送ってくれてありがとうございます」
「おう。気をつけて帰ってな」
愛紗はコクンと頷くと、ゆっくりと妹さんの後を追って行く。
しかし愛紗は途中でこちらを振り返り、俺の方へと走って戻って来た。
「どうかしたのか?」
「もう一度お礼を言っておきたくて。先輩、可愛い靴をありがとうございます。大切にしますね」
そう言うと愛紗はスッと駅の方に向き直り、急いで妹さんが居る方へと走って行く。
そしてもう一度だけこちらを振り返ると、何度か俺に向けて手を振ってから妹さんと一緒に帰って行った。
――今日の愛紗は珍しくツンツンしてなかったな。
そんな事を思いながら家へ帰ると、俺は玄関先に妙な物があるのを発見した。
家の玄関横には飾り物をしたりする為の引っ掛け部分があるんだけど、そこに何かが入ったように膨らんでいるビニール袋が一つ掛けてあったのだ。
その怪しげな物が何だろうかと思ってビニール袋を手に取り中身を見ると、そこには小さなスニーカーが入っていた。
「…………」
――杏子の奴、何て場所に靴を隠してんだよ……。
とりあえず袋に入ったスニーカーを持って家へと入り、未だ必死に靴を探しているであろう妹を玄関から大声で呼んでその靴を手渡した。
杏子は受け取ったスニーカーを見て、『良かったー! 愛紗に連絡しないと!』と言って喜びながら携帯で電話をかけ始める。
俺はそんな妹の様子を見て自室へと戻りながら、これからは杏子に物を隠させるのは止めておこうと、そう心に誓った。
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