2-3 生きるための戦い

 ハイブにある六つの結節からその身を界域に潜らせ、魔脈から五つの魂がそれぞれの自身の本来の姿である魔物へと帰化した。

 ウィクリフはハイブの中央の机の前に立ち、その上に掌大の白い石板を置き、手をかざし唱える。

『主よ、我が願いと行いが光の下にあるならば、我にあなたの言葉を授けたまえ』

 ウィクリフの右手首には光の環が生まれ、机の上には、光を纏った白い大きな分厚い洋書―“啓発者エンライター”が召喚された。

 啓発者による“対話ダイアログ”の奇跡は、一定の範囲内(現在はハイブの中)に存在する意識を肉体を通さずに意思疎通する事を可能にし。

 更に“啓示レベレイション”の奇跡は、魔物達の視覚などの感覚情報をウィクリフに与え、更に魔物達では認識できない教会側の情報をそこからことも可能にしていた。


《すごい、暗い陽が光を取り戻して空が明るくなっていく…》

 トーマは南へと進むにつれて、月のような姿の陽が本来の強い輝きを取り戻し空が明るくなっていくのに驚いた。

 大地の草木や土は蝕痕しこんの刻まれていない清浄なもので、川も澄み渡っていた。ここはもう、生きている限り決して近づくことのできない蝕の呪いの限りなく薄い場所、光域の中だ。

 しかし、トーマは今、その光域を支える聖体を破壊するために、ここに来たのだ。飛竜の姿で。

 飛竜は、クラーザから少し西に離れた森の中へと舞い降りた。

《ここで、待機ですね》

《ええ、もう少し待ってなさい》

 陽の光が降り注ぐ、蝕痕の刻まれていない森の中に、一点だけ、黒い蝕痕が水溜りのように表出していた。

 その結節の上に人間の子供程はある巨大な女王蜂に似た蟲が取り付いている。その腹部は特に肥大化していた。

 蟲達の女王、ウェルテの真の姿だ。

 全長は一メルト強、蜂異種ビネと同様に、黒と黄色の模様の身体、頭部には本来の蜂の面のような大きな複眼の代わりに、小さめの橙色の丸い水晶のようなものが四つ、二つずつ二段に並んでおり、ちょうど蜘蛛の眼を思わせる。

 女王蜂の魔物はその黒い結節の皮膜の上に、拳ほどの小さな卵を一つ産み付けた。その卵は透明で、澄んだ黄色の液体で満たされていた。卵は結節の上でみるみると半球状に大きくなる。径は一メルト程、高さは半メルト程度の黄色い透明な半球の液胞が出来上がった。

 女王蜂はその頂点に、六本の脚で半球の液胞を抱え込むように取り付き、腹部の先端を胞の表面に挿した。

《繁殖胞の準備よし…と》

 女王蜂は繁殖胞の中に白い膜で覆われた拳ほどの小さな卵を一つ産み落とした。それは繁殖胞の中ですぐに掌大まで膨れ破裂する。

 中からは蜂異種ビネが現れた。蜂異種ビネは液胞の外へ這い出ると。女王に頭を向けて液胞の傍に留まった。

《生産も問題なさそう。さて、みんな、配置はいいわね。私の蟲の準備が整うまでは待機よ》

 産みだされた蜂異種ビネは、繁殖胞を綺麗に等間隔に放射状に囲うようにして並んでいく。

《もう一度確認するわよ。目標は西部の跡塔。これを陽が落ちる前に破壊する》

 今は夕刻前。西の空が赤らみ始める時間だ。

《トーマは跡塔を破壊する砲撃として跡塔の破壊のみに専念。アルクスはトーマを援護、使者の攻撃から守り、跡塔に近づけさせない》

《はい》

《ラルマは使者の迎撃、可能ならその破壊。ネーヴェはクラーザの中央まで先行し魔脈を成長を誘発し使者を引き付ける》

《了解》

《ティーフは魔力の少ない環境下でも戦えるように、魔脈内の魔力の循環調整》

《うん。宝球の準備はできたよ》

《私は蟲達を使い、召喚された使者の動きや司教の居場所等を偵察する。また、多くの住民に死なない程度の被害を与え教会に対応させ、動きを鈍らせる陽動役》

 クラーザを囲う壁は石造り。高さは六メルト程、厚みは二メルト程度、都市の壁としては標準より少し上だ、壁塔(壁の角を守る丸い塔)も造られていない。

 しかし、その壁は薄い白い光を纏っていた。“加護プロテクション”が掛けられている証拠であり、蝕の侵入や発生を抑える効果だけでなく、物理的な衝撃へ強い抵抗力を持っている、その堅さは鋼鉄の壁に等しい。

《飛行できる者は先に壁を飛び越えて空から攻撃してはいけないのか?》

 アルクスの素朴な疑問、に答えるウェルテ。

《効果的ではないわね、市壁外から攻撃してるだけじゃ、永遠に中枢たる修道院へ効果的な被害は与えられないわ》

《了解だ。では、手筈通り頼むぞウェルテ、外からでなく、内側から壁を破壊するんだったな》

《ええ。これは私達の存在を知られていない無警戒な状況だから使える一度きりの手だということを理解しておいて》

《俺は力押しよりも、技量と戦術で相手の弱点を突くほうが好きだね》

《逆に、いつこちらが不意を突かれるような事になるかもわからないわ、くれぐれも油断はしないように》

周辺の村落からの貢納品を乗せた荷馬車が来るのが見えた。

 ウェルテは蜂異種達を数匹、門番に気づかれないように、門に最も近い繁みへと配置する。

踏み固められた土の道を歩いていた荷馬車が、クラーザ市壁の西の門へとたどり着く。

《じゃあ、始めるわよ、ウィクリフ》

ウェルテの声はあくまで冷静だが、微かに緊張の色が混じっていた。

《ああ、俺達は名誉も誇りも求めない。これは、ただ生きる為の戦いだ》

ウィクリフの低い落ち着いた声がそれに答えた。

《侵攻開始、クラーザの聖体を破壊する》

 いくら奇跡とはいえ、生活のための物資まで産みだすことはできない、当然、物資を搬入する時は門を開けなければならない。そして門は奇跡でもなんでもなく、人の手が開け、閉めている。そして、自分達が侵略されるということを全く想定していないクラーザはその門が開かれることについて無警戒だった。

 門が開かれると同時に、門番達の死角を付いて飛んで来た十匹の蜂異種のうち五匹が門の内側へと滑り込む、蜂異種達は眼にも止まらぬ速さで荷馬車の主人、門番、衛兵、見張り、を全て同時に捕捉し、それぞれに麻痺毒を正確に射ち込んで昏倒させた。

 クラーザ西の門は、魔脈の侵入を許す穴となった。

 同時に林や森の中に隠れていた魔物達が、一斉に動き出し、開かれた西の門を抜け、あるいは飛び越えてクラーザ内部に侵入した。飛竜もまた空からクラーザに迫る。

《ここが、クラーザ…》

 空から見たクラーザは白を基調とした建物が立ち並ぶ都市だった。

 ベリダ東部の無機質で画一的な居住区とは違い、クラーザには街の造りにおいて幾何的な美術性があった。それは、多くの人々が日常を送る場所であるにも関わらず、見る者に侵しがたい思いを呼び起こさせた。光域の中心地たるクラーザに近づく程、そこから放たれる威光が小さな棘のように身に刺さる感覚を覚えるトーマは、自分はここから拒絶された存在であるということを改めて認識する。

《トーマは都市内に入り次第、内側から西の門を破壊して》

《はい!》

 外からは加護プロテクションの掛っている門でも、内側にはそれが無い。内側からも加護プロテクションが掛っていては補修や改築等の作業の度にそれを解除せねばならなくなるからだ。必然、内側から攻撃してしまえば、魔物にしてみれば破壊するに易いただの樫の木の門となる。

 飛竜は、クラーザの都市に入ってからすぐに、西の門の手前に舞い降り。口腔に溜めた炎を、球にして、吊り上げられている分厚い門の内側へと放つ。火球は問題なく着弾したが、表面が少し焦げる程度だった。

《あれ、どうして―》

 門の前に舞い降りてから、飛竜はせわしなく呼吸していため、十分に炎を圧縮する経路を口腔内に確保できていないのだった。トーマを襲う焦燥が、ブレスの能力を著しく低下させていた。

《落ち着けトーマ。身体の内側を、魔脈を感覚しろ》

《はい》

ウィクリフの声に若干、冷静さを取り戻す。

《周囲に魔脈はないが、その程度の門を破壊するには十分な魔力が、ティーフから供給されているはずだ、よく感覚を掴め》

 周囲ではなく内側、心臓の近くに意識を向けると、確かに主脈とは異なる太い魔脈が自分には繋がれているのが判る。

―足手まといにはなりたくない、少しでも役に立つ。

 トーマは自分に言い聞かせ。魔力を受け入れ、全身に循環させた。すると周囲からのヒリ付く光が少し和らいだ気がした。落ち着いて空気を吸い込み、腹部と胸部の間にある炎嚢を意識し、口腔に炎を溜め、放った。

 飛竜の放った炎弾は、吊り上げられている門の右側に命中し爆炎を起こす。門の右側には大きな穴が開き、焼け焦げた痕が付いていた。

《…もう一発…!》

 二発目を放つと門は爆炎と共に、粉々になって吹き飛んだ。付近に魔物が陣取る中、修復することはまず不可能だ。

 これで門を閉められ、魔力の循環を遮断されるという最悪の事態は避けられた。

《臆するな、お前達は偽りの光を引き裂く魔物だ》

 ウィクリフの声が皆の意識に響いた。



 クラーザ修道院の礼拝堂にいたアベラルドは、何か今までとは比にならない、蝕の塊が市壁を破って侵入して来たのを感じた。

 修道院長は確信する。これが預言にあった、悪しき魔物共だと。アベラルドは檀上から手を組み合わせ、全ての司教達に声によらない思考だけによる言葉を送った。

《預言の魔物が現れた。使者の召喚を許可する》



 ここは修道院の中でも上位の聖職者以外決して立ち入ることの許されない場所。

 壁も床も白い、どこまでも漂白された明るい円形の広間に、およそ数十個の白い棺が等間隔に円形になって並べられている。棺の円陣の中央には、巨大な石の杯、そしてそこに満たされているのは淡い光を放つ砂。

 その石の杯の上には白く輝く球体が浮かんでいた。

 その列の端に法衣を身にまとった司教が二人。修道院長からの許しを得た彼らは、両手を組み合わせ唱える。

『主よ、我々の願いと行いが光の下にあるならば、我々にあなたの目と耳と口を授けたまえ』

『主よ、我々の願いと行いが光の下にあるならば、我々にあなたのその死も厭わぬ信仰を授けたまえ』

 クラーザの各地に建つ跡塔の頂点に光が集まり、鳥の姿を形作る。

 光が収まると、装飾を付け、光輪を背負う白い鳩、“伝令者メッセンジャー”が顕現された。伝令者は羽ばたき、クラーザ上空を旋回する。

 また、修道院の外の広場にも人型に光が集まり、白を基調として金や銀の装飾の施された戦闘用の法衣を身を包み全身に淡い白いにまとった人型の使者“殉教者マーター”が顕現した。頭上には光の環を冠している、顔は目深に被った白いフードに隠れて伺いしれない。



 礼拝堂の聖卓の前にアベラルドは立ち。両手を広げ、声高に語り始める。

「クラーザの民よ、預言にあった悪しき魔物がついに我らを襲いに来た。初めよう、聖なる戦いを。我らは己の命を助ける為に戦うのではない、全ての光の民の名誉と誇りの為に戦うのだ。故に、ただ祈っていてほしい、魔物を退け、平穏を取り戻す、奇跡が起きると。ただ、信じていてほしい」

 それは伝令者を介して、クラーザ内の全ての住民の意識に届いていた。今は使者と奇跡の力を少しでも強めるために、住民の祈りが必要だった。



 門を破壊した後、飛竜は直ちに西の跡塔のある西の広場へと移動した。西の広場へと辿り着いたトーマを待っていたのは。広場の上空で風を纏い滞空する―全長(鼻先から尻尾まで)は四メルト。鋭い鉤爪を持った前足と大きな鷲の翼。強靭な太い後ろ足に、尾部からは獅子の尻尾。上半身は大鷲、下半は獅子の魔物だった。

《遅かったな、トーマ》

《ええと、アルクス…ですよね》

《ああ、見ての通り私はグリフォンだ。飛行中の最大高度、最大速度、継続距離は飛竜のお前には劣るが、地上でも空中でも小回りが利いて加速も良い。何と言っても私は魔力によって空気や風を味方につけて戦うことができる。さあ、跡塔を攻撃してくれ。防御は私が引き受ける》

《頼りにしてます》

《私もお前の火力を頼りにさせてもらうさ》

 西の広場の中央。高さ五ルトはある白い石材で出来た四角柱が建っている、一見するとアンヴィルの四方建てられたものと同じように見えるが、細部に施された彫刻や装飾、何よりその潔癖な程の白さはアンヴィルの曇りかけた跡塔には無いものだった。間近に見ていて眼や肌(といっても堅い鱗に覆われているが)がヒリつくような感じを覚える。

 間違いなく威光を放つ、教会の象徴物だった。

 飛竜は跡塔から少し離れた屋外だというのに光を反射する程に磨かれた石畳の床に降りる。防御はアルクスに任せ、トーマは地に足を付けてしっかりと威力の乗った炎弾で跡塔の破壊に専念する作戦だ。

 グリフォンはその上空、周辺の建物の屋根より少し上くらいで器用に滞空している。風の流れを掴み、それに乗ることで飛行する飛竜とは違い。グリフォンは完全に風を支配し、それを制御して飛行していた。

 飛竜は何度か、西の跡塔に炎の弾を撃ち込む。

 決して小さくない火炎の炸裂が白い塔の根元を襲う。もしただの石の塔なら、根元から折れていてもおかしくは無いのだが、与えられた被害は、僅かに表面が欠けさせ、焦がした程度だった。

《硬いですね…この塔。今のブレスで亀裂の一つも入らないとは思わなかったな…》

 飛竜は一旦、ブレスを止めて、体内に魔力と呼吸を整える。

《いや、僅かだがダメージは入ってる。絶対に壊れないわけじゃない、ブレスを続けてくれ》

 飛竜が再びブレスを撃とうとした時、二本の光の矢が東から飛来してくるのをアルクスは察知する。それはグリフォンと飛竜の頭部を、それぞれ正確に射抜く軌道だった。

《トーマ、敵の攻撃だ、あまり動かないでくれ!》

《あ、はい…!》

 グリフォンが強く羽ばたくと、グリフォンと飛竜の周囲に風の壁が巻き起こった。矢は二体の魔物の顔を掠めて背後の白い石畳に突き刺さった。しかし、間髪入れずに第二射が飛来する。

《だが、位置を知られての飛び道具は愚策だぞ。特に私に対してはな》

 飛来する矢はことごとく、グリフォンの風の障壁で二体の魔物の左右に逸れていく。

 第一射は直前でギリギリ逸らしたが、第二、第三射はもっと大きく逸れていた。徐々に飛来する軌道にあらかじめ風のうねりを作り出して、着弾する前から軌道がずれるようにしているのだった。

 西の跡塔からおよそ五百メルトほど東の高めの建物の屋根の上に、二人の“殉教者”がいた。手には白い大型のクロスボウを構えていた。

 そのクロスボウが光に包まれ粒子になり、その粒子は先の太い棍棒のような輪郭を形作った。光が収まると、二人の殉教者は白銀のメイスを手にしていた。殉教者は、一人は北に、一人は南に屋根から屋根に飛び移り、光の足跡を残しながら走った。その様子を、ウェルテの蜻異種リベレは確認していた。

《狙撃が止んだな》

《あなた達を狙撃してた使者二体は、北と南に分かれてそっちに向かってるわよ》

 ウェルテから報告が入る。

《了解。挟撃するつもりか》

《僕も飛行して、空中から迎撃したほうがいいですか?》

《いや、トーマはそのまま地上から南の殉教者を攻撃してくれ。もし接近されたら、ラルマが何とかしてくれるはずだ》

《でもラルマは、どこに―》

《来るぞ》

 北からの殉教者を迎え撃つために跡塔から離れ、広場の北側に移動するグリフォン。北から向かってきた殉教者は、白い屋根から跳躍し、空を踏み、光る足跡を付け、空に浮かぶグリフォンを叩き落とそうと迫る。

 しかし、グリフォンの羽ばたきで、殉教者は殴られたように吹き飛ばされる。

 が、屋根に叩きつけられる直前で、見えない力場が、殉教者と屋根との衝突を緩衝した。殉教者はすぐに起き上がり再びグリフォンに迫る―前に、また横殴りの空気の塊が殉教者を吹き飛ばす。しかし殉教者は、どれだけ強く吹き飛ばされても壁へ衝突する直前でその勢いは消えてしまうのだった。

《なるほど。姿形は人に似ているが、流石は奇跡の賜物だな。今の私では退けることはできても、破壊することは難しいか》

 南から地面に伏す飛竜にもう一体の殉教者が迫っていた。

《くっ…速い!》

 飛竜は自分に向かってくる殉教者に向けて火球を放つが、完全に弾道を見切られており、容易く躱される。しかも、焦って放たれた火球の威力は頼りなく、爆風に巻き込むようなことも期待できない。結局、飛竜は為す術無く、殉教者に接近を許してしまっていた。

 殉教者は跳躍し、飛竜の頭蓋を叩き潰さんと、両手で白銀のメイスを振り上げる。

《だめだ、ブレスが間に合わない―》

 次の瞬間、跳躍した殉教者の腹部に大きな黒い三本の爪痕が付いた。

《俺なら、ここにいるぜ》

 殉教者は地面に崩れ落ちる殉教者。立ち上がろうとする殉教者の腹部の漆黒の爪痕から蝕痕が全身に伸びていくのが見える。頭上の光の環の輝きが消えると、殉教者は白い砂になって崩れ落ちた。

《影との同化による存在の隠蔽と蝕痕の刻印。それが俺の得意技でね、特に俺の魔力を込めた爪痕、蝕痕の刻印は奇跡が付与されたモノには効果的、だそうだ》

《ラルマ…?》

 トーマは目の前の白い石畳の上に主のいない黒い影だけがあるのに気づく。その影の元が陽炎のように揺らめくと、黒い毛並に、白い豹柄の模様を持った、豹に似た獣の姿が映し出されていった。

 全長は四メルト程、しなやかな身体に、長い手足。黄金色の瞳に黒い瞳孔。しかし、その黒い豹の魔物の姿は、足元の影だけを残してまた虚ろになり、幻のように消えてしまった。

《ありがとうございます…助かりました》

《お前がそこで囮になってくれなけりゃ、こう上手くは決まらなかったがな》

 アルクスが相手をしていた殉教者は、もう一人の殉教者が破壊されたのを見ると、それ以上グリフォンに向かわず撤退していった。

《不利を悟って退いたか。トーマ、跡塔の破壊に戻ろう》

《わかりました…》

 トーマは改めて、自分の無力さと、他の仲間の頼もしさを理解した。



 クラーザ南部では、大型の蜂に似た蟲、蜂異種ビネが縦横に飛び回り、獲物を探す。

 逃げ惑う住民を見つければ首に取り付き致死しない量の神経毒を射ち込んでいく、そして倒れた住民のうち、何人かは蟻異種フルミナが数匹掛かりで持ち上げ、クラーザの西側へと連れ去っている。

 更に、屋外だけでなく、窓や扉を蟻異種フルミナの牙が引き裂くと、住居の中にまで蜂異種ビネが侵入し、中で怯えている住民を次々と攻撃していた。

 しかし、ある住居の中に侵入した蜂異種ビネの身体を、壁を取りぬけて飛来した光の矢が貫く、蜂異種ビネは光の粒となって消滅した。

《壁をすり抜けて私の蟲だけ殺してくるとは、さすがは奇跡の力ね》

 白い輝きを纏った片手で扱える小型のクロスボウを二丁、両手に持った殉教者が一人、クラーザ南部の住民を脅かす蟲の魔物を駆逐するために、遣わされていた。

 その殉教者は屋根を飛び移りながら光の矢を撃ち、正確無比な射撃で次々と蜂異種を葬っていく。

 だが、蜂異種の数はまだ、減る気配を見せない。

《憎らしいほど正確な射撃ね。でも―》

 路地の裏に巨大な蜘蛛に似た比較的大型の蟲が二匹、尾部を下にして壁に張り付いていた。大きな尾部の上側には透明な大きな卵がいくつか埋め込まれている、ちょうど巨大なザクロの中身を凸面の半球したみたいだ。卵の殻膜が破られると中からは蜂異種ビネが飛び出す。空になったら穴の中にはまた膜が貼り、卵が作られる、というのを繰り返していた。これは蟲を“生産”する蟲だ。

蜘異種クリサリスの存在には気づいてないみたい。西の跡塔が破壊するまでの時間稼ぎはできそうね》

 蜘異種クリサリスから産み出されているのは、短命で能力の低い模造個体レプリカに過ぎない。しかし、模造個体を産みだし続ける蜘異種クリサリスが倒されない限りは、クラーザ南部に蔓延る蟲を駆逐することは叶わない。



 クラーザ中央部の都市を東西に貫く大通りを、巨躯の狼が疾走していた。

 全長六メルトはある巨体は青みのある灰色と白の毛皮で覆われている、足は木の幹のように太く強靭、青い眼は氷のような冷たさを感じさせた。

 この巨躯の狼の身体を操るのはネーヴェだった。

《ネーヴェ。殉教者が一体あなたの所に向かってる。何としてもそいつをそこで食い止めて》

《了解》ウェルテの指示を受けるネーヴェ。

 前方から白い戦闘用の法衣に身を包み、光の環を冠した人型の使者。殉教者が向かって来るを狼は視認する。

 手には白銀のメイスを携えているようだ。巨狼は後ろ脚の莫大な筋組織を膨張させ、一気に殉教者に対して間合いを詰めて、その前足を振り下ろした。まともに当たれば大木をへし折る程の一撃だ。

 しかし、巨狼の攻撃は外れる。殉教者は、その身のこなしで、瞬時に狼の真横に移動していた。渾身のメイスの一撃が巨狼の白い横腹を殴りつける。

 巨狼の巨大な身体は大砲の直撃でも受けたかのように吹っ飛ばされ、大通りの横の建物の白い壁を突き破り、椅子や机を薙ぎ払い木の床を転がり止まった。もしもこの巨狼が、ただの巨体になっただけの狼であれば、骨は砕け、内臓は破壊しつくされ、もやは立ち上がる事はできなかっただろう。しかし―

《全然、平気》

 狼は平然と起き上がり、飛来する光の矢を紙一重で躱しながら大通りへと飛び出した。

 この狼には、自己の肉体、及び外界に対して結晶の生成と変成をする能力を有していた。

 狼の巨身を構成する筋肉組織とそれを覆う毛は、強靭にして柔軟な緻密な結晶繊維の層でできている。その皮膚や筋組織を貫き内臓にダメージを与えるということは、数十枚にも重ねられた鋼の板を撃ち抜くことに等しい。

 巨狼はそのまま、通りに構える殉教者に向かって猛然と走る、肩口で体当たりをするつもりだった。当然、この程度の速度なら殉教者は避けられる――と思われたが、狼の体当たりは殉教者に直撃する。殉教者の足元がいつのまにか霜のような結晶で地面に縫い付けられていたのだ。今度は殉教者は砲弾を受けたかのように吹っ飛ぶが、壁に衝突するまえに透明な緩衝が働き、めり込むことなく地面に足を付ける。

 殉教者の持つメイスが光の粒子になり形状を変える、光が収まると、白銀の大型のハンマーへと姿を変えた。

《あれは、対処の困難な脅威》

 殉教者は狼を叩き潰そうと迫る、メイスを持っていた時よりは遅いが、そのスイングは意思でも持っているかのような速さと精確な軌道だった。巨狼はその打ち下ろしを紙一重で何とか交わす。

 巨大な白銀の鎚頭が石畳に打ち降ろされるが、その衝撃は石畳を叩き潰すことなく、光の衝撃波を周囲に広げただけだった。敵のみに被害を与える奇跡のハンマーだ。

《ティーフ。あたしに優先して魔力を与えて》


 界域内部。薄赤い液体のような空気のような物質で満たされた空間。

 その中に大海蛇の如き水竜が浮かんでいた。竜に似た顔からは二本の長い髭が伸びる。長大な身体は二十メルトはあるだろうか。背は青緑の鱗に、腹部は白い鱗に覆われている。背や腹部に大きなヒレ。ティーフの魔物の姿だった。

《うん、いいよ。ウェルテからもその殉教者を止めるためなら最大限の支援をしていいって言われてる》

 大海蛇は青い透明な巨大な水胞を抱えていた。

 魔脈への干渉、操作を強力に補助する装置、“宝球”だ。その宝球には赤い管が五本繋がれている。ティーフはここで、魔力の循環を調整する役目を担っていた。まだ跡塔を破壊できておらず、魔脈の成長がほとんど見込めない状態の時に各魔物達に魔力を送り分配するティーフがいなければ、この作戦は最初から成立しないことになる。その内の一本の管が急速に脈動し、太く膨張する。

《頑張って。ネーヴェ》


 殉教者はハンマーを構えて飛び上がり、裂迫の一撃を狼に振り下ろした。狼はその攻撃を避けようとしない。しかし、白銀のハンマーは狼の頭部を叩き潰すことはできなかった。その直前で巨狼の足元から急速に伸びた灰色の結晶の柱がハンマーを絡め取っていたからだ。

 諸手で跳躍し振り下ろしたハンマーを止められ、防御が疎かになった殉教者の腹部に、巨狼は素早く噛み付き、そのまま地面へと叩きつける。

 殉教者は起き上がれない、身動きもとれなかった。なぜなら両手両足、背が霜で地面に縫い付けられているからだった。殉教者の胸部に巨狼の巨大な前足が圧し掛かり抑えつける、巨狼の大顎が殉教者の頭部を横から挟むように噛み付いた。

 繊維がせん断される音と共に、巨狼の強靭な顎と剛腕の膂力が殉教者の首を食いちぎり、放り投げた。

《排除、完了》

 だが、殉教者を破壊したという安堵に気を緩ませてしまった巨狼は、残された殉教者の胴体が光包まれているのに気づくのに少し遅れた。

《ネーヴェ、そこから離ろ!》

 ウィクリフの指示にネーヴェが反応する直前に、殉教者の骸が眩い光と共に、衝撃を放って爆散した。

 巨狼の右側面には、結晶の盾が展開されていたが、いくつもの亀裂が入っていた。

 “殉教マータデム”の奇跡の発現による衝撃は、今までとは比にならない威力を秘めていた。

《帰還…する》

 殉教者を一体倒したものの、満身創痍となった巨狼は西の跡塔に戻って行く



 跡塔のそびえる西の広場に飛竜のブレスによる炸裂音が、重く響いていた。十九発目の火球を撃ち込んだ所で、跡塔の根元の亀裂は、遠目でもわかる程大きくなっていた。

《トーマ、大丈夫か》

《…あと、一発だけなら》

 しかし、もう飛竜の疲労は限界に達していた。息は上がり肩を上下に揺らしている。身体は寒気を感じ、喉と口は痺れたように感覚が麻痺していた。

 それでもトーマは体内の炎嚢に魔力を送り込み、炎の弾を撃ち放った。口腔から放たれた一撃は、跡塔の根元に命中し、爆炎を上げる、しかし、跡塔はまだそこに立っていた。飛竜は意識を失い。石畳みに倒れ伏した。

《仕方ないな。ティーフ、私に魔力を回してくれ。あれだけダメージが入っていれば、止めを刺せそうだ。構わないな、ウェルテ》

《やって頂戴》

 グリフォンの周囲の空気が逆巻く。流れは一点に収束し、圧縮した小さな空気の塊になった。グリフォンは羽ばたきと共に、それを亀裂の入った跡塔の根元に向けて放つ。数瞬後、跡塔の根元で乾いた破裂音がした、同時に跡塔は根元から折れ、地に倒れた。跡塔の残骸は、光を失い、砂になって崩れ消えていった。

《まずは一本目だ》

《うん。これでようやく魔脈をそっちに伸ばせるね》

 そして、石畳を踏み鳴らし西の広場に巨狼が戻ってきた、ちらりと広場の中央で倒れる飛竜に目をやると、広場の隅まで横たわり、眼を閉じた。

 陽は落ち、クラーザは夜の帳に包まれようとしていた。周囲には蝕痕が少しづつ刻まれ始めていた。魔脈が伸びてきている証拠だった。

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