3-2 マルフィナ
次の目標への侵攻開始予定日。
ベリダといえど陽の光が降り注ぐ正午に、魔物の魂を持つ少年少女は、陽の光の射す薄明るい礼拝堂に集まっていた。
部屋の隅の暗がりで椅子に背に腕を掛けて気怠そうに腰かけるラルマ。
壁際に背をから小さな礼拝堂の北側の小さな採光窓を見るネーヴェ。
中央の円形作戦卓の前で卓の上に広げられた地図を眺めるウェルテとティーフ。
トーマも作戦机の前に進む。それから遅れてアルクスが礼拝堂に入って来た。
「遅いわよ、アルクス」ウェルテは遅れてきたアルクスを咎める。
「済まない、少し引きとめられてしまって、困ったよ」
「全ての作戦が終わるまで、今までのように時間は取れないって、あの子に説明はしたんでしょ」
「もちろんだ、しかし、だからといって簡単に割り切れるわけではないんだ」
二人の会話になんとなく意識を向けるトーマ。どうやらアルクスは、親しく話すような誰かに引きとめられていたらしい。気になって尋ねてみようかと思うトーマだったが、ハイブへ続く穴の中からウィクリフが姿を現したのを見て止める事にした。
「皆、いるな。ネーヴェ、ラルマ、卓の前に来い」
そう言うと、説明を始めた。
「次の目標となる都市、マルフィナ侵攻の作戦を説明する前に、お前達に
「私達が使うことのできる魔力の総量という認識でいいのか?」
「その通りだ。魔力は人の心、特に原初的な感情から生まれる。進行段階中期以上の蝕人一人が産みだす魔力を一として、これを基準とした場合、我々が保有する魔力の総量は三万程度となる」
「あの、それは動くたびに魔力を消費しているのでしょうか」
「いや、魔物が生き行動する上で消費する魔力は比較的少ない、より多くの魔力を消費するのは、循環器官の急速な成長だ」
「対して教会の奇跡の源となるのは信仰である。およそ信徒十人分の信仰が蝕人の魔力一人分に相当する。都市の平均的な人口はおよそ四万人前後」
「つーことは一つの都市が持ってるリソースは四千前後ってことか、俺らよりかなり少ないじゃねーか」
「しかし、ここで蝕の魔力と教会の信仰の違う点がある、それは魔力が一定の量が循環し続けているのに対して、信仰は教会の掲げる教理たる「世のため人のため」を目的とし、より「己を犠牲とする」場合に数倍から十倍まで増幅する。つまりもし集められた信仰が効果的に運用された場合、蝕人達の魔力に、一都市だけで比肩するリソースを有することになる」
「まあ結局、教会の出方次第で互角か苦戦させられるってことか」嘆息するラルマ。
「それじゃ各小都市は攻略できても、首都ヴェルナを攻略できるとは思えない」
ネーヴェはウィクリフを睨みつつ指摘する。
トーマもネーヴェの指摘した通りだと思った。首都ヴェルナの人口は十数万人以上だと考えるなら、少し増幅されるだけでそのリソースは軽く三万を超えるはずだ。たとえ魔脈が都市内部に侵入できたとしても、その後どうやって戦えばいいのだろうか。
「無論、三万のリソースだけでこの先戦い続けようとは思っていない。聖体を破壊し攻略が完了した後、その都市に、周辺の人々を魔脈に接続する大規模な器官“魔導脈”を敷設していく。クラーザでは既に敷設が始まっている」
「足りないリソースは、これから増やせばいいということよ」ウェルテが補足する。
「我々のリソースは魔脈の成長と、それに連なる者の多寡によって変化する。五つの都市の周辺の村や町に住む者達を魔脈に繋ぐことができれば首都の防衛を突破し、教皇の喉元に迫るには十分なリソースを確保できるだろう。無論、完成には時間を要するがな」
「理解した」
ネーヴェは、ウィクリフに向けていた視線を卓の上に戻す。
しかし、ラルマは納得がいかない様子で、意見をする。
「いや理解したってお前…俺は不安だぜ。そんな手に入れてもいない余所のモノをアテにするような作戦で大丈夫なのかよ」机に片手を乗せ身を乗り出すラルマ。
「もし、何らかの要因でリソースの確保が間に合わない場合は、蝕人全体の蝕の進行段階を意図的に進め、一人あたりの魔力の質を高めることで代替とする」
「それってつまり、蝕の影響で死ぬ人を増やすってことですよね…?」
思わずトーマは聞いていた。
「その通りだ、ベリダ及びその周辺の村について、その人口がおよそ半数になるまで蝕の進行を進めても問題ない」
「なるほどね、大浄化を止める頃には蝕人が全員死んでましたなんて事になってなきゃいいがな」ラルマは皮肉を言いつつ、身を引いた。
「そうならないために、私達がいるのよ」
「分かってるよ、続けてくれ」ラルマは掌を振り先を促す。
「ではマルフィナの攻略の概要について説明する。その後は各自魔物に帰化、己の領域で時間まで魔物の肉体や領域の状態を調整した後、侵攻を開始する」
マルフィナ侵攻の概要説明は滞りなく終わった、大筋はクラーザ侵攻の時と変わらない。市壁を破壊、内部に侵入し、魔脈を伸ばし結節を作りつつ、都市内部の跡塔を破壊し、聖堂の護りが弱まった所で総攻撃を仕掛けるというものだ。
みな既に魔物に帰化し、それぞれ己の領域で待機していた。トーマはアンヴィルの村近くの崖の上で伏せて寝ていた。村の様子は少し拍子抜けするくらい変わりなかった。
《自分が居なくても村が平和にやってて寂しいか、トーマ。魔物の影響は安くはない、一度、魔脈を抑えてしまえば半月程、留守にしたところで悪さをしようとする輩は現れん》
ウィクリフの声だ。
《いえ、違います。大浄化を阻止した後、誰がこの村を守るのかなって思って…。ずっと僕らが村を見守るわけにもいかないですし》
《大浄化を阻止した後、蝕人や我々がどうするかは、いずれ教える。今は作戦に集中してくれ》
†
クラーザ陥落の翌日。マルフィナ光域内のとある農村。
マルフィナから遣わされた兵士の一隊が訪れていた。
「以上、七名の者をマルフィナへ移住することを許可する。翌日中にはマルフィナの教会にて手続きを済ませるように」
一方的にそう告げると、一隊は去って行った。
その一隊が彼方へ去るのを見届けた後、村の広場に集まった村人は口々に「やったぞ」「よかったなぁ」「まさか申請が通るなんて」といったことを興奮した様子で口にし、喜んでいる。
「マルフィナへの移住については厳格であった大司教パルミロ様も、先の預言の魔物の出現とクラーザの陥落を受けて、女や子供から優先的に移住を受け入れて下さっている。努々感謝を忘れぬように」
その夜の村人を集めた宴では、移住を祝福する声、別れを惜しむ声、安全の祈る声がこだました。
「これからの命を作る妻や子供達を、マルフィナで守って下さるとは、大司教様の慈悲のなんと深い事か」
「湖水の街マルフィナに住めると羨ましい限りだぜ」
「大司教様に感謝を!」
クラーザが預言の魔物によって蹂躙されたとの知らせを聞き、暗く沈んでいたその村は、その夜だけは活気に満ちていた。
†
湖上に聳える、荘厳な円形の建築物、マルフィナ大聖堂。クラーザ修道院に比べて流線的な意匠が目立つマルフィナ大聖堂は、教会の建築物の中でも特に優美な雰囲気を備えていた。
白字に壮麗な金の装飾が施されたローブを纏った落ち着いた雰囲気の壮年の男、マルフィナの聖体を支える要、大司教パルミロが、その聖堂の中にいた。
光と同時に水も信仰するマルフィナの聖堂らしく、内部は至る所に水の流れる仕掛けが施されていた。パルミロの方針で、この聖堂は特別な儀式や行事の時にのみ信徒の立ち入りを許し、日々の祈りのために解放していはいなかった。
「パルミロ様、よろしいのですか?最近、周辺の村からのかなりの数の移住申請を許可しておられるようですが…もしマルフィナが次に狙われることがあれば、籠城戦になることは必至です。あまり多くの住民を抱えるのは得策ではないかと存じますが…」
「だからこそ、ですよ。魔物に対抗するためには信仰の強化が急務です、申請の大量許可は信仰をより効率的に集めるための贄に過ぎません、もし長期の籠城戦になり食糧に困る事態になれば、移住者を依り代にするだけです」
「しかし、移住して日の浅い者を無理に依り代にしようとすれば、拒絶反応が起きる可能性が―」
「そのような拒絶が起きないようにするのが、我ら教会の役目です」
パルミロの細い眼が司教を睥睨する。
「生ある時の仕事よりも死後の楽園に希望を抱きやすい女子供を優先して移住させたのもそのためなのですから」
「はっ、無為な杞憂を差し挟んだ事をお許し下さい」
「構いませんよ。速やかに移住してきた者達をここマルフィナ大聖堂に呼びなさい。順次、洗礼の儀を行います」
洗礼の儀、即ち、信徒の心に干渉しその動きを均一化する奇跡の一種だ。
「承知致しました」
「あまり、無理な信徒の心の統一は、高位の使者を呼ぶための信仰の強度を弱めてしまいますが、その量や質についての安定性は素晴らしい。ああ、それと選定の終えたポントとマルモの村の跡塔へ“
パルミロは薄い笑みを浮かべた。
†
夕刻。アンヴィルの村を見下ろす崖から飛竜が飛び立ち、教国の南東部、マルフィナ光域の中にある森に向かい暗い空を飛行していた。
マルフィナの光域へ近づく程に、空は明るさを取り戻し、月のようであった陽が、明るい本来の姿へと戻っていく。しかし、クラーザの時とは違い、今、空を染める陽は茜色で、地平へと近づきつつあった。
空を飛ぶトーマからは、北側の遥か遠方に、赤黒い血潮の山の傘の影を薄らと見る事ができた。
マルフィナより一キロメルト程南方の茜の陽に染まった森の中へと飛竜は舞い降りると、ウェルテの声が、“
《もう一度確認するけど、大まかな作戦の流れは前回と同じ、市壁の突破、都市内部へ循環器官を成長させ、同時に跡塔の破壊、及び使者の迎撃をする。全ての跡塔を破壊した後、聖堂に総攻撃、聖堂内部に侵入し大司教を殺す》
マルフィナは、南北に長い楕円形の湖の南の畔に隣接する、三日月のようにな形の都市だった。マルフィナ大聖堂は湖の中程に浮かぶように建てられている。その都市を囲う市壁は、幾何学的な模様の溝が掘り込まれ、高い装飾性を有していた。
《市壁の門が開くのに乗じて侵入するという手は、もう通用しませんか?》
《クラーザの陥落以降、各都市はさすがに警戒を強化しているわ。私の
《僕らが都市の近くにいることに、もう気づかれていたりは…》
《まだ正確な居場所は知られていないけど、間違いなく気配は察知されてるでしょうね。今回は小細工はしない、予定通り最初から全力で市壁を破壊する。今、トーマにだけ優先して魔力を供給させているわ、感じる?》
《はい、さっきから、とても調子がいいです》
《マルフィナの壁はクラーザ程厚くはなく比較的破壊しやすい、代わりに奇跡の力を高める細工が施されているの。つまり、何からの奇跡を発現される前に、一撃で打ち破るのが望ましいということ。その役目に適しているのは遠距離からの瞬発的な高火力を出せるトーマ、あなたというわけ。頼んだわよ》
《必ず、破壊してみせます》
紅い飛竜が森の中から飛び立ち、降下すると、緋色に染まる地面擦れすれを飛行してマルフィナへと接近する。
トーマは、飛行しながら可能な限り体内の魔力の流れを感覚することに集中した。胸の奥の辺り、炎嚢に溜まった炎の塊を喉を通して口腔に送り込む、そして、市壁、両翼で風を受け止め大地に足を付けると、口内の炎を凝縮し火球に変えて撃ち放った。飛竜の口腔より放たれた炎の球は地面に焼け跡を残しながら猛然とマルフィナの薄い市壁へと突き進む。
都市へと迫る炎球を見つけた伝令者の一匹が空から舞い降り、市壁の着弾点で身を固める。
伝令者が間に入ったせいで、火球は市壁に着弾し、爆炎を上げるも、幾何学的な模様の白い壁を焦がし大きな亀裂を入れただけに留まった。
《くっ!》
それを見たトーマは地を蹴り、羽ばたき、一直線に亀裂の入った壁に向かって飛行していく。
《なにしてるのトーマ!》
ウェルテの制止も無視し、進む飛竜は壁の手前で急上昇する。
そして、亀裂の入った市壁に目掛けて急降下し、速度と全体重を乗せた飛竜の強靭な両足が壁に蹴りかかった。
亀裂の入った壁はその衝撃に耐えられず大きく崩れた。飛竜は力技で壁を破ってみせたが、勢い余って足を瓦礫に取られマルフィナ内部の南端の通りへ転がり込んでしまう。足首と翼を傷め、咄嗟に身動きできずにいる飛竜へ向けて、都市の上空にいた伝令者が光の槍に姿を変えて飛来してくる。
《あ…》
ブレスで迎撃しようにも間に合わない。
しかし、その光の槍は、飛竜に突き刺さる直前、黒い斬撃によって断ち割られ消えていった。
《見直したぜ。なかなか根性あるじゃねえか》
《ラルマ…ありがとう》
倒れ伏す飛竜の横を黒い影が通り過ぎていった。
《トーマ、どこか負傷した?》
《はい、足と翼を少し捻りました》
《傷が再生するまでそこで大人しくしてなさい。この侵攻が終わったら説教よ。アルクスはトーマの護衛をお願い》
《…すいません》
《了解した》
魔物達は動きだす、マルフィナ都市内部への侵攻が開始した。トーマは自分の身体に流れる魔力が平時と同じくらいまでに減衰していくのを感じていた。
マルフィナ南部の跡塔へ、影と同化した黒豹、灰色の大狼、そして多数の蟲達が向かう。
クラーザと比して丸みを帯びた住居や流線的な造りの道が特徴的なマルフィナの街並みは、不気味な静謐に包まれていた。
《やけに静かだな。マルフィナの連中はやる気あんのか?》
黒い影が静かに路地や屋根を滑り抜ける。
《殉教者の匂いはしない》
人を容易く飲み込めそうな巨躯の灰色の狼が整った石畳を踏み鳴らし走る。その周囲を羽音を鳴らしながら
《油断は禁物よ、何か罠が仕掛けられてる可能性もあるわ》
しかし、 使者による迎撃が来る気配は無い。影と同化した黒豹、灰色の巨狼、そして多数の蟲達は、さしたる妨害も受けず南部の跡塔のある広場へと辿り着いた。
広場の中央には高さは五メルト程度の四角柱の塔が建っている。磨かれた白い石材は茜色の陽を反射していた。四角い広場の白い石畳には、跡塔の建つ中央に向かって×字に交差する溝が設けられており、四隅から跡塔の建つ中央へと水が流れていた。×字の交差点、跡塔の根元は取水口が開いており、四隅から流れ込む水を飲みこんでいた。
《嫌な感じがする》ポツリのネーヴェが呟く。巨狼は広場から後ずさる。
この跡塔に何か違和感を感じているようだった、しかしそれが具体的に何なのか判別はつかない様子だった。
《まあいいわ。ネーヴェとラルマは周囲を警戒しつつその跡塔を攻撃して、蟲達は東部の跡塔を攻撃させに行くわ》
《了解》
蟲の群れは東部へと移動していく、その途中で住居に侵入できないか
《まさしく籠城ね、好きなだけそうしていればいいわ。跡塔さえ破壊できるのなら、祈ることしかできない者に用は無いから》
マルフィナ東部の跡塔も、先ほどいた南部の跡塔と同様に、広場の隅から水が流れ込む仕掛けが施されていた。
†
《魔物共は、南の市壁を一部破壊、内部に侵入し、跡塔に攻撃を始めています。いかがなさいますか?》
“対話”の奇跡により、伝令者を繰る司教から大司教パルミロに報告が入る。
《まだ魔物に攻撃はせず静観しなさい。それよりも、破壊された市壁の修復の準備を急ぎなさい》
《承知しました》
マルフィナ大聖堂内部。
美しい青と黄の硝子で空と陽が描かれたステンドグラスの下で一人佇むパルミロは、顎を撫でながら薄く微笑む。
「
†
マルフィナ南部の跡塔は、ネーヴェの結晶の顎が食らいついていた、跡塔にはもう微かに亀裂が入り始めていた。一秒ごとに結晶の牙はみしみしと音を立てて食い込んでいく、一際大きな亀裂が稲妻のように広がったかと思うと、跡塔は根元から断ち割られ、破片をまき散らし石畳に倒れ落ちた。宙を舞う白い砂埃が緋色の陽を浴びて輝く。
《マルフィナ南部の跡塔、破壊完了だ。あっけねえな》
同時に東部では特に妨害もなく変異を終えた六匹の
《こっちも破壊完了…って、なに…これ》
しかし、酸の炸裂によって折れた東部の跡塔と、ネーヴェの結晶の顎が断ち割った南部の跡塔の残骸が液状に溶け透明な水のようになり、×字の溝へと流れていく。×の溝に流れる水流は、×字の交差点でまるで見えない巨大な四角い柱状の容器を満たしていくようにして跡塔が再生していくのだった。
《おい、ウィクリフ!こいつはどいうことだ》
《マルフィナの跡塔の記述が改訂された、今はそこに流れる水、全てが跡塔そのものだ》
ハイブに立つウィクリフは啓発者の
《ネーヴェ、水の流れる溝を堰き止めてみて。ラルマは再生中の跡塔に攻撃》
巨狼は×の字の四本の溝を全て堰き止めるように結晶の囲いを作る、しかし、水はその結晶の囲いを昇り流れていく。
黒豹は黒い爪で跡塔を切りつけるが、まるで水を掬うように手応えがなく、刻み付けた傷もすぐに消えて元通りになる。
《ちっ…やっぱり駄目か》
《狙ったように伝令者が出て来たわね》
湖の方から伝令者が次々と飛来してくる。魔物達の上空に来ると、光の槍となって落下する。黒豹は影に同化して姿を消して回避する、巨狼は結晶の盾で防ぎ、蟲達は建物の影に隠れてやり過ごした。
南の市壁で待機する飛竜とグリフォンに飛来する伝令者は、風の壁によって弾き飛ばされた。
《畜生、まだ増えやがる》
更に続々と伝令者が飛んで来る、もはや魔物達は白い槍の雨のように降る伝令者の突進攻撃を、躱し防ぐだけで手一杯だった。再生を続ける跡塔に構う余裕はない。
そして、跡塔を破壊できないということは、マルフィナ内部に魔脈を十分に伸ばし結節を作ることが不可能であるということも意味していた。状況の悪化はそれだけに収まらない。
《あの、破壊した壁が修復されてます、壁の上に水路があって、そこから流れてくる水が少しづつ石になってるんです》
飛竜は破壊された壁に火球を放ち修復を妨害するが、魔力が十分でない今は、修復の勢いを上回る程の威力も無く、連射することもできなかった。
《駄目です、間に合いません!》
《まずいわね、このままじゃマルフィナに閉じ込められる、撤退したとしてもマルフィナに何の被害も与えられず私達の存在を知らせただけになってしまう…やってくれるじゃない》
ウェルテは声に滲む悔しさを隠せない。現地での細かい作戦の指示はウェルテに一任されているが。全体の進退を決めるような重要な判断は、ウィクリフに委ねられていた。
事前に予定していた作戦が破綻している事はもはや明らかだった。
《全員、マルフィナから離脱しろ。初期の待機地点、結節を作ったマルフィナ南方の森の中のまで撤退だ。作戦を立て直す》
ウィクリフはあくまで落ち着いた声で、皆に撤退を指示を下した。
マルフィナより南の暗い森。
生い茂る木々は、背が高く、独特の静かな圧迫感を放っているが、ベリダの周辺にある森のように蝕痕が這い伸びてはいないため、不気味さは感じられない。
マルフィナから撤退した魔物達は、その森の中の木々の
森の中の村の約数十人の住民は今、意識を失い村の中央の広場に山積みにされており、何匹かの
その人間の山の横には結節ができており、その上には黄色い透明な半球の液胞、“繁殖胞”が乗っており、その液胞を抱くようにして一メルト弱もある巨大な蜂の魔物が乗っている。
その横には、グリフォンが翼を畳み座り、結節を挟んだ反対には巨大な灰色と白の毛皮の狼と黒い巨躯の豹の魔物が身体を伏せ休んでいる。
結節の少し離れた後方には紅い鱗の飛竜が身体を横たえていた。マルフィナの伝令者の監視の届かない、暗い森の中の村で魔物達は休んでいた。界域の中に潜む大海蛇の姿は見えない。
魔物達は、
《―跡塔は信仰を支える柱、即ち受容装置を担っている。故に、“加護”や“秘匿”の力を含むような奇跡を過剰に付与することはできない。つまり、過剰な防護強化のできない代物であるからこそ、都市攻略の主軸に成り得たのだ》
《そしてマルフィナは、跡塔に“加護”を付与して守るのではなく、破壊されてもすぐに再生できるようにしていた…と、やってくれるわね》
《ネーヴェの力で都市を流れる水を凍結させたりできないのか?》
アルクスは、その鋭い嘴で桃色の臓腑を引きずり出して
脚部を豪快に噛み砕き、滴る血で顎を濡らし、肉と骨を咀嚼しながらネーヴェは答えた。
《たぶん無理、普通じゃない感触がした》
《だろうな。あの湖は強力に奇跡の力と親和している、おそらく、魔力による干渉も簡単には寄せ付けないだろう》ネーヴェの言葉少ない感想を、ウィクリフが補足する。
《湖の水をどこかへ流してしまう、とか無理ですか?》
胴体を尾の先で抑え、首を噛み千切りながら質問するトーマ。
《現実的じゃないわね、そんな大がかりなことをする時間も魔力も無い。おそらく、少し水位を下げる程度のことなら向こうも想定してるはずよ、そんなことで都市部への水の循環を止められるとは思えない》
ウェルテは蜘蛛に似た蟲が尾部から吐き出す白い糸で、獲物を包ませていた。
《跡塔は無視して、聖堂に総攻撃を仕掛ければいいんじゃねーのか》
《それができたら最初からやってるわ。大聖堂や修道院が恐ろしく高い防御能力を持っていることは教えたはずよ、跡塔の一つも破壊せずに聖堂だけ狙っても絶対に大した効果は上げられない、それに、飛行や水泳能力を持たないラルマやネーヴェは湖上の聖堂を前にしてどうやって戦うつもり?あの湖の唯一の足場は、都市部から大聖堂へ繋がる水面に沈んだ細い橋だけなのよ》
《水上を走るくらいならできるけどな、俺は》
《止まることなく駆け抜けるだけでしょう、足を取られたらその時点て終わりじゃない》
《じゃあ、もう諦めて別の都市の攻略を始めた方がいいぜ、マルフィナは後回しでいいだろ。湖全体が跡塔だなんてどうにもならねーよ、実際》
皆、“対話”の領域へ声を発するのを止める、己の思考だけが自分の意識を満たした。
何も打つ手は無いのだろうか。トーマは自分の無力さを改めて感じる、何も知らない、ただの一人の蝕人だった頃の惨めな思いが心を支配していた。精神的に負の状態を維持してはならない。
なぜなら、精神状態と密接な関係にある魔力の循環に悪影響を与え、ひいては魔物の能力の低下に繋がるからだ。そう教えられていた事を思い出し、なんとか気持ちを奮い立たせようと、沈黙を破る。
《…もし、ここでマルフィナから完全に撤退しても、大浄化を阻止するためには、いずれまた攻略しないといけないんですよね》
《無論だ、時間を置いたからといって状況が良くなることはない。ここでマルフィナを攻略する、それは絶対だ》
《そりゃ、結構なことだ、その手段があるならな》
《ねえ、ウィクリフ。湖をまるごと跡塔に等しい程の集約的な象徴物にするということは、マルフィナには湖に関する神話や逸話でもあるの?》
界域の中のティーフがウィクリフに聞く。
《ああ、あの湖の中で見つかった赤子が、後に教皇の座に就いたというものがある、マルフィナの大聖堂が湖上に建てられているのはそれに
少しの沈黙の後、ウィクリフは言う。
《俺に考えがある。上手くいけば、マルフィナを攻略できる》
その言葉に魔物達は食事の手(というよりは足や口)を止めた。
†
空を染めていた茜色は、いつのまにか濃紺に飲み込まれつつあった。
薄く白い光を纏うマルフィナの市壁と跡塔、そして湖上の大聖堂だけが、夜の闇の中に浮かび上がっている。
魔物がマルフィナから逃げ出してから、
《パルミロ様。ご指示の通り、“
マルフィナの市壁は、透明な膜のようなもので覆われており、時折、闇の中で光を反射していた。膜の正体は、奇跡の力で重力を無視して流れる湖の水だった。
「よろしい。魔物共は不意を突く姑息さと、身の程を弁える知恵はあったみたいですが、マルフィナの市壁を破ることはもはや不可能でしょう」
《魔物共はまだ、都市周囲をうろついているようですが、こちからは攻撃なさらないのですか》
「威光の薄い都市外へ放っても返り討ちにされるだけです、わざわざ餌を与えてやる必要はありません。市民達が節制すれば大浄化までこのまま籠城できる程度の蓄えはあります。私達はここでただ“楯”を維持し待っていればいいのです」
《承知しました。それと…先程から蟲の魔物がトラミーナ湖の湖面を飛び回っていますが…いかがいたしましょうか》
「何ですかそれは?一応、湖上の監視の伝令者を増やしておきなさい」
パルミロは勝利を確信していた。事実、もはやどれだけ足掻こうと"楯"を破ることは不可能だ、トラミーナ湖がある限り、水の楯が破壊されることも、消えることも決してないのだから。
「教会を脅かす預言の魔物共は、この美しき湖の都市マルフィナで朽ち果てる。ふふ、見物ですね、これは」
パルミロは独り、薄明るい大聖堂のステンドグラスを眺めている。
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