8-9 あなたの心に私がいるから

 信じるということは認めること、拒絶ではなく受け入れること。

 それは、服従や依存ではない、人を繋げる力。

 だから、あなたを信じて…トーマ。



「――例えば、互いに議論を交わすというのはどうかな?」

 空に浮かぶ黒い竜に言葉を投げかける教皇はどこか親しげな様子を滲ませる。まるで古い仲間に再開した時のように。

「君には聞きたいこと、言いたいがあるだろう、私も話したいことがある――。しかし、君がもしまだあくまで強引な侵蝕による儀式の制圧を望むのなら、私も浄化の光をもって受けて立つよ」

《………今すぐ、この地平の下で起きている、あらゆる大浄化の進行を止めること。僕がここまで引いてきた蝕痕に対して浄化等の干渉しないこと。対話以外の奇跡を使わないこと。この三つを守れるなら…その座に着きます》

 黒い飛竜は空の上で羽ばたきながらたっぷりと黙考を重ね、ついに教皇の言葉を聞き入れた。

「ふむ、もっともな条件だ。平和的に言葉を交そうと言いつつ、その界下で、威力の押し付け合いをしていたのではいけないね。全く失念していた、早急に対処しよう」

 おもむろに捧げた教皇の右手の掌の上に、小さな伝令者が一匹、顕現する。

 そして「行っておいで」の言葉と共に白い掌の上に現れた小さな伝令者は、飛び立ち、降下して白い地平の中に潜っていった。

 少し遅れて、大きな鐘の音が下方から鳴り響いた。

「活動を一時的に停止するよう伝令を飛ばしたよ。どうかな?」

 トーマは魔脈の感覚から、確かに浄化者の攻勢が消えた事を感覚する。

 魔脈だけでなく、魔物たちから受け取った視覚や聴覚などの情報からも同様に、浄化者の活動の停止、上空への撤退、待機を認識することができていた。

《…確認しました》

 しかし、あまりにもあっさりと要求が受け入れられた事に、トーマは警戒をいっそう強める。

「では、こちらからも一つお願いだ。そんな所で飛ばれていては、とても落ち着いて議論などできない。是非、この地平に降り立ってはくれないかな?」

《…》

「大丈夫、今の君にはただの白い石畳だ」

 風を薙ぐ翼の音と共に、黒い鱗を持ち紅い骨と眼を持った蝕の主は、教皇から十分な間合いを取りつつゆっくりと降下する。硝子のように硬質な白い地平に、重厚な音を立てて黒い鱗に覆われた巨大な両足と鋭い紅い鉤爪が接地した。寒い日の冷え切った石の床に足を置いたような感覚が、厚い鱗を貫いて伝わる。

 竜は、教皇に対して左翼側を前にするようにして座り。上体を起こして紅い血筋の走る黒い翼は畳まず広げぎみにして身体を覆い、尾は左翼側に置いた。可能な限りの教皇を警戒する姿勢だ。

 教皇が片手を上げると、五体の有翼の少女たちは、ふわりと白い複翼をひらめかせて主の後方へと退き、控える。

 黒い竜の眼から溢れ、頬を伝っていた紅い涙が白い地平に滴り落ちて蒸発する。

「主は人々に仇為すものには容赦しない。君がそんな悲しい想いをしなければならないのは、全て君の行いによるものだよ」

 トーマは紅い歯列の隙間から伸ばした長い舌を頬と目元に伸ばし、教皇を睨み付けたまま溢れだしていた紅い涙を舐め取る。紅い眼球の大半を占めていた黒い瞳孔が閉じ、細長い形に戻ろうとしていた。

《光の教会は確かに多くの人を救っています。けれど、その裏側で差別、洗脳、支配を公然と正当化してきた。僕はもう、それを見過ごして、許容するつもりはない》

「ふむ、もし君がよければ、どちらがこの国の趨勢を握るに相応しい存在か、審判を下すというのはどうかな」

《どういうことですか》

「新たな教皇を決める時に使う裁定の奇跡、“審判ジャッジメント”というものがある。互いの魂を一つの天秤の両皿に乗せ、その善性を計るというものだ。つまりこれを私と君の間で行うことで、君は浄化の枷をはめられ、代わりに私は呪いを受ける。君が善であると示すことができれば、私の呪いは進み、逆に私が善であれば、君の枷は太く重くなっていくだろう。ただし、一度ひとたび皿の上に乗せられた魂は、審判が下るまで決して降りることはできないし、言論以外のあらゆる力を抑制されることになる」

「グル"ル"ルル」

 竜の喉から発せられた低い威嚇音が空気を微震させる。

《信用できません。そうやって口車に乗せておいて、また一方的な洗脳や干渉をするつもりなんじゃないですか。アルクスにしたみたいに》

「うーん…しかし、こればかりはどうしようもない。どうしたら私は君に信用してもらえるのかな。私はただ不毛な言い争いで時間を無にするのが嫌なだけだ。君だって、その身体を維持する時間は決して安いものではないはずだろう?」

 腕を組んで困った表情を作ってみせる教皇に、トーマは直ぐに答えを与えた。

《この地平に、僕が刻み込む蝕痕の塊を浄化しないと約束するなら……一先ず信用します》

「蝕痕…ね、忌まわしき――いや、愛すべき呪いの象徴だ。まあ構わないけど、際限なく広げられてはさすがに困るな…うん、五つまでというのはどうだい」

 教皇は五指を広げた右手を、己の顔の前に掲げる。

「こちらも五体の使者を控えているわけだしね。それで対等さ」

《十分です》

 トーマの角と背から突き出した骨、そして尾の先が紅く輝く。

 周囲に五つの黒い蝕痕の塊が出来上がっていき、互いが互いを蝕痕の筋で結び始める。

「いやはや、大浄化の発現の光で一度は君をこの審判の座にいざなったはずだったんだが、何故か君は突然、我に返ったように抵抗を始めてしまってね。一体、何が起きたのかな」

《ウィクリフの声を聞いたからです》

「“啓発者”というのは消え失せてもなお我らの邪魔をするわけだ。勉強になったよ」

 嫌味な探りを容赦なく切り返された教皇は、不敵な笑みを作る。

《それで、善であると示すとは具体的に何をするんですか》

「難しいことじゃない、淡々と互いの論を示し合えばいいだけさ。暴力、恫喝、利己的な考え、あるいは質問に対しての沈黙…その他おおよそ指導者として相応しくない態度、言動をせずにね」

《沈黙も、いけないんですか》

「もちろん、それは代表者として正しい態度とは言い難いね。やましい事がないなら答えを返せばいいんだ。知らないこと、判らないことなら素直にそう答えればいい。よって、沈黙を返答とするなら己の不利を覚悟するように。付け加えるなら、展開される論は具体的なほうがより評価されるだろう」

《口から出まかせの演説合戦でも始めればいいんですか、ここで》

「言っておくけど、この“審判ジャッジメント”は、誠実さに関してはなかなか厳格でね、その場しのぎの中身の伴わない言葉を見過ごすようなシロモノではないよ」

《でも、この審判はあなたが起こすものでしょう。ならそんなのは、どうとでも誤魔化せるんじゃないですか》

「大丈夫。おのれが放つ言葉の真偽や善悪を判断するのは、徹頭徹尾“汝の心”さ。自分の心が嘘と感じればその分、はかりが相手の方へ傾く、そこに誤魔化しは通用しない」

《つまり、どんな横暴な事でも本気で善と信じてさえいれば秤を自分に向けられる、ということになりますけど》

「その通りさ。ある意味、“自分の放った言葉を心から善であると信じられるか”、という精神の統一性が試されているといってもいいだろう。それもまた、この国の趨勢を担う者になくてはならない素質だ。少なくとも私と君が陳腐な破滅論者ないことは確実だ」

《…じゃあ、最後に一つ確認させて下さい。蝕人や魔物と共存していくという選択肢を、考えてはくれないんですね》

「残念ながら、それは論外だね。君たちには消えてもらう必要がある。この国の未来のために」

《よく判りました。その“審判”、受けて立ちます》

 竜の紅い双眸が威圧するように、教皇を睨み付ける。教皇は相変わらず涼しげに応える。

「重畳だ。では、今から記述する言葉を一緒に唱えてくれ、これは互いの承認があって初めて成立する奇跡なんだ。ああ、もちろん君は“対話”の中の声でいいよ」

 おもむろに教皇はくうに人差し指を小刻みに流れるように振るうと、その軌跡が金糸として浮かび上がり文字列が描かれていく。

 金糸の文字を書き終えた教皇は最後にパチリと指を鳴らす。

 と、金の鱗粉を巻きながら文字列が鏡写しに反転し、対面のトーマに見やすいような形となった。

《……》

 竜の鋭い視線は、その金色の短い文を一瞥いちべつした後に、再び教皇へと戻る。

「議論を通し君が善であると判決が下されば、私は蝕に飲み込まれ、大浄化も終わる、その後は君の好きなようにするといい。逆に、私が善であるとの判決なら君は聖体の一つになり、我らの悲願は完遂されるだろう」

《…始めて下さい》

「いくよ――」

 一方は敵愾心てきがいしんを露わに――、もう一方は友愛を装いつつ――。

 短い言葉は唱えられた。

『主よ、私の行いをあなたの右手に乗せたまえ』

《主よ、私の行いをあなたの左手に乗せたまえ》

 黒竜の首に輝く白い線が一筋走り、白く太い獣を繋ぎ止めるための武骨な首輪が嵌められる。

 ビクリと身を震わせるトーマだが、鎖が繋がれてるわけでもなく、特に締め上げられる感覚も無いためすぐに平静を取り繕う。炎嚢をはじめとする体内の感覚に不可視の重圧がかかっており、口の中に炎を溜めようとするようなあらゆる働きが抑制されているのを感じていた。

「さて、互いの運命は形あるものとして具現化された。君が何もしなければ、その首の枷はただの装飾品だ」

 一歩、二歩、三歩とトーマに近づく教皇は、整った白い両の手のひら差し出して見せる。その中心には、くっきりと黒い蝕痕が刻まれていた。

「そして、君の呪いが確かに私を侵蝕していると、はっきり感じるんじゃないかな」

 その言葉の通りトーマは、間違いなく魔脈が教皇の身体に侵入していた。

《そうですね、今の所は》

 ただし、抑制の圧力のせいで、教皇の体内の魔脈を自由に成長させることはできない。

「私と君は今、多くの権限を捨てた状況にあるいえるだろう。少なくとも判決が下るまで、君が私に炎を浴びせたり侵蝕を無理に押し進めることも、私が君の思考や記憶に対して何らかの干渉をすることも不可能だ。有効なのは言葉を交わすことだけさ…例えば、こんなこんなことをすると――」

 教皇が右手を上げ糸を引くように人差し指を数度引いてみせると、控えていた右肘から先の無い浄化者が教皇の隣にすうっと近寄る。そして、その浄化者の左手首を掴んだかと思うと、折れんばかりに捻り上げた。

 浄化者は顔色一つ変えずに、されるがまま姿勢を歪める。

「どうだい、確かに、私への侵蝕を進められるだろう」

 トーマは思わず視線を反らすが、同時に教皇の右手から肩口あたりまでを魔脈が浸透していくのを感じていた。

《悪趣味ですね》

「私にこんな趣味はないよ。お手本さ、ただの」

 浄化者は教皇の右手から解放されると、何事も無かったかのように元の位置に戻り、控える。

《一つ発言したら、必ず相手の発言を待つ。五秒以上の沈黙する場合にのみ次の発言ができる。これを原則として下さい》

「いいだろう、順当なルールだ。では、君からどうぞ」

 教皇は、親しげに竜の瞳を見つめつつ蝕痕の刻まれた右手を差し出した。

 白い首輪を嵌められた竜は、一筋の黒い煙を薄く開いた歯列の隙間から吐き出しつつ睨み返す。

《教会は魔物以上の悪辣な存在です。人の命をそれも何万人という単位で奪い、その殺戮の上にまた自分達の権威を築こうとしている》

「大浄化の本質は、君たちの殺戮でもなければ、権威などのためでもない」

《なら、それを具体的に説明できますか?》

「もちろん。今こそ、全ての構造をつまびらかにしよう。少し長くなるけどいいかな」

《構いません》

「きっと、君の数々の疑問や歪んだ偏見に対する答えも含まれていることだろう」

《それは、僕が判断することです》

 教皇はあくまで、友好的に微笑みつつ、話し始めた。

「大浄化というのは、教国の蝕を払うための儀式ではない。正確には、人々を安全かつ確実に統治するための一つの機構システムと言うべきものだ。初めて我らエルナの民に奇跡をもたらした少女、我らの聖書の中で献身者とされている人物だ。教会の始祖は、彼女の肉体を切り分け、聖体として召し上げ、それを持って七隊に別れ、教国各地に布教の旅に出た。クラーザには臓腑を、マルフィナには左足を、カプアには右足を、ジャハノには右手を、フィエンツには左手を、そして首都ヴェルナには彼女の頭部を元にして創られた聖体が各地域を支える信仰の基盤となって成長していった――」

 黒い蝕痕の這う白い右手の掌が、トーマに向けて差し出される。

 更に事実は紡がれていく。

「――これは、歴代の教皇のみが知ることのできる事実なんだが、実は――なんだ。つまり、強く大規模な奇跡を起こすほど、蝕もまたこの国中にまき散らされる。ちょうど、陽の光が強い程、生まれる影が濃くなっていくように。当然、我々は奇跡の反動で蔓延する蝕を制御するための核を握っておく必要があった。それが…教国の中心にあるベルウィウス山に捧げられた最後の聖体、献身者の少女の心臓――君が言うところの“ユーリの心臓”だ。彼女の心臓は、奇跡の反動により産まれた蝕を吸収し、教国全体を覆う程にまで成長を果たした後、また一つの聖体として蘇生し、大いなる浄化によって全ての蝕を内側から抹消する――というのが、我々が策定した計画の全容だ」

 急ぐことも乱れる事も無く、教皇はさも当然のように、淡々と真実をトーマの前に詳らかにした。

《じゃあ、奇跡を履行し続ける教会こそが蝕を蔓延させ、僕らはむしろその反動を引き受ける器だった…ということですか》

 ミシリと剥き出しのトーマの紅い牙が軋む。

「そのように理解してもらっていいよ。君の魔眼が我々に通用しなかったのも、おそらくそれが“他者を視認するという感覚”に基づいているからだろう。自分の手足を他者と認識することはできないよ」

《…奇跡と呪いの関係…いや、教会がしてきた人を人とも思わない計画については、よく分かりました。でも…結局は、不要になったものを消し去り、自分たちに都合の良い世界を作ることが目的なんでしょう》

「話しを続けさせてくれるなら、そうでないことが明らかになるだろうね」

《続けて下さい》

「大浄化は、その完遂と同時に“奇跡の力のほぼ全てを失う”。残る奇跡の力は、とても支配などできないほどの微弱さだ――せいぜい、傷の治りが少し早めるとか、病に対する抵抗力を微かに上げるとか、その程度だね。教会は一旦、強力な統治組織としての役割を終え、ただの精神的象徴になるだろう。新たな教国は、呪いや魔物にも、そして、奇跡による行き過ぎた教会の増長もない、真に安定した平和な国となるだろう」

 竜の首に掛かる首から一本の白い鎖が伸び、白い地平にガチリと繋ぎ止められる。トーマは、教皇の右腕に侵蝕が後退していくのも感じていた。

 繋がれていく竜の様子を眺める教皇は、どこか憐れむような顔をしている。

《…大浄化が支配を目的にするものではないにしても…そのために、数万の人の命を消耗品にするという事実は変わりません》

「この世界は積極的に使う者と使われる者に分けられる。ちょうど、君が蝕人たちの命を使ってここまで来たように」

《それを当然のものにしないために、あなたと対峙しているんです》

 教皇の見透かすような眼差を、トーマは真っ向から受け止める。

「その昔――約1千年ほど前、教会の始祖たるエルナの民は、割拠する周辺の諸小国から虐げられ、いつ一族ごと抹殺されてもおかしくないような“使われる者”たちであった――。例えば、そのような人々に、多くの制約を跳び越え、様々な法則や摂理を自らの願望に添って変化させられる力を得てしまったら、何が起きるだろうか」

《肥大化と暴走、です》

「いいや、答えは今ここにあるヴェルナデット教国だ。与えられた奇跡の力は、この地にあった諸国を平定し、一つの安定した国を成すための基盤となったんだよ、しかし、支払った代償をしっかりと清算することも事前に計画しつつね」

《僕には、好き放題に濫用したあげく、その代償が手におえなくなったから無かったことにしようとしているようにしか思えません》

「否定はしないよ。しかし、これが人という存在に対する我々の出した結論だ。人というものを安定的に統治するには、絶対的な力と、それを接地させるための明確かつ共通の敵が必要なんだ」

《違う。人はそんなものが無くても…互いを助けながら生きていける》

「では、君は具体的にどんな答えを持っているのか是非とも教えてほしいな。人の世界を安定的に持続させるにはいったいどうしたらいいんだろう?」

《…少なくとも僕は、人の命を物のように扱い、多数の犠牲の上に一部の人だけが幸福や平和を享受するような世界は、間違っていると思う》

 トーマの太い両足首にガチリと白い太い枷が嵌められる。

「具体的な答えにはなっていないね。どうしても疑問なんだが、君は何故そうまでして蝕人たちを守ろうと必死になれるのかな?君の仲間を除けば、君が守ろうとしている者達の誰か一人からでも、感謝の言葉の一つでも貰ったことはあるのかい」

《僕は誰かに感謝されるようなことは何一つしていません、ただ自分が最善だと思える選択をしているだけです。それに、言葉は無くとも今の自分を支える魔力が、いかに多くの人の血と鼓動のおかげで成り立っているかを実感できる。それで十分です》

「分った。いずれにせよ、君は人の価値観と言語を得ただけの魔物だ。そんな君が人の在り方を解くのは無理な話だ」

《何度でも言います。僕の魂は人間です、少なくとも、あなたよりは》

「なら一つ、質問をしよう。君が人なのか魔物なのかを知るためのね。いいかな?」

《どうぞ》

 教皇は、昨日の食事でも尋ねるかのような調子で問う。

「愛する人の肉は、おいしかったかい?」

 ―どくん

 その言葉を聞いた瞬間、瞳孔を見開いたトーマは、黒い炎を翼から爆ぜさせ教皇に突進しようとする。

 が、少しも動く前に両翼、尾、鼻先を白い枷がいましめ、一瞬にして伸びた太い鎖によって、白い地平に繋ぎ止めた。拘束され繋ぎ止められたトーマは、両脚の筋力を張り渾身の力で枷に抗うも、白い地平に抑え込まれ、ひれ伏す姿となっていた。その怒りに反応してか、竜の周囲に作られた五つの結節は、紅い輝きを秘めた半球体に変異していた。

「申し訳ない、君の逆鱗に触れてしまったようだ。しかし、いかに君が“止むを得ず”人を喰らってここまで来たとしても、実際その肉を美味と感じているようでは、共存など到底不可能だ」

 鋭い竜の視線も全く気にせず、平然と言う教皇に、謝罪の色などあるはずもなかった。

「グル"ル"ル"…」

「結局、君は偏見と復讐心に満ちた大人に騙され、扇動されてきただけなんだよ」

《それでも…最後に決定したのは、僕自身だ…強制されたわけじゃない…!》

 しかし、鎖はびくともせずに、竜を四肢と首と口を縛り上げる。

「話しを戻そう。ここまでの会話を踏まえ、君の、この儀式を否定するだけの具体的な反証や対案を聞かせてほしいま。もしあれば話だけれど」

 ついに、竜は抵抗を止める、軋んでいた鎖が微かにたゆむ。

《……判りました。あなたを信じます。教会が人々を幸福にするという奇跡を、信じます…それが僕の答えです》

 教皇は思わず微かに驚きに目を開き、声を弾ませる。

「そうかい。言葉を尽くした甲斐があったよ、全くもって。だが無理もないさ、こちらは一千年も前から準備し、推し進めていた事なんだから。さて――」

 両手を広げて見せる教皇。白い掌の中に、もう蝕痕は一片も刻まれていなかった。

「私の善性をもって、審判は下されたようだ」

 一歩づつ、拘束された竜へと白い革靴の硬質な音を響かせて教皇は近づく。

「ジェハノ、フィエンツ、カプア、マルフィナ、クラーザ。君たちの欠けたものが今、目の前に揃った、さあ、取戻しに行こうじゃないか」

 黒い竜の周囲に、その翼長と全長を囲う程の大きさの白い輪が地平から浮き上がり、地平に対して垂直に起き上がる。

 竜を繋ぎ止めていた鎖がその巨大な輪に移行していく、自然、竜はその巨体を引き揚げられ、輪の中に磔にされる格好となった。

 教皇の後方に控えていた五体の有翼の少女たちは音も無く飛び、はりつけにされた竜の右翼、左翼、右足、左足、そして腹部へとそれぞれ近寄る。

 右肘から先が欠けた少女の右腕の断面から伸びる光の筋が竜の右翼と繋がる、同様に、

 左肘から先が欠けた少女の左腕の断面と竜の左翼を、

 右膝から先が欠けた少女の右脚の断面と竜の右足を、

 左膝から先が欠けた少女の左脚の断面と竜の左足を、

 そして、臓腑の欠けた少女の凹んだ腹部と竜の屈強な腹部が光の筋で結ばれていく。

教皇は、円の中に磔にされ、四肢と腹部を収奪されようとしている竜の胸部の高さまで、一歩一歩、透明な階段を踏んで近づく。

「君の選択は正しい、必ずや後世の人々のいしずえになることだろう。そうだ、最期に言い残すことがあれば聞いておくよ」

 しかし、黒い竜の紅い瞳は、哀れむように教皇を睥睨へいげいしつつ答えた。

《ありがとう》

 悠々としていた教皇は一転して笑みを硬直させ、頭上にある竜の瞳を睨み返す。

「…それは、どういう意味かな」

《あなたは今の僕を形作るための基礎を作った人の一人だ。だから、最期に“感謝の言葉”を言わせてもらいます》

「成る程。では、私からも」

 光の粒子が教皇の左手に集まり、細長い槍のような白い杭が、そこに具現する。

『主よ、我らの全ての祈りを――』

 左手で柄を持ち、杭の鋭い先端を紅く拍動する竜の胸の中心に向けて構えた教皇は、

『――あなたの復活に捧げます』

 右手の掌で杭の柄頭を押し、勢いよくそこへ突き刺した。

 杭は抵抗なく進み、完全に竜の心臓を貫いた。

 トーマの黒い鱗は、胸の中心から溢れる光と共に白化していく、紅い血も骨も牙も全て、石膏のように白く染められていく。

 血潮の山の頂天にできた裂け目から火口へ一筋の光が射すと、火口が湛えていたマグマのような紅い高濃度の魔力もまた白に染まっていく。同時に、山にある洞穴や池、岩の裂け目からも白い光が溢れる。

《僕は、確かにまだ傲慢だったかもしれない。あなたたちにも生きるために選択をしてきたんだ…きっと、その全てが邪悪なものではなかった》

 火口の内部にある巨大な、ユーリの心臓は停止した。

 それと同時に、五つの教化都市にある蠢く触手に変異した巨大な結節、

 その周辺にある小さな村や町の魔脈や結節、

 それに連なる全ての蝕痕を持った人々、

 小さな蟲から大型の獣まで、全ての魔物、

 ベリダとその周辺にある村に住む全ての蝕人、が持つ心臓や核の鼓動も停止していた。

《服従することでも、依存することでもない。あなたを認め、拒絶ではなく受容すること》

「待て、何をしている」

 教皇の顔は初めて驚愕と焦燥に歪んでいた。

《僕はと言ったはずだ、あなたたちの奇跡を!》


 どくん


《アルクス、ネーヴェ、ラルマ、ウェルテ、ティーフ…お願いします!》

 トーマの心臓と、周辺にある白い半球体になった五つの結節が強く鼓動し、それに各都市の大規模結節が呼応する。

 血潮の山の内部から洩れ溢れる白い光が蒼いものに変わっていく。

せ…我らの神聖なる儀式を、悲願を、どこに持っていくつもりだ…!」

 しかし、教皇は竜の身体が放つ強烈な光の前に、杭を突き刺した姿勢のまま、動くことはできなかった。

《この光を、犠牲と奇跡のためではなく、勇気と調和のために!!》


 どくん


 停止していたユーリの心臓もまた今一度、ゆっくりと、力強く鼓動を始めた。

 それに呼応して、他の全ての器官と蝕人と魔物の心臓が共鳴して、鼓動を再開する。

「こんな…事が、できるはずが――」

 ユーリの心臓は、循環する系から送り込まれる紅い魔力を、奇跡の力を融和した新たな蒼色の魔力として、鼓動と共に送り出していた。

 紅い血は蒼に変わり、蝕人や魔物たちの身体の中に流れていく、黒い蝕痕は白に変わった。

 もはや、これで“教会が浄化すべき呪いを持った者共”という構図は完全に破綻した。むしろ、今まで蝕痕を持っていた者達は今は、“奇跡から産まれた血と聖なる痕を持つ存在”になっていた。

 ピシリと竜を拘束する鎖や枷、そして五体の浄化者の身体と顔に亀裂が走る。

 竜を拘束していたものと、五体の浄化者は、光の粒となって粉々に砕け散った。

 奇跡から抽出した青色の血が魔脈の中を駆け巡っている。

 ユーリの心臓、魔物、蝕を持った人々、系に連なる全てが新たな血を受け取り鼓動を連ねていた。

 そして、その血流はトーマの心臓に突き刺した杭を通して、教皇の身体にも流れ込む――。



「――ここは」

 空は澄み渡る青色、陽の光に目を細める。

 遠くには見渡す限りの深いコバルト色の蒼い海が、白く光を反射していた。

 青々と生い茂る背の低い草地を少し湿った海からの微風が撫でる。

 そんな、自然が構成する平穏のただ中に教皇は立っていた。

 海を望む草原の丘の上に、海側に向けて白い質素な椅子が置かれている。そこに一人の白いローブを纏った子供が座っていた。

 それが誰なのかは自明であった。

 教皇は、微かな緊張を努めて押し殺し、その小さな華奢な背に向けて声を掛ける。

「やあ、今は…ユーリと呼べばいいかな。結局、我々は貴女あなたが起こした最初の奇跡、“預言オラクル”を、もう一度たりとも発現させることは叶わなかったよ」

 ユーリと呼ばれた白いローブの子供は、背後からの声に妙に落ち着いた口調で、しかしまだあどけなさの残る少女の声で応えた。

「お久しぶりね。どうしてこうなったか理解できる?」

「いや、理解に苦しむね」

「あなた達は勘違いをしていただけ。大浄化は生贄を用いた統治構造の再整備なんかじゃない、あれは人々が互いに信じ合うための試練なの」

「それは初耳だ。最初から、蝕人たちに軍配が上がるようになっていたんじゃないのかな。貴女は、教会をいさめるお目付け役だったというわけだ」

「いいえ、どちらにも等しく機会は用意されていた。教会には未来の繁栄を約束する預言を、呪いを受ける者達には勇気ある魔物たちとそれを導く使者を与えた――そして、トーマは敵対し続けた教会までも信じようとしたのに、あなたはあくまで彼らを敵対者だと思い続けた。人をより信じたのは、呪いを引き受けた者達だったのよ」

 背もたれにそっと預けられた小さな背を見つめる教皇は、そびえる岩壁を見上げた時のような慄然たる気持ちで少女の声を受け止めていた。

「恐れ入るよ…貴女は一体、何を、どこまで見ていたのか、無知で愚かな我らに教えてくれないかな」

「私に見えているのは、だけよ。それ以外は、全て幻想に過ぎないから」

 椅子から少女が立ち上がると、世界は眩い光の奔流に包まれた。



「――う…」

 意識を取り戻した教皇を、透き通るような深いコバルト色の大きな蒼い眼が見据えていた。

 杭を突き刺したままの恰好の教皇は、虚ろな眼差しで、蒼い眼の主――白い鱗を纏った竜に言葉を掛ける。

「自分を抹消しようとする浄化の力を、自分の血と融合させようだなんて…とても信じられない選択だ」

《誰もが持つ当たり前の奇跡を信じただけです。自らの心を変革し、他者を信じる勇気を持つこと…それが僕の答えです》

「奇跡を履行するための神聖な教養や知性を…愚昧な群衆に、野蛮な獣に持てるはずがない…」

《何も不思議な事なんてない。あなた達だって、迫害されていた頃はそう思われていたはずです。それでも諦めることなく自分たちを信じたから奇跡を起こせたんだ》

「ああ…その通りさ。しかし、君がいくら高邁な理想を信じたとしても、決して実現することは無いと断言するよ…。いつだって勇気は軽んじられ、弱さは肥大化し、協力よりも敵対に答えを見出す、それが私たち人間だ――」

 大浄化の代償として、教皇は光の粒子になって消滅した。

 トーマの心臓に突き立てられていた杭も粒となって消える。

《そうかもしれない…でも、それだけじゃないと思ったから、僕らは信じることができたんだ…自分の心臓がまだ動く事を》

 二本の角と、背や翼から突き出す骨、そして尾や胸の中心は、蒼い輝きを秘めていた。牙も舌も眼も全て深い蒼色に変わっていた。

 身体を覆う鱗と翼は白、翼膜には蒼い血の筋が紋様を成している。

 そして黄金に輝く大きな光輪を背に負っていた。

 その姿こそ完成された浄化者の姿だった。

 白い地平にあった五つの結節は今、透明な蒼い宝珠となって白い竜の周辺に浮かんでいた。

《…でも、やっぱり、なんだか…色々なことが突然に起こり過ぎて、ちょっと落ち着く時間がほしいな…》

 トーマの周囲にある蒼い宝珠が微かに明滅する。

 そこにある魂から、明確な言葉ではなく、直接的なイメージが伝わってくる。

《うん、そうだね、この儀式を終わらせたらきっとその時間はいくらでもある…ありがとう…山の上に行くよ》

 五つの宝珠を従え、光の跡を曳きながら光の地平の亀裂のある場所に舞い戻ったトーマは、白い翼を広げ朗々と語り掛ける。

『白き蘇生の時は訪れた、結実する意志に祝福を、癌化する意思に安息を。不変なる陽の光がもたらすは恵み。熱き覚醒はいかなる腐蝕にも耐えうる。それは感染する救い、それは循環する祈り、それは鼓動する魂――』

 トーマの背に冠する巨大な光輪と蒼い口腔、そして五つの蒼い宝珠に、光が集中していく。

『――主よ、我が心臓をあなたに捧げよう。その心をもって、この地を新たな光で照らしたまえ!』

 白い聖なる竜の口腔から上空に向けて発せられた金色の光の塊は、空高く、大気を越えた所で停止すると輪状に展開し、輪の内側に幾何学的な模様を描いていく。

 陽の光を一身に受けた金線の方陣は、それを増幅、収斂させ、幾条もの強烈な光の筋に変えて空を塞ぐ白い地平に振らせていく。

 教国を覆っていた白い天井と、その配下にいた多数の浄化者の軍勢は、降り注ぐ強烈な光の筋に貫かれると、砂礫の如く粉々に砕け、白い塵となって瞬く間に霧散していった。

 微かに赤らみ始めた陽が大地を照らす。

 死に絶えるはずだった人々も魔物たちも、黒い蝕痕を漂白した状態で、そこに生きていた。

《良かった…これで》

 白い竜の背負っていた光の輪が消える。

 補助を務めた五つの蒼い宝珠は、収縮して魔脈の中に消えていった。

 角や骨が纏っていた蒼い輝きも弱まり、白い翼の飛翔も遅くなり、ついに止めてしまう。

《僕は少しでも、誰かを救えたかな――》

 自らの身体を空に止めて置く力を失ったトーマは、蒼い血を湛えた火口の中に落ちていった。

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