4-3 帰宅
薄く漂う血の匂い。ランプの火で照らされた薄暗い部屋の中は見慣れない器具が置かれた机や、蝕痕が刻まれた臓器や小動物の詰められた大小の瓶が並べられた棚で満たされている。
「ここは…」
トーマは、木製の大きな台の上で寝ていた。既にベリダの支給服に着替えているようだった。
「おはよう。早いわね、もう少し寝ててもいいのよ」
「どれくらい、寝ていましたか」
「半日程度よ。あなたが寝てる間に、色々と調べさせてもらったわ。どうやらあなたは、今まで全く使わなかった能力を使いこなしていたみたいね。洞窟から飛び出した後の記憶はある?」
「いえ、ほとんど夢中で…ウェルテの蟲が迫ってきたので、撃退するための訓練かなと思った事と、あと、身体を隅々までやけに器用に動かせるようになっていた気がする、という事くらいしか覚えていません」
「あなたが新たに行使していた飛竜に特有な能力は二つあったわ。一つは、鱗や翼膜から炎を発生させる発火能力。もう一つは、空間に意思の込められた血の印を作り、それを指示点や線とすることで、炎を任意に操作する誘導能力。使い方次第でいろんな事ができそうね、悩みの種だった防御行動にも使えるはずよ」
「はい…でも、あの時だけ偶然上手くできていただけじゃないかと、ちょっと不安です」
「安心して、あまりにも当たり前の事過ぎて手応えを感じ難いだけだから。さあ、両手を出して、蝕痕を隠す布、巻いてあげるわ。それとも、もう自分で巻けるまで、指先の感覚は回復しているのかしら」
「あ、おねがいします」
布を巻きながら、ヤンはおもむろに話し始めた。
「魔力は、強い願いや想いに反応する。魔力を糧とする魔物として成長できたという事は、あなたの中に何か強い想いがあるという事の証よ」
「あるのかな。そう言われても、心当たりは無いんです」
「強い想い程、人は胸の内にしまって隠したがるものよ、誰かに見られて傷つけられるのを恐れるから。その時が来れば、きっと思い出すわ」
「はい、覚えておきます」
「それじゃあ、もう帰れるわね。この部屋から出て右手にまっすぐ歩けば上に続く階段があるわ」
「何から何まで、ありがとうございました」
「いいのよ、こっちだって貴重なサンプルを沢山貰ったし、またいつでもいらっしゃい」
トーマはヤンに礼を言って部屋を辞し、地上へ続く階段を上がって行った。
随分、長い間、お世話になってしまった気がする、この階段を降りて地下墓地に訪れたのが、ほんの二日前とはとても思えなかった。
「おせーぞ、トーマ」
石の階段を上がり、小さな寂れた教会へと戻ってきたトーマを待っていたのは、古びた木の長椅子に気怠そうに座る、背の高い黒髪の少年だった。
「ラルマ…!もう大丈夫なんですか」
「大丈夫だ。それより、心配したのは俺のほうだぜ」
「どうしてですか?」
「目覚めて早々、地下墓地に行ったお前を迎えに行けと言われたんだぜ。魔女に血を抜かれてバラバラの瓶詰になったお前を、受け取りに行かされるもんだとばかり思って戦々恐々としてた所なんだよ」
片手を広げ、冗談っぽくいうラルマ。
「よかった…でも、わざわざ迎えに来てもらわなくても、僕一人で帰れたのに」
安堵に目を細めながら言うトーマ。
「ま、とりあえず、こいつ飲め」
ラルマは掌に収まるくらいの大きさの小瓶を、トーマに手渡す。中には紅い血の液体で満たされていた、なんとなく界域の中を連想させた。
「これは血液、ですか?」
「いや、界域を満たす基質、“界水”とかいったかな。それを取り出して物理的に安定させた物らしいぜ、詳しくは知らねーけど。飲めば帰化による変調を少しだけ緩和する効果があるんだとよ」
「ありがとう、ラルマ」
「後でティーフにも礼を言っておくんだな、これを作れるのはあいつだけだから」
「はい」
なんとかコルクの蓋を抜き、恐る恐る口を付けるトーマ。小瓶の中の液体は、想像とは違い微かに甘い砂糖水のような味だった。
「…さて、俺がわざわざ、ここに来たのは、お前をさっさと審問の院に連れ帰るためだ。いつ目覚めるかもわからねえお前のために、向かえの馬車一台を地下墓地の前に待機させてたんじゃ流石に教会に怪しまれるから、その代わりみたいなもんだ」
「ええっと、馬車の代わりにラルマが来た、ということですか?」
「そういうことだ、いいから付いて来い」
地下墓地の入口のある寂れた教会を離れ、道を北に進むと、人の気配の無い小さな廃屋があった。ラルマは小さな鍵を取り出し、廃屋の古びた木の扉の鍵穴に差し込み鍵を開け、軋む扉を開き、躊躇いなく廃屋の中に入っていった。トーマもそれに続く。中は埃に塗れひび割れのある木の床と壁、そして部屋の隅の小さな台の上に割れたランプが置かれているだけだった。
ラルマは、勝手知ったるように地下に続く階段を降りていくラルマ。地下室の壁に大きな穴が開いていた。
「灯りは点けねえぞ。お前なら灯りが無くても俺の魔力を感じれるから、はぐれる事も無いだろ」
不気味な暗い穴の中へ軽い足取りで進むラルマ。審問の院のハイブや、地下墓地の工房などにいたおかげで、地下の暗い場所にはもう慣れていたトーマだが、ここまで灯りの無い暗闇にはさすがに若干の不安を感じた。
「何してんだ、早く来い」
ラルマの声に急かされ、トーマもまた暗い穴の中へと進んでいく。
「この地下通路は、なんのために作られたんですか」
暗く細い通路の中は、埃と湿った黴の匂いで満たされていた。
「蝕人達が作った教会から身を隠すための迷路さ。まあ今は、大部分が塞がれちまっているがな」
「灯りを点けないのにも理由があったりするんですか」
「ああ、光に反応して毒を出す厄介な苔が生えてんのさ、ランプ片手にここを半刻も歩いたら、そのまま天国にいけちまうぜ」
「そうですか…でも、僕らなら―」
「おっと、魔脈がご丁寧に道案内してくれると思ったら大間違いだぜ。道に添って伸びてるように見えて実は微妙にズレてたり、途切れてたりするんだ。魔脈の感覚だけを頼りにしてちゃ、いつまで経っても出口にゃたどり着けねえ」
そういって微妙に右手へと曲る道を進むラルマ、トーマの感覚している魔脈は曲らずに直線に伸びていた。
「なかなか、危険な近道ですね…」
「だから闇の中でも眼が見えて、道を知ってる俺が案内役させられてるってわけさ、まあ暗くて狭くて静かな場所は嫌いじゃないし、いいけどな」
「すいません、病み上がりのラルマに、こんなことさせてしまって」
「なんでお前が謝ってるんだよ、連れて来いって言ってきたのはウィクリフの野郎さ、それに、あの魔女の試練を乗り越えたんだろ?」
「はい」
力強くトーマは答える。
「なら、上等だ」
それから二人は、黙って暗い道を歩いた。長く細い通路に響く二人の足音だけが辺りを支配する。トーマがそろそろ地上が恋しく思いかけた頃に、静寂を破ったのはラルマだった。
「例えば、生まれ育った場所に住み続けることができる蝕人ってのは、かなり幸運な奴だと思わないか?」
「あ、そうですね、蝕人として生まれたらベリダに送られるのが決まりですし、教会の法が及ばない辺境では、蝕の影響が強すぎてそもそも住んでいられませんから」
「だから、もしそんな幸運な奴がいたら、そいつはその場所を守るために戦わなきゃ駄目だと思うんだ」
「幸運に代償を求めるのはちょっと違うと思います…でも、大事な何かを守るために戦うという事は、とても当たり前の事だと思います」
「当たり前か…トーマ、お前のいう通りだ、俺は当たり前の事をしたいだけさ」
「ラルマはもしかしてベリダで産まれたんですか」
「さあな、無駄話は終わりだ。着いたぜ」
トーマはもう魔脈の気配からなんとなく察していた。
二人が通路から歩み出た先の広い空間は、見慣れた十字の拘束器具と、蝕痕の結節が円形に並べられた広間。ハイブだった。
「まさか、ここに繋がっているとは思いませんでした」
この薄暗い奇妙な儀式の間に見える場所が無性に懐かしかった。
「まずは礼拝堂に上がるぜ、みんなが待ってる」
「はい」
細い階段を上るトーマの足取りは軽かった。
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