5-2 彼の名はジャンニ
飛竜は、カプアの近くで感じていた浄化作用による刺激を殆ど感じることが無くなる程度には、カプアから南へと離れた空を飛んでいた。
しかし、未だ、村や町、その他奇跡による何らかの痕跡を一つも見つけられずにいた。
魔脈から供給される魔力は明らかに減衰しているのを感じる。「これ以上は危険だ、少し引き返そうかな」と思った時、飛竜の眼は、視界の左端に夜闇に薄く輝く跡塔を捉えた。
翼を傾け、急いで旋回し、冷たい夜の風を切り裂き、その跡塔のある場所へと飛行する。
《見つけました、小さな村です。ここの人達がカプアに信仰を与えているんですか》
《…違うな。そこはただの小村だ。カプアから跡塔の光を維持ための僅かな奇跡を受けているだけの場所に過ぎん》
《そうですか…。一旦、カプア付近に戻ります》
落胆するトーマ。
《待て。魔力の補給のために、その村の人間を何人か捕食してこい。帰投中に使者からの攻撃を受ける可能性もなくはない》
《了解です》
カプア光域の南方にある小村の外れで、夜間の警護をしていた義勇兵の青年は、突如目の前に降り立った紅い飛竜を前にして茫然と立ち尽くす。飛竜の顎は、彼の頭部を一噛みで食いちぎった。
それから、アルクスやウェルテもいくつか村を見つけたが、いずれもカプアへ信仰を与えているような痕跡の無いただの小村だった。
魔物達はカプア周辺へと戻り、魔脈が浄化されないように、魔力の循環の補助をしつつ、再度、待機する事になった。
飛竜は広大な五角形の都市の南方を旋回飛行している、長大な白い市壁の向こう側から使者が現れたりする様子は未だ、見られない。しかし、市壁に近づくと強烈な圧迫感と共に輝く光の盾が現れるのは変わりなかった。
《やっぱり、僕は外部からリソースを供給している存在なんていないと思います》
少なくとも、カプアの近くの空から見渡せる景色の中には、一つの村も町も存在しなかった。
《…少し視点を変えてみましょう。そもそもカプアを守る光の盾が外部からのものなら、カプアの内部の者達は一体何をしているのかしら》
ウェルテの疑問に、アルクスが答える。
《何らかの奇跡の準備か、あるいは、あの光の盾の維持を補助しているとかではないか?》
《うーん、どれも違うというか、近いけど正解ではない気がするのよね…》
《例えば、カプアの中の人々もまた外部の者を守るための奇跡を行使している、とは考えられませんか?》
《なるほど…有り得るわ。でも、周囲に村や町が無いのだから、遠隔地と何らかのアクセス図るようなものかしら?だとしたら厄介ね》
《ああ、確証も無しに作戦地をこの光域外にまで広げるのは、リスクが大きすぎるな》
アルクスの機具に、ウィクリフは同意する。
《その通りだ。そして、俺は光域外と連携を計っている可能性は低いと考える。各都市、各光域は一つの小国と言っていいほど独立した権限が与えられているからだ。当然、住まう者の思想も子葉末節の部分においては大きく異なる》
沈黙が意思疎通の領域を満された。
それでもそのリスクを取り、飛行能力のある者をカプア光域外に遣わすべきか、それともリソースの枯渇を信じてここで包囲と攻撃を続けるか…と思考の迷路に入り込みかけた、皆の目を覚ましたのは、ラルマだった。
《 隠されてるだけなんじゃねーか?》
どうしてこんな簡単な事に誰も気づかないのか不思議だ、とでも言うような調子だ。
《確かに…僕達が見つけた村は、どこもカプアから離れた光域の内縁に位置していましたよね》
《そ、そうね、いくらなんでもカプアの近隣に全く村や町が存在しないのは不自然と考えるべきだったわ。ウィクリフ、広範囲の村や町を全て隠蔽する事なんて、可能なの?》
ウェルテは「蝕人達の命を背負う者として自覚が足りない」と批判しているラルマが、問題の核心を突いた事に若干、焦ったのか。一匹の
《ああ、自己犠牲と利他によるリソースの増幅があれば、光域内の多くの村や町を、同時に“
《つまり、カプアの住民は周辺の村や町に秘匿の奇跡を掛け、周辺の村や町の人はカプアの市壁に強力な光の盾を顕現させている…ということだったんですね》
《それで、あたし達は何をすればいいの》
ネーヴェの声には、いい加減、自分にできる仕事を与えてくれとばかりに、微かに苛立ちが滲んでいた。丘の上の巨狼は姿勢よく座っている。
《そうね…道や地形の有無から、隠された村や町を判別し攻撃、できないかしら》
《無理だな、あの規模の信仰による秘匿の奇跡はそんな易いものではない。隠すというよりは認識するという心理や感覚の働きを完全に停止させるものだ》
《
軽口を言うラルマ。もちろん本気ではないが。
《馬鹿言わないで、一体どれだけの広さがあると思ってるのよ、そんなことやろうとしたら―》
《いや、それだ。むしろそれしかあるまい》
ウィクリフの声は何か確信を得たかのように、決然としていた。
《ちょっと、ウィクリフ…ここら一体を手当たり次第破壊していくつもり?あまりにも非現実的よ》
《破壊はしない、しかし飽和的に探ることはできる》
《だから、認識するという心理や感覚の働きを完全に停止させるって言ったのはあなたよ、どうやって探るのよ》
《確かに普通ならば秘匿の奇跡によって、認識するという感覚を打ち消されて終わりだ、しかし、消されたという記録は残る》
《どういうこと?》
《説明は後だ。ティーフ、カプア周辺に可能な限り網羅的に魔脈を細く長く成長させろ》
《密度は薄くなるけど、いい?》
《構わん。他の者は、カプア周辺の各地に散開して、魔脈の成長を補助せよ》
†
夜闇に中に沈むカプア光域の中の、とある小さな村。
村の中心には都市のあるものと比べれば二回り程も細い跡塔が聳え立つ。
見目は頼りないが、それが纏う光は信仰の象徴となる跡塔に相応しい強さと神聖さを持っていた。その跡塔の元にて壮年の司教が落ち着いた調子で、目の前に並び集まった村人達に向けて演説を始めていた。
「先刻、預言の魔物がカプア光域に現れ、カプアはその攻撃を受けた。しかし、私達の祈りによって作られた光の盾は魔物の攻撃を退けた」
感嘆や称賛の声によって小さなざわめきが起きる。司教が手を挙げると波を打ったようにまた鎮まる。
「さあ祈ろう、この村ではなく彼の都市、カプアの平穏を。カプアに住む者達がこの村の平穏を祈ってくれているのと同じように」
村人達は手を組み合わせ祈った、己の村の安全や平和ではなく、この光域の中心にある都市の安全と平穏を。
(主よ、悪しき魔物共と戦う勇気を、俺に下さい…!)
その中で一人の青年だけは魔物に立ち向かうための勇気が得られる事を祈っていた。
†
カプア光域、東南。この一帯には所々に低木が生えている。今はそれらの全ての低木の幹に黒い三本の爪痕が刻まれており、その爪痕が作る結界の中心には巨躯の黒豹がいた。
同光域、西南。西から南へと細い川がカプアに対して緩やかな凸の曲線を描くように横切っている。巨大な大海蛇がその細い川の上を泳いでいる、薄青い液体のようなものが川から溢れ、周囲一体を覆っていた。
同光域、東。小高い丘が一つ突き出している。その丘の上に巨躯の灰色狼がいる、狼の周囲には
同光域、西。非常になだらかに波打つ草原の上にグリフォンが翼をはためかせて浮かんでいる。周囲一帯には草原を撫でるように風が巡っており、風の中にはグリフォンの羽根が流れているのが見えた。
同光域、北。一帯は通常の蜂と同じ大きさの小さな蜂異種が、数メルトごとに一匹づつ地面や木の上に張り付き網目を作っていた。それらの蜂異種は、数百メルトごとに草原の上に潜む蜘異種の腹部の卵胞から産み出されていた。
同光域、南。ゴツゴツとした岩が所々に転がっている、空から見下ろすとまるで緑の絨毯に白い砂粒を溢したように見える。
飛竜はその岩多い草原の空を旋回しながら風が止むのを待っていた。
《そろそろ止みそうかな》
そして風が止んだ。
《いきます》
飛竜は高度を上げ、口腔から大きな炎の球を上空に吐き出した。
炎の球はある程度の位置まで昇ると、そこで破裂し、夜空に大量の小さな燐火を飛散させた。
飛散した燐火は更に広がり、周囲一帯に降り注ぐ、しかし、草の上に落ちても燃え移ることなく、土や石の上に落ちても消えることなく、小さな火を落ちた地点に灯す。
ただの火ではない、地に落ちた小さな火の一つ一つが、その周辺の温度を感覚するための魔力を含む感覚器官になっているのだ。
《抽出を完了した》ウィクリフの声だ。
《僕が担った範囲も大丈夫でしたか?》
《ああ、問題ない》
トーマは初めての試みだったが、上手くできたことに少し安堵する。
大地に飛散した燐火の群れは風と共に消えていった。
《これで、位置が特定できるんですね》
《そうだ割り出すまで少し待て》
《はい》
短い草を舞い散らし、紅い飛竜は草原に降り立った。トーマは足の裏に感じる夜露に濡れた草と土の冷たさを感じながら、これより少し前になされた会話を思い出す。
――数刻前。
散開する魔物達に向けて、ウィクリフはどのようにして、秘匿された村や町を看破するか、その手段を皆に伝えていた。
《啓発者に、お前達の認識が干渉された痕跡を抽出させる。ただし抽出できるのは数秒の間の認識のみ、また記述の交錯を防ぐために、一度抽出したら再び実行するには、少なくとも
《便利な代わりに、色々と制約もあるわけか》
《そうだ。故に、お前達の能力を駆使し、カプア周辺の村や町が隠蔽されている範囲全域を認識できる状態を作ってもらう》
《なるほどね…。そうやって私達の認識の網に
《つまり、その数秒間で広範囲を見渡せばいいというわけか?》
《いや、単なる視認では弱い。指で触れる以上の感覚が必要だ、持てる力で工夫してほしい》
《おそらく皆、広範囲を知覚できるような相応の手段は持っているだろうけど…不安なのはトーマね。数百メルトの範囲内を感覚する手段、何かもってる?》
《まだ一度も試した事はないですけど、できます…たぶん》
《たぶん?》
《絶対、できます。周囲の風さえ落ち着いていれば》
《なら結構。そろそろ魔脈はカプア周辺一帯に行渡る頃ね。この一帯に吹く微風が止んだら。各自、一斉に周辺の探査をしなさい》
――。
《感覚に改竄のあった地点の抽出を終えた》
ウィクリフからの指示が意識の中に届く。
《これより奇跡の干渉によって停止されていたお前達の感覚を違和感を付与して想起させる。違和感の位置を把握でき次第、その違和感の特に強い場所への攻撃を始めろ。そこが、おそらく秘匿を発現させている設置物がある》
《質問。破壊後、その村の住民を捕食してもいい?》
ネーヴェの率直な問いを、ウィクリフは肯定する。
《無論だ。積極的に行ってよい。これだけ広範囲に同時に活発に動き、攻撃するのだ。ティーフの魔力の調整や支援があっても、十分に得られはしないだろう》
《了解》
《では特定した位置の感覚情報を送る》
ウィクリフは啓発者の頁を捲り、中央に円と方形による幾何的な模様の描かれた頁を開き、そこに掌を置いた。魔物達の意識にウィクリフが特定した位置の感覚的情報が送られる。
トーマは直ぐに理解した、先程の感覚の中のどの位置に違和感があるのかを。
《燐火の塊を打ち上げた地点から更に百メルト程南のほうだ。確かあそこは一際大きい岩があったような》
飛竜は周囲より一際大きい岩のある場所に移動する。そして、より違和感が鮮明になのを感じた。
《何だろう…眼を瞑っていても、気配だけは伝わってくるような、そんな感じだ》
飛竜は最も違和感の強い場所、大地からめくれ上がった巨大な鱗のような岩の尖端に向けて空から炎の球を一発、口腔から撃ち放った。
岩の尖端に着弾すると、炎の球が炸裂する代わりに、眩い白い閃光が辺りを包んだ。一瞬、罠かと思ったトーマは咄嗟に高度を上げたが、爆光の収まった眼下には、岩だらけの草地の代わりに小さな村が現れていた。その村の中心にある、細い跡塔の頂点は黒く焦げ、崩れていた。
《ウィクリフ、これでいいんですか》
《まだ少し光が残っている、根元から断ち割れ、強度は無いに等しい難しくはないはずだ》
口腔に炎を凝縮させ、狙いを定める。跡塔の周囲には人の姿はない。村人は皆、家屋の中に隠れているのだろう。
飛竜の放った炎の球は細い跡塔の根元に命中し、爆炎を上げる。
自重を支える基礎を失った跡塔はあっけなく地に倒れ伏した。
《よし…!》
村の中心に、紅い飛竜が降り立った。
《魔力、回復しなくちゃ》
飛竜は手近な石造の家に「ふっ」と軽く火球を放つ。石壁は容易く発破され、中では暖炉の近くで二人の子供が震えていた。
《選り好みはしたくないんだ、ごめんよ》
飛竜は家の中へと近づこうと、太い足を一歩踏み出した時、トーマは背後に危険な気配を感じた。
万が一を恐れ、反応できるように警戒していたトーマは、咄嗟に身体を回転させ炎を纏った尾を鞭のように振るい、背後から迫る光を纏った槍を打ち払ってみせた。必然、飛竜は破壊した家ではなく、背後に身体を向けた形となる。尾の鱗には浅い裂傷が刻まれていた。
《使者…!?》
そこには、倒れた跡塔の横で鉄の槍を構える青年が一人いた。服装から見るにこの村の住人に違いない。ろくに防具も纏わず古びた
《じゃなくて、村人が、一人…》
トーマは一瞬、何が起きているのか理解できずに戸惑う。
《まさか、あの人に攻撃されたのかな》
常識的に考えるのであれば、あんな村人の青年が一人で古びた
しかし、異変が起こる、青年の構えた槍がが光を放ち始めたのだ。
「消えろ!俺達の命と
そして、飛竜の頭部に目掛けて投擲される。光の槍は、闇の中に白い尾を引きながら猛然と飛竜の頭蓋に迫った。
光の槍は、飛竜の顎部に突き刺さる―かのように見えたが。
《危ないな。でも、分かり易いよ》
飛竜の大きな顎は、光の槍の柄を捕え、咥えていた。光の槍は、飛竜の口腔より溢れる高温の炎で包まれ、一瞬にして灰へと帰っていった。
「殺してやる。絶対に、俺が…!」
未だ戦意を保つ青年は、腰に提げていた短い剣を鞘から抜き放っていた。
飛竜は口腔から炎の球を放つ、青年はそれを輝く剣で弾こうと、正面に構えるが、一直線に飛来する炎の球は、剣を構える青年の数メルト手前で、その軌道を大きく湾曲させつつ加速し、青年の左半身を横殴りにするように着弾し炸裂した。
「―がぁっ!」
人の身体くらい簡単に四散させられる爆発だったが、青年の身体は勢いよく吹っ飛ばされるだけで外傷はなかった。
「出ていけ…俺達の村、俺達の街から…!」
代わりに、倒れ伏したまま、光の粒になって消えていった。
《消えた…やっぱり、人じゃなくて使者みたいなものだったのかな?》
《トーマ、お前の感覚した範囲内にはもう一つ隠蔽された場所があったはずだ、食事を終えたら直ちに次の目標に向かえ》
《はい》
先に破壊しておいた家の中にいた子供は、どこか別の家に逃げたのか姿は見当たらなかった。
飛竜は、また別の家の外壁と屋根を破壊しようと、首をもたげて辺りを見回した。
そうして、魔物達は隠された村や町を暴き、貧弱な跡塔を破壊し、数人の住民を喰らっては指定された次の場所へ移動し攻撃する、という事を繰り返していった。
その手際は見事で、カプア周辺一帯の村や町が全て姿を現し、秘匿の要として機能する跡塔が破壊されるのに、さして長い時は掛らなかった。
いくつかの村や町では、武器を持って抵抗する者もいたが、グリフォンの巻き起こす突風と鉄を裂く鉤爪や、巨狼の木の幹のような足と岩を砕く牙の前では、単なる生贄にしかならかった。
ただ、奇跡の力を以って抵抗したのは、飛竜に相対したあの青年だけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます