3-3 到達
炎の球がマルフィナの南の壁に迫る。それは壁に触れる前に、分厚い水の膜に阻まれ蒸気と共に消えた。
《ただの水の膜ではないな。おそらく大岩を投げつけても、その勢いを完全に吸収される、攻撃するだけ無駄だ。トーマ、お前も出番までは安全な場所で待機だ》
《了解です》
魔物達は魔脈を、マルフィナの南から楕円形の湖の西側を通り、北の林の中へと伸ばしていた。魔脈の通う位置を示すように、マルフィナの西側の大地や草木には蝕痕が刻まれている。
都市の外や周辺でいくら魔脈を成長させ結節を作っても、都市内部への影響は薄く、リソースの浪費にしかならない。しかし、今はただベリダに住む蝕人の命を浪費するために、ここに魔脈を伸ばし、結節を作ったわけでは無さそうだった。
《結節の肥大化、終わったわよ》
肥大化した結節の傍には白い斑点模様の巨躯の黒豹、その前方には灰色と白の毛皮を纏う巨躯の狼が陣取っていた。
巨狼の周りには太さは人の首程、高さ二メルト程の薄紫の透明な結晶の柱が綺麗に、狼を取り囲むように八方に立ち並んでいる。
《やはり、マルフィナの聖体は湖中に沈められていたか。そうでもしなければ、流動する湖の水をまるごと跡塔と同じものとするなど不可能だ》
それらはウェルテの蟲が種となる粒を落し、湖底で成長させたネーヴェの結晶柱と共鳴していた。ネーヴェの結晶はただの槍や楯ではなく、共鳴させることで物体の位置を探ることもできる探査装置としての機能も持っている。
《ティーフ、ネーヴェの割り出した位置情報を送るぞ》
ウィクリフはネーヴェに探査させた情報をティーフの意識へと流していく。
《うん、ありがとう》
大海蛇は界域の中で魔脈への干渉、操作を強力に補助する宝球を抱えていた。
《渦の形成、始めるよ…》
大きな水泡を巻き抱える大海蛇を中心に界域を満たす魔漿がうねる、界域の中に渦ができる。
《いい感じ、じゃあ界域の“界面”を湖の底に付けるね》
湖の北の湖底から渦が出現した。
渦は瞬く間に細長く成長し、その渦の底から二百メルト先、湖底から伸びた水中の柱の上に鎮座する白く輝く球体へと達する。
《ラルマ。刻印は終えたか》
黒豹の足元には先の尖った細長い結晶が地面から生えていた、その丈はおよそ一メルト程、地面から生えたつららには黒く細い蝕痕が複雑且つ精緻な紋を描いて刻み込まれていた。よくみると、蝕痕は表面だけでなく、つららは芯から層を形成していて、そのつららの内部の各層にも刻まれているようだった。
《ああ、もうこんな細かい作業はやりたくねーな》
《よし。アルクス、結節に射ち込め》
黒豹はそのつららを根元で断ち切り、咥え、上に放る。グリフォンの前足がそれを掴み空に舞い上がり、つららを離す。つららは空に生まれた小さな竜巻に絡め取られ空中で芯を軸に回転しながら垂直に浮かぶ。
《いくぞ、ティーフ》
《いつでもいいよ》
グリフォンの足元の竜巻が、周囲の空気を巻き込み極限まで圧縮し、解放した。
幾層にも重なり芯まで黒い模様の描かれたつららは、結節に弾かれた矢のような速さで落下し、その黒い表面を突き破る勢いで界域へと沈んでいった。
界域の中につららが落ちてくる。それは、大海蛇の抱える水の胞も突き抜けて、渦の中へと飲み込まれていった。湖の底から発生した細長い渦の中をつららが、勢いよく突き進んでいく。
黒い模様の刻まれた氷柱の槍は、聖体へと到達し、その表層を掘削しつつ、内部に刻まれた蝕痕を展開して、白い球体を覆っていく。
聖体は黒い模様で覆われた姿となった。
《いいぞ、ネーヴェは共鳴探査を継続、ティーフは渦を維持、ラルマは“槍”への魔力供給を絶やすな、ここで勝負を決める、ウェルテ》
《わかってるわ、結節の分化は順調よ》
多数の
黒い膜が半球状に盛り上がり破られ、中から赤い胞体が現れていく。
造血胞から生まれる高濃度の魔力は、聖体への攻撃と呪縛を持続する魔物達の心臓へと送られていく。
†
「がっ…!はっ、これは一体どういうことだ!なぜ聖体に蝕の呪縛が絡みついている」
マルフィナ聖堂内部、パルミロは心臓を抑え、磨かれた白い石畳の床に膝をついた。想像もしていなかった事態にパルミロは取り乱していた。
《蝕痕の刻まれた杭が、聖体に突き刺さり呪縛しているようです。どうやらその杭は湖底から発生した渦の中から飛び出してきたみたいです》
「馬鹿な…魔物にそんな知恵などあるはずが無い!」
《パルミロ様、今すぐ市壁を守る“トラミーナの楯”を解除して、聖体の浄化に奇跡を向けるべきです》
「聖体が蝕の呪いで縛られていて、水路の循環が停止しているのですよ。こんな状態で市壁を破壊され…ぐっ、侵入を許してみなさい!マルフィナも我々も終わりです」
《たとえ魔物の侵入を許しても、聖堂へ到達される前に聖体を蝕む呪いを破り、水路の循環を起動させることができれば、あるいは…なんにせよ、このまま聖体が蝕まれるのを放置はできません》
「…しかし、…くっ…いいでしょう、“楯”を段階的に解除し、代わりに聖体の浄化に力を注ぎます」
《承知しました…。伝令者は市壁の警戒に回します》
「警戒などもうよい!動ける伝令者には、湖底の異常を止めさせなさい!」
†
聖体を覆い尽くすはずだった蝕の呪縛の網は、徐々に浄化され始め、今は球体の半分を覆うに
更に、伝令者の群れが湖中に潜り込み、渦を四方から◇を書くように囲い、水の流れを停滞させようとしていた。
《聖体の浄化が強くなってるぜ、あんだけ蝕痕を編み込んで更にまだ魔力を注いでるってのに、こりゃ剥がされるのも時間の問題だぞ》
《だが、代わりに市壁の外を覆う水の膜維持するためのリソースはかなり減衰しているはずだ。ネーヴェ、渦の形成の補助はもういい、水の膜の破壊しに行け》
《了解》
湖底と巨狼の周囲に立っていた結晶の柱が砕け散る。狼は土を蹴り、林を飛び出し、マルフィナの南へと駆けていく。そして、マルフィナの南、市壁の前へと走り出た。
《アルクス、トーマ、ウェルテ、準備はいいな》
《はい》返答するトーマは緊張した声色だ。
《ネーヴェ、いいぞ》ウィクリフは短く指示する。
巨狼が闇の中に雄叫びを挙げると、狼のいる場所を中心にして市壁を覆っていた水の膜が凍結していき、そして砕け散った。マルフィナへの侵入を阻むものは、後は市壁だけとなった。
その市壁の一ヵ所に多数の
その壁を飛び越え、再び、飛竜とグリフォンがマルフィナ内部へと侵入していく。
《トーマ、アルクス、呪縛を維持するための魔力を除き、残りの全ての魔力をお前達に回す。時間は無い、速やかに跡塔、及び聖堂の扉を破壊しろ》
《はい!》
湖中の渦はかき消され、聖体を覆う呪縛はもう残り三割にまで浄化されている。
渦を消した伝令者は、呪縛の棘が刺さった聖体を取り囲み光を発し、浄化の補助を始めていた。
マルフィナに侵入した飛竜は、南の跡塔のある広場に降り立つ。使者による妨害は全くみられない、マルフィナに張り巡らされた水路も今は水が流れていない、街全体の時間が止まってしまったかのようだ。
《トーマ、跡塔の破壊は二人で上空からやるぞ。私が可燃性の空気の塊を飛ばす、お前はそれに向けてありったけのブレスを撃ち込んでくれ。クラーザの礼拝堂を攻撃した時と同じ要領だ》
《わかりました》
グリフォンが大きく羽ばたくと、その周囲を流れていた風が凝縮していき塊となる。再び羽ばたくと、空気の塊は跡塔に向かって飛んでいく。
飛竜は上空からマルフィナの硝子のように透明な跡塔に向けてブレスを放った。跡塔に命中した火球は通常の数倍以上の激しい爆裂を起こし、周囲の空気を振動させた。跡塔は脆い硝子のように根元から粉々に砕け散っていた、再生する様子はない。残る跡塔は東と西の二本。
《いいぞ。次は東だ》
アルクス、トーマはその後、東西二本の跡塔も同様にグリフォンの可燃性の空気の玉と、飛竜の炎の球による爆撃で破壊していく。そしてついに、湖の中程に浮島のように建つ、流麗なマルフィナ大聖堂へと迫った。
聖体の呪縛は、もう残り一割を切っていた。
《二人とも、一撃で決めてちょうだい。もう供給できる魔力も限界に近いわ》
《大丈夫です》
飛竜は聖堂とマルフィナの市街を繋げる長い石橋の上に降り立った。
トーマはありったけの魔力を炎嚢に送り込む。腹から喉、そして口腔に熱の塊が送られるのがわかる、それを逃さないように凝縮し、勢いをつけて大聖堂の扉へ向けて解き放った。
その一瞬前に、凝縮された空気の塊をグリフォンが扉へ向けて放っていた。
炎の球と空気の塊は丁度、大聖堂の扉でぶつかり、激しい爆発を起こした。空気は震え、衝撃が湖面を波立たせる。大聖堂の大きな扉は吹き飛び、大穴が空いていた。
《やった―》
しかし、その一瞬後、扉のあった所が水の皮膜で覆われた。そして、水の膜は瞬く間にその形と質感を変え、破壊される前の壮麗な大きな扉を再生した。
《え、そんな…》
トーマは供給されていた高濃度の魔力が急速に失われていくのを感じていた。
唯一の肥大化した結節は既に造血胞へと分化させ、トーマが湖上の聖堂の扉を破壊したと同時に魔力を供給し尽くして、収縮し消滅した。
マルフィナの水の循環は回復し、跡塔と市壁の修復が予測されるため、再び、魔物達はマルフィナからの撤退を余儀なくされる状況へと陥った。
†
ひきつった笑みで、パルミロは立ち上がった。もう彼を苛んでいた胸の痛みは消えていた。
「ふ、はは、忌まわしい化け物どもめ。我々の勝利だ」
パルミロは扉が破壊される一歩前に、聖体の浄化を終えていた。マルフィナを巡る水路の循環は徐々に戻りつつある、これまで破壊された跡塔も、市壁も遠からず修復されるだろう。
「迂闊だったな、侮っていたぞ、まさかこんな策を弄してくるとはな。だがもう終わりだ、湖岸まで楯を展開してや―」
次の瞬間、パルミロの胴体は肩口から心臓を抜けて横腹へと斜めに切断された。磨かれた白い床に、大量の鮮血をまき散らし、切断されたパルミロの胴体が血の飛沫と共に崩れ落ちた。
《こいつ、だよな。マルフィナの大司教ってのは》
パルミロの骸の背後に、黒地に白い斑点模様の入った巨躯の豹が姿を現した。ラルマは浄化されると同時に聖堂に向かって湖上を走り、魔力の循環が断たれることを覚悟で一瞬空いた穴から聖堂に飛び込み、循環の残滓と気合で意識が飛ぶ前に大司教を切り裂いていのだった。クラーザの時と同じく、湖中の聖体は崩れ、パルミロの骸も血も全て、光の粒になって消えた。
《くっそ…眠ぃ…―》
ラルマは意識を失った。マルフィナ大聖堂の青白い床に黒豹の魔物の巨躯が倒れ伏した。
《左足より作られしマルフィナの聖体の破壊を確認》
聖体が崩壊したマルフィナからは、威光が失われ、生彩の無くなった暗い都市と化していく。クラーザの時と同様に住民は逃げ惑うようなことはなく、街は沈黙を保ったままだった。
《ラルマ!》聖堂の扉に火球を放つ飛竜。
大扉が爆炎と共に吹き飛ぶ。飛竜は煙を払い、聖堂の内部へと飛び込んでいく。
床に横たわる黒豹の傍に降り立つと、その胸に鼻先を当てる。心臓は鼓動しているが、いつものような力強さは無く弱々しかった。
《心配するな。ラルマは今、人間の肉体との循環が断たれた状態で無理に活動したせいで、魂が魔物の中に閉じ込めらた状態にあるだけだ》
トーマを宥めるウィクリフ。
《じゃあ、意識は戻るんですね…?》
《ラルマの魂はそこにある、魔力を再度、循環させれば助かる可能性は高い。ウェルテ、ティーフ、ラルマの肉体を界域に沈めろ》
《もう向かってる。トーマ、そこ退いて》
飛来した
《界域に沈めるわ、ティーフ、準備はいいわね》
《うん、いいよ》
聖堂の床に作られた結節の表面の黒いが泡立ち、沼のようになって黒豹の身体を飲み込んでいく。
界域の中では、大海蛇が細い透明な管の繋がれた巨大な水泡を抱えていた。
そこへ黒豹の身体が沈んでくる。巨大な水泡の前で止まった黒豹の身体に、水泡から透明な管が伸びていき、黒豹の胸へと繋がった。
《ラルマの人間の肉体と魔物の肉体との間で魔力の循環が再開を始めたのを確認した。この状態を維持できれば、数日中には意識は戻る》
《よかった、僕も手伝います。魔脈への干渉をすればいいんですよね》
《必要ないわ。これは魔力の流れそのものを繋ぎ直す精密な作業なの、あなたの拙い干渉は邪魔にしかならないから》
ウェルテはトーマの協力を素気無く断る。
《…すいません》
《ラルマの魂の安定はウェルテとティーフに任せればいい。アルクス、ネーヴェ、トーマの三者は自分の領域に帰還し、帰化を解除して次の侵攻まで待機だ》
†
金属が擦れる音、締結器の鎖が巻き上げられ、トーマの身体が界域から引き上げられる。
薄暗いハイブの中、松明の火が締結器を照らしていた。もう既に二つの締結器は鎖を引き上げられている、そして、まだ結節の中に鎖を沈めたままの締結器が三つあった。トーマは装具や枷を外しながら思う。
もっと速くブレスを撃てていたら、ラルマは無事だったんじゃないだろうか。最も魔物としての経験の浅い自分は、皆の足を引っ張っているんじゃないだろうか。
「もし、自分のせいで誰かが死んだり、作戦が失敗するなんてことになったら…。そんなことは絶対嫌だ…」
「トーマ」装具を外すトーマに、ウィクリフは声を掛ける。
「あ、はい!」
ウィクリフは啓示者を広げ、それに手をかざして。険しい
「ラルマの状態が戻り次第、次の都市へ侵攻する。そう時間は掛らない、よく休んでおけ」
「わかりました」
ハイブと礼拝堂を繋ぐ細い階段を上がるトーマの胸の中には、ある決意の火が灯っていた。
†
教国北部に位置する、首都ヴェルナ。その巨大な円形の都市の地下には、すり鉢状の広い地下居住空間が作られていた。その下層から上層に向けて、白く横に長い居住棟が階段状に作られている。すり鉢の底を僅かに点として見る事ができるくらいには、広大な空間だった。地下だというのに、天上からは柔らかな光が漏れている。
クラーザより避難した者達は、今、この地下居住棟の一画に身を寄せていた。
その居住棟の一室で、クラーザの司教が首都の司教に対して反駁していた。
「なぜですか!今すぐにでも、クラーザを取り戻すべきです!」
「その為には少なくない奇跡を注ぐことになる。大浄化のために収斂させた奇跡を解く事はできん」
「クラーザ光域にはまだ人が住んでいる村や町があります。それらを見捨てるつもりですか?」
「口を慎め、司教ダニロよ。この教国を悩ます全ての問題は、大浄化の完遂と共に解決する。我らが主は何人も見捨てたりはしない」
「では、私も大浄化の準備を手伝います」
「必要ない。君はクラーザの司教だ、故に、クラーザの民を導く事が本来の役目だ」
「承知…しました」
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