2-6 名誉ある者達
クラーザ修道院の大きな礼拝堂の周囲には数匹の伝令者が以上が無いか哨戒していた。その伝令者が礼拝堂の西の広場へと灰色の巨躯の狼が向かい走っているのを認めると、アーチ形の巨大な大扉の前に、二つの光が集積し始める。一つは、メイスとバックラーを持った近接装備の殉教者に、もう一つはクロスボウを持った遠隔装備の殉教者の姿へと変化した。
同様に、礼拝堂北翼に赤い飛竜とグリフォンが飛んでくるのを伝令者が確認すると、北の屋根の上に長弓を持った殉教者が二体、クロスボウを持った殉教者が二体、光の中から召喚され。
更に、礼拝堂南翼に蟲の群れと、空を泳ぐ大海蛇が迫ると、南の屋根の上に長弓を持った殉教者が二体、短剣を両手に持った殉教者を二体召喚した。
《同時に十体の殉教者か、間違いない、これでクラーザの召喚可能な使者は全てだ。皆、殉教の奇跡に巻き込まれぬよう警戒を忘れるな》
《はい》
礼拝堂の西、入口前の広場。巨狼は間合いを詰めようと少し前に歩みを進める、すかさずクロスボウの殉教者が巨狼に向けて矢を放つ。巨狼が後方に飛び退ると、元居た位置の地面から結晶の柱が林立する、光の矢は結晶の柱に当たる直前で消え失せ、柱の後方でまた出現し狼へと直進する。不意の攻撃に回避が遅れる巨狼、矢はその青色の右目に突き刺さる―。
―否、巨狼の眼球に突き刺さるはずだった矢の先端は、その眼球に触れる直前で停止してた、とっさに巨狼の顔の右半分を覆った結晶が光の矢の侵入を阻止していたのだった。その間、影と同化した豹は修道院の入口で構える殉教者達まで間合いを詰めていた。
《消えろ偶像が!》
蝕を纏った不可視の爪の斬撃がクロスボウの殉教者に襲い掛かる。が、金属音と共にそれが中空で何かに防がれた。
《なっ》
右隣にいたメイスとバックラーを持った近接装備の殉教者が、輝くバックラーでそれを防いだらしい。だがおかしい、近接装備の殉教者はただその場でバックラーを構えただけだ、クロスボウを持った殉教者をかばうために移動などしていない。更に、その殉教者は中空でメイスを振り下ろす。影の中の黒豹は寸での所で危険を察知し後方に飛び退く。それと同時にラルマのいた位置の石畳みから光の波紋が広がった。
《当たらない矢を当て、見えない敵を攻撃し、防げないはずの攻撃を防ぐってことか。なるほど奇跡、神の御業ってわけだ》ラルマはおどけて見せる。
《ただの子供騙し》ネーヴェに臆す様子は無い。
飛竜は礼拝堂の北翼上空を旋回し、グリフォンはその下あたりで滞空していた。
《トーマ、幾つか私からの注意だ。一つ、殉教者が放つ矢を無理に避ける必要はない。一つ、礼拝堂の屋根に近づきすぎない。以上だ》
《わかりました。つまり、今の高度と距離を保って攻撃続ければいいんですね》
《そうだ、頼んだぞ》
修道院の北翼の空を旋回しながら、礼拝堂の北翼の屋根に向けて炎弾を撃つ飛竜。造血胞の高濃度魔力を得ているおかげで、地上にいるとき程ではないが飛行しながらでも威力は悪くない。
長弓の殉教者が飛来する火球に向けて光の矢を放つ、矢が火球を貫くと、火球は回廊の屋根に当たる前に燃え尽きて消えてしまった。クロスボウを持った殉教者が竜に向けて光の矢を放つが、それはグリフォンが生みだす風によって軌道が逸れていく。
《休まず攻撃を続けてくれトーマ。こちらには潤沢な魔力がある、攻め続けていればいつか教会の防御にも穴が開く》
《はい!》
礼拝堂の南翼。空を地を多数の蟲が飛び交い蠢めいている、その後方には大海蛇が中空に浮かんでいた。
酸の液嚢の尻部を持った蟲を見つければ、長弓の殉教者が的確にそれを撃ち殺していく。
大海蛇が口から水泡を放つと、短剣の殉教者に命中し激しく炸裂し、身体の自由を一瞬奪う。長弓の殉教者が空飛ぶ大海蛇に矢を放つが、それは不可視の水の壁に阻まれ著しく威力を減衰して、目標に当たることなく地上に落ちていった。
《簡単には修道院を破壊させてくれなさそうだね》
《ティーフ、あなたは
《いいけど、少し時間かかるよ?》
《構わないわ、それまでは私がなんとかする。生半可な攻撃じゃ礼拝堂に穴を開けるなんて不可能よ》
礼拝堂の入口の大扉を守る殉教者達に直接的な攻撃は不利と判断した二体の魔物は、戦法を切り替えていた。
《そっちがその扉の前から絶対に動かないなら、動かざるを得なくしてやるだけだ》
巨狼は大扉を巨大な半円で囲うように結晶の柱を林立させる、そして、影に同化した豹は、その結晶の林を縫うように走りつつ、結晶の林の間の地面に不可視の呪いの爪痕を刻み付けていく。
それでも、扉の前に陣取る殉教者からの攻撃は苛烈で、影の中の豹は紙一重で何本かの矢を躱し、幾本の結晶の柱はメイスの打撃を受けて断ち折れた。そうして、白い石畳に刻まれた黒い蝕の爪痕は殉教者達が守る礼拝堂の入口を大きな破線の円で取り囲んだ。それでも、殉教者達は動かない。
《いけるな。ネーヴェ、やってくれ》
《柱の形成を解除》
結晶柱の林が砕け散り破片が舞い散るのと同時に、二本の霜の跡が一直線に、二体の殉教者達の足元へと伸びていく。結晶に拘束される事を嫌った殉教者達は跳び退く、しかし、跳び退いた先には蝕の爪痕が待ち構えていた。二体の殉教者に黒い爪痕が容赦なく投影される、致命傷にはならなかったが、二体の殉教者は数瞬、奇跡の力が大きく減衰した無防備な状態を二体の魔物の前に晒すことになった。
《いただき》
だが、数瞬あれば蝕を操る巨躯の黒豹と、結晶を操るの巨狼の前には、只の獲物だった。巨狼は近接装備の殉教者に飛びつき、その剛腕で身体を抑え、首筋に噛み付く、姿を現した黒豹はクロスボウの殉教者の足を切り裂き、胸部を切りつけようと迫った。しかし、殉教者の身体が激しく輝きを帯びる。
《ちっ、やっぱりこれか!》
二体の魔物は、殉教者から素早く飛び退く…が、殉教者の身体は爆発せず、代わりにその輝きが収束して礼拝堂の大扉へと注がれた。残された殉教者の骸は光の粒になって消えていった。
《何をしやがった…クソッ!》
礼拝堂の入口を閉ざす武骨な大扉に蝕痕を刻みつけようとする黒豹。白い扉に黒い爪痕が刻まれる、が、すぐに消えてしまう。
《やっぱり小細工されてら…全力で魔力を込めた一撃なら破れるか…?》
悩むラルマにウィクリフからの声が届く。
《止めておけ、この扉を守るためだけに市壁全域を覆える程の“加護”が掛かってる。おそらく殉教者共は、自身が破壊されそうになった場合に、礼拝堂に防護の奇跡を掛けて消滅するように命令されていたのだろう》
《じゃ、どうすりゃいい》
《礼拝堂への侵入孔は北翼か南翼から開ける。お前達はトーマ達のいる礼拝堂北翼に加勢しに行け。そこでラルマ、お前は攻撃をせずに殉教者を観察してくれ。少し気になることがある》
《へぇ、わかったよ。弱点の一つでもありゃ見つけてくれ》
二体の巨躯の獣は礼拝堂北翼に向かって走った。
黒豹は容易く高い壁を駆け登り礼拝堂中央の屋根に辿り着く、そこから北翼の高いを見守った。巨狼は礼拝堂北翼の壁際で止まり、アルクスに判断を仰いだ。
《アルクス、指示を》
《ネーヴェはそこから殉教者達の足を少し止めてほしい。やってくれるか?》
《了解》
《トーマはブレスを一時停止してくれ》
《わかりました》
狼の足元から発生した灰色の霜は、北翼の壁を走り、一瞬にして屋根の上に広がり、四体の殉教者を足の自由を一瞬奪う。
《拘束した》
アルクスは空気を構成する元素を体感的に理解していた、そしてどの元素を集めると何がどうなるかも理解していた。故にアルクスは、炎を強める元、酸素だけを周囲の空気から集めて殉教者の周りに圧縮することができた。
《トーマ、撃て!》
アルクスの号令。
《はい!》
渾身の火球が飛竜の口腔から放たれ、高密度に酸素が収束していた礼拝堂北翼の屋根の上に着弾すると、いつもの数倍の規模の大爆発が起きた。修道院全体に大きな振動を伝える程の大爆発は、ただの建築物であれば、粉々に破壊できる威力を持っているはずだった。しかし、北翼の屋根は光を帯びており、全くの無傷だった。爆裂の直前に殉教による強力な“加護”を掛けられてしまっていたのだ。
《殉教者を犠牲させることはできましたけど…》
《ここから礼拝堂の北翼に穴を開けることはもう望めないな》ウィクリフは冷静に分析する。
《倒す度に強力な奇跡の防護を掛けられていては
《ああ、上手くすれば殉教の奇跡を阻止できるかもしれない。ラルマ、お前だけ南翼に行け》
礼拝堂南翼。多数の蟲達による刺突、切断、咬合、そして酸の自爆の攻撃が殉教者と礼拝堂の屋根や壁を攻め立てていた。しかし、南翼を守る殉教者達は迎撃に徹しており、決して隙を見せない、そのため、ウェルテの蟲の攻勢だけでは決定的な被害を与えられずにいた。むしろ、もう被害を与えるのではなく、単に蟲を途切れずに向かわせ、こちらの準備を意識させないことが目的だった。
《で、どうすりゃ殉教者の悪あがきを阻止できるんだ?》
《殉教の奇跡を行使するために光を収束させる時、光が完全に収束して消える瞬間がある。おそらく光が完全に収束したその瞬間に、蝕を刻み付けることができれば、光の解放を抑止し殉教の奇跡を立ち消えさせることができるはずだ》
黒豹は白い屋根の上を伝い、十字型の礼拝堂の屋根の中央、交差点近くで止まり、南翼に目を向ける。四人の殉教者が多数の蟲を次々と精確に射抜き、切り裂いてく様子が見える。
《俺にその一瞬を狙って爆発寸前の火薬の中に飛び込めってか》
《そういうことだ、一体でいい、殉教者を仕留めてみせろ》
《ったく、無茶言いやがるぜ》
《ティーフ、雷撃の準備は出来ているな》
礼拝堂より少し離れた建物の上に、水面から浮き上がる様にして大海蛇の姿が現れる。
《うん、いつでも撃てるよ》
その腹は巨大な卵を飲み込んだかのように膨らんでいた。界域を満たす薄い魔力を含む液体、“界水”をその腹に圧縮しているのだ。
《こっちも蟲の準備できたわ。ティーフ、撃って》
《いくよ》
大海蛇の腹から首、そして口腔へとその膨らみが移り、極限まで圧縮された界水の砲弾が放たれる。水球の砲弾は空間を泳ぐように加速しながら水平に推進し礼拝堂南翼の屋根へ向かう。
同時に、縦横に飛び回る
《今だ、ラルマ》
礼拝堂の屋根の中央に居た黒い豹が影から姿を現し走り出す。水泡の弾頭が屋根に直撃する寸前、殉教者達四体の身体に光が溢れる、対処不能な脅威を感じればすぐに殉教するつもりだったのだろう。そして光が内部に収束する。
ラルマはその刹那、中央にいた一体の殉教者の首を背後から切り裂き、そのまま屋根から跳んだ、黒い姿が中空に舞う。その横をティーフの水泡の弾頭が通り抜る。ラルマは背後で激しい水の爆裂を受けて中で錐揉みになりながらも、上手く衝撃を殺し地面に着地した。
《上出来だ》
殉教者の姿は無い、礼拝堂の壁にぶつけられた
《ラルマが殉教者を一体仕留めたことで、奇跡に解れができたのね…これならいけるわ》
《ウィクリフ、そろそろ中央の造血胞が消滅しそうだよ》
《問題ない、あらゆる障害は排除された、後は無抵抗な老人を一人殺すだけだ。ラルマ、頼んだぞ》
《あいよ》
――何もかも思い通りにいくと思うなよ、悪しき魔物共よ。
壁を登り、屋根に立ち開けられた穴へ走ろうとした黒豹を眩い光が迎え撃つ。
《ちっ…まだ奥の手隠してやがるのかよ!》黒豹は後方に飛び退った。《俺にこの中に飛び込めってんじゃねえだろうな?》
南翼の屋根の破壊された箇所に強い光が集積し魔物の侵入を阻害する、更に破壊された石材が光と共に、少しずつ復元され始めていた。
《侵入は一時中止だ、今の魔力の濃度も循環も不完全な状態で無理に突破できるような易い浄化の光ではない》
《おいウィクリフ!追いつめる程、次々とこんな強力な奇跡が現れんなら、本当に中にいる親玉を殺せるか怪しいんじゃねーのか?》
《いや、これだけ強力な奇跡を起こすには相応の犠牲が必要だ。そして依り代は全て使者の顕現に使ったはず。おそらく、礼拝堂の中に居た信者か修道士を手当たり次第、不完全な依り代にでもしたのだろう》
《追いつめられた臆病な修道院長のやりそうな事ね、“自分の命を守る事が光域を守るためなんだから”とでも言って、信者を騙したんでしょう》
《…あの、僕のブレスでなんとかできませんか》
《必要ない、今のお前では魔力の無駄に使うだけだ。ネーヴェ、結晶で穴の補修を阻害しろ》
ウィクリフは素気無くトーマの提案を一蹴して、ネーヴェに指示をする。
礼拝堂の南翼の壁の下に構えた巨狼の足元から霜が壁を伝い伸びていく。霜の跡は破壊された箇所の縁を覆い、分厚い灰色の結晶へと成長する。
《あまり長い時間、阻害し続けるのは困難》
クラーザ中央では、巨大な造血胞の中に灯っていた赤い光が消え、干からびたように縮退していく、それに伴い、修道院周辺に刻まれていた蝕痕も少しずつ消えていく。
《まずいわね…一度撤退して、また魔脈を成長させる所から始めるしかないんじゃない?》
《駄目だ、それでは手遅れだ。第一の目標であるクラーザを落すだけで、これ以上の魔力の消耗は許されない》
ウィクリフはウェルテの案を否定した。
《じゃあ、どうすんだよ》
《ラルマとネーヴェを除くすべての者達で、西の肥大化結節を速やかに造血胞に変異させろ》
《了解だ》アルクスは疑問を呈すことなく素早く行動に移る。
今必要なのは迅速な決断と行動だと理解しているのだ。
《あ、はい!》
クラーザの西へと飛行するグリフォンに続いて、飛竜が後を追う。界域の中の大海蛇も西に向けて泳いでいた。
《変異完了後、全ての魔力をネーヴェとラルマに送れ。ネーヴェは穴の再生の阻止を続けろ、ラルマは魔力が届き次第、それを全て浄化への抵抗力に回して礼拝堂に侵入しろ》
《結局、俺が特攻しなきゃならねーのは変わらずか》
《この中で強靭な脚力と精密な奇襲能力、そして確実な殺傷能力を併せ持つ魔物はお前だけだ》
《判ってるよ、それが俺の役目なんだから。それに、教会の威光を笠に着て踏ん反り返る聖人気取りの親玉の首を掻き切れる願っても無い機会だ、逃す手は無いね》
†
大理石の白い床には四列の縦隊でずらりと並べられた木製の長椅子には、隙間なく白いローブに身を包んだ修道士達が座っていた。修道士達は、皆一様に額の前で両手を組み合わせ、目を閉じ、俯き、祈りをささげていた。まるで、平素の礼拝の時間と変わらないように、預言の魔物達が攻撃してなどいないかのように、静かに祈りを捧げていた。
ただ、おかしい、修道士達は呼吸をしていなかった。そして、その手や顔が石膏のように白く変質し始めていたのだ。
十字型の交点、礼拝堂の中央には淡い輝きを放つ白い柱が立っている。そしてその前には、金と青の装飾の施された白い法衣に身を包み、信徒の同じように祈りを捧げる老人、修道院長アベラルドがいた。
「済まない…何としてもこのクラーザの光域の要たる聖体を守るためには、もはや、お前達を依り代にするしか手が無かったのだ。お前達の魂は、このクラーザを守る最後の扉だ」
†
西の巨大な結節は、赤い輝きを内部に秘めた透明な半球の胞体、魔力を濃縮する器官へと変異していた。
《すぐ二人に魔力を送るね》
界域の中に潜り、宝球を再び展開した大海蛇が、ラルマとネーヴェに造血から生み出される魔力を一気に送る。礼拝堂南翼の壁下で結晶を維持する巨狼の背後に影となって隠れていた黒豹が姿を現す。
造血胞からの高濃度の魔力が送られてくるのを感じる巨狼と黒豹。
《つくづく魔物ってのは普通の生き物じゃねえと思うぜ。さっきまで歩くのも
《結晶による穴の維持を強化する》
巨狼が天に向かって咆哮すると、穴の縁を覆っていた結晶が急速に膨張し、光と共にじわりじわりと縮小していた礼拝堂南翼の穴に一筋の亀裂が入る。
《ラルマ、早く》
突入口が塞がれないように結晶で抑え込むのも、かなりの魔力を消耗していた。
《今行くぜ、もう少し気張ってろよネーヴェ》
結晶の亀裂の隙間から、黒い影が礼拝堂の中に滑り込んでいった。
アベラルドは直ぐに理解した、礼拝堂の中に魔物の侵入を許してしまったこと。そして、悟る、自分の死を。
しかし、確かな死の気配が迫っていても、アベラルドの中にはもう、生への執着も、奇跡に縋ろうとする想いも無かった、その心はただ深い後悔の念だけで満たされていた。
「教皇、ゲオルギウス様…不甲斐ない私を、どうかお許し下さ―」
黒い影がアベラルドの背後を通り過ぎる。その首は胴体から切り離され、礼拝堂の床へと転げ落ちた、一瞬後、アベラルドの身体は首の有った場所から鮮血を勢いよく吹き出しながら檀上に崩れ落ちた。程なくして、礼拝堂の中央の白い柱が輝きを失い砂となって、石の台座から崩れ零れ落ちていく。それと同時に、アベラルドの遺体も光の粒になって消えていった。
礼拝堂の中で祈りを捧げる修道士達は悲鳴を上げるわけでもなく、逃げ惑うこともなく、ただその場で祈りを続けていた、そして一人、また一人と意識を失い、糸の切れた人形のようにその場に倒れていく。
礼拝堂の内部は何か重要なものが抜け落ちてしまったかのように光彩を失い、包み込むような光が消えた後には、薄暗い排他的な印象だけが残る場所となった。空を飛んでいた伝令者達も幻だったかのように消え去り、クラーザそのものが輝きを失っていた。
時刻はまだ午後過ぎ、陽が傾き始めるのにはもうしばらくの時間がある、しかし、クラーザはもう薄暗い。それらは、蝕の浸食を防ぐ威光を放ち、信徒達の精神を補い統一するための要たる聖体が失われた事を示していた。
《臓腑より作られしクラーザの聖体の破壊を確認した。作戦を終了する、後の処置はウェルテに任せ、他の者は撤収、己の領域に戻れ》
《了解しました》
ウィクリフの声が修道院の上空を旋回していたトーマの意識の中に響いてきた。
豊富な魔力の循環のおかげで肉体的な疲労は少ないはずなのに妙に身体は
《もう帰っていいんだ、僕の領域に》
紅い飛竜はクラーザを北へと飛ぶ。その眼下には、蝕に侵され、廃墟のように生気の無くなった街並みが広がっている。とてもここが数日前まで威光に包まれた都市だとは思えなかった。
クラーザから離れ、属下の村がちらほら見えてくる頃には、空は蝕の帳に覆われていた、空には大きな月と、小さな月が見える。
一度地上に降りて軽く休もうかと思ったが、トーマは休まずに帰ることを選択する、今はなぜか、あのアンヴィルの村の崖の上が恋しかった。
遠くに小さな灯りの群れを見つけた。その灯りの群れから少し離れた崖の上に向けて、速度と高度を徐々に落し、降り立つ。翼を畳み、身体を俯せ、首と尾を丸めて休む。
与えられた仕事を全うできたかは自信が無かったが、とにかく無事に第一の侵攻作戦を終える事が出来たということに安堵するしかなかった。
教会の重要な施設を破壊し多くの人の住む場所を奪ったという罪悪感を感じるべきなのだろうが、それよりも、今は皆と強力して一つの仕事をやり遂げたという充足感が勝っていた。
《こんなに一つの事に夢中になったの、初めてだ…》
竜は、眼を瞑った。
†
金属の擦れる音が地下空間に響く、鎖の繋がった枷を両手首、両腕に、革の拘束具を胴体に着けた少年が界域より引き上げられた。
身体が引っ張られる感覚と、鎖の擦れる音で意識を取り戻したトーマ。巻き上げられた鎖の緊張が緩み、地面に降ろされる。
「ぐ…ぅ…」
鎖を引きながら、その場に屈みこむトーマ。鎖の繋がれた鉄の枷を付けた腕には這い上るような黒い蝕痕。紛れもなく自分の腕であるのに、どこか他人のもののようにも思える。
「帰化の解除、遅いわよ。魔物になったまま戻れなくなるのが嫌なら、作戦が終わっても気を抜きすぎないで」
トーマを界域から引き揚げたのは、ベリダの支給服に着替えたウェルテだった。
「すいません…」
「一人で歩ける?」
「はい、多分…大丈夫です」
「そう、ならいいわ」
そう言うとウェルテは階段へと向かい、ハイブから立ち去ろうとする。
「あの、クラーザに住んでいた人達はこれからどうなるんですか?」
トーマの質問が、その歩を止めさせた。
「皆が撤収した後、伝令者が数匹飛んできて、都市内を飛び回り倒れているクラーザの住民に意識を取り戻させた。その後、起き上がることのできた人達は、北東の街道に規則正しく並んだ長い列を伸ばしてクラーザから出ていった…私が確認したここまで、それ以上は知らない」
「そう、ですか」
「見も知らない都市の住人よりも、私達の被害を心配してほしいわね」
「僕達に被害は、あまり無かったと思いますが…」
「そういえばあなたにはまだ言ってなかったわね。私達が魔脈への干渉によって、急速な成長や変化をさせている時、ベリダにいる蝕人の身体にも強い負担を与えているのよ。クラーザ侵攻の影響で、心臓に異常を
「…そんな、知りませんでした」
「何にせよ、一つ目の聖体は破壊は成功した。次の目標への侵攻開始は三日後と決まってるし。それまでに、ある程度の休息を取って、魔物に帰化し、自分の領域に異常が無いか様子を見ておくように」
今度こそ、ウェルテは階段を上って行ってしまった。
一人、ハイブに残されたトーマは、手首や胴の枷や装具を外して、立ち上がる。
「あれ…おかしいな」
人としての自分の身体に何か違和感を覚える、掴む、立つ、歩く、それらがなんだか不自然な行動をしているような気がするのだった。まるで少し前に急に教えられた事のような、なじみのない道具を試しながら使っているような感じだった。
なんとか身体を動かして、トーマは審問の院の寮、自室へと戻り、ベッドに倒れ込む。
「大浄化を阻止し、蝕人の命を救うこと…それが僕に与えられた役目、僕の命の価値…」
トーマは言い聞かせる様に呟き、そして今更ながらに、その事実に気づいた。
「ああ、“預言の言葉”に記された、災厄って僕らの事なのかな」
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