1-0 奇跡の力

 薄い板金と獣の皮で出来た軽装に身を包み、腰に鉄の剣をいた五人の歩哨が、白いフード付きのローブをまとった少年を一人連れて、暗い森の中の細い獣道を急ぎ足で進んでいる。

 周囲の木の幹や葉、地面には、蝕痕しこんと呼ばれる黒い血管の筋のような模様が這うように刻まれており、時折脈を打つように蠢く。

 一行の後ろから流れて来た一際ひときわ強い獣の臭気に、歩哨達は緊張した顔を見合せた、顔に滲む汗は抑えられない。

 しかし、フードを被った少年はそんな異形の空間の中においても、少年らしからぬ冷静さを保ち、落ち着いて歩哨達を指揮する。

くだんの魔物ですね。急ぎましょう、もうすぐ平野に出ます。陽の下なら“使者”を呼べます」

「承知しました」

 歩哨の一人が答え、みなは獣道を進む足を更に速める。

 一行が幾らも進まないうちに後方から草を掻き分け、枝を折る、大型の獣の重い足音が聞こえてくる。

「貴方達は私より前へ。安心してください、決して遅れは取りません」

 ここまで危険な状況にあっても、少年の声は妙に落ち着いている。

 歩哨達が少年の声に従い、より前方へと歩み出ると同時に、草薮を散らし、一行の後方に足音の主が現れた。

 それは、大の男の背丈を二回も超える巨体の熊の魔物だった。茶色の毛皮は蝕痕によって所々に黒い筋が這い刻まれている、その両目は黒い蝕痕に塗りつぶされており、匂いと音だけで周囲の状況と獲物を判別しているようだった。

 熊の魔物はその巨体に似合わぬ速度で走り、容易く一行までの距離を詰める。

 そして、白いローブの少年の頭を丸ごと齧ろうと、大口を開けて迫る。

 が、少年が振り向き、白く輝く小さな石を熊の顔に向けて掲げると、熊の魔物は何かに弾かれたように後ずさり、その場で動きを止めた。

「長くは持ちません、急ぎましょう」

 少年は、呆気にとられる歩哨達に先を促す。

 ついに一行は森の外、二つの月の明かりに照らされた夜の平野へと出ることができた。一つは欠けた月、もう一つは欠ける事の無い大きな月。

「はぁはぁ…これで逃げ切れたでしょうか」

「いいえ、すぐに来ます。あの魔物は私達よりも自分の足のほうが速いという事を、理解しています」

「では、もっと遠くへ…」

「大丈夫、歩哨の方々はもっと下がっていて下さい」

 少し遅れて、森の中から歩哨達を食い殺さんと森の中から猛る熊の魔物が飛び出し、平野に構える一行に向かって猛然と迫った。

 熊の魔物は、歩哨達の前で一人、待ち構えるローブ姿の少年の前で上体を起こすと、黒い毛に覆われた幹のような腕を振り上げる。その剛腕で振り下ろされた鉈のような爪なら、一瞬で少年の身体を肉塊に変えるだろう。

『主よ、我々の願いと行いが光の下にあるならば、我々にあなたの信義を授けたまえ』

 しかし、その腕が振り下ろされる前に、少年は両手を組み合わせ短い言葉を唱えた。

 少年の掌の中より溢れた光の筋が、大熊の胸を貫いたかと思うと、大熊は腕を振り上げたまま動きを止め、両腕をダランと脱力したように地面に向けて垂らした。その口と胸の中心からは赤黒い血が溢れだしている。

 白い光の筋はその切先から震え波紋のように根元に向かって広がる、光の波が通り過ぎると、熊の厚い胸板に深く突き刺さり、その背まで貫く銀の両手剣が現れていった。そして、薄い光の波は剣の柄を通り過ぎると、その長大な両手剣を構え、魔物へと突き立てている者の姿が露わになっていく。

 白銀に輝くクローズドヘルム、メイル、ガントレット、グリーブ、それらを包むサーコート。それは白銀の甲冑に全身を包んだ二メルトを越える背丈の騎士だった。

 陽の表す円のシンボルが金の糸で刺繍された純白のマントを羽織り、頭上には白く輝く光輪を冠している。天より使わされし超常の存在、奇跡の化身。

 使者の一柱にして、守護の力を有する者、“守護者ガーディアン”であった。

「おお…これが…使者」

 歩哨達は茫然とその姿に見惚みとれる。

 それは単なる見た目の美しさのせいだけではない、使者が常に待とう光“威光”による、精神支配の力によるものだった。

 守護者は両手剣を引き抜くと、熊の巨体は地面に崩れ落ちる、その骸は胸の傷痕から光の粒へと変わって蒸発するように跡形も無く消えていった。役目を終えた守護者も同じく、光の粒になり風に流されるようにして消えていった。

「罪深い魔物は天より使わされし者によって浄化されました。では私は戻ります、みな村へ帰るまで気を抜かないように」

 微笑みながらそう言う、少年。

「はっ、我らを照らす奇跡に感謝致します!」

 歩哨達は跪き、礼を返す。

 少年は虚ろな表情になると、草地に崩れ落ちそうになる、のを歩哨の一人が支え、そのまま背負った。少年は、まるで何に入っていた魂が抜けたように意識を失っていた。

「…さあ帰るぞ、もうすぐ昼だ」

 二つの月に照らされた暗い草原を歩哨達は歩く。

「いやはや、教皇様のお力を間近で見られるとは…こんな光栄なことは無い」

「その少年は大丈夫なのか?」

「ただ器になっていただけだ、明日にでも目を覚ますさ」



 教国の首都ヴェルナの中心にそびえ立つのは、ヴェルナデット大聖堂。

 幾何学的な美を感じさせる彫刻が随所に散りばめられた荘厳で壮麗な造りの内装、全体として回転対称性を持ち、壁から聖卓のある中央へと線が収束するようにできている。

 大聖堂の天井を見上げたなら、陽を象った円のシンボルと、それを囲う光の放射を表す波打つ楔が大きく描かれているのがわかる。

 そんな円形の大聖堂には、骨のように白い簡素な椅子が放射状に並べられており。椅子には白いフード付きのローブを纏った信徒が隈なく座り、皆一様に掌を組み合わせ静かに祈りを捧げていた。

 しかも、大聖堂の中だけでなく、その外の広場や大通りまでも信徒が立ち並んでいる。

 その祈りは己の幸福ためではなく、より多くの他者の幸福のために捧げられる。

 いくら教国といえど、このように人が集まるのは特別な日だけだ。しかも今日はただ特別なだけではない、数百年に渡るヴェルナデットに住む者達の悲願、国内の全ての蝕を完全に浄化する力を持った天の使いを召喚する儀式が執り行われる日だった。

 教会の権威の頂点に君臨する現教皇ゲオルギウス六世は白いフードを目深に被った三人の子供の信徒を伴い、大聖堂の中央の前まで歩むと、そこに置かれた小さな丸い台座―聖卓に手をかざす。

聖卓の上に光が集まり、その光は拳ほどの大きさの白い卵へと変わった。その卵は、優しい白い輝きを放っていた。

「この卵は神より与えられた、“浄化者ピューリファイア”の卵です。」

 高らかに宣言するゲオルギウス。

「この卵が孵る時、全ての人は等しく苦しみと悲しみから解放され、永遠の平和が訪れるでしょう。の者がもたらす“大浄化エル・ピューリフィケイション”によって」

 浄化者の卵は聖卓の白い布の上で静かに胎動していた。



 どこまでも白く平坦な地平。どこまでも白い空。あらゆる生が存在しないかわりに、完全に清浄な空間。

 その空間に、六つの白い椅子が置かれている。

 一つの椅子を中心に、少し離れて、半円に囲うように他の五つが配置されていた。

 中心の椅子には、白いフードを目深に被ったローブ姿の子供が。

 それを囲う五つの椅子には、高位の聖職者の白に金の刺繍の施された法衣を身に着けた五人の者が座っていた。その装飾から、ヴェルナにおける、大司教、あるいは修道院長の職に就く者であることが分かる。

 ローブ姿の子供の対面の椅子には、白髪の老爺の修道院長が掛けている。

 老爺の右手側の椅子には、神経質そうな細身の男の大司教が、左手側には精悍な青年の修道院長が座る。

 左端の椅子には武人のような隆々とした体格の男の大司教が腰を預けている。

 右端の椅子には落ち着いた雰囲気の流れるような黒髪の細身の女性の修道院長が座っていた。

 白いローブの子供は、まだあどけない少年の声で、しかし大人びた口調で話し始めた。

「“卵”の揺籃が始まった。これより、不測の事態が起きた場合、首都から各光域への援護は無いものと考えてほしい」

「不測の事態とは、“預言の言葉”に書かれている、恐るべき魔物の襲来ですか?」

 精悍そうな青年の修道院長は問う。

「そう認識してもらってよい。本書内では、魔物と表現されているが、それに囚われず、蝕による未曾有の危機が各都市を襲うと考えてほしい。防備には今以上に心理的方向性リソースを向けるように」

「承知しました、すぐにでも計画を立てましょう」

 神経質そうな細身の男の大司教は追従する。

「…ちっと、判りませんな。蝕による危機というだけでは、どのような対策を講じ、どこを重点的に守ればよいのか、指針を立てるにも立てられん」

 武人のような隆々とした体格の男の大司教は疑問を呈する。

「我が光域は、既に十分に蝕へ対抗するための奇跡を展開しております」

 白髪の老爺の修道院長はな様子だ。

「私はどのような対策を講じるにしても。その危機が、どのようなものなのか見極めてからにしたいと思います」

 落ち着いた雰囲気の女性の修道院長は瞑目する。

「委細はお前達に任せる。お前達は、蝕を退ける光域を支える聖体の顕現者だ。多くの民の命がお前達の統治に懸かっている事を努々ゆめゆめ忘れるな」

 白いフードを目深に被った子供の姿は光の粒に変化し霧散した。

 しばらくの沈黙が流れた後、武骨な大司教がそれを破る。

「教国全土の蝕を浄化しようとは、全くもって、教皇猊下も無茶な事をお考えになる」

「蝕の呪いの一掃は、我らの悲願だ。少々強引だが、正しい選択ではある」

 老爺の修道院長は遠くを見つめる。

「フィリベルト大司教、アベラルド修道院長。この光の座で、猊下への異を滲ませるような発言は控えるべきかと」

 神経質そうな大司教が二人を嗜めるが、武骨な大司教は豪快な笑いを返して言う。

「何言ってる、そんな事は今更だろうよ、パルミロ。どうせ猊下は何でもお見通しだ、俺達が何を腹に隠してようが、それらを見越した上で、今の立場あるのさ」

「では、私はこれで」

 神経質そうな大司教は、話しには付き合わぬとばかりに、椅子を立つ。それと同時に、その姿は、影のようにゆらめき、白い世界から消えた。

「僕も失礼します、やらなくてはならない事が沢山あるので」

 青年の修道院長は真摯な面持ちを崩さない。

「なんだ、もう少しゆっくりしていけばいいじゃないか、イザック。大司教や修道院長が一堂に会する事なんてそうそうないぞ」

「預言の魔物は必ず現れると僕は思います。きっと残された時間はそう多くはありません」

 青年は席を離れる、すぐにその姿は周囲の白に溶け見えなくなった。

「やれやれだ。とりあえずは、市壁の修繕箇所でも見直すとするかね」

 武人のような隆々とした体格の大司教は席を立ち、消える。

 残されたのは、女性の修道院長と、老爺の修道院長の二人。

「…先程、見極めると仰ったが、アマリア殿は何を考えておるのかな」

 老爺は鋭い眼を、女性の修道院長へと向ける。

「申し上げた通りです、“預言の言葉”を信じないわけではありませんが、実際に目の当たりにしてみなければ、解らない事はきっとあるはずです」

「解らないことなど有りはしない、魔物はすべからく打ち滅ぼす敵…邪悪です」

「ヴェルナの民にどんな苦難があろうとも、皆が友愛と利他の心を持つ限り、私は乗り越えられると信じています」

 落ち着いた雰囲気の女性の修道院長の姿は幻ように消える。

「私も、そう信じたいものだ」

 最後に残された、白髪の老爺の修道院長も、白で埋め尽くされた空間から姿を消した。

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