1-2 本当の自分
…どくん …どくん
この音だ。夢の中でいつも聞こえるゆっくりとした心音。
いつもは霞がかった意識の中でしか聞こえないのに、今はやけに鮮明だった。
トーマは薄赤い温い湯でできた海の中で一人漂っていた。心音は反響するように海の中に響いている。
―なんだ、ここ…?
自分の胸、心臓のあるあたりに優しい熱を感じる、見てみると、黒い痣が紅く染まっていた。海は底に行くほど明るく、上に行くほど薄暗くなっていた。
おぼろげに海の底の方に巨大な光源があるのが見えた、それは、この空間に響く心音にあせて伸縮しているようだった。
この異様だが不思議と落ち着く空間に、ずっと居てもいいと思っている自分に驚いていた。だが何かおかしい。手足の感覚が少しずつ曖昧なっている気がするのだ。
―薄くなってる…。
指や足を見てみると、その先端が色が抜け落ちたように透明になっていた。もし自分の存在がこの赤い海の中に全て溶けてしまったら…僕は消えてしまうのだろうか。
―嫌だ…僕はまだ消えたくはない…。
《どうして?》
少女の声が胸の内側から聞こえた。その不思議な声はまだあどけなさが残っているのに妙に落ち着いた雰囲気を持っている。
―僕は、蝕の無い世界で生きてみたいんだ。できるなら、蝕痕があるからといって差別したり、されたりしない、そんな世界に…。
《きっと、君ならできるよ》
―無理だよ、そんなこと…。そんな無責任な事…言わないでよ。
《だって、君の心臓はそんなに強く鼓動してるんだもの》
―僕の心臓…?
虚ろな海の中から、明確な思考のある世界に意識が浮かび上がる、トーマの意識は徐々に覚醒してきた。
眼が覚めた時、トーマは薄暗い独房の隅で蹲るように横になって寝ていた。
扉が乱暴に開かれる音がする。
「起きろ、ウィクリフ院長がお呼びだ」
衛兵は手枷を掛けたトーマを連れ、ウィクリフのいる執務室へと向かった。衛兵はトーマを部屋に残すとすぐに部屋から退散し扉を閉めた。
部屋の中には前見た時の変わらぬように机に向かうウィクリフとトーマが残される。
執務机に手を組んで肘をつき鋭い眼でトーマを見るウィクリフは、表情を変えずに「調子はどうだ」などと訊いてくる。
妙な雰囲気に戸惑いつつトーマは答える。
「大丈夫です…あの…僕はどうなるんでしょうか。審問にはいつかけられるのですか」
「一つ、訊こう。お前は、睡眠時などに自分のものではない、大きな心音を聞くことがあるか?」
どくん。
とトーマの心臓は跳ねた。どうして、なぜ、審問の院の院長がそんなことを訊いてくるのか。
院長は自分のそんな妙な体験まで把握しているのだろうか。答えるべきか否かトーマは迷った。
「正直に答えろ」
「…はい、聞こえます」
おもむろに机の上に一つの鍵を置くウィクリフ。
「ここに、お前の枷を外すための鍵がある。教会と蝕の呪いの真実を知りたいと思うなら、机の前に来い。もし知りたくないというなら、二歩後ろに下がれ。お前にはベリダ属下の村への移住が待っている」
ベリダ属下の村とは、飽和気味の居住区の負担を少しでも減らすために、ベリダの周辺に作られた小規模な村落だった。厳密にはベリダに集められた蝕人を、壁外へ出す事は許されていなかったが、状況を鑑み、教会はそれを黙認していた。
しかし、ろくに教会の加護は受けられず、防衛も装備も心許ない。いつ魔物に襲われるかもわからないという危険な場所である。
ベリダ属下の村に送られる者は、よほど物好きな希望者か、トーマのような教会の教えを信じないと見做された者か、純粋に村を維持するための労働力として選ばれた者、のいずれかだ。しかし、トーマはわからなかった―
「どうして、そんな選択を僕に迫るんですか…?」
「お前がすべきことは、進むのか戻るのかの選択だ。俺に質問することではない」
蝕の呪いの真実ってなんだろう。なぜ審問の院の院長はそんな選択を自分に迫るのか。わからない、怖い。
けれど知りたい、答えを、真実なんてものがあるなら教えてほしい。
“僕の命には一体どんな価値があるのだろうか?”その疑問がトーマの頭から離れなかった。
一歩、足を前に踏み出そうとするトーマに、ウィクリフは声を掛ける。
「お前の疑問への答えは全て真実の中にある、ただし、それを知ったのなら、後戻りはできない。心して歩を進めろ」
ウィクリフの険のある顔はトーマを見据えている。
トーマは机の前へと歩みを進めた。
ウィクリフは椅子から立ち上がり、トーマの手枷を外して言う。
「ついてこい」
二人は執務室から出て、審問の院の礼拝堂へと入る。
礼拝堂の中に信徒が座るべき椅子は無く、代わりに中央には大きな円形の卓が置かれていた。
外へと通じる入口の扉は締め切られて内側から錠前が掛けられており、出入りは東西の廊下に繋がる扉だけだ。照明は塞がれていない、いくつかの天窓から入る僅かな光と、壁に供えられた燭台からの明かりだけだ。
礼拝堂の北の壁のひび割れたステンドグランスの下に聖卓は無く、代わりに、その床に暗い大穴が開けられていた。
その暗い大きい穴の縁からは蝕痕が伸びてきており、人を飲み込むような不気味さがあった。
「ここを降りた先だ」
ウィクリフはその穴の中に降りていった。トーマも恐るおそる、後に続く。
階段は螺旋状になっており、壁面や階段には蝕痕がついていた。下へと行くほど蝕痕の密度が濃くなっていく。
階段を降りるにつれてトーマは自分の鼓動が大きくなっていることに気づいた。
―なんだか、怖いな。
階段を降りた先には上の礼拝堂と比肩する程度の広い空間が広がっていた。
「蝕痕が壁や床にまでこんなに浮き出てる…」
思わずつぶやくトーマ。
この地下の広間は驚くほどの太く濃い蝕痕が壁や床、天井に至るまで、まるで体内の毛細血管のように縦横に走っていた、その様子はここが何か生き物の体内のようだと錯覚するほどだった。
「ここが、俺達の
この空間の中央には、蝕痕が特に濃く集まり、大きな丸い節のようになったものが六つ綺麗に二メルト程度の間隔を開けて円形に並んで出来ていた。
ウィクリフはその大きな丸い蝕痕一つの前で立ち止まった。
その蝕痕の節の後ろには、厚みのある細長い鉄の板を組み合わせてできた十字架が立っている、自分の背丈より頭一つ程高いくらいの大きさだった。
その十字架の横の鉄板には、十字の交差する中央、両端、両中点に計五つ穴が開けられており、その穴の中には鎖が通されていた。
両端と両中点の穴を通る鎖の先端には、それぞれ鉄の枷が、中央の穴を通る鎖の先端には人の胸部を×字に縛るような黒い革のハーネスが取り付けられていた。
それらの鎖は十字架の根本に設置された、ロール型の鎖を巻き取る機構から伸びていた。
「これは…何ですか」
「今に判る」
その外見は否が応でも拷問に使う拘束器具を連想させた。
「ウェルテ」
ウィクリフがハイブの中央に声を掛ける。そこには、古びた木製の幅の広い机が置かれていた。
奇妙な器具に気を取られて気づかなかったが、その机に少女が一人もたれ掛り小さな本を片手で広げ、読んでいた。
ベリダに住む蝕人に配られる質素な支給を着ている、包帯は巻かれておらず、その肌に蝕痕が這い伸びているのが見えた。
トーマより背は低く、ウェーブの入った肩口程の長さの栗色の髪、年齢はトーマと同じくらいに見えたが、その雰囲気は泰然としている。その肩には見たこともないような橙色の柄の翅を持った、大きな蝶がとまっていた。
「最後の保持者が見つかった、潜り方を教えてやれ」
ウェルテと呼ばれた少女は本を机に置き、立ち上がり北側の十字架の前で歩みを止める、肩にとまっていた蝶は飛び立ち机の縁にとまった。
「あの、保持者って…?」
トーマはウィクリフの顔を見るが、無表情に顎であの十字架の元へ行けと合図するだけだった。トーマはその蝕痕の節と十字架がある場所まで歩いていく。
「…えっと、初めまして。トーマです」
ウェルテはトーマの存在を全く意に介さないかのように一方的に指示をする。
「初めまして、じゃ、これ付けて」
そう言って鎖の繋がれた胸と背を×字に縛るハーネスを渡される。
たどたどしくそれを身に付けると、「次はこれ」と更に4つの枷をそれぞれ両手首と両腕に嵌める言われる。トーマは大人しくそれらを手首や腕に嵌めていく。
「それじゃその蝕痕の上で跪いて、蝕痕に掌を付ける」
「あの、それにどんな意味があるんですか?」
「言う通りにして」
恐るおそる蝕痕の上に立つと、暖かい脈拍のようなものを確かに足の裏に感じた。
言われた通り跪き、手のひらをその黒い表面に置く。いままで、こんな大きな蝕痕に直に触れる事はなかった、教会は禁忌としているからだ。
その蝕痕からは、人肌の温もりを感じた。不思議とトーマは不気味さよりも妙な親しみを感じていた。
「じゃ、頑張ってね」
ウェルテがトーマの乗る蝕痕の縁に掌を置く。
「え?」
すると途端に蝕痕の表面が強い粘性を持った黒い膜となってトーマの皮膚を這い登り、手の甲を覆いはじめた。
「なんですかこれ…蝕が身体に…!」
咄嗟に掌を離し、立ち上がろうとするが、もう遅かった。黒い皮膜はトーマの両手と下半身を覆い、動きを封じていた。
「安心しろ。お前は戻るんだ、本当の自分にな」
「何を…嫌だ、助けて!飲み込まれる!」
黒い皮膜はトーマの全身を覆いながら、沼のように内部へと飲み込み、また平らな黒い蝕痕へと戻った。
†
…どくん…
―ここは、夢の中…?
薄赤い液体のような気体のような曖昧な物質で満たされた重力の希薄な不思議な空間。足元の遥か下には赤く輝き鼓動する何かがおぼろげに見える。
いつもと違うのは、自分の胴や両腕に枷が付けられているという事、そしてそうと認識できる程、意識が鮮明であるということ。この空間に響くこのゆっくりとした心音がなんだか安心する。トーマは自然と目を閉じて、意識を心音に集中していた。
すると、なぜか段々自分の肉体がより深く暖かい場所にあるような感じを覚える。
その感覚がより鮮明になっていく。
…どくん…
眼を開くと自分が薄赤い温かい湯で満たされた空間の中にいることがわかった。さっきとは違う、ここは明らかに液体の中だ。
そして、自分の身体にも違和感を覚える。体中の骨格や筋肉の感覚があまりにも歪で自分のものとは思えないのだ。
両腕で赤い湯を掻き、身体を上昇させ湯の湖の表面に浮かび上がる、辺りを見渡してみるとここは赤い湯の池の中心であることがわかる。しかし薄赤い湯で満たされた池など聞いたことがない。放心しかけた頭の中でぼんやりと考えていると、ウェルテの声が響いてくる。
《陸に上がってみて》
返事しようと口を動かすが、自分のものとは思えない低いうめき声が漏れるだけだった。
ひとまず、大人しく浅瀬の方に泳いでいく、水の中を泳ぐのはすぐに要領を掴むことができた。だが妙に泳ぎやすい、なぜか両手が水を掴み易かったのだ。浮遊していた足の裏に砂の感触が当たる。トーマは、ざらざらとした粗い砂礫が敷き詰められた浜に上がる。
前かがみの姿勢を維持し、両足だけで全身を支える、両足は非常に強く柔軟な筋力があり意外と陸で歩くのが苦にならない、しかし、上手く身体の前後のバランスを保つのは難しく、走ることはできそうになかった。
視界がやけに高い。自分はこんなに伸長があっただろうか。いや、これは“背が高い”とかそういうレベルを遥かに超えている。
ようやくトーマは自分の身体を眺めてみた。まず首が長く柔軟に曲ることに驚く。腕や手、指も人のものとはかけ離れていた。指は恐ろしく長く、その間に大きな水かき…いや、翼膜が張れている、翼膜は肘と脇の間にも張られていた。これは物を掴むためのものではない、空気の流れを捉え飛行するためのものだ。そして背後には紅い鱗に覆われた
(―なんだ…これ)
周囲を改めて眺めてみると、地面や木々に刻まれている蝕痕がただの黒い筋ではなく、その上に赤い透明な太い血管のようなものが浮き上がって見えるのだった。
(―ここはどこだろう…僕は一体…まだ夢の中なのかな)
ウェルテの声が頭の中に聞こえてくる。
《おめでとう、あなたは自分の本当の姿に戻ったのよ》
(―本当の姿…?)
《あなたは今まで、人間という仮の姿をして生きていただけ、そして今、飛竜という本来の姿に戻った》
浜の上にいるのは、全長(鼻先から尻尾の先まで)十六メルト程、翼長は十一メルト程。
山羊や悪魔のそれを連想させるような、緩やかに波打つ曲線を描く二本の立派な角が、目尻のすこし後ろから後頭部に向かって伸びている。
頭部から背、尾までを覆うのは堅く尖った紅い鱗。
喉元から胸部、腹部を覆うのは柔軟性のある濃い灰色の鱗。
眼窩にあるは、紅色の水晶体に黒い瞳孔の爬虫類の眼。
口唇は無く、咬合する剥き出しの象牙色の牙の列が顎部に納まっている。
想像以上に長く柔軟に伸びる舌は、自分の頬から眼球にまで届きそうだ。
強靭だが飛行に適した曲線的で細身な印象を与える身体。
前足は無く、肩口から伸びる腕や手、指は蝙蝠と似た作りで翼になっていおり、指と指の間に張られた翼膜も濃い灰色で、紅い細い血管の筋の流れが両翼に左右対称な模様を作っていた。
(―これって、飛竜の身体…だよね。でも、違和感はそんなに感じない…むしろ、心地良いような…)
自分の身体をよく認識し始めると、先ほどまでの違和感は薄らいでいき、代わりに不思議な充足感が湧き上がるのをトーマは感じていた。
(―飛べるのかな…)
大きな後ろ足が砂利の浜を一歩ずつ踏みしめて歩く、しかし、その足取りはおぼつかなく今にも倒れそうだった。
(―なんだか頭がくらくらする、身体が揺れるような)
《トーマ、無理しないで、落ち着いて呼吸をしなさい》
飛竜は何度かえづくと、大量の胃液を砂礫の上に吐瀉した、高温の胃液を受けた砂礫は煙を上げ溶解する。
飛竜の巨体は浜に倒れ込み意識を失った。
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