循環する心 Circulation magic

第一章

1-1 蝕人の少年

「僕に生きる意味なんてあるのかな…」

 教国の中央部にはベリダという小都市が存在する。

 ベリダでは教会による蝕の呪いを退ける力が弱いため、陽は昼に近づく頃にようやく現れ、夕日を見る前に暗い夜へと変わる。

 陽の光があてにならないベリダでは、都市の西部にある鐘楼で鳴らされる鐘の音が蝕人達の活動の規範だった。

 今日も暗いベリダに、朝を知らせるための鐘の音が鳴り響く。

 ベリダ東部の無機質に規則正しく見渡す限り建ち並ぶ石造りの簡素な共同住居棟の一室。

 一人の人間が寝起きし身だしなみを整えるための必要最低限の空間と家具と生活用品が置かれているだけの部屋。

 その部屋の中に響いてくる鐘の音で目覚めた蝕人の少年は、いつものようにベリダの住民に定められた勤労の義務―配給管理所での仕事へ向かうために身支度を整えながら、つい自分がいつも考えている事を口にしてしまっていた。

 少年の年齢はおよそ十四歳で、質素な麻の支給服を纏う身体は細め、伸長は平均程度。黒い髪に黒い瞳。

「だめだな…こんなこと考えてたら、まるで不信心者だ」

 少年は、その両腕は手首まで、両脚は足首までに隙間なく包帯をぐるぐると、手慣れた様子で巻いていく。怪我のためではない、彼の皮膚に浮き出る黒い筋状の痣、蝕痕しこんが人目に触れないように覆い隠すためのものだった。

 包帯を巻き終えた頃に、扉が乱暴にガンガンと叩かれ、開け放たれた。

「蝕人のトーマ、いるな」

 少年を呼びつけたのは、軽装の鎧を纏った男だった。その鎧に陽を象った白い円のシンボルが刻まれていることから、ただの衛兵ではなく、ベリダにある聖堂に仕える上位の守衛であることが分かる。

 このベリダに住む蝕人の中で教会の使者に直々に呼びつけられて、不安や畏れを感じない者はそう多くはない。

「はい、あの、僕に何かご用でしょうか…」

「喜べ、貴様が“解放の儀”に出る事が認められた。蝕段階末期の者が認められる事は稀だ。日頃の己の正しい行いと、大司教の慈悲に感謝するがいい」

 週に一度だけ、蝕人の身体に宿った蝕を浄化する“解放の儀”というものがベリダでは行われている。解放の儀式によって身体から蝕が消えた者は、光域内の村や町などへ移住を許されるらしい。しかし、被解放者に選ばれる事は稀だ、週に一度儀式があるとはいえ、ベリダに住む蝕人の数は数万人を超えるが、その中で解放の儀に選ばれるのは、ほんの十人に満たない。

「ありがとう…ございます」

 そんな奇跡に選ばれるとは露程も思っていなかったトーマは、その現実を受け入れるのに多少の時間を要した。

 守衛は、事務的に少年の両手に簡素な枷が嵌め、外の路地に待たせてあった輸送用の粗末な馬車へと連れていった。

 馬車の中には守衛の他に、一人、少し背の高い目深にフードを被った者が隅に座っていた。トーマは、あの人も被解放者に選ばれたのだろうか…と少し考えたが、すぐに自分の事に意識を向けた。

 トーマの心の中には様々な感情が入り乱れていた。

 身体を蝕む呪いから解放され、このベリダから出て、もっと蝕の少ない明るく安全な場所で暮らせる、という期待。

 ようやくこの狭く無味乾燥な日々しかないベリダから離れられるという安堵。

 そして、“本当にこれでいいのか?”という漠然とした不安と“何か大事なことを忘れている”という虚無感。

 ―いや、そうだ、自分はきっと不治の呪いである蝕を払ってくれた教会に報いるために産まれて来たんだ、きっとそうに違いない。

 そう自分に言い聞かせていた時、ある声が聞こえた。

《あの鼓動が聞こえる?》

「―え」

 顔を上げて回りを見渡す。

「どうした」

「いえ、誰かに話しかけられたような」

「気のせいだろう」

 トーマは更に違和感に気づく。馬車に乗った時に、隅に座っていたフードを被った少年が見当たらなかったのだ。当然、馬車は一度も止まってなどいない。

「あの、その隅に座っていた人は…?」

「何を言っている、最初からこの馬車に乗っているのは俺とお前の二人だけだ」

「そうでしたっけ…」

「おい、せっかく解放の儀に選ばれたんだ、あまり不審な言動を取るのはやめておけ、特に教会の者はそういう奴に神経質だからな」

「すいません…」

 トーマの鼓動は不意に速くなっていた、突然聞こえた謎の声、鼓動。

 トーマには心あたりがあった。

 何か辛い事や苦しいことがあった時に眠ると、決まってその夜は、おおきな、ゆっくりと響く鼓動を夢の中で聞いたからだ。鼓動を聞いて目覚めた朝に、全身の蝕が蠢くような奇妙な感覚に襲われた事もある。

 蝕人の少年の蝕が刻まれた胸の中に根ざす不安は、解放の儀式に選ばれたという奇跡を押しのけて、否応なしに大きくなる。


 ベリダ聖堂の白い石材で造られた外観は壮麗、しかし所々に施された鉄製の鋭い装飾がどこか険を感じさせる。

 他の都市の聖堂と比べるとその規模や許されている装飾の階位は低く、比較的簡易な造りをしている。

「聖堂に着いたら入口の前で待っていろ、直ぐ中に通される。後、ここで包帯は外していい」

「わかりました」

 馬車は聖堂の前で止まる。

 聖堂の入口の大きな扉は開かれておらず、その前には既に少年少女が八人程集まっていた、みな包帯を外していて手足に走る蝕痕が露わになっている、トーマ以外に両手両足に蝕痕がある者はいない。みな、私語を話そうとする者はおらず、皆両手を組んで眼を閉じ祈りを捧げている、トーマもその中に加わった。

 さほど経たずに、扉が開く、中から現れた白髪の老爺は教会の大司教以上に着る事の許される装飾を誂えた白い法衣を纏っている。

「よく来てくれたね、さあ中へ」

 恰幅の良い白髪の大司教は、にこやかに少年少女達を迎え入れた。

「我らを照らす奇跡に感謝致します」

 少年少女達はそう唱和すると、一列に聖堂の中へと進んでいく。

 始めて聖堂の中に入ったトーマはその中を満たす空気が妙に冷たく感じた。これから解放の儀式を受けられるという事への期待や緊張のせいかもしれない。

 大司教は子供らを伴い、聖堂の最奥部の小さな扉の奥、“聖室”へと入る、たとえ教会の者でも許可なしに入れば厳罰に処されるという聖域だ。聖室は円形の小さな部屋で、中央に輝く白い球体が置かれた台座があり、それを囲むように九つの白い背もたれの無い簡素な椅子が並べられていた。

「君、聖書の概要と構成を言ってみなさい」

 すっと温和な雰囲気を消した大司教は、その鋭い眼をトーマに向ける。

「あ、はい。人の成り立ち、世界の形成が記された“始祖記”。住んでいた国を失い、各地をさまよい、安住の地を見つけてはまた迫害される受難の記録“彷徨記”。人々の傲慢と横暴に怒った神が光の恵を与えることを拒絶し、光を奪う呪いが世界を覆っていく様を記した“呪記”。聖人の出現と、それによって起こされた奇跡の御業を記した“光の軌跡”。奇跡の御業を行うための心構え、扱い方、必要なものを記した“伝導の軌跡”。そして、来る災厄とそれを回避するための法が記された“預言の言葉”から構成されており、千数百頁を越えます」

「よろしい。今こそ、選ばれし君達に教えよう。その“預言の言葉”に記された、災厄が今、訪れようとしている」

 それまで落ち着き払っていた少年、少女達は動揺に隠せず、顔を見合わせる。

「だが、安心しなさい。教皇猊下は、その災厄を退ける大規模な浄化の儀式の実現に取り掛かっておられる。これが実現すれば、災厄を退けるだけでなく、世界から全ての蝕と蝕痕は消え去り、もはや、蝕人や魔物という言葉はこの世から無くなるのです。君達は、ここで蝕を払った後、その浄化の儀式を実現するための一員として首都ヴェルナに往き、その務めを果たしてもらいます」

 白髪の大司教は、「では」と言って、険しい顔で言葉を続ける。

「君達は、暗く辛い日々に負けずここベリダで献身的に奉仕に従事した。その人格、功績を認め、これより君達を蝕の呪いから解き放つ最高の奇跡、解放の儀式を受けることを許します。順に中央の聖体を囲む椅子に座りなさい」

 先頭に居た少年から順に座っていく。トーマはあまりの緊張に凍えそうになりながら、光る球体を囲む最後の椅子へと座った。

 みな自然と両手を組み合わせ祈りの恰好をする。

 みなが椅子に掛けると大司教は聖体の隣に立ち、両手を組み合わせ短い言葉を唱えた。

『主よ、我々の願いと行いが光の下にあるならば、我々にあなたの慈愛の手を授けたまえ』

 部屋の中央の天井から光が溢れてくる。

 椅子に座る子供達の蝕痕が消えていく。

 しかし、トーマだけは蝕痕が全く消えなかった。

「なんということだ…!この中に不信心者がいようとは…嘆かわしいことだ」

 大司教は、トーマを冷たい眼で見やる。

「違います!そんな…僕は教えに背くようなことは一度も…!」

 反駁するトーマを前に、大司教は落ち着いた調子で言葉を乗せていった。

「教えというのは、ただ守り、従えば良いというものではない。僅かでも疑問や不審を抱いていてはならないものです。解放の儀を以てしても君の身体の蝕痕が消えなかったのがその証拠である。よい、弁解は審問の院で聞く。連れて行きなさい」

「嫌だ、待って…待ってください!」

 守衛が現れ、トーマの腕を抑え、手錠を嵌める。

「…残念だ、君は特に熱心に勤労の義務を果たしていたと聞く、だが、君の心はそうではなかったようだ」

 トーマは守衛に促され、聖堂からまた馬車の中へと連れていかれた。

「違う…僕は…」



 枷の嵌められた少年を乗せた馬車はベリダの東西を縦に二分する大通りを北へと移動する。

 そして、ベリダの北に佇む薄汚れた修道院の前で止まった。ここが問題のある蝕人を審査し、その処遇を決めるための場所、審問の院だ。

 ベリダがまだ普通の街として機能していた時は奇跡を信じる者達を迎え入れていた家は、今は罪人や不信心者を裁くための場所として使われていた。

 堅牢で立派な作りであるが、扉や柱にある聖人や神話を象徴する装飾はどれも所々欠け、折れ、外壁も手入れも殆ど手入れがされていない様子で灰色にくすんでいる。

 その堅牢な作りと装飾の欠損が合わさり、見る者を威圧し、不安を掻き立てる様相を呈していた。院の外から礼拝堂に直接入るための正面の大扉は、鎖と大きな錠前で固く閉ざされていて入れない。

 トーマはその不気味な建造物の東側の小さな門を抜け、寮棟の扉から中へと連れて行かれた。

 内部も全て石造りで、簡素だが威厳のある造りをしていた。

 石の廊下を歩き角をいくつか曲ると、左手に木のドアがあった。

 衛兵はそのドアの前で止まった。

「不心信者を連れて参りました」

 中から低く重く響く男の声が返ってくる。

「入れ」

 守衛はドアを開けると、トーマに目で入るよう促す。

 トーマはおずおずと部屋に入り、予め定められていた台詞を口にする。

「我らを照らす奇跡に感謝致します。東居住区第3郡51番のトーマです」

「審問官で当院院長のウィクリフだ。お前の身柄は、処分が決定するまで当院で預かることになる」

 体躯は大きいがどちらかというと痩身、短めの黒髪に無駄な肉のついていない頬や顎には不精に伸びた髭、どこか憔悴しているような翳が見え隠れする。切れ長の険を感じさせる眼が品定めするようにトーマを睨む。

「暗室に連れていけ、お前に弁明も弁解の余地も無い」

 短い指示を伝え終わったウィクリフは、すぐに視線を手元の羊皮紙の束に戻す。

「え…そん、な」

「来い」


 守衛に引かれるトーマは、部屋から出て、廊下を奥へ進み、曲り階段を降り、薄暗い地下へと連れられていく。

 そして、停滞し湿った空気の流れる、暗い地下の独房に入れられた。

「ここは、お前の魂を試す場所だ、一日ここで過ごすことができるか否かで今後のお前の処遇が決まる」

 守衛がそう言うのに対して、トーマはただ頷くだけだった。守衛は、そんな様子のトーマを見ても、見慣れた光景だとばかりに手早く鉄の扉を閉め、鍵を掛けて去って行った。

 そして、扉に開けられた小さな監視窓から僅かに射す廊下の松明の灯だけの空間にトーマは一人残された。

 どれほど時間が経ったろうか、気づけば蝋燭の明かりは弱々しく縮んでいた、ゆっくりと瞬きをすると、その弱い明かりすらも消えていた。独房の中を完全な暗黒が満たしていた。

「こんな場所に閉じ込めるだけで、魂を試すなんてできるのかな…」

 眼を瞑ると疑問や不審の思いが嫌でも湧き上がってくる。なぜ、自分は解放の儀でも蝕痕が消えなかったのだろうか。やはり少しの不安や疑問も持ってはならなかったのだろうか。今の暮らしの中で不安や疑問に一切とらわれることなくただ純粋に、自分だけでなく他者の未来と平穏を信じる―そんなことは僕には無理だ。

「蝕人ってなんなんだろう。本当に、僕らが人や物に蝕痕を伝染させているんだろうか」

 教会の定めた事、特に蝕に関する決まりに異を唱える発言をするのは重罪になる。

 しかし、不信心者と認められてしまったからには律儀に守ろうという気が起きなかった。それに、この暗黒の中で言葉を放っても誰の耳にも聞こえるはずない。

「眠いな…」

 思考が定まらなくなる、空腹も感じなくなると、揺れる意識の中でトーマは眠りに落ちた。

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