腐蝕する心 Blessed pool

第三章

3-1 誰かのために

 …―ん


 どうか自分の心を信じて。

 この先、きっと君は、他の誰かが己の弱い心を守るために掲げた正しさによって否定される。

 でも、決して諦めないで、君の心を守って。

 たとえその正しさが、どれほど強くても、どれほど大きくても。

 弱い心に屈してはだめ。


 …どくん







 首都ヴェルナ。ヴェルナデット大聖堂。

 幾何学的な美を感じさせる彫刻の芸術、その粋が随所に散りばめられた荘厳で壮麗な造りの内装、全体として回転対称性を持ち、壁から聖卓のある中央へと線が収束するようにできている。舞台のような大きな円形の聖堂内部。

 ずらりと並べられた白い椅子に祈りを捧げ座る信徒の姿は無く、変わりに片手に収まる程度の大きさの輝く白い球体が椅子の上に浮いていた。それら白い球体は一様に、中央へ向けて光を発していた。

 聖堂の中央には、大人一人が裕に収まる白い巨大な球体が浮かんでいた。見事に完全な真円だ。

 その巨大な球体の傍、球体を△に囲うように、白いローブを纏いフードを目深に被った三人の子供の信徒らしき者が佇み、会話していた。

 声はあどけなさの残る少年のそれだが、その口調は妙に大人びていた。

「人徳のアベラルドが死んだ、臓腑より生まれしクラーザの聖体は消失」

「預言の魔物だ、やはり教皇様の身動きの取れない時に現れたな」

「クラーザの防備は、何匹かの魔物の攻撃で陥落するような脆いものでは無かったはずだ。彼の魔物が、いくら突出した能力を持っていたとしても」

「驚くべきはその能力ではなく、高い知能を持っている点だ。無駄な破壊や攻撃をせず、互いに連携して動くことで、使者や跡塔を効果的に破壊している」

「いずれにせよ、我々は予定された指揮を実行するまでだ」

「首都の一切の加勢をせず、守備に徹し。破壊された都市に残された者達は首都ヴェルナの地下居住区にて受け入れる」

「それでいい。大浄化の準備に滞りは無いのだ、残された都市は首都を守るための楯となるだろう」

「左足の大司教、水読みのパルミロ。右足の修道院長、選ばれしイザック。右手の大司教、戦のフィリベルト。左手の修道院長、聖女アマリア。彼らの働きに期待しよう」

 大聖堂の中心に置かれた真円の白い巨大な卵の中の輝きは、胎動するように明滅していた。



 クラーザ攻略の翌日。トーマは審問の院の自室のベッドの上で目覚めた。外は明るい、ベリダでは貴重な日照の時間帯、正午だ。

「そっか、もう勤労の義務は無いんだ…代わりに、魔物になっちゃったけど」

 ベッド脇のテーブルには黒い不思議な素材の服ではなく、慣れ親しんだ支給服が置かれていた。

 服を着ながら思う。自分は飛竜の姿であったとはいえ、クラーザの住民を喰らい、そして光域の消滅に加担したのだという事実を。

「もし、大浄化が蝕だけを浄化するもので、ウィクリフは私利私欲のために僕らを騙してるだけだったら…僕は何の罪もない人を喰らって都市を破壊しようとする、ただの化け物なのかな」

 人間の姿でいるときは、人としての価値観が強く優先される、そんな気がした。

 廊下から木の床を歩く音が聞こえてくる。音はこの部屋の前で止まり、ドアがノックし、入って来たのはアルクスだった。

 アルクスも今日は質素な支給服を着て、腕や首が見えないように麻を包帯を巻いていた。その腕はパンとスープとチーズ片が乗せられた木のトレーを抱えていた。

「いい加減、自分の食事くらい自分で用意して欲しいものだな」

 アルクスは食事の載せられたトレーをベッド脇の机に置く。

「すいません、ありがとうございます」

「いいさ、疲れてたんだろう。魔物になって間もないのに、クラーザではよく働いてくれた」

「いえ、本当に言われた通りするだけで精一杯でした」

「なんにせよ、お前はもうこれからの戦いで一翼を担う存在なんだ。それより、自分の身体の感覚に違和感はないか?」

「…実は、指の感覚とか、なんか変な感じで」

「決まりだな。食事が終わり次第、審問の院の東の門前に来てくれ、少し付き合ってもらおう」

 アルクスはトーマに蝕痕を隠すための巻布を投げて渡し、部屋を辞した。

「えっと、わかりました」

 トーマはできるだけ急いで食事を済ませ、手足に布を巻いて蝕痕を隠し、審問の院の東の門に向かう。

 東の門ではアルクスが待っていた、足元には取手の付いた小さな樽が置かれている、その樽の縁には乾いた麻の布が数枚掛けられていた。

「行くぞ、ついて来い」

 二人は鉄の院を出て、東へ石畳みの道を歩く。十分程歩くと塀に囲まれた広めの庭へと着いた。その庭は芝生に覆われた地面と、中央に一メルト程の高さの大理石の白い柱が三本、等間隔に大きな三角形の頂点を取るように建っている、その∴の中央には教会のシンボルである陽を象った銀の環が鎮座していた。他には何もない場所だ。この三本の柱からは浄化の力は全く感じられない、ただの石の柱だ。

「あの、ここは…」

「魔物の肉体に慣れ過ぎれば人間の身体の動かし方を忘れてしまう。均衡を保つためには適度な運動が必要だ。というわけで、その運動も兼ねて、これからこの碑の清掃を手伝ってもらう」

 二人は黙々と白い石碑の水拭きを始めた。

「この石碑は、何かの慰霊碑ですか?」

 どことなく、クラーザで破壊したいた跡塔に似ている。

「墓を持てない蝕人の墓代わりさ。ベリダで死んだ者達の魂が迷わず天に還るための目印だそうだ、三本あるのは、初めて奇跡を起こした三人の聖人を表しているらしい」

「確か献身の聖人、信仰の聖人、代行の聖人ですね。献身の聖人が自らの心身を捧げ、信仰の聖人が奇跡の到来を信じ、代行の聖人が神に代わり、奇跡を起こしたと言われている…」

「そう、よく覚えているな。ラルマやティーフは、聖書の内容など全く知らないぞ」

「神話や御伽噺が好きだったんです。聖書だけじゃなくて、異国の話を知っている人から聞かせてもらったりしてました」

「教会を敵に回すのはまだ怖いか」

 水拭きする手を休めずに聞いてくるアルクス。

「実は、とても怖いです…正直、逃げ出したいくらいです。ダメですよね、こんな気持ちじゃ」

 トーマは手を止め、答える。

「いや否定することはない。私も少し気を抜くとすぐに、武力に任せた都市への侵攻ではない平和的な解決方法があるんじゃないか、と考えてしまう」

「でも、僕ら蝕人は教会から同じ『人』と見なされていません、だから、交渉の余地など最初から存在しないんですよね」

「そうさ、だから戦って奪い取る以外に道はない。ウィクリフはこれを"生きるための戦い"と言っていたが、私にとっては“大事な物を守るための戦い”だ。トーマにもあるんだろう、失いたくない大事なものが」

 すこし逡巡した後、トーマは答える。

「はい」

 頭には崖から見下ろすアンヴィルの村の景色が浮かんでいた。

「そうか、なら、頑張るしかないな」

アルクスは微笑みを浮かべていた。

「さて、暗くならないうちに帰るとしよう」

 三つの微かに水滴の残る三本の白い塔は、陽の光を反射していた。

 二人は審問の院の戻り、アルクスと別れた。掃除道具を片付けに行ったらしい。

 トーマは自室に戻り、ベッドの縁に腰かけ、右手の包帯を外してそこに這い伸びた黒い蝕痕を眺める。

「村の様子、見にいこうかな」



 アンヴィルの村の中に立ち並ぶ一軒の小さな木造の家で、一人の老女と、一人の少女がナイフで林檎の皮を剥く作業をしていた。実と皮に分けて、それぞれ別々にジャムするためだ。

 ベリダ属下の村は、ベリダに比べて食糧の配給が多少優遇されている。それは、危険な場所で生きている者達へのせめてもの配慮だった。

「最近はどうも、気味が悪いくらい平和ねえ。荷馬車が襲われるような事も無いから、食い物にも困らなくて助かるよ」

 老女は、齢を感じさせない鮮やかな手さばきで、ろくに手元も見ずに次々と林檎の皮を剥いていく。

「西のハンドミルの村や南のトポールの村も、魔物による被害はほとんどないって聞くし、きっとベリダの大司教様のお陰ですね」

 少女の手捌きも決して拙いものではないのだが、老女のそれには遠く及ばない。

「さすが、大司教様ね、私達のような蝕人にも平和な日を与えて下さるんだから」

「ええ…本当に」

「さて、こんなもんでいいかね。お手伝いありがとね、ユーリ」

 机の上には、十数個分の紅い皮と、薄い黄色の玉が木の皿に分けられている。ただ、一つだけ、皮のついたままの紅い林檎が、老女の手元の大皿の机の上に残っていた。

「どうしたもんかね、これ以上は鍋に入らないし、食べちまうのも気が引けるのよね」

「あの、イルダさん。これ、ジゼルにあげてもいい?あの子、林檎が好物なんだけど、今回配給されたものは保存の利く全部ジャムにして備蓄するためのものって聞いて、落ち込んでたから」

「そうかい、じゃあ食べさせてあげな。生きてる間は、できるだけ悔いの無い様に過ごすのが一番だ」

「ありがとうございます」

 ユーリは、小さな皮の鞄に布で包んだ林檎を入れ家から出る。しかし、村のジゼルの住む家のある東ではなく、崖の上に至る獣道のある村の北側へと向かっていった。樫の木の防御柵の隙間をくぐりぬけて、林の中へと進む。少し前なら村の中央の櫓で、村の外に異常が無いか見張りをする者に見つかっていただろうが、魔物による被害が一切見られない今は、少なくとも魔物の活動が極めて低下する日照のある正午付近は、見張りの者を立たせる必要はないという意見に過半数以上の村人が賛成していた。

「ごめんなさい、イルダさん。ジゼが林檎を食べたがっていたというのは嘘なんです」

 ユーリは独り謝りながら獣道を急ぎ気味に登って行く。

「私はどうしても、この崖の上から感じる大きな存在が何なのか、確かめたいんです」



 薄い日の当たるアンヴィルの崖の上に紅い鱗の飛竜は、その巨躯と翼を伏せて休めていた。

 人の姿でいるときより、不思議な程に心が落ちつている。

 そんな時、飛竜はこの崖に向かって草を分け、枝や枯葉を踏む音が近づいてくるのを聞いた。

《何か近づいてくる、獣かな、いや…まさか人?》

 首をもたげて、音が近づいてくる方へ顔を向ける飛竜。

《どうしよう、どこか別の場所に行ったほうがいいかな》

《落ち着け。不用意に動けばお前に掛けられている“秘匿ハイディング”の奇跡に隙間ができる。大人しくしていれば、何人もお前を認識する事はない》

 ウィクリフの忠告に従い、トーマはその場でじっとすることを選ぶ。

 崖の後ろの繁みから現れたのは、一人の蝕人の少女だった。蝕痕は、右腕と首から頬にかけて刻まれているのが分かる。

 少女は飛竜のいる辺りにゆっくりと近づいていく。飛竜は少し身体を引くが、少女は遠慮なく近づいていく、そして、ちょうど飛竜の胸の辺りに触れた。

《う…》

「やっぱり感じる…温かい鼓動。怖いような優しい感じ」

 秘匿の奇跡は働いているようだ、おそらく感じる事ができているのは気配だけなのだろう。

《な、なんだろうこの子…》

 トーマは、自然と心臓の鼓動が早まるのを感じていた。

「あなたはいなくなった兄さんじゃありません…私には分かります。見る事も触れる事もできないけれど、あなたはこの村を守る神聖な存在であると、私は信じています。どうか、これからも、アンヴィルを守って下さい」

 少女は後ずさり、屈み、鞄から取り出した紅い果物を足元に置いて、崖から去って行った。

 飛竜は、恐る恐るその林檎に鼻先を近づける。

《これは、ただの林檎ですよね?》とのトーマの問いに。

 ウィクリフは《そのようだな、食べたいのなら好きにしろ》と答えた。

 飛竜はその口先で林檎を器用に掴み、紅い舌を使って奥歯に転がしてかみ砕き、咀嚼し、飲み込んだ。

 自分が飛竜だからなのか、繊維と水っぽさが口腔に少し広がっただけで、特に味を感じることはなかった。しかし、それよりも、初めて他人から向けられた好意にトーマの心は踊らずにいられなかった。



 蝕の帳のせいで、正午を二時ふたときも過ぎれば夕闇に包まれてしまうベリダ。

 頼りない木漏れ日が散らばるを林を足早に抜け、ユーリは柵の隙間から村の中に戻ったが―。

「おや、ユーリ。あなたは、どうして防御柵の外から入って来たのですか」

 不意に声を掛けられ、心臓が飛び跳ねる。

(―どうしよう、なんで神父様がこんな所に)

「私は柵に破損している場所があると聞いて、その確認をしていた所です。さあ、ユーリ、黙ってないで何とか言って下さい」

「……私は―」

「ユーリ!こんな所にいたのかい。悪いねえ神父様、この子、北の林のほうで兄の声を聞いたなんて言って、飛び出していっちゃったんだよ、本当に無事でよかった」

「イルダさん…」

「そうでしたか、君が行方の判らなくなってしまった兄に気を掛けているのは知っています。ですが、一人で村の外に探しに行くというのは自殺行為ですよ」

「はい…」うな垂れるユーリ。

「平穏な日々が続いているからといって危険な行いは慎むように、何よりも、今あなたの命を大事にしてください」

「もう二度とこのようなことはしません、神父様」

「そう願っています」と、言って神父は教会の方へ歩いていった。

「さあ、帰るよユーリ」

 ユーリはイルダに伴われ家へと帰った。

 家の中に入るまで無言だったユーリは、そっと口を開いた。

「イルダさん、どうして私を庇ってくれたんですか」

 イルダは背を向けたままで答える。

「ジゼが林檎好きなんて聞いた事も無かったからね、あたしに嘘を吐(つ)いてまであんたが何かしようとした事なんて今まで一度も無かったからね。詳しくは聞かないけど、大事なことだったんだろう」

「はい…」

「ならいいさ。生きている間は、悔いの無い様に、思った事はやりきって過ごすのが一番だ」

 イルダは優しい笑みを見せて、自室へと戻っていった。

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