調和する心 Harmonized heartbeat

エピローグ

fin 勇気の灯

 ふと、繋いでいた手が離される。

 なんとなく、わかってはいたけれど微かな不安が沸き上がるのを止めらない。

 空から降るまばゆい輝きの中で、私は目の前の白い影に問いかけずにはいられなかった。

「ねえ、これから、私はどうしたらいいの…?」

 白い影は優しく答える。

「ラウラ。あなたは、私たちのことを一番近くで見ていた唯一の人。何を成すかはもう知っているはず、あとはそれに気づくだけよ」

「でも、私…そう、ずっと寝てるだけだから…何もできないの」

「いいえ。あなたは何でもできる、必要なものは全てあなたの掌の中にある。だから、恐れずまぶたを開いてみて」

 にわかに強くなる光は周囲の全てを真っ白にしていく。

「――待って、まだ教えてほしい事が沢山あるのに」



 瞼の裏から差し込む温かい光が、おぼろげな意識に輪郭を与える。

「………ん」

 ゆっくりと起き上がり、視界が整うと隣の窓に顔を向ける。

「ここ…私の部屋…?だよね」

 そこからは見た事もないような赤みのある陽の光が射しこみ、部屋の中の空気を心地よく温めていた。

 部屋を見渡した後に、掛け布を握る自分の手に視線を落とす。

「白く…なってる」

 そこに刻まれていた黒い蝕痕は、石膏のような白さに一変していた。

 しかし、身体はなんともない。それどころか根のような大地に繋ぎ止められる感覚は消え去っていた。

「ほんとに、ウソみたい…」

 薄い掛け布を払い、軋む寝台から降りる。両足は十分な力が宿り、何の不自由も無く立ち上がることができた。

 ひやりとする石の廊下を歩き、礼拝堂に出る。けれど、やはり人の気配は無い。

「こんなに明るかったかな、礼拝堂って…」

 いつもは閉ざされているはずの正面の大扉が大きく開かれており、外からの赤みがかった陽の光を取り入れていた。

 椅子も机もない、無機質な妙に広い空間。その北側だけは木の床板が剥がれた一面があり、白い石材が剥き出しになっている。

 自然と、足はその上に向かっていた。

 白い石の床の上でしゃがみ、掌をつける。

冷たく平らな表面は、どこか後から塗り固めたような違和感があった。

「なんでだろう、夢の中のようなことなのに…私…全部知ってる」

 この国の在り方を丸ごと変えたのは、六人の勇者と、教会に抵抗した二人の信念、そして他ならぬ自分達の鼓動によるものだということを。

「お姉ちゃん…みんな…。私、どんなことがあっても生きるよ…この世界で…」

 少女は首元に下げられた小さな袋をそっと握り、立ち上がった。

 足は自然と東側の開かれた扉に向かって進む。

「なにか、大事なものがある気がする、きっと…なにか」

 そんな想いが身体を突き動かしていた。

 院の中をおっかなびっくり覗いて回る。厨房や寮棟、中庭、地下牢にも足を運んだ。

 どこも不思議な懐かしさと新鮮さを感じるけれど、人が使っていた痕跡は綺麗に消し去れていた。

 夕日に染まる審問の院は、まるで時間から切り離されたかのようだった。

「あとは…執務室、だっけ」

 礼拝堂の東側の通路に戻り、一回り重厚な作りの扉を開く。

 恐るおそる顔を覗かせ、中に入る。

 部屋の隅には書架。南側の窓の近くには机と椅子。その机の上には、小さな厚めの本が一冊、ぽつんと置かれていた。

 擦り切れたカドや、クセのついた表紙は年季を感じさせた。

「手帳…かな?」

 そっと手に取り開く。

 やはり、誰かの手帳らしく、様々な考察や所感などが走り書きされていた。

 決して難解な内容ではなく、また教会の思想を崇拝する所もなく、ただ純粋に心理の考察を書き記した独特な内容だった。

「…あらゆる思考と行動は、目的のために成される。何らかの原因によって思考や行動が規定されることはない…」

 読むほどに納得と否定の考えが同時に沸き上がり、思わずページを何度もめくっていた。

「…怒りや暴力は人々を引き離す。賞罰は必要ない…勇気は周囲に波及する…」

 それは自分の姉が最後まで求めていたものに対する、最大の答えのように思えてならなかった。

 手記の最後の頁に、書き込まれた一文を指でなぞりながら読み上げる。

「――私はフィエンツ光域外縁、ルフスハイムの村の司祭…アルフレッド――」



――そして、大浄化の起きた日が、一つの祝祭日として人々の記憶の一部になるくらいの月日が過ぎ去った。



 一面の金色の麦畑は沢山の種を実らせ頭を垂れ、今まさに収穫を待っていた。

 畑の隅の木陰に置かれた丸太に、妙齢の女性が一人、白い筋のような痕が微かに刻まれた両手を膝の上に置いて行儀よく腰かけていた。

 白い司教の法衣に身を包む姿は、その歳や華奢な身体には不釣り合いな熟達したような雰囲気を放っている。

「平和ですねぇ」

 満足そうな表情から、この麦畑を見るのが彼女にとっての至福の時間の一つのようだ。

 心地よさそうな微風がその女性の背に流れる軽く束ねられた栗色の髪を撫でていく。

そんな呑気な時間は、遠くから聞こえる馬が土を蹴る軽快な音と共に流れ消える。

「あらら、見つかっちゃったかしら」

 修道女姿の女性は、この時を終えなければならない寂しさよりも、この場に自分を訪ねる者がいて、それが起因となって自分の行動を変化させることが妙に嬉しいと考えていた。

 ちょうど、スキレットの上に落とした卵が、目玉焼きに変化していくのを眺める時の感覚に似ている、なんて事をぼんやりと思い浮かべながら。

「どうどう――と、探しましたよ、大修道院長のラウラ様」

 最小限の抵抗で減速させ、ひらりと狩人姿の若者が馬上から降りた。

 背には短弓、腰に矢筒。肩口で切りそろえた髪、細く締まった腕や脚からは、適度に鍛えられているのが分る。少女という時期は通り過ぎた、精悍な顔の女性だった。馬の整った毛並と、適度な警戒を保ちつつも落ち着いた様子から、乗り手の愛情と相互の厚い信頼関係が伺い知れる。

 そして、その首元には麻布で作られた小袋のお守りを下げていた。

 修道女姿の女性はその若き狩人を穏やかに迎えた。

「ごきげんよう、ロレナ」

「院長も、ごうきげんそうで何よりです。でも―」

 ロレナは少し不機嫌そうに腕を組む。

「そうやって子供の成長をしみじみと喜ぶような眼で見るのは止めて下さい、って言ったはずですけど。あたし、もう自警団の団長補佐役なんですよ」

「あら、そうでしたっけ」

 にこりととぼけるラウラ。

「過保護なのは父や母だけで十分です。そんなことより、今年の再誕祭エルナーレの件でアンジェが呼んでましたよ。聖都ベリダへの巡礼行程の確認だそうです」

「ありがとう。アンジェはいつも頼りになるわ」

 ラウラは広がる黄金の絨毯に視線を戻す。ロレナもそれに追随する。

「今年は実りも良く、余裕を持って発てそうですね。神のご加護というやつでしょうか」

「いいえ、日々の私たちの弛まぬ仕事の賜物ですよ。あなたも、たまには講義に出てみませんか?せっかくの参事会の許しを得た講義なんですから」

「遠慮しておきます。あたし、じっとお話を聞いてるよりも、馬や鷹と一緒に走り回ってるほうが好きですから」

「最近は、色んな人を招いて、より身近に役に立つ知恵を皆で共有する場にもなっているんですよ。」

「…じゃあ、顔を出すくらいなら…」

「ええ、気が向いたらいつでも、来て頂戴ね」

 ラウラは、にこりと微笑む。

「修道院まで送りますよ」

 馬の首に手を添えるロレナ。

「それじゃあ、お言葉に甘えようかしら。でも後少しだけ、陽に当たらせて…今日は本当に良い陽気だから」

「たぶん明日も同じくらいいい天気だと思いますけど…“今が大事”でしたっけ」

「そう、だって――」

 ラウラは白い痕が走る掌を雲一つない青空にかざすと、陽の光が掌の中の蒼色の地を輝かせる。

「――私たちは、今を生きているんですもの」

 その蒼い血は、一定のリズムで鼓動する心臓によって、止むことなく循環していた。

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ユーリの心臓 Lost heart for the world 置崎草田 @okizaki

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