4-2 目覚めの痛み

 この地下墓地の結節から潜った界域は、ハイブの結節から潜った場合とは違う、ということはなく、いつもの薄赤い液体のような空気のような曖昧な物質で満たされた重力の希薄な広大な空間だった。きっと、結節はあくまで入口に過ぎず、界域は一つの大きな空間なのだとトーマは納得する。

 しかし、今は自分の体の臍に、眼に見える魔脈が一本繋がっていた。

《こんなの、いつもあったかな》

《それは私とあなたを魔力的に繋げる同化脈、いわゆる“へその緒”ね。あなたの魔力の流れや量をダイレクトに調整することができるの。じゃあ、いつものように魔物への帰化を始めてみて》

 竜の身体の感覚を意識の中に呼び込み始めるトーマ。

 不思議なほど、いつもより魔脈からの魔力の呼び込みがスムーズに進み、抵抗なく循環していくのを感じる。さして集中する必要もなく、肉体の感覚が飛竜のそれへと変化していく。

 気付いた時には、アンヴィルの村近くの崖の上で目を覚ましていた。

《まず、血潮の山の中腹、あなたがウェルテにその飛竜の身体の動かし方を教えてもらっていた場所まで飛行して頂戴》

 アンヴィルの崖の上から飛び立った飛竜は、ベリダの上空を通らないように迂回しながら血潮の山へと向かい、山の中腹の岩だらけの場所へと戻ってきた。そんなに昔のことではないはずなのに、この岩場は妙に懐かしさを感じさせる。飛竜は、その岩肌より四十メートル程上空に円を描くように旋回していた。

《旋回飛行を保ったまま、地面にブレスを放ってみて》

《はい》

 飛竜の放ったブレスは、堅い土と大きな石飛礫の地面に当たり、それらを吹き飛ばして直径二メルト、人の脚の深さ程度のクレーターを作った。

《おかしいわね…もっと強力なブレスを撃てるはずなんだけれど、次は全力を出してみて》

 強いブレスを撃とうと意気込み、集中するトーマ―ヤンは声を掛ける。

《待って、旋回飛行は保ったままよ》

 トーマは最初の円軌道を無視し、高度を下げようとしていた。

《…あの、飛行の精度とブレスの威力は両立できないんです、一方に集中するなら、もう一方はどうしても犠牲しないと》

《それはおかしいわ、飛行しながらあの程度の威力のブレスしか出来ないはずはないのだけれど》

 ヤンの声はあくまで優しいが、その中には厳しい色を含んでいた。

《あなたの肉体の感覚を一時的に僅かに覚醒させてみるわ、その状態でもう一度、旋回飛行を崩さず、岩肌にブレスを撃ってみて》

 臍部から熱を感じた、それは体内に広がり、熱い湯を直接胃の中に注がれているような感覚へと変わっていった。トーマはブレスを特に集中して撃とうとしてる時の感覚に似てると思った、しかし不思議なことにそれが全く飛行の邪魔になっていない。

 その胸の内に溜まる熱源をそのまま口腔に持ってくる、今までになく口腔に火力が凝縮されているのを感じる。その熱を一気に眼下に向けて解き放つ。燃え盛る炎の大玉が放たれた。

 炎の球は山肌に直撃する、その一撃から生み出された爆音と爆風は大きな石を砕き、砂礫をごっそりと吹き飛ばし、直径にして約七メルト、深さは二メルトの大型のクレーターを作った。

《すごい…こんなに威力が出るなんて》

 飛行しながらあれだけの爆発力を持ったブレスを誰の協力も無しに撃つのは初めてだった。

《驚く事じゃないわ、あなたの本来の力なんだから。それじゃ、場所を移すわ。そこから山の北東側に回り込みなさい》

 飛竜は高度を上げ、山腹を左翼に見ながら北東側へと飛ぶ。そして、山腹の切り立った崖のような面に、十メルトはある大穴が、口を開けているのを見つけた。

《この中よ》

 ぽっかりと空いた岩の大口の中は、隙間なく闇で満たされていた。トーマは、その闇の大口に入るのを少し躊躇う。

《不気味な穴ですね…》

《噴火によってできた古い洞窟。安心しなさい飛竜の一匹くらいは優に飲み込める空間が広がっているわ》

 しかし、予想に反して内部は意外に明るかった。

 紅い無数のともしびが縦横に灯っており、みな一様にある一定のリズムで明滅していた。丁度、界域に潜っている時に見える巨大な光源の鼓動と同じリズムのように見えた。

 洞穴の底に降り立った飛竜は当たりを見渡す、入口の位置や赤い灯の位置から、この洞穴は巨大な卵をちょうど斜めに傾けたような空間であるのがわかった、想像していたよりもはるかに広い。そして、岩の上だというのに妙に暖かかく、心を落ち着けることができた。魔脈がかなり密に張り巡らされているためなのか、地中の熱のせいなのか、あるいはその両方のせいなのかもしれない。

《界域の中にいるみたいでなんだか不思議な感じです。ここで何をするんですか》

《魔物の肉体をより上手く扱う方法には二通りのやり方があるの。一つは単純に同化を繰り返し、魔物の感覚、循環の感覚を少しづつ覚えていく方法。もう一つは無理やり魔物の身体的感覚を覚醒させる方法。今から行うのは後者。魔物の記憶や感覚を呼び覚ます特殊な魔力を、一気に注ぎ込むの》

《なんだか少し怖いです》

《そうね…これは、一か八かの賭けと言ってもいいわ。もし、この覚醒を受け入れる事ができずに、拒絶し続けてしまった場合、間違いなく心と身体が乖離し、より弱い方…即ち心が消える事になる》

 自分が人間ではなくなることも有り得る。その事実を突きつけられて、一瞬怯まずにはいられなかった。

《では、あなたに本当に覚悟があるなら、目の前にある結節の前に立ってちょうだい》

 五メルトほど先に、一際大きく明滅する赤い光源が岩の地面に張り付いていた。

 トーマは、審問の院でウィクリフに真実を知るかそれとも知らずに元の暮らしに戻るか、の二択を迫られた時の事を思いだしていた。

 あの時は、教会や蝕に自分の知らないどんな真実が隠されているのか知りたかったからだ。

《それでも僕は、自分にどれだけの力があるのか、知りたいです》

 自分が魔物だった頃の記憶、それは自分の命に価値を見出したい、という最初の願いに強く結びついている気がしたからだ。

 飛竜は、ゆっくりと地を踏み鳴らし、明滅する赤い光源の前に大きな歩を進めた。

《じゃあ、始めるわよ》


 界域の中に漂う人間のトーマの臍に繋がる同化脈がと大きく脈を打つ。管の中を赤く輝く液体が通り、トーマの体内に注入していった。


 飛竜の足元の光源が、一際大きく紅く輝いたかと思うと、消える。

 より純粋な飛竜の感覚を無理やり流し込まれてたトーマは、胸の奥から焼きゴテを当てられたような激痛を襲われていた。

《ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!》

 洞窟の中に、飛竜の咆哮が反響する。

 無数の紅い灯が灯る広い洞窟の中で、岩を掻き、身体を打ち付け飛竜が一匹のた打ち回る。

《あああああああああああ!!!うがあああああああっ!!》

 身体の内側から焼きゴテを当てられる痛みに加え、両手の指を全て一度に折られよう痛み、肩を外され、後ろに回される痛み、背中から骨を引きずり出す痛みが交互に、あるいは同時に抑揚をつけてトーマを襲っていた。

《うう、あ…あう、嫌だ!痛いよ!!!》

 あまりの苦痛にショック死してもおかしくなかったが、竜の脳神経は強靭で、麻痺して意識を失うことを許さなかった。

《ぐっ、うっ、げほっ!》

 岩肌に胃の中の物を吐瀉した、吐き出されたのは溶けた食物ではなく、赤黒い血だった、その血は恐ろしい高温で、岩を溶かし穴を空ける。

《…どうか、苦痛に負けないで、トーマ》

 トーマがどれだけ泣こうと喚こうと、ヤンは覚醒の魔力を注いでいく。



 皮膜服を着てハイブに降りてきたウェルテは、中央の机の上に啓発者を広げるウィクリフの横で歩みを止めた。

「ラルマの容態は」

「良好だ、もうすぐ意識が戻るだろう」

「本当、ティーフがいてくれて助かったわ」

「ああ」

 少しの沈黙の後、ウェルテは口を開く。

「…今頃、トーマは地獄の苦しみを味わっている頃ね」

「だろうな」

「もし、この試練に彼が耐えられなかったら、彼をどうするつもり」

精神支配ドミネイションに必要な頁は既に特定している。人間の身体はこのハイブで管理することになるだろう」

「驚いたわね、トーマという人間の精神的側面から飛竜を支配しようだなんて。そうやって魔物を支配できるなら、初めからそうしていればよかったんじゃない?」

 “トーマが覚醒に失敗すれば、精神支配ドミネイションによって、純粋に駒として使う”その予想はしていたが。実際にウィクリフの口から言われると、放つ言葉に非難の色が滲むのを抑えられなかった。

「精神支配はあくまで代替手段に過ぎない。どれだけリソースを払い運用できるようになったとしても、極単純な命令を聞かせるだけに止まる」

「それで、高純度の抑圧毒と鎮静毒を持った蜂異種ビネを昨日のうちに作らされたのは、トーマが覚醒に失敗した時にそれらを射ち込みにいかせるためだったってわけね」

「その通りだ。もうすぐ結果が出る、界域に潜り魔物に帰化し、蟲を“胃袋の洞穴”の外で待機させろ。そこから飛竜が飛び出して来ることがあれば容赦なく鎮静毒を射ち込め」

 五つの拘束具を着け終わったウェルテ、ウィクリフに顔を見せずに問う。

「ねえ、どうしてトーマに覚醒の試練を受けさせたの。能力に不安はあっても、別に無理に覚醒させる必要は無かったはずでしょう」

「俺はお前達に強い望みや願いがあるなら、それを最大限叶えてやるつもりだ」

「…そう」

 締結器から伸びた拘束具を身に着けたウェルテは、結節の上に屈み右手の掌を付き結節の中に飲み込まれていった。



《トーマの意識が散逸しかかっている…でも、仕方ないわね、彼の意志で進んだ結果なんだから。彼が残した魔物という器、無駄にしないでよ、ウィクリフ》


 紅い灯が点々と広がる薄暗い空間の底に飛竜は張り付くように翼を広げ、脚を投げ出し倒れ伏していた。既にのた打ち回るような余力も無くなり、時折、苦しそうに冷たい岩肌の上で呻き、その巨体を僅かに揺らすだけだった。

 トーマはもう、痛みも感じなくなっていた。

 身体は指一本動かすことができない程に疲労している。

―なんで、こんな目に合わなきゃいけないんだろう。一人で勝手に役に立とうと焦って、先走った結果なのかな。

 トーマの意識に巨大なゆっくりとした鼓動が流れ込んでくる。

―馬鹿みたいだ…もう、疲れた…少し寝よう…。


 …

 どくん…

 …

 あらゆる感覚が閉じられていく。

 何も感じる事のできない虚無が自分を包み込んでいく。

 自分が消えていく。

 そんな中で、どうしても最後まで消えずに、感じる事ができるモノがあった。

 それは、自分の心臓と、その鼓動。

 しかし、その鼓動も段々と感覚が開き、消え入りそうなほど弱くなっていく。


 どくん…  ん…  どくん……     …


《―起きて。世界は、君に意味を与えて貰いたがっているから》


 どくん


 飛竜トーマの心臓は弾かれたように大きく跳ねた。



 無数にあった赤い結節の光はいつの間にか消え、洞窟の中は闇に満たされていた。

 その暗闇の底に横たわる赤い竜の眼に明かりが灯る。

 上体を起こした飛竜は軽やかに飛び上がり、大きく羽ばたいた、翼から燐火が舞い洞窟の中へと飛散した。

 洞窟の中に広がった燐火は、重たい暗闇の世界を橙色に染め上げていく。

《消えかかっていた意識が、急激に戻った…?なぜ…トーマ、聞こえているなら、返事をして》

 ヤンは今一度、トーマの精神への干渉を強めようとしたが、こちらの魔力が全て拒絶されてしまう、それどころか、干渉のための同化脈へその緒を一方的に断ち切られてしまった。

《そんな、ありえないわ…私の同化脈が―》

 洞穴の中で滞空していた飛竜は、その翼で勢いよく風を叩き、火の粉を散らして、ぽっかりと空いた岩の大口から空へと飛び出した。


 洞穴から飛び出した飛竜に呼応するように、山肌の林の中から多数の蟲の群れが空に飛びあがった、山腹を旋回飛行する飛竜にまず足の速い三匹の蜻異種リベレが迫る。

 飛竜は顎を上に向けながら大きく口を開く、その口腔に三つの赤い小さな硝子玉のような球体が生成された。

 トーマの明確な意思の乗った魔力が凝縮されたものだ。

 飛竜は息を吸い込み肺に多量の酸素を取り込む、するとその赤い魔力の硝子玉が炎に包まれた。

 飛竜は、南の山腹から迫る三匹の蜻異種リベレに向けて、顔を振り下ろすと共に溜めた息を吐き出す、顎が開かれると同時に口腔で小規模な爆発が起こり、炎弾が撃ちだされた。

 炎弾は三つに分かれ、それぞれ飛竜に向かって飛んでくる蜻異種リベレを迎撃しようとする、危険を察知した蜻異種リベレはそれぞれ散開して回避しようとするが、炎弾はまるで意思でも持っているかのように、蜻異種リベレの逃げる軌道を追い、そして、着弾した。小さな炸裂音と共に三匹の蜻異種リベレの身体は燃え殻なって飛散した。

 蜻異種リベレを破壊され、今度は大量の蜂異種ビネが、飛竜を止めようと、怒濤の如く迫って来る。

 飛竜は高度を上げると、空中に翼を畳んだ、落下の最中にその翼が燃えるように炎を纏う、そして二度、三度、大きく羽ばたく、翼に纏っていた炎は燐火となって周囲に拡散していった。

 多数の蜂異種ビネがその燐火の中に飛び込んでくる、それと同時に、飛竜は尻尾で空を割く、尾の先端から発した火花によって空に舞う燐火が連鎖爆発を起こしていく。

 蜂異種ビネの群れはほぼ全て、その燐火の爆発の連鎖に巻き込まれて破壊した、しかし、爆発に捉えられなかった数匹の蜂異種ビネが爆煙の中から飛びだし飛竜に迫る。

 飛竜は瞬時に身体を回転させ、尾を鞭のように使い二匹の蜂異種ビネを同時に打ち払った、遠心力の乗った堅い鱗の強靭な鞭は蜂異種ビネを容易く木端に変える、しかし、尾の一振りで捕えられなかった一匹の蜂異種ビネが飛竜に針を突き立てようと迫る。

 それよりも早く飛竜の顎が蜂異種ビネを捉え、噛み砕き、同時に飛竜の炎嚢から口腔へと鉄をも溶かす高温の炎が送られる、蜂異種ビネを砕き咬合するキザギザの歯列の隙間から炎が噴き出す、蜂異種ビネの骸は毒もろとも一瞬にして灰になった。

 しかし、飛竜はそこで、動きを止め徐々に高度を落としていく、首筋に取り付いた蜂異種ビネによって鎮静作用のある毒を射ち込まれていたのだ。

 飛竜に殺させた三匹の蜂異種は、この蜂異種ビネを首に取り付かせるための視線を誘導するための囮だったのだ。

 加熱したトーマの意識は、冷や水を浴びせられたように醒まされていく。

《少しは、落ち着いたかしら》

《…ウェルテ…?》

《よく試練を乗り越えたわね、おめでとう。アンヴィルの村に戻って帰化を解除して》

《わかりました》


 アンヴィルの村に紅い飛竜が舞い戻ってきた。村の北側の切り立った崖へと、軽やかに降り立つ。足の裏と尾に、夜露に濡れた雑草の冷たさが伝わってくる。今はそれが妙に心地よかった。

《ここにいると、やっぱり落ち着く》

 翼を落ち着け、慣れ親しんだ魔力が循環する場所があるということに、トーマは感謝した。ただ、同時に、この村の存在がなぜか以前よりも儚く、脆い存在であるように思えた。

 トーマは、意識を人間のほうへと徐々に戻し、帰化の解除を始める。

 解除はとてもスムーズに進んだ。人間の肉体の中にある魂を魔力の流れと共に一時的に魔物に戻す帰化は、それの解除も含めて魔脈への干渉能力が高い程、円滑に成すことができる。何をどのような順序で、どれくらいの速さで流れを戻していけばいいか、それらへの理解が以前に比べて桁違いに良くなっているのに今更気づく。

《あのまま、消えてなくなりそうだったのに。どうしてまた人の心を取り戻せたんだろう…》

 試練を乗り越えられたのは、自分ではない誰かに助けられたような気がしてならなかった。


 無事、界域から引き出されるトーマ。

 プールに張られていた薄赤い湯は、もう抜かれており。トーマはプールの底の結節の上に座り込む。

「お帰りなさい。驚いたわよ…もう、人としての意識は飲み込まれて消えてしまったかと思っていたのに」

 ヤンは既に、修道女服姿に戻っていた。

「はい、どうして元に戻れたのか、自分でもよく解りません」

 "胎内同化"による密接な魔力の循環によって、トーマの意識に起こる全ての事をヤンは把握できているはずだった。もし、その状態でもヤンに感知される事無くトーマの意識に接触する存在があるとすれば、それはトーマという存在がこの世に産まれる前の繋がりといえる。

「そう…。まあいいわ、装具は自分で外せる?」

 肩口にある留め金に手を伸ばすが、指が曲らず、とても外す事はできなかった。 

「すいません、手が思うように動かせなくて」

「いいのよ、今は少し動かし方を忘れているだけだから」

 ヤンの助けを借りて、胴に着けられた装具を外したトーマは、プールの縁に座らさされる。

「少し身体を診せてもらうわよ。他にも影響が出ているはずだから」

 トーマの身体を手早く診ていくヤン。

「やっぱり、胸や喉、背中の肩甲骨や背骨あたりの蝕痕が少し赤くなっているわね。ま、じき治るでしょう、他には何か変調はない?」

「なんだか、眠いです」

 今まで気づかなかった疲労が一気に噴出していた。瞼が鉛のように重く感じる。

「ウィクリフには私から伝えておくから、あなたは少し休みなさい」

「ありがとうございます…」

 気を失う寸前、何か柔らかい感触が顔を預けた気がしたが、それが何かを理解できる思考力は既に霧散していた。

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