2-2 クラーザ
薄暗い礼拝堂の中央の円卓の上には大きな羊皮紙の地図が広げられてあった。ウィクリフと魔物の魂保持者の少年少女五人はその卓を囲んでいた。ティーフの姿だけ見当たらない。
地図に描かれる都市は、東西に横長めで東に行くほど広くなる、縦長の台形を頭を西にして横に倒したような形をしていた。
「では、最初の目標であるクラーザの攻略の概要を伝える」
クラーザは教国の中央より少し南に広がる光域を支える都市だ。
「なぜクラーザから?」
ネーヴェが手を上げて簡潔に質問する。
「首都を除く五つの光域の中では、最もベリダから近い位置にあるからだ。不安の多い
―そして、ウィクリフは卓の上に広げられたクラーザの地図に白い駒と、魔脈の結節に見立てた黒い駒を使って作戦の概要をみなに伝えていった―
「――以上がクラーザ攻略の概要だ」
「…つまり、クラーザの西の市壁に穴を開けて、西から順に“
作戦の概要をまとめるウェルテ。
「そうだ、跡塔の破壊だけでなく、魔脈の成長や捕食用の住民の確保、敵戦力への対抗などを含めると全ての魔物にそれぞれの能力を最大限に活用する必要がある。何か質問があれば聞こう」
手を挙げるのはアルクス。
「聖体を破壊した後、残った信徒達が何か奇跡を起こすようなことはないか?」
「無いな。なぜなら聖体を破壊するということは、彼らが願う奇跡そのものの破壊に他ならないからだ。聖体が破壊された時点でその都市の全ての奇跡は、ただの幻へと還ることになる」
「了解した」
次に手を挙げたのはトーマ。
「あの、ティーフが見えないのはどうしてですか」
「ティーフには先に説明を済ませ、魔物に帰化してもらっている。起点となる結節をクラーザ光域内へ作る作業をさせるためだ。それも、もうすぐ終えるはずだ」
「了解しました」
「では、進攻への準備に入る前に、奇跡について、そして我々の脅威、間違いなく対峙すべき存在である“使者”について説明する」
「やはり、光の使者と戦うんだな…私達は」そろりとアルクスが呟く。
「隣国グナイゼルの侵攻が鎮静化している今ではその姿を直に見ることは少ないが。魔物が現れるとなったら、間違いなく都市を守るために召喚されるだろう」
光の使者。教会の操る光の化身、神が人のために遣わした者。人々をあらゆる脅威から守る、奇跡の顕現体。
役職ごとに姿は様々だが、全てに共通する特徴として、光の環を冠し、白い淡い光―“威光”を纏っている。聖書の中では人々をいくつもの災厄や苦難から救った英雄的存在として描かれている。
トーマが知っているのはそれくらいだった。それと戦うなど、想像もつかない。
「そもそも使者はなぜ生まれたのか。それは奇跡をより効率的かつ実践的なものにするためだ。奇跡は大きく次の五つの類型に分けられる―」
第一類、『慈愛の奇跡』。治癒/浄化/成長に関連する奇跡を起こす。
第二類、『理解の奇跡』。交感/探知/干渉に関連する奇跡を起こす。
第三類、『守護の奇跡』。遮蔽/緩和/保持に関連する奇跡を起こす。
第四類、『勇敢の奇跡』。強化/増幅/変化に関連する奇跡を起こす。
第五類、『存在の奇跡』。生成/転移/消滅に関連する奇跡を起こす。
「―という具合にな。奇跡は多くの類型を同時に兼ねる程、より持続させる程、より規模が大きい程、多くの信仰と高位の聖職者、そして準備や手間が必要になる。使者を生み出すシステムは、その準備や手間を省略してくれる」
「なるほどな…では、使者は不定な非現実的なものというわけではなく、実体を持っているのか?」
「使者の正体は一種の
「…なあちょっと待ってくれウィクリフ」
ラルマは真剣な表情で話を遮る。
「なんだ」
「そろそろ教えてくれねーか。蝕や魔物についてあんたが詳しいのは判る、一生をかけて研究しているんだもんな。でもよ、その他の教会の奇跡に関する詳しい情報まで知ってるのはなんでだ?教会ってのは、一度破門されかけてベリダで働かされているような元司祭に、使者の正体だの作り方だのを教えたりするもんなのか?」
「無論、教会はベリダの事務係りごときに、聖体や使者の詳細、そもそも奇跡と信仰の関係性などを教えたりなどしない。正しく理解している者は大司教以上の者くらいだろう。なぜなら、信仰維持するためにも、使者や奇跡は、絶対的で干渉のできない崇高なもの、という幻想を持たせていなければならないからだ」
「じゃあ、そういう情報を盗み出して教えてくれる、俺達の知らない優秀な諜報役でもいんのか?」
「その通りだ」
ウィクリフは懐から教会のシンボルである太陽の印が刻まれた掌より少し大きいくらいの白い石版を取り出すと、それを卓の上に置き―
『主よ、我が願いと行いが光の下にあるならば、我にあなたの言葉を授けたまえ』
―短い祈りの台詞を言った。
すると、ウィクリフの右手の甲の上に白く輝く光輪が浮かび上がり、卓の上に置かれた石版が輝きを放ち光の粒子となって、より大きな厚みのある板状の形を作り始めた。輝きが弱まると白い布地に金の豪奢な装飾のされた、豪奢な装丁の淡い光を纏った大きな洋書が卓の上に顕現していた。
その巨大な洋書は意志を持つかのように独りでに開き、白い
「おい、何かの冗談かよ、ウィクリフ」
護身用に太ももに巻いたベルトに挿してある細身の投擲ナイフを片手で抜くラルマ。
「落ち着きなさい、ラルマ。ウィクリフは使者を顕現させる力を持っているけど、私達の敵というわけではないわ、むしろその逆よ」
ウェルテは少し眉を寄せて、面倒そうにウィクリフを庇う。
「どういうことだよ…あ?」
「この使者は啓発の
ウィクリフは白い光を纏うページをいくつかめくり、ある
「啓発者は、教会の信仰の集積領域である聖域の中の情報を教会に気づかれることなく閲覧、記録する奇跡、“
「つまり、そいつは教会を裏切って、俺達の味方をする奴ってことでいいんだな?」
「そうよ、ウィクリフも啓発者も私達の味方。そもそも、魔物の肉体を見つけ出したり、私達が魔物の状態でも、互いの表層的な思考を交わし合い疑似的に会話できるのも、この啓発者のおかげなんだから」
ウェルテは既に啓発者の事について知っているみたいだった。
「そういう大事なことは、もっとはやく言ってほしいね」
ラルマは不満そうにナイフを仕舞う。
「無用な混乱と漏洩を避けるためよ。ウィクリフが召喚する啓発者は教会に敵対する非常に例外的な使者。だから、教会にその存在を知られずにいるためにも、たとえ仲間内でもぎりぎりまで知らせたくなかったのよ」
「わーったよ、腰を折って悪かった、続けてくれ」
ラルマはめんどくさそうに手の平を振る。
「時間は限られている。納得してくれたようなら、クラーザにて敵対するであろう使者につて、そしてそれと戦闘するときの注意点や性質を説明する。終わり次第、各自、ハイブへ降り、魔物への帰化を開始しろ」
†
侵攻開始より七日ほど前。
クラーザ光域の中央南部にある穀倉地帯。
一面に広がる麦の穂が緑色の水面のように揺れている。
その小麦畑の中央に小さな村があった。
だが、その
司教と衛兵は一直線に村長の住まう木造の小さな館の前へと馬の歩を進める。村人は司教を見るなり、手を止め足を止め両手を組み合わせて頭を垂れて教会への感謝を口にする。
教会は平等を尊ぶ。ただの村の長といえども選挙制で、その村の長が住む館は私邸ではなく、村人が集まる講堂あるいは客人を迎える公館としても利用されていた。
恰幅の良い村長は突然の司教の来訪にも悠々としていた。
「これはこれは、いかがいたしましたか司教様。アベラルド様の御威光のおかげでこの村は、変わりなく平和を享受しております」
村長の出迎えに、司教ダニロは石像のように表情を変えずに言う。
「いや、この村に蝕人が匿われているとの報告があってな、もし真実ならすぐにでも捕え、蝕人居住区へと送る必要がある」
村長の目に微かに鋭さが宿る。
「ただの言いがかりじゃないでしょうか。まさか教会の篤い庇護下にあるこの村に蝕人がいようはずありません」
「その通りだ、クラーザの加護受けておいてなおそのような不義を働くものなどいるはずがない。だが私は心配性な性質では、念のため改めさせてもらう」
司教は懐から丸められた書簡を取出し、その書簡を掲げながら唱える。
「主よ、我々の願いと行いが光の下にあるならば、我々にあなたの目と耳と口を授けたまえ」
すると、その書簡が光に包まれ粒となって霧散、収束し、淡く光を纏い背後に光の環を冠した白い鳩となった。
「あ、あ…これは…どういった…」
使者の召喚に動転する村長。無理もない、この間近で威光を浴びて平気でいられる人間は多くないのだか。
「今一度訊く、この村に蝕人が匿われてはいないか?」
「あ…、はい、二歳になる私の孫が、蝕痕を持って産まれてきてしまいました。重大な罪とは知りつつも教会への報告を怠り、これを秘匿しておりました」
「どこにいる?」
「はい、東の水車小屋に…使用人と一緒に住まわせております」
「いいだろう。主は慈悲深い、今回はお前の素直さに免じて、蝕人の出生報告を怠り、それを匿った重罪、全て赦そう」
白い光の鳩は、ダニロの右手を離れ東の方へと飛んで行った。
「は、主の慈悲に感謝いたします…」
「蝕人を隔離するのは故無きことではない。蝕人は周囲の人間にも蝕をもたらし、奇跡の行使を妨げ呪いがあるのだ、それで廃村となった村の一つや二つ、知らぬわけではあるまい」
そう言うと司教は後ろに控えていた二人の衛兵に合図し、三人は馬に跨り村の東へと駆けていった。
馬を走らせながら一人呟く若い司教。
「威光が強ければ、このような手間など必要なくなるというのに」
†
東西に長めのクラーザ、その東に位置するクラーザ修道院。
その外観は、白を基調として随所に僅かな金の装飾がある、一般的な教国の宗教建築様式をしていた。
その一室に白い法衣に身を包んだ初老の男、クラーザの聖域の基盤を支える修道院長のアベラルドはいた。
修道院長という身分に反して尊大さや近づきがたい感じはなく、むしろ齢を重ねた者に宿る独特の優しい雰囲気をもっていた。だが、アベラルドの顔は
「…この奇跡を起こす力が、私は恐ろしい」
「何をおっしゃいますか、アベラルド様。今更ながら、修道院長たる御自身の責任の大きさを畏れているのですか?それに、威光による蝕の浄化がなくなれば、西方諸国のような土地の奪い合いをする羽目になります」
傍に控えていた司教が宥める。このところが調子悪そうにしているのを見かねて、できるだけ話し相手になろうとしているのだった。
「しかし、威光を強めれば人の精神を病む者が現れる危険も増す、何より既に蝕を持って生まれた者から蝕だけを払うことは、いかなる奇跡をもってしても不可能だ」
「蝕を持って生まれた者はベリダへ送られ、そこで問題なく暮らしています。また、依代としてその身を捧げることに適格であると神が定めた者ならおりますが、威光によって精神を病む事などあり得ません。あなたが、そのような事を言っていては信徒や修道士達に示しがつきませんよ」
「…うむ、すまない今の話は忘れてくれ。私はただ、奇跡の力に過度に頼ることなく、このまま平和な日々が続いてくれればそれでいいと思うだけなのだ」
「それには私も同意するところです。そして、教皇領の侵略を狙う野蛮なグナイゼル諸侯からの侵略を防がねばならない教皇領西方の都市とは違い、ここクラーザが戦火に巻き込まれるなど、考えるだけ無益というものです」
「ああ、そうだといいのだが…」
アベラルドは、小さな窓から差し込む穏やかな陽の光の中に手を差し出した。
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